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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1172神の子さん:2013/03/04(月) 14:00:41 ID:???
ごろーさん酷いですよ
管理人さんが貴重な資料を出して下さったのに
雅春先生の教えを自分達だけのものにしたいという意図が見え見え
解釈に異論があるなら、それなりの資料を出して反論されたらいいのに

1173「訊け」管理人:2013/03/04(月) 14:47:57 ID:???


>>トキ理事長


 ・・・・新聖経ですが、貴殿は読んでないのにいつも、「カミナリ」が落ちますね。






追伸


 ドシドシお願いします。(何の問題もありません)

1174トキ:2013/03/04(月) 15:02:10 ID:.x.pbmJs
>>1170

goro 様

 ご投稿、ありがとうございます。goro様のご意見は理解しました。削除要請は歓迎しませんが、
反論は大歓迎申し上げます。ただ、倫理面での問題点と言われると、基準的に困る部分はあります。

 詳密講習会は、20年以上前に開催された行事でしたから、講演内容は、当時の基準から見たら問題
がないものでも、現在のような教団が分裂している状態では、そのまま紹介すると誤解を招くものが
含まれています。従って、そのまま公表する事はしていませんし、今後もその予定はないです。

 しかし、その内容は卓越したものであり、そのまま埋もれるのは惜しまれるものがあります。です
から、たまに言及する事はあります。しかし、その場合でも、かなり考えた末に文章を投稿します。

 今回、問題になった文章ですが、最近、幹部や講師の中で、自分の子弟が信仰を継いでくれないと
いう悩みを抱えた人が多数おらえます。組織に在籍していない方にはご理解頂けないでしょうが、
現役の信徒には切実な悩みとなっています。私の文章はそういう方に向けて書いた文章です。組織外
の方にはご不満のある文章ですが、組織内の皆様には分かってもらえると思います。

 その中で、谷口雅春先生の御孫さんのご発言を引用したのは、谷口雅春先生ですらこの点について
はご苦労をされた、という事を伝えたかったからです。ただし、原文を再三読み、自分としては
倫理面、あるいはプライバシーに触れないよう、最大の努力をいたしました。その詳細を申しあげると
ご理解頂けると思いますが、それではプライバシー保護にならないので、省きます。ご理解下さい。

 それだけ努力をしても、「倫理面に問題があり、思いやりがない」と言われると、「そういうつもり
はありませんでしたが、もし、そう受け止められる部分があったとしたら、申し訳なく思います」
とご返答をするしかありません。

 なお、法律上の観点から参考になるのは、1964年に起こった傷害致死事件に取材した伊佐千尋さん
のノンフィクション作品『逆転』(1977年刊行)というの事件があります。この本はプライバシー侵害
で裁判になり、最高裁判所まで争われました。この事件の判例は、公開された過去(判事歴など)について
のプライバシー侵害の基準についての参考になると思います。

 以上、ご返答申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1175トキ:2013/03/04(月) 15:03:57 ID:.x.pbmJs
>>1173

 いえいえ、全部、私の責任です。しかし、

>> ・・・・新聖経ですが、貴殿は読んでないのにいつも、「カミナリ」が落ちますね。

というコメント、わらってしまいました。あ、不謹慎な事を言って、ごめんなさい。

1176トキ:2013/03/04(月) 15:35:42 ID:.x.pbmJs
>>1171

 ご投稿、ありがとうございました。ただ、ご存命中の方に言及する場合は、
敬称の使用をお願いいたします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1177goro:2013/03/04(月) 16:23:20 ID:nCo1DokU

私としては御返事の内容に承服できませんが、アナタが良とされているのですから、これ以上は何も言いません。
が、>>「カミナリ」が落ちますね。<<に笑ってしまう程度のことでしか無いのですね。
尊師の言葉を連ねながら常に毒を含ませているとしか思えません。信徒から見ればとても悲しいことです。

追伸
親の信仰を子供が受け継がないという問題は昔からあります。私がそうでした。
戦後の貧困の中で、思うとおりになる世界を説きながら貧困生活を余儀なくされている現実、
親の言っていることと、現実との乖離に苦しみました。が、おとなになり、心の法則や真理を学び
人生の意義を知るにつけ、親の心も理解できるようになりました。

尊師ご一家のことについては、言えませんが、一般信徒の家庭での子供から見た親の生活態度に
表裏があれば子供は見抜きます。言っていることと行なっていることが違えば子供は親を信用できなくなります。
神の子・完全円満を云われれば云われるほど、目の前で起きている現実、例えば家庭問題(夫婦喧嘩・病気)や経済問題などです。
信仰についてのお手本は目の前にいる親です。

1178トキ:2013/03/04(月) 16:42:24 ID:.x.pbmJs
>>1177

 ご投稿、ありがとうございました。行き届かない点にはお詫びいたします。

 親の信仰を子供が受け継がない、という点は、確かに難しい点はあります。goro様が言われる通り、
親の信仰態度に問題がある場合も多いです。しかし、中には、何人かいる子供さんのうち、信仰を受け継ぐ
人と受け継がない人がいます。

 親の立場としては、自戒すべき点だと思いますが、他の家庭の場合は、それを責める材料にしてはいけな
いと感じます。

 以上、簡単ですが、よろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1179うのさん:2013/03/04(月) 18:04:56 ID:cGOM0Xtw

総本山の鎮護国家落慶式の特集聖使命新聞や、神誌など拝読させていただくと
清超先生一家や、雅春総裁夫妻が記念写真を撮影するとき、雅宣先生は、現場に
おられなかった様子が伺えます。さみしいことですね。

1180うのさん:2013/03/04(月) 18:09:26 ID:cGOM0Xtw
 さくら様へ

 しばらくこの掲示板を見なかったそうなので、再掲させていただきます。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
255 :うのさん:2013/02/21(木) 15:46:01 ID:ZMwAwU4.
 さくらさんの提案した試合ブログやさくらさんのせいで、わたしは訊けから
さんざんな目にあいました。今度の誌友会では志恩さんがとばっちりを喰らったようです。

 試合ブログでも謝罪しなかった、訊けのかわりや、その他もろもろの
 責任を取る意味で、「さくら」さんには次回の誌友会の自主謹慎を要望します

1181うのさん:2013/03/04(月) 19:37:09 ID:Mz4ulATk
トキ様へ

 悪態ついていた訊け管理人さんが、また出て来ていますが、
 このひとはいったい何なんですか?
 トキさんは以前、漫才版でもつくりましょうか、といい、
 今回は川柳版でもつくりましょうか、といってましたが、
 なにを考えてるんでしょうか。
 言い逃れ いいこともあるのかな
なんて書かれてましたが、なんて卑怯なんだろうと思いました。

1182トキ:2013/03/04(月) 20:10:42 ID:.x.pbmJs
うのさん様

 この掲示板では、どの投稿者様も大事な存在です。もちろん、お互いに意見を述べ合う事は大事です。
が、うのさんも、訊けさんも、大事な投稿者様です。

1183うのさん:2013/03/05(火) 09:24:34 ID:IKosEoAw
トキさんへ

 貴方様は何回おなじことばかりいってるんですか・
 もうあなたには何もいわないでおこうと考えていましたが、こないだも
 わたしをアラシかなにかのようにいうからひとこといわせてもらいます。
 訊け管理人さんへの苦情はメールでとのことでしたが、苦情は今までその都度
 いってるんです。けれど、訊け氏はわたしをからかうようなふざけた絵を書いたり
 まともに回答しませんし、うのはなさんの主張はまったくわかりませんのくりかえしです。
 警察から管理人にまずいうようにといわれたし、トキさんも訊け氏に直接いわないで
間にトキさんを通して話すようにしたらどうかといわれていたからトキさんにも
 こうこうしたらどうか、訊け氏に注意してくださいなど、何回もいってます。
 でもラチがあかないし、これといっても注意もしないし、訊けは横から
 キケテリアへどうぞとかギャーギャー口出してきます。
 なにもかわりません。
 こないだも●●さんがぬれぎぬきせられてかわいそうだとか、以前から
 そんなことばかりです。もうこういう苦痛は死なないと解決しないだろうな
 と思っています。
 トキさんにも期待するのはやめます。

1184ありがとう:2013/03/05(火) 10:34:11 ID:???
 総本山落慶のとき、御神体の『護國の神剣』を御奉還されたのは

 雅春先生の御名代貴康くんでした

 その頃の谷口某は、教団外にいました。

1185トキ:2013/03/05(火) 17:26:28 ID:ahYjF726
>>1155

 元青年会員です 様、ご投稿ありがとうございました。

 私は榎本恵吾先生とは、あまり面識がなかったので、榎本先生とご生前、仲が良かった方に電話をして、
「榎本先生なら、この場合、どうされたと思う?」と質問をしました。相手は笑って
「それは、霊界におられるご本人に質問をするしかないですね」
と返答をされたのです。まあ、確かにそうですね(笑)

 その方は続けて、「榎本先生のご生前の態度を考えると、今の教団の暴走に一喜一憂する事はなか
ったとは思う。ただ、何回かに渡り、榎本先生は本部の指導方針にはっきりと異議申立をしていたという
証言も聞いている。そうすると、全く沈黙を守ったとも考えにくい。しかし、それ以上の事は
私には分からない。」

 とも話していました。

 その方が最後に言われたのは、「私が見た宇治の講師でも、藤原敏之先生や榎本恵吾先生は、いわゆる
縦の真理を主に言われる先生でした。しかし、同じ宇治には、楠本加美野先生のように、先祖供養や
親孝行の話をされる先生もおられます。これは、どの講師がどうの、ではなくて、それぞれの講師のあり
方があるので、それにこだわる事はないのではないか。」という事でした。

 個人的には、360度転回かと感じています。つまり、今の本部の指導を見ていると、信仰に動揺を感じる
人もいるようです。しかし、その体験の中で、いろいろと疑問を感じたりしているうちに、原点に戻る
と思ってます。少しケースが違いますが、内村鑑三が米国に留学中、キリスト教社会の矛盾や問題点を
体験し、キリスト教に疑問を感じている中で、最終的に自分の信仰へとたどり着いたようなものかも
しれません。

 あまりご返答になっておりませんが、愚見を申しあげました。貴重なご投稿に深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1186うのはな:2013/03/06(水) 21:28:31 ID:AY.u6u3I
     神との約束

 私が生まれるずっと前、私は神と約束しました
 この時代の この国に このお母さんと このお父さんの
 子供として 生まれてくることを

 私が生まれるずっと前 私は神と約束しました
 この人と出会って この人と友だちになり この人とケンカして
 この人と一緒に過ごすことを

 私が生まれるずっと前 私は神と約束しました
 ここで泣いて ここで笑って ここで傷つき ここで死んでいくことを
 
 私が生まれるずっと前 私は神と約束しました
 あんなこと こんなこと そんなこと いろんなことを
 たくさんたくさん 約束しました

 なのに私はすっかり忘れていました
 私が生まれるずっと前 あなたと今 ここで出会うことを
 あなたと約束していたことを

  詩  はづき虹映 著

 天使の梯子 http://labaq.com/archives/51405087.html

1187元青年会員です:2013/03/08(金) 01:54:36 ID:O.lo5tDM
>>1185 トキさま

解決の見えぬ暗闇をさ迷った末、深い真理に目覚める者は多いです。
それは、人生を真剣に生きるゆえなのでしょう。

正直に告白しますと、私は残念ながら、若き日の谷口雅春先生や藤原敏之先生のように真剣に生きているとは言えません。
私もまた苦悩を抱えつつ生きていますが、その苦悩は、両先生の苦悩とは全く質が違います。

私は、純粋に真理に向き合いたい。
それは、正直に自分自身へと向き合う、ということです。
しかし、私はまだ、そこまで深く入っていけません。
言い換えれば、私の苦悩は、底の浅い薄っぺらい苦悩に過ぎない、ということです。
私はまだ、お気楽なんですよ。

私は、禅の世界で明らかに悟りと言いうる体験をした人を二人、知っています。
お話を伺うと、二人とも、本当に深く深く苦悩する経験をしています。
人生の奥底の底(死や別れ、どうしようもない虚無の感覚)を嫌というほど体験させられたがゆえに、二人とも、本当に真剣だったのです。

もちろん、苦悩は、絶対必要というわけではないでしょう。
必要なことは、「真剣である」ということです。
悩む時は真剣に悩む、真理を実践する時は真剣に実践する、ということです。

生長の家の真理の実践とは、元来、明るいものです。
ただ、悩むにせよ光明生活を送るにせよ、真剣であれば同じ所に着地するだろうとも思っています。

トキさまのお話を受けて、私もまた、自分自身に正直に向き合ってみます。
それは、かなりつらい作業かもしれません。
しかし、自分を誤魔化してきた私にとって、必要な道程です。

※生長の家の教えは明るいものですし、苦悩を勧めるものではありません。
ただ、自分に正直になるということが、私には必要だなあと思いましたので、率直に述べました。

1188トキ:2013/03/19(火) 17:25:59 ID:ByWGBBuw
 最近、この掲示板にブランドバッグの公告の投稿が多いので、他の宗教板も久しぶりに見ました。
やはり類似の投稿が多数あり、この掲示板だけを狙ったものではない事がわかりました。ただ、他の
宗教板を見ていると、どの教団も信徒数の激減に悩んでいる事がわかりました

 天理教などは、戦後は信徒数200万人を越すと聞いた事がありますが、現在では、熱心な信徒は
15万人程度だと言われます。立正佼成会なども大幅に信徒を減らしているようです。浄土真宗も
50年前の遠忌と今回の遠忌では、参拝する信徒数が全然違う、という記事も見た事があります。
 昨日は創価学会の事を書きましたが、その創価学会の元幹部によれば、毎月30人から100人ほど
の脱会者が出ているとも聞いています。
 海外では、カソリックの法王の交替がありましたが、やはり問題山積と報道されています。

 創価学会などは内紛がありましたが、他の宗教法人は特に内紛がないのに信徒数が激減しています。
そういう点を考えると、内紛は一つの要因だが、メインの要因ではない、という事は言えるかもしれ
ません。

