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素朴な疑問

2195犀角独歩:2005/04/14(木) 08:35:52

愚鈍凡夫さん開三顕一を「二乗対菩薩の対立を乗り越え、三乗即一乗」というのは、なかなか優れた解説ですね。まあ、しかし、仏教なんだから、中心は仏、当たり前の話ですが。それなのに、敢えてそんなことはさもたいそうに主張したか…、そこら辺に当時の宗教事情が垣間見える気がします。

法華経はお釈迦さんの在世を描いたという前提ですね。声聞はお釈迦さんの声を聞ける弟子、縁覚はその起源が明確ではないですが、文字面から類推すれば釈尊教団とは関係なくそれなりの覚りを得た人々。前者は広くは四衆なのか、それとも直弟子に限るのか、よくわかりません。それに対して、菩薩ということなんでしょうが、これは実は変ですね。
何故ならば、元々菩薩はお釈迦さんの成道以前修行の姿を指す言葉であったからです。その性格からすれば縁覚と違わないように見えます。では二乗と菩薩の相違は何かと言えば、目指すところの相違ですね。先にわたしは「解脱」という言葉を広い意味で使いましたが、これはあまり正確ではない。解脱は菩薩が目指す者ではなく二乗の目標でした。仏の目標は有余涅槃から無余涅槃で、では、解脱と涅槃、どこが違うのかと言い出すと長い議論になることでしょう。前者は化身滅智で完全に消滅してしまうことを目的にしますが、後者の仏は涅槃してもなお、衆生済度を目的とし続ける差があるのでしょう。
では、菩薩はとなると、この特徴を端的に現す表現は「自未度先度他」ということですね。仏の目標である涅槃に衆生を先に達成させ続けるために、自分はその前段階で衆生と関わり続けるということですね。これは涅槃してしまう仏とも解脱してしまう二乗ともまるで違います。その意味で法華経で説くとされてきた3対1は、むしろ、声聞・縁覚(解脱組)、仏(涅槃組)対菩薩の関係と見えますが、これじゃ、まあ、仏教にならないので、すべては仏様と言うところで束ねましたという話の展開のように思えます。

先に「教菩薩法」という言葉が出てきましたが、このような菩薩の在り方を教える法が妙法蓮華経だぞということのわけです。そんな意味ではわたしは「無二亦無三」という什のドグマは全然違うだろうと思うわけです。法華経典崇拝と菩薩道が二大特徴で、その菩薩の勧めのために、五百塵点成道の釈尊自身の菩薩道を言い、その結果、こんなに長い寿命を得られた、菩薩道をする長寿を得られるということを説くのが法華経ですね。

そんな観点からすると、九如から一心三観、三千不可思議境、一念三千という一連の教学解釈は、法華原典のコンセプトとはまるで別物と思えます。この歴史的推移の裏舞台では三身説が喧しいわけでしょうね。要は、そんなことを言うために、法華経を活用しただけであろうと思えるわけです。しかし、天台と言えば、法華というのは、日本天台宗的な解釈であって、それを鵜呑みにしがちです。しかし、わたしはちゃんと読んでいませんが、天台は法華研究はむしろ一部分的なもので華厳でしたか、そっちの法がむしろ専門的で、著述その他も多いということをどこかで読んだ記憶があります。まあ、そうは言っても四教、五時ということは言ったんでしょうが。

それに関連しますが、法華・涅槃という取りまとめ、当時の中国では涅槃経がもっとも人気があったわけで、それと法華経をくっつけた効果は作戦としてうまかったと思えます。しかし、この二つの経典、説くところがまったく違うわけですから、いまの日蓮論争にまでそのツケが付いて廻っていると思えます。これは本尊抄と総勘文抄が整合性が採れないのと同じくらい違うわけですね。

ついでに、だらだらと書けば、愚鈍凡夫さんのご投稿を読んで「ああ、そうだったっけ」と思ったのは無量義経のほうがあとから訳されたという点でした。法華と涅槃を括ったのも、変なことになるなりはじめのわけですが、無量義経を開経、結経を仏説観普賢菩薩行法経とするというのも、実に作為的なことであると思います。釈尊の一生という流れから言って、結経といえば、わたしは涅槃経を置いてないであろうと思うわけです。それを法華経と言うとき無量義経、法華経、普賢経をひとまとめにして法華、さらにその法華と涅槃を五時で一つに置くという構造は、まあ、手の込んだ作為であると思います。


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