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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

2180ラキ:2005/04/13(水) 10:22:49
おはようございます。^^
少し気になり覗きに来たら、レスが付いていて感激です。
(気になると考え込んでしまい、もやもや〜て残ってしまうので、今日は朝からスッキリした気分で
過す事が出来ます。^^)

愚鈍凡夫さん。
御書指南されてる箇所まで調べて載せていただき、ありがとうございます。
一つ驚いたのですが、御書にも「偽書」が存在したなんて!
御書全集として出版されている書籍には、全部検証して間違いがないように、
編纂されている物と、勝手に思い込んでいました。
偽書。また信憑性が薄い物には、掲載されてないか、注意書きで指摘されていると、
これも、勝手に思い込んでました。(^^;
私の周りには、色々な日蓮聖人の信徒団体の方がいまして、偽書があることも一言も聞いたことがありませんでした。
(現学会に対しては、信用度は0です。学会員の方がいましたら、申し訳ございません。理由としては、言う事とする事の矛盾が納得できません。
とても身近な知り合いの方は、そのような矛盾した行為がないので、個人的には信用しておりますが、近所に住む学会の方は、矛盾だらけ。選挙。新聞勧誘等の時は一生懸命なのですが、
こちらの、疑問。質問に対しては、明確な答えが返ってこないばかりか、後日回答いたしますと言い、音信が途絶えて黙殺!これが宗教をしている方の態度、行動なのかとあきれてしまっております。
自覚ある行動。誠意ある行動が、その人の言ってる事の信憑性をますと、私は思っております。
あぁ〜また話が脱線してしまいました。(^^;)

御書購入を考えておりますが、お勧めというか、一番忠実に編纂されている御書などありましたら、
教えていただけないでしょうか?

2181愚鈍凡夫:2005/04/13(水) 11:00:59

ラキさん、どうもです。
とりあえず、ダウンロード版の御書を読んでから、書籍を購入を考えられたらどうでしょうか。下記のHPから無償でダウンロードできますので、それぞれ閲覧されることをお奨めします。それと、御書購入の際には犀角独歩さんに御相談されれば後悔はないと思います。

御書システム
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/

文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm

日蓮大聖人御書全集目次
http://nakanihon.net/nb/gosyo/20.html

満月城 岡山
http://jmw.jp/kuga/

仏教経典と論書
http://www.kosaiji.org/download/hokke/index.htm

下記は、真蹟遺文の一覧表です。

日蓮聖人真蹟遺文
http://www.sattva.jp/data/g-list2.html

2182犀角独歩:2005/04/13(水) 11:09:51

うん? 愚鈍凡夫さん。

やや、難はありますが、サイトならば、わたしは以下を使っています。

日蓮宗 現代宗教研究所 文献資料 真跡遺文
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

2183パンナコッタ:2005/04/13(水) 13:54:13

あれっ、変なこと書いちゃいました?

108念珠の小玉四つは四天王とか四菩薩、大玉二つは日月・釈迦・多寶
なんて言っていますが、これも後世のものでしょう。
珠の大きさによって尺(一般男性向け)、尺二、八寸(女性向け)など通称されて
います。
文殊儀軌経には最勝1008,上品108,中品54,下品27とあります。
ちなみに水晶玉で、数珠を揉む方はよく糸がぶち切れますね。(^o^)

2184顕正居士:2005/04/13(水) 15:28:55
梵本の種類
http://www.kosaiji.org/hokke/myohokke.htm
三訳の相違
http://www.kosaiji.org/hokke/translation.htm

「添品妙法蓮華經序」がいうように、什訳は(より古形の)亀茲語訳からの重訳であり、だから構成に
差異があるのでしょう。什訳はネパール本と文章はほぼ対応します。護訳は見た目は什訳とかなり
違いますが、翻訳の相違でしょう。

2185パンナコッタ:2005/04/13(水) 15:44:17
 
なるほど。顕正居士さん、ありがとうございます。

2186一字三礼:2005/04/13(水) 18:45:47

> 2161

法華経の成立は、紀元前50年から紀元後150年の間とされています。
この法華経一部二十七品の内容全体には一貫性はなく、各品によっても成立年代が違います(例えば、九分経であったり、十二部経であったり)一時期に一箇所で全体が成立したものとはとても考えられません。
例えば、序品から法師品までの一乗の教えを主張する集団と、観音品で超人的菩薩の神力による加護を奉ずる集団とは別系統の信仰集団でしょう。
法華経成立は、これら信仰系統を別にする集団によって奉じられてきた幾つもの教えが、霊山会という舞台を軸としてまとめられたと考えます。
これらの理由から、私は法華経の創作者達という表現に違和感を感じます。

内容についても法華経前半部で主張される一乗思想は、辺境の小規模集団の発想というよりは、都市部のグローバルな考え方ではないでしょうか。

法華経成立当時の仏教界の様相は、上座部と大衆部で激しい論争を繰り返しており、この2者に対して新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期でしょう。
この最中に”実は総ての教説は一乗のためだった”と宣言したのです。その意図は、根本分裂以来、分派と分裂を繰り返す仏教界に対して、大局から見た統一を試みたものと考えられます。

ところが実際に仏教諸派にその主張を納得させる作業は、困難を極めたであろう事は想像に難くありません。
例えば、十二因縁説のように一因に一果を固定的に当てはめる教説と、般若空観を主張する大乗中観派は相容れません。互いに矛盾した教説を抱えていてもそれを是としているのが二乗作仏の特徴でしょう。
仏教の教説は、歴史的には段階的に整足され(例えば、最初期には六正道だったものが八正道に、九因縁が十二因縁に等々)また、バラモン数理派等との論争を経て完成されてきた教説であるのに、法華経はそれを総てOK牧場!と言い切ってしまった。

法華経の説く布教に伴なう忍耐とは、他宗派のみならず、頭の固い同じ仏教圏からも受け入れられないであろう事を想定して強調されたのではないでしょうか。


大乗の菩薩について

アジャンターやエローラ等で見られる豪華な服飾品を付けた菩薩像は、大乗教団への出資者・パトロンではないでしょうか。インドで武士階級に続いて実力をつけたのはシルクロードで商隊貿易によって利を得た大商人達でした。その商人達の財力によって石窟寺院等が建立され、その出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像として刻まれたのでしょう。
例えば、観音品の

「金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めんがために大海に入らんに、仮使、黒風その船舫を吹きて羅刹鬼の国に漂わしめんに、その中に若し乃至一人ありて、観世音菩薩の名を称えば、この諸の人等は皆、羅刹の難を解脱することを得ん。」

「若し、三千大千国土に、中に満つる怨賊あらんに、一の商主有りて、諸の商人を将いて重宝をもたらして険しき路を経過せば、その中に一人、この唱言を作さん『諸の善男子よ、恐怖するを得ること勿れ。汝等よ、応当に一心に観世音菩薩の名号を称うべし。この菩薩は能く無畏を以って衆生に施したもう。汝等よ、若し名を称うれば、この怨賊より当に解脱することを得べし』と。」

この観音信仰は、商隊貿易を行うパトロン達の安全の願いに答えるかたちで成立したのではないでしょうか。


慈善事業について

仏教では、生・老・病・死等の人に必ず訪れることがらを一括して”苦”と認識します。それを四諦の順に観察して解脱することを目指します。

医師や薬、施設等によって病を癒しても、また別の病が襲ってくるであろうし、治療方法の無い病気もあるでしょう。そうこうしている内に今度は老いが迫ってきます。リハビリや食事、健康管理を徹底したところで人は必ず死ぬ。その為に仏教では一切の執着を捨てて(諦めて)四苦八苦から解脱する方法を提示するのでしょう。

仏教の教えは言わば「根治療法」です。それに対して慈善事業というのは「対処療法」と言えるのでしょうか。

一切の苦しみからの解脱を主張する仏教で、慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。

慈善活動を最前面に立てるとすれば、それは仏教が本来の面目を完全に失った時ではないでしょうか。

2187顕正居士:2005/04/13(水) 20:58:10
そもそも大乗教団というものがインドには存在しなかったとわたしは考えます。
最近『インドの僧院生活』という本が出版されました(内容は未読です)が、
http://www.shunjusha.co.jp/book/11/11202.html

別に「ショッキングな学説」ではありません。7世紀に入竺した義浄は『南海寄帰内法伝』に
こう述べています。

其四部之中。大乘小乘區分不定。北天南海之郡。純是小乘。神州赤縣之郷。
意存大教。自餘諸處大小雜行。考其致也。則律撿不殊。齊制五篇通修四諦。
若禮菩薩讀大乘經。名之為大。不行斯事號之為小。

其れ四部の中に、大乘と小乘と區分定まらず。北天南海の郡は純(もは)ら是れ小乘、
神州赤縣の郷は、意(こころ)大教に存す。自餘の諸處には大小雜り行はる。其の致れるを
考ふるに。則ち律撿殊ならず、齊しく五篇を制し通じて四諦を修す。若し菩薩を禮し
大乘經を讀まば、名づけて之を大と為し、斯の事行はれずんば之を號して小と為すのみ。

*四部 大衆部、上座部、説一切有部、正量部をいう
*神州赤縣 中国のこと
http://www.cbeta.org/result/normal/T54/2125_001.htm

勝呂信静師も『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社、1965年)にこの文章を引いて
漢訳仏教に伝統的な誤解を指摘していました。

2188一字三礼:2005/04/13(水) 21:33:13

顕正居士さん

”特定の経典を奉ずる特定の僧団”なるものはインドでは存在しなかったということでしょうか。
また、龍樹にしても世親にしても、まあ偽書も多数ありますが、著作の注釈書が多岐に亘っているのはその為でしょうか。

しかし、そうなると大乗経典の初期の伝承経路や経典成立時の編纂過程がまったく推測出来なくなってしまいます。

伝教大師以前の日本仏教の黎明期の東大寺での六宗兼学のかたちの方が、インド仏教精神に近いのかもしれませんね。

2189犀角独歩:2005/04/13(水) 23:39:38

2186 一字三礼さん:

ご丁重なレス、有り難うございます。

まず、全体の感想を率直に申し上げると、法華経成立を論じているのに、漢訳に引っ張られていると思った次第です。法華経の成立、これはあくまで梵本、インド地域での話ですよね。

> 序品から法師品までの一乗の教え

法華一乗思想は、たしか坂本師も指摘していたと思いますが、羅什の意訳であり、原本にはこのように誇張されたものがないというのが法華研究一般で言われることではないでしょうか。

> …超人的菩薩の神力

これが先とは別の成立であるというのは別段、異論はありません。
「西アジアにおける母神ナナイア」が原形であるといわれますね。

> 法華経成立…信仰系統を別にする集団…幾つもの教え…霊山会という舞台を軸としてまとめられたと考えます…法華経の創作者達…表現に違和感

ここで仰ることはわたしにはよくわかりません。「複数の信仰系統で」というのは、そうであると思いますが、そこで行われたのも「創作」ではないのでしょうか。
また、法華経は他の経典と特に異なっているのは、経典文中に「法華経典」を意味する語意が含まれていることですね。仮に複数の創作者によってされたとしても、経典名を文中に織り込むという一貫性がどこで生じたのか重要な問題であろうと思います。また「霊山会という舞台を軸としてまとめられ」ていくことも、元の原形をもってしたとすれば、これまた創作のうちではないでしょうか。
27章と言われる法華経は、実際は30章以上あったことも知られていますね。
複数の集団でそれぞれ創作されたとして、それを「創作者達」というのが、何が問題なのでしょうか。

> 一乗思想…辺境の小規模集団…都市部のグローバルな考え方

わたしはどこかに「辺境の」と記しましたでしょうか?
仮に都市部にあっても、その集団が小さければ小規模集団ということになりませんか?

> 法華経成立当時の仏教界の様相…上座部と大衆部で激しい論争

たとえば具体的に、どのようなことでしょうか。

> 新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期

いつ頃、どこででしょうか。

> ”実は総ての教説は一乗のためだった”

これは漢訳的な発想ではないでしょうか。
こんな宣言をインド文献の、どのようなものに見いだせるのでしょうか。什の漢訳「無二亦無三」的なドグマは、梵本には見られません。

> 統一を試みた

「統一妙法」という漢訳的な発想に引っ張られていませんか
どのような史実があるのでしょうか。

> 法華経の説く布教に伴なう忍耐とは、他宗派

宗派という発想は、空海以降に属するのではないでしょうか。
インドで、こんな意識があったのでしょうか。

2190犀角独歩:2005/04/13(水) 23:40:24

―2189からつづく―

> 出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像

これもまったく聞いたことのないことです。
では、仮にその菩薩像として刻まれたのがただのパトロンであるとしたら、では、実際の菩薩とはどのような人々を指すのでしょうか。
なお「出資者」ということですが、これはまさに布施(布き施す)という六波羅密の一つではないでしょうか。

> …観音信仰

先にも記しましたが、観音はナナイヤが仏教に習合し、菩薩という性質を与えられたものであると思います。独自に生み出されたものではないのではないでしょうか。

> 医師や薬…四苦八苦から解脱する方法を提示

それは初期シャキャムニ教団ではそうであったでしょうが、ここで論じているのは菩薩思想以降の仏教ですね。
薬王菩薩、薬王如来、薬師如来と言った仏菩薩は、法を薬に喩えた名前であるというわけでしょうか。実際のところ、薬草その他は当時の教団が民衆をとらえる大きな装置であったのではないでしょうか。殊に向精神作用のある薬物と仏教の関係は取り沙汰されています。

> 仏教の教えは言わば「根治療法」

インドにおける仏教教団がまったく医薬を使わなかったとすれば、そのように言えるでしょうが、実際は使われていたでしょう。

> 慈善事業というのは「対処療法」

この考えはわたしは違うと思います。
たとえば、阿育大王は単に仏教の流布に貢献したのではなく、それに伴い多くの慈善事業をしたからこそ、仏教と共にその名声をいまに伝えるのではないでしょうか。この事情は、「日蓮」という特例、また、座禅三昧で民衆に交わらず大乗と言って憚らない特例を除けば、先に問答さんが引用された行基の如く、不離一体の関係にあったというのが史実であるとわたしは観察します。

