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聖典引用 板
3031
:
a hope
:2014/07/21(月) 17:20:14 ID:cEpBaIdo
「驀進日本の心と力」より
『善の存立し得る根本条件』 p67
「善」の存立しうる根本条件は、かくの如く「人格の自由」であるが、人格の絶対自由は、本当の人間が、現にアルかのごとく見ゆる時間空間に制約されたる肉体でないことによってのみ確認せられるのである。
しかして人格の絶対自由が確認せられてのみ人格の権威が認められる。
ジョーウインドウのマネキン人形には人格の自由はないから、人格の権威は認められないのである。
奴隷には自由が認められていないから権威がない。
権威は自由の認められた程度にあるのだ。
天皇は神聖にして冒すべからずと申上ぐるは、天皇は最大最高の自由を有し給う御本体の御表現にましますが故に、その権威は最高であらせられることを称したてまったのである。
人格の自由が最大最高の自由にまで高揚せられたる境地に於いては吾々はこれを人格と申上げず、神格と申上げる。
そこで 天皇は神格であらせられるが故に現人神(あらひとかみ)と申上げる。
所有権、領土権と云うものも、その本源は人格の自由にある。
最初地上に人間が出現したとき、先ず発見し、『これは我が所有、これは吾が領土』と認めたところのものが我が所有となり、吾が領土となったのである。
今でも無人島を発見してそこに最初に国旗を掲揚した国が、その無人島を領有する。
なぜ最初に発見し、まずそれを我が国土、我が所有と宣言せる者がその国土を領有するか。
それは人格の自由に基づくのである。
事物はこれを認めたときに存在に入る。(唯心所現)
認める心が存在しないとき、一切の事物は存在しない。
『神光あれと宣(のたま)ひければ光ありき』『宣ひ』に先立ってまず『認め』がある。
認めがあって(換言すれば心のヒビキ)があって『宣ひ』が発現し、『宣ひ』が発現してその事物が存在に入るのである。
コトバは事物に先立ち、『認め』はコトバに先立ち、『認め』は人格の自由によるのである。
ここに我等は 天照大御神の天皇降臨の御神勅(ごしんちょく)の如何に尊いものであるかを知ることが出来るのである。
『認め』の本質、『コトバ』の本質、存在の本質が判らないでいて、御神勅(ミコトノリ)の権威が分明する筈がないのである。
天照大御神の天皇降臨の御神勅――
『葦原(あしはら)の千五百秋(ひいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。』
とは『認め』であり、しかも伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)より高天原すなわち実在界の主宰者なりと宣言せられ給いし 天照大御神の『認め』であり、同時に『コトバ』である。
認めない時には事物はアルとも無きと同様なるが故に瑞穂の国の真の存在事実はこの時より始まるのである。
しかしてこの神勅は全実在界(高天原)の主宰者たる 天照大御神のミコトバなるが故に動かすことの出来ない天地の真理となったのである。
『コトバは神なりき。一切のものこれによりて成る』と聖書にあるが如く、この時より『水火(みづほ)の国』は確実に存在界に入り、主権者が確立し、領土権が確立したのである。
水火の国とは、そのコトバの示す如く水火――陰陽組合せの一切の存在を云う。
今さら、日本国を東洋の一小国だなどと考える如きはコトバの本質を知らぬものの云うことである。
普天率土(ふてんそつど)、一切の存在、スメラミコトの御領土ならぬはないのである。
(つづく)
3032
:
a hope
:2014/07/21(月) 17:50:58 ID:cEpBaIdo
>>3031
訂正
称したてまったのである。→ 称し奉ったのである。
天照大御神の【天皇降臨】の御神勅 →天照大御神の【天孫降臨】の御神勅
3033
:
トキ
:2014/07/22(火) 20:50:22 ID:wLVGMUNw
あなた達が善業を積み重ねて行くには、「与えよ、さらば与えられん」の黄金律に
従って、人のためになるものを与えるという愛行を積み重ねるのが最も確実で容易な
道である。”与える”といっても色々の与え方があり、何を与えるかの問題もある。
貧しい人に金銭を恵んで与えるのも其の人の一時的な助けになる。その人が助かっ
た程度だけ、あなたはそれだけ善業の種子を播いたことになる。けれども金銭その他
の物資を恵み与える場合には、その助けは永遠の助けとはならないで、その金銭又は
物資が無くなる時までの一時的な助けとなるだけである。その功徳は一時発芽して
伸びただけでひでりに遭って途中で枯れてしまう苗木のようなものである。物資を
与える場合の功徳は一時的であるから、あなたが折角蒔いた善業の種子も発芽して
少しだけ伸びて、あとは枯れてしまうのは惜しいことである。折角あなたは与えた
のだけども途中で枯れてしまうようでは、あまりにも勿体ない事であるから、途中
で枯れないような永遠に伸びて生長して行くような善業の種子をお蒔きなさい。
永遠に伸び増殖して行くものを布施するならば、相手が受けた功徳は永遠に伸び
るのであるから、その功徳があなたに撥ね返って来る功徳も永遠に伸びることにな
るのである。
それでは永遠に伸び増殖して行くような布施とは何を与えたらよいであろうか。
それは真理を与えることである。”人間・神の子、無限力”の真理を、あなたが
人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、
それを繰り返し使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その日とが他の
人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が増えて行くから、あなたに撥ね
返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の”小さな種子”がついに
は天を摩する巨樹のように伸び行くことになる。真理を与える功徳はまことに
無限無尽であると云わねばならない。
「神 真理を告げ給う」 谷口雅春先生 96P より謹写
3034
:
a hope
:2014/07/22(火) 22:54:21 ID:cEpBaIdo
(
>>3031
つづき)
「驀進日本の心と力」より
『領土権の根拠は那辺(なへん)にありや』p69
領土権は、人格の自由に基づくところの『認め』(認識)と『コトバ』(宣言又は表現)によってかくの如く確立する。
この『認め』の本質と権威とを知るとき歴史以前に於て、既に一切の存在が 大日本天津日嗣(あまつひつぎ)すめらみことの知ろしめし給ふところなることが明らかである。
『知ろしめす』とは『認め』の本質である。
『認め』と共に存在に入るのである。
『認め』は存在の本源であり、一切事物の存在は認めに基くミコトノリに発するのである。
歴史以後に世界各国がこの国土は自分の国土であると宣言したところが、それは既に、歴史以前の大宣言(おおみことのり)であるから、世界各国の統治者は国土を『※うしはく』のであって知ろしめすのではないのである。
かくの如く『認め』の権威が明らかとなったとき、はじめて、夫婦の貞潔と云うものの価値と権威とも明らかになるのである。
夫婦の貞潔(ていけつ)が美徳であると云うのは単なる良人の占取欲(せんしゅよく)のためではなく、社会公安上の便宜ではなく領土権と等しく『人格の自由』と『認め』と、その『認め』の発表のコトバの力に基づくのである。
良人の占取欲や、独占欲や、社会公安上のために仮に設けたただの規則が夫婦間の貞操であるならば、良人の独占欲が無くなったり、社会の事情がかわって来たならば、夫婦の貞潔は却って美徳とせられなくなるかも知れないのである。
然るに、夫婦の貞潔が美徳であるのは、対社会的方便や、占取欲的やによって変化するような相対的関係によって※然(し)かなるのではないのである。
夫婦の貞潔が美徳であるのは、
一、 人格の自由
二、 認めの権威
三、 宣言の権威
に基づく、一人の男子が、一人の女子を、一人の女子が一人の男子を、その各々の人格の尊厳に於いて、その各々の人格の自由に於いて、互に相手を自分の良人又は妻であるとして知り、認め、しかして宣言する。
その宣言の形式は、役場の戸籍簿に登録せられることであっても、結婚式を行うことであっても、親戚知己(ちき)に手紙で披露することであっても好い。
兎も角、認め、認められて宣言が行われる。
ここに「人格の自由」とその自由なる人格による「認め」と、その「認め」に基づく『宣言(コトバ)』とによって、コトバは一切の存在の支持者として、そこに彼は彼女の良人であり、彼女は彼の妻であることが存在に入(い)るのである。
ここに人格の自由による「認め」と「宣言」によって、それがかくあることが持続せられて、互に相冒(あいおか)してはならないことの権威が生ずる。
権威人格の自由に基づき、宣言によってそれが確保せられる。
※うしはく・・・領地として治める。支配する。(Web辞書より)
※然(し)か・・・そのように。さように。(生命の實相第13巻の頭注より)
(つづく)
3035
:
流氷
:2014/07/23(水) 03:54:31 ID:5mX.1AXk
『真理の吟唱』ジュニア版
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=58
3036
:
トキ
:2014/07/23(水) 19:17:10 ID:ILCvoLUk
「善き”言葉の力”によって地上に天国を建設せよ」
神はコトバによって実相界の一切のものを創造せられたのである。神の最高の自己実現としてうま
れた人間はまたコトバの力によって万物を現象界に創造するのである。神は実相界の万物を創造し給
い人間は現象界の万物を創作する。実相界と、現象界と、その分担は異なっているれども、”コトバの
力”によって万物が創造せられることに相違はないのである。それゆえに私たちは、善き”コトバの力”
を駆使して、「真理」の言葉を唱え、”善き世界”を顕現するようにしなければならないのである。その
ためには毎日「真理の吟唱」にある実相完全の世界を表現したコトバを読誦し”コトバの力”によって、
”実相世界”の完全の相を、現象世界に実現するよう努めなければならないのである。かくして地上に
天国が建設せられ、竜宮城が実現するのである。
「美しき日本の再建」 谷口雅春先生著、148pより謹写
*トキの感想。
このコトバの力の発揮は、日常の生活の中で使う訓練が大事ですね。
心掛けたいと思います。
3037
:
a hope
:2014/07/24(木) 08:37:03 ID:cEpBaIdo
(
>>3034
つづき)
「驀進日本の心と力」より
『貞操の根拠は那辺にあるか』p71
夫婦の貞潔を冒してはならないのは、領土権を侵犯してはならないのと同様である。
人格は自由であるが故に、何をしても好いのだということはこの場合には成立(なりた)たない。
人格は自由であるが故に、その人格の自由の尊厳の故に、既に他の人が、その人格の自由によって、『認め』かつ『宣言』したことを犯すことは出来ないのである。
『自由』と云うことはふしだらなことでも、だらしのないことでも、めったやたらにやることでもない。
『自由』が『自由』としてその『自由』の権威が保持され能(あた)うのは、実に他者が既に「認め」かつ宣言したところ『自由』を侵さないこと、また侵されないことによって成立つのである。
夫婦の貞潔が美徳であるのは、かくの如き、人間の人格の自由と『認め』と『宣言」』とによるのである。
3038
:
SAKURA
:2014/07/25(金) 00:50:48 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2959
>>の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*
われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしくも自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。
「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。
よく嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって自分
のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々にして
ありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が姑と
類似の心をもっていたということに気がついて、自然と懺悔の心が起こってきて、ああわた
しがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったということに気が
つくのであります。
こんな実話があります。ある人がお嫁に行かれまして、そこの姑さんが非常に吝嗇で、
お嫁さんが御飯を一杯よそって食べますと、お櫃に蓋をして、お姑さんがお櫃の上へ
肘をかけて見ておられるのです。それからニ杯目には、「ちょっと済みませんが」とい
って、蓋をあけさしてもらってよそう。それが三杯目になると、「ちょっと済みませんが
……」というのも気が引ける。
まァそれでお腹が空いているけれどもやむをえず我慢しておったが、あんまりひど
いと思って、その姑を憎み憎みしていた。また姑の方からも意地わるばかりしてくれ
るというので、とうとうそこを離婚してもらって、別のところへ再縁して行かれたの
です。今度は姑のない家でないと嫁かぬというのでそういう家を選って再縁して行か
れたのですが、今度はそこの夫がお櫃の蓋に肱を掛けて蓋をあけさせないようにして
見ておる。それでもまァ、ニ杯目ぐらいは遠慮しながらでも食べられるけれども、三
杯目になると、「お前あんまり肥ったらいかんぞ、細いのがわたしは好きだから……」
と、そういうふなことをいわれる、とうとうそこの家も駄目になって実家へ帰ってき
たという実際の話があります。
こういうふうな人は自分はわるくないと思っているけれども、自分の心の中に同じも
のがあるのであります。それと同じものがあるのでその人の行く先行く先で自分の心
と同じような事件が展開してくるのであります。
つづく
再合掌
3039
:
トキ
:2014/07/25(金) 19:48:47 ID:cXqqwViw
>>3038
ご投稿、ありがとうございます。
続きを期待しております。
合掌 ありがとうございます
3041
:
a hope
:2014/07/27(日) 12:40:09 ID:cEpBaIdo
(
>>3037
つづき)
「驀進日本の心と力」より
『所有権の根拠』p72
領土権や、夫婦の貞潔が人格の自由の上に基礎を置くが如く、所有権も吾等の人格の自由の上に基礎を置くのである。
所有はある人格の延長と見らるるものである。
彼は彼自身の行動の自由を、その所有を通って発現する。
彼の所有は彼の人格の自由が『認め』かつ『宣言』したものであると云う点に於て彼の人格の延長であるが、同時に彼はその所有を道具として自分の人格の自由を形の世界に実現する点に於て、また彼の人格の延長なのである。
これを侵すことは人格の自由を侵害することになる。
それ故に、所有権の侵害は人格の自由の侵害として罪悪としてみとめられるのである。
すべて、罪悪とは人格の自由の隠蔽又は侵害である。
人格の自由はそのおのずからなる顕現として、円満完全さを伴うものである。
『自由』の別名は『完全』であるを要する。
なぜなら『不完全』は自由自在の欠乏を意味するからである。
本当に生命の本質――即ち人格が自由にして無礙であるならば、その発現は完全なるものとならざるを得ないのである。
本来人格の自由と云うことが倫理学上、先験的に要請せられるものである以上、人格の本来円満完全と云うことも、倫理学上、先験的に要請せられねばならないのである。
そこで本来円満完全なる人格が円満完全さが隠蔽(おお)われて不完全不円満を顕すが故に、これを『隠蔽(いんぺい)』即ち『ツツミ』すなわち『ツミ』と云うのである。
本来不円満不完全なるところの者が不円満不完全なる有様を呈しても罪とはいわない。
それは円満さの隠蔽ではないからである。
牛が隣の土地の草を喰っていても牛の罪とはならないが、人間が隣の所有権を侵せば罪となるのは、人間の本来完全であることが要請せられ、他者の人格を尊重し所有権を尊重するのが当然であると要請せられているからである。
されば吾等の罪が問題にされるのは、人間が本来完全であることを先験的に要求されるからであると云わざるを得ない。
されば谷口倫理学では、人間は本来完全なりと主張するのである。
(注)「認め」の倫理的価値は、遥かに遡(さかのぼ)れば『法華経』の「常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)」に於て、常不軽菩薩が万人を成仏すべきものとして礼拝したのに始まる。認めて初めて存在に入るのである。この時よりして万人は成仏すべく定められたのである。大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)が※十劫(こう)の間を道場に坐してしかもなお成仏しなかったのは、本来「仏」でありながら「認め」が存在しなかったからである。
近代文学に於いて認めの価値を力説したのはオスカー・ワイルドであって『倫敦(ロンドン)の霧は詩人がこれを歌うまでは存在に入らなかった』と云った。
また頼襄(らいじょう)が『耶馬溪(やばけい)を以て海内第一とするは頼山陽(らいさんよう)より始まる』と豪語したのも『認め』の価値を力説あいたのである。(谷口)
