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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1701役行者:2011/10/07(金) 14:44:46 ID:HVLMI5E.
>トキさま

>本流復活派の登場以来、教団はおいつめられています。上層部の態度にも変化はあると感じます。
 その意味で、本流復活派の存在は貴重だし、ある意味では教団の健全化のためにも頑張ってほしい、
という気持ちもあります。<

 世の中に無駄なものはないですね。それぞれのヒトまた掲示板に使命があるのでしょう。
 

>訊けさま

 
売り言葉に買い言葉と、些細な感情のすれ違いが段々と大きくなってここまできたのでしょう。


>谷口雅春先生のビデオばっかりでは、「うそつき掲示板」の面々が以前追放された
「本流宣言掲示板」になってしまうではありませんか…それとも、「うそつき掲
示板」は「本流宣言掲示板」に宗旨替えしたのでしょうか…「うそつき掲示板」
と常連投稿者氏の言葉の軽いこと。うそ臭いこと。みたび三島由紀夫さんが生き
ておられたら、「君達、三回腹を切りなさい。」というでしょう。<


 上記文章、きっとシャレですよ・・・まあ、ユニークなシャレです!洒落にしても、「うそつき掲示板」ともなると、
ボケたり、突っ込んだりは、どうなんでしょう・・・トキさんは心得ているよう
ですけど(^^;)・・・ 普通は、上等!タイマンだ(>_<)となりますよ。もう、野球で勝負だ(^^)\(゚゚)

 例えば、二手に分かれたエージェントたちが、故意に対立して見せ、
そして、真正の生長の家信者同士を対立させる様にもっていこうとしていたら・
・・
 もし、このような仮説が成り立つなら、双方掲示板の真正の生長の家の方は、
どのように対処すればいいのでしょうか・・・

 いずれにせよ、生長の家に関係する掲示版はすべて、外部から見たら、
広義の意味で、生長の家なのですから、その自覚のもと投稿された方が良いかと
存じます。ボケやツッコミや、ダジャレを双方で交わすことのできる範疇なら大
いに望むところですが・・・(*^_^*)
 双方とも、世論を相手に書き込みしたいものです。

徳永英明 / ことば



http://www.youtube.com/watch?v=E3Fma_FmriU&amp;NR=1

言葉って本当は仲良くなるためにあるはずなのにね。素直になれなくって
・・・背を向けていた・・・
言葉ってどんなときも心を一つにしてくれる大事なものだよ。
やさしさを忘れずにあなたに語りかけていたい。どんなときも・・・

1702山ちゃん1952:2011/10/07(金) 15:24:22 ID:6MMzJilY
「訊け」管理人様

以前、『生命の實相』の愛行伝道のことを言っておられたので、その翌日に私の掲示板
に書きました。

だが、少し主旨が違うのもわかっておりましたが、急に「愛行伝道」とかなると自分は
出来るので良いと思いますが今後発展させようとするならば、「誌友会」がいいと思います。

出来る限り自分の主旨」に賛同していただける同志を集めてから始めて下さい。
それから後、駅前伝道をやられたらいいと思います。とりあえず同志を集めること
であります。

1703「訊け」管理人:2011/10/07(金) 18:15:09 ID:D0Kb5yw.
>山ちゃん1952 様

 要件を覚えておいてくださり、ありがとうございます。早速返信させて頂きまし
た。まあ現在・・・私の誌友会はなかなかオモシロいです。

1704「訊け」管理人:2011/10/07(金) 18:24:30 ID:D0Kb5yw.
>役行者さま

 そうかギャグだったのか・・・気づくのが遅い、「訊け」管理人です。な
んだそうなんですか。そうならそうと三島ファン様、「ギャグです」と一言
付記頂きたかった。「腹を切れ」なんて云われたら、南九州では100%
「喧嘩売られてる」と思われますがな(笑)あー日本語、ムズカシイネ。

 しかし見事な芸風ですね。


「こらぁ!!!オマエらぁああああ!!!!」

と、スゴんだあとに、


「・・・・・・・これくらいにしといたら」


 とくるあたり、三島ファンというよりも、池乃めだかファンなんですね。
三島とめだかのファンならば彼、わたしと気が合うと思いますが。

<註>


 池乃めだかの攻撃姿勢・・・やっぱ天才ですね(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=17hW9SF-Oz8

 そうか。つっかかっては来てたけど、そして、すごんではいたけど・・・
・ギャグだったのか(笑)

1705役行者:2011/10/07(金) 18:33:04 ID:Zj2FBN9Y

>訊けさま

だって、めだかチャン!空振り三振だよ・・・あれじゃ(+。+)アチャー。

1706「訊け」管理人:2011/10/07(金) 19:42:43 ID:D0Kb5yw.
傍流ラーメン
http://www.youtube.com/watch?v=-MdfCGzuwdg

<出演>
トキ板管理人
ブログ管理人
●●管理人


 披露宴での出し物、行き詰ってます。

1707八百比丘尼:2011/10/07(金) 20:04:32 ID:j8iOdie.

 【割烹だちょう】女将
今日は、花金じゃございませんの。
皆様、うちで飲んでってよ。キケさんも役さんも、「越乃寒梅 大吟醸」
入ったのよ。
役さん、徳永さんの歌、いいわ〜。ジ〜ンときちゃった。

ボケとツッコミなら、割とうまいわよ私。(大阪で生まれた女)
http://www.youtube.com/watch?v=23P2mtFT7oQ



   −−鈴夜 猫は失敗したら、シラを切り通すーー

《 きのう、狩りに失敗して木から落ちた。猫にはプライドがあるから
  取り合えず何事もなかったかのように振る舞う。
  みんなも見なかったことにしてくれ。しかし・・・・・
  アタタ、ちょっと「腰の按配」が・・・・・。》

1708役行者:2011/10/07(金) 21:46:50 ID:Zj2FBN9Y

 鈴夜さまσ(^_^)


大吟醸「腰の按配」、くださいな(*^▽^*)

花金は、ヤッパリCLUB QUEEN BEE ママ ではなくて(+_;)、割烹だちょうの女将!(^^)!のところでグイッと(。・・。)、徳永チャンの「コト バ」、歌わないと・・・    あっ、言葉といえば、最近、初心者さまは・・・ キープのbottle全然、空いてないわね(^.^)

 えっ、キケさんは隣の傍流ラーメン屋で、相変わらずボケてるのね(´・ω・`)

 女将ヾ(^v^)k
 こんどは、みんなで、グイッと、歌いに来るからね(v_v)

 あっ!初心者さまにも逢ったら、早く行かないとbottleのキープ切れるわよ!と伝えておくわね(●^o^●)
 あら、いつの間にか、新宿二丁目用語がウツッテルワ、あら、やだわ(=^..^=)ミャー

1709うのはな:2011/10/08(土) 02:42:46 ID:iM0b0bt6
BGM  恋人試験 歌 松本ちえこ

>百点とる人大嫌い 〇点とる人許せない 知っているのに わざとまちがえる
 65点の人が好き

本流宣言掲示板においての「雅宣追放派」の意見(こちらの掲示板に対する)
書き込みを読んでいて思うのは、追放派の人は本来の生長の家になるためには、
それにふさわしくない総裁に降りてもらおうという考え方で、和解派というのは
雅宣氏におかしい面があるのはわかっているが、全面追放ではなくて、両方がうまく
歩み寄ることが、真理にかなっている、悪いから出て行きなさいというやり方には
賛成できない、ということかと(誤読、読みが浅いところはあるかもしれないが)
私なりに解釈しています。
そしてそんなことに反論するのに、「総裁代理人」「本部工作」のように話すのは、
そんな脚色しないと意見がまとまらないためかって気がします。
ほんとはもう既におたがいの結論も方針も決っていて、何か論議しなくちゃいけないことって
ないような気もしますが、まだまだ続きそうですね。
以前本流で「一白鳩会員」さんが、100点でなくても75点でいいんだ、
ガンもある時期になれば共生を考える療法があるという考え方には納得できるものがありました。
でも、それは普通の人の場合で、総裁になるとどうかという懸念もあります。
雅春先生も黴菌から有効なペニシリンが発見された話を書かれています。
その人の信仰によって「総裁問題」も違ってくるのでしょうね。
雅宣氏云々の問題は、信徒の信仰精進の問題でもあると、最近になって思いました。

1710「訊け」管理人:2011/10/08(土) 11:02:36 ID:n8lvISAg

>山下一臣さま

 これから披露宴であり、出し物のショートコントのリハを控えている身です。
簡単すぎる返答をお許しください。

 貴殿ご主張でありますが、『生命の實相』のこの箇所を拝読しただけで、
完全破綻致します。ご注意ください。その箇所とは、

『生命の實相』頭注版 14巻 「和解の倫理」55〜65項

 もうこの箇所、ページ数まで暗記しちゃいましたがまあ、この箇所を読めば
貴殿ご主張・・・「デマ」の謗りを免れ得ぬものと考えます。いかがでありま
しょうか?


 なおいつでも試合開始可能です。どうぞこの提案、受けてください。
よろしくお願い致します。

1711「訊け」管理人:2011/10/08(土) 11:05:52 ID:n8lvISAg
追伸

>議論の陥穽には決して落ち込まないようにしなければならないのであります。

 プロパガンダによる妄言の陥穽・・・・これはもっと怖いものであります。

1712「訊け」管理人:2011/10/09(日) 01:08:33 ID:UodBcqiE

 披露宴出し物のショートコントで大きくスベった、「訊け」管理人です。
いやーやっぱ、スベッた時の恐怖といったら・・・・もうその場で、舌かみ
切って死にたくなりますよね、ええ・・・二次会がなぜか反省会と化してい
ます。どうしてくれる、この空気。

 ということで、今日の結婚式なんですが、「牧師」さんと「新婦側」挨拶さん
とが、ものすごくよい話をされました。ですんで紹介します。が・・・・















肝心の内容が思い出せずにいます。












思い出したら書き込みます。

それでは、ナイスな週末を。

1713【二次会が】「訊け」【反省会】:2011/10/09(日) 01:54:36 ID:UodBcqiE
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=1021

>役行者さまw

 これもきっと、ギャグなんでしょう。期待して待ちましょう。

1714役行者:2011/10/09(日) 15:50:17 ID:2z3eO8AQ
 >訊けさま

 お日柄もよく、穏やかな日が続いてます。
訊けさまにおかれましても・・・結婚式の二次会にて(。・・。)だったようで、なんとお言葉をかけたらいいのやら・・・ドンマイ(*^^)v
 わたしゃなんか、よくスベって、着地も不格好な形で決めてますよ(*_*;どうしましょ(:_;)

 それにしても、本流掲示板さんも、いろいろと試行錯誤されておられるのですね(‥;)

 谷口家には、雅宣先生のほか、女性を含め3名のご兄弟がいらっしゃるので、そこにメスを入れるということなのでしょう?たぶん??

 いろいろ妄想を膨らませたのですが、ギャグ連発は避けたようですね(^x^)

1715「訊け」:2011/10/09(日) 16:14:32 ID:n8lvISAg

>役行者さま

 情報提供者「常連のS様」とは、笑点ファン殿であって欲しい、「訊け」管
理人です。ちなみに運動会ですが、父親競争でひとりだけ「マジ走り」をして
しまい、1位取ったのに微妙な空気が流れております。ええ、ショートコント
ですべって以来、なんか運気が逃げてます。

 さて、山下一臣氏ご発言ですが・・・・・・・・・・不調和なので止めておき
ます。なお本流では「誰も反論できない」てなお墨付き、頂戴されちゃっている
じゃないですか。ああ山下氏、スベらないでくださいね。スベルとですね、
ホントにツライですよ(もうなんか、その場で舌噛み切って、死にたくなる
レベルですよw)

1716役行者:2011/10/09(日) 23:43:33 ID:2z3eO8AQ
 >訊けさま

スベったときの不着地は、イタいよね(>_<)ゞ

 だから、スベってもらいたくはないよなあ>^_^<

 しかし、本流さんもガンバって、同じネタを何回も繰り返しているよ!

 それより、どうかねえ!?
 ここのところ、連載で書いている義春さんの投稿内容を読んでいるのかなあ?

 ユダヤ問題などグローバルな見地から見解を述べているのだけど・・・
 
 これから生長の家はどのようなロードマップを描けばよいのか?
 その方向性を示すための問題提起をしてくれた投稿文だと思ってます。
 どうやら、ここの掲示板は擁護派と謳われているようだけど、もし擁護派と思っておられるのなら、なおさらどのような内容の投稿をしているか!よく読んで頂けるとありがたいのですが・・・その内容に対して、意見、感想をお伺いしたいものです。

 生長の家が、世界、人類にお役に立ちたいと、その思いは誰も変わらないと存じます。ですから、どのように役立っていけばよいのか?その内容について建設的に話し合うべきかと存じます。その問題提起を義春さんの連載投稿文が示してくれているのではないかと思うのです!

 私が若い頃、皇太子殿下が柏原芳恵ファンでニュースを騒がせていた頃、役行者謂われのある霊山を、登山している私の後ろから追い越し登られておられる皇太子殿下の姿を拝見させていただいたことがあります。  そのときの光景は今でもアリアリト目に浮かびます。  
 そのスガタは祈りそのものでした。天津神、国津神ともに心を一つにして、この人類の国難に立ち向かって行こうとの覚悟がその後ろ姿から垣間見れました。

 自然との共生!それは、日本の使命の一つなのではないでしょうか?
 ご皇室はいつの時代でも変わらず、平和と自然との共生を願っておられる!と、その史実から察することができます。
 
 これからの日本の具体的な使命について、もっともっと、話し合う必要があるのではないかと存じます。
 
 
 敷島の大和心を人とわば、朝日に匂う山桜花

 やはり、大和の思いは、自然との共生なのでしょう。

1717さくら:2011/10/10(月) 09:51:18 ID:T/77sMGw
>1716
役行者さま

横から失礼いたします。

>生長の家が、世界、人類にお役に立ちたいと、その思いは誰も変わらないと存じます。ですから、どのように役立っていけばよいのか?その内容について建設的に話し合うべきかと存じます。その問題提起を義春さんの連載投稿文が示してくれているのではないかと思うのです!

本当にそうですね。
そもそも、「今の教え」なんて、実態のないものに過剰反応していても、事を大きくするだけでなんの解決の方向も見出せないと思います・・。
雅宣先生の発言の背後にあるもの、本部の今の方針についての問題点を探っていくのは、大切なことだと思います。
が、その表層だけを、あれこれ問題にしたところで、感情の噴出を招いたりしているようで、現状、冷静な判断ができるとも思えません。
それを打開するような、そもそも問題の原点にもどったところの、新たな理解や解釈が、必要な気がします。
そのためには、大きな視点から物事を見直してみることは、とても意義がありますね。
これは大きな問題だと思うので、議論や一方的な立場での主張だけではなくて、対話を通して、事の真相にあるものは何なのか話しあうことが大切だと思いますよね・・。
役行者さまが言われるように、建設的な話し合い、と出来ると良いですね。

義春さまも、今回のおしごと、本当にありがとうございます。
色々学びになります。
充分お休みしたら、また、みなさまとの対話にご参加くださいますよう、
楽しみにしております。

1718義春:2011/10/10(月) 12:25:31 ID:SjZg29/2
>>1717
さくら様
お言葉、有り難うございます!
是非参加させて頂きます!