 自分が他の宗教板を見て感じたのは、どの教団も、官僚化、形式主義が蔓延し、開祖、教祖の教え
が建前になってしまっている事です。戦前は軍や警察の監視があり、いつ取り壊しにあうかという
緊張感がありましたが、戦後は信教の自由があり、それを最大に活用して教団は伸びて来たのです。
もちろん、教団の拡大は良い事ですが、それが組織の肥大化をうみ、官僚化をうみ、同時に形式主義を
作り出したという印象があります。その背景として、どの教団も信徒も幹部も職員も、初代信徒では
なくて、二代目、三代目の信仰者になったという事もあると思います。

(つづく)

1189トキ:2013/03/19(火) 19:26:39 ID:ByWGBBuw
 教団が拡大し、組織が拡大すると、いつの間にか宗教団体の内部が「部分社会」というか、
一つの社会になります。それは当然なのですが、いつの間にか信仰でもなく、社会常識でも
なく、部内の「空気」だけで動く社会が出来ているという印象があります。

 卑近な話ですが、私も、組織内部で、不合理な経験をする事はあります。
幸い、私の場合、活動歴だけは長い(中味はたいした事はないですが)ので、多少、
不当な要求をされても、それを論破するだけの知識と経験があります。しかし、新人さんの
場合は、この雰囲気に呑まれて、いやいやながら従うのではないか、と思ってしまいます。

 確かに、こういう官僚化、形式主義は、現在の総裁になってから急激に加速しましたが
それ以前にも、程度の差こそあれ、信仰組織にあるまじき風潮は目につきました。教団の
発展が頭打ちになったのは、決して偶然ではないと思います。

 そして、もし、今回の総裁の「暴走」がなければ、私を含めて、大半の人が、このような
教団の官僚化や形式主義に気がつかず、他の教団と同様、かってとは比べ物にならない位に
気がついたら、衰退した組織になっていたと思います。

 そういう視点で考えるなら、確かに、今回の総裁の「暴走」は、危機ではありますが、
逆に、チャンスでもある、と言えます。神様は、そういう危機にいち早く気がつかせて
下さったと信じます。

 つまり、従来、組織に蔓延していた、そして今も蔓延している官僚主義や信仰の形骸化
について考え、信仰や運動とは何であるか、という事を再検討する好機であります。

 その意味で、ネットや掲示板で何ができるか、信徒の一人一人が考える時期であると
思います。

合掌 ありがとうございます

1190トキ:2013/03/19(火) 21:19:20 ID:ByWGBBuw
>>1187

元青年会員です様

 ご投稿、ありがとうございます。真摯な内容の投稿には感激しております。
真面目なお人柄がうかがえ、自分もお手本にしたいと思います。

 私は、悪い意味での活動家で、高慢な人間でしたから、偉そうな事は何も
言えません。が、おかげで、あちらこちらと頭を打ったので、考えるようになりました。
(ちなみに、今でも高慢なので、修行中です。)

 自分の場合は、信仰とは、もっと基本的なもの、普通に生きている中で自分の芯に
なる部分でしょうか。ある谷口雅春先生の直弟子の先生が「悟ったふりをしなくても
よい」と言われたので、その意味で楽になりました。

 例えば、最近はそういう事はないですが、パソコンを買うと、分厚い説明書がつい
てきました。その全部を覚えるのは無理ですが、使っている時に分からない事がある
と、説明書を引っ張りだし、説明書を読むと、それを繰り返しているうちに、段々
とパソコンがうまくなります。生命の実相の勉強も、それに似ているような気がします。
本に書いてある事が自分のものになるには、実際の人生での経験が必要だと思います。

 思うのですが、この人生に自分達は勉強をしに来ているのですから、知らない事
は恥じるべきではなくて、勉強をしない事を恥じるべきかな、と感じます。

 とはいえ、自分はまだまだ知らない事、学ぶべき事が多いのに、精進をする姿勢
にかけているので、私は、その点は恥じるべきかもしれません。

 では、今後ともよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1191元青年会員です:2013/03/21(木) 12:18:44 ID:NMTz8OPs
>>1188
>>1189
>>1190 トキさま
宗教に限りませんが、組織というものが出来上がり大きくなると、色々な問題が生じるものです。
トキさまが以前書かれたように、カトリックは中世にすでに堕落があり、プロテスタントが生まれる契機となりました。

生長の家は、組織よりもっと根本的な問題である「旧来の宗教的観念」、これを打ち破る斬新な宗教哲学として誕生しました。
宗教というものは、モーセの昔からそのようにリニューアル(再生)を繰り返しています。

谷口雅春先生は、これを「焼き直し」とおっしゃいました。
絶筆である碧巌録解釈の最後には、こう書かれています。
「私の今まで書き綴ってきた講義は、単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである」と。
つまり生長の家の教えは、先哲の教えを焼きなおしたに過ぎないと。
しかしこれは同時に、「旧来の観念を打ち破る新思想」を生み出すことでもありました。

モーセの昔には、物質的な偶像崇拝を否定して、斬新な「神の言葉」を打ち立てました。
キリストは、形式的な戒律へと堕した「神の言葉」を否定し、斬新な「神の愛」を打ち立てました。
日本の仏教界では、法然や親鸞が、貴族のための宗教から民衆のための「誰でも救われる」宗教へとリニューアルしています。

生長の家は、キリスト教や浄土真宗などにありがちな「罪」を否定し、光明思想を打ち立てました。
原罪や罪悪深重の凡夫という旧来の観念を打ち破ったのです。

私は思うのですが、こうやって旧来の観念が否定されて新しい教えが生み出されるたびに、より純粋な真理へと近づいている感じがします。
リニューアルされるたびに、余計な部分が削ぎ落とされて純化しているなあ、と。

現在の生長の家の衰退も、こうした流れの中にあると私は思っています。
つまり、単なる教団組織の問題だけではない。
さらなる純粋な教えが生み出されるプロセスとして、こうした問題が生じていると思います。

トキさまは私の意見に賛成なさらないかもしれませんが、私は谷口雅春先生の打ち立てた教えにも、まだ余計なものがあると思っています。
それをも打ち破る新しい何かが、必ず誕生するときがやってきます。
それはおそらく、教団の外側で起こるでしょう。
生長の家の観念に染まっていない新しい世代から、それは誕生するでしょう。

モーセにもキリストにも法然・親鸞にも、真理はあります。
生長の家もまた、同様です。
しかし、それらは皆、余計なものがまとわりついてしまっています。
その時代、その地域の人々には、それが必要だったのでしょう。
そうでなければ、教えは広まらなかったのでしょう。
よって、教えの純化のためには次の時代を待たなければならなかったのでしょう。

現代は、伝統を失いつつある時代です。
近代という文明そのものが、伝統否定という強い性格を持っています。
日本の伝統も危機にあります。
谷口雅春先生は、これを憂えていました。

しかし、伝統の多くが破壊されるからこそ、純化された真理が生まれるのだ、という側面も否定できません。
生長の家の出現のためには、伝統にとらわれない近代ゆえに生まれた「ニューソート」を必要としました。

また、谷口雅春先生は創造主たる神を一度は否定し、だからこそ実相に目覚めることが出来ました。
これは谷口雅春先生が、人間思惟を信頼する近代人であればこそ、出来たことです。
人間思惟によって、創造神を否定したのですから。

近代という人間中心主義の文化がなければ、こうした「伝統的な神を否定する」という恐ろしい所業は絶対に出来ません。
ですから教えの純化は、「伝統破壊」という側面を常に持っているのです。
(しかしこれは、残念ながら雅宣総裁の言動を肯定することにはなりません。伝統破壊は、宗教的霊感とワンセットでなければ意味がないからです。)

つづく

1192元青年会員です:2013/03/21(木) 12:20:24 ID:NMTz8OPs
前回のつづき

「信仰や運動とは何であるか、という事を再検討する好機であります。」
「その意味で、ネットや掲示板で何ができるか、信徒の一人一人が考える時期である」
このトキさまのご意見に、おおむね賛成いたします。

ただ、志恩さまなどがおっしゃることも、私はよく分かるのです。
私もまた、「信仰はひとりである」と言いましたが、それを万人に押し付けるのは違うでしょうし、厳し過ぎるようにも思うのです。
ほとんどの方々は、救いの力が来たるを待ち望んでいます。
それは、今も昔も変わりません。

私には、そのことが長年の大問題でした。
そして今なお、その問題を問い続けています。
ある程度の答えと言いうるものは見出していますが、まだ十分とは言えません。

現時点での回答は、こうです。
「あらゆるものを手放せば手放すほど、人は純粋になる」
「全人類の救済が完成するとすれば、それは全人類の救済を完全に手放した時である」

これは絵空事ではありません。
執着のない人間ほど、純粋で愛に満ちているのは、間違いないのです。

1193「訊け」管理人:2013/03/21(木) 12:53:00 ID:???

>>1192元青年会員さま


 同感です。いつも素晴らしいお話しを、ありがとうございます。なお、「ちなみに」な話を致します。その話は、「楠本先生」に関するお話しです。

 最近、ある方が私へ『理想世界』のバックナンバーを大量に、お贈りくださいました。その中で楠本先生が、実に素晴らしいお話を披露してくださっておられます。以下一例のみ、『理想世界』誌より引用致します。 ――

:::::::::::::::::::::::::::::::::::

 また、父母に欺かれた私はすべての人を信ずることができなくなった。その時『生命の實相』を真剣に読み、あらゆる人生問題解決の道を見出した、それは最高の生き方であった。あの時、すべての人を信じられなくなった事を心から感謝しています。熱心に生長の家をやっている私に父は反対した。父に従うか、神に従うかとなやんだとき、真剣に神想観をして〝神よ御心のままに為し給え〟と祈った。そのとき、〝父の声は神の声〟との神の言葉を聞き、父に無条件に従うことを決心したとき、父の反対はなくなった。その時から道場生活がはじまって、今日の私がある。あの時、父が反対してくれたことに心から感謝しています。

<全文>
○「汝自らを知れ」楠本先生
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65722277.html

:::::::::::::::::::::::::::::::::::


 私は「凄み」を覚えました。このご姿勢に「ああ」と感動し、反省致しました。ところでこの、楠本先生ですが父親の反対に「従った」わけです。従ったら事態が「好転した」わけです。この点が実に、素晴らしい話だと思いました。

 さてこの場面ですが、仮に「反抗していたら」どうなっていたでありましょうか。反抗するのは〝御教えの入ってイナイ〟方と、変りません。そして一般社会なら、許容されることでしょう。でも、意味はあるのかどうか。
 この「従う」ことの意味 ―― 重要だと思います。そして現在、余談ながら楠本先生は、総裁に「従って」おられます。少なくともそんな情報が、他掲示板にも載っております。中には、心ない意見までも飛び出してますが「そうではない!」ですよね。

 「従う」ことで事態が、良化するのですからね。

 先生の信仰ですが、なかなか出来ることでは「ない」と思います。でも凄みを覚えました。




追伸

 「武士は死して名を遺し、虎は死して皮を残すというが、ひとり純正愛国陣営の徒のみは、名さえ残さぬのみか、汚名さえ着せられて逝く覚悟に徹さねばならぬ。」(渥美勝) ―― こんなコトバがあります。楠本先生の信仰は、「まさにこれ」だと思います。ところでその、楠本先生ですが「総裁に日和見している」かのような批判、ありますが「この心情はわかるまい」というところではないでしょうか。そんな汚名を着せられても、信仰一筋にいかれる先生に尊敬の念を持ちます。もう、物凄く「苦しい」はずです。あくまでも現象面での、楠本先生ですが・・・・・

1194:2013/03/21(木) 13:21:31 ID:tar1vhs2
>>1192 元青年会員さま

> それはおそらく、教団の外側で起こるでしょう。
生長の家の観念に染まっていない新しい世代から、それは誕生するでしょう。




これはもはや、ガンガジ、アジャシャンティ、エックハルト・トーレ、安部俊郎(いまここ熟)、ムージ、などの動きに表れていますね。

ア・コース・インミラクルに於いては、ACIMが理解できなければ谷口雅春を読め、とさえ言われています。

生長の家を離れた青年層がずいぶんACIMを学んでいます。ACIMは組織を作らず、個人で学ぶスタイルですし。


世界なし、物質なし、心なし、罪を許すのでなく、許すべき罪なし、ですから。


今までも、ヨガをやる人たち、治療家などの間で、谷口雅春の評価は高かったのに、生長の家側で、一行に澄み切る、とね理由で、他のものを排除してきましたが、もうそのような時代ではなくなりました。


個人をベースにして、横に手を取り合う時代を迫られているのかもしれませんね。

1195:2013/03/21(木) 13:25:56 ID:tar1vhs2


教団がどうだこうだという時代から、


もはや本当に人類が、目覚めることを迫られている時なのではないでしょうか。

(迷いから目覚める、というより、もともと目覚めていたんだ!と、ただいまここに気づく、という意味合いです。)

1196ありがとう:2013/03/21(木) 18:34:04 ID:???