※十劫・・・きわめて長い時限のこと。天女が五百年に一度、羽衣で岩をかすめ、その岩がすりへってなくなるまでの時間を一劫という。(「生命の實相」13巻の頭注より)
(以上、謹写終わり 感謝 合掌)
3042
:
流氷
:2014/07/27(日) 15:12:11 ID:Ftu8YlPU
理念の『生長の家』
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1099
3043
:
トキ
:2014/07/28(月) 20:59:36 ID:lqUaVStc
「生長の家」では「物質は無い」と申します。一方において「物質は無い」と言いながら、ここに
「無限供給を受ける道」という題示を掲げますと、大変矛盾を申しますようでありますが、物質が本来
「無」であるが故に、それは心の影であるが故に、無限無尽にこれを現すことができるのであります。
物質が具体的にあるもので、どこかにある有形有限のものを持って来なければ「物質」が出て来ない
ものでありますならば、それは「物質は有限だ」とも言い得ましょう。甲所から物質を乙所まで持って
来ると、乙所の物質は殖えるかわりに、甲所の物質は減ってしまいますから「物質は有限だ」というわ
けであります。しかし物質が本来「無」であって、「念」の鶴嘴によって、無限無尽の世界(神の世界)
から発掘して来るものでありますならば、それは発掘するに従って無限無尽だと言わなければならない
でありましょう。
生命の実相 第8巻 116Pより謹写
*聖典には、一見、矛盾するような内容の部分がありますが、その真の意味を掘り下げると、矛盾がな
いのであります。よくよく吟味するべきだと思います。
3045
:
SAKURA
:2014/08/11(月) 23:03:09 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*
上海事変の時に上海のある高等学校の先生が災害を恐れて逃げて、弾丸が隣の家へ落
ちるとまた引っ越しをする、引っ越すとまたその隣に落ちまた逃げるというふうなことを
やって、行く先行く先で弾丸に見舞われて、死にはしなかったけれども、幾回逃げても、
そのつい隣にまで弾丸がやってくるような目にあっておられた事実の報道が『生命の実相』
第三巻に出ていましたが、ちょうどそれと同じようなことであります。
われわれに弾丸があたるのは、わるい姑というものが当たるのと同じことで、自分の心の
とおりのものが外に現れているのであります。弾丸は外にあるのかと思うと、決して外ば
かりじゃない。
意地わるの姑というものも外にあるのかと思うと、自分の心の中にある。それで今度は姑の
いないところへさえ行けば意地わるの姑というものはおらんかと思い姑のない家へ行くと、
今度は姑と同じような、男の顔をしているけれども、意地わるの夫があるということになり、
そこをやめて帰ると奥さんの実家では、出戻りであるというので虐められて、帰ってからも
御飯のお櫃(おはち)の上へ肘をやって虐められたかどうかは知りませんけれども、お前の
ようなものはどこへ行っても辛抱ができないとか何とかいって、同じ種類の虐められかたを
したに相違ないと思うのであります。
そこで、われわれの運命というものは、どこへ行っても鏡が変わるだけであって、そこの
場所で自分の心の顔の相が映るということになるのであります。
それで「類は類を招ぶ」という心の法則を知って、自分が不幸が嫌いならば、いやしくも
自分の心にそれと同じような心持を抱かないようにしなければならないのであります。
よく病気を恐ろしがる人がある。「わたしは病気が恐ろしいのです。」こういっておられる
人がある。
病気が恐ろしかったら病気を思わぬようにしなさい、こう言うのでありますけれども、病気の
恐ろしい人ほど病気のことを考えている、もう二六時中病気のことばかり考えている。病気に
罹ったら、とこう考えておられる。
そういうふうな人は、結局普通よりも早く病気にかかって死ぬということになるのであります。
生長の家の誌友の親類のひとで秋吉さんといわれる未亡人がおりましたが、その方の夫と
いわれる人はチフスの恐怖症であって、親類の人のチフスで死んだ印象を受けて、それから
自分はチフス菌というものは非常に恐ろしくなって、チフス菌は煮沸したならば死んでしまう
というので、どんなものでもみんな煮沸して食べ、生の物なんか食べたことはない。
生水なんかむろん飲まない。顔を洗うのだって、くちをすすぐのだって、チフス菌がおった
ら危ないというのでみんな一度沸騰さした湯ざましで顔を洗うということまでやっておられた。
ところがやはりチフス菌に冒され、どこから入ってきたのか知らぬけれども、チフスに罹って
死んでしまわれたのです。こんなに何でも煮沸して使いながらチフスに罹って死んだのは
「類は類を招ぶ」という心の法則によって、自分の心の中にに描いたものが形に現れてきたので
あるということになるのであります。
つづく
3047
:
トキ
:2014/08/13(水) 10:59:31 ID:PLs7iwpU
>>3045
SAKURA 様
素晴らしい文章を書いて下さり、ありがとうございます。
こういう点はとても大事だと感じます。続きを楽しみにして
おります。
合掌 ありがとうございます
3049
:
SAKURA
:2014/08/23(土) 22:06:46 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2947
>>2953
>>2958
>>2959
>>3038
>>3045
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*
自分の心にチフスを描けばチフスが出てくるのです。肺病を描けば肺病が出てくる、胃病を
描けば胃病が出てくるのであります。
それで肺病の恐ろしい人は、肺病を思わないようにするといいのです。
『生命の実相』を読むと、『人間は神の子で病気は〝な〝い』と書いてある。
〝な〝いと書いてあるだけでどうして治るのかというと、本当に〝な〝いと知ったら悩みがなく
なる、心に思わなくなる。ないように思うだけではない、本来無いから悟った時にその本来無いが
あらわれてそれで治ってしまうのです。病気が本来アルと思っている間はどうしても治りにくい。
人によって徐々に治ってくるのは、その「“無“い」が徐々に知られてくるから徐々に治ってくる
わけであります。
この「類は類を招ぶ」というのは、肺病を思えば肺病が起こるということだけでなしに、たとえば
この「心配」――言い換えると、胸に思いを溜めると、すぐにこの胸が痛くなってきて、やがて
それが蓄積して昔なら恋煩いというふうなことになる。
恋煩いというのは今なら肺病肋膜炎というところです。心で思うから病気をするんだと教えてあげ
ると、わたしは肺病を思ったことはありませんのになんだか身体が衰弱する、疲労をするので医者
へ行きましたら肺病だと宣告されました、こういわれる。
これは心の法則を知らざる人が言うことであって、肺病と思わなくても、胸に思いを溜めると
「類は類を招ぶ」という法則にによって胸に血液が欝血し、血行が悪くなり、その部分の抵抗力が
衰えて胸の病気に罹るということになるのであります。
これは「類は類を招ぶ」という法則によって出てくるのであります。
われわれが人から、わたしはちょっと足がわるいのです、わたしは手がどうでございます、
これはどういう心持からきますかと、こういって、いろいろと病気の起こる原因(もと)の心を
指摘せよと言われる。それをあんたのこういう心持起こるのですよ、こういって上げることができ
るもは、それを開く鍵はどこにあるかというと「類 は類を招ぶ」という心の法則が鍵であります。
この鍵によって病気の原因を開けば治るのであります。
『生命の実相』を読めば自然とその鍵がわかるように書いてある。だから『生命の実相』
を読めば、誰でも教祖のようになって「あなたの病気はこういう心持で起こる」と御神宣
を下すことができるようになる。自身が病気の人なら自分で自分の心の欠点が『生命の実相』
を読んでいるうちに省みられ、是正されて病気が治ってくるのであります。
たとえ中風に罹ってふるえている人に、あんた癇癪持ちですね、こういうとたしかに当たる、
嘘ではない、必ず当たる。
それは『生命の実相』を読み「類は類を招ぶ」という心の法則を知れば病気の形に従って、
ハハアこれはどういう心が具象化(かたちにあらわ)れたものだと分かるのです。このことは
近代の精神分析(サイコアナリシス)がある程度まで科学的に立証した。人が本当に激昂したら
身体がぐっと固くなって身震いする、手が慄えている、あるいは完全に発言することができない。
そいつが今度ある機会に形に現われてそうして手が慄えるような病気に罹っている。
それをあんたは癇癪持ちですねというとすぐ当たるのです。秘密も秘伝も何もない。
誰でも『生命の実相』を読めば御神宣が下されるわけであります。
❤〜SAKURA つづく
3050
:
流氷
:2014/09/01(月) 09:38:48 ID:xLYSKxhc
天皇絶対論とその影響 謹序より
http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18669271.html
3051
:
SAKURA
:2014/09/01(月) 21:28:44 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3045
>>3049
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自己を欲せぬことを思うな ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*
精神分析では神経症しか治らないが、生長の家式に「類は類を招ぶ」心の法則を理解すれば
器質上の具体的病気でも治るのであります。
たとえば顔にお腫物ができた人が来るとする。顔にお腫物ができるとその顔が脹れている。
「あんたは不平の心をもったですね。」そう言うとピッタリ的中する。それは本当であって、
「肉体は心の影」である。「類は類を招ぶ」という心の法則によって、不平を起こしている人
は脹れる病気にかかるのです。不平な心でいる人に「お前は脹れる面をしている」という、
心が脹れれば肉体も脹れるのです。聖典を熱心にお読みなりさえすれば、誰に聞かなくても
必ずしも献納金を出して、「ひとのみち」の教祖に聞かなくてもいいのです。
「ひとのみち」を悪い教えのように言っている人があるが、御神宣は心の法則を摑んでいて
信者に一般に公にしないのです。ところが皆さんが、みんな自分で教祖のようになれるのが
「生長の家」の特色であります。近眼の人が治してほしいと言ってくれば、あなたはこういう
心持だから近眼であると、ピタリピタリと的中する。『生命の実相』を読んだだけで人の心の
欠点を指摘して一語または数語で、医界難治の近眼を治した人の実例がわれわれの発行していた
雑誌『生命の教育』の「近眼は治る特集号」に多く収録されたことがあります。病気を見て人
の心持を何でもよく当てることができるのは「類は類を招ぶ」ということによって、心のとおり
の相が肉体に現われているのを看破するから当てられるのです。
このように、肉体は心の影でありますから、われわれが円満完全な相好をし、円満完全健康な
肉体をし、円満完全で何不自由なき境遇になろうと思うならば、まず心が円満完全にならなけ
ればならないのであります。その円満完全なる心になろうとしましても、修業や克気で、腹立
つ心が抑えたり、憎む心をを制したり、不平不足な心を抑えたり、いろいろわるいことを一つ
一つ抑えてゆこうとすると、こいつはなかなかむつかしいのである。
けれども、われわれは、そういう怒る心、腹立つ心、憎む心というような一つ一つの心を抑え
なくても急所がある。猫でも首の上のところを摘んでひょっと上げる、急所を掴むとじっとし
ている。それと同じで、われわれの感情でも急所を掴んでひょっと上げるともう温和しくなっ
てしまうのです。その急所はどこにあるかというと「実相」です。
われわれは「生命の実相」を捉む、人間の実相を捉んでぶら下げると誰でもみな温和しくなる。
ほかの修業では心を外から抑えてゆこうとしますが、
「生長の家」では『生命の實相』を読んでいるうちに「実相」を表現した文章の力、言葉の力で、
読むだけで心が和んでき、心の欠点が直ってくるようになっていて、外から無理に抑えなくても
万事がよくなるようになっているのです。
それでどんな意地悪な姑さんでも猫と同じことで、こちらの心が穏やかになって、相手の実相――
神の子――という急所WP捉むと、そうするとみんな猫のようにイヤそうじゃない、神の子のように
温和しくなりまして、そうしてみんなあの人も神の子である。この人も神の子であると、本当に大調和
した世界が、家庭にも環境にも実現してくると、自分のゆくところ神の子たらざる人はないというように
なって、円満完全な調和した世界が現われるということになるのであります。
次の項目につづきます。
❤〜SAKURA
3052
:
SAKURA
:2014/09/01(月) 21:29:39 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>3047
トキ様より
ありがとうございます。…遅くなりました事…申しわけありません。
逆に、この『2チャンネル』にて、、、随分と精神の向上の場を与えられたことに…感謝!
本当に「谷口雅春先生」の言葉を…PCのキ―にて打ち込んでいきますと、あらたな発見です。
そして、こちらも不思議な事に「精神の修行に近い物事」が起きますから、
今の私自身の戦いは、このように「雅春先生の本」から教えられていく形になっているようです。
こちらこそ「トキ様」のお陰で、
いい意味での【聖・典】の勉強をさせて頂いております。少し!ゆっくりペースですが?
つづき投稿させて頂きます。宜しくお願い致します…。
今月から『9月』…読書の秋…ますますと「谷口雅春先生の書籍本」を時間の合間にて、
読んでまいりたく思うのです。 秋の〜〜〜夜長〜〜〜♫
再合掌
3053
:
トキ
:2014/09/02(火) 22:58:12 ID:KLM0wVTc
SAKURA 様
ご投稿、ありがとうございます。
いつも楽しみにしております。これからもよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
3054
:
SAKURA
:2014/09/15(月) 20:36:38 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>3051
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その1―【 転載編 ―】*=======*=======*
■われらは自他の悪を云為する時間あらば、神を想い、
自己の新生と生長とに利用せんことを期す。
病気でも幸福だという人があるかもしれませんが、それはその人個中の消息であって、
本当にその人の働きで人生を積極的に幸福にしているとは申せません。
病人自身は病気を楽しみ、病気の人生における意義を考え、苦痛の喜びを魂で歌っている
ことがあるうるにしましても、またそういう人がありえたということが、病める多くの隣
人の「慰め」にはなるにしましても、それは、ただ消極的に病人の「慰め」になるのであ
って、積極的現実的に病人を病患より救うことはできません。
病苦を耐え忍びうる知恵を授けるのも必要ではありますが、それは消極的です。
病苦を気の毒だと思うならば、病苦を耐え忍ぶ方法よりも、病苦の消える方法を教える方が
いっそう病人に対して深切でありましょう。
さらに病苦の消える方法を教えるよりも、積極的に健康となる方法を教えることができれば、
それに越したことはないでしょう。
前項でも申しましたとおり、「肉体は心の影」でもあります。
われらの心の念(おも)は肉体中のすべての器官すべての細胞にその形を印して、その念い
のとおりに肉体を変形してしまうのであります。最近の例をとり挙げますならば、金沢市の
生長の家誌友会の北島是隆氏は、同時にわたしが穏田の自宅で会った時には七分どおり白い
頭髪をしていられましたが、翌年六月わたしが赤坂の生長の家本部講堂で会いました時には
まるで白髪染で染めたような真黒な頭髪をしていられました。
そして言われるには「これは決して白髪染で染めたのではありません。
第二回講習会に列して先生の御講義を聴きながら、先生の頭髪に一本も白髪がなくて黒々して
いるのを見て、わたしも先生と同じく神の子であるから、ああいうふうに艶々した黒い髪の毛が
生えているのが実相である、こんな白髪はあるように見えても仮相(かそう)であると心に強く
思いました。
そうしたら不思議なことに、しばらくのうちにこんなに黒々とした髪の毛になりました」と言われました。
北島さんは今までは年が寄ったら頭髪は白くなるのがあたりまえだと思っていられたのですが、
今度は人間の頭髪は黒いのがあたりまえだと悟ったために、その「心の影」として頭髪がくろく
なってしまったのです。
これが「悟り」の肉体に及ばず影響であります。
ちょっとそう思ったくらいでは白髪は黒髪にならないかもしれない。
それはわたしの講習を受けられている間にわたしの言葉の力が北島さんの老衰した心的内容を
血気旺な心的内容に変えてしまったのであります。
つづく
❤〜SAKURA
3055
:
トキ
:2014/09/17(水) 09:37:15 ID:mIMPYigI
>>3054
続き、楽しみにしております。
3056
:
SAKURA
:2014/09/17(水) 21:27:57 ID:???
