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配偶者がカルトに入ったらどうしますか
1
:
管理者
:2002/06/29(土) 12:05
妻顕さんより、スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。皆様の活発な議論を期待いたします。なお、提案趣旨は以下の通りです。
わたしはHNそのままの境遇に居ります。自分の配偶者がカルトまたはカルトといわれる宗教団体に入ってしまったとき、あなたならどうしますか?どういう行動を起こしますか?と言うようなテーマでスレッドを立ち上げていただけませんでしょうか。できれば特定の団体の誹謗中傷にならない形で、ぜひ、お願いいたします。
30
:
つまけん
:2002/07/01(月) 21:41
犀角独歩さん
>日々雑記をよろしく
>
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html
>『「日蓮聖人は富士山本門寺戒壇義を述べず』
>
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/s_w_d_dis.html
拝見しました。
ご周知の通り現役顕正会員Sさんの掲示板は現在書き込み出来ませんが
過去ログが残っておりましたね。こちらのサイトはつまけんが一番最初に訪れた
所です。あのとき掲示板過去ログも見ておけば。。。と悔やまれます。
詮無いことですが、Sさんには、直接お聞きしたいことがあり一度メール
しましたが、返信いただけませんでした。
あと、こちらに、ご本人の書き込みがありました。
http://8603.teacup.com/saiou_horse/bbs
こちらのサイトは、Sさんのサイトの次に顕正会の情報を仕入れたところです。
いままで、いろいろなサイトを訪れましたが、サイト運営者の方には、失礼な書き込み等
たくさん、ご迷惑をおかけしました。いまは、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
この場をお借りしてお詫び申し上げます。ごめんなさい。
31
:
つまけん
:2002/07/01(月) 22:00
広布御供養について、妻に質したところ「8万円寄付した・もうしない」
とのことでした。。。
32
:
犀角独歩
:2002/07/01(月) 22:17
つまけんさん:
記すまでもないことですが、私は奥様は本当に純粋な信仰心から、お子さんのことを思い、そして、ご主人を思って、広布御供養なるものを為されたのだと思います。そして、日々唱題行に励まれているのだと思います。私はそのことを本当に尊いことであると思います。奥様のお気持ちも痛いほど、わかる気がします。
ただ、悲しいかな、その善意が直接、お子さんのためにならず、組織のためになるとしたら、もっと直接的にお子さんのために時間を使い、そして、お金を使うべきであると、私は思います。
でも、本当に私は思うのです。お子さんは、自分のために組織活動をしてくれるより、自分のために自分のことをやってくれるほうが遙かにうれしいはずです。
先にも記しましたが、私は常に福祉の現場に関わっているのですが、そこでいつも感じることは、人は、世界解平和だとか、ボランティアには気がいくのに、たとえば近しい親戚に障害者の家族があっても、そこに気をやることは少ないのです。それは、たぶん、身内の身勝手で、近しいところに障害者がいることで、恰も自分たちが被害者のような感覚をどこか懐いているところがあるからです。私がもっとも力を入れて、相手に非を説くのはこのようなときです。
もっとも近しいところからの福祉は、他の介在を為さず、直接、そのご本人に報いることが一番、ご本人のためですよね。
インカでは障害者は神の使いとして崇められたと言います。仏像、尊像に刻まれる数多の芸術は人と違った形状を持つ方々をモデルにしています。インドにも、そのような障害者を神の使いと見なす信仰があったと指摘したのは、自ら障害を持たれているM師という法華経の研究者でした。
私はつまけんさんのお子さんを神様のお使いと崇めます。どうか、このお子さんにこそ、供養することが仏教であることを、奥様がご理解できるようにお導きください。
僭越な書き込みをしたことを謹んでお詫び申し上げます。
33
:
つまけん
:2002/07/01(月) 22:33
金の出所は障害者給付金=税金です。上の独歩さんのかきこみ後で読ませていただきます。
すみません、きょうは酒飲んで寝ます。
34
:
菊水護国
:2002/07/01(月) 23:25
つまけんさん
浅井さんの論法を、箇条書きでで答えますね。
>(10)は、その通りだと思います。「選民思想」について、大体しかわかりません。
具体的には、どういうことでしょうか。
①つまり浅井さんは「21世紀こそ広宣流布」と言う事を言います。
②そして「学会、宗門、正信会は全て国立戒壇の御遺命を捨てたから、
③顕正会のみ大聖人の御遺命を護る唯一の団体である。
④故に、顕正会に縁出来た会員こそ、大聖人に選ばれた会員
ということになります。
これは選民思想の典型です。
これの、特徴は「我々こそ大聖人に選ばれた者である。選ばれなかった者は我々より劣る者である」
となり、異常な他者への差別を生みます。
35
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 04:54
私の知っている重度障害者の娘さんを持つお母さんは、1日、4時間の唱題を30年間も続けていました。そして、ほとんど毎日のように活動に明け暮れていました。定期的にある供養には100万円単位でお金を出していました。家にいるときは題目を唱えてばかりで家事もせず、娘の世話もしていませんでした。それはそうですね、4時間、題目を唱えていたわけですから。それ以外は活動に出ていましたから、1人、家に残されていました。
お母さんは娘を何とかしてあげたい、彼女の言い方によれば、「宿命を転換して幸せにしてあげたい。だから一所懸命に題目を上げて、活動するんだ」ということでした。
けれど、30年、経っても何も変わりませんでした。娘の障害が治ることもありませんでしたし、主婦としての仕事は信仰活動のために家庭は顧みられず、家の中はあれ放題、そして、旦那さんが稼いできたお金は広布のためといって供養され、残ったお金もすべて活動費に使ってしまいました。
修繕するお金もないままに老朽化した家と、年老いた母、年老いた障害者の娘さんだけが残りました。
唱題に充てた1日に4時間もの時間、活動に充てた時間、そして、生活を切りつめてすべて出してしまったお金があったら、もっと娘のために有意義な人生を送れたものを、と私は思ったのです。
これは偽らざる、ある富士の教えに国立戒壇と広宣流布に半生を翻弄された親子の物語です。
36
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:04
このスレッドのテーマに基づいて、以下の書籍を推薦します。
『カルトから家族を守る』(毎日新聞社)
『親は何を知るべきか』マインド・コントロール研究会編(いのちのことば社)
37
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:09
『親は何を知るべきか』の抜き書きは、先に紹介されていた『心のリハビリしてますか』にあります。
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/oyahanani.html
38
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:20
○破壊的カルトの八つの特徴(F・G・ジンバルドー師)
(1)グループの中で指導者は自分自身を崇拝させ、特別な使命をもっていると教える。
(2)指導者は自分と教義に対して絶対的な服従を求める
(3)指導者は大きな権力をもち、しばしばカリスマ的である。それによってメンバーたちに魅力を感じさせ、彼らの行動を管理する
(4)破壊的カルトは、指導者をひたすら信じる人々によって成り立っている。そしてメンバーを経済的、政治的な分野にも進出させる
(5)グループの本当の目的を隠している
(6)人の善意を利用する
(7)メンバーたちに自分は特別なのだと感じさせるように仕向ける
(8)破壊的カルトは人間の五つの基本的欲求を満たしているように感じさせる
1身の安全の欲求 2所属の欲求 3社会的要求 4精神性の欲求 5依存の欲求
(『親は何を知るべきか』P21)
39
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:28
○「入信=依存」問題に向き合う7つの原則
(1)冷静な初期対応を行うこと
(2)本人との対話のチャンスを断ち切らないこと
(3)説得より、むしろ、自然な対話を行うこと
(4)「入信=宗教依存」の心理的メカニズムを知ること
(5)家庭内だけで解決しないこと
(6)奪回後の精神的ケアを見越して行動をとること
(7)子ども(また入信した家族)の人間としての人格を認めること
(『カルトから家族を守る』P112)
40
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:31
【39の訂正】
誤)(6)奪回後の精神的ケアを見越して行動をとること
正)(6)脱会後の精神的ケアを見越して行動をとること
41
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 06:41
転載文ばかりですが、もう一つだけ
○入会の共通項
(1)きっかけ ―― 本人は悩みを抱えていました(自身、人生、社会、家庭等)。
(2)時期(タイミング) ―― 悩みをもった心理状態で破壊的カルトから、タイミングよく誘われます。
(3)本人は自分の欲求が満たされるかもしれないと思います。このグループを通して悩みの解決や目標を得られると思わせるのです。
(4)その時はまだ入るつもりはありません。
(5)本人は誘われるときに、
・誘ってくれる人を断る理由はないと考えます(あまりに親切なので)。
・相手が破壊的カルトのメンバーとは知りません
・十分な情報を与えられないので、自ら判断できません。
・場合によっては組織の本当の名前を知らされません。
(6)最初から明確で十分な情報を与えられていれば、ほとんどの人は入信しなかったでしょう。
(『親は何を知るべきか』P34)
42
:
つまけん
:2002/07/02(火) 10:26
犀角独歩さん
>私はつまけんさんのお子さんを神様のお使いと崇めます。
>どうか、このお子さんにこそ、供養することが仏教であることを、
>奥様がご理解できるようにお導きください。
ありがとうございました。
改めて顔をみてみると、屈託なく、我が子ながら見ているだけで
心が洗われる思いです。心に染みるお言葉をいただきました。
43
:
アネモネ
:2002/07/02(火) 10:45
皆様、お久しぶりでございます。
つまけんさん、はじめまして。法華講に籍を置くアネモネと申します。
久しぶりの書き込みですので、この場をお借りして私の近況を書かせて頂きます。
30万登山が始ってからは全くお寺に行く気がしなくなってしまいました。とうとう最近ではお寺の方から、登山や寺院参詣の勧誘のお電話や家庭訪問を受ける立場になってしまっています。時間の許す範囲で、掲示板で勉強したことや、常々私自身が疑問に思っていることなどを正直に打ち明けています。相手の方からは当然のこと「日蓮正宗の信心とはいえない」と叱責されています。でも私は「それなら、日蓮正宗の信徒でなくてもいいと思ってます」と返しています。最後には「本当に地獄に落ちるよ」と言われていますが、掲示板で勉強させていただいたお陰もあって、脅迫されたって今の私の気持ちは変わりません。いわばそれが今の私の信心の形となりました。
掲示板をロムする時間も段々とれなくなっていたこの間ですが、「差別と仏教〜摩り替えられた釈迦の教え」(亜紀書房 河合廣仙著)という一冊の本を読みました。もう20年以上も前に書かれた本です。兵庫県の曹洞宗の僧侶が同和問題を通して仏教教団が犯してきた歴史的責任に目を向けた内容でした。曹洞宗は特に差別戒名のお墓が多かった一方で、当時の座主が国連の席で日本の差別に関して問題発言をしたことに端を発して書かれたものでした。以下、印象的な箇所の抜粋をさせて頂きます。ここでは同和問題について取り上げた形の記述となっていますが、差別問題の象徴として捉えて読んでいただければと思います。
**********
「日本社会における部落差別の現実問題も、江戸時代の封建政治による権力支配の結果だとして捉えるだけでなく、その封建意識を一層強化し、特に差別意識を民衆の心に浸透せしめたのは仏教であったと認識を新たにすべきであります。その思想的内容はいうまでもなく、誤った因果の教え、宿業・輪廻説を複雑化し絡めて説く教説で、今なおこの歪曲した教説の布教は行われているのであります。」
「曹洞宗をはじめ各宗のこの問題に対する仏教者の取り組み方は、極めて低調で誠意あるものとは思われません。今、日本は物心両面にわたる現代文明の先進国ですが、先進諸国民の近代精神としての基本的人権・自由・平等の観念が果たして、仏教者にはどこまで理解され身についているのであろうか疑わざるを得ません。仏教でいう平等を得手勝手に曲折し、近代精神としての基本的人権・平等の観念と同質のものであるかのように解釈してすませ、深く考察探求することなく、表は平等裏は差別と使い分けしている事が、現実の具体的問題たる部落差別についての認識の欠如となり、それらが直ちに同和問題へのその場を糊塗する退嬰的な対応となってあらわれているのであります。」
**********
実はこの著者の方は、こうした言論がもとで自分のお寺の檀家信徒の圧力を受け、ついには住職の座を追われているそうです。最大の抵抗勢力の実働部隊は、座主を中心とした上層部よりもそれを支える信徒たちだったようです。だけど私はこの本を読む限りにおいては、たとえ曹洞宗であっても、この方に真の僧侶の姿を見る思いがしました。と同時にこうした問題は、今の自分自身の問題でもあるような気がしました。
44
:
アネモネ
:2002/07/02(火) 10:47
(つづき)
私のところにお電話や家庭訪問に来られる方の大半は、代々の法華講の方です。彼らに言わせると、どうやら成仏とは死んで再びこの信心をする家に生まれてくることらしいのです。そこに生まれた子供が「福子」と言われるのもその理屈からなのでしょう。言い換えれば代々の法華講とは、過去世で徳を積んで成仏した結果で今日に生まれたということにもなるでしょうか。その論調は、代々の法華講だけではなく、学会を脱会して入講した方々によっても支持されきています。顕正会もそういう意識が根底にあることでしょう。
代々その家が守り伝えてきたものには当然誇りがあるわけで、それを汚すつもりは毛頭ありません。また特に嫌気がさすほど、そのことを露骨に鼻にかけられたわけでもありません。だけどよくよく考えるならば、その誇りからくるなにげない優越意識が「選民思想」へと発展し、やがては「差別意識」をつくりだすエネルギーとなっていることにも気づくのです。まさしくそんなものこそお釈迦さんが否定されたはずの、カースト制度を支えるバラモン思想そのものではなかったのかと思います。
入信以来「そういう命」「そういう宿業」「そういう罪障」そんな言葉を耳にすること久しく、しかもそれは組織のトップが言っているから正しい、組織のみんなが言っているから尚正しい、体験で語られる如く正しい、だから自分もそれを言うことが正しくて、言わなければ間違ってしまうといった空気がお寺の中に満ちています。そして私はそんな集団心理からくる感覚のねじれや麻痺がほとほといやになりました。まさしく心理操作だと思います。私はそんなものはないと思ってきました。ところが、その感覚にいつしか私自身も馴染んでしまっているのではないかという兆しを感じ、いやになってしまいました。
本来、そのような感覚の麻痺やねじれからくる心の囚われを解放してくところに、宗教が示す教えの目的があったはずなのに、心を解放するどころか、一層がんじがらめに人々を苦しめてしまっている。頭のどこかではその不健全さに気がつきながらも、もしも本当に正しくて地獄に落ちてしまってはと恐れ、その不健全さにみんなで目をつぶって従っていこうと集団で流れていく。もとをたどっていくと、最初のなにげない優越感やステイタス感覚のはじまりが、カルトを支えている根底的な意識エネルギーなのだと思います。私に関して言えば、もとより日蓮聖人が好きで尊敬していただけに、「日蓮大聖人の正統な流れ」というフレーズを受けて、優越意識が自分の中にも芽生えていたかもしれないと思うようになりました。しかし一皮向けば、それこそ真の誇りではなく、ただの心の貧しさや卑しさに他ならなかったことに気が付きました。
