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聖典引用 板

2931SAKURA:2014/06/18(水) 17:31:19 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ― その1【転載編&引用編 ― 】*=======*=======*

■「心の清き者は神を見ることを得」*ということは、キリスト教のバイブルにある句であり
ます。「心の清き者」というのはどういうものであるかというと、何も無い人です。何もない
人が「心の清き者」です。つまり「我」のない人であります。この幼児の心を持ったものが
初めて真理を知ることができるということは、バイブルにも、『生長の家』にも書いてあるので
ありまして、われわれがいくら知恵や学問をもっておりましても、本当に心が虚無(からっぽ)
になっていないと本当の真理を受け容れることができないのであります。

きのうも、ある青年学生が来て、「水素と酸素とを合わしたら水になるという化学の実験を
見てきたが、その時気がついたことですが、なぜ水素と酸素とを合わしたらどうして水ができ
るか、その『どうしてできるか?』というわけを教えて下さい」といってきたのであります。

それは原子価の関係や、イオンの関係で水素と酸素とが合したら水になると説明すること
ができますが、その奥をまた尋ねて原子価がこう、イオンがこうであれば、なぜそう結合し
て水になるかの理屈をさらに尋ねられたら理屈では答えられない。これは理屈ではない事実
なのです。
「水素と酸素と合したら水になる」ただそれは事実だから否定できないのである。これは事実で
ある。あるいは酸素と水素と合したら炭になるというふうな理屈が仮に成り立ったところが、
ただ「酸素と水素と合すれば水ができる」ということが事実であれば、事実ほど強いものはない、
こう答えたのであります。世の中には妙な人があって、生長の家で病気が治る事実があるのに、
「宗教で病気が治るはずがない、もし治ったらそれは邪教だ」という理屈を製造して躍起に
なっている人もあります。理屈で「治らない」と弁証し、多数決で決定しても事実治ったら
仕方がないのであります。

 それと同じくわれわれが「神の子である」ちはなぜ神の子であるか、なぜ人間は神の子で
ないのかとこういったところが、神の子である、これはもう理屈ではないのです。
神の子であるから神の子である。

 よく「無明(まよい)はどうして無いのか」と、こういわれる。「無明はないから、ないのだ」
と、これしか答えようがない。いろいろ理屈をいうことはできます。ある程度まで、
八十パーセントまで、なるほど、なるほどと思われるくらいには説明もできますけれども、
いくら巧みに弁舌巧妙に理屈を説いてみたところが、事実そうでなかったら何にもならない。
ところがいくら理屈で言えなくても事実がそうであればそれはもう否定することができないので
あります。
                             続く
PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
心を清く空虚にしますには、「我」失くすことでしょうかと「谷口雅春先生」がおっしゃています。
そうしますと「我」とは〜〜〜相手を捌く心持ちも“我”なのですョネ!!
【 捌く=砂漠 】ですから、本当に“心を空虚”になることは『砂・漠』のような心持でしょうか??
 (微笑)何処までも〜何処までも〜何もない!無の世界!!しかし其処には【無限に広がるモノ】が??
                             再合掌

2932SAKURA:2014/06/18(水) 21:03:41 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編・引用編】
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の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 転載編&引用編 ―】*=======*=======*

■人間はどうして神の子であるのか、人間はどうして物質ではないのか――ゆうべ
出た話ですが――人間はどうして神でないのか、こういったところが、これはそんなよう
な理屈が成り立っても、人間は神であるという事実があれば仕方がない。事実が実相であ
る。それできのうもある人が来られて言われるのに、「先生は実相は真理である、真理ほ
ど確かなものはないと言われますが、わたしはその真理という言葉が感心しない、理とい
うとなんだか理屈で本当の真ではない気がする。こんな気になったのは、先生実はある雑
誌に生長の家の妄評が書いてある、本を読んで病気が治るなんて、そういう馬鹿なことは
あるはずがない、もし治るのなら、生長の家が騷ぎ出してから、日本全人口の中ので何パー
セント死亡率が減ったか、何パーセント罹病率が減ったかということを示してみよ、生長
の家が宣伝し出してから、ちっとも日本人全体の罹病率は減ってはおるまいがな、という
ふうなことが書いてある。なるほどひと理屈らしいのですが、これは理屈です。日本人総
体の死亡率が減っていなければ、いくら個々の人の病気が治った実例があってもそれはウ
ソだとその雑誌は言っているのです。先生こんなのを事実を無視した理屈の『真理』と言う
のですなァ」と言われるのです。この人は生長の家で現に病気の治る事実を見て知ってい
られるのです。幸いに生長の家では罹病率の激減した会社の統計や、事故率が絶無に減じ
た鉄道の統計があったからそれを発表しましたが、仮にここに三十人の生徒が近眼であっ
た、その三十人の近眼が治ったら、近眼が三十人減ったということは事実である。理屈で
推論して、とっとも日本人全体の病人数は減っておらぬといっても、十人病気が治ったら、
事実十人病人は減ったのであって、これほど確実なことはないのです。理屈さえ通ったら
事実が消せると思ったらまちがいです。そのうち日本人総隊の死亡率が減ったとわかる
時代が来ると信じます。

ともかくこういうふうに理屈が心の中にいろいろと詰まっている。人は事実があっても
本当に素直に受容れることができない。現に眼の前で病人が一人減り二人減り続々と減って
おる事実を見ても全人口でどこが減っておるかという、こういうことを言いたくなってくる
人を、こういう我の理屈や塵挨を心の中にいろいろともっていて真実を受入れることが出来ない
人を、心の清くない人というのであります。

心の清き人は本当に神を見る、実相を見ることができる。心の中に塵挨(ごもく)が一パイ
にないからするすると真理が入るのであります。かえって幼児に、なんの学問もない、小さ
な五つ六つぐらいの子供が生長の家の真理を知り、神を知っているというような実例がたく
さんあります。
                           つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ
実例?事実?〜〜〜これって…本当に「素直に受け入れる事」でしょうか??

■私事ですが?「私自身のフエイス」には【霊界通信…新樹】を投稿していま〜す。前回の
「ジュリアの音信」から続いての投稿なのです。…が?

実は、「トキ様」が紹介して頂きましてから「新樹の通信」を、一度!は、読んでいたのです。
今回、“ライティング”という事で、もう一度復習し直し!改めて「霊界の中身」が見えてきます。

                              つづく

2933SAKURA:2014/06/18(水) 21:05:25 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その2【 引用編 ―】*=======*=======*
>>2932 【転載編…投稿】の続きです…。

更に「ステッド通信」と交互に読んでいく内に、私達一人一人には【守・護・霊】がいますョネ!
海外の「イギリス」では、その方が亡くなられますと、その【守・護・霊】なのですが〜〜〜
年代の背景が余り大差がなく、身内とか?〜〜〜時代の誤差はあまり生じていないのですョネ!

ところが?「日本」の場合は〜〜〜何と!何と!「新樹の母様の守護霊」は〜〜〜
足利時代の方が【守・護・霊】という事で〜〜〜ビックリマークです。
更に「新授の守護霊」は〜〜〜かなりお爺様!!しかも『年代の差』があるように見えます。

そうしますと、このように【西洋】対【日本】との比較では?どうしても隔たりが……><
当時!昭和五年前後の中身にてなのです。…が?これも事実なのです〜〜ョネ??

■では「現在の私達」は〜〜〜どうなんでしょうか??「考える人」

しかも?思うに…現在の私達の【日本語=漢字】が〜〜〜簡略化に成り過ぎていますし、
更に、江戸から〜〜〜現在まで〜〜〜【幽・界】では殆んどが〜〜〜「地・獄」と思えてしまいます。

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┃\_/┃ " ステッド通信からの言葉より〜♫〜 "
┗━━━┛            ■【 ステッドの言葉 】…
 この実在界では、いかなる存在との間にも親和力を感じます。地上で人間どうしで
感じる親近感よりはるかに親密です。その親和力がこの世界全体に光輝をを生み出して
います。地上のように光線となって放たれているのではありません。この世界の大気
に相当する雰囲気そのもが、明るい活性力をもった生命力にあふれているのです。

 ここで生命活動は壮麗という形容がふさわしいでしょう。大胆になるといっても
よいでしょう。幸福感に満ちあふれております。しかし、そうした恩恵に浴すること
ができるのは、地上で分別あるまともな生活を送った人間に限られます。

無分別な生活、自己中心の欲望に駆られた人生を送った者は、死後、困難と苦悶と悲哀
とが待ちうけております。げに、“蒔いたタネは自分で狩り取らねばならない”のです。
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上記に【ステッド通信…】からの抜粋投稿なのです。
「ステッド氏」が【ブルーアイランド】から次ぎの界に上昇した世界の処を、
紹介しておりますが、【霊界の入口】には、【ブルーアインランド】・【サマ−アイランド】があり、
そこでも、厳しい現世での行為への「おさらい?」があるようです。そして、更には、その上の階級に
上昇して行く過程にても、やはり「過去のおさらい事?」があるのです〜〜〜ョネ!!
【 蒔いた種は〜〜〜自分で刈り取らなければならない 】…

■このような事でも〜〜〜或る人は信じる事となり?或る人はいや信じない事と?〜〜〜
これも?「死後の世界=あの世」…旅立って分かる事でしょうか??
「ステッド氏」は、この事を「理解出来る人」そして「それを信じる事」も〜〜〜
「素直な心」だとも言っています。

歴史上有名な…あの「タイタニック号」の現場で…「ステッド氏」はご自身の生命を顧みずに、
命がけで「700のボートに人々を乗せた救命活動」は〜〜〜スゴイ!一言に尽きますネ!!

さて!「トキ様」…これも【理・屈】で考えますでしょうか??それとも【屁・理・屈】???
やはり、すべて【真・理】をつかんだモノが〜〜〜【天国の門=狭き門】なのですョネ!!
                                再合掌

2936トキ:2014/06/19(木) 13:51:10 ID:9YaKBDTs
>>2933

 タイタニック号は、心霊現象に関する話題が多いです。
衝突を事前に予言していた人も多いみたいでした。

 理屈も大事ですが、事実は説得力がありますね。
科学理論でも、実験という事実で裏付けされて、初めて
真実だとされますから。

2940SAKURA:2014/06/19(木) 22:19:45 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933の投稿の続きです….。

>>2936「トキ様」……お返事ありがとうございます。

最近!まじめに、取り組んでいるのです。…が??
今まで「心霊現象」を或る方は〜〜〜“タタリ…”とか??“魔物が取りつく…”とか??
そのように、子供の頃は、実に〜〜〜“怖い存在”でしたのですネ?

■私の「フエイス・ブック」に投稿するようになりましたキッカケは、最近!
【人間の心が枯れて行ってる状態〜〜〜??】ではないのでしょうか?

しかも!特に私の周辺に出没します…「皆様」も御存知の「吸血鬼・ゾンビ達」の
【常識のない行動】には〜〜〜モウ!モウ!モ〜〜ウ!と言いた感じで。。。
毎日毎日【心…がドンドン枯れて行っていました!】そのような時に、
正直申しますと「雅春先生の書籍本の数々」を読んでも〜〜〜><
また!【現・象】にどっぷりと?浸るような錯覚現象がおきていたので〜〜〜す。

或る時、何気なく「アマゾン」のコーナーから【ジュリアの音信】の本…
それも“本文”で「中古の本」〜〜〜それを注文して、その後!「心が何となく〜〜〜スッキリ!」
まるで!雲の間から…光〜☆!が……それから、去年!買っておりましたが「本棚」に…
「タイタニック号の書籍」が……その本を開きますと!何と!何と!【ステッドの通信…】

■ 【 人間は〜〜〜霊的人間〜〜〜魂は永遠〜〜〜!!! 】

また!また!その内容から〜〜本当に「真実論に展開して行く」のですから〜〜〜気が附きますと、
「谷口雅春先生のお言葉」が〜〜〜自称!前以上に理解が出来まして、この頃では
【神想観】が出来ない時は、電車の中で“瞼”をつむって…【瞑・想】その時?オカシナ現象事ですが?
【実相円満行…】をしている私なので〜〜〜す。

■現象で物事を見て行く時…どうかしますと【相手を捌く心】がどうしても心の中に…生じます。
その時の私は〜〜〜「人間!皆神の子なのだヮ!!」と云い聞かせて〜〜〜みても〜〜〜><
正直!なかなか「心…」そのモノが〜〜〜変わるわけでもない〜〜〜意味がないように思え〜〜〜
そこで“瞼”を閉じて【円満な世界観を描く…円満行】をしますと〜〜〜♫
不思議な現象事が〜〜〜起きるのです。
■やはり「人間は霊的に備わっている!」のです〜〜〜ョネ!そのように納得しています。…が?