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>>3051
>>3054
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その2―【 転載編 ―】*=======*=======*
また横浜市神奈川区子安一四一二番の家名田二郎(やなだじろう)さんは『生命の実相』
の「蓄膿症は素直でない心から起こる」という項を読んで、今まで親に反抗心を持っていたので
悪かった、と気がついたときに、数年来詰まっていた蓄膿症の鼻が一方だけスッと故障がなくなって
空気が完全に流通するようになった。
それからわたしにお礼が言いたくなって本部講堂へやって来られてわたしの顔を見ると同時に、
もう一方の詰まっていた鼻がスーッと通って両方とも完全に治ってしまったといって昭和十一年
七月十五日にわたしの聖典講義のあとで突然お礼を申されたのであります。
これは何もわたしの顔が蓄膿症の薬になったわけではない、わたしの本を読んだり講義を聴いたり
しているうちに本人の心が素直に上から下へ、上の者の命令が素直にスーッと下の方へ通るように
なったのであります。こういうように肉体は心の影でありまして、深く心に印象した念(おもい)の
とおりに肉体が変化するのであります。
■「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも真実なのは
「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。
概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、
■自覚の心
一、 平和の心
二、 明るい心
三、 悦びの心
四、 深切の心
五、 有難い心
六、 無我の心
七、 自在の心
でありまして、その反対の
■迷いの心
一、 不安、焦燥、恐怖の心
二、 暗い心、陰欝な心
三、 不平、不満足の心
四、 冷淡な心
五、 忘恩的な心
六、 利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望
七、 一事物に引っかかる心
■などは病気を起こす心であり、その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであ
ります。細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、それを一つに
纏めると、「迷いの心」とは「我執の心」であります。
我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、不満足、冷淡、
忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが起こってくるのですあります。
つづく ❤〜SAKURA
3058
:
a hope
:2014/10/01(水) 23:34:09 ID:cEpBaIdo
第五章 ロダンの鼻欠け像の倫理
「普門成就」より p67〜
・・・「普門」というのはあまねくいっさいの門にわたって救うということであって、この門は救わぬ、
あの門は嫌いだというように毛嫌いしているのでは、普門の徳を備えているのではないのであります。
いっさいの門を普(あまね)く救うのがこの観世音菩薩の普門の徳である。
各宗門、各法門にわたってこの普門の観世音菩薩的働きをするのが「生長の家」であって、
別に何々教と一宗教に凝り固まらないのでありますが、それぞれの宗教の神髄が、
今までどうも合点のゆかなかったようなところがハッキリとなり、すべてにわたって生き生きとしてくるのであります。
キリスト教でも、各派によって聖書の解釈の仕方がそれぞれちがうのであります。そして、互に争うようなことになるとそれは普門の働きではない。
宗教というものは、和解によって生きてくるものであります。
普門の働きはいっさいを生かす、いっさいを生かすためにはいっさいの宗教が和解しなければならない。
和解すると申しますのはその教えのニセの説き方に迎合するのではない。
その教えの実相と和解し、実相を正しく観、その教えの神髄を拝み顕すことなのであります。
そしてどんな宗教でも、いやしくも立派なものである限りは、その神髄、その教えの実相に和解してしまえば、そこの「生長の家」と全然同じ真理が見いだせるのであります。
3059
:
a hope
:2014/10/01(水) 23:37:06 ID:cEpBaIdo
(
>>3058
a hope所感)
万教帰一である「生長の家の教え」の神髄といえば「唯神実相」ですから、そうすると、
他の宗教(聖典のお言葉では、「いやしくも立派なもの」)の神髄も「唯神実相」と言うことになるのですね!
3060
:
a hope
:2014/10/02(木) 19:00:11 ID:cEpBaIdo
生命の實相14巻 p70 3行目〜
<<仏教はふつう「われは無い」と説いている。
われがないとすれば、むろん「霊魂」はないわけで無霊魂論だと思われています。
ところが釈迦はその弟子たちに、お前は寿命が終わったら、いずこに生まれる、かしこに生まれるなどともいっているのであります。
それで『阿含経』を見ますと、釈迦が王舎城の伽藍陀竹園にいられたときに、
仙尼(せんに)と名づける外道の出家が出て来て、その点について釈迦に疑問を提出しているのであります。>>
(a hopeまとめと所感)
その後の文章で釈迦が答えた、『世間における「我」の三種の説き方(人生観』をまとめてみます。
① 『断見』 ・・・ 現在世のこの「我」を真実の「我」と見る、そして現在世の肉体が終わった後は「我」というものは消えてしまう 【物質主義者の考え方】
② 『常見』 ・・・ 現在世の「我」というものも真実のわれであって、死んでから霊界に行く「我」も真実のわれである 現象我の常住不滅を説く
【心霊学(psychic science)的立場 】【スピリチュアリズム(心霊主義)的立場】
③ 釈迦の所説 ・・・「われとなんじらの思っているそのわれは本来無いものじゃ。現在世でわれと見えるものも、霊界でいろいろの所へ生まれかわってくるわれと見えるものも本来無い物じゃ」
【実相独在】【真我独在】
仙尼は、その答えを聞いてもその意味がわからないので、釈迦に反問します。
そうすると、釈迦は
「ますますなんじの疑いが深くなるのは無理はない、「我」というものがあるように見えているのにないというのだから解らないのは無理はない、
それは微妙(みみょう)の実相を照見する一切知(実相覚)というもので悟らなければ分かるものではない」
という内容の返事をしたそうです。
つまり、「実相を悟っていないものには、『実相独在』はわからないのだ」ということなのだと思います。
3061
:
a hope
:2014/10/02(木) 19:12:46 ID:cEpBaIdo
(
>>3060
つづき)
その後のテキストの文章の謹写を続けます。
p71 後から3行目〜
<<「現象我が本来無いというなら誰に対して道を説くのであるか、宗教というものは本来救われている真我に対して説くのではない、
救われていないところの現象我があるからしてこそ、それに対して道を説くのではないか」
などと「生長の家」の説く「現象我」否定論に反対する人が出て来たような例もありますが、
この「現象我」は、今現にかく考えかく迷っている「我」があるように見えているのですから、
その「現象我(いまのわれ)」を否定することはなかなか了解し難いのであります。>>
ここに、いかにわたしたちが生長の家の『「現象我」否定論』を認めることが難しいかが説明されています。
テキストでは、その後、釈迦と仙尼のやり取りを会話文で紹介しながら、図解も交えながら今度は五つの段階を追った説で、
世間の人々が、「我」(人生観)をどうとらえているかを詳しく説明しています。
詳しい内容は、テキストを読めばわかると思いますが、その五つの段階を二つに分けると、
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と真我の存在をみとめる「唯心論」に大別されます。
そして、「唯心論」の中でも最上の「人生観」が、生長の家の「人生観」であると説明されています。
以下に謹写を続けます。
p76 8行目〜
<<然るに(5)の人生観に到って、初めてわれわれは根本的に明朗な人生観に到達するのであります。
この見解は真我独在、実相独在の見解でありまして、現象界を滅して如来というものが初めて出て来るのではない。
現象界は本来無いのであるから、現象界を滅しても滅しなくとも、そのままそこに如来が現前する、
そのままそこに涅槃がある、そのままそこに常楽の実相土があり天国浄土があるというのですから、
すでにその天国浄土は今あるというのですから、これから、いろいろ修行したり、工夫したりするのでありませんから、
こんな明朗な人生観はないのであります。
この第五の人生観、至妙完全なる実相の独在、真我の独在を主張して、
いっさいの現象はありとみゆれども本来無しと観ずる見解が「生長の家」の人生観であって、
この人生観を得てあらゆる現象界の苦を離脱するために逃げる必要もなく、楽を求めるために執着する必要もなく、
「現象の我」は「実相の我」を映して自由自在に常楽に円満に現れてくるのであります。>>
3062
:
a hope
:2014/10/02(木) 19:16:35 ID:cEpBaIdo
>>3061
訂正
現象我のみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と→現象我の存在をみとめる「唯物論(霊魂を含む)」と
3063
:
a hope
:2014/10/05(日) 17:45:49 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第14巻
『現象界は実相生命の芸術』 p77〜79
そこで実相独在、真我独在、すでに絶対神と同一なる「我」のみが存在するのであって現象界の不完全なる「我」は無いとしたならば、
この現象界(現世および霊界)は「我」の進歩の過程としてなぜ顕われているかということになるのであります。
それは現象界は実相生命の芸術としてあるのであります。
それは芸術であります。
実相生命が描き出した影に、形象化して描き出さんがためであります。
活動写真は影の芸術である。
それと同じように現象世界は影の芸術である。
実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。
ところが現象世界は映画芸術の世界でありますから、映画にはスクリーンの空間的光袤(こうぼう)と、
フィルムを交替出現せしめる時間的過程とが必要となり、ここに時間空間的展開があらわれているのであります。
優れたる芸術家は、時間空間のスクリーンに投影されたる形象だけをとらえるのではない。
時間空間に投映されたる影をそのまま実在するものとして、精確にその寸法を測定し重量を秤量し、
その間の法則をとらえるのは科学者の仕事である。
芸術家は影をそのまま実在として観ないで、影の奥にある生命を、実相生命を、把(つか)むのであります。
だから、芸術家は凹凸さまざまな不細工な顔の奥にもその実相生命の美を捉えて表現する。
ロダンの作った「鼻欠け像」は形そのものとしては美はないけれども、実相生命が捉えてあるから、
そこのわれわれは生命の美を感得するのであります。
言い換えると、ロダンは、形の上では鼻欠け像を塑作していても、
鼻の欠けていない実相を塑作していたということができるのであります。
さらに言い換えると、「欠けている鼻はない」ということを現象の上では
「欠けている鼻」を塑作しながら表そうとするのが優れたる芸術家なのであります。
ここでは芸術家は実際は宗教家であるといえるでしょう。
医者なら「鼻欠け」を「鼻欠け」として見る。
芸術家は「鼻欠け」を「鼻あり」としえみるのであります。
そしてあらゆる生活上の態度において「欠陥ある現象人間」を見るに、ただそれを欠陥なき神の子としての人間として見よ、
そこに欠陥なき人間があらわれて来るであろう ―― というのが「生長の家」倫理学の中心となる誡命(いましめ)であります。
されは生活における芸術的態度といわれるでありましょう。
3064
:
a hope
:2014/10/05(日) 17:50:57 ID:cEpBaIdo
(
>>3063
a hope所感)
<<実相世界はすでに完全の世界すでに成れる世界でありますから、過去、現在、未来、東西、南北、天地が共存せる世界であります。
これは五官をもってしては想像することができない。
一点の中にいっさいが握られている、いな、その一点すらも無い、「無」の中にいっさいが握られているのであります。>>
上のところは、「久遠の今」のことだと思うのですが、この「久遠の今」と現象世界(時間空間の世界)の関係について、
あまむし庵さまが御自身のブログで『久遠の今シリーズ』としてとても詳しくご説明してくださっています。
http://56937977.at.webry.info/201409/article_1.html
とても科学的に証明してくださっているので、ちゃんと拝読していくと「やっぱり、物質はないんだ」と妙に納得してしまいます。
ですが一方で、現象世界にどっぷりつかって生活しているわたしには、そのお話は遥か彼方の夢物語のようにも感じてしまいます。
「久遠の今」というのは、「無」の真理でもありますが、無限大に広がる宇宙の真理でもあるんですね。
3065
:
a hope
:2014/10/09(木) 18:35:24 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春・谷口清超 ☆
はしがき
菩薩とは如何なる人々のことであるかと謂えば、諸君のことである。自利のためのみに生活せず、利他のために真理を深く研究し、自己の魂を向上せしめると共に、その真理をもって多くの他の魂の向上に貢献し幸福を施してやまざる如き人々である。
維摩経に、維摩居士が故意に自己に病をあらわして、見舞いに来た文殊菩薩に対し「菩薩は何を為すべきか」について説くところがあるが、その中に次のような語句がある。――「一切衆生を摂すと雖(いえど)も、而(しか)も、愛着せざるは、これ菩薩の行なり。遠離を楽(ねが)うと雖も、しかも身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずると雖も、而も衆(もろもろ)の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。」
菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。
無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。
こんな世の中に生きていても空しいことだから生きていても仕方ない。寧(むし)ろ遠離した方がましだと知りながら、身心がおのずから滅びるときがくるまで人を利益することに励むのである。これを「空を行ずと雖も、しかも衆(もろもろ)の徳本を植うるは菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、しかも衆生を度するは、是れ菩薩の行なり」と謂うのである。
生長の家は万教帰一の教えである。教壇に立っても、宗教家としての特別の法衣をまとわず厳めしい儀式を行わない点から謂えば、在家の宗教である。その点で維摩の説く菩薩の生活が生長の家の信徒又は誌友の生活である。在家の宗教は、生活そのものが宗教となるところに特色があるのである。即(すなわ)ち、人は菩薩となり、生活は菩薩行となるのが本道である。菩薩行とは自己がみずから完全に救われないでも、自己のことは顧みず、率先して他を救おうとする即ち人類光明化運動にまで発展すべきである。
〝人類光明化運動指針〝と云うのは『生命の實相』はじめ其の他の私の著書の中より、菩薩を志すものが、現代の日本に生まれて来て如何に考え、如何に処すべきかにつき、其の菩薩行の精髄を抜粋して、それを数人の編纂者が文意を凝縮し章句を練って簡単なる十三ヶ条にまとめたものである。
本書の第一章はその十三ヶ条を宇治で毎夏行われる講習会で谷口雅春が解説した口述の録音をもとに文章を整えたものであり、第二章は上記の菩薩たち(諸君自身のことである)の精魂を宝筐(ほうきょう)に安置して毎朝夕、その実相・完全の相が実現するよう祈願するときに読誦する『聖使命菩薩讃偈』を谷口清超が解釈したものである。第三章以下は第一章にその題名のみ引用してあって本文には無く、是非毎日読んで反省するよう勧められているところの文献の全文である。
聖使命会員として本部の宝前に自己の誠魂を祭祀せられる人は勿論、少なくとも生長の家の誌友であり、又は今後信徒となって菩薩行をはげみ、日々聖行に精進せんとする者は、本書を常に必携して日々の行持の完成をきせられたいものである。
なお本文の各所に「神想観」とあるは祈りと坐禅とを混然一体にしたる一種の瞑想法である。詳しくは『詳説・神想観』をお読み下さい。
昭和三十五年 一月二十五日 著書 識(する)す
3066
:
a hope
:2014/10/09(木) 18:39:40 ID:cEpBaIdo
(
>>3065
a hope所感 )
わたしは以前、この「菩薩は何を為すべきか」を拝読してとても感動したのを思い出しました。
そして、『この本に書いてある通りを実行していけば、自分にも人類光明化運動ができるぞ!』
と思ったのでした。
ですので、これから自分のペースでこの聖典引用板に謹写させていただいて、所感を述べていきたいと思います。
いきなりですが、今回謹写部分の「 はしがき」 には、
<<菩薩と云うものは、「一切衆生」すなわち人類を自分の心のうちに摂りいれなければならない。今や人類は全面戦争か平和かの危機に立たされているのに、自分だけ安閑としていてはならないのである。それを救うために出発した運動が人類光明化運動である。人類光明化運動は、〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれた人々の菩薩行である。
無論仏教的に言えば、現象界は空の空なるものである。達観すれば人類光明化運動などと云って力む必要はないものである。だから愛着せずして愛し光明化せんことを希(こいねが)うのである。現象界の空しくて遷りかわる無常のものであるということを知りながら、人類光明化に尽せずにはいられないのが菩薩である。>>
とあり、「菩薩の使命は何なのか」、「人類光明化運動とは何なのか」がハッキリと説明されていました。
↑の抜粋分をわたしなりに要約してみますと、
『実相世界の完全円満さを悟ったものにとっては、人類の苦悩などという現象世界の出来事は本来無いものである。
だから、それに愛着する必要はないのだけれども、それでも自分だけ安閑としていてはいられないと、
〝人類の危機〝を自分の心のうちに摂りいれて人類を光明化せんとして出発した運動が人類光明化運動である。』
となりました。
以前web誌友会でユタカさまから、雅春先生も人類の苦悩を観られて、その現象に対応して光明化運動を始められたのだから、
雅宣先生も地球の苦しむ姿を見られて、その現象に対応して環境運動をされているのだから同じであるというようなご意見をいただきました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4328
そして、実際に雅宣先生の「新・四無量心を行ずる神想観」には、
『わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、
さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命と鉱物の一切を見そなわして、
その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護(まも)り、喜びを与えんと欲するのである。』
とあり、雅宣先生は生長の家の聖使命菩薩会員の使命として、人類の魂の救済と共に、他の生物や鉱物の魂の救済までをするよう、
この「新・四無量心を行ずる神想観」でお達しくださっているように感じます。
わたし自身は、人間以外の生物や鉱物に人間と同様の苦しみや悲しみを感ずるような魂があるとは到底思えません。
なぜなら、人間は神の子の自覚を得るために神から現象界に放射された光(神)そのものであって、
他の生物や鉱物とは現象に現れ出ている理由も、現象世界での存在価値もまるで違うと信じているからです。
今は、そのことがはっきりわかりましたが、入信当初は現在意識では全くわかっていませんでした。
ですが、きっと潜在意識ではそのことをわかっていたのだと思います。
