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素朴な疑問
2258
:
犀角独歩
:2005/04/22(金) 10:18:48
―2255からつづく―
>> 法論をするのはやめ…法を下げる行為
法を下げるなんてことは、まるでないわけです。わたしはこの信仰をやっていると主張する人は別段、法の何も代表していません。
野球で、巨人軍ファンが犯罪を犯したら、巨人軍を下げることにならないのと一緒です。こうして、恰も、一人の人間が法そのものと直接かかわっているような錯覚を与えて、行われていることはただの真理と行動の操作以上の意味はありません。静岡県立大学の西田先生は
『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)のなかで
「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」(P227)
と批判精神こそ、健全な心であることを指摘しています。
> 顕正会での正しき信心
顕正会の正しい信心が、本当の意味での正しい信心ではなければ、こんな考えはナンセンス…、というより害悪でしょう。プラス×マイナスはマイナスにしかなりません。そもそも顕正会に正しい信心はないわけです。
> 頭ではなく 自身が仏法を実践…相手のことはその次
この考えはそもそも菩薩を説明する「自未度先度他」という根本精神にも採ります。また、頭で考えることを学といい、一念といい、一心といいます。一切はここからはじまり、ここに帰結します。考えることを放棄させ、会の方針どおりに動くことだけを主張することを精神の隷属、奴隷化ということです。また、言われる仏法の実践が、本来の意味での仏法の実践ではなく、単に会に都合のよいように会員を動かすことに付けられた便利な名称であるという仕組みを理解する必要があります。
以上、ラキさんに申し上げたというのではなく、わたしならば、以上のように応えるというプロトタイプを示してみました。
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