45
:
アネモネ
:2002/07/02(火) 10:48
(つづき)
つまけんさんが、心ならずも入信までされて奥様を救い出そうとされているお気持ちに、大変胸が熱くなり、久しぶりの書き込みをいたしました。
きっと、創価学会で感じた差別意識をそう遠くない将来に、顕正会の中でも奥様自身が肌で感じられるときがくるかもしれません。私はそんな気もします。そのときこそ、いつもそばで本当に自分のことを心配して見守ってくれていた夫の深い愛情を知り、宗教が目指す遥か遠くのテーマなどではなくて、すぐそばにいる家族こそが本当にかけがえのない幸福のありかだったことに気が付かれるといいですね。
差別や偏見ではなく、女性は、その置かれた状況がどうであれ家庭の中で孤独な精神状態に陥りやすいです。心の閉塞感や寂しさ、社会に置き去りにされたような焦燥感を感じ、そんな心の空洞を、宗教が掲げる遥か遠い美しい大義名分で埋め合わせようとしてしまうのかもしれません。そんな現実逃避のひとときも、厳しい人生を生きていくうえでは時には良薬となって必要かもしれません。だけど集団心理に嵌ったときには、知らず知らずに良薬はアヘンと化し、気がつけば朝から晩までそれなしでは生きられないほど、現実の生活に戻ることが出来なくなってしまうものなのでしょう。その虚構の世界こそ自分の求めていた人生だと思い込み、そこに生きることこそが自己実現だと思い込んでしまう。はたと気がつけば、私もそんな状況に陥りそうになっていました。
本人は心の空洞を抱えているわけですから、これは家族の支えでしか救えないかもしれませんね。生意気なことを書き連ねたかもしれませんが、どうかあせることなく、奥様を見守っていてあげて下さい。ひとりの主婦経験者の女性として、心からそう願います。
46
:
アネモネ
:2002/07/02(火) 10:49
(つづき)
長くなりましたが、「able」という映画のことを昨日知りました。とても素晴らしいシーンの連続に見入り、私は神様からのお使いにどうしても会いたくて、この映画がとても観たくなりました。「able」についてのホームページをみつけましたので以下、映画の解説文を抜粋させて頂きます。
*********
映画『able/エイブル』は、ここ数年の映画の中で、とびぬけて魅力的な2人の登場人物を主人公にしたドキュメンタリーである。2人の少年には「知的障害」がある。この映画は、彼らが言葉も習慣も違うアメリカでそれぞれの可能性を広げていく冒険映画であり、日々の暮らしの中で彼らが周囲の人と信頼関係をつくっていく可能性を綴った日常の記録だ。カメラは丹念に優しく、2人のそれぞれに際立つ個性をすくいあげていく。私たちは、「障害者」という言葉で彼らをひと括りにしてしまいがちだが、彼らの個性は鮮やかに異なり、どちらも魅力的なキャラクターを発揮する。瞬間瞬間を楽しむのが上手で、見事なダンスを披露するゲン。イルカを触るのは嫌なのに、イルカを眺めているのは大好きなジュン。2人ともユーモアのセンスは抜群だ。この映画で、2人は堂々の主役なのだ。私たちは、彼らを見ながらふと思う。「知的障害」と「健常者」の違いとは何なのだろう、と。
(中略)
この映画を見ると、たくさんのことが話したくなる。「障害者」と「健常者」の違いということ。コミュニケーションのこと。家族のこと。友達のこと。アメリカという社会のこと。日本という社会のこと。人間の魅力、個性のこと。誰にもある可能性のこと。きっとたくさんの感じ方があり、たくさんの意見がある。たくさん話すことで何かが変わっていくことがある。
(
http://dsystem.jp/able-html/01mokuji.html
『解説』より抜粋)
47
:
つまけん
:2002/07/02(火) 11:02
菊水護国さん
>選ばれなかった者は我々より劣る者である」となり、異常な他者への差別を生みます。
わかりました。ありがとうございます。
48
:
つまけん
:2002/07/02(火) 11:27
アネモネさん
はじめまして、つまけんともうします。
『able/エイブル』のことは妻が先日話しておりましたが、顕正会のことで頭が一杯で
うかつにもよく聞いておりませんでした。一つのことばかり考えているとだめですね。
妻は映画を見たようで、その後の彼女には少し変化を感じます。
よろしくお願いします。
49
:
五月雨
:2002/07/02(火) 12:48
つまけんさん はじめまして五月雨と申します。これまでのレスを拝見させて頂いて、つまけんさんのお優しさ、奥様、子供さんに対しての深い愛情に心打たれました。つまけんさんのようなご主人をお持ちの奥様は、本当にお幸せです。(羨ましい限りです。と言いつつ横の亭主見る・・・)
お子様が障害を持たれているとの事ですね。実は私も、私の子供も障害者です。障害者として子の立場、親の立場を経験しています。信仰の面では、二十数年前に学会に入りました。入信動機としては
やはり、自身の障害を悩んでの事でした。宿命転換出来る、その悪い足も治りますよと言われての入信でした。どうにかしたい一心で、言われるままに新聞啓蒙、選挙活動、学会活動に明け暮れて、その上に、入信後に生まれた子供が私と同じ病気でしたから、更に拍車がかかりました。信心第一にしていれば家庭も守られると信じ込まされ、何よりも活動優先の日々でした。学会を脱会して法華講に移っても同じです。新聞啓蒙と選挙活動の無い学会活動です。何か変とは入信当時から思っていましたが、疑ってはいけないという教義ですから、自分を騙し騙し今日まできてしまいました。カルト・洗脳・マインドコントロールについての議論が活発にされていますが、私には難しい定義はよく分かりません。けれど自分では全部にはまっていたと思います。現在はやっぱり変だと思ってお寺に行くのを辞めています。そして、やっと今自分の人生を取り戻し、自分の人生を生きています。そして二十数年ぶりに幸福感を味わっています。信心にのめり込んだ自分を振り返って見ると、アホちゃうかと一笑に付してしまいたい気分と、その時は真剣だったというそして、その真剣さを組織に利用されていたという腹立たしさに複雑な思いがしています。奥様も、お子さんの為に出来る事と真剣に考えられての行動かと思います。そのお気持ちは痛い程よく分かります。だけど、治す事だけが大切な事なのでしょうか。お子さんの障害の程度は分かりませんが、今は昔と違って良いリハビリもありますし、医学の発達もあるので障害を軽減する事は可能だと思われます。その上に信仰に頼って、治したいと思う気持ち。私もそうでした。ある日奇跡が起こると信じていました。でもその奇跡は起こりませんでした。奇跡を思う心の裏側に潜む障害者であることを否定する気持ち。嫌悪感です。今話題の“奇跡の詩人”のルナくんを思い出します。私はNHKの検証番組と彼の書いたものしか見ていませんが、自分の子供は障害者であって欲しくないというあの親の心の表れと見ました。五体満足の両親には、自身の子供が障害者である事の“受容”というのは中々大変な事だと思います。私も障害者でありながら大変でした。でも今息子を見ていると、精一杯自分の人生を楽しんで生きている。その尊さに気付かされるのです。障害があっても無くても自分自身の人生を、精一杯生きていく。人生を生きるということにその差別は無いのではないでしょうか。
つまけんさんも、奥様も子供さんの障害を否定をされているとは思いません。その上で子供さんの人生を一緒に楽しく過ごしていってあげてほしいなぁと思うのです。前述しましたように、私は障害者として子の立場、親の立場を経験していますが、大変なのは結局“子供”です。親の立場は楽です。手術して横たわる子を見て、可哀相にとは思っても痛いのは子供本人ですから。替わってやりたくても替われませんし。
まとまりの無い文章でゴメンナサイ。ともあれどんな境遇であれ生きていることは素晴らしいという人生を送りたいものですね。
また、池田センセーをお嫌いになられた奥様ですから遠くない将来に、現実に気付かれると思います。
障害児教育に取り組んでおられる小児科の先生のホームページです。何か参考になることがあるかも知れません。のぞいて見てください。
スギケンのホームページ
http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/index.htm
50
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 13:35
障害者差別という側面から言えば、創価学会も顕正会も、その基本的な考えは大同小異ですね、残念ながら。
この点については「宿命について」のスレッドで、現役顕正会員の亀太郎さんと、さんざんやりました。つまけんさんは、半年ぐらい前からのロムということでしたが、お読みいただいているのでしょうか。
まあ、この議論は最後は「宿命」語の解釈でまったく噛み合わないまま終わった後味の悪いものでしたが、それより何より、差別の道具とされた仏教教義解釈が今も顕正会に流れていることを再確認させられて暗澹たる気持ちになったものです。
差別の説明原理になる仏教であれば、そんなものはそもそも害悪であって捨て去るしかありません。私は半世紀近く仏教との自負で生きてきましたが、敢えて、こう結論づけるしかありません。それでも、しかし、本来の仏教は「前世がどうだ」「未来がどうだ」などという無責任なことを言わず、身分・境遇・健不・体の具合の違いを論ずることなく、ともかく自分は自分であると自覚し、より善く生きることを教えたのが仏教であったと私は考えています。信じるものがどうであるとかなんとか、そんなことは枝葉末節なのであって、本来の仏教にはバクティ(誠信)といった絶対的信の強要なんかなかったわけです。
手を触れただけで死んでしまうようなか弱い虫も、誰にも負けない剛健な戦士も、なんら差別無く、共に今を生きる衆生であるというのがお釈迦様の考えであったと私は思っています。そういう本来の仏教の在り方に戻さなければ、間違いなく仏教は人々から見捨てられるでしょう。いや、既に見捨てられているのです。人を救うどころか相手にされなくなっているのでしょう。その中で無責任な現世利益を売り物にする熱狂性を持つ集団は、単に大きくなっていっているだけでしょう。しかし、大きくなることなど、何の意味もありませんね。
たとえ、どんな小さかろうと、たった1人のためにでも、誠意を尽くす役割をお釈迦様の教えが担えれば、それでよいでしょう。つまけんさんのように、五月雨さんのように。そのお心の中にしか、私は仏様が見えません。二十四文字の法華経は尊いと思うのです。
「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」
私は皆さんを敬います。軽々しく見たり、自分のほうが優れているなどと思いません。
なぜならば、その尊いお心こそ、菩薩の道そのものであり、いつしか必ず自他共に仏様となって行かれることでしょうから。
51
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 13:53
スギケン師のHP、拝見しました。
ここで紹介されている書籍の著者に私の尊敬する知人が出ていました。
その方は、昨年、5歳の自閉症のお子さんを亡くされたのです。それ以前、カルト問題と戦いご本人は度々命を狙われていました。それなのに殺されることもなく、ようやくと落ち着いた矢先の、お子さんの事故でした。
先日、お会いした折、この執筆について語られ、「印税を自閉症と障害児のための基金にするんだ」と話されていました。社会に紹介もされない、自慢もしない、けれど、確実にどなたかの役に立つ尊いお気持ちであると思ったものでした。
52
:
五月雨
:2002/07/02(火) 15:15
犀角独歩様
<<インカでは障害者は神の使いとして崇められたと言います。仏像、尊像に刻まれる数多の芸術は人と違った形状を持つ方々をモデルにしています。インドにも、そのような障害者を神の使いと見なす信仰があったと指摘したのは、自ら障害を持たれているM師という法華経の研究者でした。
そういう事があったのですね。でも中には私の様に邪な障害者もいるので、神の使いというのは・・・
この前、高木美帆さんという女優さんが、テレビのコメンテータをしていて、こういう事を言っていました。障害を持つ人々を指して、「欧米ではchallenger人生に挑戦する人と呼ぶ」と。なるほど、私の障害者としての人生を振り返ってみると、全てにおいて挑戦していたような気もします。偏見、差別、無理解etc。大きな壁が立ち塞がらなかった事はありません。
神の使いと思っていただけるのは有り難いけれど、むしろ同じ人間として、ハンディキャップを持つ人間は常に人生にchallengeしている人と捉えて下されば、ありがたいなと思うのです。なお独歩さんの話を全面否定するものではありませんので、誤解無き様お願いします。
残念ながら、差別の心と言うのは人間の本能ですから、無くならないと思います。またそれに拍車をかけているのは、私の知っている日蓮仏法です。過去世に悪い行いをしたから今世で報いを受けている。だから信心頑張って、来世に元気な身体で生まれてくるんだと、今生きている現実を否定してしまう。こんな思考に陥っている時は生きてる事さえ空しいものでした。
独歩さんのように、障害者に対して思って下さる方が増えれば増えるだけ、私たちにとって住みよい社会になるのは間違いないように思えるのです。独歩さん、有難うございました。
53
:
五月雨
:2002/07/02(火) 15:52
アネモネさん 初めまして。五月雨と申します。私も取りあえず法華講に籍を置いています。九月には三十万登山にも参加する予定です。といっても私は、もう活動はしませんとハッキリ宣言しましたので、お寺には行っていません。活動しないというと、誰も家に来ません。それはそれはキッチリしています。まるで脱会したての頃に、学会員に受けた仕打ちと同じだと思いました。人と人との繋がりでの人間関係では無かったのだと思います。活動しない=退転者=地獄行きと思われているようです。
アネモネさんも、数々の疑問をお持ちの様ですね。私は難しい教義はよく分かりませんが、言ってる事とやってる事のあまりの違いようだけは分かりました。それに信心していて、楽しくないどころか、同信の輩だというのに中傷誹謗したり、嘘をついて人を陥れたり、泥棒呼ばわりしたり、信じられない人間の集まりに、信心する前に人間としてどうにかしたら、とずーと思っていました。こんな連中は理解不能とばかりに、役職も何もかも投げ出したのです。そしたら意外(?)な事に幸せが待っていました。
心が実に平穏になり、幸福感に満たされるようになったのです。そして何も縛られる事なく、全ての時間が自分のモノになったのです。今までは会合優先だったので、日曜日はほとんど遊びに行けませんでしたが、今は、夫婦でいろんな所へ遊びに行ってます。活動している時はケンカの絶えなかった夫婦ですが、返って夫婦円満になりました。
お寺に行かなくなって、「大罰もらうで」「イッセンダイになってしまう」「死ぬ時後悔しなや」等々の脅しという励ましの言葉を貰いました。勿論いい気持ちはしません。でもこのサイトで色々と勉強させて頂いてから、気持ちも軽くなりました。
今は、自分の人生が自分の手に帰って来た。そんな感じです。
アネモネさんにどうしろこうしろという気持ちはありませんが、同じ女性として私の経験した事を聞いて頂きたくてレスしました。失礼しました。
54
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 15:56
五月雨さん:
いちおう、誤解の無いように私も記しておきますね。
私がインカの例を紹介したのは、Challenger(この言葉を使いましょう)が「神の子である」という宗教めいた思想を喧伝するためではないのです。
精神が高度化された社会では、それまで排斥した人々、あるいは思想を受け入れるキャパを有するようになるという点を紹介したいがためでした。
極端な言い方をすれば、私の感覚の中には障害者も健常者もありません。しかし、Challengerを宗教というもっとも善意であるべき思想をもって差別する場合もあるでしょう。その場合には、インカのような事例を紹介することは大切であると考えています。
私は、仰るような障害者の方が住みやすい社会を作るという感覚もまた、一面の真理に過ぎないと思うのですよ。なぜならば、そのような社会は障害を持たない人にとって住みやすいとは限らないからです。ですから、すべての人が住みやすい社会を作るべきであると思っています。誤解を招きやすい表現ですが、障害者の生活が健常者の犠牲の上に成り立つような社会ではまだ不完全であると思います。
子どもの頃にこんなことがありました。近所に私より3歳年上の知能障害を持った男の子がいました。その子も私と同じ創価学会員でした。私は他の友人の反対を斥けて、そのこといつも遊んでいたのです。通常は、常に相手の親御さんが一緒で、そこで他の子どもたちと同じように接しているつもりでいました。