> 一切の苦しみからの解脱を主張する仏教

解脱を主張するのは、何も仏教に限りません。この言葉はシャキャムニ在世当時のシュリマーナ一般に使用されていた言葉でした。

> 慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。

このような一字三礼のお考えは否定しませんが、ここで問題にされているのは、菩薩といわれた人々が、では、慈善活動(布施)をしなかったのかどうかという点です。
繰り返しますが、六波羅密の第一は布施であり、布施とは坊さんがお金をもらうことではなく、菩薩が衆生に布き施すことが原義です。この原義から、菩薩の重要な活動であったことが知られると申し上げているわけです。
それは副次的ではなく、菩薩がなすべき行の一つに数えられてきたということです。

> 慈善活動を最前面に立てる

誤解があるようですが、どこに最前面に立てるべきと言うのは、今日的な課題です。
わたしが記したことは、経典流布に主体が置かれてm慈善活動(布施)が等閑にしては、本来の菩薩精神から後退したことになるという意味です。

> 仏教が本来の面目を完全に失った時

わたしはまったくそうは思いません。法華経を信じれば病気も治る、貧苦からも救われる的な信仰勧誘より、いま病に苦しんでいる人に薬を与え、手を差し伸べ、飢えて死にかけている者に食を与え、凍え死ぬ者に衣与えることが先決です。病気で死にかけている人、飢え死にかけて人、凍え死にかけている人の、それらの一切の苦しみから、どうやって解脱ができるのでしょうか。解脱とは死んで苦しみを感じなくなることですか?
布施が第一に来る所以はそこにあるのではないでしょうか。禅定に臨むに足りる最低限の状態を約束せずして、解脱は有り得ません。

どうも、2186に記されることは、わたしはすんなりと納得できません。

2191顕正居士:2005/04/14(木) 02:27:38
一字三礼さん。

>”特定の経典を奉ずる特定の僧団”なるものはインドでは存在しなかったということでしょうか。

インドの仏教は釈尊滅後約100年に上座部と大衆部に根本分裂し、以後枝末分裂.を繰り返し、
約20部になった。部派はそれぞれに経、律、論の三蔵を伝え、「南伝大蔵経」はその一つです。
教団とか僧団をいうなら、三蔵の中の律が問題です。律は僧団生活の規定ですから一寺院に
幾種類も行われないはずですから。しかし義浄は主要な四部の律にも大差はないと述べます。
ですからインド仏教の部派は別個の教団とか僧団というものとは別の存在であったと考えます。

大乗経典を所依とする学派は中国で発生しましたが、これも教団とか僧団とかとは違います。
律は一緒ですから(南山律)。おっしゃるように日本でも南都の六宗はどれを専門に研究するか
という、単科大学みたいなものでしょう。対して比叡山は総合大学のようなものですが、最澄が
タテマエでは律を捨てたので、サンガの「互換性」がなくなりました。

>経典成立時の編纂過程がまったく推測出来なくなってしまいます。

これまでの大乗仏教成立史には経典の内容から想像をたくましくするだけで実証が伴わないの
があったとおもいます。教団というのは日本仏教やプロテスタントみたいに無数の宗派に分れて
いるとは限りません。カトリックみたいのもあります。
大乗経の「編纂過程」は全く闇につつまれています。しかし先に分派教団があって、自分に都合
のよい「偽書」を作ったのではないとはいえるでしょう。大乗経は史実とは無関係なことは一見
してわかりますから。

2192ラキ:2005/04/14(木) 03:34:36
皆様。おはようございます。
早起き〜とは言わないでくださいませ。
少し疲れて、早寝をしましたら、不思議な夢を見て目が覚め、PCの電源をいれたしだいです。
どうしてもHPを見たい気持ちの表れなのでしょうか?不思議な夢でした。

話がずれましたか、また、たくさんのリンク紹介とか、アドバイスを頂、
なんと、お礼申し上げていいのか、本当にありがとうございます。
愚鈍凡夫さんのアドバイスを参考にリンク先をお気に入り保存しましたので、
時間を作り、少しずつ読んで行きたいと思います。
たまたま、本屋さんを覗いたら、学会の御書だけおいてありました。
御書購入の際には犀角独歩さんに御相談させていただきます。
その折は、アドバイスをお願い致します。

お数珠の事で気になっていたので、知り合いに連絡を取り聞いたのですが、
お数珠は人の体を現しており、房が三つの方が手と頭で三つ。房が二つの方が足を意味してるとのことでした。
学会員の方の言葉なので、信憑性は?・・・とこちらで、ご質問させていただき、学会の捏造?か、本当の事か皆様のお声を聴きたく思い質問させていただきます。
もう一つ疑問点があるのですが、お数珠の持ち方で、右3房。左2房と教えて頂いたのですが、
お数珠を手に掛けるとき「反ひねりするのは何故?」と聞いても判らないといわれました。
意味もなく半ひねりをして、持つことはないのでは?と思ってるしだいです。
あ!もう一つあるのですが、お数珠を揉む動作なのですが、魔を切る動作と聞いたのですが(やはり学会の方です)
それって、本当の事なのでしょうか?・・・
私個人的には、たくさんの学会員が廻りにいまして(新聞・選挙の時だけの訪問とか連絡には、うんざりの状態です)私の疑問に答えてくれる方もいましたが、
大抵は、後日回答しますといい、音信がなくなるのがいつものパターンです。
だから、人間不信(学会員不信)に一時陥りましたが、ここで皆様のご親切なお答えを聞き、
学会1番。他2番的な発想ではなく、求める物には比較検討をして判断をできる環境。
われ1番との醜い発想ではなく、純粋に勉強したい人の為に優しいご指導。
アドバイス。ここのHPにいると、私の個人的思いですが、これが人を思いやる仏法の姿ではないかと、
思ってるしだいです。
他の宗教。宗派は別ですので。(^^;
つたない私ですが、これからもご指導。アドバイスを末永くお願い致します。m(__)m

2193愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 05:16:30

ラキさん、おはようございます。
小生はここの掲示板の「いろもの」ですから、あまり役には立ちませんが、ここの掲示板には豊富な知識を持った方々が沢山いらっしゃいますから、過去ログを読んで分からないことがあったら、質問されればいいと思いますよ。

数珠は元々ヒンドゥー教の法具で、ジャパマーラー(japamala)と呼ばれていたそうです。ジャパとは神を心に描き、その名を呼ぶことで、マーラーとは、輪を意味します。従って、「ジャパマーラー」とは「念誦の輪」という意味になります。
ところが、ローマ人がこの不思議な輪の名の「ジャパ」を「ジャパー」と聞き間違えてしまったそうです。ジャパーとはサンスクリット語で「バラ」を意味する言葉で、ローマ人は「バラの輪」と解釈してしまいました。それから、ラテン語でロザリウム、ポルトガル語でロザリオ、英語でローザリーと呼ばれるようになったそうです。
日本キリスト教ではロザリオのことを「コンタス」または「コンタツ」と呼ぶこともあるそうですが、これは、日本に来たポルトガル宣教師が、ロザリオを「計算する(contas)道具」と説明したことに由来するそうです(数珠同様、本来祈りの数を数えるカウンターの役割をします)。
以上のことから、「ジャパマーラー」も「数珠」も「ロザリオ」も起源は同じと言うことになります。

参考資料

数珠(念珠)講座
http://www.miyagawa.com/syuha/5101.html

お数珠の持ち方
http://www2.117.ne.jp/~daishoji/q&a2.html

念珠とは
http://www.juzz.net/nenju_towa.html

2194愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 06:29:30

法華経教団(教派?)は、阿羅漢と辟支仏といったいわば二乗対菩薩の対立を乗り越え、三乗即一乗を提示することで、新たな仏教運動を促そうとしたのではないかと思いますが、当時の仏教界(大乗教)には受け入れられなかったようですね。経中に迫害について多くを語っていることからして、異端的扱いを受けていたのでしょうが、このことは、仏教各派の対立が激しかったことを意味するのだと思います。
法華経も菩薩の行法を説くわけですが、見方によっては釈迦牟尼仏に「信」を戻そうとした、いわゆる先祖返りの大乗教とも言えるのではないでしょうか。この辺に法華経の特徴があるように思います。ただ、法華経を編纂したグループは、実在の釈迦牟尼仏を知るわけもなく、偶像化された超人的な釈迦牟尼仏を信奉しているようですが。

鳩摩羅什訳の「法華経」で面白いと思うのは、天台大師の流れを汲む天台系仏教の理論が、鳩摩羅什が編み出した「十如是」によって基礎が固められていることからして、天台系仏教の教祖は鳩摩羅什であると言えそうに思うのですが、鳩摩羅什にしてみれば、してやったりってところでしょうか。
ところで、鳩摩羅什について不思議に思うことがあるのですが、

「為諸菩薩説大乘經。名無量義。教菩薩法。佛所護念。(諸の菩薩の為に大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。)」(妙法蓮華経序品第一)

「是時日月燈明佛。從三昧起。因妙光菩薩。説大乘經。名妙法蓮華。教菩薩法。佛所護念。(是の時に日月燈明仏、三昧より起って、妙光菩薩に因せて大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもう。)」(妙法蓮華経序品第一)

普通に考えれば、上の文は「無量義経」、下の文は「妙法蓮華経」を指しているように思えるのですが、現実には、「無量義経」と鳩摩羅什とは何の関係もありません。もし、鳩摩羅什が「大乗経の無量義」の意味を問われたとき、なんと答えるつもりだったのでしょうか。

2195犀角独歩:2005/04/14(木) 08:35:52

愚鈍凡夫さん開三顕一を「二乗対菩薩の対立を乗り越え、三乗即一乗」というのは、なかなか優れた解説ですね。まあ、しかし、仏教なんだから、中心は仏、当たり前の話ですが。それなのに、敢えてそんなことはさもたいそうに主張したか…、そこら辺に当時の宗教事情が垣間見える気がします。

法華経はお釈迦さんの在世を描いたという前提ですね。声聞はお釈迦さんの声を聞ける弟子、縁覚はその起源が明確ではないですが、文字面から類推すれば釈尊教団とは関係なくそれなりの覚りを得た人々。前者は広くは四衆なのか、それとも直弟子に限るのか、よくわかりません。それに対して、菩薩ということなんでしょうが、これは実は変ですね。
何故ならば、元々菩薩はお釈迦さんの成道以前修行の姿を指す言葉であったからです。その性格からすれば縁覚と違わないように見えます。では二乗と菩薩の相違は何かと言えば、目指すところの相違ですね。先にわたしは「解脱」という言葉を広い意味で使いましたが、これはあまり正確ではない。解脱は菩薩が目指す者ではなく二乗の目標でした。仏の目標は有余涅槃から無余涅槃で、では、解脱と涅槃、どこが違うのかと言い出すと長い議論になることでしょう。前者は化身滅智で完全に消滅してしまうことを目的にしますが、後者の仏は涅槃してもなお、衆生済度を目的とし続ける差があるのでしょう。
では、菩薩はとなると、この特徴を端的に現す表現は「自未度先度他」ということですね。仏の目標である涅槃に衆生を先に達成させ続けるために、自分はその前段階で衆生と関わり続けるということですね。これは涅槃してしまう仏とも解脱してしまう二乗ともまるで違います。その意味で法華経で説くとされてきた3対1は、むしろ、声聞・縁覚(解脱組)、仏(涅槃組)対菩薩の関係と見えますが、これじゃ、まあ、仏教にならないので、すべては仏様と言うところで束ねましたという話の展開のように思えます。

先に「教菩薩法」という言葉が出てきましたが、このような菩薩の在り方を教える法が妙法蓮華経だぞということのわけです。そんな意味ではわたしは「無二亦無三」という什のドグマは全然違うだろうと思うわけです。法華経典崇拝と菩薩道が二大特徴で、その菩薩の勧めのために、五百塵点成道の釈尊自身の菩薩道を言い、その結果、こんなに長い寿命を得られた、菩薩道をする長寿を得られるということを説くのが法華経ですね。

そんな観点からすると、九如から一心三観、三千不可思議境、一念三千という一連の教学解釈は、法華原典のコンセプトとはまるで別物と思えます。この歴史的推移の裏舞台では三身説が喧しいわけでしょうね。要は、そんなことを言うために、法華経を活用しただけであろうと思えるわけです。しかし、天台と言えば、法華というのは、日本天台宗的な解釈であって、それを鵜呑みにしがちです。しかし、わたしはちゃんと読んでいませんが、天台は法華研究はむしろ一部分的なもので華厳でしたか、そっちの法がむしろ専門的で、著述その他も多いということをどこかで読んだ記憶があります。まあ、そうは言っても四教、五時ということは言ったんでしょうが。

それに関連しますが、法華・涅槃という取りまとめ、当時の中国では涅槃経がもっとも人気があったわけで、それと法華経をくっつけた効果は作戦としてうまかったと思えます。しかし、この二つの経典、説くところがまったく違うわけですから、いまの日蓮論争にまでそのツケが付いて廻っていると思えます。これは本尊抄と総勘文抄が整合性が採れないのと同じくらい違うわけですね。

ついでに、だらだらと書けば、愚鈍凡夫さんのご投稿を読んで「ああ、そうだったっけ」と思ったのは無量義経のほうがあとから訳されたという点でした。法華と涅槃を括ったのも、変なことになるなりはじめのわけですが、無量義経を開経、結経を仏説観普賢菩薩行法経とするというのも、実に作為的なことであると思います。釈尊の一生という流れから言って、結経といえば、わたしは涅槃経を置いてないであろうと思うわけです。それを法華経と言うとき無量義経、法華経、普賢経をひとまとめにして法華、さらにその法華と涅槃を五時で一つに置くという構造は、まあ、手の込んだ作為であると思います。

