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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える 2
1760
:
初心者
:2011/10/12(水) 11:54:56 ID:4IaAZAME
「黄泉のこころ」ではなく「黄泉の国のこころ」でありました。ここで、「黄泉の国のこころ」について、少しばかり書かせていただくことにいたします。
「黄泉の国のこころ」を、生長の家では、「なにものをあるとおもうこころ」と説いているはずでありますが、わたくしはこれを、「あるものをないとおもえるこころ」と言い換えることができるのではないかと考えるのであります。本当は、世界はそこにある。にもかかわらず、これを「ない」とおもえるこころこそが、文化的状態における意識であると、このように考えるのであります。
本当にそこにある世界を体験できるのが自然状態であるとするなら、本当にそこにある世界を体験できずに、「ない」とおもってしまうのが、文化的状態における意識なのではないかと、このように考える次第なのであります。
これはつまり、ひとつの考え方として、実相世界はすぐそこにあるにもかかわらず、それを「ない」とおもってしまうのが、文化的状態にひきこもった意識の特徴であり、「黄泉の国のこころ」の特徴でもあるということがいえる、ということなのであります。
これをさらに突きつめるなら、現象世界は人の意識のなかにのみあり、その意識のなかにのみある世界を「ある」とおもい込んでいた人が、あるとき「ない」と気づくのが、生長の家でいうところの、「現象なし」の悟りなのではないかと、このように考えることもできるということなのであります。
「現象はある」にしても「現象はない」にしても、それはすべて人の意識のなかでおきている出来事であって、実在の世界は、じつはすぐそこに存在しているのかもしれません。そして、すぐそこにあるはずの世界を、文化的状態にひきこもった現代人の意識が、「ない」とおもい込んでいるのが、「現象なし」の悟りの正体であるのかもしれません。
こうした考え方からすれば、「病気はある」という信念は「黄泉の国のこころ」の産物となるのでありますが、「病気はない」という信念もまた「黄泉の国のこころ」の産物となるのであり、それぞれの信念にもとづいた世界が、意識のなかで展開されているにすぎない、ということがいえるのであります。
これは、反・生長の家主義者をよそおっているわたくしからの、生長の家にたいする批判となるのでありますが、これははたして批判といえるのでしょうか、それとも、生長の家の教義そのものなのでありましょうか。
現象は「ある」にしても「ない」にしても、それはすべて意識のなかの判断でしかなく、実在の世界は、そうした判断とは無関係に、つねにそこに存在しつづけているとすれば、その実在する世界とは、自然状態なのでありましょうか、それとも実相世界なのでありましょうか。自然状態と実相世界の混同。これがおきている可能性があるはずであります。
いずれにしましても、「あるものをないとおもえるこころ」こそが、文化的状態にひきこもった現代人の意識の特徴であるとするなら、そして、それでも本気で真理を追究しようとするなら、こうした意識にたいする考察が、ぜひとも必要であるとおもう次第であります。あるものをないとおもってしまう意識。これが問題であると考えます。
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