ある時、その男の子と2人きりになったのです。すると、その子が今までみたこともな険しい形相になったかと思うと、お膳の上に置かれていた南部鉄でできた重い灰皿を私の頭にめがけて投げつけました。怪我をした私の胸ぐらをつかみ、私の顔に唾を吐きつけました。相手は障害があるとはいえ、小学生の3歳の年齢差は体躯差に歴然としています。その時、そこのお母さんが帰ってきました。すぐに止めに入って、「いつも、この子はいじめられているから、自分より弱いと見做すと暴力をふるうことがあるの、ごめんなさい、ごめんなさい…」と、何度も私に謝ったのです。
私はその子に心から親切に接していたつもりでしたが、けれど、私の心には「何かが」欠けていたのだと思います。以来、40年の歳月が過ぎましたが、私は今でも、私に欠けている何かを探し続けています。
数年前のことですが、私はあるケースワーカーの方にお世話になったことがあります。お会いする前に、それこそ、何日間も何時間も電話で話し続け、本当に親身になって私の話を聞いてくれました。はじめてお会いしたのは電話ではじめて話してから何週間も経ってからのことでした。
ケースワーカー室にはじめてお会いしたとき、その方は、電動車イスに乗った、私よりも10歳も若い女性でした。私は、その時、眼から鱗が落ちるほど、驚いたのです。私の中に暗黙の内に「障害者は守るもの」という傲慢な心が福祉という名の下に潜んでいたことを実感したからです。その方は、私にとって、今でも大切な友人の一人です。
取り留めのないことを書いていますが、この障害という問題、実は、私も含めて、信仰者は後天的に重い心の障害を持っているのかも知れないと考えるところがあります。私は、その信仰の仕組みを、取り分け、仏教における差別という障害を取り除くために考えていきたいと思います。
私は重度心身障害児の施設に定期的に訪れるのですが、ここに入院する子どもたちの純粋な笑顔を見るとき、自分の中に欠けている何かをいつも実感するのです。そんなとき、私の精神は、まだまだ何の疑いもなく笑んでくれるあの子たちより、遙かに汚れ劣っていると痛感するのです。そんな思いで紹介したのがインカの話でした。
どこか、気に障るところがありましたら、お許しください。
55
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 16:09
54の補足です。
> インカの例を紹介したのは…思想を喧伝するためではない…
などと記したのは五月雨さんがそう言っているということでは、もちろん、ありません。
どうも、文章で書くと、自分の思いと、ぜんぜん違っても読めるようなことを気が付きもせず、記してしまいます。
哲学の問題は9割以上が文章表現の問題だと言った人がいましたがわかる気がします。
56
:
つまけん
:2002/07/02(火) 16:46
つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。
恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、
従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。
あと、まさかそんなことはないと思いますが、誰にもつまけんのマネをして欲しく
ないです。配偶者に望んでもいけません。何度もいいますが、その前にすべきこと
たくさんあります。
上記、犀角独歩さんはじめ、皆さんの投稿して頂いた内容を拝見し強く感じたこと
を書きました。
57
:
五月雨
:2002/07/02(火) 17:02
犀角独歩さん
なにも気に障る事もありませんでしたが、、独歩さんの引用された文章の中に“神の使い”というものがありましたので、障害者のひとりとして、自分も範疇に入るのだろうか。こんなに邪な心を持った人間も障害者の中にはいるのにネと思いつつ、高木美帆さんの言葉を書いたわけです。自分の意図した事が、違う型で解釈されてしまう。それはある程度仕方の無い事かなとも思いますが、こうして指摘して書いて頂けるとそうじゃないんだと説明できるので助かります。少し、白状すると独歩さんのレスを利用しつつ、これを読んでいる人に、障害者を「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」と認識して貰うのが目的で・・・
ホント邪な人間でしょ。人間ちょっと長く生きているとこうなると言いつつ、日常生活に戻ります。(ごはん作らなくっちゃ)
独歩さん、嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした。
58
:
犀角独歩
:2002/07/02(火) 17:48
五月雨さん:
私は、少しもいやな思いはしていませんよ。
また、「challenger人生に挑戦する人と呼ぶ人もいる」としっかり、認識しました。
でも、本当に、私は神の使いであると認識しています。
天台義になるのですが、法華経に声聞・縁覚の衆生が登場してきて、一面、否定されるような記述になっていますが、それを天台宗では、仏の教化を助けるために二乗の姿を取っているけれど、実は尊い仏菩薩である解釈するのです。この解釈が妥当かどうか、ということは置いておくことにして、止観行に鍛錬された当時の修行者には、一切の衆生を尊く仰ぐ境地を得られたが故に、このような解釈が許されたのであろうと想像しています。
この天台義は『破日蓮義』という日蓮仏法の批判書の中で紹介されるものです。
原文は漢文なので、転載はやめておきます(笑)
それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)
59
:
五月雨
:2002/07/03(水) 13:19
犀角独歩さん
<それにしても、もし五月雨さんが邪な神の使いであったとしたら、雪山童子が羅刹の正体を帝釈天と知らず半偈のために身を投じた故事を思い起こすことにしましょう(莞爾)
これって私は誉められているのでしょうね? (笑) アホな私は雪山童子の物語は知っていてもそれが意味する深いところは分かりません。分からない事は良い方へ受け取ってしまう都合のよい脳ミソの持ち主ですので、喜びましょう。
54の独歩さんのレスの体験された事を一晩考えていました。彼の心の中にあったものは、きっと虐げられている日頃の鬱憤だったのでしょう。独歩さんと二人っきりになった時に、ここぞとばかり日頃の鬱憤を独歩さんにぶつけてしまったのでしょう。きっと相手は自分より弱い子なら誰でも良かったのだろうなと思います。
人間は、自分の経験をした事を通してしか理解出来ないそうですね。私も障害者偏見の中で色んな思いを経験したから、彼の心の片鱗が少しは分かるのかもしれません。独歩さんの接し方が悪かった、心構えに何かが足らなかった、そんな問題では無いように思うのです。これは、あくまでも私の個人的な意見です。独歩さんの真剣な思いに水を差すつもりで言っているのではない事だけはご了承下さい。
障害者の願いというのは、普通に扱ってほしいという事になると思います。良い意味でも悪い意味でも。でも哀しいかな、そうはならないというのが実感です。仕方の無い事のように思えます。後は開き直るしかない気がします。自分自身の事を言わせてもらえば、少し前まで、障害者手帳での優遇を受けるという事に抵抗感があったのですが、今は常に手帳を携帯していて、どこかに入る時は、障害者割引は無いかと必ずチェックをし、掲示が無ければ窓口の人に有無の確認をしています。ただ図々しいだけのオバハン化とも言えますが、開き直りとも自分では思っています。
>信仰者は後天的に重い心の障害を持っているのかも知れないと考えるところがあります。・・・
仏教における差別という障害を取り除くために考えていきたいと思います。
信仰者について、今まで見てきた人たちを思い浮かべてみると何か人格障害があった様にも思いますので、そうかもしれません。ここに大聖人様の仏法が、そういう人々の救いの糧であって欲しかったという思いがします。何故、大聖人様の仏法はここに生かされていないのかと疑問にも感じます。
変な言い回し、意味不明瞭のところがありましたら、又ご指摘をよろしくお願いします。
60
:
アネモネ
:2002/07/04(木) 09:29
五月雨さん
はじめまして。レスありがとうごさいます。五月雨さんは関西の方なんですね。私も、関西出身なんですよ。もう関東に来て十数年になるので、私の関西弁はすっかり怪しげな感じになってしまいました。けど、やっぱりお友達としゃべるときは、関西弁がいいです。感情をこめやすいですし。緊張の糸も緩んでホッとします。
私も、お寺にほとんど行かなくなって、平穏な日々を送っています。家庭訪問やお電話も、そんなにしつこくしょっちゅうあるわけではないんですよ。時間をかけてお話しした方は、繰り返しおみえにはならないようですし。相手の方も立場上「地獄に落ちるよ」で締めくくるしかないんでしょうね。いやがらせのようなことは全然ないです。
突然の家庭訪問っていやだなぁと思うのですが、ときにはたまった新聞とメモ書きのお手紙の入った袋を持ってきてくれて、チャイムも押さずそっとドアに袋をにかけて帰られるような方もいます。メモにはお説教めいたことなどは何もなく、「お寺に行ったら新聞がたまってらしたようなので。お体を大切に」と一言。こういう家庭訪問はなんとなく心にとまります。だけどそんなに親しくもしていない方から、「ご本尊様を拝させてほしいから伺いたい」ってお電話がかかるのは権限を振りかざされたようでいやなものです。
私の場合、入信して八年ほどですが、もともと仕事の関係でお休みや自由な時間がとれるのが非常に不規則なんですね。御講や月例登山にはなるべく参詣してましたが、その他はまばらでした。そんなこともあって、次第に仕事について何かとお寺で言われるようになりました。
「参詣や活動がままならないような仕事の人は福運がない人だ」とか。
「唱題・折伏に励んで福運をつければ、信心(お寺活動)ができる仕事に就ける」とか。
「私だったら法のために転職をする」とかね。
いまどき職業による偏見めいた言葉を聞くとは、思いもよりませんでした。
私が今思いつく職業だけでも、救急医療、新聞記者、ホテル業の責任者、警察官、政治家、秘書、タレント業、マネージャー業など、自分の自由がきかない職業というのはたくさんあります。社会に生きていれば誰もが、様々な仕事の恩恵にあずかっているもので、そうやって社会が成り立っていると思うんです。なのに、お寺に来れないような仕事ということでひと括りにして、価値判断してしまうんですね。
まぁ、ここに書いたことは私の印象でして、極端な例かもしれません。だけどそういう傾向性を孕んでいると思います。
そういうことにクヨクヨと心が惑わされないためには、お寺から距離を置くのが一番いいなと思いました。
お寺から離れてしまうと、30万登山も、日蓮正宗のことも、本当に何も聞こえてこないものです。社会の中での存在はまるで感じられないですね。それを「爪上の土」にたとえられるのかもしれませんが、う〜ん、なんか違うような気もします。
私も限りある自分の時間を大切にしながら、ゆっくりと無理なく信仰の実践を模索していこうと思ってます。やっぱり漠然とした言葉になりますが、なによりもまず自分の人生と向き合っていくことから始るんだろうなって思います。
だけど、私はふと思うんです。カルト化した組織に拠り所を求めていくのはよくないけど、一方で、超高齢化社会になっていく中を自分が生きていくんだろうなぁと思うと、限りなく擬似家族に近づけるようなコミュニティの場は必要になってくるだろうなぁと。家族のあり方とか、そこに求める価値観とかは昔とは随分変わってしまい、ある意味で「老いを生きる」のが精神的にとても大変な時代になっていくのかもしれないと想像します。望んでも仕方のないことですが、それでもどこかで布教やお布施の強要などを見直して、地域の健全なコミュニティを目指すような組織のある方に目を向けてほしいなと願ったりもします。
Challengerって表現、いいですね。自然体でいて、それがそのままChallengerな生き方になっているんですものね。私の目に焼きついて「able」の映画のシーンを思い返しても、とてもマッチします。彼らの心は老いることがないんじゃないかとさえ感じましたよ。これからもよろしくお願いします。
61
:
アネモネ
:2002/07/04(木) 09:31
つまけんさん
>妻は映画を見たようで、その後の彼女には少し変化を感じます。
そうですか。羨ましい。一緒にご覧になれれば良かったですね。私は先日この映画のことを知ったときには、すでに近くでの上映が終わってしまってました。なんとか実家に帰ったときなどを狙ってぜひとも観たいと思ってます。
解説にもありますが、「彼は瞬間を生きるのがすごく上手だ」という表現が出てくるんです。ドキュメンタリーですから、つくられた演技ではなく、自然体の彼らの一瞬一瞬が写し出されているんですね。こんなふうに瞬間を生きられない私たちのほうが、本当は心の障害者なのかもしれないって確かにそう気付かされます。そういうメッセージ性のある映画でした。
でも、毎日をともに生活していると、そういう大事なことは見えにくくなると思います。家族のかけがえのなさって、近くにいるときには別段感じないものですよね。くだらないことで喧嘩ばかりしてたりして。でも遠く離れてみると、実感するもんです。一番心配してくれてるのは家族だなぁって。あまりに近すぎて、大切さが感じられない。それと同じじゃないでしょうか、きっと。
>つまけんが顕正会に入会したのは、「内緒で顕正会に入会してしまったが、
不安、恐い、できればそばにいて欲しい」という妻の気持ちを感じたからです。
奥様の内面は、このときから既に変わり始めているんじゃないかと思います。自分が抱えている心の寂しさを、他の誰でもないご主人が察知してくれたことは、何よりも嬉しいことだと思います。
>恥を晒しますが過去においては感情を抑えきれずひとりで物に当り散らしたこと
何度もあります。つまけんは宗教が大嫌いでしたから(すみません)、
宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。私はむしろ、宗教組織に依存してその価値観だけで生きてしまっている人のほうが、普通の感覚を取り戻したほうがいいと思っています。少なくとも人に対して「地獄に堕ちるよ」と言える神経は普通じゃないですね。
「地獄に堕ちるよ」と言われた側は、気の弱い人ならものすごく気にして不安な心理状態にされてしまうかもしれません。その不安は脳に伝わって、なんらかのホルモンを分泌させるわけですから、そんな状態が続けば身体に悪影響を及ぼすとも限らない。「地獄に堕ちるよ」と不安を煽る言葉が、善良な人間の情緒を不安定にさせ、心身に支障をきたす結果を招くものなのではないかと。そういうことは、普通の神経の持ち主であればとっくにわかっていることですね。だから人に向かって言ってはいけない言葉だと心得て社会生活を送っているものだと思います。だけど宗教の世界の価値観になってしまうと、そういう良識が全く無視されて、言ってはいけない言葉が平気で用いられるわけですから、一般社会で概して宗教が敬遠されてしまうのは当然のことだと思います。
>従って彼女が私に内緒で入会した事自体は、当初は離婚覚悟だったと思います。
いまは彼女をそこまで追い詰めたのは私=つまけんであることを痛感しています。
彼女が夫の事をもっと信頼していれば、入会前に相談したはずです。
彼女が顕正会に入会してしまう前につまけん自身がすべき事たくさんありました。
ここに書いている心情を、そのまま奥様に伝えてあげてほしいなぁ。とっくにそんなご主人の気持ちには気付いているかもしれませんが、ちゃんと言葉にして伝えることは大事で、たとえば電話でもいいし、手紙でもいいし、メールでもいいし。そんななにげないご主人からのねぎらいやいたわりの言葉が、奥様の心の空洞を埋めていくものなんですね。
わかったようなこと書いてしまったかもしれません。気に障ったらすみません。
62
:
つまけん
:2002/07/04(木) 12:36
犀角独歩さん
「宿命について」のスレッドですが、一月くらい前に拝見しています。
プリントして、持っています。
特に、独歩さんがスレッドの中でお示しになった、学会の古い折伏経典について
印象に残っています。焼き鳥屋さんを経営する学会員の方とお話した時ですが、
「あなたは(十界の中では)餓鬼界にいる・地獄よりマシ」と言われたことを
思い出してしまいました。
------------------------------------------------------------------
地獄界――不具者、病者、狂人、ルンペン、邪宗教の坊主及び信者
餓鬼界――下級労働者、衣類住居まではとても手が届かず、毎日毎日の生活が