2196犀角独歩:2005/04/14(木) 10:08:50

> 2193

愚鈍凡夫さんが数珠のことを書かれていたのでブログに紹介させていただきついで、ちょっと、書いてみました。
こちらの話題には馴染まないので、ブログにしました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18893608.html

2197犀角独歩:2005/04/14(木) 10:17:24

> 2195

自己レスです。解脱と涅槃の使い分け、これまた、あまり適切でないかも知れませんね。
うーん。

2198愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 11:29:07

犀角独歩さん、ご教示ありがとうございました。

法華玄義に次のようにありますが、
「今佛靈山八年説法。」(妙法蓮華經玄義卷第七上)
この8年は、無量義経の下記の文を根拠とするのでしょうが、

「以佛眼觀一切諸法不可宣説。所以者何。以諸衆生性欲不同。性欲不同種種説法。種種説法以方便力。四十餘年未曾顯實。是故衆生得道差別。不得疾成無上菩提。(仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。)」(無量義經説法品第二)

後から成立した無量義経が法華経を説いた時期を決め、その無量義経が法華経よりも先に説かれたとするのも何か変ですね。

ふと、法華経と涅槃経について思ったのですが、

「於佛滅度後。恐怖惡世中。我等當廣説。有諸無知人。惡口罵詈等。及加刀杖者。我等皆當忍。(仏の滅度の後、恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし。諸の無智の人、悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者あらん。我等皆当に忍ぶべし。)」(妙法蓮華經勸持品第十三)

「善男子。護持正法者。不受五戒不修威儀。應持刀劍弓箭鉾槊。守護持戒清淨比丘。(善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、応に刀剣・弓箭・鉾槊を持ち、持戒清浄の比丘を守護すべし)」(大般涅槃經卷第三金剛身品第二)

この全く正反対のギャップが面白いですね。かたや不屈の忍耐を説き、かたや自衛のための威嚇を正当化しています。

2199犀角独歩:2005/04/14(木) 11:46:50

愚鈍凡夫さん、どうもです。

「ご教示」なんてたいそうなものじゃありません。
資料手放しのつぶやきみたいなものです。恐縮です。

しかし、そうですね。法華経が晩年8年の説法であるという根拠は、『無量義経』、「ああ、そうか、そうだった」と今さらです。抜けた気分でいても、昔、学んだ石山・学会からの影響、抜けないものだとやや自嘲。

法華・涅槃の二律背反。両立しないのに両立させようとすると、「壊れます」よね。まあ、蓮師を悪く言うわけではありませんが「念仏者の首を刎ねろ」と言いながら不軽のあとを承継…、そんな馬鹿なと思うわけですが、「ご本仏様に間違いがあるはずがない。そんなことを言ったら罰が当たる。矛盾していると思うのは自分に信心がないからだ」なんてやっていると、本当に「壊れます」。

悲しい日蓮門下の現実です。

2200顕正居士:2005/04/14(木) 17:28:43
法華経と涅槃経の対立

から「折伏」は全くちがう二つの意味をもちます。一つは不軽折伏。一つは威力折伏です。
威力折伏というのは仏教の道徳を説いても導けない、要するに犯罪者を国王、官憲など
の在家信者が逮捕処罰することをいうようです。そしてそれも菩薩行だよという。このこと
はもっともですが、涅槃経の威力折伏はちょっとちがう。宗教が入ってきます。けれども
有徳王のエピソードは覚徳比丘が殺害されようとしたのを護ったのであり、王なのだから
正当な権力の行使であり、義務の履行といえましょう。問題は仙予国王のエピソードです。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/751/632.htm

婆羅門、すなわちインド教の司祭は殺害するほど功徳になる。慈悲の心を以って殺すの
なら、罪どころか功徳である。大乗の涅槃経にははっきりと「ポア」の思想があるわけです。
日顕上人の講義はごまかしをせず整然としております。とにかく少なくとも涅槃経にはそれ
があることを先ず認めないとはじまらないですから。秋元御書とかを考える上で。

2201一字三礼:2005/04/14(木) 17:55:38

犀角独歩さん

私の拙い投稿に重要なご指摘ありがとうございます。

> 法華一乗思想は、たしか坂本師も指摘していたと思いますが、羅什の意訳であり、原本にはこのように誇張されたものがないというのが法華研究一般で言われることではないでしょうか。

ここで原本と仰られているのはどのようなテキストの事でしょうか。

> 「霊山会という舞台を軸としてまとめられ」ていくことも、元の原形をもってしたとすれば、これまた創作のうちではないでしょうか。

仰る意味は理解できます。しかし、この段階であれば「編集・編纂」の範囲ではないかと思えるのです。

少し離れるかもしれませんが、「マハーバーラタ」(聖仙ヴィヤーサ作)という叙事詩があります。この物語も経典同様、口誦・口伝をもとに完成されたものです。
「マハーバーラタ」の成立は紀元後400年頃と推定されておりますが、その原型はそれを遡る事は確実とされています。主筋はバラタ族を取り巻く大戦争ですが、この実際にあった大戦争が起こったのは仏教の興隆はるか以前の事です。また、この主筋の約4倍にあたる量の様々な説話が挿入されているのですが、その原型はヴェーダ聖典からであったり、遠くギリシアの英雄伝説からの転用等です。ヴェーダを基にした説話でも、時代が下るにつれて序々に書き換えられ、原典で有力であったインドラやマハープラジャパティに替わりヴィシュヌやルドラ(シバァ)が台頭してきます。このような伝承形式の物語に創作者を想定することは出来ないでしょう。

仏典も口誦を伝承の方法としてきました。伝承が古形を残していると考えられる経典形式は、古い順に

① 詩(偈)のみで構成されているもの(口誦された内容になんら加えられていない形)

② 詩(偈)と散文(長行)で構成されているもの(口誦を説明する為の文章が加わったもの)

③ 散文(長行)のみで構成されているもの(口誦は失われ、通常の文章だけで構成されたもの)

①の形式は根本経典でよく見られるものです。法華経は主に②の形式で、その偈文は長行と内容を同じくすると重偈(通常の偈文と長行より古形とされる)です。

「マハーバーラタ」の場合と同様に、法華経も口誦・口伝の間に幾つもの話が加えられ、幾つもの話が失われたのではないでしょうか。

このようにして出来上がったであろう法華経に、創作者を想定すること違和感を持ちました。  


> 27章と言われる法華経は、実際は30章以上あったことも知られていますね。

法華経の成立が確実になるのは、龍樹菩薩の引用からだったと思いますが、その著作の中では27章の構成であったと記憶しておりました。そのため便宜的に27という数字をあげました。
恥ずかしながら、不勉強のため30章説は知りませんでした。実際にと思われる2乃至3章のタイトルなりともご存知でしたら教えてください。

2202一字三礼:2005/04/14(木) 17:56:25
つづきです。

> 法華経を創作したグループは、アフガニスタン周辺の人々で、かなり小規模な集団であったのではないのかと言われています。また、それまでの仏教教団がシャキャムニの舎利の分骨を聖遺物としてきたのに対して、そのようなものにあやかれない信仰教団であったのではないのかと想像できます。

顕正居士さんも仰るように、経典成立史については教典からの推測の域をでません。ですから、犀角独歩さんのご主張に特に異議を挟むつもりはありません。
しかし、、アショーカ王の時(在位BC268〜BC232とされる)に既に仏舎利は国家事業で八万四千(実数ではないでしょう)に分骨され、仏塔に収められたのは史実でしょう。
その後、或いはそれ以前に、特定の仏教教団が仏舎利の分骨を聖遺物とし、それにあやかれない集団もあったとお考えなのでしょうか。
根拠云々のことではなく、ご想像、またはお考えをご披露ください。

>> 上座部と大衆部で激しい論争を繰り返しており、この2者に対して新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期でしょう。

ここの部分は、引用が長くなって読むのも書くのも大変ですので、「人類の知的遺産『ナーガールジュナ』」(講談社)の「3 論争の相手」の章をお読みください。

> 漢訳的な発想ではないでしょうか。

これも繰り返しになりますが、「梵本」とはどのテキストをさすのでしょうか。

> 宗派という発想は、空海以降に属するのではないでしょうか。インドで、こんな意識があったのでしょうか。

インドバラモン諸派を指すために便宜的に「宗派」を使ったのです。

> 仮にその菩薩像として刻まれたのがただのパトロンであるとしたら、では、実際の菩薩とはどのような人々を指すのでしょうか。

それについては、資料としては何も残っていないので、実際の菩薩については誰にもわからないのではないでしょうか。

2203一字三礼:2005/04/14(木) 17:57:47

顕正居士さん

ご教示ありがとうございます。

> 最澄がタテマエでは律を捨てたので、サンガの「互換性」がなくなりました。

これによって日本は仏教各派に柔軟性が無くなり、宗派宗教へ突き進むようになるのですね。

> これまでの大乗仏教成立史には経典の内容から想像をたくましくするだけで実証が伴わない

まったく仰るとおりで、如何ようにも推測はできますが、証明は不可能です。

> 大乗経は史実とは無関係なことは一見してわかりますから。

お考えに賛同します。大乗経典の会座や眷属の人数から時間経過まで、読めば誰でも史実とは思わないでしょう。義浄にしろ、法顕や玄奘にしろインドで乾闥婆や緊那羅の子孫には会えなかったでしょうし。


1つ質問させてください。

「妙法華経の一偈一句を聞きて、乃至、一念も随喜する者には、われは、皆、記を与え授く」

これは法師品の一節ですが、他の経典でも同様に「一偈一句」だけでもその教えを得られる、というフレーズがありますが、これはどういう風に理解すればよいのでしょうか。私は、陀羅尼を指すのかとも想像しております。
出来ましたら、ご教示お願いします。

2204顕正居士:2005/04/14(木) 20:36:11
一句一偈(法師品)
a single stanza, a single verse (by Kern)
但だ法を聞くこと極めて少きを云ひ、經の功深きことを舉ぐ(文句)

文字通りでしょう。実際に法華経には
「今此三界。皆是我有。其中衆生。悉是吾子。而今此処。多諸患難。唯我一人。能為救護」
など素晴らしい一句一偈がたくさんあります。

なお

唯有一乘法 無二亦無三
There is, indeed, but one vehicle; there is no second, nor a third (by Kern)

2205犀角独歩:2005/04/14(木) 20:55:30

一字三礼さん、レス、有り難うございます。
調べて、あとでアップします。

顕正居士さん、資料、有り難うございます。
什訳法華経は仰るとおり、名文体ですね
また、この件はたしか以前も話題に上ったことがありました。

わたしは、この一乗ということについて思うのは、何も法華経に限らず、仏教は皆一乗の法に決まっているのではないでしょうか、仏教ですから。

それをまるで、法華経ばかりが一乗の専売特許のように記される理由が、わたしには理解できません。

無二亦無三が適訳であるのであればそれはそれでよいのですが、しかし、ならば、声聞経とか、縁覚経といった類が何かあるということでしょうか。ただし、法華経は教菩薩法であり、ある面、菩薩経的な側面をもっているように思えます。
法華経「一乗妙法」とはいったい、何を批判したものということになるのでしょうか。

2206愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 22:01:12

顕正居士さん紹介の日顕師の立正安国論講義の涅槃経の部分を漢訳文に当たってみましたので紹介します。

「佛言。唯除一人。餘一切施皆可讚歎。純陀問言。云何名爲唯除一人。佛言。如此經中所説破戒。純陀復言。我今未解。唯願説之。佛言。純陀言。破戒者謂一闡提。其餘在所一切布施皆可讚歎獲大果報。純陀復問。一闡提者其義云何。佛言。純陀。若有比丘及比丘尼優婆塞優婆夷。發麁惡言誹謗正法。造是重業永不改悔心無慚愧。如是等人名爲趣向一闡提道。若犯四重作五逆罪自知定犯。如是重事而心初無怖畏慚愧不肯發露。於佛正法永無護惜建立之心。毀呰輕賤言多過咎。如是等人亦名趣向一闡提道。若復説言無佛法僧。如是等人亦名趣向一闡提道。唯除如此一闡提輩。施其餘者一切讚歎。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし

「我念往昔於此閻浮提作大國王。名曰仙預。愛念敬重大乘經典。其心純善無有麁惡嫉妬慳吝。」(大般涅槃經卷第十二聖行品第七之二)

我往昔を念ふに、閻浮提に於て大国の王と作れり。名を仙予と曰ひき。大乗経典を愛念し敬重し、其の心純善にして麁悪嫉悋(そあくしつりん)有ること無し。

「善男子。以是因縁從是已來不墮地獄。」(大般涅槃經卷第十二聖行品第七之二)

善男子、是の因縁を以て是より已来地獄に堕せず

「善男子。佛及菩薩知殺有三。謂下中上。下者蟻子乃至一切畜生。唯除菩薩示現生者。善男子。菩薩摩訶薩以願因縁示受畜生是名下殺。以下殺因縁墮於地獄畜生餓鬼具受下苦。何以故。是諸畜生有微善根。是故殺者具受罪報是名下殺。中殺者從凡夫人至阿那含是名爲中。以是業因墮於地獄畜生餓鬼。具受中苦是名中殺。上殺者。父母乃至阿羅漢辟支佛畢定菩薩。是名爲上。以是業因縁故墮於阿鼻大地獄中。具受上苦。是名上殺。善男子。若有能殺一闡提者。則不墮此三種殺中。善男子。彼諸婆羅門等一切皆是一闡提也。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

善男子、仏及び菩薩は殺に三つ有りと知りぬ。謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受く。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受く。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。阿鼻大地獄の中に堕す。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり

以上です。

2207愚鈍凡夫:2005/04/14(木) 22:22:33

「大般涅槃經一切大衆所問品第五」からの引用は、一部削除されていますから、次のように訂正します。

「佛言。唯除一人。餘一切施皆可讚歎。純陀問言。云何名爲唯除一人。佛言。如此經中所説破戒。純陀復言。我今未解。唯願説之。佛言。純陀言。破戒者謂一闡提。其餘在所一切布施皆可讚歎獲大果報。純陀復問。一闡提者其義云何。佛言。純陀。若有比丘及比丘尼優婆塞優婆夷。發麁惡言誹謗正法。造是重業永不改悔心無慚愧。如是等人名爲趣向一闡提道。若犯四重作五逆罪自知定犯。如是重事而心初無怖畏慚愧不肯發露。於佛正法永無護惜建立之心。毀呰輕賤言多過咎。如是等人亦名趣向一闡提道。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

仏の言はく、唯一人を除きて余の一切に施さば皆讃歎すべし。純陀問ふて言はく、云何なるをか名づけて唯除一人と為す。仏の言はく、此の経の中に説く所の如きは破戒なり。純陀復た言はく、我今未だ解せず、唯願はくは之を説きたまへ。仏純陀に語りて言はく、破戒とは謂はく一闡提なり。其の余の在所一切に布施するは皆讃歎すべし、大果報を獲ん。純陀復問ひたてまつる。一闡提とは其の義如何。仏の言はく、純陀、若し比丘及び比丘尼・優婆塞・優婆夷有りて麁悪の言を発し、正法を誹謗せん。是の重業を造りて永く改悔せず、心に懺悔無からん。是くの如き等の人を名づけて一闡提の道に趣向すと為す。若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知れども、而も心に初めより怖畏・懺悔無く、肯へて発露せず。彼の正法に於て永く護惜建立の心無く、毀呰軽賤して言に禍咎(かぐ)多からん。是くの如き等の人を亦一闡提の道に趣向すと名づく。

「唯除如此一闡提輩。施其餘者一切讚歎。」(大般涅槃經一切大衆所問品第五)

唯此くの如き一闡提の輩を除きて其の余に施さば一切讃歎すべし

2208問答迷人:2005/04/14(木) 22:32:17

議論が自然の成り行きとして大乗興起にまで及んでいます。この流れに逆らうつもりは毛頭ありませんが、ここでもう一度、当初の『蓮師の考えとしての「南無妙法蓮華経」の意味』という出発点から質問させてください。

蓮師は新尼御前御返事(文永十二(1275.02・16))において次のように述べています。

『今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。』

ここで特筆するべきなのは、ここ遺文に述べられているのが妙法蓮華経八巻二十八品への『経巻信仰』ではなく、妙法蓮華経という五字で表された題目への「題目信仰』(経題信仰)であるということです。法華経の経文に現れているのは、あくまでも『経巻信仰』であるのにも拘わらず、蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変したわけです。僕はこのように捉えていますが、皆さんのご意見を賜りたいと存じます。

2209顕正居士:2005/04/14(木) 23:11:11
*2204 ×一句一偈 ○一偈一句

犀角独歩さん。

>何も法華経に限らず、仏教は皆一乗の法に決まっているのではないでしょうか、仏教ですから。

普通の大乗は三乗です。菩薩しか仏にはなれない。声聞は声聞、つまり仏弟子をやめて菩薩に
転向しないと仏にはなれない。いうなら仏は上場した起業家であり、同じになるにはサラリーマン
をやめて君も起業しなくちゃのようなことでしょう。

>声聞経、縁覚経

声聞乗の経は阿含経です。縁覚乗は無師独悟だから経はありません。

>法華経は教菩薩法であり、ある面、菩薩経的な側面をもっているように思えます。

そうです。それで三車、四車の議論があったのです。三車は一乗=菩薩乗、四車は相対的な
菩薩ではなく絶対的な菩薩とでもいうことです。三乗だけでなく人天を含めた五乗、さらには
九界すべてを菩薩と考えるわけです。三乗の中の菩薩に転向する必要はない。サラリーマンも
フリーターもニートも株式投資に成功すれば資産家になれるようなことでしょう。

2210犀角独歩:2005/04/14(木) 23:56:11

一字三礼さん:

> 原本と仰られているのはどのようなテキストの事でしょうか。

梵本は読めません。わたしが取り敢えず手元に置いて参考にしているのは岩本裕訳『正しい教えの白蓮』です。ここで原本とされたものはとてもコピペできる分量ではありません。岩波文庫『法華経』上 P411〜438をご覧ください。実際は松山俊太郎師の訳待ちです。
横道ですが、以下のサイトはなかなかでした。
http://www.furugosho.com/nomadologie/matsuyama1.htm

> この段階であれば「編集・編纂」の範囲ではないか

なるほど。わたしもこれが信仰対象とされる経典でなければ、その語彙を選びました。

> 仏典も口誦を伝承の方法
> このようにして出来上がったであろう法華経に、創作者を想定

わたしは、こうは考えないわけです。
伝承という素材を、実際に(一字三礼さんの言葉を使えば)編纂し、恣意的に並べ意味を持たせ、そこで出来上がっていったものを創作と言っているわけです。編纂作業はそれだけでもクリエーティブなものです。

> 違和感を持ちました。

ええ、仰る意味はわかりました。

> 不勉強のため30章説

これをいま探したのですが、日蓮宗の、たしか立正あたりの先生であったと思います。以前、読んだ本で紹介されていたのです。ちょっと、調べてみます。ご猶予をください。

> 特定の仏教教団が仏舎利の分骨を聖遺物とし、それにあやかれない集団もあったとお考え

ええ、そう考えています。すなわち、法師品の「皆応起七宝塔 極令高広厳飾 不須復安舎利 所以者何 此中已有 如来全身」という一節からです。もし、舎利を奉持した集団であれば、こうは書けないと思うからです。
たとえば親の遺骨が放って、写真だけを飾れというようなものです。遺骨が目の前にあったらとてもできません。

> 「人類の知的遺産『ナーガールジュナ』」

有り難うございます。読んでみます。

>> 仮にその菩薩像…刻まれ…パトロン
> …資料…何も残っていない…実際の菩薩…誰にもわからない

そうでしょうか。菩薩像は資料ではないのですか。

2211犀角独歩:2005/04/15(金) 00:05:00

2209 顕正居士さん、大変に平易でわかりやすいご教示深く感謝申し上げます。有り難うございました。

2212犀角独歩:2005/04/15(金) 00:15:56

2208 問答名人さん

> …『経巻信仰』…蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変

五重玄を意識されたことはもちろんのこととして、特化したと、わたしも思います。

しかし、引用される遺文は、今日の教学、また本尊観とギャップがありますね。

> 今此の御本尊は…

これが「五字の大曼荼羅」ということになるのでしょうか。
まあ、そう解釈されてきたわけですが、わたしは慎重です。

> 身に帯し心に存せば

身に対するのであれば護本尊ですね。心に存するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。

2213顕正居士:2005/04/15(金) 00:29:02
>遺文に述べられているのが妙法蓮華経八巻二十八品への『経巻信仰』ではなく、妙法蓮華経という
>五字で表された題目への「題目信仰』(経題信仰)であるということです。法華経の経文に現れているの
>は、あくまでも『経巻信仰』であるのにも拘わらず、蓮師はこれを『題目(経題)信仰』と改変したわけです。

『経巻信仰』というとわたしには八軸の経巻をおまつりして読経唱題したり護摩を焚いたりのイメージが
します。法華経の教義(十界皆成)への信仰の意味ならば、日蓮聖人はこの信仰を基本として、その上
に『経題信仰』を称名念仏のように建てた。しかし仏菩薩の名を呼ぶなら、その仏や菩薩が実在すれば
何か応えてくれるかも知れないが、『経巻』が応えてくれるわけはない。そういう信仰は世界中に日蓮宗
しかない。しかし『経題信仰』の直接の経証の陀羅尼品の「但だ能く法華の名(みな)を受持する者を
擁護するすら、福量る可からず」の十羅刹の擁護を期待できる。また天台大師は五重玄という経題の
解釈中心の法華経概論を著した。両者が結合し妙法五字は単なる経題でなく大真言であり、チベットの
六字明呪のように一回唱えると大蔵経を一回読んだと同じまでの意義を帯びる。けれどもまだそういう
気分がするだけである。次に神力品の結要付属の経証により八万法蔵の象徴であることが保証される。
最後に妙法五字は寿量品に秘沈された十界皆成の原理、一念三千の教理を裏む「事一念三千」である。
それは具体的には胸中の八葉心蓮華に住する三十七尊の曼荼羅であるとなり、即身成仏のイメージが
完成するのだろうとわたしは考えます。

2214一字三礼:2005/04/15(金) 09:06:37

顕正居士さん

一偈一句についてのご教示ありがとうございます。

なるほど、文字通りでよかったのですね。

私は、特定の一偈一句を陀羅尼のように常に口ずさむことを勧めているのか、と考えておりました。

2216問答迷人:2005/04/15(金) 09:08:51

顕正居士さん

ご教示、ありがとうございます。「妙法五字が一念三千の宝珠を裏む、というところが肝要で、そこに蓮師は『唱題成仏』という教義を立てた」と僕は理解しました。


犀角独歩さん

>心に存するとは、具体的にはどのようなことでしょうか。

「大曼荼羅を信ずる」という意味であるかと思います。

2217一字三礼:2005/04/15(金) 09:16:56

犀角独歩さん

全面的に賛同とはいきませんが、創作者達と仰る意味は理解できました。

また、ご紹介いただいたサイト面白そうです。じっくり読んでみたいと思います。

2218愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 09:24:09

蓮祖は五五百歳にご自分が生まれ出た。と確信されたとき、法華経の予言を実現するのは自分以外にないと自覚されたのではないかと思います。
五百塵点劫成道の教主釈尊の悟りの要法こそが「妙法蓮華経」であるとの結論に達したときに、この要法の流布こそが教主釈尊の遺命であると、法華経から読みとったのだと思います。
乱暴な言い方をすれば、「法華経は自分のために説かれた」といった確信を持たれていたのではないかと思います。
この要法に「南無」することが、成仏の直道であるというのが蓮祖の確信の根幹であったと思いますが、内心、ご自分が上行菩薩の再誕ではないかと思っていたかも知れませんね。

個人的には、蓮祖の「成仏」のイメージがどんなものであったか興味があります。

2219愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 10:21:42

>>2206:を見直してみると、「大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二」の文も所々省略されていますので、下記のように改めます。

「善男子。佛及菩薩知殺有三。謂下中上。下者蟻子乃至一切畜生。唯除菩薩示現生者。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

善男子、仏及び菩薩は殺に三つ有りと知りぬ。謂はく下中上なり。下とは蟻子乃至一切の畜生なり。唯菩薩の示現生の者を除く。

「以下殺因縁墮於地獄畜生餓鬼具受下苦。何以故。是諸畜生有微善根。是故殺者具受罪報是名下殺。中殺者從凡夫人至阿那含是名爲中。以是業因墮於地獄畜生餓鬼。具受中苦是名中殺。上殺者。父母乃至阿羅漢辟支佛畢定菩薩。是名爲上。以是業因縁故墮於阿鼻大地獄中。具受上苦。是名上殺。善男子。若有能殺一闡提者。則不墮此三種殺中。善男子。彼諸婆羅門等一切皆是一闡提也。」(大般涅槃經卷第十六梵行品第八之二)

下殺の因縁を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に下の苦を受く。何を以ての故に。是の諸の畜生に微かの善根有り、是の故に殺す者は具に罪報を受くを名づけて下殺となす。中殺とは凡夫の人より阿那含に至るまで是を名づけて中と為す。是の業因を以て地獄・畜生・餓鬼に堕して具に中の苦を受くを名づけて中殺となす。上殺とは父母乃至阿羅漢・辟支仏・畢定の菩薩なり。是れを名づけて上と為す。是の業因縁を以ての故に阿鼻大地獄の中に堕し、具に上苦を受く。是れを名づけて上殺となす。善男子、若し能く一闡提を殺すこと有らん者は則ち此の三種の殺の中に堕せず。善男子、彼の諸の婆羅門等は一切皆是一闡提なり

悪しからず。 m(_ _)m

2220愚鈍凡夫:2005/04/15(金) 12:07:27

菩薩は、その気になれば成仏できるのに、敢えてその一歩手前で踏みとどまり、常に民衆とともにあり、民衆を化導しているというイメージがあるのですが、菩薩道というと菩薩が修行してきた道、言うならば、まず菩薩になるための修行を指すのだろうか。それとも、菩薩が成仏するために、これから行わなければならない修行を指すのだろうか。ふと、そんな疑問を持ちました。

2221ラキ:2005/04/15(金) 18:56:22
皆様。こんばんは。
過去ログ見ていて(現在72まで)虎さんに出てくるお寺が〜!
トレビアの泉みたくへ〜〜と、思いながら順番に読み進めていっています。

少し、早急に知りたい疑問があるので、質問させていただきます。
(ここの過去ログ。又、他のスレッドに載っていたら、申し訳ございません。)
「ほうぼう」についてですが、家の中にお札や神棚とかお守りは「ほうぼう」の品物とは理解できますが、
書籍類とかて、宗教的要素のあるものは「ほうぼう」と言われました。
書籍類は文学作品と思っています。
音楽に関しても、クラシック音楽の一部には「神をたたえる歌」とかもありますが、
それも「ほうぼう」て言われました。
音楽は芸術作品ではないのでしょうか?
内容が「神をたたえる歌」だからいけないのかも知れませんが?・・・
そこまで細かく厳格なら、何故アクセサリー類の十字架とかはキリスト教のシンボルですが、
アクセラリーなので「ほうぼう」にはならないと言うのは、おかしいと思っています。
日本にはたくさんの行事がありますが、その中にも「ほうぼう」ではないのかと思うものもあります。
節分。ひな祭り。端午の節句。七五三。クリスマス。
学会の人はイベント?行事?だから「ほうぼう」にはならないと言いますが、
言ってる事と、やってる事が矛盾していると、感じております。
時代の流れもあるかもしれませんが、厳密には「ほうぼう」の線引きは、どのように考えたら良いのでしょうか?
信徒団体によって、線引きが違うのでどの人の言ってる事が正しいのか悩んでおります。

