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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1208元青年会員です:2013/03/23(土) 07:22:49 ID:CAoqhefU
>>1205
>>1206
>>1207 トキさま
「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、
わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

私は最近、本当の救いとは何かを考えています。
おそらくそれは、私達が想像し望んでいるものとは、かなり違っているはずです。
なぜなら、救われるとはエゴから解放されることであるはずだからです。

キューブラー・ロスの言う「愛と慈悲に生きる人」とは、エゴで行動しない人のことでしょう。
これは本当の救い、あるいはそれに近いものだと思います。
しかし、多くの方は病気や貧困や人間関係などの悩みから解放されることを望んでいます。
これは残念ながら、エゴからの解放ではありません。

私は「多くの方は救いの来るを望んでいる」と書きましたが、本当の救いは彼らの望むかたちではないのです。
しかし、私達は本当に救われる必要があります。
エゴに支配されて言いなりになっている限り、不幸は絶えることがないからです。

「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、
わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

この「たったひとり」とは誰のことでしょうか?

私は、この「ひとり」とは自分自身のことだと思うのです。

私は、自分のこれまでの人生の「動機」が間違っていることに気づきました。
私は悟りだとか実相だとか救済だとか高尚な立派なことを言いながら、私自身の欲望を満足させる道へ進もうとしていました。
お金が効率よく儲かる道だとか、性格が良く器量も美しい女性と恋愛できる方法だとか。

私は、エゴを少なくする方向へと進むべきだと気づきました。

かつて、私が何度も教えを請うたヨガ系の覚者は、こう言いました。
「損する道を選びなさい」
「マインドの言いなりにならないことだよ」
(※マインドとは心のこと。この場合、自分の願望・欲望のこと。)

当時、私はこの言葉の意味が多少は分かっていましたが、真剣に受け取ることはありませんでした。
しかし今、人生進路を考えるにあたって、この言葉を真剣に受け取りはじめています。

キレイな奥さんをもらったから、大金持ちになったから、エゴの言いなりだとは限りません。
それらがエゴの誘惑の結果でないなら、何も問題はありません。
しかし、私のエゴがそれを望んでいるのなら、その方向へ進むべきではないのです。
私は、エゴから離れる方向へと進むべきなのです。

「究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある」

私という存在が、エゴのない純粋な存在になること。
私という存在が、原初の、何も持たない、身ぐるみ剥がされた、清浄な存在となること。
私という存在が、ゼロへと近づいていくこと。
換言すれば、私という存在が、愛そのものとなること。

これが、私の進むべき道だと思います。

さきほどお話したヨガ系の覚者は、「欲望を無くすんじゃない。あるがままに見るんだ」と言いました。
欲望と戦っている限りは、欲望は無くなりません。
欲望から距離をとること。
欲望の言いなりにならず、自分の本心に忠実になること。
エゴの支配から解放され、自由になること。
そうすれば、生きるために必要な欲望があっても、惑わされることは無くなるでしょう。
ただあるがままに、欲望を眺めているだけです。

私たちは、エゴではありません。
私たちは、愛に満ちた存在です。
忘れ去っていたそれを思い出す道は、エゴから離れることなのだと思います。

私が愛であるとき、自ずから私の周囲に救いが起こるでしょう。
しかし、それは私の力なのではありません。
私はエゴです。
作為的に、人を救おうなどと考えている傲慢な存在は、エゴです。
私がエゴから離れたとき、私の中の何かが目覚めます。
その何かが、自ずから、人々を救済するでしょう。
それが、私です。
現在、「これが私だ」と思っている私ではない、本当の私です。
何ら作為のない、人を救おうなどという傲慢なことを一切考えていない、私です。

「永遠に生きるのは愛だけなのだから。」

トキさま、素晴らしいご文章をありがとうございました。


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