※「トキ様」は?どのように思われますでしょう〜〜〜か??    再合掌

2945トキ:2014/06/20(金) 18:48:10 ID:yJ0/2CfA
>>2940

SAKURA 様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。

 そういう細かいですが、大事なポイントを実行するのは大切ですね。
電車の中で、自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば
掲示板をご覧になっている皆様に、その効果のほどを知らせるのは、そ
れも伝道だと感じます。

 頑張って下さいね。

合掌 ありがとうございます

2946SAKURA:2014/06/20(金) 21:13:35 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2947SAKURA:2014/06/20(金) 21:25:06 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
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>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2949a hope:2014/06/21(土) 08:57:40 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 第六章 「価値の本質」

(キーワード&キーセンテンス)

p146〜
○価値要求
・・・われわれの生活に「価値」がないということを、甘んじて許しておかない本性の要求 
・・・「善」をなせ、値打ある行いをなせという要求、


○悟性
・・・誰かが善いことをした時、われわれの心の中でそれは値打のある行為であると認める判断力(哲学上の言葉)
・・・人の行為の善悪価値を判断する力

p149〜
○価値感
・・・「善」を実行した時に感じる喜びの念
・・・生き甲斐の感じ「値打」の感じ
・・・内部にある価値の標準に合ったものを賞賛する感じ


○絶対的な価値(善悪)の判断
・・・普遍的で時代によって変化しない

例)人類の福祉のために己(おのれ)を空(むな)しゅうして仕えるというような値打ある行いを「善」とする


△相対的な価値(善悪)の判断
・・・時代によって変化してくる。

例)主君の怨みを晴らす敵討(かたきう)ちは、その時代には「善」であったが、現代では「善」だとは考えられない

2950a hope:2014/06/21(土) 08:58:45 ID:cEpBaIdo

p151〜
○当為
・・・「価値」「値打ち」の表現要求
・・・「当(まさ)に為すべし」という内部からの本当にあるものの表現要求
・・・道徳的良心の叫びで内部よりわれわれを強制する

例)内部から至上命令的に何々せよ、善をなすべしというふうに迫ってくる力で、それをしない時にはどうしても気持ちが悪い


△不可不
・・・自然界(現象世界)の法則
・・・「ザルベカラズ」というのであって、このほかにありようがない絶対法則と言われている
・・・かくあるよりしかたないと外部よりわれわれを強制する

例)ここに水がある。あるいは酸素と水素が結合した場合水になるのである、これは真理である


△【今までの倫理学の考え方】
「不可不」と「当為」が衝突する場合には、「当為」は「不可不」に打ち負かされる
自然界の法則は「不可不」の法則(絶対法則)であるから善も悪も征服して働く
それはなんとも避けることができない法則である

例1)泥棒しようと思って、「悪」の動機で忍び込むために、水の冷たい中に這入って三十分もしゃがんでおったにせよ、また、子供が溺れようとしているのを助けようと思って、「善」の動機で冷たい水の中におったにせよ、やはり同じように冷たい水の影響を受け、自然界の法則によって風邪を引いて、肺炎になって死んでしまうのです。(p153 後ろから5行目〜)

例2)心に愛の念を抱こうが、憎しみの念を抱こうが、日向(ひなた)に出れば暖かいし、陰におれば涼しい、そういう具合に自然界の法則というものは「不可不」に働くというものであります。(p154 4行目〜)

2951a hope:2014/06/21(土) 09:01:31 ID:cEpBaIdo

>>2949 >>2950 a hope所感)

テキストである「生命の實相」第13巻のp146〜154 までのキーワード&キーセンテンスをまとめてみました。

p154からは、いよいよ、「生長の家の倫理学」の神髄が説かれています。
雅春先生はどういうわけかその「教え」を、「谷口倫理学」と呼ばれ説明されていて興味深いです。
ここのところの真理を体得できれば、かつて「生長の家」の奇蹟とよばれてきたようなことが起こせるようになるのだと思います。

ですから、あせらず、ゆっくり、丁寧にお勉強していきたいです。

2953SAKURA:2014/06/21(土) 20:06:53 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933>>2940>>2947の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 自己のホッせぬことを思うな ―その1【 転載編 ―】*=======*=======*

■ われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもっていやしく自己の欲せざること
を心に思わざらんことを期す。

 「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。仏教でいえば「三界は唯心
の所現」である。これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたもの
であります。業はいかにして流転するかというと、この「類は類を招ぶ」という法則によっ
て流転しているのであります。ここへ集まっておられる方はそれぞれまた「類は類を招ぶ」
という法則によって集まっておられるのでありますから、ここにおられる皆さんの心はよ
く調和している、そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという
懐かしい感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが集ま
っていられるからであります。

よくお嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、こういって
自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っているようなお嫁さんが往々に
してありますけれども、「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が
姑と類似の心をもっていたということに気がついて、自然に懺悔の心が起こってきて、
ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、本当に申しわけなかったという
ことに気がつくのであります。

                       つづく

2956a hope:2014/06/22(日) 14:52:30 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2950つづき

○【谷口倫理学の考え方】
<<ところが、谷口倫理学ではそう考えないのであって、人間の内部から、「これをなすべし」という「善をなせ」という至上命令がでてくる場合に、その善を実行した時に、自然界の法則にふれ、自然界の法則では病気になるはずのことをしても、病気になるというようなそんなことはないというのです。>>p154 11行目〜

<<谷口倫理学では、善の法則は自然界の法則を蹂躙(じゅうりん)してしまうという説き方をしたのです。かく説かれてのみ善の絶対権威というものが確立するのです。>>p155 4行目〜


○ 善
・・・すでに本当にあるもの
・・・存在の本体であり、自分の本体 ⇒ 現せば現すだけ自分が殖える
・・・神から出たいのち(自分)は善なるほかはない


○善の絶対権威(善の法則)
・・・善の絶対自由を確保するため、自然界の法則(不可不の法則)を蹂躙(ふみにじ)りうる権威


△Qなぜ、自然界の法則(不可不の法則)が善の法則に打ち勝つごとき状態を生ずるか?

A<<われわれ人間が心の世界に自然の法則を認めて、甘んじて自然の法則は善の法則よりも強いものであると認めているから、それでその法則に勝手に負けているのです。>>p156 後ろから3行目〜


○Q「自然界の法則(不可不の法則)」はなぜ「善の法則」よりも弱いのか?

A<<自然界の法則とは、※業の法則であり、善の法則とは「本当にあるもの」の法則であるからです。>>p157 1行目〜

※業の法則
・・・生命がある時に活動したその時のレコードで、そのレコードをかけている限りはいつでも同じような音を立てる
・・・生命がある時期に宇宙のある時期にそういう波動を起こして印象を作って、その印象に刻まれた痕跡(自然科学の法則)

例1) 酸素と水素を結合したら水になる
例2) 冷たい水に触れれば風邪を引く


○人格の自由
・・・そのレコードは人間の生命が刻んだ以上、生命がまたそのレコードを破る力、業を破壊する力が人間になければならない
・・・足跡がいくらついているからとてわれわれはその足跡の上ばかりを歩かなければならないということはない
・・・自己の内部から「これをなせ」と迫ってくる「当為」そのまま実行して、その実行が砕けてしまわないということ


○人格の自由の確立 ⇒ 倫理の成立 ⇒ 道徳の権威の確保
・・・人格の自由のない所に人倫はない

2957a hope:2014/06/22(日) 14:54:59 ID:cEpBaIdo

>>2956 a hope所感)

ここから「谷口倫理学」が説かれていますが、正直、これはかなり常識破りな倫理学だと思うので、
一般的にはすんなりとは受け入れがたい「教え」なのではないかと感じています。

なぜなら、「自然界の法則」はわたしたち現象人間にとってみれば、ごくあたりまえの常識で、
わたしたちは普段からその法則にのって生活しているのに、「谷口倫理学」はそれを頭から否定してしまっているのですから・・・

ですから、「真の『善』が何たるか」をちゃんと理解していない状態(生悟り状態)では、
この「谷口倫理学」の言わんとしていることも正しく理解できず、曲解してしまう恐れもあると思うので、
慎重にお勉強を続けていきたいです。

2958SAKURA:2014/06/22(日) 18:31:01 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
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>>2933>>2940の投稿の続きです….。

>>2945 「トキ様」……お返事ありがとうございます。

※その中からの一部抜粋なのです。…が?
>>自分なりの実相円満唱行を実践して、それが効果があれば掲示板をご覧になっている皆様に、
その効果のほどを知らせるのは、それも伝道だと感じます。<< (トキ様の投稿文より…)

■確かに、そう思います。…が?ここ【2チャンネル】の方達の「上げ足論」には、どのような
真実でも〜〜〜果たして「理解度」となりますと?どうなんでしょうか??

今までの私は『おまじないのような感じ?』でした。…が??今回は、
【霊・界・通・信】から〜〜〜本当に、まず【心・の・浄・化・作・用】が大事なんですョネ!!

いずれ?『旅立つ世界=死後の世界』…私もこの世界に行きます時〜〜〜は??さて!
どのような「展・開」にと?思ってしまうので〜〜〜す。
何故なら【ステッド氏】が、生前の時に、出会った書物から…既に本人は、この「霊界の意味」が
判りかけて…まず!【信じる事…信じて其処からの活動事】で〜〜〜す。
いざ!『死後の世界=霊界』にいきますと〜〜〜死後は?本当に!その人の書物が正しいとの「判・断」
しかも信じたおかげで、無事に『霊界の世界』にスムーズにとけこんで行けた事と。。。

■これは?信じる!信じない!は〜〜〜その後に起きる問題なのですかと、更には?
『信仰も正しい理念が無くては…』と思うのです。
そうしませんと〜〜〜その後の形として…自分自身で刈り取る事になるようです。。。と!!

このようにいろいろな「文・章」にて、いろいろなる観点から教えてくださっていますし、
私も今までの「心の心境」が〜〜〜あの世では〜〜〜アケスケですから、
表面上は「イエス!」と云っても〜〜〜心が「ノ―!」ではと…このように、まずは、今の気がついた
時点から〜〜〜訓練中なのです。

■例えば…
まず「心の浄化作用訓練」は、【神・想・観】が一番と思うのです。…が?
時として?出来ない状況=環境…と云いましょうか??
具体的には?電車の中で(どうしても時間制限の時)…そこに「関わりたくない人」が乗車して
来たと致します。

その時は〜〜〜これは「神様」へ身近に祈る【実・相】をみつめ…【祈る事】が先決だとは思うのです。
つまり「心の眼で見つめて行きます。」心静かに〜〜〜深層部まで〜〜〜

ところが?その場では?〜〜〜どうしても「ネガティブ感情」が〜〜〜先立ってしまいます時、
簡単な「瞑・想・法」。。。それは〜♫ 瞼を閉じて【実・相】を見つめると同時に「実相円満完全」と、
唱えて行きますと、不思議なモノで〜〜〜本当に【いやな現象が消えて行く】ので〜〜〜す。

そして、更に!心が〜〜〜スカッと!さわやか!になり、そうこうしていく内に、気が附きますと
モウ!何もかも〜〜〜「神様」におまかせム―ドに、心境が変化しているのですから、
本当に「亡き母」の世代の【祈・り】は簡単ですし、更にいつでも?どこでも?唱える簡単な呪文
なのですョネ〜〜♫

■このように、公の場にて、人に公表するようなモノではなく、当たり前の【生長の家】の信者なら
すこぶる当たり前の事ではないのでしょうかと?思う次第なのです。…が??

