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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1752義春:2011/10/12(水) 01:59:45 ID:iu5Ar./Q
>>1751
初心者さま
 では、私は神道の自然状態から文化的状態について書かせて頂きます。
琴音様にレスした内容にかぶりますが、神道の自然状態を表しているのが、
山岳信仰ではないかというものです。

 山に登っていく中で、自然と相対しなければなりません。
それは実体験が全てであり、その中には言葉のネットワークによって
成り立たせねばならないものには依然しません。何故なら、言葉にできないものなのです。
これは私の勝手な想像ですが、修験道や密教での真言は、【言葉】というよりも
【響き】で一定のリズムに身を浸す事で、自然と一体化するものだと感じております。

 おそらく、原始の神道には、その部分があったのだと思います。
それをしたのが、巨石【岩倉】なのだとも感じております。
それを後生にまで残されたのが、役行者なのでしょう。
 
 その神道が文化的状態、即ち、ロゴス、言葉のネットワークに置かれてしまったのは、
仏教の伝来になります。この仏教という言葉のネットワークの中で表現されたもので
ありますから、それに影響されて、神道もそれに影響されている面があります。
(それなので、ユダヤ論の最後の辺りの日本はロゴスに侵されないというのは
成り立ちが依存していないであり、本来の姿はいう意味でと訂正いたします。)

 ただ、それでも日本の神道と仏教は習合する事で、共存する事になりました。
言葉のネットワークにおかれつつも、経典を持たない事で、言葉のネットワークに
どっぷり浸かる事から逃れられたのではないのか?と思うのであります。

 そして、キリスト教の影響ですが、こんなページに当たりました。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r12-100.htm
ここによると、仏教の葬式や神前結婚式もキリスト教の影響とあります。

 そして、決定的だったのは明治時代におきた廃仏毀釈です。
これは神と仏を明確に分ける事で神道の優位性を明示しようとした出来事ですが、
こういった【分ける】という事自体が西洋的であり、そもそもの日本の民族性から外れているのです。
私にはこれは、文明開化で文明の代名詞である【キリスト教】への劣等感と、
明示しないと文明的ではないとする考えがあったのではないか?と感じておるのであります。


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