したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1191元青年会員です:2013/03/21(木) 12:18:44 ID:NMTz8OPs
>>1188
>>1189
>>1190 トキさま
宗教に限りませんが、組織というものが出来上がり大きくなると、色々な問題が生じるものです。
トキさまが以前書かれたように、カトリックは中世にすでに堕落があり、プロテスタントが生まれる契機となりました。

生長の家は、組織よりもっと根本的な問題である「旧来の宗教的観念」、これを打ち破る斬新な宗教哲学として誕生しました。
宗教というものは、モーセの昔からそのようにリニューアル(再生)を繰り返しています。

谷口雅春先生は、これを「焼き直し」とおっしゃいました。
絶筆である碧巌録解釈の最後には、こう書かれています。
「私の今まで書き綴ってきた講義は、単に先師の講義せられたところに啓発されたところの祖述に過ぎないのである」と。
つまり生長の家の教えは、先哲の教えを焼きなおしたに過ぎないと。
しかしこれは同時に、「旧来の観念を打ち破る新思想」を生み出すことでもありました。

モーセの昔には、物質的な偶像崇拝を否定して、斬新な「神の言葉」を打ち立てました。
キリストは、形式的な戒律へと堕した「神の言葉」を否定し、斬新な「神の愛」を打ち立てました。
日本の仏教界では、法然や親鸞が、貴族のための宗教から民衆のための「誰でも救われる」宗教へとリニューアルしています。

生長の家は、キリスト教や浄土真宗などにありがちな「罪」を否定し、光明思想を打ち立てました。
原罪や罪悪深重の凡夫という旧来の観念を打ち破ったのです。

私は思うのですが、こうやって旧来の観念が否定されて新しい教えが生み出されるたびに、より純粋な真理へと近づいている感じがします。
リニューアルされるたびに、余計な部分が削ぎ落とされて純化しているなあ、と。

現在の生長の家の衰退も、こうした流れの中にあると私は思っています。
つまり、単なる教団組織の問題だけではない。
さらなる純粋な教えが生み出されるプロセスとして、こうした問題が生じていると思います。

トキさまは私の意見に賛成なさらないかもしれませんが、私は谷口雅春先生の打ち立てた教えにも、まだ余計なものがあると思っています。
それをも打ち破る新しい何かが、必ず誕生するときがやってきます。
それはおそらく、教団の外側で起こるでしょう。
生長の家の観念に染まっていない新しい世代から、それは誕生するでしょう。

モーセにもキリストにも法然・親鸞にも、真理はあります。
生長の家もまた、同様です。
しかし、それらは皆、余計なものがまとわりついてしまっています。
その時代、その地域の人々には、それが必要だったのでしょう。
そうでなければ、教えは広まらなかったのでしょう。
よって、教えの純化のためには次の時代を待たなければならなかったのでしょう。

現代は、伝統を失いつつある時代です。
近代という文明そのものが、伝統否定という強い性格を持っています。
日本の伝統も危機にあります。
谷口雅春先生は、これを憂えていました。

しかし、伝統の多くが破壊されるからこそ、純化された真理が生まれるのだ、という側面も否定できません。
生長の家の出現のためには、伝統にとらわれない近代ゆえに生まれた「ニューソート」を必要としました。

また、谷口雅春先生は創造主たる神を一度は否定し、だからこそ実相に目覚めることが出来ました。
これは谷口雅春先生が、人間思惟を信頼する近代人であればこそ、出来たことです。
人間思惟によって、創造神を否定したのですから。

近代という人間中心主義の文化がなければ、こうした「伝統的な神を否定する」という恐ろしい所業は絶対に出来ません。
ですから教えの純化は、「伝統破壊」という側面を常に持っているのです。
(しかしこれは、残念ながら雅宣総裁の言動を肯定することにはなりません。伝統破壊は、宗教的霊感とワンセットでなければ意味がないからです。)

つづく


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板