食を得る為に働いているような人々。アルコール患者。拝金主義者。
性格異常者。
畜生界――パンパン、不良、泥棒、スリ、その他犯罪者。兵隊、警官、拳闘家、
将棋、碁を職業とするような、人と争う人間。
人間界――普通平凡に生活している市井人。
天界―――大金持、元の皇族、貴族、一国を動かしている大政治家、経済家、
偉大な軍人等々。
声聞界――学者、研究家、学生等。
縁覚界――二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見により広く
社会を利益した者。例えばエジソン、ワット、湯川秀樹博士、支那に
生れた孔子等。更に仏法を広め、衆生に救を与えた人々。
仏 界――日蓮大聖人(御本仏)、釈迦(迹仏すなわち影の仏)、天台(迹仏)、
伝教大師(迹仏)等。(創価学会『折伏経典』42〜44頁)
------------------------------------------------------------------
お店で、ビール飲んでいるときにいわれました。
ご本人は40年くらい前から学会員ですので「人間界」(笑)5年前のことです。
美味しい焼き鳥屋さんで、今でも通っていますけど、今はそんなこと言いません。
63
:
つまけん
:2002/07/04(木) 13:04
アネモネさん
>宗教が嫌いというのは、今の時代ごく普通の感覚ですよ。
じつは、「自分は宗教が大嫌い※だった※」などと書いてしまったので、
出て来にくくなっていました。助かりました。いまは宗教は嫌いでなく
お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。
難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。
64
:
つまけん
:2002/07/04(木) 13:14
>62の訂正です
一月くらい前→先月中頃
40年くらい前→子供のころから
どうも、この頃時間の感覚がずれてますね
65
:
五月雨
:2002/07/04(木) 15:58
アネモネさん
レス有難うございました。同じ関西人なのですね。今後ともよろしくお願いします。
アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。組織の人達が、言われたという言葉を私もよく言ってました。当然だと思って。「地獄に落ちる」なんて平気に口にしていました。今、冷静になって思い返してみると、何て事を言っていたのだろうかと、冷や汗が出てきます。昨日も、同じ講の人と話していて、学会をダニ呼ばわりしているのを聞いて、とても嫌な気がしました。知らず知らずの内に、慈悲の仏法の実践をしているはずなのに、心の中は憎悪で一杯になっているのです。大聖人様が遺された教えは、人に対して憎悪を燃やす事では無いと思いのです。それが一体何なのか模索しているところです。
アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。「老いた時」の事を。
私は「老化」を感じる歳のくせに、あまり先の事は考えていません。長く生きられないだろうと思っているので無頓着でした。でも、老いた時に信心を基本概念もった人が集まってのコミュニティというのもいいですね。助け合いの精神で、最後まで他者への思いやりを持ちながら過ごす。理想です。
Challengerという表現に、ご賛同有難う御座います。私も初めてこの話を聞いた時、なるほどと思いました。障害者への理解は欧米の方があるようです。
66
:
つまけん
:2002/07/04(木) 15:59
五月雨さん
はじめまして、つまけんともうします。
>スギケンのホームページ
>
http://web.kamogawa.ne.jp/~sugimoto/index.htm
拝見しました。ありがとうございます。
息子が2年位前虫歯の治療をしたとき全身麻酔で3時間位かけて一気に行ったこと
を思い出しました。虫歯くらいでなんでこんなことに・目を覚まさなかったらどうしよう
と心配しましたが、治療前には先生自ら病院の中を1時間も子供と散歩してくださり、
おかげで無事に治療も終わり、私の病院に対するイメージは大きく変わりました。
大学病院のお若い先生でしたが障害児専門でいらっしゃいました。
先日もひどい嘔吐がありましたので息子を連れて家族で行って来ました。
車で片道1時間半。遠いです。スレッドとあまり関係ない話ですみません。
67
:
五月雨
:2002/07/04(木) 16:31
つまけんさん
レス有難う御座います。虫歯の治療、大変でしたね。でも心有るお医者さんで良かったですね。
一生医者の世話にならなければならない私達には、良い医者との巡り合わせというのは、良い信仰との巡り合わせ以上のものがあるような気がします。
68
:
犀角独歩
:2002/07/04(木) 21:34
つまけんさん:
> 宗教嫌い…
私は、つまけんさんの妻子を思われる気持ちは、まさに宗教そのものであると思います。ただし、宗教団体の論理ではないのでしょう。常々記しているのですが、宗教団体依存から卒業し、各人が自分の責任の許に宗教に目覚める時が、これからの時代であると思います。いわば、自分自身の宗教ですから、自分の等身大でよいわけですし、自分のためのオリジナルでもよいのでしょう。
特定の団体、特定の教義によらなければ地獄に堕ちるなどという虚(うつ)けた主張をする団体と個人の、そんな情けない発言こそが、地獄の相(すがた)を表すものであると笑い飛ばし、さて、聖人の祖意はいずこにと知り、そして、その祖意に固持しようなどと思わず、自分にとっての日蓮、自分にとっての宗教という個人の和が大きな仏教、あるいは宗教という総和になっていけばよいのだと思います。その中に「宗教は嫌い」という主張があっても何ら不思議はないと思います。
私は経験的に、宗教嫌いを自称する人の中にこそ、真の宗教というべきものを見てきました。
余談ですが、あの『折伏経典』、いまでは間違いなく発禁になるでしょう。まったくひどい内容ですね。しかし、言葉の表現を以下に変え、抑えようと、その根底に渦巻く他者蔑視を超克できたかと言えば、それは現在の学会員一人ひとりの言動、殊に石山やら、顕正会に対する発言を見ればわかるのでしょう。これはまた、顕正会とて同様です。石山も同様ですね。
世間一般はみんな同じと思っています。信者は「わかっていないからだ」と、こう操作されていますが、わかっていないのはメンバーのほうであるという恥ずかしさから、私は、ここに書いてきました。
各人が団体のために弁明する必要もないし、代わりに戦争する必要もないわけです。
道具にされない賢明な個人となっていくべきなのでしょう。
もちろん、功徳を得た、感激があった、生き甲斐を見いだせた、そんな実感があるから、信者は組織に依存するのでしょう。でも、よくよく詮じ詰めていけば、その利益を与えてくれたのは、実は組織ではなく、日蓮その人であり、そのお曼荼羅であり、その教義であったはずです。そして、お題目を唱えるという個人の努力であったのでしょう。
それなのに、教祖、ひいては仏教が与えてくれた利益を、「組織による」とすり替え、個人が唱えたお題目の功徳を「組織による」とすり替える仕組み、これが第三者心理操作ですね。
この心理的プログラムを見極められるとき、はじめて組織を介さない日蓮への思いが生じるのですよね。いわば直接、日蓮と会話することができるようになるのでしょう。
熱中しているメンバーに、この仕組みを理解させることは難しいかも知れません。でも、それを理解させてあげられるのは、慈悲の意味を探求し続ける、もっとも身近な一人の努力に負うしかないのですが、実は脱却以後の長い、ほんとに長い戦いがあることを十分に承知しなければならないのも事実ですね。
脱却は、ほんの入り口に過ぎないわけです。
いずれにしても、脱却も脱却後も、仕組みを充分に理解する“技術者”でなければ、正確な誘導はできないものです。たしかな誘導者になれる知識と技術の習得が必要なです。ご健闘をお祈りいたします。
69
:
アネモネ
:2002/07/08(月) 09:59
つまけんさん
>お釈迦様の「八正道」を見ながら、「考える人」してます。
「考える人」いいですね。
私は法華講をキッカケにはじめて仏教に触れましたが、そのことはすごく意義あることだったと思ってます。数年かけて所属した組織が一面でカルト的な教団だったということがわかりましたけど、自分自身がカルト的思考に陥らないように、この小さな頭で「考える人」であろうと心掛けてます。
>難しいことはわかりませんので、自分の都合の良いように解釈してます。
私もです。自分にとっては何が大切なことなのかを見出していこうと思ってます。
70
:
アネモネ
:2002/07/08(月) 10:00
五月雨さん
>アネモネさんは、入信してたった八年なのによく気付かれましたね。私なんか二十年もかかりました。
たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います。
最初の2年くらいは私も熱中した信心に傾倒してましたが、私自身が俗世間との関わりを断ち切ることがなかったことが、おかしさに早く気がついた要因だったかなと思います。お寺では、それを「世法に染まる」と非難するものですが、それこそが心理操作なんでしょうね。
社会との関わりを遮断して、長期間にわたって洗脳され続ければ、私とてカルト的な思考からはなかなか抜けられなかったことでしょう。
専業主婦で、なおかつ宗教組織での人間関係しかない人は、おかしさに気付くことも出来ず、抜け出すことは大変なことだと思います。
>アネモネさんは、まだお若いのに随分先の事まで、考えられているのですね。
いえいえ。もう人生の折り返し地点に突入しようとしてます。
たまたま、地域の高齢者の方とお話する機会が多いんですね。関東近郊のこのあたりでは一人暮らしの高齢者が増えていますね。私にとっても、将来向き合う自分自身の問題でもあるんですよ。
組織依存とは、孤独なおばあちゃんたちにとっては、家庭のような拠り所でもあるんだろうなと思います。だから「まやかし」を認めない道を選ぶでしょうね。
カルト問題の解決には、社会的受け皿も必要になってくるのかなぁと、素人感覚で思ったりもします。
本当は、組織自らそのことに気付いて、自浄努力でもって健全な組織になってほしいと願ったりもしましたが、残念ながらとうていそれは望めないことのようですね。
71
:
新橋ボンボン
:2002/07/08(月) 19:14
ぼくはなんだか、文句を言いながら、それでも、組織から抜けられない、矛盾を変に思う。
おかしいと思えばやめればいいんだ。そうすりゃ、もう、無関係。
席があれば、連絡するのは、役を持った人間にとっては義務だもん。
上のほうで一字三礼さんという人が、人をだまして、信じることを進めんのは変て、書いてあったけど、おんなじだよ、いるなら出るか、改革する。いやならば、やめればいいだね。
組織を拝んでるんじゃないと書いてたのは独歩さんて方だっけ? 賛成!
組織がなくても信心はできるよ。ぼくはどこにも所属しないで、あっちこっちの坊さんの話を聞きに行ってるよ。なんだか、みんなおんなじようなことばっか、いっているけどね(爆)
72
:
アネモネ
:2002/07/08(月) 20:39
私のところにはほしろ幹部の方からは、お電話もなければ家庭訪問もないですね。役のある方の義務ならば、入れ替わり立ち代りいろんな人に押しかけられるよりは、代表して幹部の方が来られるほうが、私もよほど助かります。一度で済みますからね。
けど、組織を離れたって家庭訪問や電話はやめないでしょう。破門した学会の人のところに行ってるくらいですから。
73
:
アネモネ
:2002/07/08(月) 20:41
訂正
〔誤〕ほしろ幹部の方からは→〔正〕むしろ幹部の方からは
74
:
五月雨
:2002/07/09(火) 12:19
アネモネさん
<<たぶん、まだ八年だったから早々に気がついたのだと思いますよ。むしろ20年組織にいらした五月雨さんが意識を変えることが出来たことのほうが、ものすごいことだと思います
うーん、そうなのかもしれませんねぇ。最初から変だなという気持ちがあったのに、20年の歳月がかかったのは、罰が当たる・地獄に落ちるの二文字にがんじがらめになっていたのでしょう。アネモネさんのご指摘のとおり主婦の世界は狭いので、そこからはみ出す事は中々です。
活動しないと「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」とか言われ続けての20年間でした。でもその歳月は無駄になってしまいました。今は、その歳月を取り戻そうと色々と考えています。
「世法に染まる」との非難があるそうですが、こちらでは「信心が無い」という言葉での非難があります。信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。
アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。
75
:
あ
:2002/07/09(火) 23:19
スレッドのテーマと関係無さそうなので、ヒソヒソ声で発言するでげす。
アネモネさん、つぶやきスレッドの書き込み、読んでます。
がんばってカキコしてください。
五月雨さん
「子供に現証出るよ!」とか「信心は馬鹿になった方が勝ち」、そーゆーこと言われたんですか。
宗教教団って、表向き、なんだかんだキレイゴトばっか言ってますけど、
裏では、そーゆーことを言って、人の心を縛りつけているのですね。
あちき、S教団出身ですから、あの教団なら、そーゆーこと言うな、っていうのは、わかります。
罰が当たるだの、地獄に落ちるだの……、クソー!!!
76
:
犀角独歩
:2002/07/10(水) 08:29
新橋ボンボンさん:
読み落としていました。私に賛同の意見を書かれていたのですね。有り難うございます。
なんだか人にけんかを売っているような文章(失礼/笑)ですが、私はあなたの仰ることはわかります。またしかし、やめられない人の心理もわかります。
私自身、脱会を決意してから、実際に届を出すのに10年を要しました。そのころの自分を自己分析しながら、種々、ここに書いてきたのです。組織をやめられないのは、たぶん、信仰という善の面に分類される価値観が、組織に対する依存を形成しているからであろうと思います。しかも、これは信仰的な見直しによっては、実は改善されないという側面をもっています。
ところが種々の形で現れる組織への不満…絶対であるといわれたはずが必ずしも絶対ではなかった、教義、組織運営、人間関係など…から、組織への不満が膨らみます。ついで、人はその不満を持っている自分自身の説明原理を考えることになります。一つの解決策として、より満足のいく組織への移動という非難行動を取ることもあるでしょう。
けれど、これでは、何も根本的な解決になっていません。いつしか、また、不満が噴出します。この不満は組織の不完全さなど、妥当性をもっている面はありますが、もう一面、その不完全な組織に居続ける理由については考えられません。しかし、この点こそ、実は重要なのだと思います。その意味において、あなたの指摘は実は的確なのかも知れません。
不満を持ちながら居続ける心理、結局これは“依存”という、本来の仏教が、そこからの脱却を教える心理要因が解決していないことを意味しているのであると、私は思います。この部分こそ、実は解決しなければ、真の安穏は訪れないのでしょう。
77
:
問答迷人
:2002/07/10(水) 11:13
皆さん、ご無沙汰しています。
近況報告を兼ねて、少しだけレスします。今日は台風で仕事のキャンセルが入って、時間が取れました。
去年は、法華講組織の中にいて、中心的な役職を持って活動していました。そして、改革したいと思って少し頑張ってみました。次々と疑問点を役員や御住職等に投げかけました。結果は、「宗門の方針と違うから、もう、君に役をやってもらうことはできないから降りてほしい」、と言われてしまいました。
お陰で、今は、何の組織的な束縛もなくなりました。自由にお寺に参詣してますが、誰からも、どうせよ、ああせよ、という声は一切掛かりません。御住職も、顔をみても、「仕事はどうですか」程度の話だけで、30万はおろか、登山のとの字も僕には言いません。気楽ですよ。組織の中にいる束縛される感覚は、現在は全然ありません。
とりあえず、当分は、こんな形で、日蓮聖人の教えを求めて行きたいと思っています。
それから、一講員さんから、依頼のあった、掲示板のチャートの件、少しずつ作業をはじめています。やはり、とりあえず、半月から一月ぐらいは掛かりそうです。仕事の合間、合間に、がんばって作っています。
78
:
あ
:2002/07/11(木) 01:44
犀角独歩さん
深い、深い御意見っす。
問答迷人さん
お久しぶりっすー!!!