只今、皇太子殿下の想いに心を寄せる為に、日本という国の使命を学ぶ為に、厳島神社に参拝し、それから弥山を登っております。
やはり人工肛門+基礎体力の戻ってない身にはハードでしたが、だからこそ、逆に見えてきたものがあります。
今夜、帰りましたら、今日学んだ事も含めて投稿させて頂きます。

1719役行者:2011/10/10(月) 12:32:21 ID:26NtZ8QE
 さくらさま!大変意義深いコメント、ありがとうござます。その前に、笑点ファンさまへの感想を述べます。

 本流さんで「笑点」ファンさまが、

“ある本部職員をつかまえて質問攻めにした方からの報告です”

と、ツカんできました。世論に訴えるのに、ツカミは良好(>_<)ゞ

そのネタは、


 >① 谷口雅春先生と谷口雅宣先生とは本当に一つなんですか? 「勿論ですよ!」< 


 この時点で、早くもツッコミを!「違うでしょう!魂は一人一人個別ですから・・・」
 詳細は以前コメントしたので流します。

次に


  >質問その② 谷口雅宣先生は、天皇のことについてお話になりませんよね。どうしてですか?<

>天皇のことに触れると、生長の家は右翼だというように誤解されるから、そう誤解されない ようにされているんだと思いますよ <

 このような擁護の仕方にはツッコミすら入れられません。
 ここの掲示板でシニフィアンから勉強しなおしてください。言葉の暴走について・・・
御願いします。


> 質問その③ ...谷口雅宣先生は、最近、〝脱原発〟を公言されるようになりましたよね。これは日本共産党と全く同じ主張ですよ。これでは、生長の家は日本共産党の 支持者だと〝誤解〟されても申し開きが立ちません。こういう誤解は気にされないということ ですか?<

 
 本部職員が答えてないようなので、代わりに私が・・・

 それは、気にしますでしょう。明らかに誤解です。
 左翼か右翼かと丁か半で割り切れるような世の中ではございません。右も左も真っ暗でござますら・・・ロスチャイルドが自ら述べられているよう、新秩序世界、第三の軸から観ないと、カラッキシ分からないことが多いのです。あまり、丁か半かばかりしていると、漁夫の利を目論んでいる輩に狙われることも考えねば!
 
 私の知り合いでバリバリの右翼がいるのですが、ずっと、原発反対でした。

 その間、詳細は言えませんが、裁判で社民党を味方にして、自民党と闘ったのですが、惨敗!どうやら、社民党に就いていた弁護士が自民党に寝返ったらしいです。恐ろしいです。まあ、弁護士の世界では日常茶飯事らしいですね!スパイだから最後まで分からなかったらしいですよ。弁護士にはお金が入りますからねぇ〜


 話を戻しますが、彼は、このような大震災を招き、もっと命がけで反対運動しておけばよかったと、慟哭されておられました。

 どちらにしても、自然との共生と代替エネルギーの問題です。共産党が応援してようが問題はないでしょう。
 大体、北朝鮮の拉致問題に最初から闘っていたのは共産党の方々です。右翼はそれにのったのでしょう。心ある右翼は最初から闘ってましたが・・・共産党だから!というのもどんなもんですかねぇ。
  

   >質問その④ 八ヶ岳に本部移転することをどう思います?森に行って、森の生活の素晴らしさを伝えて それで信徒にどうせいというのですか?信徒もみんな森に行けというのですか?みんな、腹の 中では、森で悠々自適の生活を送れるご身分の人はいいわよね、と思っているんですよ。それ でも八ヶ岳に行くことにあなたも賛成するのですか? <

 >谷口雅宣先生のなさることに間違いはありません。私は谷口雅宣先生を盲信しております えっ、盲信しているんですか?盲信ということばを一番、お嫌いなのは、実は谷口雅宣先生 なんですよ。生長の家は理性の宗教だと仰ったじゃありませんか!… それにしても〝盲信〟とは? これって、はっきり言って、「ハイ」の「ウエ」を行っていますよ ということで 八ヶ岳〟へ通ずる道の名は… 盲信拘束ハイウエ〟道路 でした。<

 このようにオトすとは・・・アッパレ!!座布団10枚、感心している場合じゃないや( ̄。 ̄;)
 ツカミから、オチに至るまで勉強になりました。


 しかし、これが本当の情報なら、Facebookを読んでね。頼みます。盲信だけは言い訳に使わないでください。

1720義春:2011/10/10(月) 13:43:26 ID:SjZg29/2
笑点ファン様
役行者様に続いて、私も書かせて頂きます。なにぶん山の上にいるのでパソコンに触れない為、詳しくは帰り次第書かせて頂きます。

>「谷口雅宣先生のなさることに間違いはありません。私は谷口雅宣先生を盲信しております」

という本部職員の方のお言葉ですが、それは雅宣先生のイエスマンという以上に、
雅宣先生に大変、失礼じゃないのかと私は思うのです。
雅宣先生は笑点ファン様も仰る様に、盲信については度々警鐘をならされています。
私の様な役職も就いてない平信徒が盲信に走るなら、分からなくはなくはありませんが…
雅宣先生に近くで普段から雅宣先生の御文章に接する事の出来る立場の方が【盲信】ですと!?
何と申しますか、繰り返しになりますが、雅宣先生の説く事には関心がなく、ただ総裁としての雅宣先生万歳じゃないですか
それは雅宣先生を物凄く軽視してる気がしてなりません。
それは良いのだろうか?と正直疑問に感じてなりません。

では、後ほど、家に帰ってからFacebookの御文章を引用して投稿します。

以上、弥山から無線での投稿でした。
さて山降りよう…と。

1721「訊け」管理人:2011/10/10(月) 14:40:14 ID:D0Kb5yw.


>役行者さま・・・・・

 熊本鎮台は笑点に目覚められたのかもしれぬが、相変わらずな強引さですな
・・・まああんな、プロパガンダ板でしか主張できぬ内容です。反論は来ま
せんし、安心です。信仰五歳児からなんか云われれば、「議論をふっかける
輩に注意」なんて言っていればよいのですから、まあ、ラクな商売ですな(笑)

 でもこれなんか、運動の求心力が低下しているんでしょうなあ(笑)だいたい
『生命の實相』を読むくらいの読書階級が、あんな文章や山下一臣氏の文章に
騙されるわけ「ねーじゃん」なんですが。

 本当に大丈夫か? 本 流 掲 示 板 (笑)

追伸

 もう私は最近・・・総裁よりも、あの掲示板が可哀想になってきました(笑)
ですんでもう、総裁代理人は廃業し、あの掲示板の代理人に、なろうと思いま
す(爆)

1722義春:2011/10/10(月) 15:55:20 ID:SjZg29/2
>>1721
ブログ管理人さあ
弥山に登っていて、姿みせん…なんちゃってw

笑点、儂好きなんですけどねぇ…いやぁ〜円楽師匠の(歌丸師匠の)棺桶ネタなんかは、もう爆笑なんですよね!
あっ、自分が棺桶に片足突っ込んでいたんだったorZ

えっ!?違う?

1723役行者:2011/10/10(月) 16:16:45 ID:6oT1EwjU

>訊けさん

 >「議論をふっかける輩に注意」なんて言っていればよいのですか ら、まあ、ラクな商売ですな(笑)
 でもこれなんか、運動の求心力が低下してい るんでしょうなあ(笑)だいたい 生命の實相』を読むくらいの読書階級が、あ んな文章や山下一臣氏の文章に 騙されるわけ「ねーじゃん」なんですが 本当に大丈夫か?<


 生長の家の組織に属している私としては、なんてコメントしていいことやら・・・。゚(゚´Д`゚)゚。
 

> もう私は最近・・・総裁よりも、あの掲示板 が可哀想になってきました(笑) ですんでもう、総裁代理人は廃業し、あの掲示 板の代理人に、なろうと思いま す(爆)<


 本流ラーメン屋と傍流ラーメン屋はお隣なのだから、もう、看板の冷やかし暴走は止めて、ラーメンの汁で勝負しましょうよ(゚∀゚ゞ)

 仕込みまっせ(ノ^^)ノ(o゚▽゚)o

1724役行者:2011/10/10(月) 17:51:10 ID:6oT1EwjU

 >さくらさま

 なんか、お久しぶりですσ(^_^)


>感情の噴出を招いたりしているようで 現状、冷静な判断ができるとも思えません。 それを打開するような、そもそも問題の原点に もどったところの、新たな理解や解釈が、必要 な気がします。 そのためには、大きな視点から物事を見直して みることは、とても意義がありますね 。これは大きな問題だと思うので、議論や一方的 な立場での主張だけではなくて、対話を通し て、事の真相にあるものは何なのか話しあうこ とが大切だと思いますよね<

 いやあ、見事です。事の真相に何があるか!ですね。沈思黙考をもって、話し合いたいと存じます。

 訊けさま!ラーメンのお汁でいきましょう。これで、オーケイ(^_-)-☆

1725うのはな:2011/10/10(月) 18:24:01 ID:iM0b0bt6
BGM   函館の女  歌 北島三郎

> は^^るばる来たぜ函館〜〜 さかまく波を乗り越えてぇ^^〜
 あとは追うなと言いながら 後姿で泣いてた君を 思い出すたび 恋しくて
 と〜〜ても我慢がああああ〜 できなかったよ〜〜〜♪

 「あらら九州男ちゃん、まさか九州に行ってるのに電話があるとは思わなかったわ」
 「九州に来たから電話したくなったんだよ」
 「宮崎地鶏のおじさんはキャバクラで大調和の神示を営業してなかった?」
 「やってたと思うけど、一緒についていってないから知らないよ。あとがこわいから」
 「そうね。そのうち北海道あたりにも出かけるでしょう、やれやれ。」

1726【本流】「訊け」【代理人】:2011/10/11(火) 07:12:39 ID:D0Kb5yw.

>役行者さま

>>1724

 じゃあ、じゃあ、じゃああ・・・ああああ、あれですか!?あれなんですか!?
 我が(笑)本流掲示板には、あなたの言う「汁」

 は い っ て な い

 とおっしゃりたいんですか!?

 随分失礼な発言ですね。トキさま、この方の処分を求めます。「虚説」と
和解、してたらイカンですから!!!この虚説と和解しないためにも!書き込み
禁止処分、お!

1727【本流】「訊け」【代理人】:2011/10/11(火) 07:50:03 ID:D0Kb5yw.

 本流掲示板と、ま っ た く 同 じ デザインの掲示板を立ち上げて、
そして、本流に掲載された文章をそのまま転写して、その掲示板にガンガン、
反論文を掲載しようとか、そんなイタズラを考えている人がいます。

 そんなイタズラ、されたらたまりません。ですんで、そんなことを検討して
いる方がいたら、「お願いですからやめてください」と厳命します。

 以上、本流掲示板代理人・「訊け」

1728役行者:2011/10/11(火) 08:32:18 ID:9FByRdFg

 >本流代理人、訊けさん

 こわああぁぁ〜
 本気モウド・・・訊けさん!
 筋書が違うよ!ここは、ボケなきゃ(~。~;)?


 何じゃ、この汁( ̄。 ̄;)
 隣で、傍流ラーメン屋を新装オープンしちゃーアカン(>_<)

 と・・・

 汁の味すら認めないの(;O;)

1729八百比丘尼:2011/10/11(火) 09:35:09 ID:j8iOdie.

ーー 鈴夜 傍流ラーメン店、見習いーー

《 野球部が、いつの間にかラーメン屋になってしまった。
  スープ用の鰹節、削ります!
  は、オレ? 【吉兆】から引き抜かれました。
  削りたての鰹節は、味も香りも最高。
  でも、片っぱしから味見をするので、全然たまりません。(クビ?)》

1730初心者:2011/10/11(火) 11:07:12 ID:4IaAZAME
>>1716
役行者様

自然との共生、というテーマで、対話を前提に、思うことをつらつらと書かせていただくことにいたします。

前口上もそこそこに、何事もなかったかのように登場いたしました初心者でございます。ここでなぜか思い起こしますのが、かねてよりこちらの掲示板で述べております、自然状態から文化的状態への移行の問題ということであります。

ジジェクによれば、文化的状態への移行は、自然状態からのひきこもり、と定義されているようでもありますが、こうしたひきこもりは、それがいつごろ、どのようにして始まったのかは定かではないにしろ、デカルトのコギトによって、その実現が、とうとう本格的にはじめられることになった、ということになるのであります。ここでデカルトのコギトを、曲解を承知でひと言で申しますなら、それは、物質はない、肉体はない、心もない、という否定性によって提示される主体ということであります。雅春先生が説かれた「現象なし」の教えとは、デカルト的コギトの追認であったともいえる気がいたします。

コギトによって示される主体とは、「ない」という否定性によって示される主体であります。自然状態から文化的状態へのひきこもりとは、「ある」という肯定性から「ない」という否定性へのひきこもり、と定義することが可能であるかと存じます。

では、「ある」という肯定性によって示される自然状態とは、いったいいかなる状態なのでありましょう。じつは、わたくしには、これが判然とはいたしません。それはつまり、わたくしの勉強不足ということにもつながるのでありますけども、それが仮に、古事記や神道によって示されるような状態であるとすれば、それがどのような状態であるのかを、はっきりと明示する必要があると考えます。

そのために必要となるのが、対話ということであります。人類が文化的状態へと移行する以前の自然状態とはどのようなものであったのか、これを、対話によってあきらかにすることが、自然との共生を考えるうえで、ぜひとも必要なことであると考えます。

しかも、生長の家は、文化的状態への移行によって避けがたく生じた「『ない』という否定性によって示される主体」の問題を解消するために、「実相」という超越項を持ち出すことになります。こうした超越項が、古事記や神道ともかかわりがあるやもしれぬ自然状態といかなる関係にあるのか、それを明示する必要があると考えます。

生長の家は、わたくしの見るところでは、主体の空無化をまねいたともいえる文化的状態へのひきこもり、の問題を解消するために、実相という超越項と、自然状態への回帰の呼びかけ、というふたつのあるべき姿を、ともどもに提示しているようも感じられます。

ここで問題となるのが、実相と自然状態との関係であります。これらがイコールであるのか、そうでないのかは、大きな問題であると考えます。仮にイコールでないとして、にもかかわらず、実相と自然状態との混同があるとするなら、これはゆゆしき問題であるといえます。生長の家において、自然状態と実相との混同はないのか、こうした問題もふくめて、自然状態、文化的状態、実相、の3つの項目の諸関係について、こちらでじっくりと対話をかさねてゆければと願っております。

文化的状態につきましては、いずれわたくしが、その定義や問題点、あるいはそれにたいする考え方といったものを、あくまでも個人的な見方という枠組みにおいて、語らせていただくことになるかとおもいます。

これは、大スケールの対話になる可能性があります。みなさまのご協力を要望する次第であります。

1731役行者:2011/10/11(火) 11:41:34 ID:9FByRdFg
皆さん!!

