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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える/4

1256うのはな:2013/04/22(月) 17:37:10 ID:tEB.S8xA
   「穢れていようが、拝むのだ」

『葉隠』より。信仰に対する常朝の考えです。戦国武将・上杉謙信が軍神・毘沙門天を信仰していたのは有名ですが、
兵法・武芸はその発祥から神社と密接だったといいます。サムライは武運を神に祈りました。
以下、現代誤訳で抜粋します。
「神は穢れをお嫌いなされるそうだが、思うところあって毎日怠らず拝んでいる。戦場で血を浴び、死体を踏み越え、働く時の武運を祈ってのことだ。
穢れているからと、背を向ける神ならしようがない。その結論に至り、拝み続けてきたのだ」

 自分に背を向ける神ならしようがない。この言葉に神よりも自分の都合を優先させる勇ましさを感じます。と同時に、それでも拝むのをやめなかったところに、
神仏へのリスペクトがあります。何より、神への見返りを求めていないのが立派です。give&takeではないのです。戦は経験しなかった常朝ですが、従兄弟の切腹の介錯を
務めたことがあるといいます。介錯は名誉といえ、穢れ。後味の悪さに、拝まずにいられなかったのかもしれません。

 私達も社会で競い合って働くなか、美しいことばかりして生きているわけではありません。
神頼みである必要はありませんが、どこかで罪悪感のクリーニングは必要です。
私自身、特定の信仰は持ちませんが、無神論者でもありません。初詣、クリスマス、墓参り。
自然に受け入れています。空手道場には神棚があります。雰囲気が好きなので教会のミサに出かけることもありますが、
牧師さんには話し上手な人が多い。キリスト教に限らず神や仏の言葉は、人の心をとらえるよう考え尽くされています。

 神仏は人間が作り上げたものだと思います。生きるため、汚れざるを得ない人間には、〝何ものにも侵されない神聖なもの”が
必要だった。そしてそれは信じることでリアルにもなる、不思議なものです。
神社の、あの掃き清められた清らかさにサムライは神を見たのでしょう。
パワースポットと呼び、参拝している若い人たちを見ると、今も忘れていないのだなと思います。

『日本人の心を奮い立たせるサムライの言葉』 成嶋弘毅 著


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