A「課長、近頃、仕事に意欲が無くて……」
B「意欲が無いのか。お前みたいなヤツ、会社やめちまえ!」
A「女房が宗教やってるんだよ。オレ、宗教嫌いなんだ」
B「そんな女、離婚すりゃいいだろが!」
Bさんの言い方が乱暴だというのは、誰でもわかりますよね。
Bさんみたいに「活動しないヤツは信心が無い」と言って、信者を切り捨ててきたのが、宗教教団なんだ。
「イヤなら教団ヤメロよ」というのは、そういう宗教教団の言い方の、裏返しの言い方ではないのか?
白黒2元論はカルトの始まり、というコトワザがある……(?)
2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?
そんなに簡単に選べないから、これまで、この掲示板で、スッタモンダ話し合ってきたのではないのか?
新橋ボンボンさんのおっしゃり方に、傷ついた人がいたのではないかと、心配になっています。
79
:
犀角独歩
:2002/07/11(木) 04:16
あ さん:
どうも。
でも、私は新橋ボンボンさんもさりげなく簡単に書いているけれど、このような結論になるまでに、長い苦しみがあり、たくさんのことを乗り越えてきたのではないかと思うんですよ。ただ、私も含めて「言い方」にはお互い注意したいと思います。
まあ、そんなルールは守って、新橋ボンボンさんも、気軽に議論に参加されればと思います。
それにしても、あさんの、ステレオ・タイプに関する視点、ほんとにそのとおりであると思います。
80
:
五月雨
:2002/07/11(木) 09:54
あ さん
私が組織の中で言われ続けてきた事は、やはりかなりヒドイ事だったのですね。とはいうものの あ さんの驚きのコメントを読んでその重大さに気付きました。コンナコトイワレタッケと何気なく書いたけれど、事の重大さに気付かなかった自分はここまで鈍感になっていたのかとショックを受けました。入信する時に姑が「罰が当たるような信心はせん方がええよ」と言ったのが何よりの真理かも知れません。“忠告も聞かず悪い嫁でした、お義母さん。”と謝りたい気分です。
新橋ボンボンさんのレスは、誰に言われたのか想像はついても誰宛でなかったので、何も言いませんでしたが、はっきり言って傷付きました。猊下を呼んでカマシて頂きたい気分でした。でも あ さんが的確なご意見を言って下さり救われました。この二日間何だか嫌な気分で過ごしてきたのですが今日は良い一日が送れそうです。有難うございました。
81
:
アネモネ
:2002/07/11(木) 11:56
五月雨さん
>信心のバロメーターでもあって、それがあんたに見えるんかいとツッコミタイ事が何度あったか。「世法に染まる」って「何色に?」と聞いてみたい衝動にかられるのは、関西人だからでしょうか。
ほんまやわ。さすが!するどい。
>アネモネさんは疑問解決の為に、何か本を読んだりしていますか。お奨めの本がありましたら、教えて下さい。
いやー、本を読んでいない自分に気がつき、あせりました(汗)。
疑問解決の為に読んでる本て何やろうと、いろいろ思い返しているうちにすっかり書き込みが遅れてしまいました。ごめんなさい。
実は入信するときに最初に読んで、今でも繰り返しよく読む本は、創価学会が版元で出した青少年向けの訳がついている「立正安国論」なんですね。白文は当然読めませんし、下し文でも意味をつかむのがおぼつかないので、私が読むのにはちょうどこの本が良かったです。本当はここに書くのは大変おこがましいので、書こうか書くまいか悩みましたが、でもまぁ実際に迷ったときにいつのまにか開いているのはこの本なんですね。
最近では、下し文のほうでも段々と読めるようになってきまして、創価学会の訳と対比しながら「これはもしかして心理操作してるんとちゃう?」なんて面白いことに気がつくとこともあったりしますよ。でも仏教をきちんと学んでだ上で読んでおられる方からみれば、「立正安国論」の何がわかってんねんって叱責されそうですが‥(冷汗)。
そういうことはともかくとして、なぜ仏教を知らなかった私が「立正安国論」にストレートに感動を覚えてしまったのかなぁと、ちょうど良い機会なので自分なりに分析してみました。入信前からの私のものの考え方によるところが大きいのではないかなと思ったんですね。
自分自身の人生をずっと遡って、ものの考え方の土台になっているのは何かというと、こちらの過去のレスにも書いていることなのですが、私はもともとはクリスチャンだったのでどうしても聖書の言葉かもしれないなと思うんですよ。(これも冷汗)
ちょっと余談ですが、よく考えてみると、私、教会にもまだ籍が残ったままなんですよ。御受戒のとき気にはなったのですが、「十年以上も行ってないなら、わざわざ届を出すこともないですよ」なんて言われたのをいいことに、籍のある教会は関西で遠いし「まぁ、いっか」と、結局今もそのままになってます。随分といい加減なもんです。
それはそれとして、もちろん今は、天地創造の神がいるなんてとうてい信じてないですよ。ただ正直なところ、聖書の言葉はやっぱり今でもどことなく染み付いているんですね。これはどうしようもなく私の考え方の原点になっているようです。たぶん、払拭しきれないキリスト教的思考でもって、日蓮正宗や法華講をみてきて、いろいろ違和感を覚えたんだと思います。もちろんキリスト教がいいわけではないんです。私自身、キリスト教とてそんな深い教義を勉強したわけでみありませんし、ただ、少なくとも教会の中では、足の引っ張り合いや、強い上下関係はなかったんですね。組織のトップへの絶対服従みたいなのもなかったですしね。
というわけで、同じように「立正安国論」についても恐らく私は、キリスト教的思考でもって読んでいるんじゃないかなと思いますね。説明になってないかもしれませんが‥。
そのうえで非常に共鳴を覚えたの本がありまして、ずっと前にどこかのスレッドでも書きましたが、無教会派クリスチャンの内村鑑三が書いた「代表的日本人」の「日蓮上人」です。
入信した頃は随分自分の中に染み付いたキリスト教的なものを排除しようと努力したんです。だけども、今はそういう今ある自分を否定しないことにしました。変に無理をしても結局ひずみみたいなものが出てしまう気がするんですよ。だから、私は五月雨さんの二十年間についても、全てを否定することはないと思うんです。まやかしの多い指導の中からも、何かしらつかんでいらしたからこそ、またそのまやかしにも気付かれたのでしょうし、私のまだまだ知らない仏教に、長く親しまれていた期間なのですから。貴重ですよ。
失敗のない人生なんてあり得ませんし、それより失敗を繰り返さないことがより大事で、もっと大事なことは失敗を恐れないことじゃないでしょうか。それこそ「Challenger」ですよね。そう思えば、人の失敗にも寛容になれるんじやないかと。なんか偉そうですが、これは自分に言い聞かせる意味で書いてます。
82
:
アネモネ
:2002/07/11(木) 11:57
(つづき)
とはいえ、聖書も内村鑑三もあんまり推薦するわけにもいかないので、もう少し考えてみました。
ここ最近で自分の意識変革に最も役立ったものは?と考えてみると、実は書物ではなくて、NHKで放映された「ギリシャ文明」というアメリカで制作されたビデオなんです。古代アテネにおいていかに民主政治が発生していったのかという流れを、学者の解説を交えながらとてもわかりやすく構成されたものでした。今にして思うと、このビデオには非常に影響を受けてしまいました。特に最後に出てくるソクラテスの「精神の世界」というのにすごく感銘を受けましたね。「考える」ということを大事にすることは、人間が本来持っている「理性」を導くことであるといったことを、ソクラテスが国法に従って処刑を受け入れることでもって民衆に示すんですね。考える自分であろうとするってこと、このビデオを観てから特に強く思うようになりました。
やや誇張した表現になりますが、そこに写し出されたソクラテスの考え方や生き方の中にも、日蓮聖人を見る思いがしたんですよ。このビデオが示すもっと奥深い本質をつかむためには、プラトンが書いた「ソクラテスの弁明」を読むのが一番いいのでしょうが、私にとっては難しそうなのでまだ読んでないです。いつか読みたいと思ってますが。
そしてそのビデオを観たのとちょうど同じ頃に、こちらの掲示板にも参加させてもらいにがら、自分の意見も書いたり、また反論も頂きながら、ひとつひとつお寺のことを知って、段々と目が開かれた感じがしますね。こちらの掲示板は本当に感謝です。
今、問答迷人さんがこれまでの議論から導かれたことをチャートにして下さっているそうですが、それ、すごくいいなぁって思います。お寺の人の中でも、私の疑問などを一緒に考えて下さる方も幾人かいるのですが、近い将来チャートが出来たらプリントアウトしてお渡ししたいなと思ってます。私自身の頭の中も整理されるでしょうしね。
長くなって申し訳ないですが、最近読んだ本についていえば、このスレッドに前にも書いた「差別と仏教〜摩り替えられた釈迦の教え」(亜紀書房 河合廣仙著)です。
それからもう一冊。五月雨さんは既にご存知かと思いますが、脳障害の詩人・日木流奈くんが書いた「ひとが否定されないルール−妹ソマに残したい世界」(講談社刊)、これは目から鱗でした。彼の言葉の使い方がすごくチャーミングなんですね。ちょっと抜粋します。
「私は言葉に自分の心を乗せ続けました。それは詩となって現れ、私は私が伝えたい想いをただ楽しんで語り続けました」
「どこにいても<自分の思い>がどこにあるかを問うて生きたとき、どこにいても、だれといても、心が平安になると伝えたいのです」
一歳に満たない妹のソマちゃんが、食べ物をグチャグチヤにしたり、物を投げたりしている姿について、「実験に忙しい」と表現しているんですが、どこを読んでも流奈くんの観察眼とか感性とか表現力はただならないなぁと思いました。
実はこれNHKスペシャルで観たのがキッカケで知った本なんですよ。ひないだの「able」もそうですが、私はとにかくテレビをよく観てますね。もしかしたら、結局テレビが疑問解決のツールだったのかな?なんて思うくらい。でもこれも心理操作される危険性を孕んでますし、うーん、なんか参考にならなくて、ごめんなさい。
でも、五月雨さんはお姑さんが近くにいらっしゃるのですね。もしかするとどんな書物よりも、親身になって心配してくれている身近な人のさりげない言葉こそ、大きいかもしれないですね。苦言は特にそうかもしれません。そのときはムッとしても、後からその言葉の重みに気付くこと多いですね。
83
:
アネモネ
:2002/07/11(木) 12:08
あ さん
はじめまして。アネモネです。
あ さんのカキコ、うまいこと書いてるなぁと、私、唸りました。
それから、心温まるヒソヒソ声聞こえました。励ましてくれて嬉しかったです。ありがとうごさいます。
84
:
問答迷人
:2002/07/11(木) 14:26
アネモネさん お久しぶりです。
掲示板ご参加の皆さん こんにちは
一講員さんから提案のあったチャートの件、掲示板を覗いてくださる方の便宜の為に作りたいと思っています。なるべく、単純、明快なものにしたいと思います。今は、資料整理してますので、出来上がりについて、こういうものがほしい、というご意見があれば、皆様のご意見を承りたいと思います。よろしくお願いいたします。
85
:
問答迷人
:2002/07/11(木) 14:35
あ さん
僕も、創価学会、そして法華講という団体に所属してきて、カルト的思考に慣らされてきました。いま、組織活動の責任から一切開放されて、晴れ晴れとした気持ちです。
>2つに1つ、そのどちらかを選べ、ということ自体が、おかしいのではないのか?
