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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える 2
1777
:
トキ
:2011/10/12(水) 20:05:14 ID:k7.Dct06
神道については、私も初心者様以上に知識がありません。そこで、
>>そして、わたくしがかねてより懸念しておりますのが、シニフィアンの暴走と、その結果としての教義のイデオロギー化であります。
>>イデオロギーとはそもそもなんであるかをジジェク的に表現するなら、それは「彼らはそれを知らない。しかし彼らはそれをおこなっている」
>>ということになるのであります。つまり、「彼らは生長の家がなにをなそうとしているかを知らない。しかし彼らは生長の家をやっている」
>>と、こういうことになるのであります。
という部分について、少し愚見を申し上げます。
私は今は教区の一会員ですが、青年会時代は役職の経験があります。この青年会時代など、全然、訳が分からないまま活動をしていたというのが
本音です。青年会で友達が出来た、とか、活動する事で自分の存在意義が確認できた、とか、結婚の相手を見つけに来た、とかその程度の動機の
人も結構いました。でも、最初はそういう動機でも、段々と信仰が分かって来るし、安易な動機だったが、結果的には活動経験は人生にプラスだった、
という人も多かったので、それを頭から否定するのも難しいです。
しかし、困るのは、活動をしている間に変な野心を持つ人がいる事です。こういう人は、本音は名誉欲であったり、権勢欲だったのですが、いかに
も高尚な動機で活動をしているような事を言います。その上、無理な事、やってはいけない事を、もっともらしい生長の家の教義でカバーするので、
反論しにくいです。しかも、それが自分の上級の立場の人間の命令だと、本当に板挟みになって苦労しました。
そういう場合、自分はどうしたら良いか、結構、悩んだのですが、結局、自分の内在の神様の声に従うという原則を作りました。
自分は普段は結構、いい加減ですが、活動の事になると、自分の考えを述べます。どうでも良い場面ではホイホイ譲歩しますが、自分の良心に反する
事には、妥協しないと決めました。それで生長の家を除名されるのなら、仕方がないと思っていました。実際、除名の少し前まで行った事はあります。
あと、組織の人間になると、自分が幹部であるとか、講師である事に、アイデンティティを求める人がいました。が、自分は考えた末、一人の人間
である事から出発しようと思いました。一人の信仰者であり、そういう人がたまたま、青年会の役職者をしている、という発想をしようと考えました。
こういう考え方が正しいか、どうか分かりませんが。
生長の家の教えは完全ですが、それを信じる信徒はあくまで現象の人間であり、見えている姿は不完全です。これは、幹部でも同じだと思います。
信仰で完璧を目指す姿勢は大切ですが、活動面でそれを当然視すると、現実との乖離が始まります。この乖離が激しくなると、組織指導が観念論に
なり、いわゆる机上の空論になります。これが、いわゆる「暴走」の状態だと思います。この暴走の問題は、生長の家に限らず、どんな信仰とか
思想にでもありがちな事かと思います。現在の生長の家の中でも、見受けられます。
これを防止するためには、信仰の場合は常に自分の生活を省みる事ですが、組織活動の場合は、結果との整合性を検証する事が必要だと思います。
そして、そのためには、「議論」ができる環境が必要かと思っています。言い換えれば、ある理念なり信仰なりを、それを実践していると称する人
達が、本当に使いこなせているか、を検証する作業は必要でしょう。
少し観念的な話になり、具体性に欠けますが、お許し下さい。また、時間が出来れば続きを書きたいと思います。
(神道と関係のない話になり、申し訳ありません。他の皆様のご投稿をどんどんお願いします。)
合掌 ありがとうございます
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