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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1237うのさん:2013/04/11(木) 18:26:13 ID:ifDL04EY
生きた宗教 (1)

 


 宗教というものを何か堅苦しいもの、面倒くさい儀礼、窮屈なもの、しかつめらしいものであるかの如く思っている人があるかも知れないけれども、これは大変な間違いであるのである。

 宗教というものは楽しむべきものであり、又楽しみ得るものなのである。宗教とは生命の歓喜を教えるものであるから、宗教を生活に真に生きることができたならば、生活が楽しくなり、宗教が楽しくなるのである。もし何か宗教を信じていてそこへ深い喜びが湧いて来ないとしたならば、その宗教がまちがっているか、その宗教の信じ方がまちがっているかどちらかなのである。


 宗教を自動車にたとえた人がある。
 その人は言うのである。 「その自動車はのり心地がよろしいか、もしのり心地が悪ければ、自動車の状態が悪いか、その操縦がへたであるかのどちらかである。いい自動車ととりかえて、そのあつかいを適当にすれば、のり心地は満点である。宗教もその通りである」 というのである。

 もしあなたの宗教が完全な喜びをあなたに与えないならば、そんな宗教は、がたがたの自動車と同じようにのり捨ててしまって、新しい宗教にのりかえればいいのである。宗教の価値も実用主義の立場から批評されねばならないのである。

 極楽へ行くというのも実用であれば現世に利益があるというのも実用である。しかし立派な教であるのに、それを完全に自分が操縦することができないからというので、この宗教はまちがっているというのは、立派な自動車であるのに、運転の仕方がわからないために、この自動車は故障があって動かないといって捨ててしまうのと同じである。


 何故、自分の信じている宗教でお蔭がないのか。
 宗教そのものが悪いのであるか。自分がその宗教の教の組立てを知らず、それを如何に使用すべきかを知らないがためにお蔭がないのか。その点をよく考えてみなければならないのである。

 
 宗教も自動車と同じように、もっている人ともっていな人があるのである。又もっていながら、ただ置いとく人と、それを自由に乗り廻す人とがあるのである。

 宗教も折角もっている限りは、それを運転して日常生活にのり廻すことが必要がである。
                         〜 つづく 〜

                   谷口雅春師 『生活改善の鍵』より

晴れときどき競馬とホークス 今日の言葉より


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