2222小心者:2005/04/15(金) 19:09:13
 ラキ さん、 ゴモットモなご意見、、と存じます、。 未だかって、、自由に「、言える、」、機会の少なさも有りますが、、欧米の方に比べて、「、自己主張に関する、教育の関与が??」、、のようです、、。 IT時代に突入しました現今は、幼稚園児〜〜129歳までのかたがたの御考え方を「、御自由に、御発言が可能な、本当に、恵まれました、?、贅沢な、?」、、時代になりました、、。 この時代とIT機能を存分に、御活用したおものです、、、ガ、、?? ゴメン下さい、、。

2223犀角独歩:2005/04/15(金) 19:29:15

2217 一字三礼さん:

> 全面的に賛同

そうですね。わたしの言っていることも試作的ですから当然のことと存じます。

紹介のサイトとからスライドしますが、松山俊太郎師は、高齢ながら、元気一杯で、いまも月一、サダルマ・プンダリーカ・スートラの和訳講義が続けられています。

福神研究所ブログ(いまは停まっているようですが)
http://blog.livedoor.jp/fukujinken/

2224パンナコッタ:2005/04/15(金) 22:17:15
ラキさん、こんばんは。 答えではないのですが、考え方の参考として
『まだ身延にいくらか未練をもっているときには、つまらないものを、これだけは
記念に残したいなんていいがちです。これでは「無二の信心」とはいえません。
 ダルマのついた茶わんだとか、鳥居の印のついたおぼん、修学旅行で写した神社
の前の記念写真、イナリの絵がついている駅弁のいなりずしなど、もちろん信仰
に関係はありません。本人が使うのがいやならやいてもよいし、そのまま使っても
さしつかえない、こんなことに迷わされるような弱い信心ではだめです。』
     小平芳平著 創価学会(昭和37年5月12日初版)より引用

まあ、今でもこんな感じだと思いますが。あとの細かいことは、指導する人物の主観
でしょう。
 ちなみにこの本、「まじめな認識が必要」という題で藤原弘達氏のコメントが
載っていました。

2225ラキ:2005/04/16(土) 06:11:09
皆様。おはようございます。

小心者さん。
ここのような、自由に発言できる場所は、大切です。
自由と言っても、池田氏みたい暴言を吐いたりする訳ではなく、自分の疑問を発言できるのが、
すばらしいと感じております。

パンナコッタさん。
ダルマやお守りは持っていないので、と言うよりも、ご利益?がないから必要ないのが本心かもしれません。
ただ、書籍類は、興味があり勉強?知識を満たす為の手段ではないかと思っているのですが、
信仰の対象でもないですし、何でも「ほうぼう」と言って、処分しないと、
正しい仏法をしていても、「福運やご利益はないよ」と、言われます。
どこの信徒団体も「うちが1番正しい」といい、他所は間違ってるからと言います。
そのわりには、どこも功徳があった体験談を聞きます。
正しくないのに功徳があるのか?それとも、信心の姿勢?で功徳があるのか?
誰の言葉が正しい事を言っていて信じていいのか?それとも誰もが幹部の指導の影響で、
本当の正しい信心のあり方を見失っているのか、私には疑問、謎だらけです。
ただ、ここにきている皆様の話は、本音で語り、都合の悪い事はごまかしたり、
何でも、自分の団体が正しく、他は嘘、偽りと否定するのではなく、
信心に対して向上心があるから、自由に色々な発言が出来るのかと思っています。
私は、ここの掲示板で皆様に出会えて良かったと思っております。
こんな無知な私に、色々親切に教えていただき、感謝しても仕切れないほどです。
まだまだ、探求したい事がたくさんあるので、支離滅裂な発言。質問などしましたら、
優しく指摘してください。。。。(出来れば、優しく見守ってください(^^;)

追伸。
ログ200番まで読み進みました。
毎日ログを少しづつですが、読むのが楽しくて仕方がありません。(●⌒∇⌒●)

2226パンナコッタ:2005/04/16(土) 12:31:18

ラキさん、
 >ご利益?がないから必要ないのが本心かもしれません。
信じていなければ、学会の寛師曼陀羅、麻雀牌のような携帯本尊(縮小版)も
同じですよ。
 今までは謗法ということで情報隠蔽をしてきましたが、ネットの普及により
その綻びが、より大きくなっています。 書籍類を謗法と言っているのは信者
への隠蔽工作でしかありません。教学の引用文として摩訶止観を使ったりして
いますが、「優れた禅の指南書」との指摘を大方の信者は知らず、読もうとも
しないから判断出来ません。禅の指南書なんて立派な謗法ですよねぇ。(^。^)

2227ラキ:2005/04/17(日) 13:36:30
皆様こんにちは。

パンナコッタさん。
信心=信じる心が大切だとは思っているのですが、
天邪鬼な私は、信・行・学の学に行きがちだと思っております。
疑問な事は知りたい。
知りたくても、信・行があり、学が付いてくるから、信じてれば、疑問の答えが出ると言われています。
学会。顕正会。エホバの証人。と、3団体の方が身近におりまして、各団体の方とお話はするのですが、
エホバの証人の方は、こちらの質問。疑問には必ず応えてくれます。
書籍類(聖書)や用語辞典など、書籍印刷物などをちゃんと提示して、一生懸命説明してくれる姿は、
とても誠実だと思っております。
学会員は一言で、不誠実だと思います。(学会の方がいたらごめんなさい)
質問しても、難しい事をいい、ごまかそうとする姿勢。
また、こちらが知ってる範囲での回答に対して突っ込むと、判らないから幹部に聞いて回答か調べて回答します。
といいつつも、音信がなくなる事ばかり。
都合の悪い事には、時が過ぎるのを待つ。誠実さの微塵も感じられないと思っています。
一人二人なら、その人の人格?とも思えますが、10人居たら9人は確実に未回答で終わります。

顕正会の方は、回答を調べてもしていただけるのですが、信心が大事と最後はこの二文字で締めくくられます。
人を思いやる心ではとても誠実だと思っています。
ただ、学会。顕正会。両団体は、過去にたくさんの陰謀や傷害事件等、宗教者としてのあるまじき姿があったにもかかわらず、
その事を隠蔽。若い世代には一切教えようとはしない姿勢は、納得できません。
過ちを認めて、このようなことを二度としないように、教えていく事も大切ではないかと感じております。
ここの掲示板の過去ログや、他のスレッドを見ていて、聞いたこともないような話がたくさん出てきます。
正しい信仰を貫く団体だからこそ、世間から後ろ指を刺されないような、
清廉潔白の団体でなければならないのではと思っています。

組織。団体は入れ物と思い、私自身の「信心」の心が一番大切なのかもしれませんが、
迷いがあり、どうして行くのが私自身の幸せに繋がるのかと考えております。

皆様のご意見・ご指導お願い致します。
(毎回、甘えてばかりで申しわけございません。)

「国立の戒壇」の話が出ていたので、読んでいたのですが、学会員の友達に聞いたら、
なに?それ、知らないとの回答。
「国立の戒壇」とは、顕正会独自の解釈で言ってる事なのか、それとも日蓮聖人が御書などで言われている事なのか、
優しく解説を頂けたらと思っております。

2228犀角独歩:2005/04/17(日) 14:04:51

> 国立戒壇

北山本門寺根源で捏造された謀書『日蓮一期弘法付嘱書』に「日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」という一節があります。

この一文を大石寺のことであると言って騒がれるようになったのが「国立戒壇」です。

この‘造語’を造ったのは田中智学ですが、顕正会は大石寺52代「日霑」であると主張しているようです。

創価学会は顕正会に先んじて、もちろん、国立戒壇を主張していました。
創価学会『折伏教典』(昭和26年11月15日発行/昭和27年7月20日再版)に「本門の戒壇に義の戒壇と事の戒壇とある。義の戒壇とは御本尊の在します場所を指す。事の戒壇とは国立の戒壇である」(P296)と明確に記されています。

参)http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18396234.html

昭和45年言論出版妨害事件を起こした創価学会は、「日蓮正宗の国教化」「国立戒壇」の二つの路線を改め、現在に至っています。新しい会員は、こんな史実は教えられないので知らないだけです。

2229ラキ:2005/04/17(日) 19:24:36
皆様。こんばんは。

犀角独歩さん。
今の心境は「驚き!」この一言に尽きます。
国立戒壇論の基礎の御書自体が「謀書」だったとは・・・
ここまで来ると、他宗・他団体の書籍等、一切読ませたくなくみんな謗法だからと、
隠蔽したくなるのか?〜と、思ってしまいます。
オフ会スレットにも、驚きがあり、横レス、感想みたいなのを書かせていただきました。
顕正会の主張している「国立戒壇」自体が、日蓮聖人の意思ではないという事になると思っても、
間違い、問題ではないでしょうか?
質問ばかりで何時も申しわけございません。
ついでにもう一つ甘えさせてください。(^^;

「田中智学」という方は、何者なのでしょうか?
あと一つお願いがあります。
2228のレスを一部印刷使用してもよろしいでしょうか?
国立戒壇からリンク上部分までです。(HN・ここのHPの事は伏せます)
今度、顕正会・学会員の知人などに、聞いてみたいと思っています。
物覚えが悪いので、書留とかないと忘れてしまうので。(^^;

2230パンナコッタ:2005/04/17(日) 21:14:04

>「田中智学」という方は、何者なのでしょうか?
国柱会の田中巴之助ですね。まめちしきとして、
『六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。』の
記紀の一節から”八紘一宇”のスローガンを作り出し、戦局拡大を後押しした
人物。
富士門系では明治15年の横浜問答が有名ですね。

2231犀角独歩:2005/04/17(日) 22:01:09

ラキさん、こんばんは。

> 2228のレスを一部印刷使用

どうぞ、別段かまいません。

> …HN・ここのHPの事は伏せます

この必要はありません。むしろ、提示していただいてけっこうです。

ついでに、以下のページもご参考ください。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

> 田中智学

パンナコッタさんがお応えになっていますね。
この人もまた、敗戦後、歴史のなかから葬られた一人といえるかも知れません。戦前であれば、「日蓮」と言って、この名前を知らない人はいなかったでしょうから。

2232犀角独歩:2005/04/17(日) 22:31:57

2231の補足

> 顕正会の主張…「国立戒壇」…日蓮聖人の意思ではない

これは2段階、語るべきことがあります。
まず第一は、戒壇建立ということでいえば『三大秘法稟承事(さんだいひほうぼんじょうのこと)』という御書に「勅宣並びに
御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戎壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」という一節があります。この書は真筆は現存していません。立正大学・伊藤瑞叡師は真筆説、正信会の山上耕道師は偽作説。わたしは後者の意見に賛成です。つまり、この書が偽書であると決定すれば間違いなく、蓮師は、戒壇建立を語っていないことになります。

なお、国立戒壇は先に記したとおり、田中智学師も言っています。しかし、富士方と違うのは一点。なかに入れる本尊が、学会・顕正会を含む石山系は、所謂「弘安2年10月12日本門戒壇の大御本尊」(いまの創価学会では三大法の大御本尊という)であると主張してきた点です。しかし、この本尊が戒壇本尊でもなければ、10月12日図示でもなく、まして、彫刻である以上、蓮師の作でもなく、いまの彫刻は、禅師授与漫荼羅を原本とし、臨模・作為して制作されたものであるとわたしは結論しています。

以上のような二重構造である点が留意されてしかるべきです。

2233犀角独歩:2005/04/17(日) 22:52:24

なお、戒壇については、わたしとはまったく意見を異にするものの、以下の真摯な研究もあります。

櫻川忠氏著『本門戒壇論』
http://sanity.at.infoseek.co.jp/

2234ラキ:2005/04/18(月) 02:33:39
皆様。深夜にこんばんはです。
パンナコッタさん。
>国柱会の田中巴之助
「国柱会」は初めて聞く名前です。(勉強不測で何時もお手間をおかけしてます。)

>犀角独歩さん。
2228掲示板の書き込みの使用許可ありがとうございます。
この疑問は、明確な証拠。回答が得られない場合、回答が出来る人にお会いしてても、
聞いてみたいです。
納得のできる証拠提示。回答がいただけない場合、そんないかがわしい団体に所属してる人とはお付き合いできない。
絶縁も覚悟の上で望みたいと思います。
仏道修行者としての誠意ある態度にそぐわないと、私は思っているので。

犀角独歩さんのリンク拝見させていただきました。
私のような、無知・無学の者にもわかりやすい、解説は貴重であり、また、知識の探求に役立ち、
感謝の言葉だけしか今は言えません。
本当に、わかりやすい回答、このような私にも自分で努力して調べろと、
キツイお叱りを受けてもいたし方がないのに、これこそ、仏法の実践者の慈悲の心!
私が抱いてる理想の姿です。
これからも、ちんぷんかんぷんな質問や、変な質問があるかもしれませんが、
ご指導の程宜しくお願い致します。

皆様に筆問があります。
初心者でもわかりやすい書籍又は、読んで参考になるような、お勧め書籍がありましたら、
教えて頂けるとありがたいです。
ネットで閲覧も可能なのですが、時間的制約がありまして、書籍なら、移動時間とか待ち時間など利用して、
時間の有効利用ができていいかと思ったしだいです。
現時点で購入できない書籍。高額書籍等ならあきらめて、
ネットから、印刷してでも読むようにしたいと思っております。

2235吉祥仙人:2005/04/18(月) 04:51:57
 素朴な疑問

 真筆が存在しなければ、すべて偽書なのでしょうか?