「トキ様」は如何お考えでしょうかしら〜〜〜ン!!     再合掌

2959SAKURA:2014/06/22(日) 18:32:37 ID:TJDm.2/U
「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載・引用編】
>>2809>>2812>>2820>>2821>>2827>>2839>>2840>>2842>>2848>>2853>>2856>>2860>>2866>>2867
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>>2933>>2940>>2946の投稿の続きです….。

■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著  昭和46年初版発行  

*========*【 心を清く空虚にせよ ―その3【 転載編 ―】*=======*=======*

わたしが服部さん宅の誌友会へ行きました時に、弘ちゃんという五、六歳の子供がいて
どこかの柱で手を打った。誌友の一人が痛いでしょうといったら、「痛いというから痛い
のだ、痛いことないよ。僕は神の子だから痛いことなんかないよ」といって威張っている
のです。子供というものは心に塵埃がないから実に素直だ!この子供の親は熱心な生長
の家の誌友だったから、親の時々言う言葉をそのままなんの疑いもなく受け入れて自分は
神の子であると信じきっている。痛いの?といえば心が痛いのであって実際の人間は痛
くないとちゃんと知っている。

これは心の清き人にしてはじめて可能のことである。

それで、われわれは『生命の実相』を読んでも、この心の清きものになって『生命の実相』を
読まなければならないのです。『生命の実相』を読んでもすぐに病気がなおらないような人は、
きっとこの心の清くない人です――心が清くないというても、泥棒するとかそういうふうな
意味ではないのです。――知恵や学問の塵埃でいっぱいに詰まっている、そういう人ほど
かえって生命の実相を素直に受け容れることができないので――

まず一遍いっさいの知恵学問を捨て『生命の実相』を読まなくてはならない。いっさい人知を
否定してしまうのじゃありませんけれども、一度は傍のバケツへ知恵の水を移し代えておいて、
心のコップの中に水を注ぐように入れるわけです。コップの中へ濁った液体を入れておいて、
その上からさらに清い水を容れてやろうと思ってもなかなか入りにくいのであります。

それで一度は心のコップを空けてしまっておいて、空虚にしておいて入れる。この虚無の心、
虚無のこの心が「清きもの」であって、嘘を吐かぬとかそういうふうなことじゃないのであり
ます。本当にこの虚無の心になった時に初めて神を観ることができるというわけであります。

                         つづく

PS:「トキ様」 へ  「観覧者の皆様」へ

■【虚・無…】〜〜〜??やはり「実相円満行」も、やはり!空っぽの心!!何ですョネ!!
モット!モット!モット!『心を円満…』にして行かないといけないでしょう〜〜〜☆…と
また!また!一つの宿・題が〜〜〜出来ましたのです〜〜〜ョネ!!

                          再合掌

2965a hope:2014/06/24(火) 08:20:38 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2956つづき

○主観的の世界における人格の自由
・・・時間空間を超越した絶対存在(道)と一つになり絶対価値を生きること
・・・完全円満な生命の実相の悟り(a hope解釈)

○客観的世界における人格の自由
・・・この世の道徳は形に客観的に現われて成り立つ
・・・道徳の勝利を確保するためには、「当為」の実現力の前には、自然界の法則は無でなければならない(谷口倫理学の主張)
・・・実相が現象世界に顕現するとき(善の実行がなされるとき)、不都合なことは一切起きずすべてがうまくいく(a hope解釈)



○【主客両面貫いての人格の自由とは】

<<本当の人間は人格の絶対自由を持っているのである。これが人間の実相なのです。人間の実相は自由である。

無限の自由を与えられていて、何事でもこれをなそうとすればできないということは一つもないのであります。

もしできないものが一つでもあったら無限の自由ではないので、無限の自由というものはできないというものが一つもないということです。

ですから、本当の自分――善なる自分が救(たす)けたいと思ったら救(たす)けられるし、氷のような冷たい水の中に入っても、心でこうして助けたも自分は決して風邪を引かない、肺炎にもならないと信じたら、ちゃんとそのとおりになるのであって、必ずしも物質界の法則に縛られるものではない、かくてこそ、善の権威が主客両面に貫いて確保せられるのであります。>>p160 後から7行目〜

2966a hope:2014/06/24(火) 08:24:33 ID:cEpBaIdo

>>2965 a hope所感)

ここにも、すごく深い真理が述べられていると感じています。

要するに、「生命の實相」の悟りを開いただけの状態は主観的であり、
その悟りを現象世界に表現すると客観的になるということなのではないかとわたしは解釈しました。。

ここの部分の小見出しは『道徳は主客貫いての人格の自由を要求する』ですが、
「主観貫いての人格の自由」とは、つまり、
本当に「生命の實相」を悟ったのであれば、その人格の自由は内面的な状態だけにとどまらず、
客観世界においても自由自在であり、自然界の法則に縛られることはないということになるのだと思います。

2967a hope:2014/06/25(水) 08:56:51 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

>>2965つづき

△自責感
・・・自己内在の価値を表現しない時、「ああ自分はいやらしい行為をした」というはずかしい感じ


<<ここに飢饉が起こったとしまして、わずかの食べ物しかないと仮にいたしますその食べ物を遠慮して自分が食べずにいたら自分が飢えて死ぬかもしれない。

しかし他の人がまさに飢えんとしているという場合に、人に食わせないで自分がくって自分が助かるということは、なんだか軽蔑されるべき値打のない行為をしているというような非難が自分の内心から出てくるのです。

人が飢えているのに、自分が横取りして食べるとは――なんという汚い、値打のないことをする自分であろうという非難が自分の内部から湧き上がってくるのです。

この内部よりの非難はどうして起こるかというと、自分の本もの(本当にあるもの)値打のあるものが出ていないから、値打なく感ずるのであります。

自分の本もの(本当にあるもの)が出たら必ず値打があるから、必ず価値感の喜びを感ずるのであります。>>p161 4行目〜

2968a hope:2014/06/25(水) 08:58:38 ID:cEpBaIdo

>>2967つづき

○【自然界の法則による考え方】
飢饉の時に食物を他の人に食べさせれば、食べた人は助かるが、自分は何も食べなかったら死んでしまう。つまりは、人を救けて善いことをしながら、自分はかえって死んでしまうような結果になる


○【谷口倫理学による考え方】
人間は「本当にあるもの」(善)が顕われたら何も食べなくても死なないし、また死ぬまでに適当な食物が与えられることを実証して自然界の法則を破ってしまう



<<谷口倫理学の前には不可不の法則は零(ゼロ)になってしまうのです。「本当にあるもの」が出たら、「本当にあるものは」自主独立の存在でありますから、「人間」に飯(めし)をプラスしなければ死ぬということはないのであります。

飯をつけ加えないでも人間は生きられるということが確立してこそ、はじめて人格の自由というものが出てくるのです。

また、飯を自分の外界であると見ずに、自己の無限供給性の反影として、自然に必要に応じて現われるものと見てこそ人格の自由が確保されるのです。

人を救けて、心だけで満足して自分が死んでしまうのだったら、どこに人格の自由があるかということになるのです。

本当の自分がなすべしと命令することをしてそれで飢えて死んでしまったら、それはたんなる主観の満足であって、主客両面貫いて人格の自由を得たというわけにゆかないことになるのです。

そこで人に物を恵んで自分が飢えて死ぬなんていうことはない、かえって与えれば与えるほど殖えるのであるというのが人格の絶対自由を主張する谷口倫理学なのであります。>>p162 9行目〜

2969a hope:2014/06/26(木) 09:41:44 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「生命の實相」第13巻 p163〜

本当の価値を発揮したら供給無限が備わる

皆さんはすでに上述のことを体験しておられることと思いますが、本当に「本物の自分」を発揮したときに、欲するものが自然に出てくるという一つの不思議なことが起こってくるのです。

「本当にあるもの」とは「本当の自分」です。

「本当の自分」とは本当の値打ちです。

本当の自分、本当にあるもの、本当の値打ちというものを発揮した時に、その本当の値打ちを維持するに必要ないっさいのものが備わるのです。

なぜなら本当にあるものとは神であり、いっさいの供給の本源なのですから、本当にあるものが発揮されたときいっさいのものが整うのは当然のことです。

2970a hope:2014/06/26(木) 09:42:51 ID:cEpBaIdo
>>2969 a hope まとめと所感)

「本当にあるもの」=「本当の自分」=「本当の値打ち」=「神」 →(発揮)→ いっさいのものが整う


ところで、「本当でないもの」とは、「ニセモノ」なわけですから、「ホンモノ」だけが発揮されて世の中から「ニセモノ」が無くなれば、
完全円満の実相世界が顕現するのは当然かもしれませんね。

ですが谷口倫理学では、その「本当にあるもの」とは「神」だというんですから、それを発揮するというのは、
なかなか難しいことなのかもしれません。

2971a hope:2014/06/27(金) 08:02:02 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○【今までの倫理学】p165 9行目〜
・・・人間は善をなしても現象界では滅びることがあるかもしれない
・・・「朝(あした)に道を聴かば夕(ゆうべ)に死すとも可(か)なり」であるから、心で満足して莞爾(かんじ・にっこり)して死ね――というようにおおむね説かれている


○【谷口倫理学】p165 11行目〜
・・・善と福の完全な一致
・・・もしわれわれが不幸であるならば、まだわれわれの善(本当にあるもの――いっさい備われるもの)の出し方がたりないからである
・・・善を本当に発揮すれば物質界まで動いてくる
・・・人格の自由を発揮する邪魔になるような法則(自然界の法則・不可不の法則・業の法則)は、われわれは自分の心の力で自由に破棄することができる


例)<<たとえば、ここに「不可不」の法則、すなわち自然界の法則の上からいえば、胃癌にかかった場合は、切開手術するほかは――「死せざるべからず」「死ぬよりほかにありようがない」と定められている。

ところが、胃癌にかかった人が、もし自分の「本当にあるもの」を出す、「本当の自分」を出す、徹底的に和解と感謝の心を出すと、自然界の法則が打ち破られて、今まで「不可不」の法則が縛っていたところの「胃癌にかかれば死ぬ」という「不可不」の命令が破壊されてしまうのであります。

胃癌などという価値なきものを恐れる人がありますが、胃癌が「価値なきもの」であるという一事だけでも、その非実在を証明しているのでありますら、価値なきものは「価値あるもの」を出したら消えるに定(き)まっているのですから、恐れる必要はないのであります。p166 2行目〜

2972a hope:2014/06/27(金) 08:05:34 ID:cEpBaIdo

>>2971a hope 所感)

わたしはこの 例)の聖典からの引用文章中に、理屈を超えてとても単純明快に、
誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

その答えは・・・


>>徹底的に和解と感謝の心を出す<<


これですね!!

2973曳馬野:2014/06/27(金) 09:06:54 ID:I/wU8psA

>>2972

徹底的に和解と感謝の心を出す

誰でもそれさえできれば無条件で救われて、幸せになれる方法が書かれていると思いました。

**********************************

貴女が見た人聞いた人で、出来た方はいましたか?

和解せねばの心には感謝が足りず、本当に感謝の心のところには和解しなくてはと云う思いは無いのではありませんか?

