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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1781問答迷人:2004/10/19(火) 18:13

顕正居士さん

>鎌倉、室町の時代には仏教の勢力が強くなり、「本地垂迹」の配当が完成して、神社の多数が仏教の各宗のどれかと習合しています。したがって「神天上」は「謗法の社」、大石寺日有のいう「他宗の神社」への不参を述べたものと、後世は解釈されます。

なるほど。そういう経緯が有って、「神社への不拝」ですか。それなら、今日的には、何ら、神社参詣は問題とならないわけです。有難うございました。この件、はっきりしました。

1782勉強中:2004/10/19(火) 23:49
顕正居士さん初めまして、横レスにて失礼します。

『新池御書』を真撰とできない理由は、文中に宗祖滅後に建立された寺院のことが書かれているからではないのでしょうか。

「建長寺・円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く、威儀の放埓なることは猿に似たり。」

この文中の「円覚寺」は宗祖滅後の弘安五年十二月の建立ではないでしょうか。

御教示くださいませ。

1783顕正居士:2004/10/20(水) 08:10
>>1782 勉強中さん。初めまして。

円覚寺のことは知りませんでした。弘安5年に創建というのが落成の意味なら、弘安3年に円覚寺の名前が
すでにあったかも知れませんが、後世に作られた文書の疑いが生じる箇所です。

もうひとつ変な箇所があるのに気が付きました。「春日大明神の託宣」が引用されています。「三社託宣」と
してまとめられる以前に個々の託宣が知られていても不思議ではありません。しかし引用されている文章、
「春日大明神の御託宣に云く、飯に銅の炎をば食すとも、心穢れたる人の物をうけじ〜」は春日大明神では
なく、八幡大菩薩の託宣です。さまざまな偽書が作られたのは鎌倉、室町の戦火の時代です。中国文明圏
では漢の時代から活版印刷があり、併行して木版印刷が行われました。しかし江戸の泰平をむかえるまで
日本では出版の活動はほとんど停止しました。それで偽書の作者はでたらめな引用をすることがあります。

*三社託宣
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shinto/sanjatakusen.html

『新池御書』を特に後世の成立とみなす理由はない、と述べたのですが、二箇所も疑問点があるのですね。
内容上は問題がない、つまり真蹟に見られる思想の延長だとおもいますが、あえていえば、「謗社不参」と
いう具体的なおきてがわかりやすく導けるのが、宗派意識(宗派財政)が出来てからの創作かも知れない。
真蹟遺文の延長上にあるけれども、いささか「情熱的」に過ぎ、いささか「形式的」な真偽未決書、『如説
修行抄』など「折伏系」の偽書が「本覚系」の偽書以外にあり、日蓮の思想をゆがめていなくても、矮小に
している可能性はあるとおもっていましたが、『新池御書』にはぜんぜん疑問がありませんでした。ご指摘
に感謝いたします。

1784犀角独歩:2004/10/21(木) 02:12

突然思い出しましたが、勉強中さん(はじめまして)、また、顕正居士さんがご指摘になった点、古い『大崎学報』で読んだ記憶があります。ただ、ずいぶん前のことなので、あるいは他の研究誌であったかも知れません。それにしても、そのような賢察に、ご自身のご研鑽で到達されることに改めて、敬意を評するものです。

1785勉強中:2004/10/21(木) 11:18
顕正居士さん御教示ありがとうございます。

犀角独歩さん私の投稿記事は、興風談所の御書システムを参考にしましたまでで、決してオリジナルではございません。
引用を明記せず誤解をまねくような事になってしまいましたことをお詫びいたします。

1786犀角独歩:2004/10/23(土) 08:24

勉強中さん、いえいえ「お詫び」など、とんでもありません。
今後とも宜しくお願い申し上げます。

1787勉強中:2004/10/23(土) 15:01
犀角独歩さん、お忙しい中でのご返信、誠に恐縮です。

本日の論考は、宗門僧侶との質疑応答も含め、大変にわかりやすく勉強になりました。

余談ですが、都守師の論考も興味深い内容でしたね。

1788犀角独歩:2004/10/23(土) 15:35

勉強中さん、お出でいらっしゃいましたか?
また、過分なお言葉を賜りまして、有り難うございます。
お声を掛けてくだされば、用意していた画像の一切はお見せしましたのに。

わたしも都守師の論考は実に参考になりました。

1789勉強中:2004/10/23(土) 19:46
犀角独歩さん、度々恐縮です。
まだこちらにお邪魔して日が浅い上、独歩さんは講師諸師との談笑中でございましたので、私は池上にてお弁当を戴き、若干の見学をさせていただき帰路に着きました。
またお会いする機会がございましたら、是非ご挨拶させていただきたく存じます。

都守師の論考には、興風談所の坂井師なども注目されていましたね。
宗門からは高橋粛道師をはじめ、富士学林在籍中の御僧侶など6・7名がおみえでしたね。

それにしましても犀角度歩さんの堂々たるお姿はすばらしかったです。
一緒にいらっしゃいました、日興跡条々事に関する論考をされました方は、こちらの掲示板にもお出での方でしょうか。高橋師より直に意見が飛びましたね。
「大石寺教学の研究」で知られる東師も登壇され、ネット界の論師の方々がそろってこのような場に出てこられた事に驚きと喜びを禁じえません。

そういえばネット界の有名人である、波木井氏などもおみえだったんでしょうか。

独歩さん、月曜日もがんばってください。こちらは一般参加は不可のようですから、私は以後こちらの掲示板にて展開されます御所論を拝させていただきます。

1790犀角独歩:2004/10/24(日) 04:19

勉強中さん、ぜひ今度、わたしを見かけられましたらお気軽にお声をお掛けください。

それにしても、石山の富士学林の坊さん、可愛かったですね。わたしの子どもぐらいの年齢の子たちが一所懸命に質問?したのには、思わず笑みがこぼれました。

質問者は『日蓮上人』掲載の写真は由井一乗氏の『日蓮大聖人』に載った御影堂写真を転載したものである、写真は熊田葦城氏が勝手になぞったものであると言っておりましたね。しかし、こうなると、御影堂にあった板漫荼羅は日禅授与漫荼羅である、あるいは、熊田氏はかなり正確に禅師漫荼羅のとおりに線を描いたことになるわけです。また、御影堂安置の板漫荼羅を宝蔵格護を偽ったことにもなるのにと思いながら、その発言を聞いていました。

また、もう一人の質問者は石山歴代貫主が北山に行って禅師漫荼羅を模写できると考えるのかと問うていました。そんなことを考えているのではなく、事実として、熊田氏が、(もしくは由井氏が)発表した写真が禅師漫荼羅と相貌なのかという事実関係を問題にしているのみという説明にあっさりと納得していましたね。しかし、ここで問題にされるべきは、その禅師漫荼羅に「本門戒壇」という腰書きが、では、なぜ付いているのか、また、同漫荼羅は弘安3年5月9日と日付が明示されているのにも拘わらず、腰書きには「弘安2年10月12日」になっている矛盾をどう考えるのかという点です。こんな調子でいくと「由井氏や、熊田氏が、禅師漫荼羅の板本尊を勝手に「本門戒壇の大御本尊」と発表したのだ」と言い出しかねないと思った次第です。

もう一人、わたしが『河邊メモ』が一つの模刻説であると言ったのに対して、長々と河邊師本人の弁明文を興奮した声で読み上げだしたのには、これはいただけませんでした。まあ、20歳そこそこの年端もいかない青年、一般の常識がわからないのも致し方がないと言えば、それまでですが、人を導く教師(僧侶)になろうというもの振る舞いとしては、首を傾げざるを得ない態度でした。

高橋さんの本は既に一般では買えず、立正大学の図書館、あるいは国会図書館でしか見られないと言うご本人の言でした。「そこに書いてあるから読め」というのは、わたしにはどうにも納得がいきませんでした。「質問者は所属と名前を」と言われて、発言を許されているのに、名前を言わず話し出そうとするのは如何な者かと、まず思いました。それはともかく、この本では、『日興跡条々事』の写真が載っているのでしょうか。一次資料も発表されない、「こう書いてある。ああ書いてある」などというものは研究に入りませんから、あれだけ、自信を持って語っている以上、一次資料の写真は載っている本を発表されたのだと、大した進歩であると仄聞していました。ポーカーのブラフじゃあるまいし、「こう書いてある」などという与太話に真面目に付き合う研究者はいません。その意味から、高橋さんの本には、『日興跡条々事』原本写真が載っているのだと、大した進歩であるとご本人の言を聞きながら思った次第です。(まさか、載っていないなんてことはありませんでしょう)

その意味でも、都守師の発表は素晴らしかったと思います。あのように原本(一次資料)の写真を載せて論攷してこそ、研究といえます。

わたしのあとのの発表者も、「一次資料(『日興跡条々事』)の写真を石山は発表しましょう」という当然のご意見でした。

わたしも同じです。「実際、違う」だなんだと文章や言葉でとやかく言う必要はありません。「百聞は一見にしかず」です。わたしの言うところが違うというのであれば「図形」で、「ここが違う」とはっきり明示してくれれば、それで納得できます。ほかのごたくは聞いても仕方ありません。まず、図形ありき、一次資料の発表ありき、これ以外にありません。石山は所謂「本門戒壇の大御本尊」という彫刻の写真と、日禅授与漫荼羅、伝・日増授与漫荼羅など、自分たちが蓮師真筆であると言い張る一切の漫荼羅の写真を公開し、自らの「正義」を訴えればそれでよろしいわけです。

いずれにしても、日蓮宗宗務院に石山の坊さんがやって来たという事実は、微笑ましいものでした。

1791問答迷人:2004/10/24(日) 06:32

犀角独歩さん

お疲れ様でした。遂に世に問うた訳ですね。是非、開陳オフ会、計画して欲しいと思います。万障繰り合わせて参加させていただきます。

1792犀角独歩:2004/10/24(日) 08:07

問答名人さん、有難うございます。
お陰様をもちまして、第一歩です。

昨日はOHPでたっぷりと画像を用意していったのですが、会場で使えないという一幕もありました。これは実に残念でした。明日は60分で講演します。ここではOHP使用できます。まあ、こちらが公式のお披露目となります。ただ、一般参加はできない会合ですので、開陳オフ会、わたしも希望です。