 個人の救いならば、街角の占い師の相談で済みましょうや


 しかし生長の家は『国家救済』と大きな使命がありますゆえに

 組織としての信仰が必要なのでありやす

1197元青年会員です:2013/03/21(木) 18:41:37 ID:m4z9VVmE
>>1190 トキさま
「本に書いてある事が自分のものになるには、実際の人生での経験が必要だと思います。」

それが私の最大の問題です。
実人生の上での実践、あるいは試行錯誤。
これは、自分の人生を本当に賭ける気持ちがないと、出来ないんです。
覚悟、ですね。
この一点に尽きると思っています。

1198元青年会員です:2013/03/21(木) 18:54:49 ID:m4z9VVmE
>>1193 「訊け」管理人さま
楠本先生は、真剣に生命の実相を読み真剣に神想観した結果、「父の声は神の声」との天啓を聞き、お父様を心から信じることが出来ました。
お父様に従う決心をしたのは、その結果です。

結果は、人により違うでしょう。
大切なことはただひとつ。
「真理への真剣さ」です。

雅宣総裁に従うかどうか。
私は、ここに決まった答えはないと思っています。
ただ、どのような答えを出したにせよ、その答えが正しいかどうかは、自分自身に正直であれば、皆、分かっているはずです。

1199元青年会員です:2013/03/21(木) 19:20:31 ID:m4z9VVmE
>>1194
>>1195 「訊け」管理人さま
挙げられた方々は、私も存じています。
ACIMについては、これはもう生長の家とソックリに見えます。
(最近、日本語の「奇跡のコース」が出版されましたよね)

ほとんど無名の日本人の方にも、生長の家ソックリの話をされる方がいます。
(この方は、広い意味でのヨガ系統です)

世界中で、様々な動きが起こっています。
たしかに現代は、横に手を取り合う時代ですね。
谷口雅春先生も、光明思想家との交流を持っていました。
「人間神の子」に通じる教えが、私たちの目に見えるところでも見えないところでも、確実に広がっています。
これは本当に喜ばしいことです。

その意味では、今は恵まれた時代です。
ただ、私はそれらの方々にも満足はしていないのですよ。
方向性は正しいと思うんですけどね。
本当の純粋無垢な真理を、私は求めているのです。
それは、なかなかに大変な道でして、もう試行錯誤の連続です(笑)。
余計な思いを捨てないと、前に進めないですね。

教団がどうだという時代ではない、というのは同感です。
世界を眺めれば、特定の組織を超えて、目覚めへの大きな流れを実感しますね。
それは本当に素晴らしいことです。

1200元青年会員です:2013/03/21(木) 19:32:23 ID:m4z9VVmE
>>1196 ありがとうさま
日本国家救済も個人救済も、究極のところでは同じだと思っています。
それは、「救われ済み」という真理です。
ここをいかに究めるか?
純粋な話をすれば、救うべき日本国家も個人もいない、となります。
しかし、観念上の話では意味がありません。
真理への姿勢が問われます。
私はまだまだ成りきれぬ者ですが、あきらめずに取り組んでいきます。

1202HONNE:2013/03/21(木) 23:03:48 ID:jtmmmlXY
「生長の家を守る署名」の署名合計が1名増えて12名になりました。
ご賛同いただける方は、よろしくお願いします。

http://www.geocities.jp/honne8823/

1203神の子さん:2013/03/22(金) 01:03:23 ID:???
署名を求める場合は、それを実施している団体や個人を
明確に表示する事は最低限のルールでしょうに。

署名を求めても変るような雅宣総裁ではありませんが・・・

10万ぐらい集まれば多少考えるかも知れませんがね。

1204トキ:2013/03/22(金) 11:30:27 ID:z8M1UPU6
元青年会員です、様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

 「人生は廻る輪のように 」という本の一部を紹介させていただきます。
(エリザベス キューブラー・ロス 著、上野圭一翻訳、角川書店、1998年1月31日初版)

「人生は廻る輪のように 」は、エリザベス キューブラー・ロスという世界的に有名な精神科医師の
自伝です。彼女は終末医療の分野で著名です。亡くなる直前に書かれた本ですから、現役時代には
話せなかった事も書かれています。一度、研究を辞めようと思った時に、亡くなった患者さんが幽霊
になってでてきて、研究を継続するように訴えた話など、自身の心霊体験も率直に語っています。
 晩年は、かなり高いレベルとの霊との交流も持っていたようです。

 次の投稿からは、彼女の文章です。

1205トキ:2013/03/22(金) 11:38:11 ID:z8M1UPU6
 彼女は医学生時代に、第2次大戦が終了して荒廃したポーランドにボランティアにいきます。
そこで、ユダヤ人絶滅収容所だったマイダネック収容所の建物を見学します。誰もいない廃墟
を見学している時に、その収容所で収容されていたゴルダという同じ位の年齢の女性と知り合い
ます。

--------------------------------------------------------------------------------------


ドイツで生まれたゴルダが12歳のとき、会社にいた父親がゲシュタポに拉致された。
それが父親との永遠の別れだった。戦争が勃発するとすぐに、残された家族全員と
祖父母がマイダネック収容所に強制連行された。ある日、衛兵から行列にならぶよう
に命令された。死出の旅へとつづく行列だった。ゴルダ一家は全裸にされ、ガス室
に追いやられた。一家は悲鳴をあげ、嘆願し、叫び、祈った。

しかし、一家には希望も尊厳も、生存へのチャンスもあたえられなかった。

 ガス室の扉が閉まり、ガスが噴射される直前に、衛兵は一家をむりやり扉の隙間
からなかに押し入れた。ゴルダは一家の最後尾にならんでいた。奇蹟か、神の配慮か、
扉はゴルダの目の前で閉められた。扉の前は全裸の人たちであふれていた。衛兵は
その日の割り当てを早くこなすためゴルダを外につき飛ばした。ゴルダは死亡者リスト
に記載され、その名前を呼ぶ人はだれもいなくなった。めったにない見落としのおかげで、
ゴルダのいのちは救われた。

 嘆いている暇はなかった。すべてのエネルギーが生存のために費やされた。ポーランドの冬
の寒さに耐え、食べ物をみつけ、麻疹どころか風邪にもかからないように警戒しなければならなかった。
ガス室への連行を避けるために、地面や雪に穴を掘って、そこに隠れた。収容所が解放される場面を
想像しては勇気をふるい起こした。生き残って、目撃してきた野蛮を未来の世代に伝えるために、
神が自分を選んだのだと考えることにした。

「二度とできないわ」とゴルダはいった。筆舌につくしがたい冬の厳しさを、ゴルダは驚異的な
忍耐力で生きぬいた。力がつきそうになると、日を閉じて、仲間だった少女たちの絶叫を呼び起こした。
収容所の医師から実験用のモルモットにされた仲間、衛兵や医師に凌辱された仲間を思い返しては
自分にいい聞かせた。

「生きて、世界中に伝えるのよ。あの人たちがやった非道をみんなに伝えるためには、どうしても生きのびなければならないの」。

連合軍が到着する日まで、ゴルダは憎悪をかきたてながら、生き残る決意を新たにしていた。

 収容所が解放され、門があけられたとき、ゴルダは怒りと悲しみのきわみで麻痺状態におちいっていた。
せっかくの貴重な人生を憎しみのへどを吐きながらすごすことが虚しく思えてきた。
「ヒトラーと同じよ」とゴルダがいった。
「せっかく救われたいのちを、憎しみのたねをまきちらすことに使ったとしたら、わたしもヒトラーと変わらなくなる。
憎しみの輪をひろげようとする哀れな犠牲者のひとりになるだけ。平和への道を探すためには、過去は過去に返すしかないのよ」
 マイダネックであたまに浮かんだ疑問のすべてにたいして、ゴルダはゴルダの流儀で答えてくれた。
わたしはマイダネックにくるまで、人間の潜在的な凶暴性について、ほんとうにはわかっていなかった。
だが、貨車に山積みされた赤ん坊の靴をながめ、微かなとばりのように空中に漂う死の異臭を嘆ぎさえすれば、
人間がどれほど残虐になれるものかは容易にみてとれた。
それにしても、あれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだゴルダのことは、なんと説明すればいいのだろうか。
                                         
 ゴルダはその疑問にこういって答えてくれた。
「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、
わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

 わたしは了解し、別人になってマイダネックをあとにした。
人生を最初から生きなおすような気分だった。
医学校に入りたいという気持ちは変わらなかった。
しかし、人生の目的はすでにきまっていた。

 未来の世代がもうひとりのヒトラーをつくりださないようにすること、それが目的だった。

(p92~93)

1206トキ:2013/03/22(金) 11:43:42 ID:z8M1UPU6
続いて、同書の最後のページを紹介します。
(以下は「人生は廻る輪のように」のp372から375です。)

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされ
る。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じこめている肉体をぬぎ捨てること
がゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、
心配もなくなり、美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく……そこではけっし
てひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにい
つもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。

 幸運にめぐまれれば、わたしはもう地球にもどってきて学びなおす必要のないレベルに到達す
るかもしれないが、悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは
不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまほど
衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた。神
の庭園のめぐみをむさぼる人類が庭園を荒らしつくしてきた。兵器、貪欲、唯物論、破壊衝動。
 それらがいのちを支配するルールになっている。恐ろしいことに、いのちの意味について瞑想す
る人たちによって世代をこえて受けつがれてきたマントラ (真言) は力を失ってしまった。

 まもなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地
震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえ
る。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ
以外に、人びとが目ざめる方法はないのか? 自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説く
ためにとはいえ、ほかに道はないのか?

 目には未来の光景が映っているが、わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられてい
る。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもな
い。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってほんい。そして、いのちを、やりがいの
ある課題だとみなしてほしい。もっとも困難な選択が最高の選択であり、正義と共鳴し、力と神
への洞察をもたらす選択なのだ。神が人問にあたえた最高の贈り物は自由選択だ。偶然はない。
人生で起こるすべてのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおっ
てしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。

 この世からつぎの世への移行を目前にしているわたしには、天国か地獄かをきめるのはその人
の現在の生きかたであることがよくわかる。いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の
学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある。地球には食べるものがない人た
ちが無数にいる。住む家がない人たちが無数にいる。無数の人たちがエイズで苦しんでいる。無
数の人たちが虐待されている。精神や身体の障害とたたかっている人たちが無数にいる。毎日、
理解と慈悲を必要とする人たちがふえている。その人たちの声に耳をかたむけてほしい。美しい
音楽を聞くようにその声を聞いてほしい。請けあってもいい。人生最高の報酬は、助けを必要と
している人たちにたいしてこころをひらくことから得られるのだ。最大の祝福はつねに助けるこ
とから生まれる。

 その真理は、宗教、経済体制、人種の差をこえて、すべての人の日常経験に共通する
ものだと、わたしは確信している。

 あらゆる人はひとつの同じ本源からやってきて、その同じ本源に帰っていく。

 わたしたちはひとしく、無条件に愛し、愛されることを学ばなければならない。

 人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、
実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの
目的なのだ。まず自分を癒さなければ世界を癒すことはできない。

 準備がととのい、それを恐れさえしなければ、その人は自力で霊的体験をすることができる。
グルやパパに教わる必要はない。

(つづく)

1207トキ:2013/03/22(金) 11:45:40 ID:z8M1UPU6
(つづき)

わたしが神と呼ぶ、その同じ本源から生まれたわたしたちはだれでも、神性を賦与されている。

自己の不死性にたいする知識は、その神性から生まれる。

 自然に死ぬまで生きなければならない。

 ひとりで死んでいく人はいない。

 だれもが想像をこえるほど大きなものに愛されている。

 だれもが祝福され、みちびかれている。

 人は自分がしたいと思うことしかしない。それを知ることが重要だ。たとえ貧しくても、飢え
ていても、粗末な家に住んでいても、十全に生きることはできる。地球に生まれてきた者の使命
さえはたしていれば、この世で最後の日にも、自己の人生を祝福することができる。

 いちばんむずかしいのは無条件の愛を身につけることだ。
 死は怖くない。死は人生でもっともすばらしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その
人がどう生きたかにかかっている。

 死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の存在形態への移行にすぎない。
 愛があれば、どんなことにも耐えられる。

 どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようとこころがけてほしい。それがわたし
の願いだ。

 永遠に生きるのは愛だけなのだから。

(同書 完)

-----------------------------------------------------------------------------

「人生は廻る輪のように」の最後の下りです。同書は、彼女の絶筆となりました。

合掌 ありがとうございます

1208元青年会員です:2013/03/23(土) 07:22:49 ID:CAoqhefU
>>1205
>>1206
>>1207 トキさま
「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、
わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

私は最近、本当の救いとは何かを考えています。
おそらくそれは、私達が想像し望んでいるものとは、かなり違っているはずです。
なぜなら、救われるとはエゴから解放されることであるはずだからです。

キューブラー・ロスの言う「愛と慈悲に生きる人」とは、エゴで行動しない人のことでしょう。
これは本当の救い、あるいはそれに近いものだと思います。
しかし、多くの方は病気や貧困や人間関係などの悩みから解放されることを望んでいます。
これは残念ながら、エゴからの解放ではありません。

私は「多くの方は救いの来るを望んでいる」と書きましたが、本当の救いは彼らの望むかたちではないのです。
しかし、私達は本当に救われる必要があります。
エゴに支配されて言いなりになっている限り、不幸は絶えることがないからです。

「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、
わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

この「たったひとり」とは誰のことでしょうか?

私は、この「ひとり」とは自分自身のことだと思うのです。

私は、自分のこれまでの人生の「動機」が間違っていることに気づきました。
私は悟りだとか実相だとか救済だとか高尚な立派なことを言いながら、私自身の欲望を満足させる道へ進もうとしていました。
お金が効率よく儲かる道だとか、性格が良く器量も美しい女性と恋愛できる方法だとか。

私は、エゴを少なくする方向へと進むべきだと気づきました。

かつて、私が何度も教えを請うたヨガ系の覚者は、こう言いました。
「損する道を選びなさい」
「マインドの言いなりにならないことだよ」
(※マインドとは心のこと。この場合、自分の願望・欲望のこと。)

当時、私はこの言葉の意味が多少は分かっていましたが、真剣に受け取ることはありませんでした。
しかし今、人生進路を考えるにあたって、この言葉を真剣に受け取りはじめています。

キレイな奥さんをもらったから、大金持ちになったから、エゴの言いなりだとは限りません。
それらがエゴの誘惑の結果でないなら、何も問題はありません。
しかし、私のエゴがそれを望んでいるのなら、その方向へ進むべきではないのです。
私は、エゴから離れる方向へと進むべきなのです。

「究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある」

私という存在が、エゴのない純粋な存在になること。
私という存在が、原初の、何も持たない、身ぐるみ剥がされた、清浄な存在となること。
私という存在が、ゼロへと近づいていくこと。
換言すれば、私という存在が、愛そのものとなること。

これが、私の進むべき道だと思います。

さきほどお話したヨガ系の覚者は、「欲望を無くすんじゃない。あるがままに見るんだ」と言いました。
欲望と戦っている限りは、欲望は無くなりません。
欲望から距離をとること。
欲望の言いなりにならず、自分の本心に忠実になること。
エゴの支配から解放され、自由になること。
そうすれば、生きるために必要な欲望があっても、惑わされることは無くなるでしょう。
ただあるがままに、欲望を眺めているだけです。

私たちは、エゴではありません。
私たちは、愛に満ちた存在です。
忘れ去っていたそれを思い出す道は、エゴから離れることなのだと思います。

私が愛であるとき、自ずから私の周囲に救いが起こるでしょう。
しかし、それは私の力なのではありません。
私はエゴです。
作為的に、人を救おうなどと考えている傲慢な存在は、エゴです。
私がエゴから離れたとき、私の中の何かが目覚めます。
その何かが、自ずから、人々を救済するでしょう。
それが、私です。
現在、「これが私だ」と思っている私ではない、本当の私です。
何ら作為のない、人を救おうなどという傲慢なことを一切考えていない、私です。

「永遠に生きるのは愛だけなのだから。」

トキさま、素晴らしいご文章をありがとうございました。

1209パピヨン:2013/03/23(土) 07:30:43 ID:tar1vhs2
>>1208

はじめまして。

『マインドは、常に疑いを生む。


ハートは、常に信頼と希望を生む。


故・Sri Chinmoy



インドが生んだヨガの覚者の言葉を思い出しました。


ありがとうございます。

1210:2013/03/23(土) 07:52:23 ID:tar1vhs2
>>1208

救わなければいけないのは、あの人でもなく、この人でもなく、あの組織でも、この団体でもなく、この星でもなく、まさに、ただひとり 私自身ただひとり なのかもしれませんね。

ありがとうございます。

1211:2013/03/23(土) 08:39:30 ID:tar1vhs2

We can have peace not by possessing the world or leading the world , but by becoming a lover of the world .