2974a hope:2014/06/27(金) 09:31:22 ID:cEpBaIdo

>>2973 曳馬野さま

いつもわたしの投稿に素晴らしいご反応をいただきありがとうございます。

こちらの大熊先生のブログをご覧ください↓

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/11926692.html

生長の家の元講師である大熊先生のご指導で、一人の男性がご両親に感謝され、和解され実際に救われています。
これはつい最近の話です。

また、宇治別格本山では今でもたくさんの方々が、楠本加美野先生などの生長の家の講師の先生方のご指導により、
感謝と和解の心を出され救われています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

2975曳馬野:2014/06/27(金) 09:57:47 ID:I/wU8psA
>>2974

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、本来の生長の家の使命なのではないかとだとわたしは思っています。

***********************************

そのように考えるのが普通でありますが、心で環境を変えることのできる強い心の持ち主ばかりでないので、環境を整えることにより心の変化を助けるという、
意味から生長の家は政治の世界に出たのではありませんか?つまり一人一人を救っていこうと云うのでは埒が明かないとして、政治により悩むことの少ない
世界を築き、地上天国を築こうとしたのが過っての政治に出た時の生長の家ではなかったでしょうか?

優生保護法などと云うものが出来てから、堕胎天国に成ったので、かっては堕胎防止法によりきつく堕胎は禁止されていました。
いかなる理由であれ堕胎は厳罰に処し、手を貸した医師は厳罰に処す法律を作る政治の世界から赤ちゃんを守ることと、大熊さんのように一人一人を助けて
いく生き方とは両方なければいけませんね。

然し生長の家出現すれど社会はますます個人の尊厳を優先する民主主義とやらのせいか、戦前より酷いものに成ってはいませんでしょうか?

2976a hope:2014/06/27(金) 09:58:15 ID:cEpBaIdo
>>2974訂正

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないかとだと】わたしは思っています。

そのような指導をして個人救済をすることで人類光明化していくのが、
本来の生長の家の【使命なのではないか】とわたしは思っています。

2977a hope:2014/06/27(金) 10:12:38 ID:cEpBaIdo

>>2975 曳馬野さま

web誌友会板にお返事させていただきますね。

2980snapback hats for cheap:2014/06/29(日) 06:57:07 ID:???
Hello there, just became aware of your blog through Google, and found that it is really informative. I am going to watch out for brussels. I’ll be grateful if you continue this in future. A lot of people will be benefited from your writing. Cheers!
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2981a hope:2014/06/30(月) 00:37:17 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


○「善」とはなにか
・・・「本当にあるもの」の実現または表現
・・・一定律の画一的な形ではない
・・・「人格の自由」がなければ顕現しない実相・神性(a hope解釈)


△「善」とはいえない行為とは
・・・形は「善」に見えるようでも、「本当にある善」が内から表現されていない行為

例1)
<<子供が寒中水に溺れているのを救けるという行為をした場合に、その水に溺れた子供を寒中より救いあげたら、褒美の金が千円貰えるというので、その褒美の金欲しさにその子供を救けたとしますと、その一つの行いは、なんの利益も考えないで自分の生命(いのち)まで投げ出して救けた献身的な救助と、形の上から見ると皆(みな)同じことですが、一方は「千円儲けよう」という意図でしたから善行とはいえないのです。

生命(いのち)を賭けて人を救けたにしましても「千円欲しい」のが目的では、千円で生命(いのち)を売っているのでありまして別に善ということはいえないのであります。>> P167 9行目〜

例2)
<<囚人は朝早く起きるが、それは厭でも応でも起きなかったら看守にひっぱたかれる。強制的な機械的な力で、朝早く叩き起こされ、便所の掃除をさせられ、またその他の与えられたいろいろの苦役や、生産的な世の中のためになる仕事をする。

そして彼らの労役によって作られた生産品は、安い値段で買われて喜ばれるかもしれないけれども、その囚人は自発的にその行為をしたのではないのであって、強制力という機械的力に駆使されて、厭でも応でも働くしかなかったので、働いたのですから、囚人のかくのごとくしてできた行為は善ではなくして、機械的行為であります。>>p168 7行目〜



○「善行」とは
・・・自分の内心の要求から進んでするもの
・・・自由というものが根本条件になっている

(つづく)

2982a hope:2014/06/30(月) 00:39:44 ID:cEpBaIdo
>>2981つづき)

○善なる子供を育てる子育て

<<本当に善なる子供を育てるには、その子供を本当に自由にしておかなければならないのです。

本当に自由にしておけば、その子供が本当に自発的に内部から善を催してくるのであります。

それは人間の実相は善であり、人格の自由にまかせておいたとき、自然に形の世界にまで「善」が発現してくることになるのであります。>>p169 10行目〜



△「人格の自由」を認めない子育て

<<親があまり規則ずくめにして、厭でも応でもこうしなければなぐるぞというふうに定めまして、その子供が委縮して、我儘をいう余地がなく、外から見ると少しも悪いことをしない、行儀の良い子供ができ上がったとしましても、その子供は善人ではないのであります。

その子供は少しも自由が許されていないから善人ではない、善なる行為をいまだかつて一つもしたことがないということになるのであります。>> p169 1行目〜


<<今までの教育は外部から型にはめて、太鼓饅頭でも焼くような形式に、厭でも応でも一定の方に嵌めるようにしていたのであります。

太鼓饅頭はいかに完全円満で形がマン丸くとも善ではないのであります。あれは善ではなくて、形が正しいというのであります。

なぜなら、あれは外部から丸い容器の中にいれて蓋をして焼いたから、とにかく丸くなるより仕方ない――人格の自由がないのです。

人格の自由がなくて形ばかり正しい人間は太鼓饅頭式人間であって、善人ではないのであります。>>p169 後ろから3行目〜


○本来善とは
・・・人間の本性(本当にある人間)は神から出たものである
・・・本当に自由にすれば自然法爾(じねんほうに)に善がでてくる(谷口教育学の根本)


△「悪」とはなにか

<<自由に対する束縛、隠蔽、あるいは束縛および隠蔽に対する反抗が、「悪」という姿になってでてくるのであります。

家庭に不良児童が出る――そこには必ず自由に対する束縛、隠蔽というものがあるのであります。>> p170 後から8行目〜

2983a hope:2014/06/30(月) 00:42:13 ID:cEpBaIdo

>>2981 >>2982 a hope所感)

ここからは、「谷口倫理学」から「谷口教育学」に話が展開しています。
わたしは母親として実際に子供を育てていて、実際に子供たちに激しく反抗されることが多々ありますが、
やはり、そのようなときには子供の自由な行動を親の勝手な都合で束縛したりしている場合がほとんどなので、ここのところの内容は特に身に染みて納得できます。

2986a hope:2014/07/02(水) 00:04:22 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」p170 後から3行目〜

○「生長の家」の倫理学  
・・・神一元の実在を説く完全なる唯神實相論
・・・自由自在の神のみが実在であるから、物質的不自由はない

 → 物質はない【物質の否定】


○「生長の家」の「物質無」「肉体無」の哲学  
・・・物質を否定し、肉体を否定したとき、かえって否定の極の肯定となる
・・・物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
・・・肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 【※棄揚(きよう)】

→ 物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】

※棄揚(きよう)・・・あるものをそのものとしては否定しながら、かえっていっそう高い次元にこれを生かすこと。止揚。アウフヘーベン。


<<ここに「生長の家」は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることがわかるのであります。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定のための否定である。

かくのごとくして今まで「物質」と認められていたところのものも神力の表現であると大きく再肯定するのが「生長の家」倫理学の特長であります。>> p172 後1行目〜

2987a hope:2014/07/02(水) 00:08:59 ID:cEpBaIdo

>>2986 a hope所感)

ここには、ちょっと読んだだけでは見過ごしてしまいそうな、とても重要な真理が書かれていると思いました。

「生長の家の教え」は「物質なし」であると言われていますが、ここには「物質なし」は単なる物質の「否定」ではないと説かれています。

それは、「大なる肯定」のための否定であると・・・

物質はいっそう高きものの表現であると・・・

肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現であると・・・


わたしは自分がこの不完全な現象世界に肉体を持って生まれてきたことを、以前はとても恨んでいましたが、
でも、そんなわたしの肉体も、本当は神の生命(いのち)の自己実現なのですね。

そう思うと、不完全に見える自分の肉体もなんだかすごく愛せそうな気がしてきます。



ところで、この「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」という一連の行為はもしや・・・生長の家の「観の360度転回」???

2989うのはな:2014/07/02(水) 20:32:38 ID:/wuDNhkM
      火神誕生

 かつて出版された『神の真義とその理解』という本の中で、何故生長の家の総本山に龍宮住吉本宮が御斎祀されるに到ったかという本義を、
谷口雅春先生は諄々としてお説きになった。ここに明らかにされているように、生長の家では心に宇宙大生命を祭るのである。
そしてその幽の幽なる神として天之御中主神をお祭りし、幽なる神として天照皇大神をお祭りする。

 幽とは現象の奥の世界のことであるから、これらは幽斎といって、心の中でお祭りするだけだ。
さらにその現人神としての天皇陛下も、心の中だけで礼拝申し上げるのであるから、どこかに神社を建立してお祭りするということはない。
つまりこれを幽斎と申し上げる。

 ところでこの天之御中主神は、宇宙大生命であり、大宇宙の本源神であるから、古事記の冒頭には、「天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神」と
書かれている。そしてさらに、「次に高御産巣日神、次に神産巣日神。此の三柱の神は、並独神成り坐して、身を隠したまいき」とある。
 つまりこの三神は絶対神であり、幽の幽なる神様だということである。しかしこれは絶対神が三つあるという意味ではなく、天之御中主神が陽の原理(高御巣日神)と陰の原理(神産巣日神)とに
分極して働き給うということなのである。

 しかもその陰陽の二大原理がさらに人格的に現われ出られて、「次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神」となるのである。
妹は女性につける接頭語であるから、これは伊邪那岐神が男神、伊邪那美神が女性神ということである。さて古事記では、この二柱の神が国生みをなさって日本国を次々に生んで行かれる。(もっともその前に淤能碁呂島、
つまり太陽系又は地球全体を生み給うのだが)こうして大八嶋国ができ上る。
さらに小さな島々を六つ(六嶋)生み給う。この国生みをおえられてから、さらに神々を生み給うのである。

 これらの神々は全て天然現象を神の名で表わし、さらに野山の生物から生理現象までをも表わしている。がしかしこのような御働きの過程において、伊邪那美神は火の神を産み給うたのがもとで、ついにおなくなりになるのである。
さて又一面この火の神は戦争のための兵器であり、爆発物でもあるから、この物語りは遂に大戦争が勃発して、日本中が大戦火にみまわれる象徴でもある。こうして日本の生みの母なる伊邪那美神のみほと(生産工場)がやけただれ、ついに
生産力ががたおちになって日本が敗戦するということが、伊邪那美神の死によって象徴されていたのであった。

   『生長の家總本山 祭祀作法教範』 P61-62 谷口清超先生

2990うのはな:2014/07/02(水) 20:43:49 ID:rr3kpM4o

 『神の真義とその理解』大聖師 谷口雅春先生 著
 http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=968

2991ニューバランス 996:2014/07/02(水) 22:58:07 ID:???
You may discover the child whishes to carry on carrying out supercross BMX exceeding the speed limit; on the flip side, theres a pretty good possibility they will all the same carryon with regards to hope of growing to be a sport bike racing.
ニューバランス 996 http://www.jeanleverthood.com/

2992a hope:2014/07/03(木) 11:17:33 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆


「邁進日本の心と力」
第1篇「日本精神の倫理」
第三章 『物質の否定・棄揚・神国の肯定』より

(以下、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章にない部分、
つまり『物質の否定・棄揚・神国の肯定』にのみ掲載されている部分を現代文に直して謹写させていただきます。 合掌。)

p43 後から2行目〜

日本の国土は物質で出来ているのに、物質は無いと云うのは国土の否定となって日本の国体に適しない哲学であると批評するが如き愚かしき妄論は実在と表現との区別を知らざる哲学的無知から来るのである。

もし諸君が日本の国が物質で出来ていることを主張するならば、諸君は日本の国が『神の国』であることを否定して「物質の国」であることを主張することになるのではないか。

そして今日から日本の国を、『神国』と呼ばずして『物国』と云わねばならないことになるであろう。

およそ為政者はこの点について大いに考えなければならないのである。

『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。

『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。

物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。

愛国者であるように見える者のなかに、唯物論の手先があり、露西亜コミンテルンの諜者(まわしもの)があり、『日本神国』を主張する論者の言葉尻を捉えてこれを陥穽(かんせい)に落とし入れ、日本国体に適せざる論者として、却ってこれを弾圧せしめ、日本が神国であると云う観念を抜き去って、『日本は物国』であると云う観念を植え付けるように努力しているコミンテルンの諜者(まわしもの)があるかも知れないのである。かかる一団の者に使嗾(しそう)せられて、本当の日本神国論者を却って非難、圧迫するがごとしきことがあれば、それは由々しき国家の大事である。

(謹写 つづく)

2993a hope:2014/07/03(木) 11:19:36 ID:cEpBaIdo

>>2992 a hope 所感)

わたしは、先日、web誌友会のお勉強のめに、生命の實相第13巻 p170 の『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の文章を拝読していて、なんとなく違和感を覚えました。

その違和感は、「ここにはとても大切な真理が述べられていそうなのに、具体的な事例が少なく抽象論で終わっていて、理解しにくいな」というものでした。

ですが、今回、そのオリジナルと思われる文章を「邁進日本の心と力」の中に発見し、
そのわたしの違和感は正しい物であったと確信できました。

その部分は、当時の日本人が日本を「神国」と呼んでいたような時代に書かれただけあって、
雅春先生が今回の真理である「実相の肯定」の具体例としてあげられている内容が、
「神国の肯定」になってしまっているのだと感じました。

ですが、今現在の日本で国民に、「あなたは日本を神国だと信じていますか?」という質問をしたら、
いったい何パーセントの人が「ハイ」と答えるのでしょうか?