もっとも最短でしたら、今週は29日、もしくは30日日曜日は空いております。
問答さんには早くご覧いただきたいとわたしは願っております。
ご都合の程、如何でしょうか。
『オフ会開催案内』スレッドに移動して、打ち合わさせていただけますでしょうか。

1793犀角独歩:2004/10/24(日) 08:08

↑間違えました。日曜日は31日ですね。失礼しました。

1794みかん:2004/10/24(日) 12:02
 東京・池上の日蓮宗宗務院で、日蓮宗教学研究発表大会があり、日興門流関係の発表もあるというので聴いてまいりました。残念ながら、私は都合で22日は聴くことができず、23日も途中からしか聴けませんでした。池上は小春日和で、とてもよい気候でした。

 わたくしが会場に入ったときに発表されていたのが、『大石寺教学の研究』の東さんでした。「初期興門における本尊思想について」というタイトルで、その時代の本尊観が「造像を厳誡」だったのか、「造像を認めてい」たのかを論じられていました。

 次の方が、犀角独歩さんでした。「大石寺漫荼羅の真偽について――所謂「本門戒壇の大御本尊」の図形から見た鑑別」と題して、板漫荼羅に紙幅の原本が有ったか否かを論じられました。本門寺根源(北山)所蔵の日禅授与の漫荼羅と全体のレイアウトは異なるが、各文字ごとに重ねると一致することを指摘され、「1 日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした 2 各文字ごとに丸木板状にレイアウトし直し『パッチワーク』した」と結論付けています。これに対して、3名の日蓮正宗の若手ご僧侶から、批判的な質問・ご発言がありました。OHPが使えなかったので、たくさんの図像が見られなかったのが残念でした。さらに詳しい内容は現在準備されているご著書で読めるものと期待しています。

 その次の方は「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」との発表でした。日蓮正宗が刊行する諸本に収録されている「日興跡条々事」に大きな異同があること、大石寺では同文献の原本が残っていると主張しているが、公式に発表された写真版が現存せず、疑問が残り、ぜひ公表してほしいと発表されました。それに対して、日蓮正宗・愛知県・妙道寺事務所ご住職の高橋粛道先生から、それについては高橋先生の著書の『日蓮正宗史の研究』で論じているから、それを踏まえて手紙などいただきたい、という趣旨のご発言がありました。

 最後の発表者が都守先生で、「『善無畏三蔵鈔』再考」と題され、録外御書である同遺文には真蹟、古写本が存しなかったので近年あまり用いられてこなかった。ところが最近、京都妙覚寺の寺宝調査で同遺文の断片と思われる真蹟断簡が発見されたという、興味深い事実を報告されました。それを踏まえ「善無畏三蔵鈔」について再検討を加えられました。それに対し、寺尾先生(だったと思う)と、興風談所の先生が質問されていらっしゃいました。

 4つの発表しか聞けませんでしたが、どの発表も大変興味深く拝聴しました。また、さまざまな立場の違いがありますが、それを超えて、日蓮研究、日興門流研究が深まり、さらにはその基礎となる資料の収集、公表がさらに進むことを念願いたします。

 日蓮正宗ご僧侶方が複数で日蓮宗宗務院に乗り込んできたというのは、いろいろ興味深いことですね。

 勉強中さん、お会いできなくて残念でした。また機会があれば是非。

1795犀角独歩:2004/10/24(日) 15:54

みかんさん、有難うございます。
問答さんがご提案くださった開陳オフ、できましたら是非ともお出でください。
勉強中さんもお会いできればと勝手に念願しております。

1796勉強中:2004/10/25(月) 01:31
犀角独歩さん、みかんさん、こちらこそ是非よろしくお願いいたします。

30日・31日はあいにく仕事が入っていまして、帰りも遅くなりそうです。
22日から明日の25日までの4連休のつけが今度の週末です。
しかし大変に勉強になった2日間でした。興風談所の坂井師は、その論考や各種講演に対する質問など、日蓮門下一般でもかなり評価は高いと思われます。興風談所では若手になるのでしょうが、将来的にかなり有力な研究者であると思われます。

次のお休みは11月3日ですが、この日は当初中山法華経寺の霊宝お風入れに行く予定でしたが、交通費の捻出に苦心しているところです。今回はちょっと厳しいかもしれません。
坂井師は犀角独歩さんの御講演を、どのような気持ちで聴講されていたのか、個人的には非常に興味があります。
高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議でなりません。若い僧侶たちは必死であったと思います。しかし私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

余談ですが、先日の「『日興跡条々事』について――各刊本対照と真偽問題」の論考と、保田妙本寺執事さんが1996年8月に『「日興跡条々事」の誤写を正す』と題して「冨士門史学研究会会報」第1回に発表されました論考とが、途中までかなり近い内容であったような気が致します。

冨士宗学研究会様には書籍発注の以来のメールを入れさせていただきましたが、直接お話を拝聴できないのは残念です。いつの日かお会いできる事を念願いたします。

1797伊野 健太:2004/10/25(月) 14:22
 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?
そこでは、書籍を出版されてるのでしょうか。

1798小僧:2004/10/25(月) 21:43
本日、犀角独歩先生の御講演を拝聴させていただきました。
私にとってはほとんど未知のお話でほとんど理解できませんでしたが、元現宗研所長の
石川先生や黒木先生のご質問を伺い、終了後に師僧にかいつまんで電話したところ、
「詳しく話せ、大変なことである」と言われ、ノートもとっていませんでしたので、
「すぐに講演の記録ができると思うからすぐにおくります」と答えました。
私は正宗のひとをだれも知りませんので犀角独歩先生のお話を漫然と聞いていただけだったので、
師僧の強い言葉に「えっ、なんで」とおもったのですが、その後数十分電話で話して、
犀角独歩先生のご発表の重大なることがようやく少し理解できました。
OHPでの映像について説明したところ師僧は是非自分も見てみたいと申しておりました。
本日、お配りいただいたレジュメをさっそく師僧にファックスしましたところ、生まれて
はじめて師僧から「ありがとう」といわれました。
犀角独歩先生にお礼申し上げます。
これから過去ログを読ませてもらい、師僧にもファックスするつもりでおります。
ありがとうございました。

1799みかん:2004/10/26(火) 04:46
>小僧さん。
はじめまして。
小僧さまがおいくつでいらっしゃるのか存じ上げませんが、20代から40代ぐらいでしょうか? ちょうど「若い世代の日蓮宗のお上人には、創価学会や大石寺問題というのは縁遠いのでしょうね」、と土曜に独歩さんとお話したところでした。
師僧さま(小僧さまのお父上でいらっしゃいますか?)の世代ですと、創価学会が日蓮宗を「謗法だ」、身延山を「謗法の山だ」と攻撃して、「大石寺の本門戒壇の大御本尊が日蓮大聖人の出世の本懐だ」と強調していた時代を実体験されているので、大石寺の板漫荼羅には関心がおありなのではないかと、推察いたします。
小僧さまも、これを機会に、すこし大石寺に調べていただけば、いろいろ興味深い発見があるのではないかと思います。

>独歩さん。
月曜の講演も成功したようでおめでとうございます。
こういう形の反響があるのが何よりですね。

1800みかん:2004/10/26(火) 05:44
23日の「日蓮宗教学研究発表大会」における、独歩さんと質問者の質疑応答をテープ起こししましたので、ご参考までに掲載します。

A「富士学林のAでございます。日禅授与本尊ですけれども、どの資料にあたられて検討なされたのか、お答えいただければと思います」
独歩「何でございますか」
A「日禅授与本尊」
独歩「日禅授与本尊の出所に関しましては、北山本門寺の本尊を使用しておりますけれども」
A「『御本尊集』に掲載されていないということですので、山中随喜氏(ママ)、あと片岡随喜居士の編集であります『御本尊集』にはでていないのですけれども、北山本門寺にいかれて写真をとられたということでしょうか」
独歩「その件に関しましては、写真の出所に関しては御当人から控えるように、発表を控えるようにということがございますんで。写真がございますんで、もしご不明な点があれば、この後言っていただければ、ご覧いただけます」
A「わかりました。大石寺にも日禅授与本尊があるということはご存知ですか」
独歩「もちろん、存じております」
A「あと、熊田氏の『日蓮上人』にしか大御本尊の写真が出ていないということなんですけれども、熊田氏の写真というのがですね、あの由井一乗居士という方の『日蓮大聖人』という本があるんですけれども、その御影堂全景の写真のなかからの、拡大してあの本に掲載されていまして。しかも修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「はい存じております」
A「ではあの、修正される前の写真と、修正した後の写真との比較検討はなされているでしょうか」
独歩「そのような点は承知しておりますけれども、本日は15分という短い時間ですので、そこまでは割愛させていただきました」
A「まあ、熊田氏の写真についてはですね熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられているということはご存知でしょうか」
独歩「存じております」
A「わかりました。ありがとうございました」
独歩「ちょっと補足すれば出すね。その件に関しましては、ぜひとも大石寺の方から、本門戒壇の大御本尊と言われる彫刻本尊の詳細な写真を発表していただきまして、もう一度図形として考察を行いたい。このように考えております」


B「Bと申します。大石寺に僧籍を置くものです。先ほどの質問とちょっとリンクするんですけれども。いまこちらで、日禅授与の御本尊、大漫荼羅との比較検討が行われましたけれども、これをお聞きいたしますと、大石寺の歴代の人が結局のところ、その、日禅授与本尊を、偽作したというようなことになりますのでしょうか」
独歩「偽作というのはどういった意味でおっしゃっているのでしょうか。あのう、あくまでもですね、本日の発表につきましては、図形上の比較でございまして、つまり、申し上げれば、いわゆる大石寺の言うところのいわゆる本門戒壇の大御本尊と、北山所蔵の日禅授与漫荼羅が、相貌、図形的な意味でございますね、よく似通っているということを申し上げたに過ぎません」
B「ありがとうございました。ひとつ申し上げておきたいんですけれども、日禅授与の御本尊を、大石寺の貫主が臨写できるような環境、ま伝承という意味に起きまして、そういう環境になかったと私は認識しておりますが如何でしょうか」
独歩「あの、そこらへんの歴史な推移または状況というものは、わかりません。わかりませんが、ハッキリいえることは、図形で比較したときに重なっている。ただその一点でございます」
B「はい。ありがとうございます。」