 日蓮大聖人の御真筆と鑑定されれば、疑いようの無いホンモノでしょうが
御真筆が無ければすべて偽書というのは、アリバイがないから有罪というのと
同じような気がします。
 創価学会が伝える(?)ところでは、大聖人御入滅後、五老僧が「ひらがなの
お手紙、消息文等は師匠の恥じ」と燃やしたりスキかえたりしたので、散逸して
しまったとのことです。

 釈尊が直筆で著した経典というものが、存在するでしょうか?
 キリストが書いた福音書というものが、存在するでしょうか?

 仏典・聖書。すべて偽書になるのでしょうか。

2236犀角独歩[TRACKBACK]:2005/04/18(月) 07:00:31

> 2235

そんな単純な話をしているのではありません。

たとえば、無作三身といった語彙は真跡ではまったく使用されていません。無作で1回のみです。「本覚」もそうです。久遠元初、自受用身といった語彙もそうです。真跡遺文ではまったく使用されていない語彙、また思想が頻繁にに使用されるような御書は、真跡であるとは考えがたいということです。この問題は既に過去に議論しました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/r58

真跡・疑書・偽書の問題は信仰上の感情論とは無縁です。厳正な科学です。浅井要鱗師、山上耕道師の研究、また、正信会の苦心の作・御書システムでも少しは学んでみることです。

なお、聖書の問題、はこれまたよく研究されているところですか。それを当たればよいでしょう。
仏典の問題は初期仏典と言われるものでも、シャキャムニ滅100年後からの編纂、それまでのアーガマ(伝承)をまとめたものです。シャキャムニの言葉は混じっているかも知れません。名前を失念しましたが、とある学者が調べた結果、確実なものと考えられるのはわずか16句であったとのことです。法華経に至ってはシャキャムニ滅400年後に創作(一字三礼さんの言を借りれば編纂)されたものですから、これを直説ということはできるはずはありません。つまり、釈迦無尼仏の名前に仮託した物語と言うことでしょう。

2237パンナコッタ:2005/04/18(月) 12:54:41
>「国柱会」は初めて聞く名前です。
 
明治17年に創設された右翼主義の団体。設立当初は立正安国会。横浜問答の時は
蓮華会という名でしたね。 信者に石原莞爾、宮沢賢治(会ってはいないらしい)
が有名。 今でも江戸川区にあって、ググればHPもあるようですね。
ここから、本化妙宗連盟、立正教団なんかが分裂しています。

2238藤川一郎:2005/04/18(月) 14:53:30
>>2237
横レスですが、真の右翼の方に迷惑をかけるので訂正させてください。
国柱会は「天皇主義」ではありますが「右翼主義」では無いと思います。
どちらかと言えば覇権主義に近い思想です。
すなわち三国並びに全世界の覇権王として陛下を建てる思想です。
その流れを汲む石原将軍すらも右翼主義ではなく、覇権主義であったと思われます。
世界最終戦争論などを読むとそのように思わざるを得ません。
その証拠に石原将軍は奉天会議の席上、中心に題目旗を掲げ、愛親覚羅家の紋章と日本国旗を左右に掲げるという相対化を行っております。
これは右翼主義ではなく、天皇の御名を利用した日蓮主義であります。

2239パンナコッタ:2005/04/18(月) 18:49:52
>>2238
 ああ、大変失礼しました。 
確かに覇権主義という言い方の方がしっくりきますね。 
満州国の建国自体を右翼主義というのは変ですし。

2240ラキ:2005/04/19(火) 17:41:44
皆様。こんにちは。

パンナコッタさん
書店にて調べ物をしていましたら「国柱会」の事が載っていました。
とても偏った思想の怖い信徒団体と感じました。

ついでに、お数珠の事が載ってる本がありまして目を通していたのですが、
日蓮宗系で紹介されていましたが、左3房。右2房となっておりました。
また、お数珠を半ひねりする事も載っていたのですが、意味は書いておりませんでした。
石山系では、右3房。左2房。なのですが、時代の変化でいつの頃からか、
変ってしまったのか?と、些細な疑問がありますが、信仰に関係ない作法の質問て、
信心が大事と言われて、誰も教えてくれない。と言うより、知らないのが実情でごまかしてるのではと、
疑いを持っています。

些細な事ですが、ふと思い出した事があります。
仕事で行った先で(一緒に行った方は学会員)食べ物を出されたのですが、
そこの方が、稲荷信仰の信者だったので、先輩は手を付けずに私に食べてと言いました。
理由は、謗法をしてる人からの、施し?になるからとのことでした。
何でも謗法と言い、拒絶していたら、現代社会では生きていけないようなきがします。
極端な考えですが、衣食を考えると、作ってる方の宗教で謗法の人が作ってる物はとなります。
衣食は別問題と言うなら、購入したお金がお布施とかになるわけですから、
間接的にですが、謗法の手助けになるのではと、極端な考えがふと浮かんでしまいました。

明日親友の命日なので、お墓参りに行きたいと思っておりますが、
その折に、お経を唱えたいと思っているのですが、「謗法」と言う言葉が頭をよぎり、
日蓮聖人の仏法に背く行為になるのか、ならないのか、アドバイスを頂けたら幸いです。

2241犀角独歩:2005/04/19(火) 18:02:10
2240ラキさん:

> 些細な疑問…信仰に関係ない作法…知らないのが実情でごまかし

そのとおりでしょうね。

> 仕事…一緒に行った方は学会員)食べ物を出された…謗法…施し

所謂、謗施(ぼうせ)ということですが、これは坊さんの話です。
信者はそもそも布施を受ける資格が無いというのが富士方の考えです。
まあ、それは信者でも供養を受けられると言ったのが池田さんでした。
違う信仰をしている人から施しを受けてはいけないのであれば、池田さんが山のように受け取った勲章その他はどうなんでしょうかね。

> 何でも謗法…拒絶…現代社会では生きていけない

まったくそのとおりでしょうね。誰の計算だか忘れましたが、たとえば服1枚、加工食品1つにいったいどれだけの人が関係して自分の手元に届くかというものがありました。たしか60万人という答えであったと記憶します。

> 明日親友の命日…お墓参りに行きたい

大変に素晴らしい心がけですね。敬服します。

> お経を唱えたい…日蓮聖人の仏法に背く行為

蓮師は終生念仏を捨てなかった師・道善房を弔うために向師に『報恩抄』を携えさせ、墓参に生かせたのは夙に有名な話です。
わたし的な言い方をすれば、世間一般の儀礼に悖ることをするのは、謗法以前に人道に反することだと思います。

先の学会員の話も含めて言えば、それらは謗法ではなく、集団・指導者に誣いるためのマインド・コントロール以外の何ものでもないでしょう。

自分の思う最前の形で故人の冥福を祈ればそれでよろしいのではないでしょうか。

2242犀角独歩:2005/04/19(火) 18:04:51

【2241の訂正】

誤)墓参に生かせた
正)墓参に行かせた

誤)自分の思う最前の形
正)自分の思う最善の形

2243パンナコッタ:2005/04/19(火) 20:21:40
ラキさん。
学会の数珠が反対になったのは、昭和52年前後だったような気がします。御観念文が
変わったときだったような(うろ覚え、誰か指摘してください)。
正本堂建立時(昭和47年)は右二珠、左三珠でした。

2244犀角独歩:2005/04/19(火) 22:24:41

パンナコッタさん:

数珠の捻り、右左その根拠はよくわからないのですが、何より、両手中指に掛けるようになったのはいつ頃からでしょうかね。

以前、石山で興師所持の数珠というものを見たのですが(レプリカだと警備の法華講青年部員が言っていました)これはかなり大きなものでした。まず指の間に懸けられるような代物ではありませんでした。懸けられる所があるとすれば、親指と人差し指、もしくは手首。首のわけはないだろうと。

2245ラキ:2005/04/19(火) 22:39:12
皆様。2度目のこんばんはです。^^

犀角独歩さん。
心のもやもやが取れました。
ありがとうございます。
明日のお墓参りで、法華経を唱えてこようと思います。
(方便品。寿量品ですが(^^;))

追伸。
岩波文庫の法華経を購入しました。
御書はネットの方で見て、考え中ですが、真書、偽書の区別がされてるものが
いいかなと思っております。
御書の文を引用されて、話をされたとき、真書、偽書では意味が違ってくるのではと思いますので。

パンナコッタさん。
昭和52年頃までは、右2、左3だったのですね。
些細な事ではありますが、持ち方の変化はふに落ちない気がします。
お数珠の持ち方も、伝統にのっとり受け継がれてきたものと思うのですが、
それを変えるのは余ほどの事ではないかなって感じております。

ご観念文に付いて前に質問させていただきましたが、
学会の大分前の教本。正宗時代の石山版。決別した時の学会版。顕正会版と手に入れられました。
一番新しい学会版は、会館で購入して手に入れようと思っています。
こんだけ手に入れたのに学会の最新版が手元にないのは、
ご観念文の所に「池田氏」の名前が載ってるので、それを指摘されると思って、
提供をしてもらえませんでした。
見比べてみましたが、石山版のが一番いいなと、感じております。
顕正会版は、切ったり貼ったりしてるのが判りました。
学会版は、言葉も出ないぐらい、唖然!
省略しすぎ。現代風にすれば良い物ではないと実感しております。

2246パンナコッタ:2005/04/19(火) 23:40:13
数珠を中指に・・・。 うーん、いつからなんでしょうか。
髪にさせば五つの罪が消えたり、頸にかければ四つの罪が消え、手や肘に持てば
罪が消えるなんて話しもありますから、大昔から決まっていたわけでもないし。
捻りも含めてやはり使い勝手で、数珠も進化していったんじゃないでしょうか。

修験道系では平玉のデカいのを親指にかけていますね。

2247パンナコッタ:2005/04/19(火) 23:49:07
通常各宗派は大体親指に数珠を掛けますが、日蓮宗の祈願と真言宗が中指ですね。

現在の御祈念文の池田さんのところと言うのは、
 広宣流布大願成就と、創価学会万代の興隆を御祈念申し上げます。
 創価学会初代、二代、三代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳
 に報恩感謝申し上げます。

で 「池田」という名前は載っていませんね。
52年頃の学会版御観念文には「牧口」「戸田」の名前は載っていました。

潔癖性が度を超すと病的な強迫神経症となり、周りの物全てが汚らしいと思うよう
になりますが、ラキさんの先輩の方もそれに近い症状のようですね。
原因は、ゆがんだ教義を信じている事から来ているのは言うまでもありませんね。

2248犀角独歩:2005/04/20(水) 08:06:11

創価学会の観念文のことですが、ここにはまだ生きている池田さんの名前が載っているわけですか。

また「日蓮大聖人を末法のご本仏と仰ぎ、その教えを」というのであればまだしも、会長指導のみが名目に載るわけですか。なかなか興味深いですね。

2249犀角独歩:2005/04/20(水) 08:52:24

2245 ラキさん

御書に関して言えば、まず確実な真跡を通読することをお薦めします。
最適な書は

平成新修日蓮聖人遺文集 / 日蓮/[著] 米田淳雄/編
http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=19471150

です。

御書編纂出版について、図でわかりやすく説明しているのは『図録 日蓮聖人の世界』です。真面目に研究している様が伝わります。(こんな調子で彫刻本尊の真偽もやってくれると有り難いと、いつも思っています)
http://www.fujimon.or.jp/tenran/zuroku.htm

2250ラキ:2005/04/20(水) 22:36:18
皆さん。こんばんは。

>創価学会初代、二代、三代の会長を広布の指導者と仰ぎ、その死身弘法の御徳
 に報恩感謝申し上げます。

ご観念文ですが、3代会長まで載っているのは、「みょうもんみょうり」のなす、
傲慢な態度?姿勢ではないかと、感じております。
広布の指導者と書かれているのですから、
亡き4代会長。現在の5代会長は一切無視は、おかしいと感じてます。
あと、ご観念文の省略の凄さは、目に余るものがあります。
現代風に省略すればいいものではなく、先師に対して礼儀を持って接するのに、
ご観念文の省略は、納得が出来ないと思うのは私の意見です。
長いと言っても、数文字。数秒の時間しか違わないのですから。

犀角独歩さん。
御書のお勧めリンクありがとうございます。
「平成新修日蓮聖人遺文集 」値段を見て少し戸惑いが(^^;
図書館で閲覧できればいいのですが、検索してもヒットしなかったので、
悩んでしまいました。
真書。偽書をネットで確認しながら、ネット御書を拝読して行き、
もっと研鑽が必要なら、自然と購入するきかいが来るのではと思っています。
「自分に本当に必要な物は、ご本尊様が与えてくれる境涯になる。」と、言われてますので。
↑学会の指導でよく言われてます。

御書について質問していたら、回答を頂きました。
>顕正会での御書の拝読の仕方を浅井先生がご指導してくれたのでお知らせしますね
『御書は拝読して心肝に染め 実際に身でもって体験すること』です
体験するすることにより御書の意味がわかります

体験と言われても、佐渡流罪は・・・無理そうですね(^^;
微妙に明確な答えではないのが、納得できません。
何を言いたいのかなって?・・・
できれば、解説していただきたく思います。
また、甘えてしまい申しわけございません。

追伸。
お墓参り、無事行って参りました。
霊園の方に聞いたら「日蓮宗の檀家」さんだという事なので、心置きなく、
勤行・小題ができました。
今度行くときは、塔婆をじさんしたいかなと、思っております。

2251愚鈍凡夫:2005/04/21(木) 03:59:15

「むむっ、早く目が覚めてしまった・・・・。そろそろ年寄り予備軍だろうか・・・・・。」 (;^_^A アセアセ…

ラキさんの探求心は素晴らしいですね。
御書の件ですが、経済的に少し余裕ができてから購入されてはどうでしょうか。焦ることはないと思います。
小生の場合は、ネットでダウンロードした創価学会版、日蓮正宗版、日蓮宗版を1御書1ファイルに切り離して、それぞれのフォルダに入れています。理由は、以前使っていたパソコンが相当遅かったものですから・・・(^^ゞ。
日蓮遺文集といった親フォルダにそれぞれのフォルダを登録して、検索ソフトで一気に検索を掛けるといった方法を使っています。この方法を使ってから、御書研鑽が捗るようになりました。