ちなみに1年前のわたしの答えは、確実に「いいえ」でした。

そして、今現在でも「勉強不足でよくわかりません。」です。


それくらいの、自覚しかない国民が多く暮らす現代の日本で、この雅春先生の御文章は、残念ですが一般的には受け入れがたいものなのではないかと思います。

ですがその御文章の内容は、真理だと思うので、わたしにはとても理解しやすいです。

<<『物質はある』と云う論者は『実在』と『表現』とを混同しているので、『表現』のことを、『ある』と間違えているのである。
『本当にある』が、それが『表現』であるかは、それが変化しない存在であるか、変化無常の相であるかを見ていれば分かるのである。
物質は変化無常のものであるから、吾々は『物質は実在(ある)のではない』と云い、それは単に表現(あらわれ)であると云うのである。>>


と文中にありますが、
真理「本当にあるもの」つまり「実相」は普遍であるが、「表現」は時代によって変化するものであるという実際の具体例として、
雅春先生ご自身が示して下さった、この事例(聖典からの戦前の状況に関連した「愛国」「天皇」に関する御文章の削除)を拝見して、わたしはとても納得でしました。

2994a hope:2014/07/04(金) 00:22:32 ID:cEpBaIdo
>>2992 つづき)

「邁進日本の心と力」p45 2行目〜

二 

『物質が本来無である』ことを生長の家が説くのが、日本国体に適しないのであるならば、最近著しく発達せる新興物理学は日本国体に適しないから、大学の講座から放逐(ほうちく)しなければならなくなるだろう。

日本評論三月号にも、吉岡氏は物質は波動であって、その波動も、水とか空気とか云う如き、波動すべき何物かがあって波動するのではなくて、かかる波動の媒体などはなく何物もなくしてただ波動が顕れる、その波動の先端が電子となる、と物質無のことを説いている。

科学が物質無を説くのに哲学や宗教が無を説いたら日本国体に適しないなどと考えるのは愚かしき極みである。

2995a hope:2014/07/04(金) 00:24:14 ID:cEpBaIdo
(>>2994 つづき)

科学が、哲学が、宗教が、物質無を説いてくれることは日本神国の国体明徴によくないどころか、物質本来無であってそれがただ本体(実在)の『表現』であることが明徴になってのみ国体の明徴が期し得るのである。

もし物質が実在であると説くならば日本神国観念はいかにして徹底し得るであろうか。

畏(かしこ)くも高天原よりの天孫降臨を唯物論者はいかに説明するだろうか。

それが『物』の世界から、『物』の世界への降臨であるならば、地上の一地域から一地域への移住と云うことになって、天孫降臨とは遊牧民族とか漂着民族とかと云うことを類推せしむることになり、何ら日本国体に神聖性を与えることにならないのである。

物の世界をひとたびは否定し更にこれを棄揚(きよう)したときに初めて 天孫降臨の神聖さが判り、日本国体の尊厳が判るのである。

2996a hope:2014/07/04(金) 00:25:09 ID:cEpBaIdo
>>2995 つづき)

日本国が神国であると云うには三つの要素が必要なのである。

(一) その中心総攬者(そうらんしゃ)であらせられる すめらみことが神でましますこと。

(二) その国土が物質ではなく神の表現であること。(物質、物質に非ず、これを通称して物質と呼ぶに過ぎないことは最近の物理学の証明するところである。)


(三) その国民がすべて神の子の表現であって、親神の御表現にまします すめらみことの中心に帰一していること、

この三つの要素が、神一元に終始することによって、始めて完全に『神国』と称し得て、そこに『物国』の影の止(とど)めないことになるのである。

2997a hope:2014/07/04(金) 00:26:15 ID:cEpBaIdo
>>2996 つづき)

生長の家倫理学では高天原とは物質的国土の一地点とは認めないのである。

もし物質的国土の一地点だと認めれば、日本民族は移住民族だとなる。

吾々は高天原を無量智、無量寿、無量光明遍照の実相世界であると認めるのである。

天皇降臨とは すめらみことが高天原なる実在の世界から現象の世界への御表現を完成し給ひしを指して云うのである。

即ち 天照大神の久遠金剛不壊実在の皇位が現象世界へ降臨し給うたその御表現が歴代の 天皇であらせられるのである。

だから歴代の 天皇は畏(かしこ)くも久遠皇位の御表現であらせられ給うて、御表現としては御肉体を現(げん)じ給う現人神(あらひとがみ・あらわれの人の神)であらせられ、生じまた滅し給うように見えまつるのは吾々の五官に映ずる御表現であらせられるのみであって、御本体は久遠永劫金剛不壊の天照大神の御本体であらせられるのである。

だから歴代の 天皇が崩御ましますとも、天皇の御本体は永遠に崩御ましますことなく、崩御の瞬間に次なる御践祚(せんそ)があって、久遠皇位の御表現に些(いささ)かの間隙(かんげき)もなく、御表現身は歴代御代(おんかわ)り遊ばすとも御本体身は朽ちず、久遠存在であらせられ給うのである。

(謹写つづく)

2998a hope:2014/07/04(金) 00:28:36 ID:cEpBaIdo

>>2994>>2997 a hope 所感)

ここに、「生長の家」が日本の国体や天皇をどうとらえているかが述べられていて、とても興味深いです。
この後、さらに、詳しい説明がつづきます。

2999a hope:2014/07/05(土) 00:47:26 ID:cEpBaIdo

(>>2997 つづき)

「邁進日本の心と力」p47〜



もし、唯物論者の云うが如く、御表現身なる玉體(ぎょくたい)を以て御表現身であると見奉(たてまつ)らわずして、天皇の御本体そのものを死滅の法則の中にある肉体であると認めることになれば、天皇は永遠の御存在ではなく、崩御と共に御本体の朽ち滅ぶべき御存在であらせられると云うことになり、たとえ崩御の瞬間に践祚(せんそ)のことあらせられるとも、ひとたびは滅して、皇嗣子(こうしし)が、御位(みくらい)につき給うことになるから、天皇がひとたびは滅し給うことを予想するものである。

畏れ多くも、天皇のひとたびは滅して次なる 天皇の御登位を予想することは、皇位の中断を予想せしめることになる惧(おそ)れがあるのである。

すべて滅して、次が代わると云う事は、終末と更新とを予想せしむるものであって、終末と更新とがある以上、それがどんなに瞬間的であっても中断を予想せしむるものである。

しかも仲哀天皇崩御ましまして、応神天皇未だ御生誕遊ばされざるその間の期間の如きは、天皇の御本体を御肉体であると在来の如く観じ奉る限りに於いて、皇位が中断したと云う事になり、萬世一系の名は空しくなるのである。

生長の家の云うが如く、天皇の御本体を久遠常住の霊的実在なりと観奉り、その御表現身が御肉体であると観奉れば、御表現神が暫(しば)し崩御ましまして、次なる御表現身の御位につき給うまでの期間が、暫時あろうとも、皇位の中断と云うことが断じてないことが判り、皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。

滅なく久遠常住の存在のみが中断なきものである。

唯物論者の云うが如く、 天皇の御本体を生滅ある御肉体であると観奉る限り、 天皇が久遠不滅の存在にましますことを否定することになり、天皇に対して由々しき不敬を犯すことになるのである。

国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。

3000a hope:2014/07/05(土) 00:48:14 ID:cEpBaIdo
>>2999 a hope 所感)

ここでは、「天皇の御本体は生滅ある御肉体ではまく、久遠不滅の存在である」理由がとても丁寧に説明されていて、
戦後教育にどっぷりつかってしまっているわたしにもその重大性が伝わってきます。


そして

<<皇位の萬世一系は、ただ、生長の家倫理学によってのみ明らかとなる。>>
<<国体精神を明徴にならしめるもの生長の家倫理学に及ぶものはないのだ。>>

と、生長の家倫理学は、「皇位の萬世一系」や「国体精神」を明らかにすると述べられています。


ですが、一方、「生命の実相」第13巻 (p171〜)の方には、「天皇」や「国体」に関する記述は一切なく、
「人間の肉体(物質)」を例にあげ『物質の否定・棄揚・実相の肯定』の真理が短く述べられているのですが、正直わたしにはその内容はとても分かりにくく、違和感がありました。

おそらく、雅春先生が聖典を執筆されているときは、「神がかり」の状態だったと思うので、
その文章はその時点で完成していて、完璧だったのではないかと思うのです。

ですから、時が流れ、状況が変わって、その内容を変更しなければならなくなった時、
その不都合な箇所を、たとえ、雅春先生御自身が変更されたとしても、
なにかバランス的にちょっとおかしくなってしまうこともあるのかもしれないな、と今、感じています。(あくまでも、わたしの個人的な感想ですが・・・)

3001a hope:2014/07/06(日) 13:27:38 ID:cEpBaIdo
>>2999 つづき)

「邁進日本の心と力」P48 後ろから2行目〜



天皇の御本体はかくの如く久遠永遠の御存在であらせられが故に、歴代御表現身が御交代遊ばすともその皇位に滅なく中断なきことを知ることが出来るのである。

その如くまた 天皇の御本体は永遠穢れなきところの御存在であり、無量智、無量光、無量寿の御法体にましますが故に未だかつて御迷い遊ばすと云うこともお間違い遊ばすということもないのである。

道鏡などの如き大逆臣にお惑わされ遊ばした如き記録が史上にはあるけれども、これも 天皇の御本体と御表現との区別が判らない歴史家が、御表現にましますところの御肉体を  天皇の御本体と思い違いせるが故に、天皇が道鏡にお惑わされ遊ばしたなどと云う不敬な思想が顕れたのである。


天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。

古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。

鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。

であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。

天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。

肉体をもって すめらみことの全存在であるとし、 すめらみことの御本体と御表現身との区別をわきまえざる唯物論者にはこの辺の微妙な消息は理解し得ざるところである。

そして政治の良からざるは すめらみことの御責任であるかの如く すめらみことをお怨み申し上げる不届者(ふとどきもの)さえも時には生ずる。

左翼の徒の如きはこれであって、御本体と御表現との区別をわきまえざるが故である。

すめらみことが責を執り給わざることを、ただかくの如き機関を設け置くことが便利なるが故にかくあると考えるが如き、天皇機関説を唱える迷妄の徒には、我等の肉体本来無し(詳言すれば、永遠不滅不垢(えいえんふめつふく)の霊的実在身こそ御本体にましまして御肉体は御表現身なり)との哲学が如何に日本国体を明徴するにすぐれたる哲学であるかがお判りにならないであろう。