C「X大学大学院修了のCと申します。今般の真偽を検討される際の真偽のテーマというのは原本があるかないかに絞られていると思うんですけれども、それと大石寺の『日蓮聖人の究極の本尊と主張』するというその主張の真偽との、どう重なり合うのか、あるいは重なり合わないのかということについてご見解をうかがえればと思います」
独歩「とくにそれは、リードみたいな言葉でございまして、関連はございません」
C「はい、わかりました。どうもありがとうございました」

1801みかん:2004/10/26(火) 05:46
D「大石寺に僧籍を置くDと申します。レジュメですねえ。一点間違って掲載されている設問がありまして。裏側の河邊メモなんですけれども、この最後に『これも一つの大石寺本尊模刻説に数えることができます』とありますが、実際当人の河邊氏から、『日蓮正宗の宗内各位へ』ということで、えーっとですね、ちょっと読ませていただきます。『この度の河邊メモの件につき申し上げます。私はこれまで種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』が偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります』」
独歩「あのう、よく存じております。」
D「はい。ご本人が‥‥」
独歩「ですから、その意味から申し上げてですね。ここでもう少し言葉を書き換えてもよろしいんですが、日禅授与漫荼羅の一つの説として私は捉えたということでございます。はい」
D「『模刻説に数えることができます』というまあ、不明瞭な、きちんとした、事実と異なることを書くというのは、まあこういう場で発表されるのにふさわしくないと思いますので、きちんと」
独歩「いま、おっしゃられたのは、大石寺の見解としてそのようなご意見を」
D「いや見解じゃなくてご当人がこのように」
独歩「いや、河邊さんがそのようにおっしゃっているのかもしれませんが、それのとったそのメモを創価学会その他で、それをそのような説として捉えたということがございますので」
D「そう書いてください」
独歩「その、訂正ができないものですから、レジュメには書けなかった。そのいうことがございます」

1802頭角無類:2004/10/26(火) 06:20
犀角独歩さん
はじめまして、頭角無類と申します。

 発表のレジメを拝見させてもらいました。大変興味深い内容でした。素朴な疑問なのですが、大石寺の本門戒壇本尊が、日禅授与の本尊から部分部分を双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られたものだと仰りたいようですが、その場合、文字が完全に一致するはずです。
 なのになぜ、「ほぼ一致」とか、「全体はよく一致」ということになるのでしょうか?
 写しとって作られたとするならば完全一致でなければおかしいことになると思いますが、その点の見解をお聞かせ願えれば幸いです。

1803犀角独歩:2004/10/26(火) 09:57

勉強中さん:

31日のこと、了解しました。

> 坂井師

正信会の僧侶からすれば、彫刻本尊の真偽などさしたる興味でもないということでしょう。また、本山復帰を意識すれば、お宝は手を付けない・コメントはしないが得策という思いがあるのかと…。これは坂井師に限らずこの会の一様の思いであると観察しています。まあ、ここが正信会の限界であるとも思っています。

> 高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議

残念ですね。条々事の発表者とも、そう話しました。彼は高橋師の活字になり、本になっていないものを丹念に集めてファイルにしていたと言っていました。石山のなかにあって真面目な研究者だと尊敬もしていたと、ところが当日のあの態度を見て、がっかりしたと言っていました。わたしも同様です。いずれにしても、一次資料の写真も出さない論攷は説得力はゼロ、もっと言えば、そんな研究はないに等しい、随分と無駄な文章を書いていると思います。まあ、条々事の正本・案文・下書きが興師のものであるというのであれば、その写真を発表することが師の使命であり、また、そうしなければその論攷はただの石山の御神輿担ぎに終わるわけですから、気の毒にも思います。

> 私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

そうでしょうか。達師はたしかに御影堂には当初、件の彫刻本尊が安置されていたといい、その後は宝蔵に遷ったと発言していたと記憶します。石山のアナウンスでは、彫刻本尊は広宣流布の暁まで宝蔵に秘蔵厳護、故に顕師も正本堂の須弥壇は倉の造りになっていた、奉安堂も様式としては倉であるといった類の発言をしてたと記憶しています。

精師以降、広宣流布まで宝蔵に秘蔵厳護されていたはずのものが御影堂本堂に置かれているとしたら、以上の石山見解と齟齬を来すという点を1790にわたしは記したのです。


伊野 健太さん:

> 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?

仰る主体というのは宗派その他のことでしょうか。
であれば、特にありません。雅仙堂さんという在野の研究者が数十年の資料蒐集編纂をまとめ、研究を目的にする団体とわたしは理解しています。

> 書籍を出版されてるのでしょうか。

詳しくは以下のアドレスに問い合わせてみてください。

rmc-info@world.odn.ne.jp


小僧さん:

呼びかけづらいHNですが、そのままコピペさせていただきました。恐縮でございます。
また、わたしへは「先生」などの尊称は無用です。当板はお互い「さん」付けが決まりになっております。そのようにお気軽にお願い申し上げます。

ご投稿、有り難うございました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


みかんさん:

ママ起こし、有り難うございました。


頭角無類さん:

> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた

たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じる言い回しになっているのかと反省いたしました。レジュメがお手元にあるようなのでご確認いただければと存じますが、わたしは

「(1)日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした
 (2)各文字ごとに丸木板上にレイアウトし直し「パッチワーク」した」

と「模写原図」に拠ったのではないのかと申し上げたわけです。

1804犀角独歩:2004/10/26(火) 11:50

もう少し記します。

以下、昨日の講演ではやや触れた点です。

・禅師授与漫荼羅は、北山、石山に2幅ある
・蓮師が同一日・同一授与者に2幅図示したとは考えづらい
・片方は表層剥離、あるいは模写であると考えられる
・1幅は、籠抜に拠ったのか・あるいは模写に拠ったものだろう

ということが前提です。
表層剥離、もしくは籠抜でもう1幅が制作されたとすれば、この2幅に大きな相違はないことになります。この前提で日教研では管見を述べました。彫刻本尊はその禅師授与漫荼羅を模写し、パッチワークしたものであるということです。模写と言ったのはご指摘のとおり、籠字を厳格に使ったとすれば、その相違が説明できないからです。パッチワークと言ったのは配置にズレがあるからです。

ただし、もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至となります。わたしが比較・検討に供したのは北山蔵です。ですから、もし、石山蔵に拠れば、あるいは文字の細部、レイアウトに至るまで一致するのかも知れません。

この検証を宜しく行うために、石山が彫刻本尊と禅師漫荼羅の詳細な写真を発表することが望まれます。また、この鑑別は石山こそ、科学・専門家の力を借りて行って然るべきことです。

かつて800万信徒を動かし、30年前の貨幣価値で400億円以上の集金を基になった彫刻本尊、その後、1650万信徒を豪語したわけです。30年、どれだけの延べ人数にしてどれだけの人々が彫刻本尊の基を訪れ、拝観料はどれだけのものになったのでしょうか。また、顕正会はいまでも国立戒壇安置を主張し続けているわけです。その後、正本堂は解体され、さらに喜捨も募って奉安堂を建立。彫刻本尊を本物であると信じる信徒会員が傾けて、全身全霊の思い、金銭、時間、労力を考えるとき、この彫刻本尊の実態を白日の下に晒す責任はむしろ石山にあります。しかし、それをやらないと言うのであれば、こちらがやるしかありません。誤解があるといけませんので、敢えて申し上げますが、わたしが信仰する人々には何の怨みも辛みもありません。そうではなく、その人々と同じ思いで、人生の大半をこの彫刻本尊に注ぎ込んだ一人として、事実を明らかにする責任をわたしは感じているということです。

批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。
いまここに彫刻本尊とは如何なるものであるのかを徹底的に検証する新たな彫刻本尊真偽論を展開する時期に来ています。石山は60万登山の檄を飛ばし、100万達成を豪語する顕正会はいまだ国立戒壇建立と安置を主張しているからです。

これら活動は「本門戒壇の大御本尊」が本物であるかどうかでその価値は180度逆のものなってしまうでしょう。その行動はまた新規会員信徒の獲得を意味する以上、国家・国民に対する、否、全世界に信徒が居るとすれば、それらすべての人に対して責任を負っています。重要なことは、本物であると信じることではなく、本物であることを証明することです。本物であるかどうかをしっかりと証明する義務を「信じさせる側」は負っている点を見逃してはなりません。

わたしは彫刻本尊の徹底検証を行いそれが実に石山のいうとおりであれば、それは喜ばしいことです。しかし、違っているとすれば、それは真実を明らかにしなければなりません。事実に対して正直であれ、真実を受け容れる勇気を持つこと、それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1805犀角独歩:2004/10/26(火) 11:53

【1804の訂正】

誤)それ学問の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。
正)それが苦悶の選択であっても是の如く生きることが八正道であるとわたしは考えるからです。

1806きゃからばあ:2004/10/26(火) 13:52
3年ぐらい前に書き込みしていた、無徳民です。
当時、紛らわしいHNで「無徳さん」に御迷惑をお掛けいたしましたので、今回、HNを改めました。

犀角独歩さんの

>批判することが悪ではなく、真実を覆い隠すことが悪なのです。

は、同感いたします。

どうか頑張って下さい。
私ももう一度、自分なりに調べてみようと思います。

1807犀角独歩:2004/10/26(火) 15:44

きゃからばあさん、お久しぶりです。

ご健闘をお祈り申し上げます。
何かございましたら、お気軽にお声をお掛けください。

1808れん:2004/10/26(火) 17:44
犀角独歩さん、日蓮宗教学研究発表大会での発表、お疲れさまでした。私は仕事がありましたので、残念ながら拝聴の機会を逸したのですが、勉強中さん・みかんさん・小僧さんのご投稿を拝読しまして、犀角独歩さんの御研究の一端を拝読することを得たのは幸いでした。件の弥四郎曼陀羅の写真は熊田葦城氏の「日蓮上人」(明治44年刊)所収の写真が有名ですが、大正4年刊・荒木英一(清勇)師著「大日本国所立 聖教の正義」(手持ちのものは興門資料刊行会から昨年再版されたもの)の口絵にも「本門戒壇ノ大御本尊」の写真が収録されています。この写真も写りが悪く不鮮明ですが、熊田葦城氏の「日蓮上人」収録のもの全く同じ板曼陀羅ですので、彫刻弥四郎曼陀羅が、禅師授与蓮師御筆曼陀羅からのパッチワークであるとの独歩さんのご指摘は正鵠を得たものと思います。何れにせよ、私は仕事で開陳オフ会にも参加できない身ですので、犀角独歩さんの近刊書籍を拝読できる日を楽しみにしております。

1809頭角無類:2004/10/26(火) 17:55
なるほど、仰せの趣旨はよくわかりました。懇切なる説明ありがとうございます。

>> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた
>たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じ
>る言い回しになっているのかと反省いたしました。

と言われていますが、レジメを読む限り、
「透けるほどの薄紙を曼荼羅に宛い、文字の輪郭をこれまた細い筆をもって写しとっていく」また、
「大きな薄紙が用意できれば」云々
と紙の大小にまで話が及んでいますので、双鉤填墨的手法を用いて首題を写しとったという前提でのお話しであると承ったのですが、私の理解が「誤解」であると指摘される意味がわかりません。またこの度のレスでは、

>もし禅師授与漫荼羅が2幅の一方が模写である場合、相貌の詳細
>では相違が生じ、またレイアウトにも相違が生じることは必至と
>なります。

と言われていますが、この場合の「模写」とは、「臨写」を指すものでしょうか?それとも「臨写」とまでも言えない「お手本とした」という程度のものでしょうか?