なお、追善法要について、蓮祖は寿量品の「自我偈」を重要視しています。

「例時には阿弥陀経を読み奉り候しが去年の春の末へ夏の始めより阿弥陀経を止めて一向に法華経の内自我偈読誦し候又同くば一部を読み奉らむとはげみ候これ又偏に現当の御祈祷の為なり、」(「下山御消息」学会版P343)

「御姓名並びに御年を我とかかせ給いてわざとつかわせ大日月天に申しあぐべし、いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、」(「可延定業書」学会版P986)

「彼の諷誦に云く「慈父閉眼の朝より第十三年の忌辰に至るまで釈迦如来の御前に於て自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」等云云」(「法蓮抄」学会版P1047)

「此の御房は正月の内につかわして御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候、御とのの御かたみもなしなんとなげきて候へばとのをとどめをかれける事よろこび入つて候、」(「春の祝御書」学会版P1510)

「御菩提の御ために法華経一部自我偈数度題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。」(「上野殿母御前御返事」学会版P1568)

ご参考までに。

2252犀角独歩:2005/04/21(木) 05:30:21

ラキさん、おはようございます。
たしかに『平成新修日蓮聖人に文集』は高価ですね。
仮に他の御書全集なんかでしたら、ともかく、年次順に並んでいるのものを選び、冒頭の目録を見て真跡の所在を確認しながら読めばよいと思います。

>> 顕正会での御書の拝読の仕方

これは「井の中の蛙」でしょう。御書の拝し方は顕正会を見習うのではなく、蓮師にその姿勢を見るのが日蓮門下、興師に習うのが日興門下というものでしょう。皆、通じているのは「死身弘法」「其罪畢已」。朝晩、勤行をして折伏をして活動をするなんて簡単なものではありませんね。ちなみに蓮師の読経・勤行その他の修行に充てていた時間は1日8時間ぐらいであったろうといわれています。その他、所を追われ、傷を被り、弟子を殺され、流罪に遭う。仰るとおり佐渡流罪にも遭っています。高校生、集めて伏せ拝させて悦に入っている顕正会・浅井さんなどとは次元を異にしています。「大聖人の仰せのまま」にと蓮師・御書の権威を、自分を飾る姿を浅ましと思います。

墓参いいことをなさりましたね。まあ、塔婆の持ち込みは、わたしはあまり賛同しません。ラキさんが、特定の寺院の檀家であればそれも致し方ありませんが、やはり、墓地を所有管理する寺院にお願いするというのがTPOであるとわたしは思います。もっとも、わたしが墓参に行くときは塔婆は建てませんが。

2253ラキ:2005/04/21(木) 15:06:43
皆様。おはようございます。

愚鈍凡夫さん。
私もネット御書で、愚鈍凡夫さんみたく、ホルダーわけして研鑽しやすいように、
実践したいと思います。
>追善法要について
御書を通してのご指導ありがとうございます。
信・行・学の弱い私には、心強いご指導です。

犀角独歩さん。
年代順の御書でしたら「学会版の編年体」と言う、御書があるそうなので、
それなら、購入できる金額の範囲なので、検討したいと思います。
ただ、学会に貢献する形が問題なので、それが気分的にやかなって(^^;

お墓の件ですが、霊園の管理の方に聞いたのですが、檀家さん用と、
宗派が関係ない場所と二種類存在してると教えていただきました。
私自信は、特定の寺院の檀家ではないので、塔婆供養はやめときます。
気持ち第一ですよね。

意見と言うか、手助けをお願いします。(><)
顕正会の事はまだ、勉強中なので正しく質問・疑問をぶつけても、
ごまかされる心配があります(><)
犀角独歩さんがおっしゃってる御書の研鑽のあり方が、私も本来の姿だと思います。
キリスト教BBSで質問(法論?)をしていると、伝えたら、下記のような返事を頂きました。
ネット伝道で無差別に書き込みをして、私の知り合いのBBSにも書き込みがあり、
色々なHPで書き込みをしてる人だったので、かなり一部では有名な方だったので、
ググッてみたら、良く出入りしてるHPを見つけ、そこにて質問を全員に投げたのですが、
明確な回答は誰もしてくれません。

顕正会も学会も二枚舌!時のおおじて、言動が変るのは変だと思っています。
どんな質問。疑問に対して「仏法の実践・信心」で収めるのは、納得が出来ません。
蓮師の正しい言葉。修行のあり方をちゃんと示してくれれば、納得も出来るのでしょうが、
あいまいな、回答でごまかすのは、いやなのです。
ご観念文でも、石山版の古いのを使用すれば、正宗信徒を名乗っているのですから、
正当性、主張も納得できると思っているにもかかわらず、独自のご観念文のあり方には、
疑問しか残りません。
また、話が脱線しましたが(^^; 皆様のお知恵。アドバイスを頂けたらと思っております。


>法論をするのはやめましょう 相手がわからない(見えない)状態はダメです
失礼&慈悲の想いがではなく楽しむだけでは法を下げる行為になります
また顕正会での正しき信心を身につけていないのに人のことを悪く言うのもどうかと思います
頭ではなく 自身が仏法を実践してほしいです 相手のことはその次です

☆甘えてばかりのラキでした。

2254三学無縁:2005/04/21(木) 22:18:46
>ラキさん
はじめまして、三学無縁と申します。
学会版の編年体御書は現在絶版になっているようですが、書店の店頭などには残っているかもしれません。
古本屋などでは千円から二千円ていどで売られています。
まあ、学会版の御書はほとんど利益のない出版のようですから、「学会に貢献」とまではいかないでしょう。
あとは、正宗の寺院で「平成新編日蓮大聖人御書」を購入して真筆とそれに準ずるものを読むというのもひとつの方法です。
ただし、正宗版も学会版と同様に誤字誤植誤読がありますから注意が必要です。

2255犀角独歩:2005/04/22(金) 10:13:44

ラキさん:

> 「学会版の編年体」と言う、御書

三学無縁さんのご指摘のとおりです。

> 塔婆…気持ち第一ですよね。

そう思います。

> どんな質問。疑問に対して「仏法の実践・信心」で収める

これは操作側と被操作側では意味が異なりますね。
操作(集団・指導者)は、周囲が熱狂することで、自己矛盾も過ちも気付けない状態になっています。この人間にとって、応えも質問もありません。あるのは「自分は正しい」
それに対して、被操作側は、そもそも自分の頭で考えることを放棄させられていることに気付いていません。集団・指導者の打ち出しが絶対に正しい、それは自分の体験から言える、と、こうなっています。
彼らにとって、質疑応答はただ一つ、信じることが正しく・疑うことは悪である、です。ハッサン師は、
「思想コントロールの内容は、メンバーに徹底的な教え込みをして、そのグループの教えと新しい言語体系に身につけさせ、また自分の心を『集中した』状態に保つため思考停止の技術を使えるようにすることである。良いメンバーであるためには、その人は自己自身の思考過程まで操作することを学ばなければならない」(『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版 P118)
「教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから」(同)
と言います。しかし、一見信者達は、思考停止どころか一所懸命に考えているように見えます。ところが実際は、彼らは集団指導者の教えのように一所懸命に考えているだけで、自分で考えることが停止しているのです。「自分にとって何をするのが最善のことか、自分よりも自分以外の人のほうがよく知っていると信じるようになると、その人は本当に危険である」(同 P348)と注意を促します。決定的な指摘は
「マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感 情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのもの なので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい 本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる」(同 P148)

ということです。つまり、彼らは信仰上の信念を語っているように見えながら、実は単に集団・指導者の言うことを自分の個人的体験を根拠として信じ、自分で考えることを放棄させられているわけです。ここでの議論は、やはり、意味はありません。あるのは、その人がどうしてそのように考えるようになったのかという構造を理解させることです。ここでは佛教、キリスト教と言った区別は関係ありません。

2258犀角独歩:2005/04/22(金) 10:18:48
―2255からつづく―

>> 法論をするのはやめ…法を下げる行為

法を下げるなんてことは、まるでないわけです。わたしはこの信仰をやっていると主張する人は別段、法の何も代表していません。
野球で、巨人軍ファンが犯罪を犯したら、巨人軍を下げることにならないのと一緒です。こうして、恰も、一人の人間が法そのものと直接かかわっているような錯覚を与えて、行われていることはただの真理と行動の操作以上の意味はありません。静岡県立大学の西田先生は
『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)のなかで
「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」(P227)
と批判精神こそ、健全な心であることを指摘しています。

> 顕正会での正しき信心

顕正会の正しい信心が、本当の意味での正しい信心ではなければ、こんな考えはナンセンス…、というより害悪でしょう。プラス×マイナスはマイナスにしかなりません。そもそも顕正会に正しい信心はないわけです。

> 頭ではなく 自身が仏法を実践…相手のことはその次

この考えはそもそも菩薩を説明する「自未度先度他」という根本精神にも採ります。また、頭で考えることを学といい、一念といい、一心といいます。一切はここからはじまり、ここに帰結します。考えることを放棄させ、会の方針どおりに動くことだけを主張することを精神の隷属、奴隷化ということです。また、言われる仏法の実践が、本来の意味での仏法の実践ではなく、単に会に都合のよいように会員を動かすことに付けられた便利な名称であるという仕組みを理解する必要があります。

以上、ラキさんに申し上げたというのではなく、わたしならば、以上のように応えるというプロトタイプを示してみました。

2259ラキ:2005/04/22(金) 11:54:47
皆様。おはようございます。

三学無縁さん。はじめまして^^
古書店で御書探してみます。

>ただし、正宗版も学会版と同様に誤字誤植誤読がありますから注意が必要です。
これは初耳と言うより、驚きです!編纂に時間を掛けて、正しく作られた物と聞いておりましたが、
これでは、大聖人さまも嘆いておられるのかと、悲しい気持ちです。

犀角独歩さん。
判りやすい、ご指導ありがとうございます。m(__)m
ここの掲示板では、気軽に疑問・質問が出来て、皆様が回答をしてくれて、
疑問・質問の追及?知りたい気持ちが満たされるのに、
組織に入ってる人に質問をしると、実践第一!考えるのは後みたいな感じには、
変と思っていましたし、逆に質問するのが疑い?信仰心のなさみたいに思えてくる、
感覚も覚えたりもしました。
犀角独歩さんのおかげで、私自身の信念。知りたい気持ち。
疑問などは、全部ぶつけていこうと思います。

追伸。
> 顕正会での正しき信心
「顕正会での正しき信心てなに?」と求めたら、日蓮大聖人の仏法を正しく実践していく事と、
回答が来ました。
そして「私が思う大聖人様の正しき信心とは何ですか?」との問いに対して、
私は「信・行・学」御書を拝読して学び、実践して、行動をする事だと、思うといいました。
難しい事は判らないのですが、御書は私達の「教科書」みたいな、学ぶための大切な書物だと思っています。
御書の勉強もしないで「日蓮大聖人のお心がわかるのか?との思いです」
信心を実践していけば「大聖人のお心が判る」との言葉には、納得できなく、
御書に書かれてることは、大切な事だと私は思っています。
私なりの考えですが、ご意見・ご指導のほど宜しくお願いします。
当分、顕正会の人達とお話しするきかいが多くなるので、気持ち的に私の考えはと、
不安になることもしばしばなので、少し自信がないのが本音です。

2260犀角独歩:2005/04/23(土) 01:39:38

ラキさん:

> 疑問などは、全部ぶつけていこう

どうぞ。100%、変化球、剛速球、なんでもOKです。
わたしは最後の最後まで、議論から逃げません。お付き合いしますよ。
ただし、その結論が、信仰者ご本人にとって、まことに受け入れがたいものになった場合、ご自身の頭で考えるところまでは責任は持てません。しかし、ラキさんは、そんな操作下ではないと思います。

> 信心を実践していけば「大聖人のお心が判る」

そんなこと、わかるわけがありません。
蚊に刺された人間が、瀕死の重傷者の症状とは隔絶する如くです。
1+1が2だとわかっても、相対性理論がわからない差異です。
ひとこと言えば、信心をしてしまったればこそ、わからなくなったことがたくさんあるという認識を信者は自覚すべきなのです。

> 不安になる

そんな必要はありません。あくびをしていてもできる範囲のことですから。

2261ラキ:2005/04/23(土) 10:16:15
皆様。おはようございます。

犀角独歩さん。
いつも判りやすい回答・ご指導ありがとうございます。m(__)m

2260のレスで自信がもてました。
学会の人には、学会批判に近いような微妙な質問でも、ごまかし逃げる癖があり、
話にならないほど、ダメな組織と確信しております。
会合優先の信心ておかしいとも、聞いたことがありました。
会合する暇があるならば、部員さんの家を周って対話をして行くのが、
実践(行)をしていく行いの一部ではないかといいましたが、
会合も大切な信心と言われて、普段の部員さん訪問は時間がなくて・・・
それて、自分に対してのいい訳であり、魔に負けてる証拠では?と、あきれてしまいました。

顕正会の方は、今、書籍等を読んで勉強しております。
正しい信心を主張してるわりには、物理的襲撃事件等、仏法実践者の姿とは思えない行動が、
言葉の真実味をなくす行為だと感じました。
ただ、途中までしか書籍を読んでませんが、多分、都合の悪い歴史は一切書かれていないでしょうし、
また、知らない人が大半ではと思います。

昨日、御書探しを古本屋さん巡りで探していたのですが、探すと見つからないな〜
て数時間歩き周り、ふと、お寺で購入した御書なら、顕正会の人も、間違った編纂とかいいわけが出来なくて、
いいかな?と思い、足を伸ばしたら、御書は本山でしか購入できないと言われました。
求める人に提供できないのて、変と思いつつ、教本だけ購入してまいりました。
ご観念文や勤行の作法は一切変化がなく、日蓮大聖人の仏法を正しく実践してると、
豪語する信徒団体は、基本の勤行自体独自な物に変化させてるのは・・・
納得が出来ないので、再度追求したいと思います。