初心者さまが戻られたぞヾ(^v^)k

キケさん(>_<)

早く、戻ってきて(☆。☆)

義春チャン( -_-)ジッ

目を覚ませ(*_*;

1732さくら:2011/10/11(火) 11:46:54 ID:Kjx0j/Uk
初心者店長(ラーメン屋、オープン)

歓迎会は、なしです。

冷蔵庫に、ビール冷やしてます、

アサヒ、キリン…サッポロ、
好きなの、勝手に、飲んで下さいね。

では、昼時でラーメン屋、忙しいんで、また。

1733トキ:2011/10/11(火) 11:48:31 ID:QG56MSnA
>>1730

初心者様

 ご投稿、ありがとうございます。お帰りなさい。心からご登場を歓迎申し上げます。
初心者様がいない間は、少しだけ掲示板も元気がなくて、寂しく思っていました。
 管理人としても、個人としても、再登場に感謝しております。

 ご提示のテーマはすごく大きい内容なので、すぐにご返答が難しいですが、できるだけ
追いつくようにがんばります。

 今後とも、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

1734義春:2011/10/11(火) 12:03:36 ID:SjZg29/2
初心者さま
お帰りなさいませ!仕事中なので、取り急ぎご挨拶だけでもと想い投稿しております!
戻って頂き有り難うございます!

役行者様
有り難うございます!

1735前監督:2011/10/11(火) 12:11:33 ID:UodBcqiE

>校長

 やはり戻られましたか。しかも、戻られた場所が部室なんて・・・
素敵です(笑)

1736役行者:2011/10/11(火) 12:13:26 ID:9FByRdFg
OB役 常連さん

 >鈴夜 ちゃま

 ガチンコ ラーメン 傍流店 新装開店!!
 しまっていこう(^_^)v
 最高の味と香りの出汁が勝負(^O^)
 これで、本流店には勝てる(*^▽^*)
 オーーーーース!!(初心者店長)
 味の決め手の鰹節、もってこお〜〜〜〜い(>。<)
 
 ありゃ  また、鈴夜ちゃま、食べちゃったのね_(._.)_
 クシュン(/_;)
 気を取り直していこう(~o~)
 オーーーーース!!

 八百女将さん(*^o^*)

 今日は、打ち上げですね(^_^)v
  
 
 ところで、本流代理人キケさん(。・ω・。)

 はやく、戻ってきて(・_・、)

1737傍流高校吹奏楽部:2011/10/11(火) 12:20:07 ID:UodBcqiE
校長登場の曲
http://www.youtube.com/watch?v=oYCdKG5xg68



1730 名前:初心者 投稿日: 2011/10/11(火) 11:07:12 ID:4IaAZAME
>>1716
役行者様

自然との共生、というテーマで、対話を前提に、思うことをつらつらと書かせていただくことにいたします。

前口上もそこそこに、何事もなかったかのように登場いたしました初心者でございます。ここでなぜか思い起こしますのが、かねてよりこちらの掲示板で述べております、自然状態から文化的状態への移行の問題ということであります。

ジジェクによれば、文化的状態への移行は、自然状態からのひきこもり、と定義されているようでもありますが、こうしたひきこもりは、それがいつごろ、どのようにして始まったのかは定かではないにしろ、デカルトのコギトによって、その実現が、とうとう本格的にはじめられることになった、ということになるのであります。ここでデカルトのコギトを、曲解を承知でひと言で申しますなら、それは、物質はない、肉体はない、心もない、という否定性によって提示される主体ということであります。雅春先生が説かれた「現象なし」の教えとは、デカルト的コギトの追認であったともいえる気がいたします。

1738八百比丘尼:2011/10/11(火) 12:23:17 ID:j8iOdie.

ーー鈴夜 校長に向かってダッシュ!−−

《 わ〜ん、こうちょうせんせい。せんせいがいなくなってから、  
  野球部が廃部になっちゃったんだぞ。
  オレ、ラーメン屋でバイトしてんだ。
  キケ監督、さくらマネもこうちょうせんせいの胸に飛び込め!》
                        ゴロゴロ・・・・

1739商人:2011/10/11(火) 12:30:54 ID:TCt66b8E
初心者さま

お か え り な さ い !

なみだのでるごと うれしかです!

商人

1740役行者:2011/10/11(火) 12:40:49 ID:9FByRdFg

 >吹奏楽部長

 初心者校長さまったら・・・らしい・・らしい、登場ですねσ(^◇^;)
 
 難しき課題でごわんす(o_ _)o

1741「訊け」管理人:2011/10/11(火) 13:35:22 ID:UodBcqiE
訊け登場曲
http://www.youtube.com/watch?v=0bGmnLJLja4

>役行者さあ

 校長どんの問い合わせは要するに・・・・・「実相の存在(独在)を、五官
領域でも認識可能なように、証明してみせやんせ」ちゅうこって、ごわんそ。

 難題でごわす。もはや、本流さあ達と遊んじょる暇はございもはんで(笑)

1742役行者:2011/10/11(火) 14:25:32 ID:9FByRdFg

 >訊け管理人さあ

 大切なテーマでごわす(>_<)
沈思黙考しましょう。
 
 しかし、BGMのセレクトがお上手o(^-^)o
 ブログにしても、演出の才もあるね(#^_^#)
 頭下がります(_ _)

1743義春:2011/10/11(火) 14:36:12 ID:SjZg29/2
>>1742
役行者様
横レス失礼します。
私は初心者さまのあげられた言葉から勉強しようと思っております。

1744初心者:2011/10/11(火) 15:50:21 ID:4IaAZAME
掲示板のみなさま。身にあまる歓迎の言葉をいただき、ありがとうございます。さっそくですが、文化的状態についての私見を述べさせていただくことにいたします。これは、あくまでも私見でありますので、批判は随時うけつけております。ご意見などがあれば、ぜひお聞かせくださいますよう、お願いいたします。

文化的状態の説明に入る前に、知識不足の感がいなめない、自然状態についての若干の記述をさせていただきます。これについては、ジュリアン・ジェインズの二分心(バイキャメラル・マインド)一本槍の説明となりますので、古事記や神道にかんしての説明を、どなたか詳しい方につけ加えていただければとおもいます。

二分心とは、古代人の脳が、左脳と右脳とに分離した状態にあったと主張するジェインズの用語でありまして、右の脳からは神の声が発せられ、左の脳によって、古代人はその声に応答していたとする、仮説であります。

ジェインズの二分心に特徴的であるのは、二分心の時代には、人類はいまだ意識を持たざる状態にあったということであります。こうした無意識の状態こそが、いってみれば、自然状態ということになるのではないかと考えておるところであります。

ジェインズによれば、二分心の時代が終わったのが、早ければ、紀元前3千年ということになるのでありますが、これは、ウルクのギルガメッシュの時代と符合いたします。ロゴスのはじまりが、二分心時代の終わりであり、これによって意識が発生したと考えられます。左脳と右脳が脳梁によってむすびつけられたのが、やはりこの時代であったようであります。

二分心の時代を、神の声をうちなる声として聞く自然状態とすれば、左右の脳が結ばれたことによる言語能力の発達によってもたらされた文化的状態とは、神の声が、外なる声として聞こえはじめた時代であったということがいえるのではないかとおもいます。

自然状態から文化的状態への移行にさいして、大きな役割を果たしたのが、言語の発達ということになるのでありますが、これによって何が起きたのかということが、じつは、ことのほか重要な問題となるのであります。結論から申しますと、人類は、言葉によってモノや世界から切り離される、という重大な事態に直面するに至ったのであります。

モノと引き換えに、人類は言葉を獲得した。こうしたことがいえるのではないかと考えます。モノ自体として言葉をとらえることはできません。言葉はつねに、言葉のネットワークのなかでしか機能いたしません。言葉は、本来的に、言葉以外のものを説明することも、指し示すこともできないのであります。

したがって、言葉によってつくられた世界は、モノ自体とは無縁であります。それは、モノとは切り離された言葉だけの世界であります。意識が言葉によってつくられているとするなら、意識がかかわることができるのは言葉だけということになります。意識は、モノ自体とは、直接にかかわることはできない。これが意識の現実であると考えられるのであります。

「イヌ」という言葉を発声した瞬間に「イヌ」の概念は形づくられますが、それはあくまでも概念であって、現実世界に存在する「イヌそれ自体」とはまったく無関係な、言葉によってつくられたイメージということになってくるのであります。

ここで、文化的状態の定義として、それは、言葉によってのみ描きだされた世界を生きることである、という説明が可能となります。発達した言語能力を獲得した人類が生きることのできる世界とは、言葉によって織りなされ、描きだされた世界だけであって、そうした世界にはおいては、モノそれ自体は認識されず、物質はない、肉体はない、心もない、という世界を生きることしかできない主体があらわれてくる、と考えられるのであります。その代わりに、主体は、モノから切り離さた世界を、モノにしばられずに、好き勝手に思い描くことができるという自由を獲得したとも考えられるのであります。

1745役行者:2011/10/11(火) 17:00:47 ID:9NPAWgGY
>初心者さま
自然との共生、というテーマで、対話を前提に、問題提起してみました。

◆一点目◆
>自然状態から文化的状態への移行の問題ということであります。<

 言葉、特にロゴスの出現に深い関係がありますので、自ら名乗り出た義春さん、
よろしくお願いいたします。


◆◆
とはいうものの何の裏付けもないのですが、簡単に個人の見解を述べます。
日本の歴史史上で、仏教とキリスト教との出会いが日本を変えてきたと思われま
す。それは、実相を説く仏教、肉体はない(否定)を説くキリスト教、これらは、
超越項なので、理解に苦しみます。常識を物差しにしたら、何のことだか分から
ないのですから・・・

自然を信仰の対象にしていた神道国日本にとって、これらを受け入れることは、
大きな転換期であったと思うのです。
ですから、西欧の受け入りで、仏教もましてキリスト教に至っては、シニフィア
ン的解釈、つまり平面的な解釈しか出来なかったのでしょう。そうすると自ずと
ロゴスとなって、日本を蝕んでゆきます。
 日本においては、奈良時代、そして、明治維新の文明開化が、文化的状態への
移行期間であったのではないでしょうか?

もっと、遡れば、国つ神、天つ神の問題に行き着くとは思いますが・・・
◆◆


◆二点目◆

  >「ある」という肯定性によって示される自然状態とは,
いったいいかなる状態なのでありましょう。じつは、わたくしには、これが判然
とはいたしません。<


ロゴス出現前の状態、老子のいう、無為自然、ですか.
有為でない、はからいのなき状態なのでしょう。つまり、わたしも判然としない
です。
深く対話する必要性があります。


◆三点目◆

 > しかも、生長の家は,
文化的状態への移行によって避けがたく生じた「『ない』という否定性によって
示される主体」の問題を解消するために、「実相」という超越項を持ち出すこと
になります。こうした超越項が、古事記や神道ともかかわりがあるやもしれぬ自
然状態といかなる関係にあるのか、それを明示する必要があると考えます。<

>生長の家は、わたくしの見るところでは、主体の空無化をまねいたともいえる
文化的状態へのひきこもり、の問題を解消するために、実相という超越項と、自
然状態への回帰の呼びかけ、というふたつのあるべき姿を、ともどもに提示して
いるようも感じられます。
ここで問題となるのが、実相と自然状態との関係であります。<

 生長の家では、「そのままであれ!」を実相と読むことがあります。
 超越項「実相」と「そのままであれ!」が果たして、イコールで結ばれるのか?
大切なテーマです。また、「そのままであれ!」が自然状態、無為自然の摂理と
した場合でも、「実相」との関連性の解釈を必要とします。

 いずれにしても、生長の家の教えの問題というより、仏教やキリスト教に関わっ
てくるスケールの大きな問題ではないかと、勝手な解釈をしております。

自分の見解を述べながら、問題点をまず、三点に集約させて頂きました。

1746義春:2011/10/11(火) 17:29:03 ID:SjZg29/2
>>1745
役行者様
私にふって下さり、有り難うございます。初心者さまの御文章を拝読しながら私も役行者様と同じ様に感じておりました。
昨日の体験を通して文化的状態について疑問を感じていたところなのです。

仕事中なので、短文になりそうですが、自然状態の信仰というものについて、言葉にするのは、
非常に難しいのでありますが、昨日の体験によると、(語弊があるかもしれませんが)自然と向き合う中で、
自分の意識を超えた所で自然と一体となる、山岳信仰がそれなのだろうかと私は感じております。

(後ほど、夜に琴音様のお返事の中で、昨日の事を書かせて頂きます。)

1747志恩:2011/10/11(火) 18:10:16 ID:psrFh/ZU
わっ、おどろいたぁ◉。◉
スナフキン校長、帰られたんだ、温泉から。

よかった、よかった。
皆で熱心にお帰りコールの☎した甲斐がありましたね。♬

校長転じて、こんどは『傍流ラーメン店』の店長ですか。休む暇、ありませんね。
それにしても、本日の開店日に間に合うなんて、なんて間がいいんでしょう(笑)

温泉効果でパワーアップされて、ますます大きいテーマを提出されましたので、
勉強になります。

皆様、お揃いで、賑やかになって、いいこと。

今度、友人のうのはなさんをお誘いして、2人でラーメン、食べに来ま〜〜す。
では、またね。^^

1748「訊け」管理人:2011/10/11(火) 18:10:46 ID:n8lvISAg

>校長

 役行者さあが二番目に提示された件、これを「なぜ雅春先生は、実相独在
としたのか」と言い換えて、オイの仮説を披露すっでごあす。と、云いますか
これ、時間をかけて投稿をしていくと思いますけども、まあ・・・ザックリ
云えば「そう定義すると、良く機能するから」となるのではないでしょうか。

 もしもまあ、この世を倉田百三氏的(あるいは、ショーペンハウエル的)見方
で眺める限りは、これ、安心するということが不能になります。なぜと申せば
唯心所現でありますから、「良いこともあるが悪いこともある」な人生観から
瞬間瞬間を生きていれば、そのままその通りに「良いこともあるし悪いことも
ある」な人生になってしまいます。(雅春先生はここで、七転八倒の苦しみを
されておられますね。『生命の実相』20巻参照)

 今後、いろいろと投稿して参ります。ただ、我が主張線はこの「実相独在」
に関して申せば、「それが良く機能するから」というものになろうかと考えて
おります。

追伸

 五官領域で証明しようと考えれば・・・・体験談、これが証明(?)になり
ましょうか。
 生長の家が出している体験談はいづれも、これは科学実験に於ける観察報告
書に相当すると考えます。aとbの物質が融合すると理屈上は「炭」が出来ると
しましょう。それでも実際は「水が出来た」ならばどちらの事実が強いのか・・・
 生長の家の体験談は、これだと思います。「実相独在ではないハズなのに、
この考えを奉じた方の病が、実際に癒えている」・・・・

 まあ今後、ツラツラと書いていきます(笑)

1749「訊け」管理人:2011/10/11(火) 18:23:09 ID:n8lvISAg
(部室ですんで閑話休題W)
本流掲示板
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&amp;mode=res&amp;log=1007

「根性なし」さん、グッジョブ!
ただし白襷で笑う人のところは詳細に書いて欲しかった(笑っているのは、
この「訊け」だ、とw)

 て、いうかあれ、あのクーデター話ですけどやっぱ・・・・

 彼らは 真  顔  で、話していたんすか?(笑)

1750役行者:2011/10/11(火) 21:26:17 ID:9NPAWgGY
 >訊け管理人さあ

 どちらにしても、煽っているね(>_<)

 まあ、笑うしかないね。中味を深めてゆきましょう。
 
>いうかあれ、あのクーデター話ですけど やっぱ・・・・ 彼らは 真 顔 で、話していたんす か?(笑)
 
 ということになるね。外れているのが、わかちゃったのね。゚(゚´Д`゚)゚。

1751初心者:2011/10/12(水) 00:03:36 ID:4IaAZAME
役行者様、訊け管理人様、義春さん、対話にくわわっていただき、ありがとうございます。とりあえず、自然状態と文化的状態の概略については説明いたしましたが、この対話において、何を問題にしているのかということを、これから述べさせていただくことにいたします。

