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現代人が納得できる日蓮教学

446犀角独歩:2005/12/07(水) 08:53:23

顕正居士さん

お久しぶりです。

「釈尊久遠名字即の位の御身の修行を、末法今時の日蓮が名字即の身に移せり」とは『法華本門宗血脈相承事』の一節です。

わたしは、この相伝を「本地自受用報身如来の最誕日蓮」と共にする石山義において、『秘密荘厳論』の「一念三千即自受用身、自受用身者出尊形仏」は、ここでは如来と言われながら、名字即、凡夫に配し、‘如来’とする点で齟齬を来していないのかと訝しく思っていたのです。しかし、それは『寿量品』に「我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」という成仏を言いながら、菩薩道の寿命は今なお尽きず、先までの倍するという、顕正居士さんのお言葉を籍りれば、「永遠の菩薩道」をここに明示するわけです。
久遠の釈迦如来(久遠ではシャカ族の王子ではないので、この言い方はおかしいのですが、取り敢えず、いまは仮にそう呼称します)はまた、菩薩道をするという仏の菩薩道という形で宣言するのが法華経でした。

先に挙げた『寛師雑々』の「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」とするとき、これを同体異名の相伝という時、日蓮を上行と配立すると、釈尊・日蓮と、上行・日蓮という二解釈が並び立つことになります。ここを埋めるのが釈尊上行一体の異名ということで、すなわち、法華経における釈尊と上行は一体と見るという教学的な姿勢でした。つまり、父子一体の相伝でした。(父=釈迦如来・子=上行)

また、このような展開では、顕正居士さんが「一抹の煩悩を残した大悲の菩薩」という特色分析は、たとえば日有が『化儀抄』に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」といい、「未断惑の導師を本尊とする」という点と一致します。日有が両巻相承を知っていたかどうか、しかし、久遠名字を末法に移すという教学的な姿勢は、凡夫本仏論ならぬ、凡夫本尊論という形に至る別の経路を辿って、ほぼ同様の結論に達している点に興味が惹かれます。
このような論理構造の整合性はたしかによくできていると思います。


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