ですから「新・四無量心を行ずる神想観」を行じ続けていると、わたしの魂がパニックを起こし、
集中できなくなり、徐々に心身の状態がおかしくなっていったのだと思います。
ですが、これはあくまでもわたしの個人的な見解であって体験です。
だから、本当の真理がどうなのかは定かではありません。
今回、大熊先生がそのことに関連した内容をブログでご指導くださっています。
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151
じっくり拝見して、お勉強させていただきたいと思います。 合掌。
3067
:
a hope
:2014/10/13(月) 17:19:01 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆
菩薩の正しき生き方に就いて
(注)この人類光明化運動指針生長の家各員の運動心得十三ヶ条は、昭和三十三年二月十四日第二次三か月計画の頭初に発表されたものであり、現時点においては例えば第四条・第七条・第八条の「隣保班」という表現を、白鳩会は最寄会、青年会は単位青年会と置き換えて各組織において徹底する。
昭和五十五年二十一日 生長の家本部理事会
第一章 人類光明化運動指針の解義 p3
最近吾々の同志として菩薩行を行う者の運動指針として、十三ヶ条から成る「人類光明化運動指針」と云うのが、本部の各役員が私の凡(あら)ゆる著書を典拠として作成され、私に示されましたので、それを拝見いたしますに、私たちが生ける菩薩として何を為すべきかがよく書かれておりますので、これは一個の作者のものでなく、人類光明化の使命を担う、高級霊の加護と指導とによって書かれたものであるとみとめ、それについて、私は私なりの意見と解釈を申上げようと思います。
第一条 生長の家の各員は、毎朝、早朝神想観後、「大調和の神示」と共に、必ず「七つの光明宣言」「生長の家家族の祈願及修養」「信徒行持要目」「生長の家の信条」を拝誦して一日の決意を新たにすべきである。
(雅春先生のご解説)
「大調和の神示」は「和解の神示」とも言われて『甘露の法雨』の巻頭及び『生命の實相』第一巻又は他の巻の巻頭にのっております。
あの「汝ら天地一切のものと和解せよ」というところの神示であります。
「七つの光明宣言」と云うものも既に皆さんは御存知だと思います。
「生長の家家族の祈願及び修養」と並んで、このふたつはいずれも『生命の實相』(注 愛蔵版十四巻、頭注版の第一・第二十七巻)に説明がしてあるのでありまして、それを読んで頂くと良くわかると思います。
「信徒行持要目」というのは、信徒「行事」ではないのでありまして、「行持」であります。行持とは如何に自分の生活を行い、如何に自分の行為を持するかということであります。
これは『聖光録』の中に「信徒行持要目」という項に掲載されておりますから、それを読んで頂けばわかるのであります。
それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。
そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。
これらのものは、いずれも、信条とか、宣言とか、要目とかという名称に現れておりますように、
箇条書きに生長の家は何を信じ、何を行ずるか、如何なる目的を持って出現したのであるか、
というようなことが簡にして要を得た形式で書かれているのですから、毎日それをひととおり眼を通しては、
自分は「生長の家」人であると云うことを思い出し、忘れているところを思い出して、
一日の決意を新たにして生活することが菩薩たる者の道であり、同時に菩薩として成るべき人たちの生活行道であります。
3068
:
a hope
:2014/10/13(月) 17:23:02 ID:cEpBaIdo
(
>>3067
a hope所感)
わたしは生長の家の信仰とは、三正行に励むことだと思っていました。
つまりは、聖経・聖典の拝読、神想観、愛行でです。
ですが、ここに、
<<それから「生長の家の信条」というのは何処にあるかと申しますと、昭和三十三年度の『生長の家』の一月号の巻頭言に載せられていましたもので、
他の必要な項目と共に本書の末巻に収録してあります。
これは「生長の家」の信仰主要なるものを箇条書きに要約して書かれたものでありまして、
新年号であるからはじめて読む人もあるから、ただこれを読むだけで、「生長の家」とは如何なる宗教かと云うことが判るように私が書いたものであります。
そういう意味から、此の「生長の家の信条」をお読みになると簡単な文章のうちに、生長の家の信仰の全貌がつかみ易いのであります。>>
とあり、その信条には、本当にわかりやすく簡潔に生長の家の信仰とはどういうことなのかが要約されていました。
これは、本当は、同著書の第三章p139〜に掲載されています。
なんが、とても感動したので、以下に最初に謹写させていただきます。 合掌。
3069
:
a hope
:2014/10/13(月) 17:26:12 ID:cEpBaIdo
生長の家の信条(要約)
一、 吾らは、名称は各民族宗派にて異なれども、神(又は仏)が吾らの救いの本尊であることを信ずる。【万教帰一】
二、 吾らは神が一切存在の根源であり給い、無限の愛と智慧とをもって吾らを守り導き給うものであることを信ずる。【唯神実相】
三、 吾らはすべての宗教が時と場所と救いの対象たる人とを異にするに随(したが)い、異なる説き方をもってあらわれたる同一根元神の教えなることを信じる。【万教帰一・唯神実相】
四、 吾らは神(又は仏)が決して神罰を与えたまような残酷にて無常なる存在ではなく、一切の苦しみと悩みとは、自己の心の反映として象徴的にあらわれるか、又は自己処罰及び自己毀損(じこきそん)の現象としてあらわれるものでるから、その象徴を見て自己を顧み心を転ずることによって凡(あら)ゆる病悩苦を脱し得るものなる事を信ずる。【神罰の否定・心の法則(唯心所現)・業の流転】
五、 吾らは実相と現象とを明瞭に区別し、実相は常に円満完全なるも、現象は吾らの?迷い心? の所現として、時に実相の完全円満さを覆い隠して不完全に顕しめることがあることを知り、常に?迷い心? を去り、実相円満の風光を見詰めて、それを現実化せんことを期する。【実相顕現】
六、 吾らは、実相円満の風光を心よりはなたらんことを期し、毎日一回以上神想観を修することを誓う。【神想観】
七、 吾らは一切の存在、一切の生物、一切の人類に感謝するは勿論、特に享け難き人身を享けて地上に生を受けることに到りたる祖先並びに父母の恩恵に常に感謝する。【天地一切のものへの感謝】
八、 吾らは人間が?神の子? として神の最高実現なることを信じ、その信念に背かざる高邁にして潔き聖なる生活を送らんことを期する。【神の子の自覚】
九、 吾らは人間は限りなき生命を有し、肉体死後もその生命(霊魂)の存続することを信じ、常に先祖の霊魂の供養を怠らざらんことを誓う。【永遠不滅の生命・先祖供養】
十、 吾らは言葉の創造力を駆使して、人類の心を潔め、地上に全ての人類の相愛協力を実現せる地上天国建設の一大人類光明化運動を起しつつあるものである。【言葉の創価力・人類光明化運動】
注)【 】内の言葉は、 わたしが、勝手につけました。(間違いがあればご指摘ください)
3070
:
a hope
:2014/10/13(月) 17:30:49 ID:cEpBaIdo
>>3069
訂正
?迷い心? ?神の子? → 〝迷い心〝 〝神の子〝
3071
:
SAKURA
:2014/10/16(木) 22:30:25 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
>>2840
>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
>>2871
>>2881
>>2890
>>2891
>>2898
>>2905
>>2907
>>2908
>>2909
>>2910
>>2915
>>2918
>>2931
>>2932
>>2933
>>2940
>>2946
>>2947
>>2953
>>2958
>>2959
>>3038
>>3045
>>3049
>>3051
>>3054
>>3056
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その3―【 転載編 ―】*=======*=======*
■我執がなくなりますて、「天地と共に過ぎ往かん」というような広々した心になりますと、
人間として何も考えないから、事業などのことも出放題、まかせ放題になってしまって、
何もしなくなるかと申しますと、そうではありません。そういう状態になるのを「空執」と
申しまして、まだ「我執」があるために、その「我」が「何もしないでもよい」ということに引
っかかるのであります。この「何もしないでもよい」ということに引っかかる「我」さえも無
くしてしまったときに天地の生命と共に自由自在に活動するところの本当の我(大我)を見
出すのであります。
そういう「空執」にも陥らない自由自在融通無碍の境地に達したならば、すべての迷いの
心は消えてしまうのですけれども、それまでは、前記の七種の「迷いの心」をなるべく起こ
さないように努め、七種の「自覚(さとり)の心」を保つようにしなければならないのであ
ります。
われわれの心の状態は肉体にのみ反映するのであって、事業やら運命には反映しないと
思っているとまちがいであります。多くの商店会社の不繁昌の原因は従業員の心の不調
和であります。内部に立ち働く人の心が不調和になってきますと、繁栄の雰囲気は逃れ去
り、繁栄の雰囲気が逃れ去れば、注文に激減し、外部の注文が激変すれば不安は募り、内
部の不安が募れば外部の注文はさらに激変し、その商社の没落に拍車をかけることになる
のであります。
つづく
❤〜SAKURA
3072
:
a hope
:2014/10/19(日) 08:09:06 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆
第二条 生長の家の各員は、各員が生長の家に参加したる所以のものは、ただ単に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し或は御教を自己の生活に行ずるに止まるところにあるのではなく、それももちろんであるが、更に進んで、生長の家大神は如何なる御考えがあって谷口雅春先生をこの時世に下し給うて万教帰一のこの完璧の御教えを説かしめ給うのであるか、その立教の使命因縁を絶えず心に銘記して、各人の分に応じ、力量に応じ、各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として所在地区の教勢発展の礎(いしずえ)たらん事を期して行くときに、はじめて生長の家人たり得ると云う自覚に徹すべきである。
3073
:
a hope
:2014/10/19(日) 08:10:26 ID:cEpBaIdo
(
>>3072
つづき)
(谷口雅春先生解説)
生長の家は菩薩道であります。
特に爰(ここ)に注目すべきところを申しますと、「各員」と書かれてあるのは、幹部も新しい人も、総べてのメンバーと云う意味であります。
だから信徒というようなはっきりとした信者じゃなくても、誌友と云う人たちも今日初めて
新たに道場に坐って光明思想を聴く人も皆、「各員」であります。
その人達が偶々(たまたま)因縁に依って「生長の家」の運動に参加し、
(これは、参加といっても、こうして此の思想信仰に触れられたのも参加でありますが)
何の為に皆さんがこう云う生長の家の運動にふれる様な因縁になったのであるか、
と云うことを考えて頂きたいという訳であります。
まず最初に自分一身一家の幸福と繁栄を念願し、或は御教えを自己の生活に行ずるに止(とど)まるところにあるのではなく、
「それも勿論であるが」と書いてありますが、決して一身一家の幸福繁栄を念願したらいかんとは書いてないのでありますから、
一身一家の幸福を求めることを遠慮する必要はない。
それを求めることは、当たり前が当たり前の事にして「勿論であるが」であります。
そして御教を自己の生活に行ずることによって一身一家の幸福繁栄は来るのでありますが、
たんにそれに止まるといかんと云うのであります。
其処が菩薩の道であります。
「生長の家」の教えは、まず「自分」がクラリと転回しなければならないのです。
「生長の家」の教えは、まず自分に深切であれという教えなのでありますが、
自分自身に深切であれと云うことは如何なることであるかと云うことを考えねばなりませぬ。
その「自分」とは如何なるものかを本当に知ることが肝要(かんよう)であります。
肉体の病気が治ることも、一家の貧乏が治る事も、家族が健康になることも、家業が繁栄することも、
一身一家が幸福になるという事も一応は「自分に深切である」けれども、その「自分」と云うものを見直して、
それを出来るだけ正しく大きく生かして行くと云うことが、なお一層自分に深切なわけであります。
「自分」と云うものをただの肉体的存在だと考え、利己的生活だけを送って、一身一家の事のみ幸福になればそれで宜しいとは思って居る様な、そんな小さい「ニセモノの自分」でそれで宜しいと考えて居るのは、
それは余りにも「本当の自分」に深切でないと云うことになります。
「ニセモノの自分」を去り、「本物の自分」を出して来て、「自分」と云うものを、もっと大きく育てなければならないのであります。
(つづく)
3074
:
a hope
:2014/10/20(月) 15:36:45 ID:cEpBaIdo
(
>>3073
つづき)
それで「生長の家の大神は如何なるお考えがあって谷口雅春先生をお下しになったか」と、ここに書いてありますが、
これはわたしの弟子である本部の人たちが集まって編纂したので「先生」とありますが、
私は決して「先生」とは言っていないので、「私はラッパである」と常に言っているのであります。
聖書のマタイ伝二十四章に「これらの日の患難(なやみ)ののち直ちに日は暗く、
月は光を発(はな)たず、星は空より隕(お)ち、天の万象ふるい動かん。
そのとき人の子の兆(しるし)、天に現れん。
……また彼は使いたちを大いなるラッパの声とともに遣わさん。
使いたちは天の此の極(はて)より彼の極(はて)まで、四方より選民を集めん」とあります。
このラッパの役が私であり、このラッパの声を斯うして聴いて集まって来られた方々は天の使いたちであります。
従って皆さんはこのラッパの声をきいて集まって来て、天の果てから地の果てまで
散在する選ばれた人たちを集める役割を神様から頂いている人たちでありまして
決して一身一家のみの幸福を満足せしめるために此の生長の家に触れられたのではないのであります。
世界が此のように急速に航空機や電波受信機が発達してせまくならない前だったら、地球は広いから、
色々の宗派が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していてもあまり互に障りにならなかったけれども、
此のように地球が狭くなって来たら、どうしても万教帰一のこの「生長の家のような、
総(あら)ゆるものを生かすところの完璧な宗教が要るようになったのであります。
「完璧」の「壁」というのは、瑕(きず)のない立派な珠(たま)のことであります。
瑕のない立派な珠(たま)の様な総(あら)ゆる人類を生かし調和せしめる、
そういう教えを私と云うラッパを通して神が説かしめられたのは、深い意義のある事なのであります。
只(ただ)単に今迄の宗教のように、自分だけが浄土に生まれるとか現世利益を受けるとか云うことだけでよかったならば、
何も新たに「生長の家」が出て来る必要はないのですけれども、
こう云う万教帰一の宗教が出て来たのには特別の神様の思召しがあり、
そこに集まってこられた人々には特別の使命があり、深い因縁があるのである。
(つづく)
3075
:
a hope
:2014/10/20(月) 15:38:16 ID:cEpBaIdo
(
>>3074
つづき)
特別に神縁深くしてこの宗教に触れられたのは、聖書に「天使たちを遣わさん」と預言されたる如く、
ラッパによって先ず引き寄せられ、此処に集まることになったので、皆さんが天使(てんのつかい)たちであるからである。
「この使命因縁と云うものを、心に絶えず銘記して」と書いてありますように、
此の尊い得がたい使命因縁を心に深く刻みつけて各人の本分に応じ、力量に応じ各人の生活と家庭と職業と地位立場を悉く機会として、
皆さんがこの生長の家を弘めようと思ったならば、何処かに行って講師として喋れなければならないかと云うと必ずしもそうではない。
自分の生活している「場」と云うものが、其処が即ちそのまま生長の家を弘める所の与えられた一つの「場」になっているのです。
まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。
大体「家庭で喜ばれる様な人にならぬと、本当の生長の家人ではない」と言われているのであります。
それは家庭の人と云うものは、その人について何でも皆知っているのです。
背中にホクロのあることまでちゃんと知っているのです。
自分には背中のホクロは判らんけれども、家族は背中のホクロ迄知って居るのです。
その位にみんな知って居るのですら、その総(す)べてのものを知っている家族が、
「ああうちのお父さんは近頃生長の家に入って素晴らしくなった。大変よいお父さんになった」と言って感銘するようになったり、
或いは「自分の息子は生長の家に入って大変よくなった。矢張り生長の家は素晴らしい」
と自分の息子ながら誉めずにおれなくなったり、
良人から見て、「自分の家内は近頃生長の家に入ったらすっかり変ってよくなったから、
ひとつ生長の家とはどんなものか、読んでみてやろう」という気持ちが起こる様になれば、
その人は家庭に居るだけでも、既に立派にこの教えを弘めているということになっているのです。
そういう状態が職業に於いても、どんな地位においても、現れて来ることが必要であります。
3076
:
a hope
:2014/10/20(月) 15:41:11 ID:cEpBaIdo
(
>>3075
a hope所感)
<<まず家庭です。
皆さんの家庭がよくならない様な事では生長の家の教えも駄目だと言われます。
「あの家庭を見よ。あの人はこの頃生長の家に入って気狂(きちが)いみたいにやって居るけれども、
家庭を見たら一向よくなっとらんじゃないか」と言われるようでは、生長の家を弘めることにはならないのであります。
却って生長の家の悪宣伝をして居るようなものです。>>
わたしは、この事に関しては、本当にそう思います。
「生長の家」を信仰しているという者の家庭や職場が大調和していなかったら、それは「生長の家」の悪宣伝にしかならないですよね。
わたしもまずは自分の周りから、自分の本分をわきまえて自分にできる光明化運動をしていきたいと思います。
3077
:
トキ
:2014/10/20(月) 20:28:13 ID:gp2X4kJ6
>>3075
これは、大事な内容が含まれています。
講師を見ても、重要な役職を歴任され、素晴らしいご講話をされる講師の子供さんが
生長の家をされていないというケースが散見されます。逆に、地味で目立たない人やそ
れほど重い役職をされていない信徒さんの御子弟さんが、揃って信徒になっているとい
う人も多いです。
この件については、いろいろと議論があるところです。ただ、私の周囲を見ると、活動
に熱心であるあまり、ご家庭のことがおろそかになっている幹部さんはおられました。こ
の点は、本当に考えるべき点だと感じます。
その点に関連してですが、私が戦前の信徒さんから聞いた話では、戦前、谷口雅春先生が
組織指導をされていた頃は、仕事や学業、家庭を大事にする事が大前提であり、その上での
活動である、という方針だったみたいです。戦後の神誌に谷口雅春先生が書かれていたご文章
によれば、信徒さんへの経済的な負担をかけない、という点にも注意されていたみたいです。
が、そのため、職員さんの待遇が悪く、いろいろと問題も生じたみたいです。谷口清超先生
はその点を心配され、職員の福利厚生や待遇にも腐心されました。おかげで、本部職員の待遇
はかなり、教区職員の待遇も少しはよくなりました。しかし、他で使い物にならないような人
が待遇につられて職員に応募するケースも生じて来て、これはこれで問題になりました。
あと、組織が巨大化するにつれ、官僚化、形骸化も目立つようになりました。教区に来る人
の中には、信仰というよりも、何かサークルの感覚で来られる人も見えるようになりました。
この点は、戦前を知る、古い信徒さんが嘆いていました。
一連の騒動は嘆くべきですが、こういう点を反省する機会にもなったと感じます。
3078
:
神の子さん
:2014/10/21(火) 03:53:03 ID:???
