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素朴な疑問
2186
:
一字三礼
:2005/04/13(水) 18:45:47
> 2161
法華経の成立は、紀元前50年から紀元後150年の間とされています。
この法華経一部二十七品の内容全体には一貫性はなく、各品によっても成立年代が違います(例えば、九分経であったり、十二部経であったり)一時期に一箇所で全体が成立したものとはとても考えられません。
例えば、序品から法師品までの一乗の教えを主張する集団と、観音品で超人的菩薩の神力による加護を奉ずる集団とは別系統の信仰集団でしょう。
法華経成立は、これら信仰系統を別にする集団によって奉じられてきた幾つもの教えが、霊山会という舞台を軸としてまとめられたと考えます。
これらの理由から、私は法華経の創作者達という表現に違和感を感じます。
内容についても法華経前半部で主張される一乗思想は、辺境の小規模集団の発想というよりは、都市部のグローバルな考え方ではないでしょうか。
法華経成立当時の仏教界の様相は、上座部と大衆部で激しい論争を繰り返しており、この2者に対して新興の大乗が新たな視点から論争に名乗りを挙げた時期でしょう。
この最中に”実は総ての教説は一乗のためだった”と宣言したのです。その意図は、根本分裂以来、分派と分裂を繰り返す仏教界に対して、大局から見た統一を試みたものと考えられます。
ところが実際に仏教諸派にその主張を納得させる作業は、困難を極めたであろう事は想像に難くありません。
例えば、十二因縁説のように一因に一果を固定的に当てはめる教説と、般若空観を主張する大乗中観派は相容れません。互いに矛盾した教説を抱えていてもそれを是としているのが二乗作仏の特徴でしょう。
仏教の教説は、歴史的には段階的に整足され(例えば、最初期には六正道だったものが八正道に、九因縁が十二因縁に等々)また、バラモン数理派等との論争を経て完成されてきた教説であるのに、法華経はそれを総てOK牧場!と言い切ってしまった。
法華経の説く布教に伴なう忍耐とは、他宗派のみならず、頭の固い同じ仏教圏からも受け入れられないであろう事を想定して強調されたのではないでしょうか。
大乗の菩薩について
アジャンターやエローラ等で見られる豪華な服飾品を付けた菩薩像は、大乗教団への出資者・パトロンではないでしょうか。インドで武士階級に続いて実力をつけたのはシルクロードで商隊貿易によって利を得た大商人達でした。その商人達の財力によって石窟寺院等が建立され、その出資者たる商人に敬意を表するために菩薩像として刻まれたのでしょう。
例えば、観音品の
「金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・真珠等の宝を求めんがために大海に入らんに、仮使、黒風その船舫を吹きて羅刹鬼の国に漂わしめんに、その中に若し乃至一人ありて、観世音菩薩の名を称えば、この諸の人等は皆、羅刹の難を解脱することを得ん。」
「若し、三千大千国土に、中に満つる怨賊あらんに、一の商主有りて、諸の商人を将いて重宝をもたらして険しき路を経過せば、その中に一人、この唱言を作さん『諸の善男子よ、恐怖するを得ること勿れ。汝等よ、応当に一心に観世音菩薩の名号を称うべし。この菩薩は能く無畏を以って衆生に施したもう。汝等よ、若し名を称うれば、この怨賊より当に解脱することを得べし』と。」
この観音信仰は、商隊貿易を行うパトロン達の安全の願いに答えるかたちで成立したのではないでしょうか。
慈善事業について
仏教では、生・老・病・死等の人に必ず訪れることがらを一括して”苦”と認識します。それを四諦の順に観察して解脱することを目指します。
医師や薬、施設等によって病を癒しても、また別の病が襲ってくるであろうし、治療方法の無い病気もあるでしょう。そうこうしている内に今度は老いが迫ってきます。リハビリや食事、健康管理を徹底したところで人は必ず死ぬ。その為に仏教では一切の執着を捨てて(諦めて)四苦八苦から解脱する方法を提示するのでしょう。
仏教の教えは言わば「根治療法」です。それに対して慈善事業というのは「対処療法」と言えるのでしょうか。
一切の苦しみからの解脱を主張する仏教で、慈善活動・慈善援助が菩薩の本来の活動であるとは考えられません。仏教においては、慈善活動は副次的に行うものとなるでしょう。
慈善活動を最前面に立てるとすれば、それは仏教が本来の面目を完全に失った時ではないでしょうか。
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