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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2

1757さくら:2011/10/12(水) 07:03:51 ID:T/77sMGw
*これまでのあらすじ*
校長が出て行ってからというもの、さくらは、廃部寸前の野球部もふらふらと出入りしているうちにマネージャーの職を失い、校長宛てに来た嘆願書やら決闘状やらラブレターやら電話の問合せやらの処理に追われて、すっかり荒んだ生活をおくりました。野球への情熱も失い、ツマラヌひとにも引掛りました。
そんな日々の中、パワーアップした校長が突如傍流高校に戻ってきて何事もなかったように講義を始めると、昼はラーメン屋でバイトしながら、苦学生として多少は心入替えて出直そうと思うさくらでしたが・・・


さて、展開が大きすぎてちょっと入りづらいけれど・・だれでも生長の家の問題に向き合うなら考えたい内容で、生長の家の教義も洗いなおして教えていただきたいような気持ちにもなりますね。
ジジェクなんかの下ごしらえなしに、いきなり理解できたらすごいんですけど、とりあえず、これはいまのおしえの方針、というか、そもそも、生長の家がどこに向かっているか、それを認識するのに重要な考案のようです、。

生長の家の「物質なし、現象なし、心もなし」というさとりはまた、文化的状態のひきこもりの必然だったということ、その問題の解決として、実相への飛躍、自然状態への回避の呼びかけがあった、ということでしょうか。
生長の家の、自然への回避と、実相との混同、がゆゆしき問題であると指摘されていますが、これについてはまたヘビーな展開になりそうな予感が・。

思想的にもそうですけど、その展開としての運動はどこへ向かっているのか再認識したい気もいたしました。トキ様が組織の限界を感じるようなことも言っていたけれど、「人類光明化」を使命としていたはずの生長の家が、限界を感じるようになるその出発点と言うのは、何でしょうか、とも思います。

自然状態への回避は、古事記や神道のような宗教や信仰性の原点に立ち戻る、ということを意味するとして、
いまのおしえの、自然との共生。そんなニュアンスを匂わせることもありますが、方針的には、全く別の展開をしているとも見受けられもします。


義春さまが示して下さいましたが、神道においても神仏習合の歴史があるように、日本人の、融合を果たすセンスというか、寛容さは、やはり抜群だな、と感じます。仏像を拝むその背後に古代信仰の息吹があったように、外部の思想をも受け入れ、独自でありながら凝り固まらない寛容さのもとに、美しい文化の発展もあったように思います。
それが、分ける、という西洋的な合理主義は、日本人の民族性から外れることとなるのですね。
これについても、志恩さまが示して下さった「古事記の理」で、分かりやすく共感ができました、ありがとうございます。

漠然と考えてきたことが、賢者のみなさまの知識で色々認識できたらと、楽しみです。

拝。


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