とのご指摘、僕もそのとおりであろうと感じます。思考方法にまで、カルトの影響が染み付いているかと思うと、ぞっとしますね。折々にお気づきの点、その都度、ご指摘いただけるとありがたいです。今後とも、よろしくお願いいたします。
86
:
犀角独歩
:2002/07/11(木) 17:29
「生活上の決定はほとんどリーダーが行っていた。メンバーは、自己を捨て、従順であるようにすすめられていた。こういう形の依存症は、その人の自己というものを低く評価させ、その人が個人として発達しようとする願望と能力を妨げる」(マインド・コントロールの恐怖 P309)
87
:
犀角独歩
:2002/07/11(木) 17:53
一字三礼さん、皆さん:
○服従・代理状態、責任の喪失。そして権威。さらに緊張(服従の心理から)
【服従】服従は、不平等な人間関係から生じ、かつそれを存続させる。したがって、その究極の表現において、ファシズムの理想的な規制メカニズムである。人間の不平等を基礎としている政府の哲学が、服従の絶対的美徳に高めるのは、論理的以外の何ものでもない。服従行動は、ヒエラルキー社会構造の情況のなかではじまり、その結果、上位の者と下位の者とのあいだで行動が区別されるようになる。上位グループと下位グループの概念を強調し、さらに、ブーツをカチッと鳴らして即座に命令を遂行する迅速かつ印象的な誇り高い服従を重視することが、第三帝国のトレード・マークであったのは、偶然ではない。
【最初の社会関係】服従 児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』(イングリッシュ、1961)
【指導者と服従】服従の心理は、より大きなヒエラルキーのなかで、その単位がどの位置に配置されるかには左右されない。忠実な国防軍(ヴエールマハルト)の、アドルフ・ヒトラーへの心理的適応は、最下級の歩兵の情感への心理的適応と相等しく、組織を通じてそれは同じである。最高の指導者の心理だけが、別の説明原理を必要とする。
【服従の本質】個人が自分を他の人の要望を実行する道具と見なすに至り、したがって、自分の行動の責任が自分にあると思わなくなることが、服従の本質である。
【代理状態】権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の【状態】におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を【代理状態】(agentic state)と呼 ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、【自主性】、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう。
【責任感の喪失】代理状態のもっとも重大な結果は、個人が自分の指図している【権威に対して】は責任を感じるが、権威に命じられた行為の内容【については】責任を感じなくなるということである。道徳は、消滅するのではなく、根本的に違った点に集中される。従者が感じる恥や誇りは、自分が権威に求められた行為をどれほどうまくやったかということで決められる。
【権威】権威とは特定の状況のなかで知覚された社会的コントロールの起点である。その状況が、当該の権威になじむと見なされる命令の範囲を限定する。一般に、コントロールをする人物の機能と、彼が出す命令の性質のあいだには了解可能な何らかのつながりがなければならない。
【服装】ある与えられた場面における権威を知らせるために服装が使われることが多い。
【緊張】緊張は、二つまたはそれ以上の対立する反応傾向が同時に存在しているために生じると考えられる。
理論的にいえば、自立的に機能できる存在がヒエラルキーに組み込まれたときには緊張が生じやすい。
緊張の徴候はすべて、権威が個人をまざりっけのない代理状態に移すことができなかったことを示す証拠である。(以上、ミルグラム著『服従の心理』からの抜粋)
組織に違和感を感じ、かつ、そこに居続ける方々は、権威者からの服従に屈しない心理状態にあるといえるかもしれません。この場合、その心理的な特徴は上述の緊張となって現れていることが多いのではないでしょうか。
しかし、反面、実際に脱会をし、その組織に抗しようとする人から見ると、いまだ責任の喪失と捉えられる特徴を引きずっていると見られるところがあるかもしれません。(これは批判ではありません。客観的な観察です)
私の知人である、オウム脱会者の一人は、幹部にまで昇り300人もの勧誘を行いました。彼は脱会後、自分が勧誘した一人ひとりの家を回り、組織に残っているメンバーの脱会を勧めて歩きました。筆舌に尽くせない家族からの罵倒を受けながら、彼は実行しました。彼は信者ではない、自分自身を取り戻すと共に喪失していた責任を果たすために、その苦難を忍びました。
88
:
犀角独歩
:2002/07/12(金) 00:27
自分が信仰であると思っていることの大半が、心理的操作に関わることであるという現実を受け入れることは困難なことなのでしょうね。
89
:
五月雨
:2002/07/13(土) 20:53
アネモネさん
励まして頂きまして有難うございます。どうしても性格上過去の事にくよくよしてしまいます。でも“ホンマにドアホ”な事ばかりしてきたものだから、ついつい愚痴ってしまいます。申し訳ないです。ここにひとつ懺悔して、忘れたい事があります。実は、聖教新聞は池田先生のお手紙だから、十年配れば宿命転換出来る、なーんてたわ言を信じて六年半も配っていました。ホントにアホ丸出しです。その他世間に迷惑かけた数々の選挙違反等々お詫びしたい気持ちです。その時は真剣で、間違っているとは露知らずでしたが気付いた今、顔から火が出るどころか、炎がボーボー出ている感じです。アネモネさんは最初から法華講に縁されて幸せでしたね。組織の論理が国法に勝ると思った事はありませんでしたが、結果的にそうなっていました。独歩さんが引用されていたミルグラム著『服従の心理』は全くその通りだと思います。自身の頭で考えている気で考えていない恐ろしさ。それに気付かない怖さ。実感しています。
本もいろいろとご紹介していただきまして、有難うございます。捜してきて、おいおい読んでみたいと思います。ルナ君の本は立ち読みしました。大人の書いた前書きが随分長いなと相当読んだところで、本文だったと気付きびっくりしました。ものの取りようは十人十色ですね。「ギリシャ文明」に興味は無かったのですが、今度放映がある時は見てみます。
親の説教と何とかは後から効くという諺があった様に思います。二十年たって効きました。
遅すぎですね。でもそういうひと言があったから、全ての疑問の取っ掛かりになったのかも知れません。
90
:
犀角独歩
:2002/07/13(土) 22:14
私の尊敬する精神科医・高橋紳吾師の名言(1)
・考え方からの脱却の困難さ
人がなにかを信じるということはとてつもないエネルギーを必要とするものであるが、その信じていたものを捨てるという作業は、さらにその何倍もの労力を必要とするのである。もっと正確に言うと、なにを信じていたのかが問題なのではなく、獲得されたものの考え方(思考パターン)が癖になっていることが問題なのだ。この歪んだ認知、すなわちカルト根性から自由になること、これがしばしばひどく困難のである。(『超能力と霊能者』岩波書店 P195)
・宗教家の真偽
むかしから真の宗教家とにせの宗教家の区別がさまざまに試みられてきた。はっきりと区別することは困難だというのが大方の結論である。しかし大まかに次のような区別が可能となる。高い支配性や野心的な言動はにせ預言者の印である。それは自尊心と周囲からの認知・尊敬にたいする欲求に由来するからだ。それらは、しょせん哺乳動物の縄張り意識と、霊長類の支配−被支配の関係が変形したものにすぎない。(同 P127)
・信教の自由の矛盾
考えてみると、信仰者は熱心であればあるほど自分の信仰する意外のものを認めず、他宗教を否認ないし攻撃するということがしばしばおこり、信教の自由という法体系によって守られるまさに信仰者自身が、心情的には信教の自由からもっともとおい位置に立ってしまうという矛盾を呈することになる。(同 P2)
◎子供のために、カルトからの脱却
・妄想症の伝染
精神科医は物理的に子供をカルトから分離させなければ洗脳を解くことは難しいということを知っている。我々は二人組精神病、感応精神病と呼ばれる、妄想症の患者の妄想が第三者に「うつった」病態の治療経験を積んでいるからである。(「二人組精神病と洗脳」『イマーゴ』1993年9月号)
91
:
いちりん
:2002/07/15(月) 00:43
高橋紳吾さんのことば、とっても啓発されますね。
92
:
犀角独歩
:2002/07/15(月) 18:30
○高橋紳吾師の名言(2)
・依存
俗な言い方であるが、人の弱みにつけこむとは、不幸で弱っている相手の心理状態をさらに揺さぶって、不安定にし、もはやその人を頼るしかないという気持ちにさせるということである。(『超能力と霊能者』現代の宗教8 岩波書店 1997年2月5日 第1刷 P108)
・カルト教団
攪乱やリスク・トーク、情報操作などの詐欺的な伝導“形式”にあることを強調しておきたい。布教のパワーにだけたよってなんらの信仰的深まりをもたない、正確にいえば人格的な成熟を助けない、否、むしろ成熟を妨げ、心を隷属させるだけの破壊的カルトへの警戒を続けることが、本来的な意味での信教の自由を守ることにつながるということを強調しておきたい。(同 P198)
・富士門の精神鑑定の例
小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法(しょうぼう)と三障四魔(さんしょうしま)の闘争”を機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き、危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P10)
(上記とは別ですが、小田晋師の講演は以下で読むことができます
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm
・青少年のカルト入信と“世界没落体験”の関係
青年期に初発する精神分裂病に「世界没落体験」という症状がある。急性期に現れる妄想で「世界が今や崩壊に向かっている。いやすでに崩壊した。森羅万象のことごとくが生命を失った。最後の審判が開始された。世界革命が勃発した」などの、周囲の世界の劇的変化が絶対的な妄想確信をもって迫ってくる特有の妄想である。この妄想の際には不安と同時に昂揚感や宗教的啓示が現れ、世界の崩壊と同時に新しい未知の世界の誕生が予告され、しばしば世界の中心にある自分が至上者と一体化するという宗教的恍惚感が生じ、ときに救済妄想にいたる。精神病の初期には、自己の内部が崩壊していくカタストローフの感覚があり、しばしば患者は「自分が誰かわからない、狂ってしまいそうだ」と表現するが、この内的カタストローフが外界に全面投影されて生れるのが、世界没落体験である。一般に思春期は、自己のアイデンティティを形成していくうえで、危機的状況にある。「自分とは何者か」、「何処からきて何処へ向かうのは」、「何をすればよいのか」と真剣に悩む。世界没落体験は分裂病特有の症状というより、思春期を含めて、人が精神的危機状態にあるときに親和性を示す普遍的な心理的メカニズムなのである。(『超能力と霊能者』P218)
◎「祈りとして叶わざるはなし」という言葉を信じる前に
・祈祷性精神病
森田療法(神経症にたいする禅を応用した心理療法)の創始者である森田正馬教授が1915年に称えた心因性の精神病で「加持祈祷もしくは類似した事情からおこって人格変換・宗教妄想・憑依妄想などを発し、数日から数か月にわたって経過する特殊な症例」で森田は「祈祷性精神症」と呼んだ。(同 P92)
・長時間の会合、祈りを続ける精神力は強盛な信仰なのか
精神医学に常同症(ステレオタイプ)という概念がある。これはかなり進行した精神分裂病者にしばしば見られる現象で、同じ動作や行為をいつまでも繰り返す意欲の調節障害という症状である。見かけは同一意志が持続して、長く同じ動作や行動を反復持続しているように見えるが、これは意志が強固であるためではなくて、むしろ意志の調節力ないし支配力が弱まったため、大脳に本来そなわっていた精神−運動性のメカニズムが統制から解除されて自動的になり、意味のない反復となって現れたと解される現象である。常同症は行動のみならず、表情、姿勢、言語、書字などにも現れる。(同 P68)
※以上、見出しは私が適宜付したものです
93
:
犀角独歩
:2002/07/15(月) 18:51
【90、92の補足】
○唱題が祈祷になることは危険ではないのでしょうか、SGIアメリカ日蓮正宗をカルトの一つに挙げたハッサン氏は以下のように警告しています。
過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている。(『マインド・コントロールの恐怖』P3)
メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる ―― ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである。(同 P10)
94
:
犀角独歩
:2002/07/15(月) 20:46
いちりんさん:
ご存じだと思いますが、高橋師は、当初、仏教を専攻していたようでした。それで仏教を極めるために精神医学に踏み込み、現代に至っているといいます。いわば、カルト問題の最適任者であろうかと思います。また、もう一人、紹介した小田晋師も代々の日蓮宗檀家。このお二人の研究がもっと日蓮門下、取り分けカルト問題との関わりでは、啓蒙されるべきであろうかと思っています。
95
:
一字三礼
:2002/07/16(火) 00:18
>87
読み落しておりました、申し訳ありませんでした。
たいへん詳しく御説明いただきありがとうございました。
富士門や新宗教でよく見かけるタイプの強信者は、心理操作によるものが多いのですね。
社会心理学で、これほどまでに説明出来るのが驚きです。
では、宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが出るのでしょうか。
それとも、信仰に対する確信という状態そのものが、心理学では否定的に捉えられているのでしょうか。
96
:
アネモネ
:2002/07/16(火) 02:24
五月雨さん
独歩さんが小田晋師を推薦されているようなので、ご紹介に躊躇した本をもう3冊ご紹介いたします。とてもわかりやすく書かれてますから、気分転換に読めると思いますよ。
「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」小田晋著 (三笠書房刊)
『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』小田晋著 (大和書房刊)
「日蓮に学ぶ、明日を生きる智恵」北川紘洋著 小田晋監修 (はまの出版刊)
特に、「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」は私自身が入信して一年ほどの頃に読んだ記憶があります。今取り出してみると随分たくさん付箋をつけて、マーカーをひいてありますね。これはお勧めできると思います。
読みながら、「ありゃ、これって日蓮正宗のことやわ」なんてとこが、いくつかあったような記憶があります。たぶん、その本に啓発されて次に、『「日本人の依存」を精神分析する−健康な依存、病的な依存』を読んだのではなかったかと思いますね。けど、日蓮宗檀家の人とは知りませんでした。
97
:
犀角独歩
:2002/07/16(火) 04:57
一字三礼さん:
> 宗教者の持つ信仰に対する確信と、カルト的刷り込みによった確信とではどのような所に違いが…
“確信”、難しいテーマですね。信仰者の確信とカルトの刷り込みの確信に差があるとすれば、前者が個人的に得たものであるのに対して、後者は第三者によって植え付けられたものであると言った差異であろうかと思います。けれど、私は前者の確信に対しても悲観的です。
マインド・コントロール研究の第一人者・西田公昭師は『マインド・コントロールとは何か』(紀伊國屋書店)のなかで、個人的リアリティを説明して、
たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという。(P81)
と記しています。私は確信と聞くと、真っ先に『立正安国論』の一節を思い出します。
人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる
宗教的な確信が到達困難な肯定されるべき境地であるか否か、今のところ、私は決しないことにしておきます。方や、カルト的刷り込みに基づく確信について、いくつか、実践者の発言を紹介します。
まず、ここのところ紹介してきている高橋紳吾師は『宗教病理と犯罪』という講演のなかで
妄想とは何かと言いますと、指標は三つあります。Karl Jaspers によれば「間違った考え」「強い確信」「訂正不能」とされています。妄想は仏教用語の読みでは「もうぞう」と言うそうです、多少意味が異なりますが。精神病理学的に、妄想の言語構造論的分析をすると、簡単に言うなら「妄想とは欲望が変形したものだ」となります。
と話しておりました。決して前言を翻さない強い確信、それが事実であると証明できないとすれば、精神病理における妄想であるというわけです。信仰者として考えさせられる定義であろうかと思います。
オウム真理教問題では命まで狙われた実践者・弁護士である滝本太郎師は
「よいことをする」つもりで行うから、実はよりおそろしいのです。「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は限度がない」のです。「人は、宗教的確信にたったときほど、完璧に喜んで罪を犯す」のです。(『日本脱カルト研究会報』第5号 P15)
と言います。カルト問題を扱ってきた弁護士ならでは発言です。
また、オウム信者の心理に触れ、
「麻原の教えは間違いだった。けれど、あのときのクンダリニー・ヨーガの成就は本物だったかもしれない。それなりに自分は他心通もあるし、宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。するとオウム真理教に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。(同 P29)
と、あれだけ間違っていると言われるのに、オウム真理教に居続けるメンバーの心理を見事に分析しています。これは、どのグループにも当てはまるでしょう。
○○の教えは間違いだった。けれど、あのときの○○の成就は本物だったかもしれない。…宗教的確信を得たはずだ」と思うわけです。実は、そうではないことが社会と適応できないことでわかります。これが辛いのです。すると○○に戻ったほうが、よほど楽になります。現役さんに「残っているのは楽だからだろう」と言うと「そうです」と返答されて、がっくりすることがあります。実は「修行のためだ。救済のためだ」ではなくて、「こちらにいるほうが楽だ」という人がいるのです。
○○の部分に自分の所属する集団名、そして宗教的経験を入れて考えてみると客観論になります。
妄想か確信か、その分別に、果たして宗教的・カルト的の隔壁があるでしょうか。
98
:
犀角独歩
:2002/07/16(火) 15:40
> 小田晋師…日蓮宗の檀家…
そうなのです。先祖伝来、270年も檀家とのことでした。
それだけに日蓮仏法に係る分析は実に適役ということになります。もちろん、偏狭な宗派意識を持つような人ではありませんから、日蓮宗の立場で石山系の批判などというケチな真似をすることもありません。
私が驚くのは加持・祈祷には肯定的であること。また、宗教の持つ霊性を認知しながら、それを“消毒”されてしまった仏教(あるいはキリスト教)は欠けた部分が生じていると指摘していること。宗教の持つ霊性と日常の往復のあるところでは精神分裂病の発症率が低いことを指摘していること、つまり、“祈り”の重要性を認めていること、けれど、そのコントロールの困難さも併せて指摘いること、傾聴に値する学者の一人であると思います。
99
:
犀角独歩
:2002/07/16(火) 21:19
> 98
【補】
小田師の講演『世紀転換期の宗教家:カルトとマインド・コントロールを反面教師として』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/01/01_1_106.htm
について、やや思うところを拙サイト『日々雑記』に記しました。
仏教再考―犀角独歩
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
『日々雑記』宗教脱会者にロジャース法カウンセリングは役立たない?