3002a hope:2014/07/06(日) 13:29:20 ID:cEpBaIdo
>>3001 a hope 所感)

<<しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである。
であるから吾らは恐懼(きょうく)反省して 陛下の御宸襟(ごしんきん)をお悩まし申さないようにしなければならないのである。
天皇の御本体はかくの如く神聖であり、一切の悪に責任があり給わないから、如何なる間違った政治を時の為政者が行(おこな)おうとも、たとへ、それに御名御璽(ぎょめいぎょじ)がありましょうとも、その全ては大多数国民の心の反映であり、また時の為政者の心の反映であるが故に、天皇は本来神聖にましまして、責(せめ)を執(と)り給うべきではなく、すべては輔弼(ほひつ)の諸臣(しょじん)の責任となるのである。>>


上の抜粋部分は、戦後まもなく発表された「君民同治の神示」>>672 に通じるものだと思いました。
「君民同治の神示」は、『秘められたる神示』中の「君民同治の神示講義」(1)>>678に、
谷口雅春先生がこの神示を神さまから授かったときの日本の状況(終戦の年)等が詳しく述べられていてとても興味深いです。
※参照「君民同治の神示講義」(2)>>680(3) >>683 (4)>>684 (5)>>709

一方、わたしが今、謹写中の「万進日本の心と力」は昭和13年発行とありますから戦前の執筆です。
この二つの内容をくらべてみる限り、戦前、戦中、戦後を通して、谷口雅春先生は生長の家の「天皇信仰」に関して同じ真理を主張されているように感じます。


ですが、これはわたしが疑問に感じていたことで、web誌友会板での曳馬野さまのご質問内容にも通じるのですが、
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/4097n-

それでは、なぜ、雅春先生は、戦後の聖典から、日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのでしょうか?

それは、戦後、占領下の日本で教育を受けた世代の人間に、「生長の家の教え」を伝道していくにあたり、
いきなり、天皇信仰を持ち出すと、明らかな拒絶反応を示す人が多かったからではないのでしょうか?

なぜならわたし自身もそのような思想の持主でしたし、別板でアクエリアンさまがご指摘されていますが、
とても残念なことに、現在の「生長の家」総裁である雅宣先生御自身がそのような思想の持主なのだと思うのです。

これはわたし個人の考えですが、雅春先生が、戦後の聖典から日本神国や天皇に関するご文章を変更・削除されたのは、
雅春先生の戦前のご主張(真理)が間違っていたからではなくて、それは確かな真理であるけれども、
時代の状況の変化に伴い万教帰一である「生長の家の教え」をどのような思想の人間にも広く伝道するために、
ご表現を変えられただけのことだったのではないでしょうか?

3003a hope:2014/07/06(日) 13:59:11 ID:brQxC10.
>>3002 追記

>>3002で紹介させていただいた、「君民同治の神示」、『秘められたる神示』の「君民同治の神示講義」の謹写文は、
第3回web誌友会の資料として、金木犀さまが謹写してくださったものです。 感謝 合掌。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1336818752/23n-

あの誌友会での話題も多岐にわたっていましたが、あの時は、後夜祭が長く続き、
金木犀さまや復興Gさまに、現憲法の問題点や天皇信仰について色々教えていただいたのでした。

もう一度読み直して、復習してみたいと思います。

3004志恩:2014/07/06(日) 14:19:35 ID:.QY5jUA6
a hope様

>>(徳久先生談ー
谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。<<

という記事が、本流愛国掲示板にのっていました。
ですから、公職追放が、原因で、
戦争直後は、説きたくても説く事を禁止されていたので….
ということが、戦前、戦後の文章の違いの理由ではないでしょうか?


愛国本流掲示板より
谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか  〔飛田給練成道場〕 (3557)
日時:2014年04月21日 (月) 22時00分
名前:iiko

 >「父母への感謝」にしよう、と決心しました。なぜなら「父母への感謝」 が本当にわかったら、愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。<
天皇に帰一できない「森の中教団」は、親不孝教団なのでしょうか。

………………………………………………... 


谷口先生の公職追放で、愛国心は語られるのか 

 〔飛田給練成道場〕

生長の家長老  徳 久  克 己

 練成会も、昭和23年の9月から 『祈りの会』 という名称に変り行なわれました。
 谷口雅春先生が公職追放になったということは、
生長の家の真理を布教しようという私たち本部講師にとっては、とても大きな問題でありました。

 イロイロとウワサをする人がありまして、
生長の家は解散させられるのではないか、と言う人さえあったのです。


 とにかく、私たち講師の言動に、もし公職追放にふれるようなことがあれば、
谷口先生が指示しているのではないかと疑われ、谷口先生に御迷惑がかかることになる、
ということを考えまして、講話の内容などもシンチョウに考えなければならなくなりました。

 公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。


 それですから、愛国心に燃える青年の養成を目的としてはじめた練成会も、
講話の内容を変えなければならないことになりました。

戦前・戦中に教育をうけてきた私は、日本国のすばらしさ、
天皇への忠を、学校で教えられて育ってきました。


 それに私の父は軍人でしたので、
家庭の中でもヒシヒシと忠君愛国を思想を教えられてきました。

 そんな私でありましたのに、心のなかには、
なにかスッキリしないモヤモヤしたものがあったのです。 
ところが29歳の時に、病後に母の導きで 『生命の實相』 を読みはじめ、
当時は全15巻でありましたが、毎月1冊ずつ読んで、約20日のあいだで読み終り、
心の底から、父母に感謝する気持が湧いてきました時

 「天皇陛下ありがとうございます」

と思わず口ずさんで、涙があふれている自分を、自分で発見したのでした。 
そして 『大調和の神示』 のなかの、 
 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 という聖句を心のなかに思い浮かべました。 

 「父母に感謝する」 ということは、
こんなにすばらしい、人間を生まれかわせる聖なることであったのか、
という思いが深く深く私の心をうちました。 
「無条件の父母への感謝」 こそ人間の根本的な新生であったのだ、
とその時に私は深く教えられました。


 『生命の實相』 という聖典は、
まことに不思議な聖典でありまして、父母に感謝しなければならない、
というような強制的ななというか、義務的におしつけるようなことは、
一切書いてないのですが、読み終わったら、いつのまにか父母に感謝する私になっていたのです。 それ以来、本当の愛国心、天皇への中心帰一は、父母への無条件の感謝ができないとわからない、と私なりに信ずるようになりました。

 こうして私には  「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 
 というこの聖句が、自分の信仰の根本的な信条になったのでした。

 そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 


         『心の持ち方一つ』 より

3005a hope:2014/07/06(日) 16:16:45 ID:cEpBaIdo

>>3004 志恩さま

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&amp;mode=res&amp;log=1302&amp;submitlog=1302

この記事ですね。


貴重な情報と、素晴らしい徳久先生の御文章ご紹介くださりありがとうございます!

<<公職追放の理由は、戦時中の言論活動が超国家主義であった、
という誤解でありましたので、執筆も、時局や国家問題に関する文章は禁じられ、
宗教的な文章だけに限られたのですから、私たちの講師の話も、
それに従わなければならないことになりました。>>

よく、お勉強すれば、生長の家の愛国とか天皇信仰はとても宗教的で普遍的な万教帰一の教えだとわかると思うのですが、
ちゃんとその真理を理解していない人達には、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。


でも、さすが、徳久先生ですね!


<<そこで、谷口先生が公職追放になられて、
愛国心、天皇への中心帰一、このことが説けなくなった時、
そうだ、練成会の根本的な目的を、 「父母への感謝」  にしよう、と決心しました。

 なぜなら、 「父母への感謝」 が本当にわかったら、
愛国心が湧き、天皇に中心帰一するようになる、と確信したからです。 >>


この事に関しては、わたしも、毎日聖典を拝読して「人間神の子」の自覚が深まってくれば、
本当にそうなって来るのではないかと感じています。

人間は実相が顕現すれば、自然に中心に帰一していくものだと感じているからです。


ですが、「天地一切のもの」への感謝も、もっとも身近な両親、兄弟からしていかないと、
本当の中心帰一の形にはならないと思うのです。


それに、この「父母への感謝」の教えだったら、政府に誤解されることもなく、
現代の若者にも、抵抗なく受け入れられるのではないでしょうか?

今でも、宇治別格本山では、その教えが中心のようですが・・・。

教団も、本流復活派の団体も、『「父母への感謝」の教え』を教義の中心にもってくれば、
本来の「生長の家」が復活し大調和できるのではないでしょうか?

志恩さまは、どう思われますか?

3006a hope:2014/07/06(日) 16:21:39 ID:cEpBaIdo
>>3005 訂正

ちゃんとその真理を理解していない人達【には】、超国家主義などという誤解を受けてしまうこともあるのですね。

ちゃんとその真理を理解していない人達【からは】、超国家主義などという誤解を【されてしまうこともあるのですね。】。

3007志恩:2014/07/07(月) 04:05:44 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3008志恩:2014/07/07(月) 04:06:33 ID:.QY5jUA6
a hope様

net

《公職追放令(1945年=昭和20年)》が、GHQ(占領軍)により発令された。

完全なる言論統制が敷かれ、占領軍の批判は一切できなくなった。
戦後の占領下、GHQの命令によって国家の中枢となるべき20万人以上の日本人が、
戦争協力者という名前を冠せられ公職から追放された。
戦前、少しでも重要なポストに就いていた者であれば、戦後は公職についてはいけないという指令だった。
これは実業界にも波及したが、最も悪い影響を受けたのは学界、言論界だった。

追放令の覚書は、追放すべき人物を、
A項 戦争犯罪人
B項 職業軍人
C項 極端な国家主義団体などの有力分子
D項 大政翼賛会・翼賛政治会・大日本政治会などの有力分子
E項 日本の膨張に関係した金融機関ならびに開発機関の役員
F項 占領地の行政長官など
G項 その他の軍国主義者および極端な国家主義者
に分類した。

その後、1951年、サンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/koshoku_tuihorei.html

3009志恩:2014/07/07(月) 04:08:32 ID:.QY5jUA6
トキ様
すみませんけれど、2重投稿になりましたので、3008とここの削除をお願いします。

3010志恩:2014/07/07(月) 04:50:26 ID:.QY5jUA6
a hope様

戦争直後にアメリカの占領軍(GHQ)により発令された公職追放令は、
サンフランシスコ講和条約を締結したので、廃止されたと、載っていました。

ですから、公職令の 廃止後は、自由に言論することが可能になったのでしょう。

終戦直後、
徳久先生は、天皇については、雅春先生が公職追放された関係で
語ることができなくなったので、
親孝行の話を中心にしよう。親孝行は天皇・・に繋がる。

そう思われた徳久先生は、
当時の飛田給道場では、天皇の話は、せず、親孝行中心の話をするように、
されていた。

私が、初、飛田給 夏期高校生練成会に参加した中学3年生の時とは、
昭和30年代の
最初のころでしたから、菊地藤吉先生(共産党から転向した先生)や、
加藤栄太先生などが、すでに、練成会で熱く天皇陛下のお話をされていました。

しかし、当時は、これも、占領軍政策で、日本弱体化のために、左翼思想の人間を
教育界のトップにすえて、言論統制を行った成果が出ていて、日本国土全体は、
共産党,社会党の、赤い、反日思想によって、牛耳られていました。

そして、その反日思想の人らの手によって、、
天皇が、日本国民を戦争に駆り出した責任者なのだとか、日本人は悪い国民なのだという
教育をタタミコマレテ、
われわれ日本人は、洗脳されていった時代でしたから、

雅春先生が、日本の国民に、それは、間違った考え方なのだという真実を、日本人が、
愛国心を取り戻すために、命がけで、説き、愛国運動をされていたことは、
当然のことだったと、思います。