Try not to change the world ,
you will fail .


Try to love the world ,
Lo,the world is changed, changed forever .


Peace begins when we come to realise that

the world dose not need our guidance .

Sri Chinmoy

1212神の子さん:2013/03/23(土) 11:17:32 ID:opsBdFc6
>>1211

シュリチンモイ師は、インド出身の、アメリカで活躍された、世界的な霊的、精神的指導者ですね。

、さんの投稿で、調べてみました。

名前は、どこかで、聞いたことがあるなと思っていたとですが、

インド出身の、霊的指導者は、多数おられますが、チンモイ師の名前はあまり見かけません。

日本での本の出版が少ないせいかも知れません。

英語での出版は非常に多いですね。

英語圏では非常に著名な方なんでしょう。

国連で、各国代表に、定期的に、瞑想の指導をしたり、平和瞑想の講義をされておられたようです。

これは、凄いことです。

宗派を超えた視点を持っておられたようです。

生長の家の万教帰一の教えと、根本理念は同じということでしょうか。

、さんの投稿によって、興味が湧いてきました。

ありがとうございます。

1213神の子さん:2013/03/23(土) 13:51:10 ID:I2DPyx72
ACIMについて、紹介されていましたので、関連で、マリアンウィリアムソン女史の文章をちょっと紹介させてもらいます。

なかなか、深いメッセージだなと思います。


Aging Spiritually (霊的に年を重ねる)

By Marianne Williamson

Excerpt from the March/April 2008 issue of Unity Magazine (ユニティマガジン2008年3、4月 号の記事からの抜粋)

My father once told me, “When you’re old, you don’t feel old.” I can appreciate what he meant when he said that, as I ponder the fact that the essential being I am inside myse lf is the same in my 50s as when I was only 15. So who am I really? Am I the woman who has changed with age, or am I the changeless self within? Am I the woman who is encased in time or the being who dwells apart from it?

【語句】 appreciate:称賛する、感謝する、正しく 認識する ponder:じっくり考える encase:すっぽり包む dwell:住む

私の父がかつて次のように私に語ったこ とがありました。 「お前が年をとったとしてもお前は自分 が老いたとは感じないよ。」 私は父がこのことを語ったとき何を言お うとしていたのか、ということが、今の 私なら理解できます。 というのも、私は、私の内なる本質は、 15歳のときだろうが、50歳代のとき だろうが、不変なのであるという事実を 、ずっと考え続けているからです。 それでは、私とは一体いかなる存在なの でしょうか? 年齢とともに変わって行く一人の女性な のでしょうか? あるいは、内なる不変の自己なのでしょ うか? 時間という要素に制約されている女性な のか? あるいは、時間という要素の制約を超え た存在なのでしょうか?

Sometimes when referring to things that happened long ago, we say things like “I remember it like it was yes terday.” And that’s because in a way it was. If time, as Einstein declar ed, is merely an illusion of consciousness, then linear time itself is a metaphysical fiction; everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now. There, in that realm of the eternal now, is the tr ue “I am.”

しばしば、かなり前に起きた事について 言及するとき、「それは昨日のことのよ うに覚えている」と言うことがある。そ して、それはある意味その通りだからな のです。もし、時間というものがアイン シュタインが言うように、単なる意識の 幻影でしかないのならば、一直線に進む 時間という概念そのものは、頭の中だけ のフィクションにしかすぎないというこ とになります。かつて起こったことすべ てのことはいまも起きているし、あるい は将来にも起こるでしょう。永遠の今と いう領域においてのみ、真の”私”が存 在しているのです。

The eternal self dwells in eternity, and et ernity intersects linear time at only one point: the present. Who you are in this moment, therefore, is who you truly are. And from that esse ntial point of perfect being―created anew by God in every instant―m iracles flow naturally. Thoughts of love interrupt the past and open the f uture to new probabilities. No matter who you are, no matter how o ld you are, in the present, all things are possible.

永遠の自己は永遠のなかに存在するので す。そして、永遠は現象の時間とは、た だ一つの地点ーーつまり、現在ですねー ーにおいて、まじわるのです。この瞬間 のあなたの姿が、それゆえに、あなたの 本当の存在なのだということになります 。そして、あなたの本質は完全な存在で ある、つまり真の自己は毎瞬神によって 新たに創造されているのだという絶対的 な次元から奇跡は自然に生まれてくるの です。愛は過去に干渉しますし、未来に 対して新たな可能性を開くのです。現在 のあたながどのような境涯であろうと、 何歳であろうと、あらゆる可能性が開か れているのです。

1214神の子さん:2013/03/23(土) 14:27:13 ID:dPcACPLU
誤訳訂正です。

すみせん。

everything that has happened, is happening, or will happen, is happening now.

かつて起こったことす べ てのことはいまも起きているし、 あるい は将来にも起こるでしょう。

これは、おかしい。(苦笑)

かつて起こったこと、今起きていること、あるいは将来起きることの、すべてのことは、今、この現在の瞬間に起きているのです。

アクエリアン

1215トキ:2013/03/23(土) 21:50:10 ID:2K4Q7xe2
>>1298

元青年会員です様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。

 かって谷口雅春先生は、神誌に「灰吹きたまるほど汚れる」という諺をひいて、
欲望は否定できないが、欲望が強すぎる事は問題だ、と言われました。

 この世界は欲界だと言われます。何らかの欲望を持った人が生まれる場所だと言います。
が、その欲望も、生存するという欲望から、お金が欲しい、異性にもてたい、とい
う欲望から、社会をよくしたい、真理を知りたい、という欲望まで、いろいろあります。

 すると、最初はどんな欲望を持っても良いが、自分が年齢を重ねて行く中で、
欲望の種類を高める事は大事かと思います。マズロフの欲求5段階説ではないです
が、欲望を綺麗にしていくと、最後は、無欲に行き着くような感じを持っています。

 でも、そこまで来たら、もう、人間界には生まれて来ないでしょうね。

 難しい問題ですが、学ぶべき点だと思います。

1216トキ:2013/03/23(土) 21:51:15 ID:2K4Q7xe2
 他の皆様も素晴らしいご投稿をして下さり、ありがとうございます。

 こういうスピリチュアルな話は、とても大事だと思います。
私も勉強をしたいので、どんどんご投稿をお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1217:2013/03/24(日) 10:26:43 ID:tar1vhs2


『人生は巡る輪のように』 の本の表紙は、蝶です。

本中に蝶の話は、わずかしか登場しませんが、まさに蝶がメタファーとして使われているわけで、その謎を解くために、田口ランディも収容所跡に蝶の落書きを追い求めるのが『パピヨン』なのですが。

神の子さまに、ご紹介いただき、アマゾンで森孝吉さんの『愛と救いの不死鳥』を読み進めていたところ、245ページに、死刑囚との面接で、どうにもいかなくなり、神想観に救いを求めると、神想観中に蝶が羽ばたくのを観て、それを死刑囚に告げると死刑囚は救いと安心を得て、その当日、執行されていく…、という記述がありました。


何だか、わたしにとっても偶然とは思えない、不思議な心境です。

(谷口雅春先生との個人的交流も書かれていて、森さんのために何度も涙を流されるほど、あたたかい偉大な師だったのですね。)



この掲示板との出会いに感謝いたします。!!!


ありがとうございます。

1218トキ:2013/03/24(日) 10:59:58 ID:RH04b/RI
>>1217

 確かに、あの本で、著者は「蝶」の絵の謎を長年追い求めてましたね。

 甘露の法雨の最後の部分には、繭と蚕の喩えがありますが、同じだと思います。

こちらこそ、ご利用に深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1219元青年会員です:2013/03/25(月) 00:15:58 ID:TmCCAfew
>>1213
>>1214 神の子さん、さま
かつて起こったこと、今起きていること、あるいは将来起きることの、すべてのことは、今、この現在の瞬間に起きているのです。
永遠の今という領域においてのみ、真の”私”が存 在しているのです。
(中略)真の自己は毎瞬神によって 新たに創造されているのだという絶対的な次元から奇跡は自然に生まれてくるのです。

このことに関して、生長の家草創期からの講師であった服部先生は、「今という光を見た」とおっしゃっていますよね。
「宇宙が720度見える」ともおっしゃっています。
私が思うに、今という一点に入ると、あらゆる時空間が見える。
過去現在未来、この場所あの場所、全宇宙を手中に収めることができる。
それが、無限力なんだと。

かつてウインブルドン準決勝で、伊達公子が女王シュテフィ・グラフに勝つ寸前までいったことがありました。
あのときの伊達を記憶している方ならよく分かると思うのですが、エンジン全開になった伊達は、グラフの打つボールの方向にことごとく先回りし、グラフはどこに打っても打ち返される状態でした。
もし日没順延にならなければ、間違いなく伊達が勝っていたでしょう。
あのとき伊達は、驚異的な集中力によって「今」に没入していたのだと思います。

スポーツ界ではこれを、「ゾーンに入る」と言うらしいです。
あいつはゾーンに入ると無敵だ、などと言われます。
運命を分ける大試合のとき、あるいは気分がノリに乗っているとき、人はときにゾーンに入ります。
ゾーンに入ると、試合の組立てや戦略から次の予測、身体能力まですべてが無限大となり、信じられぬ力を発揮します。

これが、今という力なのでしょう。

聖経天使の言葉には、「吾らが肉体を忘れて忘我の境にあるとき、吾らの肉体は最も完全にその職能(はたらき)を発揮するなり。」とあります。
これはまさに、「ゾーンに入る」「今に没入する」ことを語っているように思うのです。
禅でも、「今行なっていることに専心せよ」「ただ行うべし」と言いますが、余計なことを考えずに現在に集中することの中に、神は宿っているのでしょう。

人は意味がなければ生きていけないと言いますが、本当はそうではなく、意味の有無を超えて思考を超えて現在に集中するところに、本当の人間が存在するのだと思うのです。
「自己を忘れて自己を悟る」
意味の追求は、その前段階の話なのでしょう。

1220:2013/03/25(月) 08:46:00 ID:tar1vhs2




『言葉を忘れて、言葉が輝き、


理解を忘れて、理解が訪れ、

いまここを忘れて、いまここが活き

愛を忘れて、愛に出会い、

己を忘れて、己になる』

なんて言葉もありますね。

ジョアンナ・メーシー
『絶望こそが希望である』大好きな言葉です

1223ありがとう:2013/03/25(月) 16:56:50 ID:???

      『一人の人が すべての人のために死んだ』


 イエス・キリストは、これまでに生きた最も偉大な人として広く知られています。

 そのイエスは、1980年前にご自分の命をなげうちました。

 イエスの死について使徒パウロは『一人の人がずべての人のために死んだ』と書いています。

 使徒ヨハネも『イエスの血がわたしたちをすべての罪から清める』と述べています。

(コリント第二5:14.ヨハネ第一1:7)


 これらの言葉にはどのような意味があるのでしょうか。

 わたしたちが清められる必要があるのはなぜですか。

 それほど昔に一人の人が遂げた死によって、今の時代のわたしたちにどのような益が及ぶのでしょうか。


 イエスの死を記念する式が行われるのは3月26日の日没後・・・

1225トキ:2013/03/25(月) 21:25:20 ID:QpKnnYcA
 アンネの日記に、

 「私は、それでも、人間の本性は善であると信じています」

とあったのを思い出しました。

1226元青年会員です:2013/03/25(月) 22:53:22 ID:eFjduTOw
ありがとうさまの文章は、私の自宅に入っていたエホバの証人のチラシの文章とまったく同じです。
どんな意図で抜粋したのか分かりませんが、いずれにしろ、私はトキさまがおっしゃるアンネ・フランクの言葉に共感します。
人類が清められるためにイエスが十字架にかかったのではなく、「罪を背負う肉体人間は存在せず、死はない」ことを証明するためにはりつけになったと考えます。

1227トキ:2013/03/26(火) 09:57:12 ID:gSFcfGK6
 昨日、立花隆さんの「宇宙からの帰還」を読み直しました。発売当時、生長の家の神誌でも何回も紹介
された本です。長くなるので、何回かに分けて投稿します。(単行本: 331ページ 出版社: 中央公論社 (1983/01))

 この本はアポロ計画で宇宙に言った宇宙飛行士へのインタビューですが、大変の宇宙飛行士が、宇宙から
帰還した後、神について目覚める経験をしています。

 なお、紹介するのは、エド ミッチェルに立花隆がインタビューをしている場面です。エドは、アポロ14号の
乗組員として人類で6人目の月面歩行をした人です。

 「」の内部は、エドの発言で、それがない部分は立花隆の質問です。抜粋は、p298から301までです。

 長いので、分けて投稿をします。

 以下、「宇宙からの帰還」です。

(つづく)