総裁ファミリーも生長の家やっていないね
3079
:
神の子さん
:2014/10/21(火) 09:25:09 ID:???
>総裁ファミリーも生長の家やっていないね
はい、ノーミートもお絵かきもやっていません。
3080
:
「訊」
:2014/10/22(水) 07:30:59 ID:???
2456 :K機関諜報員:2014/10/21(火) 18:44:04 ID:???
はじめまして。
K機関諜報員と申します。「K」とでもお呼びくださいませ。
とりあえず、ご挨拶代わりに大聖師谷口雅春先生最後の御講話の音声ファイルを皆様にお届けします。
http://yahoo.jp/box/_mtnIY
上記からダウンロードできます。
貴重な音声ファイルです。教団や本流派を攻撃するための「道具」として使われるのは、私の本意ではありませんし、谷口雅春先生も望んではおられないと思います。
谷口雅春先生の教えの下に、教団も本流も一つになることを願っています。
K機関諜報員 拝
3081
:
a hope
:2014/10/22(水) 09:54:15 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆
第一章 人類光明化運動指針の解義
p12
第三条 生長の家の各員は、立教の使命とする人類光明化運動とは先ず第一に何をなさんとする運動であるかを常に明らかにしなければならない。即ちそれは、「神の子としての人間なるものの本当の相」を凡(すべ)ての人々のうちに開顕(かいけん)し確立する事によって光明化する運動である。自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い、或は政治と云い社会と云い労働と云い教育と云うも、すべてみな人間なるものの実体の確立なしには在り得ない。生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘わらず、今日ほど生命が無視されている時代はない。この矛盾、この混乱は、みな、人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している事実を凝視し、機縁は生老病死のいずれであろうと、必ず人間神の子の自覚の確立に導入する事が光明化運動の本旨である事を互に明らかにし合わなければならない。
3082
:
a hope
:2014/10/22(水) 09:56:47 ID:cEpBaIdo
>>3081
つづき
(雅春先生のご解説)
抑々(そもそも)生長の家と云うものが現れて来たその立教の使命
――即ち此の教えが立てられた所の使命と云うものは何であるかと言いますと、
私はこれを最初から「人類光明化運動」と言っておったのであります。
この間幹部会の席上で、或る人が「人類光明化運動というと俗耳(じくじ)には解り難(にく)いから、
愛国運動とこうハッキリ言ってしまった方が、人々に一層判り易いであろう」と言われたのでありますけれども、
それでは私たちの運動を完全に言表(いいあら)わしていないのであります。
それは何故であるかと云いますと、「愛国運動」と云うと国だけを愛すると云う意味にとれますし、
而も「愛国」という文字は、日本国民が「愛国」という場合には、一種の国粋主義として日本の国だけを愛すると云う意味になって、
世界の人類を愛すると云うところまで広くその光明化に意味が徹底しないということになるのでありますから、
直ちに唯物論者や左翼思想の人などはついて来ると云うことにならないと云う欠点があります。
ところが人類を救うと云うことになれば、唯物論の人でも左翼の人でも、苟(いやいく)も人類を愛する人ならば、
そんな人でも皆ついて来られるのでありますから、矢張り吾々の運動は人類光明化運動でなければならないのであります。
(つづく)
3083
:
a hope
:2014/10/23(木) 21:58:28 ID:cEpBaIdo
>>3082
つづき
その立教の使命である人類光明化運動とは第一に何を為さんとする運動であるかと云いますと、
「それは神の子としての人間なるものの本当の相(すがた)を凡(すべ)ての人々のうちに開顕し」と書かれているのであります。
ここにも此の光明化運動が決して日本人だけを対象とするものではないことが明記されているのであります。
この運動は、凡ての人々の中にですね、その実相が神の子であると云うことを開顕するところの運動であり、
それを確立するところの運動であるわけであります。
「すべての人々の中に」と云う「中に」と云うのは〝Among the all people〝 と云う意味、
「すべての人類全体に行きわたって」と云う意味であります。
人間が神の子であるところの実相を顕して、それをフラフラの自覚ではなく、
シッカリと悟りとして確立すると云うことが人類を光明化することになるのであります。
(つづく)
3084
:
「訊」
:2014/10/24(金) 16:21:59 ID:???
『生長の家ってどんな教え?』(谷口雅宣総裁著書)116頁より謹写――
唯心所現について
Q:
〝唯一絶対〟の神様が、どうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか。そして、人間は神の子であるのに、どうして病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?(二十九歳・女性)
A:
二つの質問です。一つ目は「有限の世界に人間をどうしてつくられたのか?」という質問です。私は、午前中、舞台俳優の話を喩えに使いましたが、この喩え話は理解が難しいかもしれません。私たちは実相世界においては、この俳優のようにいろいろな役割を演じる潜在能力をもっている。その俳優さんが舞台の上にいて、あるいは映画の中にいる場合、これを私は現象世界の出来事に喩えた。この人は、ある配役をもって生まれ、現象界に登場して生きている。それは、自分で選んでやっているということです。
この方の質問は、「〝唯一絶対〟の神様がどうして有限の世界に人間をつくられたのでしょうか?」というものです。けれども、私は、「神は現象世界に人間をつくった」とは言いませんでした。そうではなくて「もともと実相世界しかない」という話をしました。しかし、この方は「いやこの世界はある」と思っている。だから、「有限の世界に人間をつくった」という質問になる。しかし私は、「有限の世界はナイ。実相世界がある」という話をしたのです。だから、神の創造された実相世界に、人間は今も神の子、仏として存在しているのです。どこか別の所にいるのではないのです。
私は、今、現象的にも舞台に上がっていますけれども(笑い)、皆さま方も、それぞれが心で描かれた人生の舞台に上がっていて、それぞれの役を演じている。この方は、「神は舞台上の配役をどうしてつくったか?」とおっしゃいますが、神様は配役はつくっていない。それは、例えば「私はロミオとジュリエットの中のロミオになります」と私たちが自分で決めて、それを演じるのです。「ロミオの配役を演じる」と決めるのも自分であるから、ロミオとしての人間を神が創ったのではなくて、「自分がロミオを演じよう」と決めて舞台に上がっている ―― それは現象世界のことです。しかし、その時にも俳優はロミオとは違う人格と社会的立場をもっている ―― これは実相世界のことです。だから、神様が現象世界に人間をつくったのではなくて、我々が自分で現象上の配役を作り上げて舞台上で演じているのです。
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○現象世界は何のためにあるのか
では、質問の仕方を変えて、「なぜ、この〝舞台〟としての現象世界があるのか?」という問題を考えてみます。それを、俳優に訊いたら何と答えるでしょうか?恐らくそれは「表現をすることが喜びであるから」という答えになると思います。俳優にとって、表現は喜びなんです。人間はもともと、実相においては神の子、仏の子であって、それを表現する場がほしいのです。だから、現象的にはいろいろな世界に流転していく。これは、業の流転によって「苦しみの人生を繰り返す」という解釈の仕方もありますが、生長の家ではそう解釈しない。人間は一種の〝舞台俳優〟として表現を繰り返すのです。たまには変な役が回ってくることもあります。これは結局、自分でつくるわけですが、もしもその配役が嫌だったら、自分で脚本を書き換えればいいのです。「私は来世はヒーロー役をするのだ!」と決めたらいい。まぁ、今生からでもいいですがね、急には変えられないこともあります。でも、「ヒーローになる」という脚本を自分にあてがって、今から演じればよろしいんです。これらは皆、神様がやっているのではなくて、私たち一人一人が自分で決めた道を行く。「私はロミオである」と決めたらそれを自分が演じるということです。その時に「ロミオでない自分」がいることを忘れてしまうと、それが自己限定となり、自ら有限の世界を体験するのです。これが、一つ目の質問に対するお答えです。
(つづく)
3085
:
「訊」
:2014/10/24(金) 16:23:27 ID:???
(
>>3084
つづき)
さらには「表現の場を創ったのは神様じゃないか」と仰る人がいるかもしれませんが、まぁ、そう言って必ずしも間違いではない。この場合の「表現の場」というのは、ここ(頭を指しながら)で起っていることなんです。だから、肉体という表現媒体を与えてくださったのが神様だと解釈すれば、それは必ずしも間違ってはいない。しかし、我々が「この世界」という時には、ここ(頭)に入っているんであって、ここ(周囲を指しながら)にはないんですよ。私たちは、自分の周りの世界のことを「外界」と呼ぶことがあります。自分はこっち側にいて、向こう側に、外に広がる世界がある ―― というニュアンスです。しかし、そんな「外界」はない。この〝外の世界〟はどうやって知るかと言ったら、結局、感覚によって ―― 目と耳と鼻と口と皮膚の感覚によって得られた情報を脳が一つの〝作品〟に創り上げて、それを外側に映し出しているものですから、まぁ一種の〝幻灯機の映像〟を見ているわけですよ。そして、幻灯機だけだったら、音がしないし、感覚はありませんけれども、肉体という媒体には五官の感覚 ―― 色づけや匂いや動作も、すべて外へ投影できる。そういう装置があると思ったらよろしいと思います。
最近テクノロジーの発達によって、視覚と聴覚に伝わる情報は、豊かなものを人工的に作ることができます。それから、今、実験中ですが、運動感覚や匂いなども、人工的に作ることができるようになっている。そういうようにして、五感をヘルメットのような箱の中で実験できる装置ができたら、私たちは、それによってできた世界を「外界」と呼ぶでしょうか?(笑い)それは外界ではなく、ニセモノの世界ですが、五感はすべてを動員しているので、本当にリアルに感じられる。それに近いものを、私たちは肉体を通して体験しているのです。「それは何のためか?」と言えば、「自分の神性・仏性を表現するためだ」というのが生長の家の解釈です。
「罪のつぐないをするため」とか「悪業の報いを受けるため」というように解釈しよいうと思ったらできないわけではないけれども、それは「悪がある」という観点なんです。生長の家のように「悪はナイ」という観点から見ると、それは「失敗を修正していく過程」というように、積極的なところにポイントを置くわけです。そうではなくて、悪業を積んだ結果、その報いとして悪果を受けていくと考えると、「悪がある」という信仰になってしまう。
しかし、「神の創造された世界に悪はない」というのが生長の家の信仰です。もし悪が神の創造だったら、「悪業」という言葉が妙なものになるんですよ。私たちの積む業に「悪いもの」があるという考え自体がおかしくなる。神の創造が「悪い」はずがないからです。また、本当に悪があるんだったら、私たちの存在自体が悪だとしたら、私たちは、悪を行なった時に、「ああ気持がよかった!」と感じるはずです。でも、そんな人は一人もいない。「これは私の本性ではない」というネガティヴな自覚を、「悪」と呼んでいるだけです。
例えば、画家が女性の絵を描いているときに、ある箇所には本来、顔の部分だから肌色を置くべきだった。しかし、ちょっと手がすべって黒い色を置いてしまったとします。そんな時、「あぁ、これは良い作品になった」とは普通は思わない。そうではなくて、「あそこに間違ったものがある。だから気になってしょうがない。ああ、直したい」という気持が起ってくる。人間は「悪い」という言葉を、そういう文脈で使うんですね。「悪い」というのは、そこに「ふさわしくないものがある」という一種の違和感です。だからその違和感を除いてしまいたい、と思う。もし我々の本性が悪そのものだったら、悪に直面した時には、「あぁうれしい、魂が喜んでいる」と感動するはずなんです。しかし、我々の体験を思い起してみると、そんなことは決してない。事実はまったく逆である。ということは、私たちは善一元の世界から来た神の子であり仏だという証拠である ―― こう生長の家では考えるわけです。
(つづく)
3086
:
「訊」
:2014/10/24(金) 16:24:31 ID:???
(
>>3085
つづき)
○なぜ神の子が病気や争いを心に描くのか
次に、二つ目の質問です。「どうして人間は神の子であるのに、病気や争いを心に描いてしまうのでしょうか?」――
時々、こういう種類の質問を受けることがありますが、それらは「なぜ神の子である人間が間違うのか?」という質問に帰結すると思います。これと似た質問は、「神の子だったら、なぜ罪を犯すのか?」「なぜ間違いを犯すのか?」「迷いがどうしてあるのか?」などいろいろあります。
私は、こういう質問にお答えする時には、いつもこの字を書くんです。(と、黒板に「自由」と書く)。自由がなければ、善はどうしても表現できない。これは、私たちがよく知っている現実世界でも同じです。
例えばある銀行に強盗が押し入り「お金を出せ」と言って、一番前のカウンターにいた女性銀行員にピストルを突きつけたとします。彼女がもし強盗が命じたこと以外の行動をすれば、生命の危険がある。だから、これは自由を奪うことです。自分の意志を相手に強制している。変なことをしたら撃ち殺すぞというのですから、脅迫によって自由を縛っている。こういう状態で、もしその銀行員が、お客の預金のうち何十万円とか何百万円を強盗に渡したとします。その場合、この銀行員の行動は「悪い」と言えるでしょうか?普通、それは常識でも日本の刑法でも「悪い」ということにはなりません。なぜなら、脅迫されて、意思の自由を奪われた中で行ったことは、「善い」とか「悪い」などと責任を問われることはない。それが普通の考えです。同じようにして、もし神様が「人間は絶対間違えず、迷うこともなく善を実行させよう」と考えて人間を創造されたら、善そのものを表すことができないんです。この論理はお分かりですか?善というものは、悪を選択する余地がある中で自ら選び取った時に、初めて成立するものです。
もう一つ例を挙げます。ある所におっかないお父さんがいて、子供がいつもビクビクしている家庭があったとします。そんな家で子供が何でもハイハイとお父さんの言うとおりにやっていたら、そういう子を「よい子」と言えるでしょうか?私は、言えないと思います。幼い時は、そんな環境が一時的に必要な場合があるかもしれないが、そんな状態が長く続いては子供の善性は開発されない。そうではなくて、「自由にしていいから、好きなようにやりなさい」と言われた時に、自分で考えてとった行動が善い行いであった場合に、本当の意味で「よい子」として認められる。
(つづく)
3087
:
「訊」
:2014/10/24(金) 16:25:03 ID:???