でも、天皇万歳というと、右翼的ですから、
昔の説き方じゃなくて、親孝行を話をされるときに、天皇という生き方は、
無私であり、日々、国民のために四方拝もされてて、。。。というふうに、

親孝行の話とともに、他国には無い、天皇の、本当のすばらしさも、説けば、
自然に聞き手に受け入れてもらえると思っております。

ですから、親孝行の話から入り、日本人に対しては、天皇の話もする、、というのが、自然体では
ないかしら。

3011a hope:2014/07/07(月) 10:49:07 ID:cEpBaIdo
>>3010 志恩さま

お返事は、web誌友会板にさせていただきました。

3012a hope:2014/07/09(水) 09:40:38 ID:cEpBaIdo
(>>3001つづき)

「邁進日本の心と力」p50 後から3行目〜



古事記を御進講(ごしんこう)申上げたる筧(かけひ)克彦博士も 天皇の御本質を観奉るに、決してその肉体を以てしてはならないのである。肉体を本質と観奉るときには大凡(おおよそ)神聖性は覆い隠されてしまうのである。

筧博士は『続古神道講義』四二五ページにおいて、この事を説いて『神武天皇とても矢張り手が二本お有りになり、足も二本お有りになり。脈もうてば呼吸もなされたでありましょうが、ただそのような方面より観奉るのではなく』とかくの如き物質的方面では神聖性が判らないことを指摘し、語をついで、【以下の本文には傍点あり→】『無形的に如何なる御人格を有っておいでになったか、如何なる神様であらるるかを分析して見ますると実に深い根底がありまして、神代の神々の御関係が悉(ことごと)く含まれて居り、【印刷不良の漢字】つて 天皇のいられらるる皇居は即ち神宮であり、その皇居の存する国土もまた神居たる神宮に外ならず、これによりても実に我が建国の深くして広く且遠いことが分かる次第である』【傍点終わり】と言っている。

傍点は私が付けたのではなく筧博士自身がつけたのである。有形の御表現体のみを見ていたのでは神聖性が判明しないのであるから、筧博士は『無形的に』――『御人格を』――と圏点を附し、無形的に御人格を観奉ったときに『神様であらるる』ことが判ると云う風に、御表現身を観奉らず、御表現身の奥に内在せられる実相身を観奉るとき、 すめらみことが如何なる神であらせられるかと云うことが判ると申しているのであって、そして今迄外形ばかり見ていた場合には物質を御入れ申した『物質の御舎(みあらか)としか見えなかった皇居も、物質と見ないで、無形的に(筧博士の言葉をかる)実相身(御本体)を観奉るときには、『天皇のいらせらるる皇居即ち神宮であり、その皇居の存する国土も亦神居(しんきょ)に外ならず』と云うことになり、物質を否定したとき、却って否定の極みの肯定となって、今迄単なる木材その他の物質を材料とした建築物と思はれていたものも神居たる神宮であると悟られ神の国と認め得るようになるのである。

生長の家で、常に『物質なし』と云っていることは、今迄『物質』を単なる物質であると思って、無機物的、無価値の存在であると軽蔑していたその観念を排除し、『物質、物質に非ず、一層高きものの表現である』ことを肯定せしめんがためなのである。


ここに生長の家は唯物論に対立するような唯心論でなく、唯物、唯心を超越した唯神実相論であることが判るであろう。

物質の否定は否定のための否定でなく、大なる肯定の為の否定であることが判る。

かくの如くして今迄『物質』と認められていたところのものも、神力の表現であると大きく肯定するのはこの生長の家倫理学であり、日本国土は物質国土と認められていたものを、更に『神の国』であると大きく再肯定するのがこの生長の家倫理学であることが判るのであろう。

飛び読みした一二の語句を根拠として生長の家の思想を批判することなく、本当に生長の家の思想を批判せんとせられるならば、少くとも『生命の實相』全十五冊を読了してそれを貫いて存する一大肯定の真理を把握せられんことを希望せざるを得ないのである。



(補注) 表現者と云う意味で 天皇を申し上げたのには筧克彦博士の『続古神道講義』に『此の 鵜葺草葺不合命(うがやふきあへずのみこと)からお生まれになりました御方が、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)即(すなわち) 神武天皇であります。
……「伊波禮(いはれ)と申すは集滿(しゅうまん)の意味で、……これを遠く申すと、別天神、神代七代の神々を悉くご自分の中に集めおいでになる御方であって大なる存在の最高的表現者、自主的表現者であらせられます』と云う言葉などがある。

(以上、「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の謹写終わり)

3013a hope:2014/07/09(水) 09:43:10 ID:cEpBaIdo

>>3012 a hope所感)

この「一大肯定の真理」は、頭注版「生命の實相」第13巻の 「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」では、わずか2ページちょっとの説明しかありませんでしたが、
この「邁進日本の心と力」の 「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」の方では、同じ真理が10ページにもわたって説明されていました。

その内容は、「生長の家」が現象の天皇や国土をどうとらえているかがとてもわかりやすく説明されていて、
「物質に非ず、いっそう高きものの表現である」の一大肯定の真理をとてもよく理解できたような気がします。

3014a hope:2014/07/09(水) 09:52:02 ID:cEpBaIdo

以下、戦後の頭注版「生命の實相」での「一大肯定」の真理の説明と、戦前の「邁進日本の心と力」での説明をまとめて比較してみます。

(まとめと比較)

○頭注版「生命の實相」13巻「物質の否定・棄揚(きよう)・実相の肯定」

① 【物質の否定】

物質はない 肉体はない 


② 【棄揚(きよう)】

物質、物質に非ず、いっそう高きものの表現である
肉体は、神聖なる神の生命(いのち)の自己実現である 


③ 【実相の肯定】

物質として土塊の生成物のごとく無価値に見られていた「人間」が、
自己の価値観を回復し(神の子の自覚)、人生に生き甲斐を生ぜしめ、光明を見いだす【実相の肯定】



○「邁進日本の心と力」「物質の否定・棄揚(きよう)・神国の肯定」

① 【物質の否定】

天皇の玉體は肉体である →肉体はない
国民は肉体である →肉体はない
皇居も物質である →物質はない
国土は物質である →物質はない


② 【棄揚(きよう)】

天皇は親神の御表現でまします すめらみことである。
国民すべては神の子の表現であって、親神の御表現でまします すめらみことの中心に帰一している。
皇居は天皇(すめらみこと)のいらせらるる神宮でありその皇居の存する国土もまた神たる神宮であると悟り、
即ち日本は神の国であると認めるようになる


③ 【神国の肯定】

物質的国土と認められていた日本の国土を、『神の国』と大きく再肯定する

3015a hope:2014/07/09(水) 09:55:14 ID:cEpBaIdo

>>3014 a hope所感)

こうしてみると、確かに「生長の家」の教えは「物質なし」「肉体なし」の教えですが、
決して、現象に現れている物質や肉体を軽んじていないのがわかります。

また、天皇に関しては、>>3001

<<天皇は本来神聖にましましてその御本体は無量智であらせられるが故に、未だかつて如何なる奸侫(かんねい)の臣下(しんか)にもお惑わされ遊ばしたこととてはないのである。
古事記下巻などに描かれている 天皇の神聖をけがし奉る如く感じられる事実は、事些細なことといえども 天皇の御本体に関することではないのである。

しかし、御肉体は御表現であらせられるが故に、それは鏡の如きものである。
鏡は一切のものを映すが故に、国民が迷えるときには国民の迷いを反映し奉って、陛下の御悩(おんなやみ)となって顕れることもあるのである>>

と説明されていて、国民の心を映す鏡のようなものだと説明されています。
日本の国土においても同じだと思います。


これは、小さく見れば人間同士や人間と物質、つまり、ひとりの人間とそのまわりの環境においてもやはり同じなのではないかと感じています。

対峙する人が悪人に見えれるようであれば自分の内に悪を見る心があるからであり、
対峙する人が迷っているように見えるのであれば自分の心が迷っているからであり、
また、まわりの環境が自分にとって良くないものであると感じるのは、自分の心が良く整っていないからとなるのだと思います。

つまりその真理が「三界唯心所現」あり「心の法則」であり、それを、教えてくださっているのが周りの人々であり環境であるから、だから観世音菩薩さまなのですね。


うーん、わたしはこの真理は、理屈としてはかなり納得いっているのですが、現実に自分が悟っているかというと、???です(笑)

神想観をして、自覚を深めたいです。

3016a hope:2014/07/10(木) 23:00:13 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆

「生命の實相」第十三巻  p173 5行目〜


倫理学の研究の対象

(まとめ)

人(Person)とはラテン語の※Personare (ペルソナ)が転じたもの
Personare・・・〝to sound through″「天地に鳴りわたる」ところの本当の人間、「人格」

○『ヨハネ伝』第一章 
・・・「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万(よろず)の物これに由りて成り、成たる物に一つとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき」
・・・「人の光なる生命」= 言(ことば)=天地に鳴り亙(わた)る(to sound through)ところの生命

※ Personare (ペルソナ)―― Persona(ペルソナ)演劇で、仮面をかぶる人またその役。(頭注より)


○仏教
・・・仏性が本当の「人」であり、肉体はその仮面にすぎない
・・・人は生まれず死なない存在である 『涅槃行』


○日本語 
・・・人は「霊人」(ひと)であり霊的実在なる所の普遍的存在で、朽ち果てるべき「仮面の人間」ではない
・・・「霊子(ひこ)」(久遠男性) 「霊女(ひめ)」(久遠女性)


p175 3行目〜
<<「本当の人間」(Real man)の認識が倫理の根本になるのである。

「本当の人間」がいかなる存在であるかは、すでに『生命の實相』その他多くの著述を通してわたしが述べきたったごとく、「神そのままの相(すがた)」なのである。

換言すれば人間とは神性にほかならないのである。


しかしその「本当の人間」(神性)が「思い」に、あるいは「行為」に、表現せられたとき「善」となる。

「神があらわるればすなわち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」と『甘露の法雨』にわたしが書いたごとく、神性が表現すればそれが「善」であって、神性が顕現しなければそれは悪である。

さらに詳しくいえば「悪」といい、「罪」というのは神性が顕現していない状態――すなわち、ないという消極的状態を「悪」といい「罪」というのであって、「罪悪」なるものは存在の仮面を被ってはいるけれども、非実在であるというのである。

悪の非実在、罪の非実在――これが谷口倫理学の特徴をなすものである。谷口教育学もここから抽(ひ)き出されてきて不可思議な実践効果を顕わしているのであるが、これは教育学の方に譲ることにする。>>

3017a hope:2014/07/10(木) 23:01:59 ID:cEpBaIdo

>>3016 a hope所感)

「物質の否定・棄揚・実相の肯定」のところで少し寄り道をしましたが、わたしにとってはとてもよいお勉強になりました。
今まで、避けていた雅春先生の愛国書ですがじっくり拝読しているととても味わい深く、その真理の深さに引き込まれてしまいます。

ですが、時々でてくる、唯物論者への強いご批判や、「駆逐」、「露西亜コミンテルンの諜(まわし)者」などというようなご表現の激しさには正直驚いています。

まあ、「虚説には和解してはならない」ということは、こういうことなのかな、とも思いましたが・・・・。


一方、愛国書以外の「生命の實相」をはじめとする「生長の家の聖典」と呼ばれているものからは、
雅春先生の激しいご批判の言葉はほとんど見当たらないのではないかと思います。

ですから、わたしは「聖典」を拝読していると「神の子」の自覚が深まるのはもちろんですが、とても心穏やかになり喜びがあふれてきます。

今またここで、聖典「生命の實相」がお勉強できる幸せに心から感謝しています!