1228トキ:2013/03/26(火) 09:58:33 ID:gSFcfGK6
あなたが神というとき、それは何なのか。あなたが信じているのは、キリスト教の神なのか。

「いや、私はキリスト教の神を信じていない。キリスト教が教える人格神ほ存在しないと思って
いる。神というのは、この世界で、この宇宙で現に進行しっつある神的なプロセスを表
現するために用いられていることばにすぎない」

 − あなたほ、はじめからクリスチャンではなかったのか。

「いや、私は熱心なクリスチャンだった。私は南部バプティストのファンダメンタリストだった。
フアンダメンタリストの教義は、ご承知のように、科学が教えることより、聖書に書いてあるこ
とのほうがすべて正しいという立場だ。しかし、私は一方で科学者であり、技術者だった。だか
ら、私の人生は四十年間にわたって、科学的真理と宗教的真理の対立を何とか解消できないかと
悩みつづけた人生だった。そのため、哲学や神学をずいぶん勉強したがダメだった。結局、ある
日、どちらの真理も、より高次のレベルの真理を、より低次のレベルで部分的にしかつかんでい
ないことから対立が生じているのだと考えれば、問題はすべて解消してしまうではないかという
ことがわかって、悩みを脱することができた」


(つづく)

1229トキ:2013/03/26(火) 10:00:12 ID:gSFcfGK6
 − しかし、フアンダメンタリストの教義と科学の間には、そんなことでは解決ができないほ
ど深刻な対立があるのではないか。

「宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。それは教団として組織化されることから生
じた、真理の道の踏み外しだ。すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の
教えにはじまる。しかし、信者は、その教えの本質を充分にほ理解しない。

 各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、プッダにしても、モーゼにしても、モ
ハメッドにしても、あるいほゾロアスターや老子にしても、みな人間の自意戯の束縛から脱して、
この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。だから、彼らはみな同時に超能力者
でもあった。彼らはみな奇蹟を起こした。奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。しかし、そ
の教えを受けて、追随した人々のはうは、自意識の束縛から逃れきれていないために、教えられ
た真理をそこまでの深みにおいて把捉していない。だから、指導者が世を去ると、信者集団はス
ピリチュアルな真理から人間的自意識の側に引き戻されてしまう。そして教団が組織され、教団
全体としてますます原初の真理から離れていくことになる。教団化された既成宗教はどれをとっ
ても、いまや其のリアリティ、スビリチスアルなリアリティから離れてしまっている。私がいう
宗教的真理というのは、教団教義のことではない」

(つづく)

1231トキ:2013/03/26(火) 10:06:44 ID:gSFcfGK6
それは、宇宙体験のどの部分なのか。

「宇宙から地球を見たときだ。正確にいえば、月探検を終えて、月軌道を脱し、地球に向かって
帰路について間もなくだった。それまでは休みなく働きつづけており、落ち着いてものを考える
畷がなかった。しかし、地球に向かう軌道に宇宙船を乗せてしまうと、これという作業もなくな
り、時間的余裕ができた。

 月探検の任務を無事に果し、予定通り宇宙船は地球に向かっているので、精神的余裕もできた。
落ち着いた気持で、窓からはるかかなたの地球を見た。無数の星が暗黒の中で輝き、その中に
我々の地球が浮かんでいた。地球は無限の宇宙の中では一つの斑点程度にしか見えなかった。し
かしそれは美しすぎるほど芙しい斑点だった。それを見ながら、いつも私の頭にあった幾つかの
疑問が浮かんできた。私という人間がここに存在しているのほなぜか。私の存在には意味がある
のか。目的があるのか。人間は知的動物にすぎないのか。何かそれ以上のものなのか。宇宙は物
質の偶然の集合にすぎないのか。宇宙や人間は創造されたのか、それとも偶然の結果として生成
されたのか。我々はこれからどこにいこうとしているのか。すべては再び偶然の手の中にあるの
か。それとも、何らかのマスタープランに従ってすべては動いているのか。こういったような疑
問だ。

 いつも、そういった疑問が頭に浮かぷたびに、ああでもないこうでもないと考えつづけるのだ
が、そのときはちがった。疑問と同時に、その答えが瞬間的に浮かんできた。問いと答えと二段
階のプロセスがあったというより、すべてが一瞬のうちだったといったほうがよいだろう。それ
は不思議な体験だった。宗教学でいう神秘体験とはこういうことかと思った。心理学でいうピー
ク体験だ。詩的に表現すれば、神の顔にこの事でふれたという感じだ。とにかく、瞬間的に真理
を把握したという思いだった。

 世界は有意味である。私も宇宙も偶然の産物でほありえない。すべての存在がそれぞれにその
役乱を担っているある神的なプランがある。そのプランは生命の進化である。生命は目的をもっ
て進化しつつある。個別的生命は全体の部分である。個別的生命が部分をなしている全体がある。
すべては一体である。一体である全体は、完璧であり、秩序づけられており、調和しており、愛
に満ちている。この全体の中で、人間は神と一体だ。自分は神と一体だ。自分は神の目論見に参
与している。宇宙は創造的進化の過程にある。この一瞬一瞬が宇宙の新しい創造なのだ。進化は
創造の継続である。神の思惟が、そのプロセスを動かしていく。人間の意識はその神の思惟の一
部としてある。その意味において、人間の一瞬一瞬の意識の動きが、宇宙を創造しつつあるとい
える。
 こういうことが一瞬にしてわかり、私はたとえようもない幸福感に満たされた。それは至福の
瞬間だった。神との一体感を味わっていた」

(つづく)

1232トキ:2013/03/26(火) 10:08:37 ID:gSFcfGK6
− その神というのはつまるところ何なのか。禅的プロセスを表現する概念ということだが、
もう少し説明するとどういうことなのか。

「神とは宇宙霊魂あるいほ宇宙精神(コスミック・スピリット)であるといってもよい。宇宙知性
(コスミック・インテリジェソス)といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。その思惟に
従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はその思惟の一つのスペクトラムに
すぎない。宇宙の本質は、物質でほなく霊的知性なのだ。この本質が神だ」

(引用、終わり)

1233神の子さん:2013/04/08(月) 05:28:42 ID:s8IzxWLg
千代ヶ丘中の間自治会の会員は、個人のインセンシティブ情報を聞き出そうとして、
完全なる上から目線の高圧的な態度で、事実の解明に努める非常識な住民で構成されている。
例えば皆で出鱈目を云えば事実とか、出鱈目を広めた後で「事実を事実として認める」よう強要したり、
勝手に騒いでおいて「事実じゃない」と叫んだり、空気を読んだだけで事実が解ると思い込んだり、
個人主義の確立も出来ない、およそ民主主義の確立など不可能な住民しかいない。

1234神の子さん:2013/04/09(火) 09:46:43 ID:3KkpxWqw
181] Skype(スカイプ)座談会を行います
管理人 - 2013年04月05日 (金) 16時09分

合掌 皆様ありがとうございます。

突然でございますが、本日夜8時〜9時にSkype(スカイプ)を用いた座談会を行いたいと思います。

スカイプとは、
専用ソフト(無料)をインストールして、
パソコンにマイクをつけてお話ができる(これも無料)優れものです。
詳しくはココを参照して下さい。
    ↓↓↓
http://www.skype.com/ja/

突然なのでマイクが無いという方は文字だけでも結構です。
もし参加をして下さる方は、右下の「管理人へ連絡」というところからメールを下さい。
投稿名でなくて、別ハンドル名を使って下さっても構いません。

ただし、現教団擁護の方はご遠慮下さい。

ではご連絡お待ちしております。

合掌 礼拝



[182] 来週も行います!(^^)!
管理人 - 2013年04月06日 (土) 12時13分

合掌、ありがとうございます。

昨日は突然のお誘いにもかかわらず、
お二人の女性(年齢不詳)が参加して下さいました(^^)v

「また来週もしましょう」と三人が意気投合しましたので、来週も行うことにします。
スカイプのインストールのやり方や設定などがわからない方は、電話でサポートさせていただきますので、どうぞご遠慮なく「管理人へ連絡」して下さい。


「管理人へ連絡」ボタンは、最初の一覧ページの右下にあります。
ではご連絡お待ちしております。

感謝 合掌 礼拝

1235トキ:2013/04/10(水) 21:59:02 ID:TPL4KxMo
 昨日の夜、NHK BSのテレビを家人が見ていました。番組は、北野武が、ニューヨークの
タップダンスの世界的なダンサーを訪れる、という内容でした。私はタップダンスのことは
何も知りませんが、素人の私が見ても、すごい人だという事がわかりました

 このダンサーは、自分のスタジオに自分が尊敬するタップダンスの先輩の写真をパネルに
して飾っていたのですが、その人達に混じって、ダライラマとガンジーの写真も飾ってあった
のです。

 ダライラマはチベット仏教の指導者ですし、ガンジーはヒンズー教徒です。つまり、いずれ
も民族宗教の立場にたつ人ですが、それにも関わらず、外国人の共鳴を得ている事を感じまし
た。appleの宣伝、"think deifferet"のキャンペーンにも、この二人は出ています。実際、世界的に
尊敬を集めているのは否定できないでしょう。

 どうしてこういう事を書くか、というと、私は谷口雅宣先生の目的は、生長の家を日本の
「民族宗教」ではなくて、「世界的な宗教」にすることだ、という点にあると感じています。
一つの信仰を異なる民族が共有する事で、価値観の違いによる争いをなくし、世界を平和にす
る、という目的があると憶測しています。

 しかし、キリスト教という世界宗教をいただく国同士が争いをおこし、またイスラム教でも
スンニ派とシーア派という立場で争いが起こっています。仏教はそこまではいきませんが、
でも仏教も分裂しており、対立をしている部分は見られます。生長の家が仮に、世界宗教に
なったとしても、その内実が充実しない限りは、世界平和に貢献するとは思えません。

 逆に、ダライラマやガンジーは、自分達の信仰については一切の譲歩をしませんでした。
が、異なる意見との対話は繰り返しました。

 もちろん、世界に生長の家の信仰がのび、外国人も日本人も同じく幸せになるのは、私個人
も強く望む点です。しかし、「世界宗教」になることが、本当に「世界平和」に貢献するか。その
点を考える必要があると思うのです。

1236神の子さん:2013/04/11(木) 14:07:55 ID:5bDK9U6o

特報!http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1421

1237うのさん:2013/04/11(木) 18:26:13 ID:ifDL04EY
生きた宗教 (1)

 


 宗教というものを何か堅苦しいもの、面倒くさい儀礼、窮屈なもの、しかつめらしいものであるかの如く思っている人があるかも知れないけれども、これは大変な間違いであるのである。

 宗教というものは楽しむべきものであり、又楽しみ得るものなのである。宗教とは生命の歓喜を教えるものであるから、宗教を生活に真に生きることができたならば、生活が楽しくなり、宗教が楽しくなるのである。もし何か宗教を信じていてそこへ深い喜びが湧いて来ないとしたならば、その宗教がまちがっているか、その宗教の信じ方がまちがっているかどちらかなのである。


 宗教を自動車にたとえた人がある。
 その人は言うのである。 「その自動車はのり心地がよろしいか、もしのり心地が悪ければ、自動車の状態が悪いか、その操縦がへたであるかのどちらかである。いい自動車ととりかえて、そのあつかいを適当にすれば、のり心地は満点である。宗教もその通りである」 というのである。

 もしあなたの宗教が完全な喜びをあなたに与えないならば、そんな宗教は、がたがたの自動車と同じようにのり捨ててしまって、新しい宗教にのりかえればいいのである。宗教の価値も実用主義の立場から批評されねばならないのである。

 極楽へ行くというのも実用であれば現世に利益があるというのも実用である。しかし立派な教であるのに、それを完全に自分が操縦することができないからというので、この宗教はまちがっているというのは、立派な自動車であるのに、運転の仕方がわからないために、この自動車は故障があって動かないといって捨ててしまうのと同じである。


 何故、自分の信じている宗教でお蔭がないのか。
 宗教そのものが悪いのであるか。自分がその宗教の教の組立てを知らず、それを如何に使用すべきかを知らないがためにお蔭がないのか。その点をよく考えてみなければならないのである。

 
 宗教も自動車と同じように、もっている人ともっていな人があるのである。又もっていながら、ただ置いとく人と、それを自由に乗り廻す人とがあるのである。

 宗教も折角もっている限りは、それを運転して日常生活にのり廻すことが必要がである。
                         〜 つづく 〜

                   谷口雅春師 『生活改善の鍵』より

晴れときどき競馬とホークス 今日の言葉より

1239うのはな:2013/04/13(土) 14:37:09 ID:0NpThrAQ
議論するから「正しい」わけではない

 もし、上司がいなかったらどうなるでしょうか。想像してみてください。
皆がフラットな関係ですから、物事を決定するには、常に議論をしなければなりません。
議論、大いに結構じゃないか、と、こう思う人もいるでしょう。でも、「自分と他人は違う」ということが前提なのです。
議論百出、いつになってもケリがつきません。だって、「じゃあこうしよう」と決定を下してくれる上司がいないのですから。

どういうことかとになるかというと、非常に効率が悪くなるのです。どんなときでも議論ですから、スピードがない。
経済活動としては、大いにマイナスです。会社という組織は、意見が異なったときに、「最後は上司に従う」というルールを作ることで、
効率をアップさせていたのです。

 上司と意見が決定的に異なるときは、だから自衛するしかありません。
例えば、取引先をどうするか、A社とB社で揉めたとします。上司はA社だと言い、自分はB社だと思う。
そんなときは喧嘩をせずに、ひと言、「A社がいいのですね?じゃあ、A社に行ってきます。私はB社がいいと思っていますが.....」と
言ってから出かければいいのです。結果的に、B社のほうが良かったことがわかった場合は、さすがに上司もちょっとは反省しますから、
「ちょっとおれの判断まずかったかな。あいつはなかなかよくわかるやつだから、今度からは少しその通りにさせてやろう」と、こうなるわけです。
そんな反省もしない意地悪な上司の場合は、少しずつ遠ざかればいいのです。これも、難しいことではありません。