まずは、自然状態から文化的状態への移行は、意識の発生と関係があるのではないか、ということであります。もしそうであれば、文化的状態へのひきこもりは、意識の発生にとって必要不可欠な条件であるということになるかとおもいます。

こうした条件を加味したうえでの、文化的状態の評価が、まず第一に必要になってくるとおもうのであります。すでに説明いたしましたように、文化的状態における意識は、言葉によって織りなされた意識でありますから、必然的にそれは、空無ともいえる否定性をともなってあらわれてくることになるのであります。その理由は、言葉それ自体が空無なネットワークでありますから、したがって、言葉によって織りなされた意識は、これもまた、必然的に空無な否定性としてあらわれるしかない、ということが考えられるのであります。

さて、ここで問題となりますのは、空無な否定性としてあらわれた意識にとって、世界は、必然的に空無な存在として認識される、ということなのであります。これがつまり、生長の家で説く「現象はない」という考え方とも一致するのでありますが、わたくしが、まず第一に問題といたしますのは、生長の家で説く現象世界とは、以上に述べてきたような、空無な否定性としてあらわれてきた意識によって認識された世界についていっているのではないか、という、その可能性なのであります。

これはつまり、意識にとって、世界はたしかに空無として認識されるにしても、だからといって、意識によって認識される以前の「世界それ自体」が空無であるとはいえないのではないか、という素朴な疑問でもあります。生長の家で説く「現象なし」とは、意識発生以前の世界がすでに実在しない現象世界であるということをいっているのであります。

意識によって認識された世界は空無であります。わたくしたちの意識にとって、現象はたしかに非存在であります。「現象なし」の真理は、この段階ですでに完成されてしまいます。この意味において、「現象なし」とは、意識によって認識された世界について述べているものと考えることができます。では、意識発生以前の世界については、その非存在を如何にして知ることができるのでありましょうか?まことに勝手ながら、この問いを第一の公案といたしたいのであります。

このあたりの考察からはじめて、役行者様や訊け管理人様によってお示しいただいた方向性へと、対話を展開してまいりたいと考えております。自然状態と実相世界との関連をどのようにとらえればよいのか。これを最終的なテーマにいたしたいとおもっております。

勝手に登場して、みなさま方を巻き込み、まことに申し訳ありませんが、どうかみなさま方も、それぞれのお考えを展開していただきますよう、お願いいたします。ことに、ここでいう自然状態を、古事記あるいは神道との関連において語っていただきますことをお願いいたす所存であります。わたくしはとりあえず、文化的状態を中心に追究してまいりたいと考えております。

1752義春:2011/10/12(水) 01:59:45 ID:iu5Ar./Q
>>1751
初心者さま
 では、私は神道の自然状態から文化的状態について書かせて頂きます。
琴音様にレスした内容にかぶりますが、神道の自然状態を表しているのが、
山岳信仰ではないかというものです。

 山に登っていく中で、自然と相対しなければなりません。
それは実体験が全てであり、その中には言葉のネットワークによって
成り立たせねばならないものには依然しません。何故なら、言葉にできないものなのです。
これは私の勝手な想像ですが、修験道や密教での真言は、【言葉】というよりも
【響き】で一定のリズムに身を浸す事で、自然と一体化するものだと感じております。

 おそらく、原始の神道には、その部分があったのだと思います。
それをしたのが、巨石【岩倉】なのだとも感じております。
それを後生にまで残されたのが、役行者なのでしょう。
 
 その神道が文化的状態、即ち、ロゴス、言葉のネットワークに置かれてしまったのは、
仏教の伝来になります。この仏教という言葉のネットワークの中で表現されたもので
ありますから、それに影響されて、神道もそれに影響されている面があります。
(それなので、ユダヤ論の最後の辺りの日本はロゴスに侵されないというのは
成り立ちが依存していないであり、本来の姿はいう意味でと訂正いたします。)

 ただ、それでも日本の神道と仏教は習合する事で、共存する事になりました。
言葉のネットワークにおかれつつも、経典を持たない事で、言葉のネットワークに
どっぷり浸かる事から逃れられたのではないのか?と思うのであります。

 そして、キリスト教の影響ですが、こんなページに当たりました。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-100.htm
ここによると、仏教の葬式や神前結婚式もキリスト教の影響とあります。

 そして、決定的だったのは明治時代におきた廃仏毀釈です。
これは神と仏を明確に分ける事で神道の優位性を明示しようとした出来事ですが、
こういった【分ける】という事自体が西洋的であり、そもそもの日本の民族性から外れているのです。
私にはこれは、文明開化で文明の代名詞である【キリスト教】への劣等感と、
明示しないと文明的ではないとする考えがあったのではないか?と感じておるのであります。

1753志恩:2011/10/12(水) 03:19:49 ID:psrFh/ZU
「和耕軸」(わこうじく)の「古事道」より、

【古事記の理】の一部抜粋

原始時代の父祖は、太陽のおかげで温かく明るい「昼間・陽」と「夜間・陰」が存在することや、月が満ち欠けして四季を廻る理を生活に生かしていた。さらに、人間の肉体にも、目に見える「陽」の働きと、内蔵や心の中という「陰」の次元がある。
植物にも、草木の姿という「陽」と、土の中で根をのばし無限の毛根を張っている「陰」がある。古代人は、このようなことなどを知っていたので、現象一切の間には、見ることも触ることもできない「唯一の造化原理」が存在していて、自然も自分達の
生活も成り立っていると考えた。古代人はこのことを、人々とともに確かめ合って古事記物語としている。

古代人は自然と共存した生活の中で、宇宙造化の真相と日常生活の間には、「切り離せない関わりの理が存在していることを」確認していた。それらを古事記上巻で、自分達が共存して生きていく上で、最も重要な生死に関わる問題として、物語化して
語り伝えた。

物語は、日々に新たな心で現実の生活に即して「物事の因と果の関係」に潜む理を確かめ合い、共に修めて活動しながら助け合う「生き方の鏡」であった。

現代の人々は、豊かな生活をもたらしている「自然の理と父祖の開拓心の恩恵」は忘れてはならない。父祖の「耕す心」が惰性にならないように、常により良い共同生活の理を修めて生活する必要があった。それを”天孫ににぎのみこと”が降臨した
物語として「生きる心の鏡」とした。


古事記に学ぶ 高級霊の生き方
※日常生活を感謝で過ごす、たとえどのような仕事でも(鈴夜ちゃんが、かつお節を削る仕事、地位の高い仕事、最も底辺の仕事、人々が卑しむ仕事、家事の仕事)であっても、今自分ができる仕事を見つけ出して、
自己本位でなく「関わる人々にお仕えする情感」で気配りをし、仕事のあることを悦び感謝できる気持ちが、天神(あまつかみ)に継続した最高の生き方であり、感情であり、認識のレベルなのです。
誠意のこもった生き方ですね。

1754「訊け」:2011/10/12(水) 04:12:55 ID:UodBcqiE

>校長殿

 ああ、力点はそちらでしたか・・・・沈思黙考します(笑)

>志恩さま

 すごい!!
 拝読させて頂きます。

1755志恩:2011/10/12(水) 04:27:52 ID:psrFh/ZU
現象と実相に触れている部分の
「古事記の理」一部抜粋

神霊界から見れば、「霊体・幽体も、肉体を基盤とした体」である。したがって、肉体という感情と認識の殻を破ることは、自己の本性である「天神の命」(あまつかみのみこと)という神霊をたずねて、無限に、久遠に、、新生し続けることになる。
だが、この場合にも「天神のみ実在」ということばは「現象は実在でない」という意味だと思うのに、「実在でない」という現象世界が、どうして「天神の世界に存在しているか」という疑問が生じてくる。
だが、この疑問を感じることは少なく「現象は実在だ」と、錯覚している。

しかし、、、自分の多種多様な「患い・問題・災害」などを生じさせる黄泉の国のこころに「自ら気ずけば」必ず救われる。、、、「個人の常識が『本末転倒』になって苦瀬に落ちている」のを気ずくと。

「実在」と「現象」とは、どういう関係になっているのかという疑問を生じさせ、「実相世界に現象は何の為に存在するのか」を自問自答して、「天神の命」という「久遠の大生命」に生かされている自分の本性に、、自ら気ずく。
この「真理に覚醒する経過そのもの」が、高天原に坐す天神の慈愛を本性とした「理」の真実である。

古事記の理を生きた時、考えられないような奇跡的再生の起こる事実を数多く経験し、見聞している。




初心者さまのテーマもご文章も難しいし、古事記も深くて難しいし、簡単に分かりやすくまとめて書きたいのですけれど、それでなくともアホなのに、書くことができません。ほんとは、もっとなが〜〜い文なのですが、面倒なので、一部抜粋にしました。
テーマとは、まったく別のピントはずれのことを書いてる気がしますが、ご了承になって、くださいませませ。
後のことは、他の賢い皆様がおられるので、安心しております。

1756「訊け」:2011/10/12(水) 04:50:08 ID:UodBcqiE

>皆さま

 なにか、すごく面白い展開が予想されますね。さてどのように参加すべき
や・・・・・ちなみに今、「中世の魔女狩り」なんかの本を読んでいるん
ですけども、こっちの方が面白そうなのでちょっと中断します(笑)

1757さくら:2011/10/12(水) 07:03:51 ID:T/77sMGw
*これまでのあらすじ*
校長が出て行ってからというもの、さくらは、廃部寸前の野球部もふらふらと出入りしているうちにマネージャーの職を失い、校長宛てに来た嘆願書やら決闘状やらラブレターやら電話の問合せやらの処理に追われて、すっかり荒んだ生活をおくりました。野球への情熱も失い、ツマラヌひとにも引掛りました。
そんな日々の中、パワーアップした校長が突如傍流高校に戻ってきて何事もなかったように講義を始めると、昼はラーメン屋でバイトしながら、苦学生として多少は心入替えて出直そうと思うさくらでしたが・・・


さて、展開が大きすぎてちょっと入りづらいけれど・・だれでも生長の家の問題に向き合うなら考えたい内容で、生長の家の教義も洗いなおして教えていただきたいような気持ちにもなりますね。
ジジェクなんかの下ごしらえなしに、いきなり理解できたらすごいんですけど、とりあえず、これはいまのおしえの方針、というか、そもそも、生長の家がどこに向かっているか、それを認識するのに重要な考案のようです、。

生長の家の「物質なし、現象なし、心もなし」というさとりはまた、文化的状態のひきこもりの必然だったということ、その問題の解決として、実相への飛躍、自然状態への回避の呼びかけがあった、ということでしょうか。
生長の家の、自然への回避と、実相との混同、がゆゆしき問題であると指摘されていますが、これについてはまたヘビーな展開になりそうな予感が・。

思想的にもそうですけど、その展開としての運動はどこへ向かっているのか再認識したい気もいたしました。トキ様が組織の限界を感じるようなことも言っていたけれど、「人類光明化」を使命としていたはずの生長の家が、限界を感じるようになるその出発点と言うのは、何でしょうか、とも思います。

自然状態への回避は、古事記や神道のような宗教や信仰性の原点に立ち戻る、ということを意味するとして、
いまのおしえの、自然との共生。そんなニュアンスを匂わせることもありますが、方針的には、全く別の展開をしているとも見受けられもします。


義春さまが示して下さいましたが、神道においても神仏習合の歴史があるように、日本人の、融合を果たすセンスというか、寛容さは、やはり抜群だな、と感じます。仏像を拝むその背後に古代信仰の息吹があったように、外部の思想をも受け入れ、独自でありながら凝り固まらない寛容さのもとに、美しい文化の発展もあったように思います。
それが、分ける、という西洋的な合理主義は、日本人の民族性から外れることとなるのですね。
これについても、志恩さまが示して下さった「古事記の理」で、分かりやすく共感ができました、ありがとうございます。

漠然と考えてきたことが、賢者のみなさまの知識で色々認識できたらと、楽しみです。

拝。

1758初心者:2011/10/12(水) 07:22:07 ID:4IaAZAME
義春さん

今回のテーマは、非常に多岐にわたるとおもいますが、やがてひとつにむすびつくものと考えております。

わたくしは、まずここで、シュタイナーの歴史観を提示したいとおもいます。シュタイナーの歴史観の特徴は、外的な資料にたよるのではなく、内的な感覚にもとづいて組み立てられているということだろうとおもいます。

外的な資料にたよる歴史観と、内的な感覚にもとずく歴史観のちがいは、通常の歴史観が、物質界における出来事を問題にするのにたいして、シュタイナーは、アストラル界における出来事を問題にしている、と言い換えることができそうであります。

そのシュタイナーは、人類の歴史を、大きく3つにわけて考えます。まず最初が「対象記憶の時代」、そのつぎが「リズム記憶の時代」、そして最後が「時間記憶の時代」というような具合であります。

「対象記憶の時代」では、人々の記憶は、つねにモノとむすびつくことになります。それは、特定のモノを見たときに、そのモノにまつわる記憶が呼び覚まされる、といったような記憶の仕方であったようです。ですからそれは、重大な出来事がおこれば、その出来事の記憶を呼び覚ますために、記念碑を建てるということが日常的におこなわれていた時代であったようであります。

つぎに訪れるのが、「リズム記憶の時代」であります。この時代の言葉は、言語というよりも、むしろ、リズムに近いあり方をしていたとシュタイナーは考えます。こうした時代にあっては、「対象記憶の時代」とは異なり、特定のリズムによって、それにむすびつく記憶が呼び覚まされるという意識のあり方が出現した、と考えることができそうであります。

そして現代はといえば、それが「時間記憶の時代」ということになります。これは、おもに言語を用いることで、記憶を時間的に、いくらでもさかのぼることができるという意識の時代でもあります。

義春さんがいっておられる山岳信仰の感覚の根拠が、「対象記憶の時代」や「リズム記憶の時代」にあるのは、あきらかでありますね。シュタイナーは、「時間記憶」だけにたよるのではなく、「対象記憶」や「リズム記憶」の時代の意識を体験することの重要性を説いているようであります。自然との共生を考える上で、こうした太古の時代の記憶や意識のあり方を再体験することの意義は、ことのほか大きなものであるという気がいたします。

義春さんの実体験による経験は、それが、まさしくこうした意識のあり方の再体験であったという意味では貴重なものであったはずです。今回の投稿で示されたような方向性で、自然状態とは何か、というテーマを追究していただければと願っております。

それと、日本における文化的状態への移行が、仏教の伝来によってもたらされたという考え方、そしてそれが明治の時代になって、さらに決定的になったという考え方は、役行者様が示された方向性とおなじでありますね。このことにつきましても、できれば、より詳しく考察していただければと考えております。

1759初心者:2011/10/12(水) 09:20:48 ID:4IaAZAME
志恩さま、対話へご参加いただき、ありがとうございます。

わたくしの目指す方向性は、文化的状態を評価しつつも、自然状態を美化しておきたい、というものであります。その自然状態を語るうえで、古事記や神道にまつわる知識や見識が必要不可欠であるようにおもわれますが、わたくしには、それらのものが著しく欠如しているようにも感じられるのであります。

今回、志恩様によって提示していただきました、自然状態における生き方や、その根本となる考え方は、わたくしの「自然状態を美化しておきたい」という欲求にかなうものであったようにおもいます。