3023トキ:2014/07/14(月) 21:15:33 ID:g.x8ZpLU
以上の実例によってわかったように吾々は真に何を求むるかを知らなければならないのある。
そして、吾々の求めるものは結局は他のものではなくしてもっと内的なものを本当は求めているので
あるということがわかるのである。金を求めるものも、実は真に金を求めているのではなく、人間ら
しい生活を、人間らしい愛と同情と賞賛を求めているのであり、そして結局は魂の進歩することを
求めていることがわかるのである。豊かなる生活、愛と同情と讃歎と、そして魂の喜びにみちた進歩
と -これらは実相の世界(御心の天になる世界ー神の国)に既に成就せる所のものであるのである。
事すでに成れりであるのである。吾々は唯それに波長を合わせばいいのである。「神の國と神の義を
求めよ、その余のものは汝らに加えられるべし」であるのである。吾々が真に求むべきものを知り、
その求むべきものを真に魂の世界に於いて波長を合わす時には形の世界に於いてはそれは成就すること
になるのである。

谷口雅春先生著 「祈りの科学」 71p より謹写

3024a hope:2014/07/15(火) 22:29:14 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『人間に神を実現する 』p178

然(しか)り。肉体の人間(小我の人間)は善をなしうるものではない。
いかなる我の知恵もそれは有限知であるがゆえに、あらゆる場合と条件とを尽すことはできない。

しかも実際生活の場合と条件とは無限であってその変化は※端倪(たんげい)をゆるさない。
ここにおいて有限知は必ず矛盾葛藤に陥る。

そこで本当の「善」はこの有限知の葛藤を飛び越えなければ得られないものである。
これは形式を超越するのであり、飛躍するのである。
飛躍があって、はじめてわれわれの心は※法界を覆う知恵に達することができるのである。

法界を覆う知恵に達してはじめてすべての場合と条件とを尽して、人相応、時相応、所相応の三相応を具備することができるのである。

これにはどうしても禅的な修養が必要である。


※端倪(たんげい)―― 推測すること(「端」は山頂「倪」は水の底)(頭注より)

※法界(以下web辞典より)
ほっかい【法界】〔「ほうかい」とも〕
〘仏〙
① 意識の対象となるものの範疇(はんちゆう)。十八界の一。
② 存在するものの世界。
③ 真理そのもの。すべてのあり方の根源。真如・実相などと同義。

3025トキ:2014/07/16(水) 20:34:04 ID:h6GdR2gA
まず”霊”を求めよ、”物”は自然に備わるであろう

 人間は”神の子”であるから神のもち給える一切の善きものを譲られているのである。
これ以上人間に与え過ぎたら人間は不幸になるなどとは神はその供給を限定し給うこと
はないのである。しかし神は霊であり、この世界の実質は霊であるから神から来たる恵
みや祥福は霊的波動として吾々に放送されているのである。その放送を吾々が時間・空間
の「認識の形式」によって受像するとき、ある時間継続するところの空間的ひろがりの
ある存在として感ずるのである。それゆえに現象的に形のあるご利益は、神から来る
”祥福の霊的波動”に過ぎないのである。イエスが「まず神の国と神の義を求めよ、その
余のものは汝らに加えられるべし」といったとき、それは「神の霊の世界にあるものを
求め、それに吾々が自分の心の波長を合わしたら自然と現世利益は加えられる」という
真理を教えたのである。

「女は愛の太陽だ」 谷口雅春先生著、115pより謹写

*まだまだお金の事で悩んでいる人が多いです。繁栄について、今一度、みんなで
 勉強する事も大事かと感じます。

3026a hope:2014/07/17(木) 11:00:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

『自我のおきかえ』p179

法界を覆う英知に達して、善を完(まっと)うするのは、人間(肉我の)にはできないことであるが、神にしてのみ能(あた)うことである。

なぜなら、神ははじめから法界を蔽うすべてを尽しているからである。

しかし神が善をしても人間が「善」をなさなければ、人間生活にはなんの関係もないし、道徳の対象にも、倫理学の対象にもならないのである。

そこで「善」をなすには、「神」を人間の「思い」の中に「行為」の中に持ち来さなければならない、神を人間に実現するを要するのである。

神人合一境である。

肉の人間が棄揚(きよう)せられて神が実現されるのである。

自我の転換である。

復活であり、悔い改めであり、廻心(えしん)である。

小慈小悲(しょうじしょうひ)もない自分からクラリと転じて、仏と合一することである。

小我の力で行った善を、雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の善であるとして軽蔑してひたすら阿弥陀仏の方へ振り向いた親鸞(しんらん)聖人の心がここにわかるのである。

全法界を覆う能わざる小知で善をなしたと小善ぼこりをしても、必ずそれは悪に変じているのである。(もっとも「悪」とは積極的存在の状態ではない。心が全法界に達していないという消極的状態なのである。心がそこに達しさえしたら、もうそこは善となっているのである。)


人間の小知は決して全法界に達せざるがゆえに、根本的には善をなすことができない。

重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず」のごとく人時所(にんじしょ)の三相応を得(う)ることができないのである。

そこで唯一の善は飛躍をすることである。

そこで親鸞は小善奉行を雑行雑修として振りすてて、如来の方へ飛躍したのである。

飛躍するまでは親鸞といえども有限知の葛藤に悩んで、六角堂の観音に日参したのである。

禅宗では公案をつくりことさらに矛盾難関を構えてこの飛躍の修行をするのである。

3027a hope:2014/07/18(金) 22:26:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

「香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)、飛躍の道」p180

たとえば『無門関』の第五の公案「香厳上樹」のごときはその適例である。
この公案は香厳和尚が「人が断崖絶壁の上に懸垂する樹に上(のぼ)り、口は樹枝(じゅし)を啣(ふく)んで樹よりぶらさがり、手も足も何も支えるものがないとき、樹下にあって、『祖師西来(そしせいらい)の意(い)如何(いかん)』と問うものがあればどうするか。答えざれば禅門の礼儀として問答に敗れることになる。答えれば、身を支えている口が樹枝を離れるがゆえに、断崖絶壁に墜落して身を喪(うしな)ってしまう」というので、「さてどうするか」という公案を提出したというのである。


右するも滅(ほろ)び、左するも亡(ほろ)びるのである。
形の上では逃れる道はない。
不可不の法則が両方から追い迫ってくるのである。
縦横厚みの三次元空間に生活している限り、逃れる道は断たれている。
もう絶体絶命である。
われわれはこの三次元空間を飛躍するほかに生きる道がない。
そこで飛躍が行われる。
われわれの生命はこの時、不可不の法則以外の世界における自分を発見する。
口に樹枝を啣んだまま、「ウーン」と彼は一嘯(いっしょう)するか、口を開いて「サタンよ、去れ!」と一喝するか―――どちらを選ぶか、他の方法によるか、それは形の関するところではない。
「形」の模倣では価値はなさない。
「形」はどちらをとるにしてもその人が三次元空間を超越した自己を発見していたならば、彼の前に世界が変貌するのである。

「飢えて死ぬか。悪魔にひざまずいて食を摂るか」これはイエスの公案であった。
かくのごとくキリスト教は禅的公案に出発しているのである。
イエスは「サタンよ、去れ!」と一喝した。
しかる時、サタンは去って、天使がイエスにつかえたと聖書は録(しる)している。
(つづく)

3028a hope:2014/07/18(金) 22:28:44 ID:cEpBaIdo
>>3027 つづき)

イエスが「サタンよ去れ!」と一喝した後にイエスの世界は変貌した。
それは悪魔に取り巻かれた世界から天使に取り巻かれた世界へと変貌したのである。
イエスはその後も食事をとっているのである。
しかしそれは今までのように、悪魔によって供給された食ではない。
換言すれば他から奪って得たところの食でもなければ、殺生によって得たところの食でもない。
それは天使が彼に捧持(ほうじ)する食物であるのである。
形から見れば、三次元的空間的立場から見ればやはり悟前の生活も悟後の生活も同じであるかもしれない。
あるいは異なるかも知れない。
それはおそらく異なるであろうが、それは異なるにしても空間的立場からはやはりイエスは空間の制約の中に生活している。
しかしイエスの自覚はもう空間的立場を超えているのである。
「われは道なり、真理なり、われは復活なり、生命のパンであり、尽くることなき生命の泉であり、われに汲むものは永遠に渇(かわ)くことなし」という、彼の自覚はもう三次元的空間的存在の意識から超越して、無形の真理であり、道であり、生命であるという境地にまで高昇(こうしょう)したのである。
この境地に高昇したときには、すでに相対的善悪形式的善悪は超越せられてしまっている。
そこで「上衣(うわぎ)を取る者には下着をを拒むな」と無抵抗であるかと思うと、その無抵抗という形すらも飛び超(こ)えて、縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐(お)い出す――それがすべて人時所にふさわしきところの三相応の「善」となる。


およそ「善」とは「十里の公益を強いられて二十里を行く」ことでも、「縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐い出す」ことでもない。
また必ずしもその反対を実行することでもない。
それでは、また心の赴くままに滅多やたらにふしだらにやりたいとおりに実行することでもない。

「善」とは形ではないが、形を破ることでもない。
形に捉われないということにもとらわれないように超越しなければならないのである。
形に捉われず、空に捉われず、自由自在ということにも捉われず、それではどうすればよいか、※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。
いっさいの空間的認識の私的立場(自分の角度から見た判断)から脱して、法的立場または宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。


法的立場から叩き伏せるべきものは叩き伏せるし、生かすべきものは生かすし、看過(みの)がすべきものは看過がす――そして、それで人時所相応の「善」となるのである。

「神があらわるれば善となる」のであって、われらはまず「神」を把握しなければ「善」を顕現することもできないし、「調和おのずから備わる」ところの人時所相応の善を奉行(ぶぎょう)することもできないのである。


※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)・・・言葉を亡(うしな)い、思慮を絶すること。
(頭注より)

3029a hope:2014/07/19(土) 09:29:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第13巻 

人格の自由と「認め」の倫理 p183

人間において行為の善悪が問題視せられるのは、人間には本具の「自由」というものがあると先験的に認められているからである。

人間において人格の自由というものが本来ないものであるならば、善悪の批判は成り立たないのである。

列車は軌道の上を真っ直ぐ走るであろう。

しかしこれは強制されて軌道の上を「正しく走る」のであって、「善」を行為するのではない。

なぜなら列車は軌道の上を正しく走るほかに自由なくして、やむをえずに軌道の上を正しく走っているにすぎないからである。

それはいくら精確に走ったからとて機械的精確さで走っているのであって、道徳的自由で行為するのではないのである。

しかるに人間においては行為の善悪がただちに問題となる。

それは人間はなんびとにも先駆的に「自由なるもの」が内在することを認めているからである。


この何人(なんびと)にも先験的に認められているところの人間内在の「自由なるもの」を、われわれは「人格」という。

その自由性を「人格の自由」という。

だから人格とは、肉体のことではない。

肉体ははじめから時間空間に制約せられて自由ではありえないからである。

外から観れば自由ならざる肉体であるところの人間が、どうしても「自由なるもの」を自己の内に内在するとして先験的に肯定しなければならないのは、
「本当の人間」は肉体的ではないからである。

そして「本当の人間」とは「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである。

3030トキ:2014/07/21(月) 16:05:11 ID:9wlISb0c
実在宇宙は無限創造の世界
 
 実相は単なる「空」ではありません。実相の世界の第三の特徴は、宇摩志阿斯訶備比古遅神
といはれるこの神の名によって現されてをりますように、無限創造の働、無限のものを
産み出す働、これが実相の世界の特徴でありまして、この実相の世界を単なる空の世界であって
何もないからからつぼのものであると考えてはならないのであります。肉体的五官の感覚をもって
見ると実相の世界は見えないのでありますから、「空」と云ったりしますけれども、「空」
の奥に「無限相」無限の創造があることを知らなければならないのであります。

「限りなく日本を愛す」 谷口雅春先生著、145p より謹写

*トキの感想

 以前、この掲示板でも、実相のあり方について議論がありました。
実相のあり方は、谷口雅春先生のご指導によれば、以上のものです。興味の有る方は
以下、詳細に書かれていますから、ご覧下さい。


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