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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1249うのはな:2013/04/20(土) 14:50:16 ID:D3DJ3PEQ
     志士は死士なり 『魂の変革者 吉田松陰の言葉』童門冬二 著

 志士は道義のためならどんなに貧しい生活をい送り、またその遺体を溝や谷に捨てられてもよいと
いう覚悟をしている。同じように、勇士もまた自分の首はいつ取られてもよいと死を覚悟している。
 その意味でいえば、志士や勇士は“死士”なりといっていいだろう。

 志士がなぜ清貧に甘んじ、その遺体を溝や谷に捨てられるかといえば、高い理想を持ち続けて絶対に節操を
変えないからだ。節操を守れば必ず困窮に陥る。これはしかし覚悟の上だ。
 飢えを恐れては志士にはなれない。勇士が、戦場で戦士することを望み、いつ首を取られても問題にしないという
覚悟を持つのと同じことだ。仮にも武士に生まれたからには、志士か勇士を目指すべきである。
ところがいまのわたしは、囚人として野山獄で生涯を終えようとしている。そこでわたしは、あくまでも志士の節操を
変えぬ態度を続けようと心掛けている。そしていつ死んで遺体を溝や谷に投げ込まれてもよいという覚悟さえ忘れなければ、
生涯をこの野山獄舎の中で終えようとも、少しも気に掛けることはなくかえって本望だ。

 この決意があれば、他人に助けを求める心もなく、世に救いを願う心もない。胸を張って、古今や天地を見据えることができる。
大変愉快なことである。世の中には、われわれより身分の低い人々の中にも、十二分のこの志士や勇士の志を持っている人がいる。
われわれが簡単に志を捨て、節操を変えてしまうようなことをしたら、そういう人々に本当に恥ずかしいことである。

( 志士は溝峪(こうがく)にあることを忘れず、勇士は其の元(こうべ・首)を喪ふことを忘れず)


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