(
>>3086
つづき)
生長の家では、神の本性は真・善・美であると説きますが、その中の「善」を実現するためには、自由が必要なのです。自由であるためには、間違った選択も与えられていることが必要なんです。
このことは、生物学的にも言えることです。人間の脳は、自然の支配を最も受けにくい構造になっています。(脳の構造の概略図を描く)まず、脳の最も奥の中心部分には「脳幹と視床下部」というのがあって、その外側を二重三重の構造が覆っている・・・(脳の構造解説部分を割愛)・・・つまり、その大脳の内側には爬虫類や両生類がもっているのと同じ構造の脳があるんですが、外側を覆う大脳は、そういう爬虫類や両生類のような動きが自動的に出るのを制御する役割をもっている。これは、自動反応的に欲望が出てきた時に、欲望実現のための仕組みは整っているけれども、その上に覆いかぶさって、自分の意志で欲望をコントロールするための構造である。
このことを見れば、まさに脳の構造そのものが、「いろいろな選択肢の中から正しいものを自分で選択する」ように出来ているのですから、人間は「自由である」のが特徴ということになるのです。しかし、大脳の新皮質が発達していない多くの動物には、自由がない。例えば、この間、春になって啓蟄を迎えると、土中からカエルが出てきた。彼等は温度と湿度の条件が一定の値になると、自動的に眠りから覚めて土の中から出てきます。そこには「もっと眠っていたい」などと思う自由はありません。また、土から出てきたら早速、相手を見つけて交尾することになる。ココにも自由はありません。人間以外に、神様は自由のない生物を数多く創っておられる。だから、それ以上のものを創造されようと思ったならば、それは神の定めた予定行動を自動的に繰り返す生物では足りない。〝自動機械〟はただ与えられた動作をするだけで、そこには善も悪もない。だから「自由」を与えれば「善」が実現するという、より高度な創造の段階にいたって人間が創造された。それが人間創造の意味なのです。
だから、質問にもあるように、私たちは「病気」や「争い」を心に描いてしまう可能性をもちながら、そうでないものを描く選択をすることによって、この世の「善」が実現することになる。善を表現するためには、人間のような肉体をもったものが必要であるということです。だから、我々が「人間らしく生きる」ということは、「欲望のままに行動する」ということではないんです。時々それをはき違える人がいますけれど・・・・・・・・「人間らしい生き方」というのは、「眠くなったら眠り」「性欲が出たら発散させ」「食欲が湧いたらいつでも、どれだけでも食べる」なんてことじゃない。それとは全く逆である。
我々はだから大脳の機能をしっかり訓練して、欲望は周囲の状況に合わせて適切に制御し、自分と社会の共存を進めていくのが本当です。欲望どおりに生きるのでは、両生類や爬虫類と変らないんです。まぁ、そういうことですね。
(2008年三月九日、大阪市の大阪城ホール)
3088
:
a hope
:2014/10/24(金) 17:35:56 ID:cEpBaIdo
>>3038
つづき
p14
法華経に「常不軽菩薩」という一章があります。
常不軽とは「常に軽んぜず」と書いてありますが、「われ常に軽んぜず」と、常にこの菩薩は如何なる人間を見ても、
たとえその相手が、どんなルンペンでも、やくざでも、或いは泥棒でも、強盗でも、殺人犯人であっても、
みんな其の人を仏の子として拝んだと云うのであります。
どう云って拝んだかと云いますと、「あなた様の実相は仏様でいらっしゃいます。
当来必ず素晴らしい仏の実相が顕れる方でございます」と言って拝んだのであります。
すると其の相手の男は、「なにッ、俺みたいなやくざが、何処が神の子じゃ!!どこが仏じゃ!!そんな馬鹿なことがあるものか。
いい加減な出鱈目を言って俺を言いくるめてごまかそうとする。けしからんやつじゃ」と言って、
石を投げつけて其の菩薩を傷つけようとしたけれども、然しその常不軽菩薩は、
投げる石のとどかぬ所迄行って又そのやくざを拝んだというのであります。
どんなに、相手が乱暴をはたらこうとも、「貴方様は本来仏様でいらっしゃいます。当来必ず仏の実相の顕れる方でございます」
と言って拝んだ。
これが菩薩たる者の生き方であります。
(つづく)
3089
:
a hope
:2014/10/25(土) 18:00:33 ID:cEpBaIdo
>>3088
つづき
p15
そして釈尊が仰せられるには、「こうして其の菩薩が、全ての人間の実相を仏であるとして拝んだ功徳に依って
彼は今釈迦牟尼如来として顕われているのである。自分がその菩薩であったのだ」とおっしゃったのであります。
この全ての人間の実相を神であるとして拝むことによって、その実相の完全さを顕わし、その完全さを確立する運動が、
生長の家の人類光明化運動で、その実践者が聖使命菩薩であります。
「神の子」と云い「仏」と云っても万教帰一的立場から謂いますと同じ事でありますが、
まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。
東京から下関の方に行こうといくら思っても、実際に青森の方向を向いていたら幾ら一生懸命に汽車に乗って行っても、
飛行機に乗って行っても、下関に行くことは出来ないと云うことになるのであります。
だから最初に先ず、人間がどちらを向くかと云う事が大切であります。
その向く方向の根本が人間は「肉体」であるか「神の子」であるか、人間は「物質」であるか「霊的実在」であるか、
と云うその根本が定まらないでいて人権を主張するならば、人間は自由を求め、幸福を求めながら反対の方向に行くことがある。
例えば、人間とは快くないとか、苦しいとか、つらいとか、嬉しいとかと云うことを感覚に依って感ずる所の
本来の性質を有(も)つところの単なる物質的肉体である――と云う、そう云う前提のもとに人権を主張するならば、
人間はその本来の性質である肉体の要求するだけ能うかぎり快楽をむさぼり、自分だけの楽しみに耽り、
自分の感覚的な娯楽ばかりを自由不羈(じゆうふき)に追求することが基本人権である――という事にもなってまいります。
そこから、貞操になんの価値があるか、そう云う道徳観念は人間の肉体の快楽追求の人権を束縛するものであって憲法違反であると云う説も成立ったことになる。
(つづく)
3090
:
a hope
:2014/10/25(土) 18:14:47 ID:cEpBaIdo
(
>>3098
a hope所感)
<<まず人間の実相と云うものは「神の子」であり「仏」であると云うことを確立しないでおって、
「自由と云い平等と云い人権と云い民主主義と云い、世界平和と云い政治と云い、社会と云い労働と云い教育と云っても」
その根本が確立されておらなかったら、目的の方向へ行くつもりで却って反対の方を向いて行くと云うことになるのであります。>>
上のお言葉は、谷口雅春先生のお言葉でが、
「生長の家の教え」は、全ての運動の前提にこの「人間神の子」の自覚がくるのですね。
そうでなければ、雅春先生のご意志とはまったく違う方向へ行ってしまうということが書かれているのだと思いました。
みなさんのされている「生長の家の運動」は、どちらに進んでいるのでしょうか?
3091
:
a hope
:2014/10/25(土) 18:16:47 ID:cEpBaIdo
>>3090
訂正
(
>>3098
a hope所感)→(
>>3089
a hope所感)
3092
:
a hope
:2014/10/26(日) 17:03:24 ID:cEpBaIdo
>>3089
つづき
p17
或る進歩的文化人に云わせると、女性の貞操なんてものは、封建時代に、男性が女性を自分の〝持ち物〝 としておった時代に、
自分の〝持ち物〝 は誰にもさわらせたくないものだから、貞操と云うものを女性に教え込んで女性の第二の習性として飼いならしたものである、
処女性なんてものも何の価値があるか、あれは結局男が女を〝持ち物〝 にして楽しもうと思っていた時代の習慣の残りである。
例えば、自分が持ち物にしようとする場合に、人がさわった手垢のついた品物や着物では余り面白くない、
やっぱり持ち物は手垢のつかぬ、誰も使ったことのない新しいものがよいでしょう。
皆さんでも、ハンドバッグを買うのでも人の手垢で汚して居る品物を「これは幾らでございますか」「三千円でございます」
「こんな汚れたのが――」と思って、人様の使い古しでは嫌になる。
それと同じことで、処女性とか貞操とかが尊いと云うのは、結局、処女性とか、貞操とか、それ自体はなにも尊くはないのに、
それを男が女を〝持ち物〝 にするという観念からその新しさや、他の人の手垢のつかぬ純粋さが喜ばれるのである。
それ以外に何の意味もないのだと考えるのです。
こうして、人間と云うものを只の「物質」として、「持ち物」的立場から考えると処女性も貞操も、
奴隷として男から持たれた時代の観念であるから、そう云う観念を打破ることによってのみ
女性は真に解放されるのだと云う議論をなすのであります。
(つづく)
3093
:
a hope
:2014/10/27(月) 23:16:41 ID:cEpBaIdo
>>3092
つづき
p18
これは一例でありますけれども、人間がその本質を「肉体」と見るか「霊的実在である」かと云う根本の人間観を確立しなければ、
人間の自由と云い、平等と云い、人権と云い、民主主義と叫んでみましても、此の肉体を人間としてみるか、
実相なる霊的実在を人間としてみるかによって、人間の生き方が全然アベコベを向いてしまうのであります。
憲法に定められているところに随(したが)って、人間は自由であると云っても、又哲学的唯物論に立って、
人間は自由である、人間は肉体的に快いことを楽しむように自由の本能が斯くの如く人間を規定しているのであるから、
その自然の快楽本能を満足さす為には何をやったってよいではないかと云う様な道徳的無視になるのであります。
実際、戦後の日本は占領軍の日本人の性的頽廃(たいはい)による日本弱体化の政策にあやつられてそれらのことが随分流行っているのであります。
その為に色々の弊害が起っていることは皆さんが既に御存知の通りであります。
その結果此処にも「生命の尊重が今日ほど激しく叫ばれた事はないに拘らず、今日ほど生命が無視されている時代はない」と指摘されている通り、
性的犯罪や、自動車強盗や、殺人や、自殺が今日ほど大量に流行している時代はないと云ってよいのであります。
(つづく)
3094
:
a hope
:2014/10/27(月) 23:21:35 ID:brQxC10.
>>3093
つづき
p19
人間の基本的人権の復活であるとか、自由の復活であるとか、平等の復活であるとか云いましても、
「人間とは何ぞや」と云う其の「人間」そのものの把握が間違っていると此のような結果になるのであります。
「人間」とは如何なるものであるかと云うその「人間」の理解が、単に人間を「物質」の偶然的結合として是(これ)を把握し、
単なる快楽本能・所有本能に左右される事が自然の権利だというような「肉体」として人間を把握(つか)んでいるから、
快楽本能・所有本能を満足せしめる為には人を殺しても好いなどと云うことになるのであります。
肉体として人間を理解せず、「霊」として「神の子」として、神の霊が今此の「肉体」と見える相(すがた)に
変貌して天降(あまくだ)っているのであると「人間」を理解することができた上で、
「今吾は何を為すべきか」と考えたならば、まさか女を強姦するとか、
わずかな金銭を奪うために自動車強盗をやるなんて、そんな見苦しい卑しいことは迚(とて)もやれない。
「神様が今天降って〝自分〝 として顕現している」と思ったら、人間の行動はおのずから神聖になるのであって、
ただ肉体の快楽を貪(むさぼ)る金を得るために、自動車運転手を後から殴りつけて殺したり、
ドスで刺して殺すなどと云う「生命不尊重」の行動が出来る筈がない。
それに反して人間を単なる「肉体」であると考えるならば、斯うも考えられる、
「彼れ運転手と云う者はただ単に物質が結合して斯くの如く機械的に動いているものである。
彼れの心の動きと云うものは物質が或る配合をして結合した場合にあらわれている作用に過ぎない。
あれが死んだからと云って物質が結合していたのが離れただけであるから、これは別に殺生というわけではないのである。
彼等はこれから何年間自動車運転手として、人生の苦しみを苦しまなければならんかも知れぬのに、
今此の物質的結合を一瞬の苦しみによって分離させてやったら、彼等はその無駄な長い苦しみから解放されるのである。
そうすると、自分もまた金を奪うことによって肉体に快楽が貪(むさぼ)られるし、
運転手もこれからの人生の苦しみを逃れることが出来る、これは一石二鳥と云うものである。」
泥棒にも三分の理があると云う諺(ことわざ)がありますが、斯のようにハッキリと推論しないにしても、
かれが唯物論である限りに於いて、人間は物質が偶然集合して出来て居るのであると考え、
如何に基本的人権の平等であるとか、自由の平等であるとか云っても、その生命を充分尊重し得ない事になるのは当然であります。
(つづく)
3095
:
a hope
:2014/10/27(月) 23:23:48 ID:cEpBaIdo
>>3094
つづき
p21
それですから真に人権を尊重し、その自由と平等との基礎を確立しようと思ったならば、
「人間は神の子である」と云うところの根本を把握せしめなければならないのであります。
戦後、殊にこう云う混乱が起こって来るのは、爰(ここ)に示されている通り、
「人間が人間でありながら人間なるものの本当の相(すがた)を見失っている所から発している」のであるから、
其の事実を見つめなければならないのです。
爰(ここ)に「機縁は」とあるのは、皆さんが、生長の家に入って来られるその「機(はずみ)」になった「縁(えん)」と云うものは、
「生老病死」即ち、生活の苦しみや、老いる苦しみや、病の苦しみや、将又(はたまた)、
死の恐怖と云うものが機縁になって入って来られたかも知れぬけれども、その入信の機縁は「生老病死」のいずれであろうとも、
「必ず人間神の子の自覚の確立に、導いて行くことが光明化運動の本旨(ほんし)である」その事を自分だけ知ったら足れりと云う訳ではない。
他の人をも、その本旨を悟るように導いて行くのが菩薩としての愛行であります。
だから、この最後の所にどう書いてあるかと云うと、「……光明化の本旨であることを互に明らかにし合わなければならない」と書いてあるのです。
「互に明らかにし合わなければならない」――明らかにし合うのであって、自分だけいいと云うのではなくて、
互に「人間は神の子である」と云う実相を把握せしめる事こそ人類光明化運動だと云うことを、
相互扶助して明らかにし合わなければならないと示されているのであります。
それじゃあ人間神の子の把握をしっかりしなければならんと云うが、
その人間神の子の自覚とはそもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならないと云って次に説明してあるわけです。――
(第三条 についての雅春先生のご解説、終わり)
3096
:
a hope
:2014/10/30(木) 17:52:29 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆
第一章 人類光明化運動指針の解義
p22 後から1行目〜
【第四条】 生長の家の各員は「人間神の子」の自覚とは、そもそもどの様な自覚を根本とするかを明らかにしなければならない。
神の無限生命の当体と云い、神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる。家庭も環境も運命も社会も政治も国家も世界も、隣保班の事も青年会の事も白鳩会の事も相愛会の事も県連の事も、光明化運動の消長も立教の使命遂行も、すべてみな自分以外の他の何人の責任でもなく、自分自身の日々念々の思いと祈りと行動のうちに在るものであり、一切の衆生が残らず救われてしまわなければ「吾れ正覚をとらじ」と誓われた御仏の心、即ち自己を一切者とする自覚の発動こそ真に人間神の子の自覚の証左である。さすればすべては自分の心の影となり、吾れ祈れば天地応え、吾れ動けば宇宙動くものなる事をよくよく思い知るべきである。
3097
:
a hope
:2014/10/30(木) 17:53:30 ID:cEpBaIdo
>>3069
つづき
(第四条・雅春先生のご解説) p23 後から1行目〜
この第四条に於いては、「人間・神の子の自覚」とは如何なる内容のものであるかと云うことが書かれて居るのであります。
それは、今読みました所で明らかであります様に、「自己を一切者とする自覚」と云うのであります。
爰(ここ)には、単に「神様が私を生んだから、私は神の子だ」と云う漠然とした宗教感情だけに止まらず、哲学的にそれが解明してあるのであります。
即ち、自分というものは只(ただ)の個人だと云うようなものではなくて、「自分は全宇宙を包容するところの実体であって、自分は全てである」と云うこの大自覚である。
これこそ本当に「自分自身に深切であれ」と云うことであるわけであります。
「自分自身に本当に深切である」と云うことは、自分の責任を回避すると云うことであってはならない。
責任を回避しなければならぬような小さいものだと「自分自身」を思うことは、自分を侮辱していることであり、自分に深切をしていないと云うことになるのであります。
だから自分を一切者とする此の自覚の発動こそ真に「人間・神の子の自覚」の証左であるのであります。
(つづく)
3098
:
神の子さん
:2014/10/30(木) 17:54:45 ID:cEpBaIdo
>>3097
つづき
p24 後から2行目〜
ところが、これとは反対に「環境が悪いから、制度が悪いから、政治が悪いから、人間は幸福になれないのだ」という人が多くある。
きくところによりますと、共産党の人なんかが、貧しい人の家などを訪問して行って、「君達が貧乏しているのは政治が悪いからである。経済が悪いからである。国家が悪いからである。こう云う政治家を倒し、天皇制国家を潰して、人民のための人民の政府を建てなければ、人民は決して幸福になれないのである」と言って、凡(あら)ゆる人民の不幸を「人民の政府」が樹立していないからである、と人間の責任回避癖(せきにんかいいへき)の盲点を衝いて説くのであります。
そうすると国民の多くは、特に無産階級の人は「成程そうか」と思いまして、「私が貧乏をして居るのは政治が悪いんだ。日本国家が悪いんだ。天皇制が悪いんだ。若し天皇制国家がつぶれてソ連みたいになったら、日本の人民は、余程金持になれるんだろう」と虫の好いことを思う人が出来て来るのだけれども、実際、ソ連に行ったり、中共にいったりしてその実際の農民の生活状態を見てきた人の話によるならば、彼らの多くは日本の農民の充分の一位の低い生活程度をしているのであります。
それでも過去に帝政ロシアや、支那(しな)の督軍(とくぐん)などに搾取せられていた時代の農民よりも余程よくなっているので、彼らの国民がそれで満足して社会主義を謳歌するのは、それはそれでよいのでありますけれども、日本の農民と比較すると彼らの国の農民は余程低い生活をしている。
それにも拘らず日本の農民は、社会主義国の農民よりもひどく搾取せられていると云うそう云う宣伝にのせられるのは何故かと云うと、「人間・神の子」の自主的自覚がなく周囲のものが我々を不幸にするのである、などと云う「責任回避」の物の考え方をしているからであります。
周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。
わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。
(つづく)
3099
:
a hope
:2014/10/30(木) 18:05:33 ID:cEpBaIdo
(
>>3096
〜
>>3098
a hope 所感)
この章には、たいへん重要な事が書かれていると思いました。
<<神の最高の自己実現でると云う自覚は、「一切はすべて自分の責任であり、自分以外の他のなにものの責任ではないのだ」と云う覚悟に徹しその覚悟を徹頭徹尾生き切る事である。>>
要するに、「神の子の自覚」とは、「一切者の自覚」にほかならないということが述べられているのだと思います。
<<周囲に一切の責任をなすりつける考え方は「人間・神の子」の自覚ではなくて、「人間は恰(あたか)もメリケン粉で焼いた太鼓饅頭みたいに、周囲の型にはめられてその型の通りになるしか仕方ないものである」と考えるところの唯物論であり、自己劣等感に過ぎないのであります。
わたしたちが本当に幸福になるためには、自己劣等感を克服して「自分はどう云う環境に置かれても自由自在である」というところの、自主的存在だと云う自覚を得なければならないのであります。>>
ここに、「自己劣等感」という言葉が出てきました。
この言葉、最近どこかで聞いたことがあるな〜?と思いましたら、先日web誌友板でのある「神の子さん」のご発言でした。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4573
「一切者の自覚」が「神の子の自覚」で「周囲に一切の責任をなすりつける考え方」が「自己劣等感」だとあります。
これは、確かに「神の子の自覚」があるかないかの証左になりそうですね。
わたしは、人間・神の子が基本真理の「生長の家」教団のトップに立つ谷口雅宣総裁が、
まさか、この「一切者の自覚」つまり「神の子の自覚」がなくて、一切の責任を他人になすりつけるような、
自己劣等感をお持ちのお方であるとは信じられません。
きっと、雅宣先生は、「生長の家総裁」として、聖典裁判はじめ信徒の大量脱会等、
数々の「生長の家」で起きている諸問題の責任を、「一切者の自覚」をもって感じていらっしゃると拝察しています。
3100
:
流氷
:2014/11/01(土) 09:18:54 ID:LyU7SE0.