自然状態における人々のあり方をひと言でいうとすれば、昼夜の入れ替わり、月の満ち欠け、四季のうつろいなどによってもたらされるそれぞれのリズム感にたいする、人々の感情の変化が、そのまま宇宙的原理へと結びつき、そうした原理がふたたび人々のもとへと回帰することで、共同体の象徴的秩序が築かれ、そうした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた、ということが、どうやらいえそうでありますね。そうした、太古の時代の人々の関係性のあり方を、志恩様に提示していただいた文面から、具体的に感じ取ることができたような気がいたします。

それと、2度目の投稿に「黄泉のこころ」とありますが、これが文化的状態における意識のあり様と一致するのでありますね。この「黄泉のこころ」にたいする考察は、またのちほど展開させていただくことにいたします。今回、志恩様からは、わたくしが勝手に提示いたしましたテーマにそった有意義なご投稿をいただいたようにおもいます。心から感謝の意を表させていただくことにいたします。ありがとうございました。

1760初心者:2011/10/12(水) 11:54:56 ID:4IaAZAME
「黄泉のこころ」ではなく「黄泉の国のこころ」でありました。ここで、「黄泉の国のこころ」について、少しばかり書かせていただくことにいたします。

「黄泉の国のこころ」を、生長の家では、「なにものをあるとおもうこころ」と説いているはずでありますが、わたくしはこれを、「あるものをないとおもえるこころ」と言い換えることができるのではないかと考えるのであります。本当は、世界はそこにある。にもかかわらず、これを「ない」とおもえるこころこそが、文化的状態における意識であると、このように考えるのであります。

本当にそこにある世界を体験できるのが自然状態であるとするなら、本当にそこにある世界を体験できずに、「ない」とおもってしまうのが、文化的状態における意識なのではないかと、このように考える次第なのであります。

これはつまり、ひとつの考え方として、実相世界はすぐそこにあるにもかかわらず、それを「ない」とおもってしまうのが、文化的状態にひきこもった意識の特徴であり、「黄泉の国のこころ」の特徴でもあるということがいえる、ということなのであります。

これをさらに突きつめるなら、現象世界は人の意識のなかにのみあり、その意識のなかにのみある世界を「ある」とおもい込んでいた人が、あるとき「ない」と気づくのが、生長の家でいうところの、「現象なし」の悟りなのではないかと、このように考えることもできるということなのであります。

「現象はある」にしても「現象はない」にしても、それはすべて人の意識のなかでおきている出来事であって、実在の世界は、じつはすぐそこに存在しているのかもしれません。そして、すぐそこにあるはずの世界を、文化的状態にひきこもった現代人の意識が、「ない」とおもい込んでいるのが、「現象なし」の悟りの正体であるのかもしれません。

こうした考え方からすれば、「病気はある」という信念は「黄泉の国のこころ」の産物となるのでありますが、「病気はない」という信念もまた「黄泉の国のこころ」の産物となるのであり、それぞれの信念にもとづいた世界が、意識のなかで展開されているにすぎない、ということがいえるのであります。

これは、反・生長の家主義者をよそおっているわたくしからの、生長の家にたいする批判となるのでありますが、これははたして批判といえるのでしょうか、それとも、生長の家の教義そのものなのでありましょうか。

現象は「ある」にしても「ない」にしても、それはすべて意識のなかの判断でしかなく、実在の世界は、そうした判断とは無関係に、つねにそこに存在しつづけているとすれば、その実在する世界とは、自然状態なのでありましょうか、それとも実相世界なのでありましょうか。自然状態と実相世界の混同。これがおきている可能性があるはずであります。

いずれにしましても、「あるものをないとおもえるこころ」こそが、文化的状態にひきこもった現代人の意識の特徴であるとするなら、そして、それでも本気で真理を追究しようとするなら、こうした意識にたいする考察が、ぜひとも必要であるとおもう次第であります。あるものをないとおもってしまう意識。これが問題であると考えます。

1761役行者:2011/10/12(水) 12:41:43 ID:O6oz921Y
 >初心者さま

 >「現象なし」とは、意識によって認識された世界について述べているものと考えることができます。
 では、意識発生以前の世界については、その非存在を如何にして知ることができるのでありましょうか?まことに勝手ながら、この問いを第一の公案といたしたいのであります。<


>自然状態を、古事記あるいは神道との関連において語っていただきますことをお願いいたす所存であります。<

 ということになると、仏教・キリスト教伝来の以前における、神道また、その日本の自然信仰を何とかまとめて編集した「古事記」において、語るということになりましょう。

 初心者さまが以下のよう、仰っていました。

>ジェインズによれば、二分心(意訳;神と繋がる意識)の時代が終わったのが、
早ければ、紀元前3千年ということになるのでありますが、これは、ウルクのギ
ルガメッシュの時代と符合いたします。ロゴスのはじまりが、二分心時代の終わ
りであり、これによって意識が発生したと考えられます。左脳と右脳が脳梁によっ
てむすびつけられたのが、やはりこの時代であったようであります。<

 これは、日本で云えば、神武維新より遙か以前となります。もう、直感で書きます。間違いがあれば加除訂正のほどを・・・・

 弥生時代の始まりが大体、神武維新としますと、その前は、日本では縄文時代とあいなります。
 私はこの時代の方々を、勝手に国津系と命名させていただきます。
 日本ではこの縄文時代を大雑把に、ロゴス発生以前の自然状態と云ってよいので
はないかと思ってます。

 神武維新以降を、天津系時代といたします。その後、700年代に「古事記」が編纂されます。
 編纂した時期的に推測しますと、天津系の視点から編纂されたといっても過言ではないか
とぞんじます。
 ですから、この古事記という書物は、日本史上、大変なキーワードになるかと思うのです。

“ロゴスをもたらしたのか?それとも、自然状態を縄文文化から継承したのか?”

ということになります。

 そこで、志恩さまが捉えた古事記解釈から察しますと

>自然状態における人々のあり方をひと言でいうとすれば、昼夜の入れ替わり、
月の満ち欠け、四季のうつろいなどによってもたらされるそれぞれのリズム感に
たいする、人々の感情の変化が、そのまま宇宙的原理へと結びつき、そうした原
理がふたたび人々のもとへと回帰することで、共同体の象徴的秩序が築かれ、そ
うした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた。<

と述べられいる訳ですから、縄文から自然状態を継承されたと観た方が良さそうな気がします。
初心者さま、また皆様、どうでしょうか?

 いずれにしても、意識発生以前の世界については、いにしえ、縄文時代から学ぶのも一つかと思います。

1762「訊け」管理人:2011/10/12(水) 13:27:47 ID:MPQg3/HY

>みなさま

 ・・・・解ったふりをするくらいのそんな技、持ち合わせている私ですが、
そんな私から一言。


 解  ら  な  い  (笑)


 ついて行けるよう、もう少し沈思黙考します。

1763役行者:2011/10/12(水) 13:40:42 ID:ASbq51hA

>訊け管理人さま

 縄文的思考を持ち合わせてる訊けさま!
 縄文文化などは、詳しそうですけど・・・_(._.)_

1764義春:2011/10/12(水) 13:48:00 ID:SjZg29/2
>>1758
初心者さま
歴史についてのご説明、真に有り難うございます。シュタイナーについては未知の分野ですが、感覚的に彼の言わんとする所がわかります。

『対象記憶の時代』『リズム記憶の時代』これは『岩倉』と『真言』に対応しているかと存じます。

文献にもあたっていませんが、実体験の記憶がそうだと言っています。
『リズム記憶の時代』つまり真言を唱えていますと、まだ初歩の段階ですが、心が落ち着いていく感覚があります。
その感覚が自然のリズムと同調する様にも感じます。

もう休憩が終いなので続きは夜に投稿させて頂きます。

1765初心者:2011/10/12(水) 14:27:28 ID:4IaAZAME
役行者様

「解らない」というご発言がありますので、このあたりで、今回のテーマの趣旨について、説明させていただくことにいたします。

わたくし、じつはですね、生長の家がなにをなそうとしているのか、それが判然とはしないのであります。教団がこれまでなにを実現しようとしてきたのか、それがよくわからないのであります。

そこで、わたくしなりに、わからない理由を考えてみました。そして、その理由として、2つの混同がなされているのではないかと、おもいいたったのであります。

混同の1つは、自然状態と実相世界の混同であります。具体的にいえば、天皇国日本の実現でありますが、これが実相顕現の文脈で語られていることに、非常な違和感を覚えるにいたっていたのであります。天皇国日本の実現。これはむしろ、自然状態への回帰として考えたほうが、個人的には理解できるのであります。

天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、個人的にはこのように考えます。自然状態への回帰と実相顕現との混同が、教団内部でさけがたくおこなわれてきたような気がいたします。これを1つの問題として提起いたしたいところであります。

あとの1つの混同は、個人意識と共同体意識の混同であります。これは私見でありますが、生長の家が問題にしてきたのは、個人意識ではなく共同体意識ではないかと、このようにおもうのであります。しかしながら、しばしば、個人意識と共同体意識の混同がみられ、個人意識に重きをおいたがごとき発言がみられるようであります。生長の家は、個人意識と共同体意識の、いったいどちらを問題にしようとしているのか、これがじつは明確にされておらないのであります。

これはいうまでもないことでありますが、個人意識とは、文化的状態へのひきこもりによってもたらされた意識であり、共同体意識とは、自然状態における意識に近いものであるとおもいます。こうした、2つの、時代背景が異なる意識が混同されていることにより、生長の家の目指すべき方向性が、きわめて不明瞭なものになっている点が問題なのではないかという気がしております。

そして、わたくしがかねてより懸念しておりますのが、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化であります。イデオロギーとはそもそもなんであるかをジジェク的に表現するなら、それは「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをおこなっている」ということになるのであります。つまり、「彼らは生長の家がなにをなそうとしているかを知らない。しかし彼らは生長の家をやっている」と、こういうことになるのであります。

シニフィアンの暴走と、それによる教義のイデオロギー化をとめるには、生長の家がなにをなそうとしているのかを明確にする必要があるということです。そして、そのためには、2つの混同の問題を解消する必要があると考えます。2つの混同を明確にし、それによって、生長の家がなにをなそうとしているのかということを明示することによって、シニフィアンの暴走と教義のイデオロギー化を終焉へと向かわせることができるはずであります。そうすることで、はじめて本格的な和解の道がはじまると、このように考える次第であります。

それと、縄文時代と弥生時代との区分でいえば、縄文時代がより自然状態に近いということがいえるとおもいます。そこで、自然状態の時代とはどのような時代であったのが、これを明確にできればとおもいます。

それから、今回のテーマは大スケールの物語であるはずであり、しかも物語はまだはじまったばかりでありますから、「解らない」との印象をもたれるのは当然のことかと存じます。ご質問などいただければ、可能なかぎり回答いたす所存であります。テーマに関心をお持ちの方は、ぜひともご質問いただきますようお願いいたします。また質問の内容がわたくしま手に負えない場合は、みなさま方のご助力を期待する次第でもあります。

1766「訊け」:2011/10/12(水) 14:43:58 ID:pKyUoMfA

>校長殿

 ただいま、「買おうか買うまいか」などと迷っておりますアイパッド。
考慮中のソフトバンクショップから返信しております。

「補足をありがとうございました」


 以上、アイパッドからお送り致しました。スタジオへお返しします。

1767初心者:2011/10/12(水) 15:31:12 ID:4IaAZAME
訊けさま

買えば。

1768初心者:2011/10/12(水) 16:01:41 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

さくらちゃんまで対話に参加してくれるなんて・・・(泪)

それにしても、わたくしがスキゾフレニックな逃走をくり広げているあいだにも、ずいぶんと苦労なされたのでありますね。そうと知っていれば、もっと早くもどってまいりましたのに。

おもえば、ここを去ったはずの460がもどってきて、なんやかんやとうるさくいうので、去ったはずのわたくしまでもが、もどらざるを得なくなってまいりました。もどった以上は、スパルタンな過激さで教団批判をくり広げるつもりでありましたが、掲示板のみなさま方から、予想もしなかった暖かい歓迎を受けたことで、わたくしも、教団の和解に一役かわせていただこうとの気持ちになり、和解への道筋を示させていただくことにいたしたのであります。

もちろん、どさくさまぎれに教義への批判はおこなうつもりでありますが、本筋は、和解へ向けた青写真を提示するということになるのであります。その青写真のあらましを、さくらちゃんが、わかりやすくまとめてくださいました。これには、感謝いたすよりほかはありません。もしもテーマがわかりにくいといわれる方がおられましたなら、さくらちゃんの#1757の投稿文を読んでいただければ、だいたいのあらましはご理解いただける気がいたしております。

さくらちゃんも書いておられるように、生長の家の運動は、どの方向へと向かっているのでありましょうか。それが、どうもはっきりとしないのでありますね。人類光明化といってみても、立教以来、人類がどれほど光明化されたのかはさだかではありません。わたくしのみるところでは、生長の家は、見事なダブルバインド状態にあるような気がいたします。立教以来の教団のあり方は、自然状態への回帰と実相顕現とのあいだで分裂し、個人意識と共同体意識とのあいだでも分裂し、そうしたダブルバインド状態のなかで、進むべき方向性を見失ってきているような気がいたしております。

現在の教団を取り巻くゴタゴタも、その真相をたどれば、こうしたダブルバインド状態に原因が求められるような気がしてならないのであります。いっこくも早くダブルバインドを解く必要があるように感じます。わたくしひとりで孤軍奮闘してみたところでたかがしれておりますので、さくらちゃんのご協力を期待いたしたいとおもいます。

1769役行者:2011/10/12(水) 16:51:59 ID:5JisqZbg
>初心者さま

 さまざまな問題が交錯し、織り込まれているので、確かに、難解かと存じます。
 
 >◆2つの混同の問題を解消する必要があると考えます。2つの混同を明確に
し、それによって、生長の家がなにをなそうとしているのかということを明示す
ることによって、シニフィアンの暴走と教義のイデオロギー化を終焉へと向かわ
せることができるはずであります。そうすることで、はじめて本格的な和解の道
がはじまると、このように考える次第であります。<


 異議はありません。スケールの大きな課題です。明らかになる日を楽しみにし
ております。また、一同ともに、真剣に、支援、協力させていただきます。

 
>◆それと、縄文時代と弥生時代との区分でいえば、縄文時代がより自然状態に
近いということがいえるとおもいます。そこで、自然状態の時代とはどのような
時代であったのか、これを明確にできればとおもいます。<

ここは、義春さん!歴史です。お頼み申す。申されて_(._.)_


>◆天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。
それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、個人的に
はこのように考えます。自然状態への回帰と実相顕現との混同が、教団内部でさ
けがたくおこなわれてきたような気がいたします。これを1つの問題として提起
いたしたいところであります。<

天皇国日本の実現は、自然状態への回帰!確かに、
すんなりと受け入れることができます。
天皇国日本が軍国主義というシニフィアンと繋がったら、
決して、天皇陛下が望まれない方向に暴走することがあるから、そのようなこと
を避けるためにも、大切な問題提起と思われます。


>◆個人意識(意訳;近代、現代)とは、文化的状態へのひきこもりによってもたらされた意識であり、<

>◆共同体意識(意訳;縄文、弥生時代)とは、自然状態における意識に近いものであるとおもいます。<

>◆こうした、2つの、時代背景が異なる意識が混同されていることにより、
生長の家の目指すべき方向性が、きわめて不明瞭なものになっている点が問題な
のではないかという気がしております。<