そうなると、発表のレジメに論じられている「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のないもののようにも感じられるのですが。

またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介頂けると多少納得がいくかもしれません。公開はしては頂けないのでしょうか

何かとお忙しいこととは思いますが、よろしくお願いします。

1810犀角独歩:2004/10/26(火) 19:31

れんさん、しばし、お久しぶりです。
熊田葦城『日蓮上人』でも実は写真は2枚あるとのことでした。
種々、有り難うございます。


頭角無類さん:

> 私の理解が「誤解」

いえ、頭角無類さんのご理解が誤解であると申し上げたのではありません。
ここの部分で、わたしが記したかったのは、禅師授与漫荼羅>2転の漫荼羅>模写原本>彫刻本尊という手順であること、この課程のどの段階かでで籠抜の技法が使われ、文字が写されたが、それを確実に使用していないこと、殊に諸尊勧請、讃文等はこれまた別の文字のパッチワークに拠っている思えること、さらに不動愛染は殊更に書き換えられていること等、さらに種々検討するべき点があることを、籠抜ばかりを記し、それ以下を省略してレジュメの文にしたので、単に一切を仰る如き双鉤填墨的手法で制作したと取られかねない文になっており、誤解が生じることになったと意味のことを記したのです。

> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

もしゃ 1 0 【模写/▼摸写】
(名)スル
芸術作品などをそっくりそのまま写し取ること。また、写し取ったもの。コピー

りんしゃ 0 【臨写】
(名)スル
手本を見て書くこと。臨書

てほん 2 【手本】
(1)初心者が絵や字を習うときにまねて似せるべき絵や字。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)

という言葉の使い分けでよろしいのでしょうか。

> 「双鉤填墨的手法」を用いたという前提での画像の重ね合わせはあまり意味のない

「各漫荼羅・本尊の文字の輪郭を取り、大石寺彫刻本尊に重ねて比較検討する方法を採りました」という方法を採ったとわたしはレジュメに記しました。
しかし、これは直ちに「「双鉤填墨的手法」を用いたという前提」ではありません。
図形を比較するうえで相似形を探す方法として、輪郭線を使用したという意味です。
レジュメ本紙はカラー印刷ですが、お手元にあるものは白黒のコピー、またはファックスなどの2転のものではなく本紙でしょうか。そうであれば、ご確認できようかと存じますが。

> またレジメをよく見返してみますと、御説の一番強い根拠としておられる「首題」においても異なりがあるように見受けられるのですが・・・

主題において、もっとも大きく異なるのは經の字旁です。
北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なっていることを申し上げました。ただし、この一画の欠損は華の字の縦棒が經の字旁に長く伸びている箇所とほぼ重なっております。図形的には、この位置と重なっていることを申し上げました。しかし、これはこのように文章で書くとなかなかご理解いただくことは難しいところと存じます。
しかし、レジュメに載せた写真でもおわかりいただけるかと思いますが、実際の文字の大きさバランスその他、相似形をなしています。


> 重須蔵の「日禅授与本尊」その鮮明な写真をご紹介…公開

もちろん、講演その他の段階ではこの写真を呈示しております。
また、拙書には当然、その写真を載せています。ご高覧を賜れればと存じます。

1811愚鈍凡夫:2004/10/26(火) 20:06

1280(弘安3)年日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されているようですが、この文を書き込んだのが日興師で、保田妙本寺の「万年救護本尊」の副書が蓮祖の正筆であったとすれば、何故、日興師は「本門寺」の何処に懸けるのかを示さなかったのでしょうか。「万年救護本尊」は、「本門寺」の「御影堂(誰の御影かは別として)」と場所の指定があります。日興師の性格からすれば、蓮祖に習って「どこそこに懸け奉るべし」との指定があってもおかしくはないと思うのですが。
このことは、「万年救護本尊」の副書の存在を日興師が知らなかった、もっと妄想を膨らませれば、副書は日興師の時代には存在しなかったということではないでしょうか。
少なくとも、傍証ぐらいにはなりそうに思います。

以前にもあった疑問ように思うのですが、
北山では日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」と称するそうですが、「使い回しかい」とのツッコミがありそうですね。 (^◇^;)
ところで、「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味でしょうね。
ならば、本門寺の本堂に安置する本尊は?
まるで、疑問の堂々巡りですね。困ったもんだ。 ( ̄ヘ ̄)ウーン

1812犀角独歩:2004/10/27(水) 00:40

愚鈍凡夫さん、さすがの問題意識。

> 日禅授与漫荼羅には、「本門寺に懸け万年の重宝たるべし、」と記されている

ええ、北山蔵はそうなっていました。
ところが石山蔵では、この文が反対に削り取られているわけですね。

> 日禅授与漫荼羅を「戒壇之本尊」

そうなんですよ、『大石寺誑惑顕本書』に「万年救護」「戒壇之本尊」とありますね。
亨師は伯耆漫荼羅と伝承と記していました。

> 「本門戒壇」の「本尊」とは、本門寺の戒壇堂に安置する本尊という意味

そう、ここですよね。つまり、本堂用の本尊と戒壇院用の本尊が別に必要になることになります。そのほかに御影堂となりますね、ここには御影。本堂は他門では当然、釈迦像でした。

で、石山の話ですが、精師は御影堂と本堂と、おまけに戒壇まで三つ併せて堂宇を建立。これと関連するのかどうか知りませんが、建った門が三門。
そこで正本堂が建ったとなると、御影堂は単なる御影堂に戻ったことになり、正本堂は本堂+戒壇の意義付け。それでまた、この正本堂を壊して奉安堂にして本堂の意義がなくなったわけで、そうなると御影堂はまたもや、本堂の意義を吹き返したのか…、二転三転、ややこしい堂宇の意義付けの変遷が近代の石山事情の一側面であったりしますね。

1813勉強中:2004/10/27(水) 01:11
犀角独歩さん、ご返信ありがとうございます。

愚鈍凡夫さんお久しぶりです。

浅学の為間違いがありましたらご教授願いたいのですが、万年救護本尊の副書ですが「千葉県の歴史」の巻末に書かれているものは誤記であって、佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

れんさん、空き缶さんもご覧であれば、ご教示願いたく存じます。

1814れん:2004/10/27(水) 04:16
犀角独歩さん、「日蓮上人…実は写真二枚…。ご教示有難うございます。
勉強中さん、万年救護…副書…「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶…。そうなんですか。私は保田妙本寺文書に関しては、現在「千葉県の歴史」以上の物は持ち合わせてないので、実際に妙本寺等に行かれて実物を拝観された勉強中さんのご教示は大変参考になります。副書「御本尊堂」ですと、副書の意図は保田の万年救護は本門寺建立の時本堂に懸ける本尊とすることにあると言うことでしょうか。ただ若干悩ましいのは「日興上人御遺跡事」(正本御筆写真、継命新聞社刊日目上人49ページ収録)では‘日蓮聖人御影’をも「本門寺建立之時者可奉納本堂」としている点ですね。この点、空き缶さんのご教示の如く保田の万年救護と蓮師御影はセットになっているようにも見えます。
愚鈍凡夫さん、戒壇堂、重須の順師心底抄・代師葦名阿闍梨御返事では曼陀羅図の如く仏像安置、しかし順師後年の著の摧邪立正抄では本門戒壇…安置本門大曼陀羅、この辺の会通はどうなるのでしょう?興門でも上代ではこの辺が未整理であるかの如く見受けられますね。

1815愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:46

犀角独歩さん、
お忙しい中でのレス、有り難うございます。
その時その時で、都合のいいように解釈していくから整合性がなくなってしまうんですよね。

勉強中さん、どうも。
小生と違って真摯な態度で教学と取り組む姿勢、凄いと思います。

> 佐藤教授の論文から「本御影堂」ではなく「御本尊堂」が正しかったと記憶していますが違いましたでしょうか。

この見解が正しいとすれば、副書が蓮祖の正筆であることに疑いを持ってしまいます(結果的に御影堂の場合でも同じですが)。理由は、蓮祖が一つの漫荼羅にだけ、特別な意義を持たせるとは思えないからです。
紙幅であることを考えると、果たして千年もつでしょうか?
そして、聖滅後、紙幅の漫荼羅にもしものことがあったらどうするのでしょうか。
やはり、本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。
蓮祖は、仏像に添える脇士によって本尊の差別化を図り、本門の教主釈尊を現そうとしていたのではないかと思います。法華経の虚空会をモチーフにした、蓮祖独自の虚空会がイメージとしてあったのではないかと想像します。

れんさん、どうも。お忙しそうですね。
小生は最近、初期興門派が仏像正意であったことに注目しています。これは蓮祖が生前、漫荼羅を示しながら、弟子たちに本門の本尊の立体像を語っていたからではないでしょうか。
予算を含めた諸般の事情から、それがいつしか漫荼羅正意へと変遷していったということではないかと思っています。