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/zakki_01.html
#020716
ご意見をお聞かせいただければ有り難く存じます。
100
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 13:16
スレッドを立てることを希望されたつまけんさん、お元気でいらっしゃるのでしょうか。
101
:
つまけん
:2002/07/19(金) 13:57
犀角独歩さん
しばらくです。こちらも元気です毎日見てますよ。気にかけて頂きまして
ありがとうございます。
102
:
一字三礼
:2002/07/19(金) 17:30
>99
小田先生の講演、非常に興味深い内容でした。
古い宗教が持っていた呪術的な求心力を失ってしまった、言わば去勢されたような現在の宗教に対する警鐘も面白い視点であると思います。ただ、少々過激な物言いをされる方のようですが。
小田先生は精神衛生を維持する為には、“ハレ”と“ケ”との日常での往復の必要性を説いておられます。
お話の中心は、無論、カルト宗教のマインドコントロールで得られるような、お手軽で倫理観や社会性の欠如した、変性意識体験を否定し、伝統宗教が近代化と称して捨ててきた宗教的神秘体験にこそ、節度のある変性意識体験を得られる可能性があると読み取れます。
また、伝統宗教の役割も“ハレ”の健全な状態を提供するという点に力点を置かれた講演のように私は理解しました。
しかし、どうなのでしょう。
私の認識が浅いせいなのかもしれませんが、宗教を1括りにし過ぎているのではないでしょうか。
言うまでも無く、仏法を行ずる目的は“成仏”にあります。それは寿量品の「大火所焼時。我此土安穏」で示される、絶対的な安心立命の状態の永続。つまり、唱題の時のみならず、仕事中でも家事をやっている時でも、とりあえず眠っている時以外は平安な心でいる事が、理想とする所であると考えます。
このような意味で、仏法によった変性意識体験を期待するのは、本来の目的からは外れているように思います。
103
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 18:36
> 102
小田師の係る講演は、現宗研、つまり日蓮宗の現代宗教研究所での聴衆が、100%僧侶の席でのものなので、一般的な講演とは言い難いでしょうね。
ところで、
> 仏法を行ずる目的は“成仏”…絶対的な安心立命の状態の永続
というと、成仏は安心立命状態の永続と理解されているわけですか。
また引かれる「大火所焼時。我此土安穏」と各人の成仏がどのような関係にあるのでしょうか。
> 仏法によった変性意識体験を期待…
これは読み違えていませんか。小田師は禅定、それに列する唱題における心的作用を変成意識に含めて論じているのでしょう。それを影山師等の実際の科学的な計測の例を挙げて脳波の変化から論じているのだと思います。
ですから、「精神衛生を維持する為には、“ハレ”と“ケ”との日常での往復」とは、むしろ、勤行・唱題に罪障消滅を祈り、そして、日常に出て行く生活上の往復の有様が、理に叶っていることを述べようとしているのではないでしょうか。
ただしもちろん、私も小田師の説を鵜呑みにしているわけではありません。
参考になると考えるばかりです。
104
:
一字三礼
:2002/07/19(金) 21:08
犀角独歩さん
>絶対的な安心立命の状態の永続
成仏の精神状態を想像した表現です。
実はまだ成仏した事がないのでうまく言い表せませんが。(笑)
>「大火所焼時。我此土安穏」
これは現実の社会では、火が燃え盛る様相を呈していても、精神世界では、まったく動じないという事を、仏道修行者の安心立命の状態と考えました。
これとは無関係ですが、正確に言えば寿量品でえがかれる世界観は、妙覚というより現前地みたいですね。
>むしろ、勤行・唱題に罪障消滅を祈り・・
なるほど、こういう事ですか。
それならば、頑迷な私でも理解できます、おおいに賛同します。
105
:
いちりん
:2002/07/20(土) 10:19
「ハレ」と「ケ」というのは、おもしろいですね。
わたしは「ケ」というのは、「気」であると思います。
その「気」とは、いわば「エネルギー」。学会流にいうと「生命力」。
その「気」が、日常の生活の中で、しだいにエネルギー不足になっていく。元気を失う。
それが「けがれ」(穢れ=気枯れ)。つまり、「気」というエネルギーが枯れること。
で、新しいエネルギーを満たすために、みんなでわいわいやる。それが「祭り」。それが「ハレ」。
つまり、まつりとは、エネルギーが枯れた状態から、新しいエネルギーをわきたたせること。
そうして、元気を回復して、しかしまた、気枯れが起きて、そしてまた、祭りをやる。その繰り返し。それが、日本の神道のあり方。
で、勤行・唱題も似ていますよね。
日常の中で、疲れて、気力が弱くなって、心も荒れてきて、生活が不調和となる。
そういうときに、本来のエネルギーを導き入れる、まあ「法性之淵底玄宗之極地=仏性」から。
そして、元気になる。しかしまた、元気がなくなる。そして、また唱題する。その繰り返し。
ほんとは、みんなでワイワイやる、ワイワイと祈る、唱える、歌う、踊るというのが、いいんだと思いますが。一人では、なかなか、難しいのはありますね。
106
:
現時点
:2002/07/20(土) 12:02
絶対的な安心立命の状態の永続
絶対的な、という言葉に気になります、絶対という言葉はこわいですね
仏とは、このような状態なのでしょうか、よくわかりませんね
生命力、これは本来の仏教では使われている用語でしょうか、現代宗教の用語なのでは、特に学会の
107
:
一字三礼
:2002/07/20(土) 22:11
>仏とは、このような状態なのでしょうか、
確かによくわかりませんね。
大乗仏典全体が、それを表現しようとしているようにも思えます。
実は「安心立命」も道教でよく使われる言葉ですので、あまり適切ではありません。
108
:
現時点
:2002/07/20(土) 23:05
言語道断・心行所滅
涅槃寂静
このような表現しかできないのではとも思います
109
:
つまけん
:2002/07/27(土) 23:01
みなさん、どうも。とりあえず近況報告させていただきます。
最近、ぼくは時間がある限り顕正会発行の本を読んでいます。
妻は逆にこの頃は全く顕正会館に行かず、昨日ですが「その本、捨ててもいい?
買いすぎ」なんて言いました。ぼくは、その言葉に驚いて力が抜けました。
同時に、以前池田大作氏の本も同じ扱いを受けたことを思い出しました。
読みたいのですが、いま、池田氏の本は家にありません。
ミイラ取りのミイラになるつもりは全くないのですが。。。
どうしても、個人的なことになってしまいますね。すみません。
110
:
犀角独歩
:2002/07/27(土) 23:19
つまけんさん:
お久しぶりです。お元気ですか…。
> ぼくは時間がある限り顕正会発行の本を読んでいます
浅井さんの話とか、顕正会の本は、おそろしく稚拙で、たしかに漫画を読むみたいに面白いですね。「ああ、こんなことが本当だったら、簡単で好いよね(大笑)」という暇つぶしになりますね。
少年漫画を読んで鉄腕アトムになった気持ちの子供の心理、わかる気がします。
つまけんさん、個人的なことでいいですから、どんどん、ここで書いたほうがいいですよ。
それは、精神衛生上、絶対に必要不可欠な作業であると私はお薦めします。
111
:
あ
:2002/07/28(日) 02:49
つまけんさん、独歩さん、
顕正会の本、漫画を読むみたいに面白い、ですか。肝っ玉太くて、うらやましいなあ。
私なんか、表紙見ただけで、もうダメ。デザインや色使いが気持ち悪くて、触る気にもなれない。
オカルト苦手なんですよ。漫画でもオカルトは読めない。楳図かずお、とか、つのだじろう、もダメ。
112
:
つまけん
:2002/07/28(日) 14:35
>少年漫画を読んで鉄腕アトム
(笑)ブルース・リーの映画を初めて見たときのことを思い出しました。
自分が強くなったような気がして、帰宅後、弟に怪我をさせてしまいました。
宗教行為にも、自分が鉄腕アトムやブルース・リーになったような錯覚をしてしまう
危険性があると思います。
妻が入信させた方(1人だけですが)のグループが、すごい勢いで折伏をしています。
顕正新聞によると先月だけで14人。妻はこのことを知りませんが、本当に申し訳ない
ことです。
面識はありますが、知識がないと、その方と話も出来ませんので、せめてその方と
同等以上の知識が欲しいです。
113
:
犀角独歩
:2002/07/28(日) 18:35
つまけんさん:
ちょっと、折伏ということについて予備知識を差し上げましょうか。
1カ月で14人、折伏ができるというのは、要するに基準が甘いからです。
私が20代の時に創価学会の成果主義に嫌気がさして、石山末寺に、当時、私が尊敬していた僧侶を訪ねました。そのとき、どうしても折伏をしたい友人がいました。
「私はちゃんとした折伏をしたいのです。どうすればよいでしょうか」
「では、いま折伏をしようと思っている人と毎日、お寺の勤行にいらっしゃい。そして、1年経って、それでその人が信仰をしたいと言ったら御受戒を受けさせない」
私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。
1年後、本人の意志で御受戒を受けました。しかし、これでは折伏1人と言いません。
「家族の人は信心に同意しましたか。同意させることができたら、御本尊を下付しましょう」
そして、家族の承諾が取れて、御本尊下付、そして、この1人が次の折伏を成就したとき、ようやく、「折伏ができましたね」と言われるのです。
これが当時、石山が法華講に指導していた折伏の有様です。
はっきり申し上げますが、このような折伏は鳩の豆鉄砲じゃあるまいし、数などとても打てません。1年という長い時間、周囲で声援をかけてくれていた人も、友人がお寺に通っていることすら、忘れてしまう時間の経過があります。ただ黙々と地道に、ひたすらに勤行に通い続ける堪忍の行です。これが本来の大石寺門が言う折伏です。
顕正会でいう折伏は、先輩と一緒に勤行に参加して、ただ入会カードにサインする程度のことではないのでしょうか。
こんな簡単でインスタントの数採りゲームを私は折伏であると思わないのです。
114
:
つまけん
:2002/07/28(日) 20:45
犀角独歩さん
「折伏」について、考えさせられました。
自分(つまけん)が入会したときのことを思い出してみました。
本部役員に次ぐ地位のある女性会員が僕に言いました。「とにかく一緒にやってみましょう」
「宗教は嫌いなので勤行する気はないし会館にも行く気はないが妻のやっている宗教について
学びたいと思っている」と僕。次の瞬間、入信申込書が目の前に出てきましたので妻に書いて
もらい、現在に至ります。
妻が入信させた方にも、当時、石山が法華講に指導していた「折伏」について、折を見て
話してみます。ただし、最初は下ネタからいきましょう。(笑)
少し気が楽になりました。ありがとうございました。
115
:
現時点
:2002/07/28(日) 21:19
113について
これが本当の折伏ですね。
私も大変勉強になりました。
116
:
あ
:2002/07/29(月) 04:45
元・学会員、今・無所属の立場で言わせていただきます。
正信会会員(ここにおいでの皆さんはご存知の人だと思う)の開いているサイトで、とんでもないものを発見してしまいました。
阪神淡路大震災に関する、阿部日顕法主の発言です。
以前、2ちゃんねるで、「阪神淡路大震災は創価がニセ本尊を配った直後に起こった」と
わめいている宗門法華講員を見ました。
こういうウワサ話を宗教団体のメンバーは好むもので、私はあきれて見ておりました。
そうしたら、そのウワサ話の発信元は、阿部日顕法主その人だったということがわかりました。
これには、あきれて、言葉もありません。
「会員を100万人にしないと、北朝鮮からテポドンが飛んでくる」とわめいている、
どこぞの新興宗教と、まったく発想が同じではありませんか。
117
:
あ
:2002/07/29(月) 05:04
創価学会において過去に、ご本尊模刻事件というのがあったと聞いております。
どういう事件なのか詳細に知りませんし、興味もありません。
ただ、この時、宗門は学会を許しております。本来なら地獄堕ちの大罪であるにもかかわらず、です。
つまり大石寺の法主は、ご本尊を模刻しても地獄になぞ堕ちないことを、知っているのです。
それを知っていながら、今度は「大震災はニセ本尊が原因だ。謗法だ、罰当たりだ」と信徒を脅かしているのです。
大地震が起こるような、そんなに大変な大罪なら、宗門は金を出して全国紙の広告面を買い取って、大宣伝をすべきだったと思いますが
それをやった、という話は聞きません。
どこぞの新興宗教は「日蓮大聖人に帰依しないと日本は必ず滅ぶ」という大宣伝を全国紙でやりましたけどね。
「私たちはこういうことを信じています」という真実の姿は外部の者には見せず、
裏ではコソコソと信徒の間でウワサを流す。
こんな卑怯な宗教があるでしょうか。
118
:
あ
:2002/07/29(月) 05:12
阿部法主の発言からは、震災に遭った人たちへの同情が、感じられませんでした。
「そーれ、現証だ!」と喜んでいるようにも受け取れました。
震災に遭った人たちは、あの発言を、どう読むでしょうか。心が痛みます。
管理人様、私のレスが不適当でしたら、削除してください。
119
:
管理者
:2002/07/29(月) 07:39
116から118のレス、掲示板ルールには抵触しないと判断いたしました。
120
:
五月雨
:2002/07/29(月) 08:45
あ さん
お恥ずかしい事ながら、私もそう聞いてそうなんだと信じ、口にしていました。その頃、月刊誌“諸君!”で故・内藤国夫さんが学会問題についての連載を持たれてて、毎月読んでいました。その中で「宗門は今の関西大震災が起こったのは、ニセ本尊配布したからと言っているが何ていう言い方だ。」(趣意)と書いていました。私はそれを読んで「仕方ないじゃない、本当の事だから」と思っていました。(が、不思議とこの文章はいつまでも心に残りました。)
今になって、宗門信仰の間違いが分かり、その言葉の持つ大変な意味が分かりました。前にも書いたかも知れませんが、春頃に韓国の飛行機が墜落した時、法華講のおばぁさんが「韓国で学会が住職をいじめたから落ちたんだ」と言っていました。それを聞いて、物凄い憤りを感じました。死んだひとりの人間の遺族の気持ちを考えた事があるのかと、その数は何百人になるというのに。「なんちゅう事いうねん!!」と面と向かっては言いませんでした。ただ、おばぁさんはお寺で聞いてきただけなのでしょう。言われた事を口に出して言っただけなのでしょう。
慈悲の仏法を説く一宗の最高責任者が「バチが当たった!」と喜んでいるような姿を見せているのですから、信徒も同じ思考・行動になるのでしょうね。悲しい姿をさらけ出す彼らを哀れんでやって下さい。私も同類でした。
121
:
いちりん
:2002/07/29(月) 08:58
こういう教団って、「自分たちは正しい」という醜悪な「傲慢さ」を増幅し、
自分たち違う信仰をしている人、敵対する人たちを、「憎悪」し「軽蔑」するという心を育ててしまっているんですよね。
しかしまあ、どうして、こうなっていくのでしょうね。
わたしが思うのは、「宗教」(どんな宗教であれ)というものが、人間を駄目にしていくのかもしれないなあと思います。
その「宗教」とは、「自分たちが正しい」と主張する宗教。宗教だけではなくて、あるいは、イデオロギー、信念、主義も含めて。
この「自分が正しい」「自分たちが正しい」というエネルギーというか、魔力に取り憑かれると、駄目になっていくのかもしれない。
122
:
いちりん
:2002/07/29(月) 09:30
「宗教」という名前があっても、「思いやりの心」が育たないのは、宗教とはいえない。そうも、思いますね。
仏教では「慈悲」というのでしょうが。
やさしくいえば、あの人がつらい。それは、わたしもつらい。彼が苦しい、わたしも苦しくなる。