 生長の家が問題にしてきたのは、個人意識ではなく共同体意識ではないかと、
また、生長の家は、個人意識と共同体意識の、いったいどちらを問題にしようと
しているのかと、初心者さまは述べられておりますが、この辺が理解出来ないの
です。どちらも、問題にしなければならない課題かと存じますが・・・
また、個人意識を問題にしてきたからこそ、個人の救済があったのではないかと存じますが・・・

1770初心者:2011/10/12(水) 17:01:35 ID:4IaAZAME
役行者様

さきほども書きましたように、わたくしは、生長の家は、丸ごと、ダブルバインド状態に陥っているような気がしております。こうした状況を抜け出すのは可能かと存じますが、そうなったときに何がおこるのでありましょうか。

教団の目的が明確となり、ひとつの方向へと向かい始めたときに、教団の解体がはじまるやもしれません。矛盾があらゆる同一性の内的な条件であるとすれば、矛盾が解消したときに、それとともに同一性がうしなわれ、教団は解体へと向かう危険性がないとはいえないとおもうのであります。「彼らは生長の家がなにをなそうとしているのかを知らない。しかし彼らは生長の家をやっている」からこそ、活動や信仰をつづけることができているのかもしれません。人間とは、まことにもって複雑な生き物であります。

さて、縄文時代から弥生時代への移行にさいして、自然状態から文化的状態への移行がはじまったとする見方ができるとすれば、その時期に、左右の脳が脳梁によって結ばれるという構造的変化が、脳におこっていたはずであります。おそらく、こうした変化は、地球規模で、全人類を巻き込む形で引き起こされたにちがいありません。もしそうであるとすれば、こうした進化が、人類にとって必然であったともとらえることができるようにおもいます。


脳の構造的変化が必然であったとすれば、文化的状態へのひきこもりもまた必然であったということになるはずであります。そうであるとするなら、これは、文化的状態へのひきこもりを、たんに否定的にとらえるだけですむ問題ではない、ということにもなってくるのであります。

二分心の提唱者である、ジュリアン・ジェインズによれば、自然状態から文化的状態への移行は、かならずしもうまくおこなわれたわけではなく、内なる声として聞こえていた神の声を、外なる声として聞かざるを得なくなったといったような問題をふくめて、さまざまな問題が、人類意識において発生したということになるようです。こうした問題点を修正するために、ブッダやキリストは出現しなければならなかったとまでいわれているようなのであります。

新時代の意識が、ブッダやキリストの出現を要請したとするなら、これはなかなかに面白いテーマであります。こうした問題に真正面から取り組めば、とてつもない大スケールで、物語が語られることになるでありましょうね。

1771トキ:2011/10/12(水) 17:06:21 ID:k7.Dct06
 難しいテーマでしたので、少しカンニングをしました。神道の場合、古代の「アニミズム」の形を取る「古神道」もあれば、
戦前のような「国家神道」もあり、その多様性には驚かされます。いろいろ調べたのですが、まだ消化不良で満足の行く投稿が
かけるまでには時間がかかるでしょう。ですから、初心者様のご質問からは外れますが、とりとめもない感想を書いてみます。

 普通、教派神道なり国家神道なりが登場すると、「古神道」のようなアニミズムは消滅するものなのですが、日本の場合、数
は減ったとは言え、現在でも「古神道」が存在する事を考えると、やはりそれなりの意義があると感じます。もともと、教義と
いうのは「神仏」なり「信仰」を人間に説明するために生まれたのですが、いったん、誕生したら、今度は、教義が人間を束縛
するようになります。これに対して、体系だった教義を持たない「古神道」は、曖昧模糊としてとらえようがない面があります
が、教義で人間を束縛しないため、ダイレクトに「信仰」を経験する感じを人間に与えるという長所があるのではないかと想像
します。過去においては、アニミズムというのは、原始宗教と言われ、下等な存在のように思われ、他方、教義を持つ宗教は有効
何か高等な宗教のように思われました。しかし、たかが人間の頭に理解できる程度のお話をもって高等と称するのは、少し人間
の傲慢であったとは思います。体系だった教義を持つ信仰も大切であると共に、アニミズムもそれなりの存在価値があったと
思います。
 このアニミズムの信仰は、一つ間違うと、単なる「あぶない人」になってしまう危険性があります。しかし、反面、自己内在の
神性、仏性を高めるという手段で使われれば、教義に偏りがちな信仰にブレーキをかけるな手段になると思います。

 少し話しがずれますが、中東では、今でもイスラム過激派による自爆テロが頻発しています。それは、一部のイスラム過激派
がテロを正当化する教義を若者に教え込んでいるからです。

 ところが、ある日、ある自爆テロ犯人が起爆装置のスイッチを押さずに自首しました。その理由を聞かれた若者がこう答えたのです。
(うろ覚えの部分がありますので、お詫びします。)
「起爆装置のスイッチを押す前に周囲の人達を見た。周囲の人達の幸せそうな顔を見ていると、自分はスイッチを押すべきではない、と
いう思いがわき上がってきた。」と。(ニューズウイークの記事だったと思いますが、自信はありません。)この人の場合、最後に
内在の神性、仏性がこみ上げて来たのですね。

 こういう自己内在の神性、仏性を高めるという目的での信仰という意味では、アニミズム的な方法は否定されるべきではないかもしれ
ません。(もっとも、アニムズム的な方法だけで、信仰の暴走を防止できるとは断言できないとも思いますが。)

 しかし、初心者様の提示されたお話は、壮大で、返答をするのは、まだ、時間がかかると感じます。

 どうも、関係のない話を書きまして、すみません。

合掌 ありがとうございます

1772初心者:2011/10/12(水) 17:11:01 ID:4IaAZAME
役行者様

個人意識にかんしましては、これもまた大スケールの問題になるかとおもいますので、これからじっくりと対話していければと考えておるところであります。なにしろこの問題は、カント、ヘーゲルからはじまって、フロイト、ソシュール、ラカン、ジジェクとたどったところで、とうてい収まりがつく問題ではないような気がいたします。とてもわたくしの手に負える問題ではありませんので、適当にお茶をにごすことになりそうであります。

わたくしは、雅春先生によって、こうした難問題の泥沼に引きずり込まれてしまったのでありますよ。これははたして、救済といえるのでありましょうか。

1773初心者:2011/10/12(水) 17:24:43 ID:4IaAZAME
トキ様、対話にご参加いただき、ありがとうございます。

これだけ参加者が多くなると、わたくしひとりでは、とてもまとめることができません。勝手に対話をはじめておきながら、このようなことをお願いするのは気がひけるのでありますが、トキ様、どうかご助力のほど、お願いできますでしょうか。それと、神道にかんしましては、わたくしはまったくの門外漢でありますので、自然状態というテーマにそって、神道にかんするご意見を随時お聞かせいただければと、そのようにも願っております。

太古の人々は、たしかに、内なる神の声を聞いていたのでありましょうね。現代において「聞こえる」と主張するなら、これは症例ということにされてしまいます。これはたしかに、むつかしい問題であります。

1774トキ:2011/10/12(水) 17:31:10 ID:k7.Dct06
>>1773

初心者様

 私でよろしければ、喜んでお手伝いをさせていただきます。
まあ、なかなか議論にはついていけませんが、分かったようなフリをして(笑)、
参加しますので、何なりとお申し出下さい。

合掌 ありがとうございます

1775八百比丘尼:2011/10/12(水) 17:50:37 ID:j8iOdie.

ーー鈴夜 果てしない物語ーー
 
《 校長せんせいの講義は、とても高度なので、猫の頭では良く分からんが、
  とりあえず、夕べの夢の話は、ここでもいいのかなぁ?

  BGM
http://www.youtube.com/watch?v=tnTqewSREv4

  太古の地球の夢を見た。
  人間はまだ、この地上にはいなかった。
  大雨の降り続く夜、動物たちは山の麓の洞穴の奥で身を寄せ合っていた。
  このまま激しい雨が夜通し降り続けば、山の斜面は崩れ落ちるだろう。

  オレは、全身ずぶ濡れで雨の中、震えてうずくまっていた。
  長い金色の毛で覆われた、巨大な獣の姿だった。
  小さな動物たちを襲っては、喰って生きねばならぬオレは、
  雨をしのぐために穴の中に入ってはいけない身だった。
   しかし、どこからかオレを呼ぶ声がする。
  『入っておいで、こちらにおいで。』と、声なき声が心の中に響いてきた。

  雨の雫を滴らせながら、ゆっくりと穴の奥へと進んで行くと、
  火が燃えていた。
  そして、まだこの地上に誕生していないはずの人間の姿があった。
  その人間を囲むように動物たちが集まっていた。
  いつもは、オレの姿を見ると逃げ惑う奴らは、オレに気づきもしなかった。
  その人間は、手招きをすると自分の側にオレを坐らせた。

  それから、静かに語りはじめた。
  それは、人の言葉ではなく直接魂の奥に沁み込んでゆく響きだった。
  動物たちは皆、身じろぎもせず、じっと目を閉じて聴いていた。

  その声が消えたとき、炎は消え人間の姿も、もうどこにもなかった。
  夜が明けていた。雨は止み、眩しい太陽の光がこの洞穴の中にも
  差し込んできていた。
  オレの魂は、あの物語を遠い昔から知っていた。
  あれは、地上に人類が現れる以前から、この地球が誕生する以前から
  宇宙に響き渡っていた真理の言霊だった。
  久遠の昔から続くその果てしない物語の名を
  【生命の實相】という。
  オレの身体は、金色の翼を持つ、火の鳥に変わっていた。




  ヘ〜プッショイッ! 何か寒いと思ったら、比丘尼に布団取られてた。
  夜は、めっきり寒くなったなあ。
  みんな、風邪引くなよ。 》

1776役行者:2011/10/12(水) 18:59:40 ID:5JisqZbg
>初心者さま

> 新時代の意識が、ブッダやキリストの出現を要 請したとするなら、これはなかなかに面白い テーマであります。こうした問題に真正面から 取り組めば、とてつもない大スケールで、物語 が語られることになるでありましょうね <

 新時代に向けての脳内革命でもありますね。壮大なロマンを感じます。
 釈迦、キリストは、個人意識革命をするために出現した!ということにもなるのでしょうね。


> 個人意識にかんしましては、これもまた大ス ケールの問題になるかとおもいますので、これ からじっくりと対話していければと考えておる ところであります。なにしろこの問題は、カン ト、ヘーゲルからはじまって、フロイト、ソ シュール、ラカン、ジジェクとたどったところ で、とうてい収まりがつく問題ではないような 気がいたします。とてもわたくしの手に負える 問題ではありませんので、適当にお茶をにごす ことになりそうであります わたくしは、雅春先生によって、こうした難問 題の泥沼に引きずり込まれてしまったのであり ますよ。これははたして、救済といえるのでありましょうか?<

 救済の定義にもよりますが、大きな事を成し遂げる人間はそれだけ業が深いのでしょうねσ(^_^;(失礼しました)

 ふうてんの寅さんになって、旅は道ずれ、世は情け!と呟きながら行くも人生。しがないサラリーマンになり、トレンディードラマの主人公のようなささやかなオフィスラブを奏でるのも人生。コトバに苦渋、苦悩、葛藤してゆくのも人生。人生、いろいろですね☆彡

1777トキ:2011/10/12(水) 20:05:14 ID:k7.Dct06
 神道については、私も初心者様以上に知識がありません。そこで、

>>そして、わたくしがかねてより懸念しておりますのが、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化であります。
>>イデオロギーとはそもそもなんであるかをジジェク的に表現するなら、それは「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをおこなっている」
>>ということになるのであります。つまり、「彼らは生長の家がなにをなそうとしているかを知らない。しかし彼らは生長の家をやっている」
>>と、こういうことになるのであります。

という部分について、少し愚見を申し上げます。

 私は今は教区の一会員ですが、青年会時代は役職の経験があります。この青年会時代など、全然、訳が分からないまま活動をしていたというのが
本音です。青年会で友達が出来た、とか、活動する事で自分の存在意義が確認できた、とか、結婚の相手を見つけに来た、とかその程度の動機の
人も結構いました。でも、最初はそういう動機でも、段々と信仰が分かって来るし、安易な動機だったが、結果的には活動経験は人生にプラスだった、
という人も多かったので、それを頭から否定するのも難しいです。

 しかし、困るのは、活動をしている間に変な野心を持つ人がいる事です。こういう人は、本音は名誉欲であったり、権勢欲だったのですが、いかに
も高尚な動機で活動をしているような事を言います。その上、無理な事、やってはいけない事を、もっともらしい生長の家の教義でカバーするので、
反論しにくいです。しかも、それが自分の上級の立場の人間の命令だと、本当に板挟みになって苦労しました。

 そういう場合、自分はどうしたら良いか、結構、悩んだのですが、結局、自分の内在の神様の声に従うという原則を作りました。
自分は普段は結構、いい加減ですが、活動の事になると、自分の考えを述べます。どうでも良い場面ではホイホイ譲歩しますが、自分の良心に反する
事には、妥協しないと決めました。それで生長の家を除名されるのなら、仕方がないと思っていました。実際、除名の少し前まで行った事はあります。

 あと、組織の人間になると、自分が幹部であるとか、講師である事に、アイデンティティを求める人がいました。が、自分は考えた末、一人の人間
である事から出発しようと思いました。一人の信仰者であり、そういう人がたまたま、青年会の役職者をしている、という発想をしようと考えました。
こういう考え方が正しいか、どうか分かりませんが。

 生長の家の教えは完全ですが、それを信じる信徒はあくまで現象の人間であり、見えている姿は不完全です。これは、幹部でも同じだと思います。
信仰で完璧を目指す姿勢は大切ですが、活動面でそれを当然視すると、現実との乖離が始まります。この乖離が激しくなると、組織指導が観念論に
なり、いわゆる机上の空論になります。これが、いわゆる「暴走」の状態だと思います。この暴走の問題は、生長の家に限らず、どんな信仰とか
思想にでもありがちな事かと思います。現在の生長の家の中でも、見受けられます。

 これを防止するためには、信仰の場合は常に自分の生活を省みる事ですが、組織活動の場合は、結果との整合性を検証する事が必要だと思います。
そして、そのためには、「議論」ができる環境が必要かと思っています。言い換えれば、ある理念なり信仰なりを、それを実践していると称する人
達が、本当に使いこなせているか、を検証する作業は必要でしょう。

 少し観念的な話になり、具体性に欠けますが、お許し下さい。また、時間が出来れば続きを書きたいと思います。

(神道と関係のない話になり、申し訳ありません。他の皆様のご投稿をどんどんお願いします。)

合掌 ありがとうございます

1778トキ:2011/10/12(水) 21:05:57 ID:k7.Dct06
初心者様

 神道で自然状態についてですが、個人的な経験があります。
 生長の家ではないですが、ある山岳信仰に凝っていた高校時代の友人がいて、
しょっちゅう、山の中で滝行に行っていたのですが、ある日、突然、発狂した事があります。見舞いに
行ったら、訳の分からない事を言っていて、これは考えものだなあ、と思った経験があります。

