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素朴な疑問
2190
:
犀角独歩
:2005/04/13(水) 23:40:24
―2189からつづく―
> 出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像
これもまったく聞いたことのないことです。
では、仮にその菩薩像として刻まれたのがただのパトロンであるとしたら、では、実際の菩薩とはどのような人々を指すのでしょうか。
なお「出資者」ということですが、これはまさに布施(布き施す)という六波羅密の一つではないでしょうか。
> …観音信仰
先にも記しましたが、観音はナナイヤが仏教に習合し、菩薩という性質を与えられたものであると思います。独自に生み出されたものではないのではないでしょうか。
> 医師や薬…四苦八苦から解脱する方法を提示
それは初期シャキャムニ教団ではそうであったでしょうが、ここで論じているのは菩薩思想以降の仏教ですね。
薬王菩薩、薬王如来、薬師如来と言った仏菩薩は、法を薬に喩えた名前であるというわけでしょうか。実際のところ、薬草その他は当時の教団が民衆をとらえる大きな装置であったのではないでしょうか。殊に向精神作用のある薬物と仏教の関係は取り沙汰されています。
> 仏教の教えは言わば「根治療法」
インドにおける仏教教団がまったく医薬を使わなかったとすれば、そのように言えるでしょうが、実際は使われていたでしょう。
> 慈善事業というのは「対処療法」
この考えはわたしは違うと思います。
たとえば、阿育大王は単に仏教の流布に貢献したのではなく、それに伴い多くの慈善事業をしたからこそ、仏教と共にその名声をいまに伝えるのではないでしょうか。この事情は、「日蓮」という特例、また、座禅三昧で民衆に交わらず大乗と言って憚らない特例を除けば、先に問答さんが引用された行基の如く、不離一体の関係にあったというのが史実であるとわたしは観察します。
> 一切の苦しみからの解脱を主張する仏教
解脱を主張するのは、何も仏教に限りません。この言葉はシャキャムニ在世当時のシュリマーナ一般に使用されていた言葉でした。
> 慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。
このような一字三礼のお考えは否定しませんが、ここで問題にされているのは、菩薩といわれた人々が、では、慈善活動(布施)をしなかったのかどうかという点です。
繰り返しますが、六波羅密の第一は布施であり、布施とは坊さんがお金をもらうことではなく、菩薩が衆生に布き施すことが原義です。この原義から、菩薩の重要な活動であったことが知られると申し上げているわけです。
それは副次的ではなく、菩薩がなすべき行の一つに数えられてきたということです。
> 慈善活動を最前面に立てる
誤解があるようですが、どこに最前面に立てるべきと言うのは、今日的な課題です。
わたしが記したことは、経典流布に主体が置かれてm慈善活動(布施)が等閑にしては、本来の菩薩精神から後退したことになるという意味です。
> 仏教が本来の面目を完全に失った時
わたしはまったくそうは思いません。法華経を信じれば病気も治る、貧苦からも救われる的な信仰勧誘より、いま病に苦しんでいる人に薬を与え、手を差し伸べ、飢えて死にかけている者に食を与え、凍え死ぬ者に衣与えることが先決です。病気で死にかけている人、飢え死にかけて人、凍え死にかけている人の、それらの一切の苦しみから、どうやって解脱ができるのでしょうか。解脱とは死んで苦しみを感じなくなることですか?
布施が第一に来る所以はそこにあるのではないでしょうか。禅定に臨むに足りる最低限の状態を約束せずして、解脱は有り得ません。
どうも、2186に記されることは、わたしはすんなりと納得できません。
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