 日常的なことを議論するのは効率を妨げるだけではありません。フラットな場でぎろんすること自体にも、実は問題があります。
議論することは一見、理にかなっているように思えますが、問題は、あなたの「正しい」と思っている考えが否定されたときです。
上司に言われて、しぶしぶ上司の意見に従ったのなら、「仕方ないな」で済みます。
しかし、フラットな場で自分の意見を否定された場合、あなたのプライドはどうなるでしょうか。
いたく傷ついてしまうのではないでしょうか。

言うなれば、上司の言っていることは、「仮の正しさ」です。だって神様じゃないのですから、最終的に「正しい」か
どうかなんて、誰にもわからないのです。だから、上司という役割のもと、「仮の正しさ」を決めるのです。
「仮の正しさ」にあなたの意見を否定されたからといって、どうってことありません。
上司は取り替えがききます。極端な言い方をすれば、上司から、あなたの考えを否定されたからといって、あなたは
自分が正しいと信じている考えを曲げる必要がないのです。

 だから、酒場で、「あいつは間違ってる!」なんて口角に泡を飛ばして上司を罵っているサラリーマンを見かけると、
「かわいそうにな」と思ってしまいます。その考え方で突き進む限り、幸せなサラリーマン生活は送れません。
実際、どんな会社であっても、その会社が進む方向なんて、先ほど挙げた4つーー宗教も、道徳も、倫理も、法律も、決して
教えてくれません。だから社長(上司)が判断するのです。
会社というのはこうやって、「上司が考える正しさ」によって動いているのです。

   『「正しい」とは何か?』 武田邦彦 著

1240うのはな:2013/04/14(日) 17:19:34 ID:A1e8BeM.
 「過去の遺産」を食いつぶしてきた日本

 かつての教育基本法の第一条には「真理と正義を愛し」とありました。
これは「真理」を愛する人は「正義」を大切にする傾向があるからで、真理と正義は
人を作る〝教育"という点では切り離せないことを示しています。

 少し軟らかい表現を使えば、「ウソを言う人が正義を愛するはずはない」と言うことです。
いまから10年ほど前、温暖化の議論が盛んになった頃のことですが、私がある国の委員をしている東大教授と
話をしたら、その教授はこう言いました。
「武田先生、私たちの中で温暖化をまともに信じている人などいませんよ。でも、それでうまくいくのだからいいじゃないですか」
また同じ頃のことですが、ある知識人タレントが「現代の社会は、本当のことは何かをギリギリと議論するのはダサいのです」と言っていました。
まさに、「このまま空気に従って生活していればいいのだからうるさいことは言うな」という雰囲気だったのです。

 このような雰囲気でも日本がやってこられたのは「過去の遺産」が蓄積されていたからです。
自らが努力し、発展しようとすると「事実」はとても大切です。活動によって何かを生み出さなければならないので、リスクもあるし、判断も求められます。
でも親の遺産を食いつぶしながら生活するなら、事実がどうであれ、誠意がなくても暮らしていけます。
1990年頃のバブル崩壊以後の日本は「食いつぶし時代」でもあったのです。

 そこで活躍したのは、ノーベル賞を取れない東大教授(虚の研究)、受信料を強制的に取らないと運営できないNHK,補助金をもらわないと設置できない太陽光発電、
エコポイントがつかないと売れないものを作る家電メーカー...などでした。
もちろん、それまで蓄積した富を食いつぶしていくのですから、赤字国債、資源を無駄に使うリサイクル、ダイオキシン騒動、それに日本だけがCO2を削減している地球温暖化騒動なども
「真理と正義を愛する」ということとは遠く離れて、「それでうまくいくのだからいいじゃないか」という流れだったのです。

 私はこれらのことが「事実ではない」と言い続けてきましたが、ほとんどの反応は「うるさいな。どっちでもいいじゃないか」というものでした。
国の政策と異なる意見を言い続けていたので、名古屋大学にいるときでも研究費確保が大変でした。
そのとき、中央官庁の課長から教授になっていた人が「武田先生、研究の申請書だけは、リサイクルとか温暖化、持続性社会などと書けばいいじゃないですか」と
好意的にアドバイスしてくれました。しかし、格好良いことを言うようですが、学者は「真理と正義を愛する」のですから、まさか研究申請書にウソを書くわけにはいかないのです。
でも私の知っている東大教授の中には申請とはまったく違う研究をしていた人も多くいました。
彼らにとっては教授という仕事は「お金と名誉を得るための道具」であり、真理と正義を求める仕事ではないからです。

このような「転換」はよく見られます。例えば1980年代に企業の社会的責任や企業倫理の重要性が叫ばれました。
最初は真面目な議論だったのですが、そのうち、「企業でまずいことが起こったら、どのようにウソを言って企業の損害を少なくするか」という
方向に進んでしまったのです。
「正しいとは何か」のもっとも底部に流れるものは「真理と正義を愛する」ということであり、なぜ「真理と正義を愛する子どもたち」を作らなければならないかと言うと、
「平和的な国家及び社会の形成者」にならなければということです。
つまり、正しい国家や社会の形成には、国民が真理と正義を愛さなければならないのですから、「空気的事実」こそ、憎むべき存在なのです。

 武田教授の眠れない講義『「正しい」とは何か?』 武田邦彦 著




1241うのはな:2013/04/15(月) 09:33:59 ID:G0f8u6DU
      有罪判決を受けた地震学者

 私は研究者であり、教師です。真理に殉ずる職業です。
「地球温暖化について、教師が生徒に教えるのはよくない」。私はよく、こんなことを
口にして物議を醸すのですが、これは「真理」から見たジャッジです。地球温暖化というのは、学問としてまだ
非情に歴史が浅く、しかもアメリカが自国の利益を考えて言いだした、という経緯があります。
学問としてまだ、何が真理か定まっていません。それを、あたかも事実のように教えるのは、教師という専門家として
正しくないのではないか、とこう思うわけです。

 多くの専門家は、国からのライセンスをもらっています。門外漢からすると、専門家の領域は不可侵です。なかなか物を申せません。
そうなるとどうなるでしょうか。専門家は常にそのことに意識的でないと、どうしても「殿さま」のような偉そうな雰囲気を身につけてしまうのですね。
 原発の事故で、医師を含め、多くの専門家が、正しくない情報を流しました。これはいわば、専門家だからこそ陥ってしまった「正しさ」の罠だったというわけです。
わかりやすい例が、先日イタリアでありました。

<多数の犠牲者が出た2009年のイタリア中部地震で、大地震の兆候がないと判断し被害拡大につながったとして、過失致死傷罪に問われた同国防災庁付属委員会メンバーの学者ら
7人の判決公判が22日、最大被災地ラクイラの地裁で開かれ、同地裁は全員に求刑の禁錮4年を上回る禁錮6年の実刑判決を言い渡した。地震予知の失敗で刑事責任が争われる世界的にも異例の事件。
同地震では309人が死亡、6万人以上が被災した>(2012年10月23日共同通信)
地震予知に失敗した学者が、有罪に問われたという出来事です。で、このことに関して、コメントを求められた日本の「学者」が何と言ったかというと、たいていの人が、「学問の自由をどう考えているのだ」と
立腹しました。マスコミも、「学問の自由の侵害」という議論で、各社報じていました。

しかし私は、有罪のほうが「正しい」と思うのです。〜中略〜

 イタリアの例に話を戻しましょう。彼らが、研究者として地震を予知していたならば、別に罪に問われることはありません。
それそこ「学問の自由」です。しかし、イタリアの地震学者は、「学者」として「地震が来ない」と発言したのでしょうか?
報道によれば、そうではありません。彼らは、「イタリア防災庁付属委員会」の委員として、発言したのです。

 『「正しい」とは何か?』 武田邦彦 著

1242トキ:2013/04/15(月) 09:40:09 ID:m45oDcl2
うのはな様

 すばらしいご投稿、ありがとうございました。

 思案してから、また、書き込みをします。

合掌 ありがとうございます

1243うのはな:2013/04/15(月) 10:55:47 ID:pmsOSITA
  トキさまへ

 武田教授のお話は理系ものが多くてむずかしいです。
 上の者は比較的わたしにも理解できる範囲のものを引用させてもらいました。

 拝。

1245うのはな:2013/04/18(木) 09:36:14 ID:Rs.10vjU
傍観するのではない 参加する

 セミナーの途中から入るという考え方自体が傍観者です。
傍観者は、時間をムダにしています。大道芸を「何やってるの」と途中から見て、
また歩き去るようなことをしているのです。
 同じところにいても、まったくまじり合いません。
初回のダンスの体験レッスンを見学ですませる人も、時間をムダにしています。
あらゆる習いごとは初回から体験しないとわからないのです。
時間の使い方は、その人の生き方です。どんなセミナーも、傍観か参加のどちらかです。
世の中のほとんどは傍観セミナーです。つまらなくてテンションも低いのは、傍観セミナーです。
途中から来ても大丈夫なセミナーはたくさんあります。
遅れてくる人のために、始めるのを待ちます。早くから来ている人はバカらしくなって、みんな遅くなります。
セミナー後の懇親会開始の5分前から参加する人が増えるのです。
遅れてきた人は、「それ、言ったよね」というとんちんかんな質問をします。
途中から来た人には質問する権利がないのです。最初から聞いていなければわからないのは当り前です。
遅れてきた人は、ズレた質問ヲシテ、アンケートには「いまいちだった」と書きます。
自分のせいであることに気づいていないのです。
酸素吸入したほうがいいくらいの濃い時間を過ごすことです。
休み時間には教室の空気を入れかえたほうがいいくらい脳を使っているのが、濃い時間です。
濃い時間を一日のうちに少しでも持つことが、時間の使い方には大切です。
参加しているから濃くなるのです。
傍観していると薄くなります。傍観者は面白くないので来なくなります。
つまらない文句を言う傍観者がいなくなれば、参加者の時間はもっと濃くなるのです。

 中谷彰宏 著

1246うのはな:2013/04/18(木) 12:06:56 ID:txd2CpMM
      自殺したソクラテスの正義

「正しさ」について考える場合、「いま」だけを見ていても、なかなかうまく捉えられません。
歴史の中で「正しさ」を見ていくべきじゃないかと、こう思うわけです。
 さて、私たち日本人は法治国家に生きていますから、まずは、「法律を守ることが正しい」ということが
基本になっています。では、法律は「正しい」のでしょうか。
 歴史を振り返ると、これが、必ずしもそう言い切れないのです。

 例を挙げましょう。ソクラテスと言う哲学者がいます。ソクラテスは紀元前400年代にギリシャで活躍した、偉大な哲学者です。
自分が知らないということを知っていることがすごいことなんだ、という「無知の知」などを唱えた人です。
偉大な人というのは、「変わっている」というのが相場で、この人もまた、変人でした。
身なりはお世辞にもいいとは言えず、どちらかというとボロをまとっている。
で、街をふらついては、誰かれ構わず議論をふっかける。

 ソクラテスは、たくさんの言葉を残していますが、実はどれひとつとして、自分で書いたものはありません。
ソクラテスの哲学は「書く」ことではなく、「話す」ことでした。話すことで思索を深めようとしたのです。
ですので、今多く残っている書物は、全部、プラトンなど弟子たちが師匠との会話を書き記したものなのです。
中国の孔子とそっくりですね。余談ですが、孔子の『論語』も弟子たちが書き残した師との会話の記録です。

 このソクラテス、誰かれ構わず議論をふっかけるのですが、悪気はありません。真面目に、物事について考えているからこその
行動です。しかも、「自分が知らない」ということを知っていることがいいことだと確信していますから、勢い、自信過剰な人間がソクラテスに
議論を挑むと、打ちのめされます。打ち負かされた人は面白くありません。
一方、若者はこのちょっと変な賢者に熱狂しました。ソクラテスの真似をして、議論を戦わすようになったのです。
ソクラテスに打ち負かされた人間(当然、政財界の実力者揃いです)は、ますます面白くない。
面白くないどころか、そうした若者にも議論で負けてしまう。プライドはずたずたです。

 自分のことをできると思っていた人間がプライドを傷つけられる。これはタチが悪い。このときも、ソクラテスを訴える人間が
出てきました。罪状は、「若者を堕落させた」というものです。議論をふっかけるソクラテスのスタイルが、若者に悪影響を与えた、というのです。
裁判になりました。陪審員もいる、公開裁判です。裁判で裁くということは、「法律」にのっとって「正しさ」を決めるということです。
ばかばかしい裁判だと、ソクラテスの支持者や弟子たちは思いましたが、仕方ありません。
ではどんな裁判になったのか。このときの模様を描いたのが、有名な『ソクラテスの弁明』です。

 もともと、プライドを傷つけられたと逆恨みしている人たちが起こした裁判です。ソクラテスが一言、「やり過ぎました。以後、気をつけます」なんて
取り繕えば、八方丸く収まりました。ところが、このソクラテス、相手の言葉の矛盾を突くというスタイルでした。
取りようによっては「揚げ足取り」です。本人は真剣に、矛盾を解消していくこと=思索を深めていくこと、だと思っている。
相手は矛盾に気づくことで「無知の知」を自覚しますから、議論している相手にとっても、ソクラテスにとってみれば、これはいい方法だ、とこうなるわけです。

 だから裁判でも、同じことをしてしまう。もとより間違ったことをしていると思っていないから、謝ることもしない。
それどころか、裁判官の矛盾を鋭く突いてしまう。
 ディベート合戦だったら、ソクラテスの勝ちだったでしょう。しかしこれは、陪審員のいるれっきとした裁判でした。
謝りもせず、自分の意見をとうとうと述べるその姿は、反感を買ってしまったのです。
結果は有罪。しかも最悪の死刑でした。「正しさ」の権化であるかのような「法律」は、この偉大なる哲学者に「死」を宣告したのでした。

「正しい」とは何か? 武田邦彦 著

1247トキ:2013/04/18(木) 16:09:21 ID:gl5PbSBA
>>1246

 ソクラテスという人は器用な人で、立ったまま瞑想をし、守護霊と交信をしていた
と言います。ただ、生長の家の信仰に近いのは、弟子のプラトンで、不完全な現象と
は別に、イディアという完全なものがある、と考えたみたいです。ただ、私はこの
方面は詳しくないので、これ以上は深入りは避けます。