2262犀角独歩:2005/04/23(土) 10:24:33

ラキさん、ご健闘をお祈り申し上げます。

2263パンナコッタ:2005/04/23(土) 13:47:50
顕正会の正しい信心についてはよく解らないので、参考として以前載った記事を見てみると、

『興味深いのは、地震学の権威、石橋克彦さん(神戸大教授)の見解を引用し、科学的な装いをこらして
巨大地震の到来を主張しているが、国立戒壇が実現され「日本は金剛不壊の仏国」となれば、なぜ地震が
やってこなくなるか、大陸プレートの動きがどうして止まるのか、まるで説明がされていないことだ。
それは北朝鮮の侵略についてもそうで、なぜ日本の国教が「顕正会」となれば、金正日の心が清らかになり、
核やミサイルの開発をやめるのか。説明はまるでない。』
『功徳を信じない相手に対しては、地震、北朝鮮など日本滅亡のシナリオを具体的に話し、不安感を煽る。』
『籠の中の小鳥ゆえに、新聞やテレビのニュース番組は見ようとしない。そればかりか、浅井は日蓮の基本
文献である「御書」の学習さえ勧めようとしないから、日蓮を本仏と崇めたてながら、
日蓮さえ理解出来ていない。籠の中で聞くのは、浅井流の独自解釈が入った日蓮の教えだけである。』
  カルトの正体   顕正会ー仏教ラディカリズムの嵐 米本和広 より抜粋・引用

2264パンナコッタ:2005/04/23(土) 13:48:29
 続き
『信心すれば功徳が得られ、信心が薄ければ罰が当たる。折伏すればするほど福運が付くし、宿命転換ができる。
そればかりか一刻でも早く顕正会会員を一千万人にしなければ、日本は滅んでしまう。
 ここに見られるのは、カルト特有の見事なまでの白か黒かの二元論である。功徳か罰かと問われれば、
功徳を取るのは当然だ。』
『人生を変えることが出来るかもしれない宿命転換とか福運とか言われると、ついつい引き込まれてしまう。
いちど入信すれば、目標を同じくする仲間たちがいる。一つの目標に向かって集団で動く。そんな経験は
なかったから、新鮮に映り、仲間との連帯意識のもと、勧誘活動に励んでいく。
 自分の存在や人間関係にリアリティが感じられない悲しい時代なのだ。顕正会はそんな時代の徒花といってよい。』
   カルトの正体   顕正会ー仏教ラディカリズムの嵐 米本和広 より抜粋・引用

2265犀角独歩:2005/04/24(日) 01:21:14

パンナコッタさん、米本氏の顕正会理解が正確はどうかは別として、蒙古と北朝鮮、決定的に違っていることがありますね。蓮師の考えでは、日本の国主が(法華経を持たないという意味で)悪王なので、「隣国の聖人に仰せつけ」て、日本を治罰するというのが蓮師の他国侵逼難観ですね。

もし、北朝鮮が攻めてくるとすれば、この「仏法の方程式」(笑)から言うと、金正日は聖人ということになります。

パッチワークな言説はこうして矛盾を来していくものなのですね。

2266ラキ:2005/04/24(日) 22:11:31
皆さん。こんばんは。
勤行に付いての明確な回答は得られませんでした。
何故、5座3座が1座長行のみになったのか、知らないみたいです。
正宗の教本を見せて、ご観念文の部分も聞きましたが、なぜ変化したのかも不明です。
大聖人の仏法を正しく受け継いでると自負するなら、5座3座の勤行。ご観念文の変更は、
疑問の出しかありません。
(妙信講時代は、石山版の経文を使用していたのは事実なのですし)

御書についてですが、浅井氏の御書講義で勉強してるので、特に研鑽は必要ないとの事でした。
御書拝読しても、文上の意味しかわからない、それどころか、文上の理解さえも出来ない。(読めない)
との意見でした。
学者が書いた物とかは、信心がない研究なので、大聖人のお心はわからないと。
私が感じるのは、正しい解釈は重要ですが、読む人の心の捉え方で、意味はわからなくても、
なんとなく判れば、いいのではないかと思うしだいです。
いつか、御書の意味がわかる時が来ると思っているからです。
色々な階層の信徒にお手紙を出されていますが、自分に当てはまるお手紙だけの拝読は、
偏ってしまうから、全体を通し拝読して何かつかめるものがあればそれでいいのではと、感じます。

一つ驚いた事があります。
ビデオセミナーで、浅井氏がお題目をいきなり唱えたのですが、多分最初にお題目の三唱をするのは、
毎回だと思われます。
そこで、参加してる人がいきなり、画面に向かいお題目三唱をしたのが、
「何故?画面に向かって、浅井氏が映ってるだけなのに、合唱してお題目を唱えるのか?と思いました。」
そのことに付いて質問をしたら、何か意味があったけど忘れてしまった。
意味があるにせよ、ご本尊が目の前にあり、そちらに向き直って、お題目を唱えるのが筋ではないかといったのですが、
いきなりお題目を唱えるので、向き直るのは難しいからと・・・
最初にお題目三唱をするのがわかっているのなら、ご本尊に最初は向かって、
お題目三唱が済んでから向きを変えればいいのでは?聞きましたが、
浅井氏に合唱して唱えてるわけではなく、内徳信仰の時とおなじで、ご本尊を思いご本尊に祈ってるのて、
目の前に「ご本尊があるのに!」無視してる印象、感じはぬぐいされませんでした。

浅井氏のビデオセミナーでの講義?見たいなのは、何を言いたいのか、理解不能!
今月中に目標下種の達成を目指しているて事しか理解できず、御書の引用とかも
サッパリ、???て感じです。
御書講義の本を読みましたが、最初の御書解説で、わからん!なにか違う気がする。
と思い、読むのを断念。
ここまで、私に途中挫折させた書籍はほとんどないのに、読む価値?もない思いで、
同じ御書講義なら「学会版」の御書講義のほうが読みやすさ。解説の丁寧さでは、
上だと感じました。

追伸。
「折伏経典」学会版。昭和26年11月18日 初版発行の昭和43年9月16日
改訂29版を借りる事が出来ました。
編集者。創価学会教学部
発行者 森田一哉

2267藤川一郎:2005/04/25(月) 11:36:31
>>2266
「御書についてですが、浅井氏の御書講義で勉強してるので、特に研鑽は必要ないとの事でした。」
それは変ですね!浅井氏への師敵対ですね。浅井氏自体が2度も御書発刊の発表をしております。

「御書全集は広宣流布の為に絶対必要」(顕正新聞 昭和60年2月25日号)
「御書全集編纂始まる」(顕正新聞 昭和60年4月25日号)
「御書全集、数年以内完結」(顕正新聞 昭和60年5月15日・25日合併号)

また平成7年にも浅井氏は
「顕正会版の御書全集を発刊する。広宣流布には絶対に必要。」
と述べられてますね。しかもこの時の発表では「御書全てに浅井氏の講義を付ける」
「上中下巻からなる全3巻とし、2年で1巻を発刊する」

これもどうなってるのですかね?

2268ラキ:2005/04/25(月) 11:53:01
皆様。おはようございます。

藤川一郎さん。はじめまして。
昭和60年に御書全集の発刊を表明してるのですね。
表明から20年経った現在でも、発刊はされていないとは・・・
「有言実行」であるべきなのに、嘘?〜〜〜建前だけ?〜〜〜〜
20年も編纂には掛からないのに、10年前にも表明してるんですね。
これは確認して、真相を究明したいと思います。
貴重な情報提供ありがとうございました。m(__)m

2269藤川一郎:2005/04/25(月) 13:03:47
実は、御書全集などはできの良さを気にしなければ、いくらでも速く出来るんですよね。
今まで既に出ている全集等を底本にすればよいのですから!
しかしながら浅井氏は全てに講義を付けるなど出来もしないことを発表するために、自身の首を絞めている訳です。
もっとも最初から、御書発刊など本気でないのかも知れませんが!

2270犀角独歩:2005/04/25(月) 22:14:11

横レス、失礼します。
藤川さん、顕正会・浅井さんの御書出版に関する発言、よく整理されていて、参考になりました。有り難うございました。

2271ラキ:2005/04/26(火) 22:44:22
皆さん。こんばんは。

ふと、些細な疑問が浮かんだのですが、
広宣流布(仏法?)に使った金銭は、戻ってくると聞きますが、何を根拠に言ってるのか、
疑問に思いました。
御書などにそのような記載文があるのでしょうか?・・・

追伸。
今日図書館で「平成新修日蓮聖人遺文集 」と「 図録日蓮聖人の世界 」を
読んできました。
ついでに「田中氏」の本も見かけたので少し読んできましたが、大聖人の仏法を、
受け止める側で、思想・考えが違ってくるのかな〜との思いでした。
大聖人のお心。真実はどこにあるのだろ〜私に理解できる時が来るのかな?
と、考えてしまいました。
真実を知りたい思いでいっぱいです。
やはり、真書を読んで考えるのが一番なのでしょうか?

2272犀角独歩:2005/04/27(水) 11:18:21

2271 ラキさん

> 広宣流布(仏法?)に使った金銭は、戻ってくる

もし、そんなことを言い、供養を募る者があれば、よほど、仏教の流れを知らない素人か、詐欺師でしょう。

何故ならば、供養は、元来、喜捨と言われ、何ら見返りを期待することなく、「喜んで捨てる」ものであるとされてきたからです。

2273ラキ:2005/04/27(水) 20:51:21
皆様。こんばんは。

犀角独歩さん。
>供養は、元来、喜捨と言われ、何ら見返りを期待することなく、
「喜んで捨てる」ものであるとされてきたからです。

初めて知りました。
ご供養は気持ちで、額ではないとは言われていましたが、ご供養した物は、
福運となり自分に戻ってくると聞いておりました。(学会では、増えて戻ってくると)

顕正会でも、広宣流布の活動に使ったお金や、年に1度の募金などのお金は、
使った分だけ戻ってくると言っております。
結局両団体は、広宣流布を名目に、折伏をすれば福運が付く!
書籍配布のお金も自前で行いますが、福運!福運が増えるとの甘い言葉で、
信者獲得、書籍販売で設けるために嘘を言ってる事になるのですね。

体験発表や新聞の発表など、ただの偶然だった事なのでしょうか?
今まで、信じて自分が困ったとき、助けてもらえると信じてご供養していたのって、
意味がないのですね!(><)
真実を知って、少し落ち込んでしまいました。
もっと研鑽したいと思います。

2274愚鈍凡夫:2005/04/27(水) 22:52:27

横レス失礼します。

「オイオイ。二日酔いは直ったんかぁ。変なこと書き込んだら出入り禁止になるでぇ!!」(by 外野席)
★☆★凸(--メ)(--メ(--メ)凸★☆★キングギドラ怒りぃ〜!

会員に良い事があれば御利益と言って、更なるご奉公を奨励し、悪いことがあったらあっで「魔が競ってるねん。成長するチャンスやで」なんて、変な激励をし、これまた更なるご奉公を強要されます。結局は、「会のため、○○先生のため」に奉公することが広宣流布であり、日蓮大聖人に連なる者の使命であると、「悲しい自己満足」を奨励されるのです。
教団にとっては、タダで汗を流してくれる会員が多ければ多いほど潤うわけですから、会員がどう転ぼうと、教団の利益になればそれで良しということでしょう。

2275ラキ:2005/05/03(火) 22:14:42
「ごりんじゅうのさい、日蓮むかん(へ?)そうろう」
御書検索で調べましたがヒットしなくて、「日蓮」で検索しても、類似するような
御金言がありませんでした。
歴代上人の御文などで、このような言葉が記載されたものとかあるのでしょうか?
類似してる御金言又は、御文を知ってる方がいましたら、教えて頂けないでしょうか?
お願い致します。m(__)m

2276ラキ:2005/05/03(火) 22:19:29
もう一つ忘れてました。
「けいていしょ」なる御書か歴代上人の著書?は、存在してるのでしょうか?

2277問答迷人:2005/05/03(火) 22:42:15

>けいていしょ

兄弟抄のことではありませんか

2278愚鈍凡夫:2005/05/03(火) 23:39:22

>>2275:ラキさん、どうもです。

> 「ごりんじゅうのさい、日蓮むかん(へ?)そうろう」

次の文の事ではないでしょうか。

「相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。」(「上野殿御返事」学会版P1558)

2279ラキ:2005/05/04(水) 00:47:32
問答迷人さん。愚鈍凡夫さん。
回答ありがとうございます。m(__)m

質問に回答を頂きましたが、知りたかった理由は、
身元が判明する可能性があるので、今回はご容赦の程お願い致します。m(__)m

調べたのですが、解釈をどう受け止めていいか、迷ってます。
勤行の話をしていて、1座は蓮師の言われた作法ではなく、
また、歴代上人も勤行に付いての御文で述べられていますが、
その事を、相手に話したら、経文の文から。
「一心欲見沸 不自惜身命」ではないかと言われました。
言った本人は現代訳の意味は知らないで使用したので、調べたのですが、
「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」 
この意味から私が思うのは、信心(信じる心)が大切で、身命を惜しまない「行」(折伏)が
大切だと、言いたかったのかとも考えております。
だから、この意味では、五座三座の勤行が1座で良いのか理解できません。
蓮師のお心に叶う意味で述べたのかも知れませんが、何かアドバイスでも頂けたら、幸いです。
今は、学びたい・学べる喜びで嬉しいです。^^
信・行がないとダメ!て言われましたが、私は、前にも述べましたが、
やはり、学びたい気持ちの方が大きいです。
それでは、御書拝読してまいります。


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