民意とメディアと政治は、三位一体
森)皆さんの意見を聞きながら、ふと思いついたことがあります。かつて今と似たような雰囲気があった時代
のことです。もちろん僕はリアルタイムには知りません。あくまでも本などで読んだ知識ですが、日本が国際連盟を
脱退した時代が、今の時代とデジャ・ブのように重複します。
司会)A級戦犯の一人でもある松岡洋石は、日本代表団の首席全権として出席した国際連盟総会で、満州国建国を認めないとの
決議を出されたとき、四五分にわたる連盟決別の演説を英語で行ってから、最後に「さようなら」と日本語で言って、堂々と退場したと
言われています。これをきっかけに日本の軍国化が加速したとの見方もあります。
森)でもね、実のところ松岡は会期中に、「脱退のやむなきにいたるが如きは、遺憾ながら、あえてこれをとらずに」と日本政府に打電しています。
つまり彼自身などうやら、脱退はまったく考えていなかったようです。この少し前に、日本の新聞一三二社は、共同で宣言を発表します。
内容は満州国の正当性を主張するとともに、「満州国非承認と連名で決議されたとしても、これを受諾しないように」と
日本政府に迫るものでした。同時に新聞各紙は記事においても、連盟から脱退すべしと国民に訴え続けています。
C)朝日新聞もそんな主張をしていたんですね。なんだか意外。
森)最後の演説でも松岡は、日本政府や満州国の正当性を主張はしているけれど、脱退するとはひと言も言っていません。
ところがこのときの朝日新聞の見出しは、あの有名な「連盟よさらば!連盟報告書を採択 わが代表堂々と退場す」。本文では
「松岡の姿は、凱旋将軍のようだった。わが国は初めて、『我は我なり』という独自の外交を打ち立てるにいたったのだ」とも書かれています。
当然ながら国民はこの記事に熱狂し、そうした世相を背景に、日本政府は国際連盟脱退を通告し、帰国した松岡は国民的英雄として迎えられます。
D)じゃあ、連盟脱退を煽ったのは、朝日新聞をはじめとするメディアだったわけですか。
森)そのとおりなんだけど、忘れてはいけないのは、メディアも政治も民意の合わせ鏡であるということです。
つまり新聞は国民の主張や願望を反映したとの見方もできる。そう考えたとき、仮にいま安倍政権が諸外国に対して強気の外交を
行っているとしても、その理由は、強気にならないと支持率が下がるという危機感があると考えたほうがいいと思う。
つまり強気になったのは安倍政権ではなくて、この国の民意です。そもそも安倍さんの今の人気は、拉致が明らかになった北朝鮮に対して、
強硬な姿勢を示すことで始まりました。強気に出たほうが国民は支持する。そう考えたとしても不思議はない。
A)ブッシュ政権を見習った可能性もありますね。
D) じゃあ、そもそもの要因は民意だということになりますか。
森)ただしその民意は、メディアによって大きな影響を受けながら形成されます。
でもメディアも民意に誘導される。先ほど満州事変後の状況を説明すれば、新聞は当初、軍部の
大陸進出に対して批判的でした。でも部数がどんどん落ちる。それで強硬な方針に換えた。
満州勃発から数ヵ月後、「国家重大事なのだから、なるべく軍部を批判するような記事は載せない」と決めた
朝日新聞重役会議の議事録が残っています。
この朝日の変節について、右翼からの圧力があったとの説もあったけれど、むしろ圧力よりは自主規制だろうと僕は思います。
要するにメディアも民意によって造形されていると言えるわけで、.....悩ましいですね。民意とメディアと政治は常に三位一体、三つ巴なんです。
『アは「愛国」のア』 森達也 著
3101
:
管理人
:2014/11/01(土) 09:23:45 ID:HLm/peec
>3100 と、今のこの投稿の削除をお願いします。
3102
:
a hope
:2014/11/01(土) 21:36:06 ID:cEpBaIdo
>>3098
つづき
p26 後から5行目〜
世間には往々、資本主義制度があるが為に人民は貧乏になるのだと云う風に屁理屈を言う人がありますけれども、
決してそうではないのであります。
アメリカでも自動車王として世界第二の富豪になったフォード自動車会社の創立者であるヘンリー・フォード第一世は、
資本主義制度に於ける一介の鍛冶屋さんの職工であったのであります。
資本主義下においては、職工は何時までも職工で終らなければならぬと考えて居ることが、
「人間・神の子」の自覚がないわけであります。
資本主義の世界においても職工さんが、世界で三番目位の金持になれる機会は幾らでもあるわけであります。
戦後で日本一の富豪になった松下電器産業の松下幸之助氏は、手工業的に塑(ね)り物で電灯のソケットを製造販売していた
手工業の半職工的商人であつた。
資本主義制度だから一介の工員から富豪にならないと云う事はない。
資本主義化の世界は大衆によろこばれる物を作るものが忽ちにのし上がる機会の多い世界である。
美空ひばりや江利チエミは歌の口真似から出発して大衆に喜ばれた為に、忽ち毎年千万円以上も収入のある歌手にのし上がった。
ソ連で帝王の如くなったスターリンも鍛冶屋だったか靴屋さんだかの子であったそうだが、
ともかくどんな制度においても、どんな境遇におっても、伸びるものは伸びるし、伸びないものは伸びない。
戦後の日本では大抵既成財閥は解体になり、固定資産税や財産税で殆ど財産はみな召し上げられ、
土地を無代(ただ)同様の値段で買上げて細分せられ、旧財閥や特権階級の人は、斜陽族の〝なれの果て〝 みたいなのに大抵なった。
斯うして戦後の日本人は、戦後最初の富の出発点は大抵似ておった。
どんな戦前の金持も同じ位の経済的レベルに落とされ、財産は殆どみんな税金にとられて、
三万円以上はみな没収みたいに封鎖せられてしまった。
そして、手と身(からだ)だけの其処からでも、新興財閥として伸びて来る人はぐうっと伸びて来ているのである。
むろん、何時迄も下積におる人もあるんだけれども、資本主義下では実力のある伸びる人は伸びる機会がある。
だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。
どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。
封建時代にでも、豊太閤(ほうたいこう)みたいな人は百姓の倅(せがれ)から最高の栄誉ある地位にのぼった。
どんな制度の世界に於ても伸びる者は伸びるのに、自分が伸び得ないことを制度が悪い環境が悪いなんて考えて、
自分自身の責任を回避して、他を呪うのは間違いであります。
3103
:
a hope
:2014/11/01(土) 21:37:33 ID:cEpBaIdo
(
>>3102
a hope所感)
<<だから自分が貧乏をして世間を呪っているのは制度が悪いからと云うんじゃなくて、自分自身の自覚が足りないからであります。
どんな制度の下に於いても、賤しき貧しき家に生まれながらでも、「神の子・無限力」の自覚をもつものは
其処から伸びることも出来るわけであります。>>
わたしはこうも考えられると思いました。
つまり、「神の子・無限力」の自覚をもつものは、どんな組織に属していてもいなくても、どんな運動をしていてもいなくても、
伸びない人は伸びないし、伸びる人は伸びるんだな、と。
だって、「神の子・無限力」の自覚を得るためにすべきことは「三正行」以外ありませんものね!
3104
:
SAKURA
:2014/11/02(日) 21:33:23 ID:???
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
>>2840
>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
>>2871
>>2881
>>2890
>>2891
>>2898
>>2905
>>2907
>>2908
>>2909
>>2910
>>2915
>>2918
>>2931
>>2932
>>2933
>>2940
>>2946
>>2947
>>2953
>>2958
>>2959
>>3038
>>3045
>>3049
>>3051
>>3054
>>3056
>> 3071
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その4―【 転載編 ―】*=======*=======*
■かかる場合、毅然として起って、全従業員の不安、焦燥、恐怖の心を去りうるところ
の偉大なる首脳者が顕われ、事業をして従事せる全員に平和と明朗と前途の楽観を与えう
る場合には、没落せんとしたその商社も運命を回復することができるのであります。この
時、事業の首脳者にして、商勢を挽回せんとて憂い悲しみ、従業員の欠点のみを見、その
欠点を直早そうとして短気と焦燥とに駆られる時には、頽勢はかえって挽回するに由なく、
股昿と頼む忠実なる人たちは彼を見捨て去り、有為の雇員(こいん)は背き去り、顧客(こかく)
は続かず、終にさしもの繁栄を誇った商社も没落してしまうのであります。
これは現象に捕らわれて、一時の暗黒を実在だと思い、心に強く欠点と暗黒を描いた結果
であります。欠点と暗黒とはあるように見えても本来ないものでありますから、心に描か
ずに捨て置けば消えるのであります。美点と光明とはないように見えても本来実在なので
すから、心が執われなくなったときその本来のある姿があらわれてくるのであります。だ
から生長の家家族の祈願には自他の悪を云為する時間があるならば、神を想い、完全を
想い、自己の新生と生長とを努めるようではないかと書いてあるのであります。
商売の衰頽も肉体の病気も「不調和の心」の顕われですから、「不調和の心」に「不調和の
心」を追加しているようなことでは、それを回復することはできないのであります。不安、
焦燥、恐怖で平和を失っている状態に、さらに憤怒と憎みと欠点暴露をもってするのは、
火を消さんとして火に油を注ぐようなものであります。七つの「迷いの心」が起こってきた
ときには、七つの「自覚の心」で相対すべきであります。
つづく
❤〜SAKURA
3105
:
a hope
:2014/11/03(月) 21:08:54 ID:cEpBaIdo
>>3102
つづき
p28 後から3行目〜
私が諸方へ講習に行きましても、時々こう云う弁解をされる地方がある。
「ああ農繁期でございますからどうも人の集まりが悪いのでございます。」そうかと思うと、
「祭日とかち合いましたので、人がその方へ行きまして、講習会の集まりが悪いのでございます。」
あるいは「雨が降りましたのでどうも人の集まりが悪いので御座います、」などと、
責任を農繁期や祭日や雨天に課して、自分の努力の不足にアリバイをつけようとする人がある。
ところが、或る農村に講習に行って雨が降ったときに、「先生、今日は雨が降りまして有難うございます」とお礼を言われたこともある。
そう云う所では「雨が降ったので百姓が野良にでられないから、野良にでるかわりに、
この講習会に集って来るのでございます。神様有難うございます」と喜ばれるのであります。
それなのに、口実をつけるところは、「雨が降ったから人が集まり難いのであります。もしお天気なら、もっと集っとったんでございます」
まあそう云うように理屈をつけて自己弁解する。
その自己弁解をするようでは、この自らの主人公であるところの自覚が足りないのであると言わなければならないのであります。
(第四条についての雅春先生の解説終わり)
3106
:
a hope
:2014/11/14(金) 08:41:51 ID:cEpBaIdo
☆ 新版 菩薩は何を為すべきか 谷口雅春先生・谷口清超先生共著 ☆
第一章 人類光明化運動指針の解義
第五条 生長の家の各員は、人間神の子の自覚が、日本民族が悠久の昔より世々代々承(う)け継ぎ語り継いで来た「命(みこと)」の自覚にほかならず、生長の家立教の使命が同時に日本建国の理念の現成(げんじょう)にほかならない事を明らかにすべきである。
日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)として把握し、その「中(みなか)」への中心帰一とその「中」の展開、即ち宇宙普遍の原理の地上的顕現を日本国家形成の理念とし、天津日嗣(あまつひつぎ)とはこの理念のさながらなる継承以外にはなく、天皇の権威は権力をもって思うがままにこの国を支配する権利にあるのではなく、この理念の継承実現にまします事、従って天皇を中心と仰ぐ日本の国家の発展は、天皇の人民支配の手段としての国家の発展と云うが如き専制的な性格のものでは微塵もなく、宇宙真理、即ち神意の地上顕現の至純至高の形体としての日本国家の精神である。
この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。
単に自分の祖国のみの理由にて日本を愛するのではなく、東洋と西洋との中間に位して一切を生かす大乗の真理国家たる事が日本の理念であるからこそこの国の国体を鑚仰(さんぎょう)してやまず、この国の神の子国民として生を享(う)けしめられた所以の深さに感泣(かんきゅう)し、わが一身もわが家庭もわが生活もすべてこの理念現成に捧げられてはじめて存在の意義を持ち得るものなることを、各自互に明確に自覚し合い、その行動の根拠となし合うべきである。
3107
:
a hope
:2014/11/14(金) 08:43:18 ID:cEpBaIdo
(
>>3106
a hope所感)
この第五条には、わたしが理解しなければいけない日本国に「生長の家」の出現した本当の理由、
つまり「鎮護国家」がなぜそれほどにも大切なことなのかが述べられているのではないかと感じています。
これから、雅春先生のこの第五条のご解説を丁寧にお勉強していきたいと思います。
3108
:
もうすぐ冬だけど春
:2014/11/14(金) 19:22:17 ID:sJIV9CK.
a hope さま
一つ前から聞きたかったのですが、この掲示板で、何を求めていらしゃっているのですか?
自己満足の暇持てあましの、お勉強ですか?
3109
:
もうすぐ冬だけど春
:2014/11/14(金) 19:25:03 ID:sJIV9CK.