1249うのはな:2013/04/20(土) 14:50:16 ID:D3DJ3PEQ
     志士は死士なり 『魂の変革者 吉田松陰の言葉』童門冬二 著

 志士は道義のためならどんなに貧しい生活をい送り、またその遺体を溝や谷に捨てられてもよいと
いう覚悟をしている。同じように、勇士もまた自分の首はいつ取られてもよいと死を覚悟している。
 その意味でいえば、志士や勇士は“死士”なりといっていいだろう。

 志士がなぜ清貧に甘んじ、その遺体を溝や谷に捨てられるかといえば、高い理想を持ち続けて絶対に節操を
変えないからだ。節操を守れば必ず困窮に陥る。これはしかし覚悟の上だ。
 飢えを恐れては志士にはなれない。勇士が、戦場で戦士することを望み、いつ首を取られても問題にしないという
覚悟を持つのと同じことだ。仮にも武士に生まれたからには、志士か勇士を目指すべきである。
ところがいまのわたしは、囚人として野山獄で生涯を終えようとしている。そこでわたしは、あくまでも志士の節操を
変えぬ態度を続けようと心掛けている。そしていつ死んで遺体を溝や谷に投げ込まれてもよいという覚悟さえ忘れなければ、
生涯をこの野山獄舎の中で終えようとも、少しも気に掛けることはなくかえって本望だ。

 この決意があれば、他人に助けを求める心もなく、世に救いを願う心もない。胸を張って、古今や天地を見据えることができる。
大変愉快なことである。世の中には、われわれより身分の低い人々の中にも、十二分のこの志士や勇士の志を持っている人がいる。
われわれが簡単に志を捨て、節操を変えてしまうようなことをしたら、そういう人々に本当に恥ずかしいことである。

( 志士は溝峪(こうがく)にあることを忘れず、勇士は其の元(こうべ・首)を喪ふことを忘れず)

1250うのはな:2013/04/21(日) 18:47:48 ID:8GoEUphw

 昔の子どもたちは『実語教』を声に出して読みました。
声に出して読むと、先人たちの魂が乗り移ってくるのです。たとえば、「あの一万円札の福沢諭吉先生が
子どもの頃に『実語教』を読んでいたのか」と思いながら読んでみると、その魂までもが乗り移ってきます。
声に出して本を読むことを「素読」といいますが、素読をすると、本の内容だけでなく、先人の魂も一緒に学ぶことが
できるのです。

 この本の巻末には素読用の読み下し文(漢文を日本語で読んだもの)をつけていますので、それを何度も何度も読んでみてください。
意味がわからなくても、気にすることはありません。
 ただし、最初から子ども一人で読むのは大変ですから、初めのうちはお父さんやお母さんにお願いして、一緒に読んでもらうといいでしょう。
あるいは、おじいさんやおばあさんにお願いしてもいいと思います。
意味が知りたくなったら解説の部分を読んでみましょう。ここでは、言葉のまとまりごとに、その意味と伝えたい内容をまとめてあります。
この解説も、ご両親やおじいさん、おばあさんに読んでもらうといいかもしれません。わからないことがあったら、どんどん質問してみてください。

 何度も声に出して読んでいくと、そのうち少しずつ言葉を覚えていくと思います。きっと好きな言葉も見つかります。そういう言葉はしっかり覚えて、
本を見なくても口に出していえるようになりましょう。本を見ずに口に出していうことを暗誦といいますが、暗誦できるようになるまで読んでほしいと思います。
そうすると、みなさんが大きくなるにしたがって、それらの言葉が役立つときが必ずやってきます。
何か問題が起こって困ったときに、解決のヒントを与えてくれることもあると思います。
 そして、みなさんが大人になって、結婚をして、子どもができたときには、今度は自分の子どもと一緒に『実語教』を読んでください。
そうやって親から子へ、日本人の心を受け継いでいくことが、とても大事です。

 日本の未来がみなさん一人ひとりにかかっているのです。
そういう気持ちで『実語教』を学んでいくと、よりいっそう理解が深まっていくと思います。
どうか頑張って読んでみてください。

『子どもと声に出して読みたい『実語教』』日本人千年の教科書 斉藤 孝 著

1251うのはな:2013/04/21(日) 18:49:34 ID:GcMxMmPM
  光明掲示板 伝統様
日本人千年の教科書 『実語教』http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1371

1252うのはな:2013/04/21(日) 20:52:04 ID:wVEG5ARE

   山高きが故に貴(たっと)からず
   樹有るを以って貴(たっと)しとす

○ 山は高いからといって価値があるわけではありません。
  そこに樹があるからこそ価値が出てくるのです。

● 何かの役に立って、初めて価値が出てくる

 みなさんは、「日本で一番高い山は?」と聞かれれば、すぐに「富士山!」と答えられるでしょう。
富士山は見た目も美しく、立派な山です。けれども、山は高いから価値があるのかといわれると、どうでしょうか?
確かに高い山は立派に見えますが、それは価値があるということなのでしょうか?
『実語教』のこの言葉は、
「山は高いから貴いのではなくて、そこに樹があるから貴いのだ」といっています。
なぜ樹があると貴いのでしょう?樹を切って材木にして、家を建てたり、箸を作ったり、社会のために役立てることができるからです。
「何かの役に立つ」ということがとても重要です。そのときに初めて価値が生まれるのです。
これは別の言い方もできます。たとえば、勉強ができる人はそれだけで立派なのでしょうか?もしもその頭を悪事のために使うとすれば、
とても立派とはいえません。やはり、頭がいいから貴いわけではなくて、それを世の中のために役立つように使うところに、初めて価値が生まれるのです。
それに不思議なのですが、自分の得になることだけを考えて勉強しても、あまりやる気は湧いてきません。
ところが、世の中の役に立つ仕事をしたいという目標を立てると、勉強する意欲が急に湧いてくるのです。
人間は誰でも、「世の中の役に立ちたい」という気持ちを心のどこかに秘めているのですね。

 頭のいい人を見たり、運動神経がすごくいい人を見たら、「あの人はすごいなぁ」と、うらやましく思うかもしれません。
でも、一番大事なのは、自分の一生のうちで、社会のためにどれだけ役立てるか、どれだけ人が喜んでくれたか、なのです。
これは誰でもできることですから、ぜひ自分の目標にしてほしいと思います。

 宮沢賢治の書いた『虔十公園林』という童話があります。
主人公の虔十は、ちょっと頭が鈍くて、まわりの人から馬鹿にされていました。
その虔十が家の裏の庭の野原に杉の木を植えたいといいだしたのです。
お父さんは「虔十がそんなに頼みごとをするのは珍しい」といって、杉苗を買って植えさせてやりました。

 ところが、土が悪くて杉はなかなか育ちません。それでも、虔十は下枝をきれいに伐採しました。
すると、子どもたちがその木の間を行進して、楽しそうに遊び出しました。虔十はそれを見て大喜びしました。
やがて、その林で遊んでいた子供の一人が偉い大人になって故郷に帰ってきました。
あたりの風景は昔とすっかり変わっていましたが、ただ一つ、虔十の杉林だけは昔のままでした。
虔十はすでに病気で死んでいましたが、家の人が「虔十のただ一つのかたみだから」といって、その土地を手放さなかったのです。

 偉くなった人は話を聞いて感激して、「ここを虔十公園林と名づけて保存してはどうでしょうか」と提案しました。
すると、昔そこで遊んだ、今は立派な仕事についている人たちから、たくさんのお金が集まりました。そして、虔十の杉林は、虔十公園林という
公園になって、みんなの憩いの場として残ることになりました。

 頭の良し悪しでいえば、虔十は決して頭がいいわけではありません。でも、目標を立てて、一生懸命に木の世話をしたから、大きな仕事をなしとげる
ことができたのです。こういう貴い生き方を、みなさんにもしてもらいたいと思います。

『子どもと声に出して読みたい『実語教』』 斉藤 孝 著

1253うのはな:2013/04/22(月) 11:18:21 ID:JQ6sNu32

フランスがギリシャ救済に懸命なのは「貸し込んでいるから」

 九州男児のクズかカスかわからないのが教団援護に必死になるのは
 『現場を知らないから』

1254トキ:2013/04/22(月) 15:16:22 ID:HtiBzlX2
livedoorしたらば掲示板 運営元変更のお知らせ
2013年04月22日| ・お知らせ‐したらば
いつもしたらば掲示板をご利用いただき、ありがとうございます。

この度、LINE株式会社にて運営してまいりました無料レンタル掲示板「livedoorしたらば掲示板 http://rentalbbs.livedoor.com/ 」を2013年5月15日をもちまして、シーサー株式会社に譲渡することといたしました。

譲渡先でありますシーサー株式会社の概要は以下のとおりです。
・会社名:シーサー株式会社
・代表取締役社長:藤原研作
・所在地:東京都渋谷区渋谷3丁目3−1 渋谷金王ビル7F
・URL :http://www.seesaa.co.jp/

譲渡に伴い、運営会社は2013年5月15日よりシーサー株式会社へ変更となり、サービス名は「livedoorしたらば掲示板」から「したらば掲示板」へ変更となり、7月中旬を目処にURLも変更となる予定です。

弊社におけます、したらば掲示板の長年のご愛顧に感謝いたしますとともに、運営会社がシーサー株式会社に変更した後におかれましても、これまで同様、したらば掲示板をご利用くださいますようお願い申し上げます。

1255トキ:2013/04/22(月) 15:21:35 ID:HtiBzlX2
 現時点では、大きな変更はないと思われます。

ただし、「7月中旬を目処にURLも変更」とあるので、その点、ご注意願います。

 今の時点では、掲示板の場所を変えるつもりはありませんが、特に大きな事情
があれば、皆様とご相談の上、場所を変更するかもしれません。

 その時には、再度、ご連絡申し上げます。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

1256うのはな:2013/04/22(月) 17:37:10 ID:tEB.S8xA
   「穢れていようが、拝むのだ」

『葉隠』より。信仰に対する常朝の考えです。戦国武将・上杉謙信が軍神・毘沙門天を信仰していたのは有名ですが、
兵法・武芸はその発祥から神社と密接だったといいます。サムライは武運を神に祈りました。
以下、現代誤訳で抜粋します。
「神は穢れをお嫌いなされるそうだが、思うところあって毎日怠らず拝んでいる。戦場で血を浴び、死体を踏み越え、働く時の武運を祈ってのことだ。
穢れているからと、背を向ける神ならしようがない。その結論に至り、拝み続けてきたのだ」

 自分に背を向ける神ならしようがない。この言葉に神よりも自分の都合を優先させる勇ましさを感じます。と同時に、それでも拝むのをやめなかったところに、
神仏へのリスペクトがあります。何より、神への見返りを求めていないのが立派です。give&takeではないのです。戦は経験しなかった常朝ですが、従兄弟の切腹の介錯を
務めたことがあるといいます。介錯は名誉といえ、穢れ。後味の悪さに、拝まずにいられなかったのかもしれません。

 私達も社会で競い合って働くなか、美しいことばかりして生きているわけではありません。
神頼みである必要はありませんが、どこかで罪悪感のクリーニングは必要です。
私自身、特定の信仰は持ちませんが、無神論者でもありません。初詣、クリスマス、墓参り。
自然に受け入れています。空手道場には神棚があります。雰囲気が好きなので教会のミサに出かけることもありますが、
牧師さんには話し上手な人が多い。キリスト教に限らず神や仏の言葉は、人の心をとらえるよう考え尽くされています。

 神仏は人間が作り上げたものだと思います。生きるため、汚れざるを得ない人間には、〝何ものにも侵されない神聖なもの”が
必要だった。そしてそれは信じることでリアルにもなる、不思議なものです。
神社の、あの掃き清められた清らかさにサムライは神を見たのでしょう。
パワースポットと呼び、参拝している若い人たちを見ると、今も忘れていないのだなと思います。

『日本人の心を奮い立たせるサムライの言葉』 成嶋弘毅 著

1257SAKURA:2013/04/23(火) 01:08:28 ID:5Z7ZB6rE
「管理人 トキ様」へ 「観覧者様」へ   
こんばんは……  ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。

>>1254>>1255 の「トキ様…」からの情報…
【インフォメ−ション…】ありがとうございました…。

私は、途中からの「参加組…遅番組」ですが、他の投稿者様にとりましては、
きっとご連絡頂きました処の……下記事項は〜〜〜〜〜♫

>>「livedoorしたらば掲示板 http://rentalbbs.livedoor.com/ 」を
2013年5月15日をもちまして、シ−サ−株式会社に譲渡することといたしました。<<(一部抜粋)
◆−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−◆

「思い出…」深いモノが、あられますでしょうかと。私も「livedoorしたらば掲示板」と云います名称での
此処【2チャンネル…ボ−ド】には、時間の許す限り、参加形式を取らせて頂きたいと思います。
余談ですが…此処での“投稿”は、自分自身の思考力アップ?と申しますか〜〜〜大変な“チャンス…”
つまり【ライティング…チャンス!】を頂いたモノとして、改めて「感謝…」申し上げます。

それにしても〜〜〜「話し言葉…」として、相手に伝える関係…とは考えられないくらいに ><
更に、「伝達としての文章表現による言葉…」は、やはり難しい〜〜〜><かと。
如何にこちらの“心情…”を、相手に伝えるには『知識』そして『智慧・愛…』なくしては?と思うのです。

                                   再合掌

1258うのはな:2013/04/23(火) 15:30:06 ID:1XyvUc4.
669 名前:訊けファン 投稿日: 2013/04/23(火) 15:27:11 ID:???
せっかく訊け様がアップしてくださった音声ファイルが奥に行ってしまいます。

クレームは別板へどうぞ。

○【第二弾】安東巖先生ご講話【音声】
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65727511.html


 安東巖先生、「第二弾」です。音声のご講話です。今回のご講話も、非常に良いです。そして、日常生活を反省させて頂けます。どうぞ、ダウンロードされてお聴きください。



1259うのはな:2013/04/23(火) 23:19:41 ID:36i/AWcM
     「死ぬことと見つけたり」

 最も有名な『武士道』の言葉、そして最も誤解された言葉かもしれません。
「武士道と云うは、死ぬことと見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。
 別に仔細なし。胸すわって進むなり」