そういう心だと思いますね。「同苦」の心。
そういうことが教えだから、そうするというのじゃなくて、自然と、そういう心が湧いてくること。
その慈悲の心を育てるために、日々の勤行があり、唱題があるともいえるかもしれません。
で、慈悲の心が育たないような、勤行や唱題であったならば、それはオカしい。なにかが、まちがっている。人を裁き、人を軽蔑し、人を憎悪し、人の苦しみを喜ぶような心が育つようであれば、それは、まあいわば魔に憑依されているようなもの。
まあ、毎日の聖教新聞や、その日顕さんの発言を読むと、その格好のサンプルですね。
わたしは、日蓮さんのすばらしさは、いろいろありますけど、やはり「同苦の人」というように思っています。
弟子が地獄に堕ちたら、わたしもともに地獄に堕ちる。そういうお手紙がありますが、思いやりの深さにおいて、日蓮さんの心は、胸を打ちますね。
123
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 14:41
阪神淡路大震災については創価学会側も同じような論調であったと記憶しています。
また、今の顕正会の他国侵逼難妄想も同様のコンセプトではないでしょうか。
これらの人間性からの分析をするのであれば、やはり、社会心理学的な側面から見てみる必要があります。
「善いことはすべて自分たちに属し、悪いことはすべて他に属する」、換言すれば、善いことは全部、自分たちに関連して考え、悪いことはすべて他に関連して考えると言うことです。
これは以前も記しましたが、社会心理学では「連合」と言われるものです。コンピュータ用語で言う「関連づけ」に似ています。映画で言えばモンタージュという技法です。
このような“決めつけ”は強迫観念を伴うわけで、賞罰論とも結びつくわけです。そして、その接着力となるものが“妄想”でしょう。個人においてはパラノイアを形成していくのでしょう。
かつて池田さんが「東京に台風が来なくなったのは創価学会員が増えたからだ」と言って世間の失笑を買ったのは懐かしいところになりましたが、石山では「世界が平和なのは猊下が毎日、丑寅勤行で祈ってくれているからである」という形で相似形をなします。
なお、阪神淡路大震災を、石山が言う創価学会の「ニセ本尊」と関連づけた、というより、煽動したのは元創価学会大幹部・竜年光氏が『有徳王』と題した品格最低の雑誌で行ったことでした。しかし、この論調は要するに、かつての「折伏大行進」盛んなりし頃の、創価学会の論調そのままです。
実に創価学会、日蓮正宗、顕正会は同じなのであって、この憎悪、人の痛みも、宗教的価値観の違うものは人間扱いできず痛みとも思わない異常性、なんでも宗教の正邪でしか割り切れず、人権を無視し、差別を助長する日本最大の、宗教集団の心理的異常性を冷静に分析し、解消していくことは、しかし、その事実に気づくものがまず憎悪から脱却するところから始めなければいけないのだとわたしは思うのです。
124
:
アネモネ
:2002/07/29(月) 21:26
私は阪神・淡路大震災の翌月に入信したので、あのときのことはよく覚えてます。
入信して二週間ほどした頃に、はじめて青年部大会に参加しました。あのときは、初めての大会の雰囲気に正直なところ大変驚きました。
所狭しとギュウギュウに集まった人たちが、一斉に読経を始めたその早さと、ものすごい勢いにまずもって驚きました。もちろん私はとてもついていけず、お経本をただ目で追うのが精一杯でした。
次に驚いたのは奇跡のようなことを語る体験発表。ここは新興宗教だったの?と首をかしげたくなり、そして終盤になると幹部のような人が壇上に立ち、阪神・淡路大震災と学会ニセ本尊の因果を話し、「このことを折伏しようと思う人に話していって下さい」と言われました。
けど私は入信したばかりですし、ましてや地元には縁者と知人がいます、これをどう理解していいものやら。実際に被災して連日のように水汲みに出かけている未入信の家族や友人に話すわけ?‥話せるわけないなぁ、もしも話せば顰蹙もんやろうなぁと、本当に戸惑いました。
けど私とて、たいしたことは言えません、ユダヤ問題に傾倒していた当時の私は、「ユダヤが人工地震を仕掛けた」という噂のほうを半分信じかけてたんですね。これもある種のマインドコントロールだったのでしょう。似たようなもんです。
話を大会に戻しますが、最後に司会者2人が折伏『数』とその日の動員『数』を声高らかに発表して会場は大拍手。ふと壇上の横をよると、大きくその『数』が書かれた紙が貼られてました。
帰り際、お寺の青年部長に「どうでしたか?」と感想を聞かれましたが、「なんかマルチの会合みたいですね」と思わず本音を言ってしまいました。「確かにそういうところありますかね‥これは学会流が法華講に入ってしまったんです」などと言ってましたけど、当時の私にはわけわかりません。
けど、その数ヵ月後にはなんと私も『数』を書いた紙が貼られたところで、体験発表してるんですね。なんの変化も奇跡もないというのに、本当に思い出すだけでも、顔から火が出そうな思い出です。
不思議なことに、私の住んでいる県で折伏達成『数』がものすごいお寺があるのですが、実はその地域、マルチ商法をはじめとした勧誘ものでも営業成績県下トップが著しいところなんですね。なにか相関関係があるのかなぁと不思議に思いました。とにかくその地域はすごいところです。数字の桁が違います。
そういえば、ニューヨークのテロのときも学会の被害者がいたとかで、案の定「現証が出た」といった話が出てきました。その話を聞いたお寺の人が「やっぱりあんな謗法してるからよ、怖いね」と聞いたままを私に伝えてきました。でも、信徒『数』が法華講とは比べものにならないくらいあちらは多いわけですから、当然、あちらの信徒が事故に遭遇する確率は高いですよね、謗法の結果じゃなくて確率の違いじゃないかしら‥と言いましたら、けっこう納得してました。
125
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 22:14
アネモネさん:
> 「なんかマルチの会合みたいですね」
この会合初参加の“体験談”、お見事ですね。
笑えました。
御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか「これは猊下が作った歌だから正座して」とか言いながら。もう、恥ずかしい限りですよね。
私は寺報の編集長をやっていましたから、体験談なんかもまとめて、ワープロで打ったりしたんですけど、さすが気持ち悪くなるような違和感がありました。それでも今から思うと、あのころは神経が麻痺していたんだろうなと。
あるライターが、(すぐに訴えるので名前を伏せますが)KのKに忍び込んで会合に参加した、代表のORが後頭部から光り当てて後光みたいな効果を使いながら、「我はブッダなり」って言った、信者は感動して涙を流しているんですが、あんまりおかしいので吹き出してしまったというのです。そうしたら、速攻、つまみ出されたと。同じようなものだと思うわけです。
私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、もうフィナーレになると、みんな感動して涙を流しまくって「センセイー、センセイー」って池田さんに手を振る大合唱になるんですよ。もう感動のるつぼ(笑)
これは商売がうまくてビデオも売り出されるわけです。自分が参加したものだから買ったわけですが、それで折伏に使おうと思って友人に見せたんです。「あれ、これ北朝鮮のビデオ、いやだなあ、全体主義ってねえ」とか言われて、「はあ…」という感じで、「この謗法の輩が!」と怒ったりしていたわけです。会館で上映する池田さんの「世界平和旅」とかいう題だった映画を見せたときも、その時の友人は「なに、このへんなテカテカ脂ぎったしたオッサンは?」、それで私は「お前、罰が当たるぞ!」て怒鳴ったら、「なんでさ?」とぜんぜん悪びれることもなく、不思議そうな顔をしていました。…私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…
実際のところ、この指導者が、スライドして、代わっただけの感覚で、法華講の会合も運営されるわけです。これは異常と感じなければ、「やばい」ということになるでしょう。なかにいると異常なものを共有して「すばらしい」と思わせるような場の雰囲気だから、異常に「慣れてしまう」わけですね。
ところで阪神淡路大震災は学会の「ニセ本尊騒ぎ」の前、今回の宗創戦争の発端になった池田さんの「猊下軽視発言」は普賢岳噴火の前日だったんですね。これも、けっこう、喧伝に使われたものでした。ぜんぜん、被害者の苦しみなんかどこ吹く風の調子でしたね、このときも。私もこれらの煽動に乗ってきたのです、大いに反省しています。でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。
126
:
アネモネ
:2002/07/30(火) 00:40
犀角独歩さん
>御宝前で扇子振り回して、指揮を執って、みんなで合唱しませんでしたか
そう、そうなんですよ。何よりもびっくりしたのは、軍歌のような歌にあわせて一糸乱れず恍惚と躍るあの扇子踊り。思い出してしまいました。会合が始る前から、何度も何度も練習するんですね。
私はこれを忘却の彼方に封じこめてしまっていたようです。こういうの、心理学でなんとかっていうんですよね。
私は、御講や会合や法要では出来るだけ前のほうに座るクセがあるのですが、この踊りが始ると、目のやり場に困ってました。(下向いて、歌ってましたが‥)
私の隣に座っていた代々の法華講を自負する婦人部長に、「こういうのも法華講の伝統なんですか?」と聞きましたら、「みんな学会からきてるのよ」と言ってました。(これ、前にも書きましたね)
>KのKに忍び込んで会合に参加した‥
すごいらしいですね。人間って、演出に弱いですよね。正本堂の御開扉のあの感動は、今にして思うと演出効果が大きかったからかなぁと思います。それと自分の思い入れですね。
>私は若い頃、創価学会の文化祭に参加したのですが、(アネモネさんは知らないでしょうね、どんなものか)、
独歩さんが参加されてた頃より後でしょうか、日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していたとかって話を聞いてますよ。あと、北朝鮮のマスゲームみたいなのは、テレビで少しだけ観たことあります。これも一糸乱れず、ものすごいですね。
>私もかつてはこんなことをやってきたのです。恥を偲んで記せば…
私も独歩さんの体験談、大笑いしながら読ませてもらいました。(再笑)すみません。
>でも異常なものは異常、おかしいものは大笑いできる人間性は取り戻せたのですよ。
笑えてしまうと、おかしかった過去の自分も愛おしいものです。そうして自分を取り戻して、やがては、他の人の悲しみに心が合わせられるようにもなっていくのすもしれませんね。
127
:
アネモネ
:2002/07/30(火) 00:49
126)の最後の一行の訂正です
誤−なっていくのすもしれませんね。
正−なっていくのかもしれませんね。
128
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 08:10
アネモネさん:
> 扇子踊り
うまいですね、この表現(爆)
私がいた寺なんかでは、そろいの着物をあつらえて、はちまき、たすきで集団踊り。
まさに恍惚の表情…、なんであんなことするんでしょうかね。
私が連れ出した友人、あれを見た瞬間に帰ってしまいましたけど。
それは帰りますよね、その前段で連れ出すために折伏トークで「日蓮大聖人は立正安国のために…」とか「お題目を唱えると功徳がある」とか、「日蓮正宗の御本尊だけが絶対なんだ」とか話して、ようやくと連れ出したら、あの扇子踊りですよ。怒ってましたもの、私の友人。
> …「みんな学会からきてるのよ」と言ってました
扇子振って踊るのは、池田さんの十八番。指揮を執って踊るために日本舞踊をたしなまれたというお話。…まことしやかに語られた創価学会口コミの一つ。
創価学会ではあの軍歌ばりの学会歌を合唱するのに、扇子を振り回して、指揮を執るのが一人から数人。でもこれはリズムに合わせて振り回すだけなんです。ところが!、池田さんは、扇子を使って歌に合わせて踊るんですよ。すると拍手拍手の大喝采、いやこれはすごかったですよ。
まだ創価学会が自前の大きな会館ももっていなかった頃、両国の日大講堂を借りて本部幹部会をやっていました。入場券がないと入れないんですが、うちの母親は、池田さんのおっかけでしたから、子供の私の手を引いて、絶対に行くわけです。入れなければ、漏れ聞こえる池田さんの声に涙するというわけです。外に学会歌が聞こえれば、周囲の歩行者なんか何のその、手拍子打って路上で歌っちゃってました。ああ、思い出すと恥ずかしいのですが。
たまたま入れたときのことですが、会合が始まって、先ず学会歌。司会が「指揮、○○!」とがなると「はいっ!!」とか返事して、扇子をもって飛び出してくる、そこで音楽がブンチャブンチャ鳴り出して、参加者全員の手拍子で大合唱となるわけです。指揮を執るのも体験発表をやるのと同様、栄誉なことと認識されていましたね。
池田さんは、こういうの大好きですから、式次第なんか無視して、「おい、○○、お前、指揮執れ」と壇上の大幹部に促して、また学会歌。扇子を振り回すわけです。
何度かそんなことを繰り返したあとに、いよいよ真打ち登場よろしく池田さんが立ち上がる。もう拍車拍手の大喝采。そこで踊るんですよ、壇上狭しとね。うちの母親なんかは興奮して「池田先生、素敵だねえ」と言いながらうっとりしている。私は子供心に「へーんなの」とか思っていましたが(笑)
ただ、法華講のほうでは達師が、こんなことが好きだったということになっていますね。…悪趣味ですよね。
> 日顕猊下と池田大作氏が、仲良く並んで観覧していた…
そう、それに私は参加していたんですよ。
これには後日談があって。終わったあとの参加者指導会で、幹部が「みんな、『先生、先生』って手を振っていたら、日顕上人、自分に手を振っていると思って気をよくしてましたよ」と、それでどっと大笑い。つまり時の猊下を物笑いにしていたわけです。まあ、悪意はなかったようだけれど、軽んじる風潮であったわけでしょうね。
こんな場面がありましたね。
なんだか、扇子踊りと文化祭をネタに揶揄しているような文章になってしまいましたが、あまり表に出ない秘話を披露して、集団心理になせる業を考えたと言うことで、まあ、この書き込みは管理人さんには勘弁していただければ、有り難く思います。
129
:
五月雨
:2002/07/30(火) 17:27
アネモネさん
阪神大震災の地元に親戚縁者・知人がおられたら、尚のこと戸惑いも大きかっただろうなと思います。私も関西圏に住んでいて、今まで経験した事のないあの揺れはいつまでも覚えています。(その時はうろたえるだけで布団かぶって震えていました。)
テレビを見たら、見覚えのある阪神高速が倒れていて、その上神戸の町が大火に包まれていてボー然です。神戸から100キロ離れていてもショックは大きかったのに、被災者の方の辛さを思うと「罰でこうなった」なんて言えるはずも無いですよね。きっと遠く離れた場所に暮らしているからそんな話になったのでしょう。こちらでは、罰の現証という話はあっても神戸方面の人にそういいなさいとはなりませんでした。被災者の為に何か役に立つものを送ろうと、講でもまた町全体でもそんな気持ちで物を集めたり、義援金を出し合ったものです。
自分が絶対正しいという思想は、残酷な発想をするのですね。
会合がマルチっぽいってお話ですが、私は、逆にマルチの会合に行って学会の会合と一緒だと思いました。あの盛り上げ方、拍手の仕方、そして真打登場で場内は最高の盛り上がり。ちょっと行ってみてと言った法華講のおばーさんに、「何や、学会の会合と一緒やん」と言ったら怒られました。それから後の法華講の会合は段々学会化してしまい既に登場の金銀の扇子踊りに手拍子に、今は「何や、法華講の会合と一緒やん」と訂正しなくてはなりません。
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