1816愚鈍凡夫:2004/10/27(水) 07:53

説明不足ですので、補足です。

> 本門の戒壇を備えた本門寺本堂の本尊は、仏像ではないでしょうか。

とは、「本門寺本堂」に「本門の戒壇」が備わっているという意味ではなくて、比叡山や高野山のように、寺院群で構成されているのが小生の「本門寺」のイメージです。

1817頭角無類:2004/10/27(水) 11:56

犀角独歩さん

いちいちの御返事恐れ入ります。

>北山蔵禅師漫荼羅では經の旁は[一/リ/エ]となっております。
>これは極めて特異な筆法であると言えようかと思えます。
>この点を彫刻本尊では[一/ツ/エ]となっている点で異なってい
>ることを申し上げました。

私の所持するレジメはコピーなので、ハッキリ分からなかったのですが、なるほど言われてみるとそうですね。とても興味深いです。
でもこれで一つなぞがとけたような気がしました。

 『日興上人詳伝』を読み返してみたのですが、

「(日禅師授与本尊について)北山本門寺にも法道院にも存在する。予が拙いためかいずれがご真筆でありやは判断しかねる。幸いに両本尊を同座申し上げたら判明するであろうか。(中略)『御本尊衆目録』には北山本門寺蔵御聖筆十一幅の中にようやく鉄砲曼荼羅という一幅だけしかのっておらず(中略)これと法道院の御分との学的判断は安国会主にも問い合わせもしようし、とにかく将来の楽しみに留保しておく」

という意味深な下りがあって、北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点があるのだろうと、漠然と思ってはいました。どのような違いがあるのかこれが大きな謎だったのです。

 山中喜八氏の『御本尊図集解説』に、

「およそ首題の『經』字の御書体は、著しき年代的特徴を有し、四種類に分かつことができる。(中略)今後若し、聖筆の真偽を判じ、或は臨模・作為を弁別する場合は、第一に此の点を考察すべきであろう」

 と記されております。これは山中氏が「經」の字によって偽書判定を行った御本尊が存在したことを物語っています。富士学林A氏も質問していたようですが、山中氏は北山蔵の「日禅授与本尊」について、[一/リ/エ]となっている「經」字の旁、その点を根拠として不収録とされたのか、と思い、一つ謎が解けたわけです。

 個人的には『御本尊集』収録の御本尊について、真偽にやや疑問があるものも存在しますが、いまのことろ、山中氏の研究を否定した人は居ないようです。

>> …「模写」…「臨写」…「お手本とした」

 私も言葉が少し足りなかったのですが、山中氏が御本尊偽作の系統について、「臨模・作為」と表現されるように、偽作本尊には、
①模写(双鉤填墨)、
②臨写(横に置いて字をまねて写しとる)、
③作為(手本のまま写しとるのではなく多少相貌を変更したりして創作する)
大きくこの三つの系統があると言われています。私もこの三つを言いたかったわけです。
その上で、

A仮に北山蔵のものが「臨写」・「作為」の類であったとして、制作者が「經」の字を書き損じたのか。(模写でこのような間違いがおきることは考えにくい。)

B山中氏の研究に合致しない、超例外的に[一/リ/エ]の經のつくりの御本尊が存在するのか。

 これらの点がさらなる疑問となってくるわけです。

 大石寺蔵の「日禅師授与本尊」の「經」のつくりがどうなっているか、北山蔵とどのように違うのか是非拝見したいものです。今の段階では大石寺蔵の真偽についても判断はできかねますが、その点も併せて、何か御研究されていることがあればお教え頂ければ幸いです。
 また、これらの研究については、昭和60年2月号の『日蓮宗新聞』に新たに「真筆本尊」として紹介された『聖運寺曼荼羅』について、偽作であるとの判断を加えた寺尾英智氏の研究(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』)にも詳しいので参考までにご紹介します。

1818犀角独歩:2004/10/27(水) 14:10

頭角無類さん、毎日、有り難くご投稿を拝受させていただいております。

> 北山蔵と大石寺蔵の「日禅師授与本尊」には何らかの相違点がある

ええ。わたしもこの点にはもちろんのこと、注目しております。
亨師のご研究を見れば、両漫荼羅の相違については、その加筆のみの相違が読み取れるばかりです。

この点は現宗研の講演では話しました。

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京 法道院」(冨要9-178)

「弘安3年太歳庚辰5月9日、比丘日禅に之を授与す、(御判の内に他筆にて)本門寺に懸け万年の重宝たるべし、(伯耆漫荼羅と称す)」(富要8-215)

先に愚鈍凡夫さんの応答でも触れた点です。
興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆はこちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があるといいます。さて、どちらが御筆か、もしくはと思惑は巡りますが、興師の仰る如く、これは将来に託された研究課題の一つと思います。


> 山中喜八氏の『御本尊図集解説』…『經』…聖筆の真偽を判じ

ええ、この点はわたしも、半年前にアップしてこの点を指摘しました。
これは頭角無類さんがご指摘くださった論点とまた違うのですが、わたしはこの「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月の特徴を示していない点を主張したものでした。
以下、転載です。

―― 「板本尊『経』の止筆は偽作の証拠」という1項には頷けるところがあった。

 安永は「経」の一時に着目する理由を以下のように説明する。「立正安国会の山中喜八氏が大崎学報で述べているように、経の字の変遷は『聖筆ノ真偽ヲ判ジ、或ハ臨ぼ(リンボ=見て写すこと)作為(サクイ)ヲ弁別(ベンベツ)スル場合ハ、第一ニ考察スベキデアロウ』と述べているように、経の書体の年代的相違は決定的なものである」

 そのように紹介したうえで、弘安2年における日蓮の「經」の筆法は、旁の「工」の三画は止めずに細く伸ばしている点を挙げる。(これを日蓮門一般では「光明点」という)そして、安永は「光明点は先が、尖っている」が板漫荼羅ではそうなっておらず「規格に反して太く止められている」と指摘するのである。

 これは実に重要な鑑別識である。写真で見る限り、確かに經の最終画は止筆になっているように見える。仮に止筆ではないにしても、同時期の光明点のように細く長く伸ばして書かれていないことは動かない。

 この点を弘安2年11月御筆漫荼羅(No.69)で比較してみよう。上図、左が板漫荼羅の「經」、右が真筆の「經」である。たしかに同一書体とは見えない。筆法の差は歴然であり、板漫荼羅の字体は弘安2年という時代性を反映していない。このことから安永が言う如く、とても弘安2年の筆とは見えない。

 また、『「ツ」の字形の経は弘安二年のものではない』という1項も設けている。「板本尊の旁(つくり)は片仮名の「ツ」の字の如くに、筆が切られている」という。この安永の指摘もまた頷ける。真筆では一筆に流麗に書かれるが、板漫荼羅は「ツ」様に彫られている。

 こうして改めて板漫荼羅の相貌の全体を見直すと、御筆漫荼羅と比較して、全体的な構成に大らかさがない。日蓮御筆の特徴とも言える紙幅に縦横無尽に筆をふるった闊達さがない。全体的な構成も著しく相違し、中央題目と花押が大きく場所を取り、弘安2年当時の特徴を示していないのである。 ――

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1819犀角独歩:2004/10/27(水) 14:10

―1818からつづく―


> 『御本尊集』…山中氏の研究を否定した人は居ない

三学無縁さんに拠りますと、立正佼成会の教学の責任を持つ幹部がこの点を指摘したことがあるということでした。その方の名前をわたしは失念しました。

> 山中氏…「臨模・作為」

この分類に基づくご指摘でしたか。失礼しました。
彫刻本尊原本を鑑みる限り、実に事情は複雑だと慨嘆を禁じ得ないところがあります。
雑駁に申し上げれば、「南無」は臨写の如くです。「妙法蓮華経」は模写の如く、しかし、法の旁[土/ム」の土の横棒二本目は、禅師授与では止筆、彫刻本尊は下に跳ねています。經の旁については記した如く差異を存します。四大天王、日蓮花押に至ってはそれぞれの画の置かれる場所はほぼよく一致しながら、しかし臨写の如くです。不動愛染は静謐の特徴を写さないのにも拘わらず、各部位の形貌は禅師授与と重なります。
実際は写真をご覧いただきながら、説明申し上げるのが最もおわかりいただけるところで、ネットにでもアップすれば容易いことになります。しかし、何せ著作権もなにもあったものではないネット社会で、永年苦労した図形を載せれば、直ちに悪意・転載の憂き目に遭うことは必至です。そのために出版を終えるまでは発表はOHPとし、投稿は文章に留めております。事情をご察しいただければ有り難く存じます。

> 今の段階では大石寺蔵の真偽

わたしの今回の管見は彫刻本尊の石山伝承の真偽を問うことに終始しました。
あえて禅師授与漫荼羅については寡聞とし、先に送ることとしております。
また、仰せの研究は石山が彫刻本尊と共に禅師授与漫荼羅の写真を公開し、文字の鑑定と共に材質の科学的分析も含めて世に発表する責務を負う点であるとわたしは考えております。


> 寺尾英智氏…紹介

有り難く拝受申し上げました。

1820犀角独歩:2004/10/27(水) 14:13

【1818の訂正】

誤)興師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。
正)亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。

1821きゃからばあ:2004/10/28(木) 12:03

過去ログにありましたらゴメンナサイ。
『富要第8巻』と山口範道さんの『日蓮正宗史の基礎的研究』を比べてみました。


『富要第8巻』(番号は私が付けました)

大聖人御筆漫茶羅の分。

1.建治元年太才乙亥十一月日 総本山。
2.建治二年太才丙子八月十三日 同上。
3.弘安二年太才己卯八月十八日、沙門佑盛日合に之を授与す、 同上。
4.(楠板彫刻戒壇大御本尊)
  右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日、 同上。
5.弘安二年太才己卯十一月日、俗日増に之を授与す、(開山上入御加筆)本門寺重宝たるべきなり、 同上。
6.弘安三年太才庚辰二月日、(開山の加筆あり明らかならず) 常陸永井藤蔵。
7.(紫宸殿御本尊と伝称す)弘安三年太才庚辰三月日 総本山。
8.弘安三年太才庚辰卯月日 下総富久成寺。
9.弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す、(日興上入御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(又同御加筆御華押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり。 東京法道院。

10.弘安三年庚辰五月廿六日、沙門民部日向に之を授与す、 総本山。
11.弘安四年太才辛巳四月廿五日、(開山上入加筆)摂津公日仙は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、 東京常泉寺。
12.弘安四年太才辛巳□□□□□、日教に授与する者なり、 加賀妙喜寺。