 この人の場合、指導者に恵まれなかった面もあり、結構、自己流で修行をしていたのですが、
それが災いをしたみたいです。

 自然状態と言っても、良い面だけではなく、病気をしたり、怪我をすることもあります。
 霊的には低級な霊が取り付いたりする事もあります。友人の場合、不幸にして、その被害にあったみたいです。
古神道で教義がない、と言っても、好き勝手が出来る訳ではなくて、やはり自然状態もそれなりの危険
があります。おそらく、古神道の先達は、いろんな経験を通して、ある種の限界や危険を知り、それを
伝承する事で、人間が安全な形で修行ができるようにしていたのでしょう。それが、ある意味では、彼らの
「教学」なのかもしれません。
 これは、古神道だけではく、例えば、アイヌ民族の方々の信仰も似たような面があったと聞いております。

 これは私の偏見ですが、自然の中に人間が入る場合、それなりの礼儀も必要だし、心構えも大切だと
思います。都会人がノコノコ森の中に入って行っても、森の側がそれを受け入れてくれるとは限らない部分
はあるとおもいます。
 例えば、生長の家では、神想観をする前に招神歌をとなえるように、自然に入る前には、何か人間の側でも
作法が必要なのでしょう。それを無視すると、友人のような状態になる可能性があります。

 宗教をする人であれ、または仕事で森の中にすむ人であれ、自然の中でいきている人達は、自然状態を手放し
で礼賛するのではなくて、おそらく問題点とか批判面もあり、その上で、ある種の宿命として受け入れている
のかもしれません。
 ですから、これから自然と共存をしようと考える生長の家ですが、ここはあえて、自然状態について、きびしい
面も正直に議論をする必要があると思っています。

 ウイッキペディアに神道やアニミズムに関する説明があり、結構、面白かったのですが、それを引用する
のは面白くないので、あえて別の視点で考えてみました。どうも、出来が悪いですが、お許し下さい。

合掌 ありがとうございます

1779志恩(教頭):2011/10/12(水) 21:33:07 ID:psrFh/ZU
スナフキン校長
 コメント、ありがとうございます。ウイークディは、昼間はあれこれあり、PCの前に座れませんので、夜まで返信を失礼してしまって、すみません。

私は、「古事記」については、興味があり、ずっと勉強してきたのですが、まだよくわかりません。本居宣長が、霊感を得て35才のときから35年もかけて69才になって書き終えたたものだそうですから、学べば学ぶほど深いです。
私は、校長のような哲学的頭脳は持ち合わせておりませんので、申し訳ないけれど、校長とのことばのキャッチボールは、難しくて出来ませんが、和耕軸・古事道関係の著書は、3冊持っていて、いまだ勉強中ですので、また、少しだけ書き写させていただきます。
これについての、ご返信のご心配なく。


【古事記の理と精神】より抜粋

古事記は、いわゆる天皇国日本の「柱」といわれており、天皇家の帝王学だといわれていますが、実は、この古事記の理は、『このままわれわれ個人が個人の真価を発揮する帝王としての生き方をする指針』なのである。

日本の知性といわれた小林秀雄は、「古事記は憲法であった」と言っている。小嶋憲之は、「古事記が中世へかけての一般人には法律書類とみなされていたことがわかる」と言っている。

古事記の精神は、宗教とは次元を異にしたものであり、政治・教育・経済・芸術・医学・芸術等、すべての指針であった。
だからこそ、日本には、どのような宗教も哲学も思想も共存し得たのである。

古事記の内容の重要さは、、、、「高天原をしろしめす天照大御神」「天孫降臨」と、発展的に円融循環しながら、実相世界から、より具体的な現象世界へと進展する神事を明示していることにある。

それは、1粒の種がどのようにして根を出し、芽を出し、花咲き、結実していくかという原理を示すのと同じことになるので、まさに「邦家の経緯」である。
また、古事記の精神を生きることは、すべての人と事と物の存在価値を認め、これを尊重し、共補・共存・共栄していくことを工夫実践するのであるから「王化鴻基」ということになる。

1780志恩(教頭):2011/10/12(水) 22:14:34 ID:psrFh/ZU
「和耕軸」

「古事記の理と、、、、宗教思想の光源の共有」より

☆ 樹木に学ぶ

古事記は、樹木を、神の原理を暗示するもの、、としております。この樹木の成り立ちから、生物の「品種の違い」や「成長段階」の違いを観察してみると、「正反対の性質と育成の方法」のあることが分かり、このことを、
人間にも当てはめて考えることができれば、
「それぞれ次元の異なった成長段階(認識のレベル)の必要性」のあることを、説明することが出来そうです。

「種」の時期は、じっと天岩戸に籠って、あたらしい生命を育んでいます。
「発芽』の時期は、根を張る為に、地上とは反対の方向に向かって進むのです。
「双葉」は、本葉とはちがっているために、無知な人々は、抜き捨てやすいのです。
「枝葉の成長』の時期は、目的によって剪定(教育)方法はまったく異なります。
「花が咲く」時期は、肥料も、花の咲かせ方も目的によってまったく異なります。
「受粉」は、在来の実を得るか、品種改良をするかによって、方法が異なります。

人間は、この樹木の成長過程のように、誰もが、個別の個性を持っているのですから、私達は、先ずこのことを確認し、認め合い、尊重した「神習い」の生き方を意識していかなければなりません。

    
◎「古事記の理」の第一は「諸々の命は、教えている」ということです。
 教えているのは、誰か特定の神や人ではありません。種々のということですから、語り教えているのは「聖人や指導者、先人」だけではなく、「外価値の問題や災い、困ったこと、嫌なひとたち」など、すべての、
 「言、事、物、人」を通して「ここに『内価値』あり」とささやいているのです。

1781志恩(教頭):2011/10/12(水) 22:48:18 ID:psrFh/ZU

◎「古事記の理」の第2は、「事の初めには、『暗げなす漂える時期があって」葦牙のように萌え騰るものが、姿・形をあらわしていく、、」ということです。

 すなわち、「暗げなす漂える時期」がなければ、何一つ「神の理想」の「国生みはできない」ということです。
 だから、古事記を読んでいると、おどろくのは、
 「事を成す初めには、必ず、失敗をしているということです。」


※イザナギノミコト、イザナミノミコトの国生みは、最初に失敗です。ここで、大切なのは、お二人は、「女 言先きに良からず、、」と分かっていたのに「然れども、、」と言って国生みをするのです。
 これは、普通の人間と同じです。
 で、そのとき、このお二人の神は、どうされたかと言いますと、「天つ神の命を請う、、」ということをするのです。
 このように、すぐに「根源なる『天つ神の命』を聞く」ことや、
 「このような、神々の行為を学ぶ」のを、「神習い」というのです。


※「天照御大神」がお生まれになるためにも、イザナギノミコトは、先ず「黄泉の国」に行ってしまうのです。そして、天つ神と直結するために禊祓い(みそぎはらい)をしたのです。


※「国土返上」のために、天照御大神は、大国主神にお使いをだしますが、2度失敗して、3度めに成功しているのです。


このようなことを、子供たちに教えないで、「一度で出来るのを良い」としたなら、それは、イザナギノミコトが、国生みの仕事を止めて、一度で黄泉の国に行った事や、須佐能のミコトが泣いて一度で
「根の国に行って良い」と言われて災いを生んだ、外価値の生き方です。このことを知っただけで、どれほどの多くの子供が、「一度で出来なくて良いのか、、、」と知って、救われることでしょう、、、、。

1782志恩:2011/10/12(水) 22:52:31 ID:psrFh/ZU
今夜は、このへんでやめま〜〜す。
どうぞ、みなさま、古事記以外のお話も、なさってくださいね。

1783義春:2011/10/13(木) 00:17:03 ID:iu5Ar./Q
では、イワクラについて、書かせて頂きます。
弥山に登った際に、平石の上で寝たと云う事を記しましたが、
この時、自然と一体になる感覚がありました。

 これから書くことは全て私の感覚なので、間違いがあると思いますが、
古代のイワクラで祈りを捧げたり、自然と一体になる時の姿勢は
大の字に仰向けになっていたように思うのです。
座っていたら、空の上が見えないからというよりも、
背中が岩と接するから、より多く身体が自然と接するという方で、
そんな姿勢になっていたのじゃないのかな?と素朴に感じたのです。

 縄文時代の、役行者様の仰るところの【国津系時代】というのは、
言葉のネットワークに拠らない実体験が重視された時代だと思うのです。

 そして、このイワクラのあったところとは、甘南備山が多いのですね。
この甘南備山と云うのは、△の形をしています。
例えば、奈良の三輪山などは正にそんな形をしております。
(※ここに岩石祭祀についての記してあります、ご参考にhttp://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nihonkokunai4.html

 △ということはピラミッドみたいな形になります。
△というものは本能的に安心する形であるとも聞きます。
なぜかと申しますと、黄金比というものがあって、それにそったものを
本能的に美しいと感じるようなのです。左右対称であるということは
バランスが整っているので、そこに神を見出したのかもしれません。

 そして、その△の上にある、イワクラの上で夏至と冬至に◎である太陽を拝む、
それは、私の私観ですが、世界の再生させようと祈ったのだと私は感じるのです。
この時、イワクラの上での彼等の姿勢は座っていたと感じます。
正対する事で、太陽に対する信仰、太陽信仰があったのだとも感じております。

 自然状態での神道については、このように私は感じております。

1784義春:2011/10/13(木) 00:18:39 ID:iu5Ar./Q
補足:△である甘南備山(=ピラミッド)に◎である太陽が交差する事で、
世界の再生がなると古代人は感じていたのかもしれません。

1785【iPad】「訊け」【未購入】:2011/10/13(木) 07:27:25 ID:D0Kb5yw.
>初心者さま
>みなさま

――――――――――――――――――――――――――――――――
(初心者さまご投稿>>1765
混同の1つは、自然状態と実相世界の混同であります。具体的にいえば、
天皇国日本の実現でありますが、これが実相顕現の文脈で語られている
ことに、非常な違和感を覚えるにいたっていたのであります。天皇国日
本の実現。これはむしろ、自然状態への回帰として考えたほうが、個人
的には理解できるのであります。

天皇国日本の実現を実相の顕現へと結びつけることには、抵抗があります。
それはむしろ、自然状態への回帰としてとらえるべきではないのかと、
個人的にはこのように考えます。自然状態への回帰と実相顕現との混同が、
教団内部でさけがたくおこなわれてきたような気がいたします。これを1
つの問題として提起いたしたいところであります。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 同種の疑問を感じておりました。ですので本件、非常に興味深く拝読中で
あります!いやーやっぱ、校長が戻ってこられると、楽しいわ(笑)

 いやー教団右派(や、ネツト右翼)の天皇観ですけども、なんかオカシイ
ですよね。なにか、昭和12〜20年頃の天皇観を、あたかも「絶対のもの」
「久遠不滅のもの」と見てはいないでしょうか。少なくとも私にはそう感じま
す。あの、かかとを揃えて真っ直ぐ手を上げ「天、皇、陛下ッ!(3秒)バン
ザー(1秒)−イ!!!」みたいな感じの天皇観・・・、あれのことです。あ
んなのは8年/2700年のスメラミコト像であり、雅春先生ご描写の天皇ではない
と思っています。

 初心者さまは「混同」という語を使用されておられますが、雅春先生の天皇
観とはもっと、ゆるやかなものだったと拝察しております。つまり、雅春先生
の天皇観を基にした「実相顕現」ならば、なんら問題はないと考えております。
 教団右派の問題は、雅春先生が描写していないところの「天皇」を「実相」
として拝んでいる点になるような気がしています。そして、そんな偽天皇(=
御教えに描写されていない天皇)を顕現させようとする運動であれば、初心者
さまの感覚の方がマトモに感じる次第です。

 また、ツラツラと参入致します。いやそれにしても、オモシロイやり取りに
なりそうだ(笑)

1786志恩:2011/10/13(木) 08:08:36 ID:psrFh/ZU
「古事記の理と、、、、宗教思想の光源の共有」より抜粋
   ○
 今までの宗教は、多くの場合「宗派の後継者にしたがう」生き方でした。
その人たちの生活ぶりを見て、疑問を持った人たちが、『自分独り』となって、『自分の疑問を見続け、、、』根源なる神と直結して、
問題を解決した時、
宗教組織の『中興の祖』となったり、
親鸞や日蓮などのように、新しく宗派を起こしていったのです。

それほど著名でなくとも、
このように真実の道を生きた人々はたくさんいます。その人たちは、
『マホメット』のように、具体的な神の言葉に従って生きたか、、、
『イエス』のように、すでにある聖典などの真髄に導かれ、人間や自然に直結して生きる神を自覚して、平凡な生活の中で隣人と睦まじく生きたか、、
『釈迦』のように「縁起の原理的由来を自問自答して神の子吾の本性』を悟り、地道に自分の生活を生きていったのです。

   ○
どうしたら上記のような人になれるかですが、人間は、「善悪の判断をして外価値にしたがうを」習性として持っていますが、このサタンの習性をすて切って、
「神の子人間の『内価値なる本能』に従う、、」という決断をして、「責任ある発言と行為をする」と,そのとき、突如、、。または、徐に、、その人(霊留・人間)
の認識レベルが変わって、その人の人生は、「みそぎはらいの周期(釈迦の言う縁起)の業」におわりがきて、「サタンの認識」は崩壊し、神の子の自由が顕れるのです。
栄光は、個人から「神と人類」に返されるのです。

日本人は、無意識に古事記の精神を生きています。したがって、日本には、諸外国から見たら軽薄におもわれるほど、種々な思想が共存しているのです。しかし、それは、
すべてを内包できる、実に重要な21世紀の思想なのです。

1787志恩:2011/10/13(木) 08:56:22 ID:psrFh/ZU
あれこれ古事記関係を載せてきましたけれど、
スナフキン校長は、スナフキン校長が「これが、自分は正しい」と思われる道を、歩まれたら、いいと思っています。
人は、位が高くなればなるほど、孤独になります。

でも、孤独は,悪では、ありません。人でなく、内なる神に向かうしかないからです。

どこの方向へ向かっているのか、向かったらいいのかということは、世界情勢を見てても、人間智では、ハカリシレナイことではないでしょうか。
「唯一の造化原理」に導かれる事を、心に描きながら、願いながら、、、思われことを実行に移されますように。

私は「神」というと、『神」という言葉を超えた慈愛に満ちた光のような、瞳のような、聖なる人格的な神を念じています。だから、光のオーラに包まれており、いつも、不思議と導かれています。
「神様、あなたの想いが私の想いでありますように。あなたの言葉が、私の言葉でありますように。私心がありませんように」24時間のながら神想観の中で、生きております。

私は、前にも言いましたが,庭で、30年前からEM菌を使って、家庭菜園をしています。秋野菜の収穫もおわり、いまからは冬に向かって、休眠時期の土作りに入ります.
冬の間の「寒肥」が、すごく大事でね、EMぼかしを
生ゴミに混ぜて作った肥料だけでなく、今までで一番効果があがったのは「馬ふん肥料」です。「EM自家製肥料に、馬ふん肥料、油かす、魚の粉、貝ガラの粉、」一緒に混ぜて、昨年寒肥を
畑だけでなく、あらゆる木々に与えましたら、今年は、春から晩秋まで、すごい収穫と、バラも、ピエール・ド・ロンサールなんか、去年は30くらいしか、開花しなかったのに、今年の5月には、
150も開花しました。みかんも、まだ苗木なのに、去年の10倍の200個くらい実ってるし、イチジクも100個も実りました。ブルーベリーもたわわでしたよ。