この真理の現成の大まつりごとに、神の子としての命(みこと)として自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が実相の成就である事を明らかにすべきである。
↑
謹舎慕って、意味わかってんいっしょ? ぶっちゃけ。
3110
:
トキ
:2014/11/14(金) 20:00:39 ID:NbEVi5/s
>>3108
管理人としては、a hope様のご投稿は、掲示板の目的に沿うものであり、
内容も素晴らしく、歓迎しております。継続してのご投稿にも感謝してお
ります。
教団がこうなった以上、掲示板での勉強は大きな意味があります。
a hope様におかれましては、今後も継続して、ご投稿をお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
3111
:
a hope
:2014/11/14(金) 20:34:30 ID:cEpBaIdo
>>3108
春さま
わたしは、この掲示板でお勉強させていただくことで、
何が本当の生長の教え(真理)なのか自分自身で明らかにしていきたいと思っています。
そして、自分自身が真理を悟って幸せになりたいというのも勿論ですが、
自分が悟ることで、周りの苦しんでいる人々を救えるような人間になりたいのです。
ですからわたしがこの掲示板でお勉強させていただいているのは、
自己満足といえば自己満足かもしれませんが、「生長の家」の教えを体得して、
人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。
とても申し訳ありませんが、
>>3109
のご質問の意味はよくわからないのでお返事ができません。
ところで、春さまはどうしてこの掲示板に書き込みをされているのですか?
3112
:
a hope
:2014/11/14(金) 20:35:13 ID:cEpBaIdo
>>3110
トキさま
コメントありがとうございます。
これからも、自分のペースでお勉強させていただきます。
感謝 合掌。
3113
:
もうすぐ冬だけど春
:2014/11/14(金) 21:11:27 ID:ng3olj7k
この真理の現成の大まつりごと
↑
の
意味、分かりますか?
神の子としての命(みこと)として
↑
この意味分かっていたら、鎮護国家はずし意味が理解できますか?
自己の責任としてまつろい奉(たてまつ)る事が
↑
これは貴殿が書かれた"できることをまずしよう"でいいと思われますが、
この先は、
何を目指しているか、お考えですか?
人類光明化運動を展開していきたいという大きな夢のためでもあります。
↑
この為の方法が、
掲示板でお勉強させていただいているの
↑
では、全然話にならない、足りない、ともうい上げているのです。
3114
:
トキ
:2014/11/14(金) 21:49:06 ID:NbEVi5/s
>>3112
a hope 様
お返事、恐縮します。今後ともご投稿を期待しております。
頑張ってください。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
3115
:
a hope
:2014/11/14(金) 22:02:56 ID:cEpBaIdo
>>3113
春さま
人類光明化運動指針第五条の条文だけを読んだのでは確かにその意味はよく理解できないかも知れませんが、
「菩薩は何を為すべきか」には、各条文の後に、雅春先生が「人類光明化運動指針の解義」として、
その内容を詳しくご解説してくださっているのです。
ですから、これからそれを謹写しながらお勉強して行こうと思っているのです。
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。
現実の春さまがどのような方で、どのような運動をされている方なのかわたしは知りません。
ですが、春さまもわたしのすべてを御存知ではないですよね?
この掲示板の管理人さまであるトキさまがお許しくださっていますので、
わたしはわたしのやり方でこれからもお勉強を進めさせていただきたいと思います。
ご理解くださるとありがたいです。
3117
:
もうすぐ冬だけど春
:2014/11/15(土) 09:00:22 ID:EAWJz.aM
丁寧にお勉強して行けば、こんなわたしにも「鎮護国家」の重要性が理解できるような気がしています。
↑
失礼ながら、到底無理と考えています。
丁寧にお勉強すれば。。のレベルでなく、当たり前の事が当たり前に感じられる【感性】とでもいうべきものが必要で、今後も貴殿のお好きなように書かれて行く事は大事にしたいと考えますが、
1+1=2
が分からない人が、謹写していても、しないよりはましな程度で、
1+1=10になるという(たととえですが)は、永遠にたどりつかないでしょう。
献労と愛行が欠けているからではないですか。
初心者様が言った、インターネットで真理が分かるなどあり得ない、と言うのは、事実と思います。
3118
:
a hope
:2014/11/15(土) 09:11:02 ID:cEpBaIdo
>>3117
春さま 信仰/体験板にお返事させていただきます。
3119
:
a hope
:2014/11/15(土) 09:14:45 ID:cEpBaIdo
(第五条 雅春先生のご解説)p31
ここは非常に重大な一節であります。民主主義かぶれのしている人には解するのに難しいところであります。
生長の家は「人類光明化運動」と云うから人類を愛したらいいのであって、日本の国なんかどうだっていいじゃあないか、と考える人があるかも知れませんが、決してそうじゃあないのであります。
皆さんは日本民族の一員として日本人として生まれた。その事実に立脚して生きている以上、日本民族と云うものは如何なる自覚を持ち如何なる使命を持って此の地上に誕生したのであるかと云うことほど重大な問題はないのであります。
古代の日本人は全て何某(なにがし)の命(みこと)、何某の日子(ひこ)、何某の日女(ひめ)と云うように自分自身をも呼び、他の人をも尊称して居りました。
日子とは即ち天照大神の御子(みこ)という意味であり、日女とは即ち天照大神の女(むすめ)という意味であり、すべての人間は命(みこと)であったのであります。
命とは即ち「神の生命」そのもの、それが天降(あまくだ)って来たのが人間であると云う、そう云う魂の自覚をもって日本人は日本民族の歴史を作ってきたのであります。
(つづく)
3121
:
トキ
:2014/11/15(土) 19:01:43 ID:kJfjg7Wc
「白鳩」昭和48年3月号 14pより、謹写
<<10日の箴言 迷霊には問答打ち切り宣言が早いほどよい>> 谷口雅春先生
イエスもヨルダン河で40日40夜断食水行して自分の心を潔めようとしているときに「自己とは別の
世界に棲む迷霊サタン」があらはれて来て問答しているのである。この迷霊とイエスとの問題は、頭に
ブリキのバケツを被って迷霊の言葉をアースして避けようとした人のようには、その迷霊に、長くはかか
はり合っていないのである。迷霊との問答は、長くかかはり合っていると、人間を翻弄して楽しみたいの
が彼ら迷霊が人間に話しかける動機であるから、いつまでもその迷霊がねばりついて間断なく話しかける
ため人間の方がノイローゼになってしまう。イエスと迷霊サタンとの問答は極めて簡潔にして、イエスは
「去れ」といって、迷霊を突き放しているのである。
サタンーなんじ若し神の子ならば、命じて此等の石を変じてパンとなせ。
イエスー人の生くるはパンのみにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る。
サタンーなんじ若し神の子ならば己が身を下に投げよ。若しなんじ神の子ならば聖書に録された如く
「神はみ使いたちに命じて、彼らの手にて汝を支え、その足を石にうちあたることなからしめん。」
イエスー「主なる汝の神を試むべからず」と聖書には録されている。
サタンー汝もしひれ伏して我を拝せば此れらの栄華を皆なんじらに与えん
イエスーサタンよ去れ。聖書には「主なる汝の神を排し、ただ之のみに事ふべし」と書かれているでは
ないか。
この簡単な会話によってイエスは迷霊が、言葉を弄して、彼にからみついて来るのを突き放しているの
である。これは若し諸君のうちに誰かに迷霊がかかって来て愚弄しようとするとき、簡単にそれを突き放し
てしまって、今後話しかけても取り合わないようにすれば、それ以後は迷霊は沈黙してしまうという実例で
ある。
3122
:
SAKURA
:2014/11/15(土) 22:31:16 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その5―【 転載編 ―】*=======*==
■不安、焦燥、恐怖が起ってきたときには、不安に思うまい、イライラすまい、焦るま
い、恐れるましと思ってそれを抑圧してもたいてい駄目であります。
不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、焦るまいと思えば思うほど焦り出し、
恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出すのがわれわれの心であります。それは「不安を……」
と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、心に描いたものが強く現わ
れるのが心の法則でありますから。
「不安を……抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。
「不安」を無くするには、「不安を……」とすら考えないで、全然別なる完全なる状態に
心を集中しなければならないのであります。すなわち、この時こそわれらは、「神のように
努めなければならないのであります。
その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌(かみよびうた)を誦(とな)え
終わると次のように念ずるのがよろしい。
「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。神
と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけであっ
ていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。我は神の子であり、我が環境
は我が心の影であるから、我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と
生命と供給とが満ちているのである。」
つづく
❤〜SAKURA
3123
:
a hope
:2014/11/17(月) 09:37:07 ID:cEpBaIdo
(
>>3119
つづき)
こう云う歴史を背負ってその歴史的現実として具象化して、今皆さんが此処に生きておると云うことは誠に荘厳な事実なのであります。
他の国の民族の中には、そういう自覚を持って生まれて来た民族はいない。その独特の伝承を私たちは尊ばなくてはならない。
西洋では人類はアダムとイブの子孫であり「罪の子」の子孫である、と云う様に説かれて来て、彼らh「罪の子」の子孫であると云う、あまり芳しからぬ自覚を伝承しているのですけれども、日本人だけは「神の子」」として、「命(みこと)」としてこの地上に生まれて来、そして世々代々その伝統を承(う)け継いで来て、「われは命(みこと)なり」の自覚のもとに生きて来たのであります。
そして神の子が天降(くだ)って、地に平和をもたらすために此処に日本民族が大和と云う国号の国を建てたという光栄ある自覚を尊重しなければならぬわけであります。
(つづく)
3124
:
a hope
:2014/11/18(火) 08:52:32 ID:cEpBaIdo
(
>>3123
つづき) p32 後から3行目〜
その神の子とは如何なるものかと申しますと、爰(ここ)に書かれておりますように、「日本民族は存在の窮極を、一切のものの生成の根源たる普遍的絶対者を天之御中主神(あまのみなかぬしかみ)として把握」したのであります。
日本民族はみずからを「命」と呼び、日子(ひこ)、日女(ひめ)と称するけれども、決して一人の有限な肉体を持った神様から誕生したと云う意味での「神の子」ではない。
日本書紀或は古事記の神話にあるところの天之御中主神の「中(みなか)」の本源より発したる基本生命の自覚である。
天之御中主神とは、一個人の人格神の固有名詞ではないのであって、「天(あま)」の次に「之(の)」という接続の詞(ことば)がついて居る所に注目しなければならないのであって、これが固有名詞ではない証拠であります。
「之(の)」がついているのは、固有名詞ではなく、説明のための接続詞としてついているのであります。
何を説明しようとしているかと云いますと、「天(あま)」即ち「天球」即ち「大宇宙」の「中(みなか)」にして主なるところの神様と云う意味を説明していたのであります。
私たちはその「中(みなか)」の「主」なるところの神様から生まれて来たのであっって、その中(みなか)のいのちより出でて中(みなか)に帰る、吾々は中(みなか)に帰一しなければならない。
「神の子」とは天之御中主神の生命が此処に出現して、「中(みなか)」の理念を実現する為に此処に生きて居るということであります。
(つづく)
3125
:
SAKURA
:2014/11/18(火) 22:41:14 ID:???
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 自他の悪を思わず常に光明に転向せよ ―その6―【 転載編 ―】*=======*==
■この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を思わず、今現実に
大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達してその神想観を終わり、神想観
後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を持続するように努めれば、現実の苦難の状
態は克服され実相世界の完全なる状態がしだいに現実生活にまで再現してくるのであります。
次の項目に続きます。
❤〜SAKURA
3126
:
SAKURA
:2014/11/18(火) 22:42:25 ID:???
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>>3122
>>3125
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その1―【 転載編 ―】*=======*==
■われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、何ものをも恐
れず、取越し苦労をせざらんことを期す。
■われらの心の明朗の極点は『神の無限力』と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、それはたいてい一時的の明朗さで
あります。
また次なる重大なる事件が起って来るとともに、その明朗さ破壊せられずにはいないのであり
ます。どんあ重大なる事件が起こって来ようとも、我が味方は「神」であり「神」がその事件
をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえすれば、われわれはその重大
なる事件を静かに支配することができるのであります。
かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのものではなく、
重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失ってしまうことであり
ます。この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を加え、
その人は加速度をもって危殆の世界に押しやられて行くのであります。
ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。どんあ成功者
といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。しかし彼が成功したのは
普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)してしまうような時にも、それを「失敗」
とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場としたのであります。
ヘンリー・フォードは言っています。
『自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば化学の
実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て来る時も、共
に化学の実験としては成果を収めているのである』と。まったく常住「楽観病」と評さるる
ヘンリー・フォードが言いそうなことであります。この常住「楽観病」こそ事業を成功に
まで導き来す大原動力であって、その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであり
ます。
−その2−につづく
❤〜SAKURA
3127
:
a hope
:2014/11/19(水) 08:43:59 ID:cEpBaIdo
(
>>3124
つづき) p33 後から1行目〜
「中(みなか)」と云うのは、『中庸』と云う支那(しな)の書物に、「喜怒哀楽未だ発せざるを中(ちゅう)と云う」とありますが、この「中(ちゅう)」と云う字は、○(宇宙の象徴)に一本貫いた様につくられたのが本来の字形なのであります。
四角に一本棒を挿したのじゃなくて、○(うちゅう)を貫く象(かたち)を表した⏀であります。この「○」は宇宙であって、宇宙を貫く処の真理が⏀(みなか)なのであります。
真ん中だけを貫いて居るのではないのであって、これはただ「宇宙を貫く」という意味を象形的に書かれているのです。
宇宙の一切の物貫く所の原理に在(まし)ますところの神様が天之御中主神であります。
その「中(みなか)」の原理と云うものは何処にでも現れて居る⦿(ス)の原理であって、それは一切のものには一つの中心があると云うことであります。
つまり太陽系統には太陽と云う中心がある。そして周囲には遊星が廻って居る。存在の最小単位である原子にも原子核と云う中心があって、その周囲に電子が廻っている。
(つづく)
3128
:
a hope
:2014/11/19(水) 08:44:53 ID:cEpBaIdo
(
>>3127
つづき)
人体を形成して居る所の細胞にも真中に細胞核と云うのがあって、そして周囲に原形質がある。鶏卵にもちゃんと黄身と云う中心がある。
中心がなくなったら、細胞もなくなり、卵は死んでしまうのであります。白色レグボーンの鶏の卵の白身だけを抜いて、プリムスロック種の鶏の白身と入れ替える実験をソ連でやったら、それを孵化させるとプリムスロックの雛が産まれたという話もあるが、白身は他のものと取替られるけれども「中心」なる黄身を取り替えたらもうその鶏卵は生命を失ってしまうのであります。
このように中心は一番大切であります。原子でも、原子核を破壊したら、原子は崩壊して飛び散ってしまう、われわれの肉体を構成している細胞も、その中心であるところの細胞核を殺してしまったら、細胞は死んでしまう。
植物にも幹という中心がある。幹を殺したら植物は枯れてしまう。
太陽系統も真中にある太陽が放射能を出し尽くして冷えてしまうようなことがあったら、太陽系統には生物がなくなる、結局吾々の地球も冷えてしまって人類もその他の生物も死ななければならない。
どうしても⦿(ス)をもって表象する「中(みなか)」の理念と云うものに一致したときそこに生命があらわれるのであり、「中(みなか)」の理念によって宇宙の一切のものは生かされて支えられて居るのであります。
此の一切存在の基本原理なる「中(みなか)」の理念を体現した国家、換言すれば「真理国家」の現成が日本国家なのであります。
(つづく)
3129
:
SAKURA
:2014/11/19(水) 22:57:39 ID:???
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>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
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>>2947
>>2953
>>2958
>>2959
>>3038
>>3045
>>3049
>>3051
>>3054
>>3056
>>3071
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神と偕に無畏無憂の生活を送れ ―その2―【 転載編 ―】*=======*==
■取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。常住楽観者は失敗の中にでも
成功を見て心を明るくするに反して、取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るの
であります。こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったな
い」とか、「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。そし
て実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して手を束ねて策の施
すところを知らないのであります。
およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、精神エネル
ギーを消耗することおびただしく、明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が
浮かぶものを、いたずらに憂苦し懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしま
い、時局を好転するに必要なる縦横な機略は姿を潜めて出て来なくなるのであります。
取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して「われ神の
子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神であるから恐るるところの
ものはない」と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣をつ
けるがよい。またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗
はない、どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。
柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を投げる
のです。
すなわち向こうから衝いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。衝かれるとか、引かれ
るとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。それをそのまま利用して引っぱら
れれば敵の懐に飛び込み、突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。柔道の
試合には、相手が技をかけてくれる時の勝利の好機会なのであります。われわれの事業に
おいても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、その運命の懐に飛び込
んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。逆転を幸運の足場になしう
る人にしてはじめて人生の常勝者なることができるのであります。
次の項目に続きます。
❤〜SAKURA
3130
:
トキ
:2014/11/20(木) 09:41:50 ID:EQq/iyn.
御礼
SAKURA様、a hope様、すばらしい御文章を紹介してくださり、心から感謝申し上げます。
多くの閲覧者様もお喜びだと思います。
今後ともよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
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