ところが、『日蓮正宗史の基礎的研究』掲載されているものと比べると、

3番はなぜか見当たりません。
6番は「大石寺所蔵」に変更(この御本尊は昭和45年4月1日に総本山へ納められています。)
9番はなんと北山所蔵になっています。これは法道院より昭和45年3月19日に総本山へ納められたはずなのですが、大石寺所蔵には見当たらなくなっています。
そしてさらに驚くことに「弘安三年太歳庚辰卯月日 比丘日禅授与之」という御本尊が大石寺に所蔵されているようになっています。

つまり「比丘日禅授与の弘安3年5月9日の御本尊」は、法道院より納められてにもかかわらず、現在では大石寺の所蔵に無く、新たに「比丘日禅授与の弘安3年4月日の御本尊」が所蔵されているとしているのです。
もちろん他にも後から納められた御本尊が掲載されているようですが、法道院より納められた「5月の御本尊」は無く、「4月の御本尊」が現われたのには、不可解です。

1822頭角無類:2004/10/28(木) 16:36
犀角独歩さん

いつも丁寧なレスありがとうございます。

>「經」字の筆法を以て、少なくとも彫刻本尊原本は弘安2年10月
>の特徴を示していない点を主張したものでした。

 なるほど『經』字の検討でも大石寺の本門戒壇本尊についての真偽を検討されていたということですか。

>あえて禅師授与漫荼羅については寡聞とし、先に送ることとして
>おります。

 非常に残念です。様々な研究をする上で原本資料の検討というのは最も大切なことではないかと思います。
 北山の「日禅授与本尊」についての真偽等についても是非、犀角独歩さんのご見識をもって検討して頂ければと思います。

ちなみに、

>亨師の言を信じる限り、興師加筆は石山蔵です。となれば御筆は
>こちらかと思いたいところですが、重要な「本門寺に懸け奉り万
>年の重宝たるべき」が削損され、北山にはしかし、その加筆があ
>るといいます。

について一言しますと、私の考えでは、富士宗学要集8-178の、永井家蔵(現大石寺蔵)の本尊について、亨師は

「開山の加筆あり明ならず」

とされています。現在大石寺蔵の『日禅授与本尊』、旧永井家蔵本尊、この二幅は同時期に売りに出されていた本尊で、法道院と、金銭的に個人での取得が可能であった永井藤蔵氏がそれぞれ購入したと言われています。また、両本尊とも元々北山本門寺にあった本尊とほぼ断定されています。この「開山の加筆あり明ならず」は、実はこれも「削損」です。
 恐らくですが、北山が本尊を売りに出すときに、寺の重宝を売りに出すという売僧行為を非難されるのを嫌い、出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」したのではないでしょうか。ですから「開山の加筆あり明ならず」は、これも「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべき」、または授与者に関係する事柄が記されていたのだと思います。

1823犀角独歩:2004/10/29(金) 09:29

1821 きゃからばあさん:

この相違は確かに興味深いですね。
弘安3年5月9日禅師授与漫荼羅の動向は如何にも奇怪です。
そもそも北山が売ったはずが、今でも北山にあること自体、不可解です。
けれど、山口師は石山に無しというわけですね。

余談ながら『学林秀輯葉巻之廿二/遠霑講寺沙門完則鳩集』では

1.戒壇板本尊 長4尺7寸5分 横2尺2寸5分 厚2寸2分
2.紫宸殿本尊 3枚綴り
3.建治元乙亥11月御本尊 3枚綴り
4.病息消滅本尊 建治2丙子8月13日/号死活本尊
5.重須本門寺本尊 弘安3辰11月/日増授与
6.妙一授与本尊
7.紺帋本尊文永甲子2月15日
8.日月四菩薩御本尊
(『日蓮聖人の本懐』P188)

となっていました。(見習ってわたしも通し番号を振りました)


1822 頭角無類さん:

こちらこそ、御礼申し上げます。

> 原本資料の検討というのは最も大切

まったくもって仰るとおりであろうと存じます。
ただ、禅師授与漫荼羅については、石山蔵の写真を手にしてからと考えております。

> 出もとを隠すため、本門寺等々の文字を「削損」

なるほど。これは一つ考えさせられるところでした。

一つご賢察を窺いたいのですが、禅師授与漫荼羅が北山を離れた時期、また、法道院に渡った時期はおよそいつ頃とお考えになりますでしょうか。

1824きゃからばあ:2004/10/29(金) 10:26

『法道院百年史』(平成十年十二月十二日発行)を見てみました。

以下、本文。

宗祖御真筆御本尊の奉蔵

 明治四十一年六月一日、宗祖日蓮大聖人御真筆「弘安三年太歳庚辰五月九日」御図顕、「授与之比丘日禅」の御本尊が法道会に奉蔵された。
 この種のことの常として、以前の所有者やその経緯は残されていないが、ともかく法道会では信徒に呼びかけ、その費用のための喜捨金を募った。その結果、この日法道会で奉納式が行われたのである。
 御本尊の裏書には「法道会什宝御真筆寄付人名」とあり、「法道会妙道講」「法道会妙典講」「法道会浄信講」のほか、他寺関係五講中(京橋本門講中、浅草本因妙元講中、中延講中、青山講中、砂村法華本門講中)名がある。
 また、百二十二人の御供養者名が書かれている。なかには、まだ子供である人、すでに亡くなっている人(戒名も書かれている)などもある。縁ある人の積功累徳のためにも、多くの人が真心の御供養したことがわかる。
 最下段には、「発起人」として「内野金次郎、平沢億太郎、後藤亮之助、佐野光三郎、山田和助、上野七蔵、金子銕(鉄)次郎」の名があり、最後に「明治四十三年六月一日奉納式行」「総本山五十六世 法道会会長大石日鷹(花押)」とある。
 ここに記されている講中、個人がどのくらいの喜捨金を集めて、御真筆御本尊を奉蔵したかは不明である。
 この裏書に名前は記されていないが、奉納に遅れて七月四日喜捨金を寄せた土浦の永井家に、その領収証が三通残されている。この領収証では各々喜捨金額は五円となっている。
 御真筆御本尊は、以後、法道会における諸法要に奉掲された。
 昭和四十五年三月十九日、この御本尊は観妙院上人の手により総本山に奉納された。
 また、同年四月一日には、明治三十七年一月、日鷹上人の紹介により永井藤蔵氏が奉蔵していた「弘安三年太歳庚辰二月 日」御図顕の御本尊も総本山に納められた。
 現在、両御真筆御本尊は、総本山の毎年の御虫払大法会に披露されている。

以上、本文より。

ただ、私が古い法道院の幹部に聞いた話では、「当時、質屋にあったのを信徒が見つけ、皆でお金を集めて購入した。」と聞いています。

1825犀角独歩:2004/10/29(金) 20:27

きゃからばあさん、明治44年、すなわち熊田葦城『日蓮上人』発刊に相前後している辺り、実に興味が惹かれました。

1826きゃからばあ:2004/10/30(土) 10:41

板漫荼羅の相貌について、柳沢宏道さんの『石山本尊の研究』によると、「熊田葦城さんの『日蓮上人』の写真をA0版まで拡大して」とありましたが、私自身、A0版は無理ですが、精密なスキャナーで読み込み、パソコン内で拡大してみたところ、まったく判断できませんでした。
よって、正確な相貌は判断できませんので分かりませんが、以前、日顕さんが「久成坊の御本尊は大御本尊の写し」と言われたので、久成坊の御本尊を拝見してみました。

久成坊御本尊の相貌(ただし主題・日蓮在御判・四天王・不動・愛染は除く。)

すべて内側より。
(1段目)
(右側)
南無多宝如来
南無上行菩薩
南無無辺行菩薩
(左側)
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

(2段目)
(右側)
南無文殊師利菩薩
南無弥勒菩薩
南無舎利弗尊者
大梵天王
第六天魔王
大日天王
(左側)
南無普賢菩薩
南無薬王菩薩
南無大迦葉尊者
釈提桓因大王
大月天王
大明星天王

(3段目)
(右側)
鬼子母神
南無龍樹菩薩
南無天親菩薩
南無妙楽大師
(左側)
十羅刹女
南無天台大師
南無章安大師
南無伝教大師

(4段目)
(右側)
天照太神
(左側)
八幡大菩薩

(一番下)
(右側)
佛滅度後二千二百二十余之間
一閻浮提之内未曾有代漫荼羅
(左側)
七十七歳 日精花押


なぜか『石山本尊の研究』の相貌とは違いました。
阿修羅王・転輪聖王・提婆達多などが無く、また薬王・弥勒が逆、天台・妙楽も逆、天親・章安が加えられ、かなりの相違があった。
もちろん日蓮さんの漫荼羅には多くの相違があるので構わないのだが、なぜ、日顕さんはこれを大御本尊の写しと言ったのだろうか?
さらに注目するところは「第十七世」ではなく「七十七歳」としているところ、
また「一閻浮提之内未曾有代漫荼羅」の次に「也」が無い。
日蓮さんの漫荼羅はこの「也」にも大きな特徴があるのだが。
不思議なことばかりです。

1827れん:2004/10/30(土) 18:23
きゃからばあさん、初めまして。弥四郎彫刻曼陀羅の相貌は、柳沢宏道師の「石山本尊の研究」や荒木清勇師の「聖教の正義」収録の写真を見るかぎり、柳沢師の解読した座配図は至当と思われます。久成房の曼陀羅、精師のものでしたか。諸尊の座配の位置に多少の相違はあるものの、精師の曼陀羅は概ね興師や有師のものと同じですね。但し、図顕讃文が三十ではなく二十であるのは以外でした。また也がないのは御筆誤でしょうか。石山歴代にしては珍しいですね。日精花押七十七歳…、石山歴代書写曼陀羅の内手元に御筆写真がある開山興師から九世有師までの曼陀羅を見ますと、〇世と言う添え書きがありません。署名の横に年令を記すのは興師目師に見られますので、精師の書写様式は概ね上代石山歴代の書写化儀に則っていることがわかりました。参考になりました。有難うございました。なお、お示しの顕師の御発言は精師の曼陀羅を指すのでしたら、多分記憶違いではないでしょうか。