 訳すと「武士道とは死ぬことと見つけた。生か死か二つに一つなら、死を選べばさっさと片付く。
 どうってことない。度胸がついて進むのだ」。
 これを“切腹や特攻のススメ”と早とちりする人多数ですが、それでよいのでしょうか。
 私はむしろ言葉の端々に、死線を越えた者特有のゆとりすら感じます。
「死の正体、見切った!」との勝利宣言に聞こえるのです。
 生きたいと思うから死を恐れる、死ねばその恐怖から解放されると常朝はいいます。

 たしかに死んだ後は、怖がる自分がもういません。死ぬ瞬間は一瞬で、怖がる暇もありません。
 そして「死にたくない」と怖がっている(生きている)うちは死にません。
 そう、死そのものが恐怖ではないのです。「死ぬことを考えると怖くなる」だけなのです。
 生きている間、死は頭の中にしか存在できず、目の前の現実とはならないのである。

 これは人間の脳のに仕掛けられたトリックです。常朝はこのカラクリを見破りました。
 生きるか死ぬかの瀬戸際で人は考えません。
 考える前に動いています。「片が付き」「胸がすわり」、現実を生きるのです。
 時間を持て余した人間のみが、頭の中で死をこねくり回し、その結果、ひとり歩きを始めた死に翻弄されるのです。

 「死」を「欲」や「物」、「金」に置き換えるもよし。全ては頭の中の妄想で、目の前の現実を生きるには邪魔物でしか
 ないのです。幼少期の常朝は病弱で、二○歳まで生きられないと言われていたそうです。
 そして先ほども話しましたが、四十二歳で切腹を決意したものの、生きることを命じられます。
 そんな人物の言葉。単純な“死のススメ”であるはずがないのです。

 『日本人の心を奮い立たせるサムライの言葉』 成嶋弘毅 著

1260うのはな:2013/04/24(水) 15:07:30 ID:9SmKFq.s
    < 愚かな者は、体に刺さった毒矢を抜かずに、「誰が放った矢か」と問うている。>
  
 この言葉は、次のような話から来ています。ちなみにこの話は、ブッダが弟子たちにした話の中にもあります。

 数人の男たちが森へ獣の猟に出かけました。男たちは弓矢を持っていました。
 毒が塗られた矢を獣に放って、捕まえるためです。
 森で猟をしている時、誤って放たれた矢が仲間の男の体に突き刺さってしまいました。
 早く矢を抜かなければ、毒が回って死んでしまいます。
 なのに男は、矢を抜くことを忘れて、「いったい誰が放った矢なのだ」と騒いでいるばかりでした。

 このような話を紹介しながら、空海やブッダは「なんと愚かな男なのだろう」と述べているのです。
 この言葉で空海やブッダは、「犯人探しよりも、危機から脱する対処策を考えるのがまず大切だ」
 と言いたかったのでしょう。

 現代社会でも、たとえば会社の経営が上手くいかなくなった時に、「いったい誰に責任があるのか」と
 犯人探しの議論をやっている間に、経営の危機への対処が遅れて、結局はどうにも身動きできなくなってしまう、
 といったことがよくあります。

 何か問題が起った時、まず最初にすべきことは、その問題を解決する方法を探すことです。
 犯人探しは、その後です。そうしないと問題がどんどん悪化して、取り返しがつかないことになりかねません。

 打たれ強い心をつくる『空海のコトバ』 植西 聡 著

1261うのはな:2013/04/25(木) 18:13:56 ID:qJoyLft6
   三本指で逆立ちをして、道場をひと周りできれば

 極真空手の創始者・大山倍達(一九二三〜一九九四)。実際に当てるフルコンタクト空手をはじめた
大山先生は、梶原一騎原作の劇画『空手バカ一代』のモデルともなり、日本中の青少年を熱狂させ、空手ブーム
を巻き起こしました。過酷な修業で一〇円玉を曲げ、天然石を割り、牛を倒してみせた劇中の大山先生。
「その多くは伝説で、事実は違う」との声が死後ささやかれて久しいですが、弟子入り志願した小学時代の私の目の前で、
先生は一〇円玉を曲げてくださいました。

 残念ながら入門はなりませんでしたが、この時から私の空手人生ははじまりました。
一〇円玉を曲げる修業法は大山先生いわく、こうです。「体重八〇キロ以上の者で、三本指で逆立ちをして、道場をひと周りできれば、
たぶん曲げられるだろう」

 私は体格面でパスできませんでしたが、トライした人もいたでしょう。
暗示のパワーには侮れないものがあります。私も今では指導する立場ですが、これと見込んだ弟子に
「サンドバックを一〇〇〇回蹴りなさい」と命じたことがありました。
「一〇〇〇回の後、一〇回蹴ってごらん。音が違うよ。それを体得できれば、君は蹴り一本で優勝できる!」

恐ろしいものです。実際に彼はある大きな大会で、蹴り一本で優勝しました。
一〇〇〇本という数に根拠があるかは知りません。しかし彼は信じてやり抜くことで、
一撃で倒せる蹴りを身に付けました。強くなるには体格やセンスも重要です。しかし一番大事なのは、信じてやり抜く素直さです。
空手に限らず、人生にも通じる極意です。

 そして指導者には“信じさせる力”が必要です。“夢を見させる力”かもしれない。大山先生を夢見て、強くなった人間は数知れません。
中学時代、地元の空手道場で修業していた私に、大山先生は著書を贈り続けてくださいました。
挫折しそうな時、いつも計ったようなタイミングで届くのが不思議でした。

『日本人の心を奮い立たせるサムライの言葉』 成嶋弘毅 著

1263トキ:2013/04/29(月) 14:56:59 ID:38Fj9hJA
 昨日、4月28日に相愛会の「幹部研鑽会」が開催されました。

 この「幹部研鑽会」に参加された「総裁援護派」様より、当日の総裁 谷口雅宣先生の御講話(1時間)
についての概要を書いたメールが届きました。

 一切の評論なし、という条件での発表のご許可を得ました。なお、表現はかなり手直ししています。
実際の文章は、後日、機関誌などで紹介されるので、正確な内容はそちらをご覧下さい。あくまでも
「総裁援護派」様と「トキ」がまとめた内容で、内容の正確性には問題があると思うので、他の掲示板への
引用される場合は、必ず、正確性には欠ける可能性がある、という文句を入れて下さい。

 以下、総裁援護派様が、まとめられた「総裁のご講話」の要約です。

(つづく)

1264トキ:2013/04/29(月) 15:00:43 ID:38Fj9hJA
*総裁の御講話の概要
 
 最初に、総裁は本日(平成25年4月28日の幹部研鑽会の午後の講話)でのご指導のあらましを説明されました。
 その中でも、本日の講話での重要なキーワードは、対称性の論理と非対称性の論理です。総裁のご説明によると、
これは、文化人類学の言葉みたいです。そして、今、世界で起こっている問題をこの対称性と非対称性の論理で説明を
され、宗教はどちらの立場に立つか、という抽象的な話から生長の家の真理に触れ、大自然讃歌について、説明をされる
ということでした。

 ついで、2010年以降の幹部研鑽会などのご指導に触れられました。それらのご指導の結論が今日の講話の内容に
なる、という事でした。これらの「復習」に時間を使われましたが、これらは、「次世代への決断」に書かれています。
 ぜひ、ご参照下さい。

 総裁は、都会と自然について触れられ、人間の社会は都会と自然から成り立っている、どちらかがなくても生活は
できない、同じように生長の家もどちらかだけでは成り立たない、とされました。この自然と都会の関係は、アナログ
とデジタルの関係にもつながるとされ、人間の社会はアナログをデジタル化することで発展をしてきた、という点を
指摘されました。

 無段階で変化する時間を昼と夜と区別するように、アナログをデジタルにする事は、効率化につながります。都会
では、効率優先で発展をしてきました。都会は現在意識を活性化することで効率化をしてきました。今日では、国連の
統計では、地球上の人口の半分が都市部に集中しているといいます。が、都市部はエネルギーを消費するが、田舎で
は消費しません。これらの事をふまえられ、総裁先生は、「これは危ないと思っています。なぜなら、不自然だからです。」
 と言われました。

(つづく)

1265トキ:2013/04/29(月) 15:05:29 ID:38Fj9hJA
その上で、総裁は、「対称性」論理と「非対称性」論理という言葉を説明をされました。
総裁は、安政5年に書かれた歌川広重の「鯉のぼり」の絵や「牛」、さらに武蔵坊弁慶を例にあげられました。
総裁は、この対称性と非対称性について、かなりの時間を使われました。ただ、それをまとめる能力がないので、
はっしょって、それらを簡単に言うと、牛や鯉などを見て、「あれは人間ではない。牛(あるいは鯉)であり、違うものだ」
と「異物」と見るのか、「人間と同じ生き物だ」とそれらを仲間と見るのか、という2つの考え方があり、前者を非対称性の論理、
後者を対称性の論理という説明でとらえるのである、ということかと思います。
 聞き手の荒っぽい理解によれば、自然を対象生成とすると、都会は非対称と言えるでしょうし、アナログは対称性、
デジタルは非対称性とも言えるかもしれません。(これは総裁の説明と違う可能性はあります。ご注意下さい。)

 その上で、今度は、テロリズムの話になりました。テロとの戦いという言葉がありますが、その言葉の裏側には、テロリスト
は「人間ではない」から攻撃してもよい、という発想があります。これは、「非対称」の論理そのものです。先日、米国の
ボストンでテロがありました。もちろん、テロは悪いです。が、その原因には、アメリカの政策の間違いもあるのは間違い
がありません。「最近、ゼロ ダーク サーティーという映画がありましたが、見られた方はおられますか?」と総裁が
問いかけをされました。この映画はウサマビンラビィン殺害に至るCIAの活動を描いたもので、CIA女性の心理分析官が
主人公です。

 総裁が驚いたのは、CIAの傍若無人ぶりです。
 ウサマビンラビィンは、パキスタン国内に潜伏していたのです。パキスタンは米国の同盟国です。この米国の同盟国に
許可なく勝手に軍隊を送り込み、ウサマビンラビィンを殺害したのです。(つまり、同盟国の主権を侵害して恥じないのです。)

(つづく)

1266トキ:2013/04/29(月) 15:08:52 ID:38Fj9hJA
 そして、次に総裁が問題視したのは、無人機による攻撃です。これも具体的な数字や例をあげて説明をされていたのです
が、要するに、今や、人を殺害できる無人機が多数登場しており、攻撃をするほうは、無線操縦により、無人機を使って
まるでゲームでもするように、安全かつ安価に「テロリスト」を攻撃する事ができるのです。総裁は、その点について
強い危機感を覚えていました。無関係な人が巻き込まれる危険性なども指摘された上で、今は米国だけがこの技術を独占しているが、
技術というものは流出するものだから、世界に広まる危険性がある問題についても言及されました。

 この件についての総裁のご結論は「軍による無人機の使用に反対する。それは敵を認める事になるから。それによって
人が殺されるから。ある一方が、お前達はの存在を認めないとすると、他方もお前達の存在を認めない、という事になる」
というものでした。

 その上で、現在の米国の政策はイスラム教とイスラム教徒には非対称の論理であると言われました。今回のテロでも、テロリストには人権
を認めない、という発想でいます。が、そういう政策をとっていると、それが米国に跳ね返ってくきます。

 総裁は、かと言って、非対称の論理を全て否定するものではない、と言われます。が、非対称の論理を徹底すると、
人類は滅びてしまう、という危機感をおもちです。ですから、非対称の論理を広める必要があり、その役目は宗教である
と総裁は指摘されました。

 そして、「大自然讃歌」についてふれられ、あの経本が、対称性と非対称の論理の対話になっていると言われました。
つまり「天の使い」は対称性の論理、「天の童子」は非対称の論理を代表しているとのことです。この部分にも時間をかなり
使われましたが、省略します。

 「自分」と「他者」を違うものと考えるのではなくて、同じと考えることが大事である。(ここで、「生活の智慧365章」
のp365を引用されました。)利己的な生き方ではなくて、他の人の幸福のために生きる事が大事である、とご指導をされま
した。

 そして、全体の地球環境を考えると、「オレが地球の中心にいる」という発想は捨てなければならない。私達は仕事に
おいても、私生活においても、この対称性の論理を大事にしなければならないのである、とご指導になられ、最後に、

 「生長の家が森の中に行くのも、この対称性の論理のあらわれである。」という

事で締めくくられました。

(つづく)

1267トキ:2013/04/29(月) 15:10:02 ID:38Fj9hJA
 以上はある参加者が聞いた谷口雅宣先生のご講話の概要です。正確性に欠ける可能性があるので、ご注意
下さい。また、要約に当たっては、一切の感情や感想を排しております。

合掌 ありがとうございます

1268トキ:2013/04/29(月) 15:27:09 ID:38Fj9hJA
ご参考

http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001148.html

・対称性人類学 カイエ・ソバージュ

1269うのはな:2013/04/29(月) 17:51:16 ID:d6ndQd7Y
>1268
 トキさんこれ何?ってかんじですね。
 幹部の方たちって大変じゃないですか。対称性人類学を学ばなくてはいけないから。
 ムズカシソー。

1270トキ:2013/04/30(火) 09:47:17 ID:sIWSmlik
>>1266

 誤植がありました。お詫びして、訂正をさせていただきます。

>>総裁は、かと言って、非対称の論理を全て否定するものではない、と言われます。が、非対称の論理を徹底すると、
>>人類は滅びてしまう、という危機感をおもちです。ですから、非対称の論理を広める必要があり、その役目は宗教である
>>と総裁は指摘されました。

とありましたが、「非対称の論理を広める必要があり、その役目は宗教である」のくだりを、「対称性の論理を広める必要があり、
その役目は宗教である」というように訂正いたします。関係者各位に深くお詫びいたします。

 申し訳ありませんでした。

合掌 ありがとうございます

1271信者:2013/04/30(火) 10:07:55 ID:gmBlZK0w
たぶんこれと同じですね。

http://gitanez.seesaa.net/article/103374380.html

2008年07月22日


対称性人類学/中沢新一


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