全ての木々が生き生きとしています。「馬ふん肥料」は、サラブレットのトレーニングセンターが、全国にありますが、そこが、馬ふんを捨てないで、杉チップと混ぜて,醗酵させて、
肥料をつくりはじめたのです。値段もさがっています。京都の「そのきや」が良心的な値段でいい肥料をネットで売っています。他にもあるでしょうけれど。ネットで買うと、家まで宅急便で
届けてもらえるのでありがたいですね。

牛ふんより、格段に馬ふんのほうが、いいですよ。牛は胃が4つもあり、反芻して食べて,栄養分が、そとに、あまり排出しません。馬は。胃が1つなので、栄養が、胃液の微生物とともに、
多く排出します。微生物の含有量が、多い。

まさに「微生物は、地球を救う」ですね。

1788志恩:2011/10/13(木) 09:03:35 ID:psrFh/ZU
書き忘れましたが、『馬ふん肥料』は、まったく無臭です。

1789初心者:2011/10/13(木) 09:44:24 ID:4IaAZAME
トキ様

ご助力の申し出を受けてくださいまして、ありがとうございます。なにをご助力いただくか、ということでありますが、その前に、ここでわたくしが何なそうとしているのかを、簡略に申し述べさせていただくことにいたします。

出発点は、生長の家は何をなそうとしているのか?という疑問です。具体的に何をしたいのか、それがじつは、組織を離れて20年以上もたった今もわからずにいるのです。

生長の家がなそうとしていることを明らかにする。これが、今回の対話の核心になるかとおもいます。わたくしは、ジジェクにならい、人類の意識のあり方を、自然状態と文化的状態にわけて考えることにいたしました。それはつまり、左脳と右脳が分離されているか、つながっているかによって区別される意識状態を問題にする、ということでもあります(ただし、左脳と右脳の問題は、ジジェクとは無関係です)。

そこでまず、自然状態における意識を「共同体意識」、文化的状態における意識を「個人意識」と名づけることにいたしました。ここでわたくしは、「個人意識の救済の不可能性」について述べるつもりです。個人意識は救済の対象にならない。これを、いくらかあやふやにではあっても証明することで、生長の家の目的が個人救済ではない、ということを立証いたしたいと考えております。

個人意識が救済の対象にならないとすれば、のこる対象は共同体意識ということになります。共同体意識とは、個人意識が発生する以前の人類意識と定義することができるとおもいます。生長の家が何をなそうとしているのか、を明確化するには、まずは共同体意識とは何かを明確化する必要があると考えます。

天皇制もまた、個人意識ではなく、共同体意識とつながっているはずです。雅春先生は、この点を強調されたかったのだとおもいます。つまり、生長の家が対象とすべきは、文化的状態ではなく自然状態であると、とわたくしは考えます。「実相」とは、文化的状態に向けたリップサービスであるような気がいたします。けっして救済されることのない個人意識をなぐさめるためのリップサービスであったという気がしてなりません。

自然状態は、実相という超越項を必要としない。そのような気がいたします。この意味で、生長の家がなすべきことを明確化するには、自然状態と実相世界を混同しないという課題を、まず最初にクリアする必要があると、個人的には考えます。

この場で、わたくしがなそうとしているのは、個人意識の救済の不可能性について言及することです。トキ様には、自然状態についての考察と理解を担当していただければと考えております。志恩様が引用しておられる、「栄光は、個人から『神と人類』に返される」場所が自然状態であると考えます。トキ様には、まことに勝手ながら、自然状態にかんするみなさま方のご意見をまとめていただき、生長の家が向かうべき方向性を明示していだければと考えております。

1790役行者:2011/10/13(木) 09:55:53 ID:5LmX6AEw
>初心者さま

 やはり、さまざまな問題が交錯し、織り込まれているので、収集が付かなくなってきました(+。+)アチャー。

 
 縄文、弥生、現代、近代、古事記、自然状態、文化的状態、ロゴス、天皇国日本、実相独在、幅広い解釈が可能な神道、個人意識、共同体意識などなど・・・歴史、哲学、宗教、組織論、天皇論、宇宙史、人類史などなど

 初心者さま!トキさんをはじめ、我々に指示してください。

 如何様にも、協力いたします。

 と、思案するや否や、初心者さまから指示のコメントがありました( >_<)

 折角、書いたので、投稿しますσ(^_^;

1791トキ:2011/10/13(木) 10:26:59 ID:.upYcm2c
>>1789

初心者様

 おはようございます。いやー、私が考える事は、「昼休に何を食べようかな」という程度の事です
から、自然状態という難しいお題を頂戴し、仰天をしております。(笑)
 しかし、ここには、頭の良い人がたくさんおられるので、皆様のお力を御借りしたいと思います。

 「自然状態」とは、生長の家で言うところの「現象の世界」の範囲内の話だと感じます。もし、そうなら
実相世界とは違う話になります。が、これは、広く議論をすべき事ですから、皆様のご意見をお願いしたい
と思います。もちろん、「自然状態=実相世界」という反論も、「個人意識の救済の可能性」を主張する
考え方も歓迎したいと思います。

 あと、初心者様のご文章を読まれて、疑問や質問がある方もどんどん投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

1792【クーデター】「訊け」【自分史に新しい一項w】:2011/10/13(木) 11:23:48 ID:MPQg3/HY

 トキさん司会なら、盛り上がりますね。

 いやー今、プリントアウトしまして(A4で18枚w)初心者さあご主張を
メインに拝読中であります。結論から申すにこれ、「非常に面白い論点」だ
と感じます。

 言葉の定義等を確認しながら(これに作業の8割を投下しながら)進めて
行きたいですね。「要するに、こういう意味」てな文章を随時まとめていけば、
広範な方が参加可能だと思います。

 期待しています。


余談(笑)

HNの意味(笑)

19●●年 小学校入学
19●●年 中学校入学
19●●年 高校入学
19●●年 大学入学
19●●年 入社
20●●年 結婚
20●●年 御教えに触れる
20●●年 クーデター首謀者にされる

1793さくら:2011/10/13(木) 11:50:30 ID:T/77sMGw
訊け前監督

「ねえ、初心者くん、もっと分かりやすくはなせないの?
…それにさ〜、哲学もいいけど、まず掃除当番サボらないでちゃんとやってよね!」

…同級生の男子なら、こんなことも言えるけど、校長だから、言えません。

初心者校長

覚えてたんですか、さくらのこと。
また戻ってきて、女子供は振り落としここも戦場と化すのかと思いましたが、みなさまとの対話を展開されるとのこと、ひとまずホッといたしました。

私としましても、心に漠然とあったテーマの方向性を示して下さったようで、感謝しています。ここは歴史や哲学の壮大な展開になりそうだし・・私にはハードなのですね。
自分のテーマには偏りがありますし、なんですがそれなりには考えたいのでお邪魔しております。

初心者さまは、和解なんて仰っていますが、これは、生長の家への挑戦状みたいな、ものですね、笑。
生長の家におけるダブルバインド状態の指摘、その矛盾の解消が起こった時に同一性が失われることは、生長の家存続の危機となるとも予感させる方向を示してもいます。
その矛盾の正体を明らかいして解消されるべきでしょか。それとも、内包したまま存続させるべきなんでしょうか。
この問題提示は、そんなことに向き合うことなのでしょうか、初心者さま。

私の中の一つには、宗教の組織化による、弊害や矛盾のこと。
生長の家においても、トキ様も時々ご指摘くださる状況も共感しておりますし、他、組織のことを聞いたり自分でも経験したことなど、正直、様々な面で違和感をぬぐえないものを感じてきました。そのことをまだ自分の中で昇華しきれていないのでそれはそれで考え中です。広く生長の家を見直していけることは、理解の助けになると思っているところです。


生長の家の「物質なし、現象なし、心のなし」の悟りの正体、この否定性が文化的状態へのひきこもりの必然であること、
またシェインズの二分心。人類の右脳と左脳の分離していた時代が自然状態であり、ロゴスの始まり、言語の発達による意識の発生が始まると、脳梁で結びついた人類の脳が、神の声を外の声として聞こえ始めた。そういう観点からの人類意識の変化。
これは、私にはちょっと画期的な認識になりました。
また、言葉を習得した人類は、必然的に空虚といえる否定性としてあらわれてくる意識によって認識された世界に存在せざるを得なくて、実在のモノや世界から切り離された、この否定性の世界では、現象ありもなしもただ人間の意識の選択の問題であること、など。

この否定性から、生長の家の「実相」への飛躍と、自然状態への回避、それも初心者さまは問題にされておられるようですが、
生長の家にとっては、ここが救いの核となるところで、生長の家信仰者には譲れない一点張、ということとなると、思われますが、また、このところもどんな展開になるのでしょうか・・・

1794さくら:2011/10/13(木) 11:52:18 ID:T/77sMGw
初心者さまは、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化を、何をなそうとしているのかを、知らずになそうとすることからおこることを示されていたと思います。。
生長の家は、何をなそうとしているのか知らないでやっている、そのことによる教義のイデオロギー化を指摘されておられたように思います。

日本は、古事記が編まれた太古から明治のころまでかは、天照大神の子孫である天皇を宗家とする家族国家という認識が一般的だったと思います。「共同体の象徴的秩序が築かれ、そうした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた」そんな時代であったと言えるのでしょうか。
大正デモクラシーの風潮で、個人主義、懐疑主義の流行から、一部の専門家の間で天皇を絶対的な神的存在とする説が始まったようですが、さらに天皇の神格化がすすむ契機となったのは、大戦による他国の君主制崩壊への危機や、共産主義国家に対する脅威であるようです。
集団の団結を強化するのに、その国の重要な文化とか宗教の伝統が利用されやすく、この時、神道や天皇崇拝が、戦争計画への国民統合に利用されました。
それが、今だ右翼などの暴走の一助となっているようですね。
集団の統合にシニフィアンの暴走によるイデオロギーが利用されることは、よく行われていることだと思います。

宗教組織というのもまた、特に、教義をイデオロギー化して、集団の統合に利用しやすい面がありますね。
教義は、信徒にとっては絶対なものなので、1人1人の意識は、「どの方向に自分たちがいる組織が向かっているのか」と、考えることにあるのではなく、その教義にあてはまった行為や思考に従うことを第一にするような気がいたします。
それが盲目的になると、カルトのような実態になっていくと思いますが。
組織の方向性は、絶対的な指導者であったり、中央に近い一部の人間であったりに託され、それは真理や教義に絶対的に正しいものに基づいている信念を植えつけられたりします。
また所属する組織への幻想や、同一化の意識の問題もあるとも思います。

生長の家は、様々な立場の人が、組織のあり方を考えていける、やはり素晴らしい開かれた宗教団体であると思っていました。

しかし、様々。今まで築かれてきた本部の体質、や今の状況には、正直、疑問をたくさん感じてます。

本来生長の家が、自然状態への回帰に向かっているなら、組織のあり方も、
「共同体の象徴的秩序が築かれ、そうした秩序にもとづいて、人々の関係性がきずかれていた」時代のあり方に、回帰していくのが本来の姿であったのでしょうか。
初期のころは、小規模だったこともあると思いますが、家族的な雰囲気にあったようですし、地方の方でそのような雰囲気も残っているとも思いますが、実際中心帰一の教えのもとに、中央集権的な?組織化が行われてきてます。本部の方針が、自然回帰への道をいっているとか、実相顕現を目指しているとは、言えないと思いますが。
この辺も含めて、色々矛盾はありそうな気がしています。

なかなか、読み込んで考えるのは、時間も限られてるし、大変ですね、。
理解がずれてたら、気が向いて時間ある方でもいたら、ご指摘ください。
・・わかりやすく、

で、これ昨日書いたんですけど、また、色々書き込みがあって読まないといけない、
展開早すぎる・・

1795役行者:2011/10/13(木) 12:08:49 ID:5LmX6AEw
 >トキさま

 自然状態が生長の家でいう現象世界というのは適切ではありませんねぇ!

 自然状態とは、内なる神の声を聴いていた状態ですね。
 八百比丘尼さまのコメント(>>1775)のような世界と存じます。
言葉ならず、コトバの満ち溢れた世界!真理の言霊、雨降らす!状態ですね。


 ですから、テーマは共同体意識(自然状態)を実現化するにはどうしたらよいか?
ということです。
 御心、天になる世界、地にも成らせたまえ!ということです。

 かつて生長の家が生政連活動をされたのも、共同体意識の改革です。天皇国日本の実現と命がけで励んだのも共同体意識の改革です。

 ですから、これは、これは愛国運動以上のビジョンになるかもしれぬ!ということです。

 トキさまは、生長の家世論の代表的発言をなされていると思います。
 ですから、疑問点はドンドン、投げかけた方がよろしいかと存じます。

 個人意識の救済につきましては、まもなく私が、投げかけます。初心者さまに先を越されるやも知れませぬが・・・(#^_^#)

1796トキ:2011/10/13(木) 12:28:23 ID:.upYcm2c
>>1795

 了解しました。失礼しました。
なかなか難しい問題ですから、私もアップアップしております。(笑)

 では、みなさま、忌憚のないご意見をどんどんお願い申し上げます。

1797義春:2011/10/13(木) 12:47:03 ID:SjZg29/2
>>1794
さくら様
こんにちわ。
>展開の早さ
まぁ…それだけ意味があるのだと私は感じております。
ただ、展開が早くて、さくら様にお返事返せじまいで申し訳なく思っております。

トイレからなので、また!

1798役行者:2011/10/13(木) 12:53:54 ID:5LmX6AEw
 トキさま!私の方こそ、失礼をばいたしましたσ(^_^;

 つい感情的になってしまいました。

 生長の家の目指すべき方向を沈思黙考するということでしょう。

 それは、自然状態のなかにヒントがあるのでは!ということかと・・・あの >>1775 のような世界を実現化するには、どのような運動を展開すればよいのか?難題です。゚(゚´Д`゚)゚。

1799さくら:2011/10/13(木) 12:56:22 ID:T/77sMGw
義春さま

寸時の時間をぬって書き込み下さった義春さまの、ご愛念に、
感謝いたします…。
義春さまの書き込みもいつも理解の大きな助けとなっておりますので、
これからのご活躍期待しております…まあ仕事や、睡眠!の時間を、大切にされながら…。

私は何処からとは申しませんが、笑、ひとまず休憩のひと時に。

1800義春:2011/10/13(木) 13:47:17 ID:SjZg29/2
>>1799
さくら様
有り難うございます。これからも日々研鑽を積んで参ります。

それで真言について時間の許す限り書いてみたく想います。
真言は同じリズムで繰り返し唱えていくものだと私は理解しておるのですが、
同じリズムで発声音にするので、体内の脈拍や血流等にも、その影響が出てくると感じております。
このリズムが自然の中にあるリズムと同じであるなら、体内も自然と同じ音が流れていく筈だと感じております。
それがひいては自然と一体化していくだろうとも感じます。

だから、自然状態の神道のイワクラ(=ピラミッド、太陽信仰)と真言とは身体の外と内、両面から、
自然と一体化するというものであろうかと存じます。

ただ、それが全て無条件に善いものではなく、例えば山に於いても、さほど悟ってないモノがいます。
私自身、弥山でその様なモノを感じて逃げました。トキ様のご友人も恐らく、その種のモノに憑かれたのでしょう。
その様なモノに憑かれない為には、どうすべきか?それは、山(=神)に対する尊敬の念かと存じます。
慢心し、他利の念なく、私利私欲に走る事が、その様なモノに出会した時の注意力を失わせ、それで憑かれるのかと存じます。


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