1828犀角独歩:2004/10/31(日) 08:49

れんさん、横レス失礼します。

> 柳沢師…座配図は至当

わたしは先の現宗研の講演でこの点に論及しました。
禅師授与漫荼羅の座配は、この柳沢図と全同でした。また、昇師書写授与の(板に改めて物議を醸した)学会本部常住本尊座配(これまた柳沢図で見る限り)は、釈提桓因が帝釈になっていること、「若脳乱」云々の讃文があること、「二千二百三十余年」となっていることを除けば、やはり全同です。

柳沢図を信じる限り、昇師は彫刻本尊を座配を写したうえで、石山の漫荼羅書写の流儀に従って、以上の書き換え・書き足しを行い学会常住本尊と書写したと考えられます。(もちろん、この座配は学会常住本尊に限ることでないことはことわるまでもありません。顕師書写ではご丁寧に「釈提桓因」としているものもありました)

禅師授与漫荼羅の中央題目・四大天王・日蓮花押を臨模したうえで、不動愛染を作為、さらにその諸尊座配は同漫荼羅に拠って作為したという制作過程が看て取れるようです。
そして、その彫刻漫荼羅をまた‘近代’石山住職は参考にしているという脈絡かと想像できます。

1829れん:2004/10/31(日) 18:27
犀角独歩さん、レス有難うございます。
禅師授与曼陀羅は柳沢図と全同…、独歩さんのご指摘の如く、彫刻曼陀羅の原本が禅師授与曼陀羅であることは彫刻曼陀羅自身の相貌が示していますから、予想はしていましたが、やはり…といったところですね。
禅師授与曼陀羅…臨模…不動愛染を作為…、彫刻曼陀羅の製作過程は独歩さんの仰る通りと存じます。
石山歴代住職の書写曼陀羅を見ますと、上代(目師〜有師)では書写曼陀羅の原本は興師書写曼陀羅ですね。主師文献(譲座本尊示書、条々事示書、ただし一次資料‐御筆写真が公開されてないのであくまで参考資料ですが)によるかぎり早ければ主師・遅くとも精師の代までには禅師授与曼陀羅を原本として彫刻曼陀羅成立、近代に至り、彫刻曼陀羅の存在が広く宣伝されるに伴い、石山住職は彫刻曼陀羅を曼陀羅書写の参考にするに到ったのだろうと、独歩さんのご教示をもとに推考いたします。

1830通りすがり:2004/10/31(日) 22:55
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2801.html
本物の宗祖日蓮大聖人御本尊が出品されるのは驚き

1831れん:2004/10/31(日) 23:44
通りすがりさん、早速拝見しました。日因代云々の581はケイタイからは閲覧不可、本圀寺云々の582 は蓮師筆に似ていますが、安国会の御本尊集に収録された弘安の蓮師真筆曼陀羅には無い諸尊の座配であり、真偽については、なお検討を必要とするでしょう。583は明らかに他筆で蓮師の書ではありません。以上ご参考までに。

1832れん:2004/10/31(日) 23:59
失礼しました。580が閲覧不可。581 が弘安で真偽要検討、581が文永で、多分写本と思います。583が明らかに他筆でした。

1833通りすがり:2004/11/01(月) 00:23
580番の二幅は堺の妙○寺にある、真筆御本尊ですね、御本尊集に収録されて
いる御本尊様をオークションに出品する所を見ると、ただ驚愕するばかりです。
多分、相当な高値が付くと思いますね。一般の方じゃ手が届かない金額が予想
されます。

1834勉強中:2004/11/01(月) 02:13

本当ですね。妙国寺さんでは何かあったのでしょうか。
こんな什宝を手放すとは考えられませんね。

ひょっとしたら復刻版じゃないでしょうか。最近日蓮宗で下付されている臨滅度時の御本尊の復刻版もかなりリアルに復元されていると思いますし。
法華宗の「日春授与の御本尊」復刻版もかなりリアルですね。やはり印刷技術の進化によるものでしょうか。そういえば柳沢師のところの日目授与曼荼羅の復刻版もそうですね。

業者の入札価格が真偽の判断材料になるかもしれませんね。

1835通りすがり:2004/11/01(月) 09:23
 妙国寺の真筆本尊が、出品されるのは宗寶に指定されていますので、真偽は
兎も角、日蓮宗宗務院がこの事実を認知しているかが問われます。
 それとも剥離本尊なのでしょうか?他の宗祖の御本尊と言われる物は、一幅
の形木本尊を除いて研究の余地がありますね。
 堺妙国寺は日蓮宗の四十七ある本山の一つに列を置き、由緒寺院になってます。
勉強中さんの言われる業者の入札価格が真偽の判断材料になるでしょう。

1836通りすがり:2004/11/01(月) 19:07
 どうも妙国寺さんも、事実を調査中という事で、宗務院も水面下で動き
事態の深刻さを感じているみたいです。

1837頭角無類:2004/11/02(火) 18:27
きゃからばあさん、
法道院100年史の引用ありがとうございました。

犀角独歩さん、
私もひょんなところで、北山の日禅師授与の本尊の写真を見る機会がありました。
 確かに、経の旁が「一/リ/エ」になってますね。その他にも首題の筆運びですが、大聖人の筆運びとしては決定的に違うところが一点ありますね。
 違いはお分かりと思いますので詳しくは書きませんが。大石寺の日禅師授与本尊の真偽はさておき、北山のものは、個人的には御真筆とは言い難いと思います。
http://toukakumurui.hp.infoseek.co.jp/zenshi_kita.htm
 諸賢のご意見はいかがでしょうか?

1838れん:2004/11/02(火) 19:40
頭角無類さん、初めまして。私は諸賢の内には入る者ではありませんが、少々私見を述べますと、北山蔵の日禅授与曼陀羅の写真については、私はケイタイですので、富士門ネットの不鮮明な写真でしか判断できませんが、私には、経の旁は「―/│リ/エ」の様に見えます。北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開されなければ私には判断出来かねます。かの安永師は「板本尊偽作論」おいて沼津妙海寺蔵の弘安三年五月八日の蓮師図顕曼陀羅を石山彫刻曼陀羅を原本と推定し、犀角独歩さん、また石山当代顕師は弘安三年五月九日の禅師授与曼陀羅を彫刻曼陀羅の原本と推定されたように、石山彫刻曼陀羅は弘安二年の蓮師曼陀羅の特徴は備えておらず、むしろ弘安三年の、しかも五月中に蓮師が図顕された曼陀羅の特徴を備えていることは彫刻曼陀羅自身が示しており、彫刻曼陀羅の原本は弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅と見るのが至当と存じます。犀角独歩さんの御研究を踏まえて考察しますと、彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも近似していますから、現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可能性が一番高いということですね。でも一つ気になるのは、やはり現存彫刻曼陀羅と完則図との相違ですね。

1839犀角独歩:2004/11/03(水) 00:48

頭角無類さん:

これは見紛うことなき、北山禅師授与漫荼羅ですね。どこから流出したのでしょうか。
わたしが所有する写真とは違うものです。

> 北山のものは、個人的には御真筆とは言い難い

この写真が流出した以上、この点に触れざるを得ないでしょうね。
わたしは拙書では以下のように語彙の使い分けています。

「日蓮聖人の御筆大漫荼羅のみを「大漫荼羅」と呼称し、真偽未決分は、単に「漫荼羅」、それを基にした書写、もしくは彫刻その他は「本尊」と呼び、これを区別しました」


れんさん:

> 完則図との相違

ええ、これはもちろんです。あと、何点か考慮すべき図もあります。さらにその図と比較してみるべきものがあります。

1840犀角独歩:2004/11/03(水) 01:11

そうそう、れんさん、「―/│リ/エ」とご覧になったのはさすがですね。
旁3画〜6画の1画の「│」は実は「華」の縦棒が經の旁を貫いたものです。
重要な点は、これが彫刻本尊の「ツ」の1画の位置とほぼ一致すると言うことです。また、日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっているそうで、となれば、「│リ」を「ツ」となぞった可能性はないとは言えません。まあ、これは類推の範囲ですが、彫刻本尊の写真の薄く残る元の線と目せる白線は、実に多くを語っています。

1841犀角独歩:2004/11/03(水) 01:16

【1840の訂正】

誤)旁3画〜6画の1画
正)旁2画〜4画の1画

1842頭角無類:2004/11/03(水) 05:56
れんさん

はじめまして、貴重なご意見ありがとうございます。

>北山蔵が真筆か否かは、北山蔵並びに石山蔵双方の鮮明な写真が公開
>されなければ私には判断出来かねます。

どちらかが、本物であるという前提に立てばその通りだと思いますが、場合によっては両方とも偽物であるという可能性もあり、北山蔵は少なくとも偽作だと思います。

>彫刻曼陀羅は現存蓮師図顕曼陀羅の中では禅師授与曼陀羅にもっとも
>近似しています。現存の彫刻曼陀羅の原本は禅師授与曼陀羅である可
>能性が一番高いということですね。

 北山蔵は、一見御真筆かと思わせるほどのものはあるのかもしれませんが、細かく見ていくとどうしても真筆とはいえない部分があります。これははっきり言って制作者の「うっかりミス」です。

 さらに言えば、『日蓮聖人門下歴代大曼荼羅本尊集成』で詳細を調べてみようと思いますが、北山蔵の「決定的におかしな点」は、「日蓮門下全般の諸師にも、このような筆法で曼荼羅書写した方が未だかつて居なかったのではないか」というほど決定的です。私でも分かるのですから、誰でも分かると思います。

 ですから、もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合、どちらも「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ないのではないか。という気がしています。なぜなら、犀角独歩さんの『仏教再考』に掲載されている彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がないように感じられるからです。
 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

1843頭角無類:2004/11/03(水) 06:08
犀角独歩さん、

いつもご丁寧なレスをありがとうございます。

>日教研で質問した石山僧の言葉を借りれば、彫刻本尊の写真は熊田氏がな
>ぞっているそうで

 私もこの点はそうだと思います。私の記憶では、熊田氏の『日蓮上人』は版によって線がハッキリしているものとそうでないものがあったような気がします。また、本来あるはず線が、ブッツリ切れていたり、と原本にどれだけ忠実に再現されているのか・・。その点の検証も是非お願いします。
 一日も早い上梓を心よりお待ちしております。

1844愚鈍凡夫:2004/11/03(水) 08:42

>>1837:

頭角無類さん紹介の北山蔵「日禅授与漫荼羅」、石山の「戒壇之本尊」と似ていますね。ただ、「華」と「經」、花押の違いが面白いですね。

「日禅授与漫荼羅」自体が他筆である可能性は問題にならないのか(正筆であると証明されているのかという意味)、という素朴な疑問が湧いてきますね。
一機一縁である以上、一舗ごとに心理状態も異なり、漫荼羅のイメージも異っていたのかも知れません。したがって筆の運びや字体にも違った工夫が見られるのかも知れませんね。
いずれにせよ、2舗の「日禅授与漫荼羅」も、「戒壇之本尊」とともに科学的検証をお願いしたいと思います。

1845犀角独歩:2004/11/03(水) 11:04

頭角無類さん:

れんさんへの問いかけも含んで記させてください。

> もし大石寺蔵と北山蔵が同じであった場合…「彫刻曼陀羅の原本」とはなり得ない…彫刻曼荼羅は、写真で見る限り、この「おかしな点」がない

これはどの点を仰っておられるのかわかりませんが、わたしは違う見解を懐いています。北山禅師授与漫荼羅と彫刻本尊を比較すると、籠抜きで写したのかと思うほどピタリと重なる部分(妙旁「ノ」と法のさんずい、蓮華の2字)があるかと思うと模写(籠抜きと別)というほど正確に写そうとしながら微妙な相違を示す部分(無の字など)また、明らかに作為と見られる部分(經旁)を孕み、単に臨模・作為のどれかと決めがたい側面を持っています。

また、サイトでも記したとおり、愛染の筆法は他筆以外の何物でもなく、この一点をとれば、彫刻本尊の「下書き」は間違いなく他筆です。また、原本は禅師授与漫荼羅ばかりではなく、『河邊メモ』にあるように諸尊勧請などは時師、もしくは有師の筆を採用しているのかも知れません。また、花押などは制作当時の責任者(たとえば石山住職)が自ら積極的に臨写しこれを据えた可能性もあろうかと思います。わたしが今回、鑑別に挑んだのは中央題目・日蓮花押・四大天玉・愛染不動です。このなかで、中央題目、四大天玉は臨模、不動愛染は線の一部を使いながら作為というのが結論です。

諸尊勧請の一々と讃文はたぶん禅師授与と全同であろうと想像しながら、しかし、腰書きにいたっては「造立・敬白」の文がある以上、彫他筆であることは当然のことです。すなわち、「本門戒壇」の4字は他筆であり、相貌欄外に記されたものであれば、漫荼羅相貌本体に「本門戒壇」の4字が記されたその意義を添加されたこととはまた別の真偽論がここにあります。

> 「本門戒壇本尊」が本物ではなかった場合、制作者は「おかしな点」に気づいていたことになります。果たして原本になりえたでしょうか。

この発想は山中喜八師が『本尊集』を発刊したのちの論理であって、わたしは気付かないであろうと考えます。一例を挙げれば、れんさんがご指摘くださったとおり、石山六壺本尊は興師に仮託した偽物であるのに、石山信徒のほぼ全員があれを本物と信じています。中世の石山歴代、もしくは学僧と言っても、一生涯で拝謁できる御筆漫荼羅はほんの数体であったでしょう。また所属寺院で蓮師真筆と言われた本尊を偽物と疑う自由発想は持ち得ないのが信仰者の火坑です。わたしは彫刻本尊全体を見るに付け、この制作者は、蓮師御筆大漫荼羅種々の特徴のなんたるかを知らずに作為に走ったと溜息を禁じ得ません。それは換言すれば、この制作者とその時代背景はいま我々が知り得る大漫荼羅筆法の知識よりかなり劣っていることを物語っています。だからこそ、禅師授与漫荼羅を原本として採用したのでしょう。

>> 彫刻本尊の写真は熊田氏がなぞっている
> 私もこの点はそうだと思います

ただし、石山僧が「熊田氏のセンスで、主題と花押と、あと不動、愛染、四大天王等について修正が加えられている」という点には大いに異論があります。わたしが彫刻本尊に北山禅師授与漫荼羅の輪郭を重ねた限り、大部はほぼ重なったわけです。そうなると、熊田氏はほぼ禅師授与の如くに「氏のセンスで…修正が加え」たことになります。しかし、このようなことは不可能です。なぞった線が禅師授与漫荼羅の輪郭と一致すると言うことは、元の写真が禅師授与と相似の関係にあり、それをまた熊田氏はかなり正確になぞったことを意味します。

その意味において、彫刻本尊の写真は熊田氏のなぞった線で元のものとは違うという考えは説明として成り立ちません。

殊に愛染の筆法について、他筆である点、これは本にも写真を明示してはっきりと記しますが、あの異常な筆法を示す愛染の書き方を達師は正本堂建立時点で書写本尊に採用しています。わたしは当初、この愛染こそ、熊田氏の作為と疑ったのですが、達師書写本尊の筆法を見たとき、振り返って彫刻本尊の有り様がそうであったが故に達師はそのように記したのだと考えざるを得ない結論となりました。

全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見にはわたしは賛成です。
「筆の運びや字体にも違った工夫が見られる」とまさに感じた次第です。

1846亮太:2004/11/03(水) 12:10
大石寺執事・小川只道師に取材。小川師は、「そもそも、本門戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊は、ほぼ同時期の大聖人様の御筆ですから、全体に御文字の感じが似ているのは当然です。
ですが、幾度(いくど)も拝してみれば、お題目の全体の線も違いますし、ことに「経」の字の違いはハッキリわかります。
また、ことに違うのは、「日蓮」の御署名と御花押の部分ですね。大御本尊と比べて日禅師授与の御本尊は、御花押がかなり左側寄りに認(したた)められています。また、大御本尊は御著名の「日」文字と御花押が離れて認められていますが、日禅師授与の御本尊は「日」文字の上に御花押の上部が重なっていますし、御花押全体の形態もかなり追っています。これらの違いは、
御虫払いの時に気をつけて拝していだだけれぱ、一目で判るはずです。
大石寺執事の発言は、真筆本尊を間近で見ているので上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたいものだ

1847犀角独歩:2004/11/03(水) 15:09

> 上記の投稿諸氏の内容を小川師に聞いて反論をしてもらいたい

ええ、是非、図形入りで反論してもらいたいですね。
わたしは図形で問うているのですから、「こうなっている、ああなっている」と文章ではなく、図形を呈示して反論するのが筋です。大石寺からのそのほうなレスポンスは大いに期待します。

なお、弘安2年10月と弘安3年5月では、その相貌は著しく違うのであって、それが同じ蓮師漫荼羅だから似ているのは当たり前だなどという反論はやめるべきです。
この点は以下のサイトで、既にわたしは発表しています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

真筆本尊はネットでアップされています。
弘安2年10月と弘安3年5月がどれほど、違うか、各人確認されれば一目瞭然です。

弘安2年10月第67
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/067.html

弘安3年5月
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/093.html

1848れん:2004/11/03(水) 18:33
頭角無類さん、私としては日禅授与曼陀羅を偽作とは思いません。北山蔵・石山蔵の双方ともに、あるいは写本の可能性はありますが、いわゆる偽作ということではないと思います。
犀角独歩さん、禅師授与本尊の…経の旁3画〜6画の1画の「Ι」は実は「華」縦棒が経の旁を貫いたものです…富士門ネットの写真を見ましたら確かにそうですね。ご教示有難うございます。しかし、彫刻本尊の「あの異常な筆法を示す愛染の書き方」は何なんでしょうか河辺メモで言う時師・有師書写曼陀羅にもあのような愛染の筆法がないので訝しく思います。但し、鎮師〜宥師の書写曼陀羅については未見ですので、この間の貫首の書写曼陀羅に彫刻本尊の愛染に近似するものがあるかも知れませんね。私も(彫刻本尊と日禅授与曼陀羅との)「全体の相違はまさに愚鈍凡夫さんが仰る意見に『筆の運びや字体にも違った工夫が見られる』」ものと思いますが、やはり全体の結構から見れば、彫刻本尊が示す特徴から、主に禅師授与曼陀羅を参考にして彫刻本尊が偽作されたことは動かないと存じます。以上のことから私も犀角独歩さん・愚鈍凡夫さんのご意見に賛同するものです。

1849顕正居士:2004/11/03(水) 18:34
以前からいだいている疑問

なのですが、富士派で板曼荼羅が寺院本堂の本尊として標準になるのはいつの頃からなのでしょうか?

大石寺の寺宝「戒壇本尊」の「真偽論」というのは、板曼荼羅なのであるからそれ自体の聖筆、偽筆という
論ではなく、原本の紙幅がかつて存在したか否か、現本があったとし、「戒壇本尊」と称するに至った縁起
の教義的背景が妥当であるか否か、ということであろうとおもいます。

伝説では題経寺の板曼荼羅は日蓮聖人がみずから刻んだ、戒壇本尊は日法師が刻んだといっております。
日法彫刻説は墨の部分を刻んだから原本はもう存在しない意味でしょうが、原本は戒壇本尊と同じ大きさで
あったことになります。日法彫刻説は曖昧でかつ富士派の教義にも合わないところがあるから、日蓮聖人が
自刻したという人もいれば、原本がいずれかに存在したはずと信ずる人もいるようです。日禅授与の曼荼羅
が原本であったなら、それなりの由緒が確認されたことになります。脇書に「弘安2年」とある意図は何なのか
が問題になりますが、脇書は後世に誰かが付加した可能性があります。

その場合、脇書を加えた人は板曼荼羅が宗祖の在世から存在した証拠にしたかったのではないでしょうか?

1850犀角独歩:2004/11/03(水) 19:16

れんさん、ご賛同有難うございます。
わたしも禅師授与漫荼羅の真偽については、もう少し熟考しようと考えております。
愛染の異常な相貌、それにしても何故、これまで誰も問題にしてこなかった甚だ不可思議です。仰るとおり、歴代書写本尊を当たり、あのように書き出した以降が、彫刻本尊造立時期を探る鍵になると思います。


顕正居士さん、本尊・戒壇・題目が、やがて、本門戒壇漫荼羅本尊という独自の発展を遂げた…、ということは石山に泥んでいると、ややもすれば見落としてしまう一点ですね。
そうなのです。既に記したことですが、弥四郎国重は本門戒壇願主であったのが、いつの間にか本門本尊願主の扱いになってしまっています。これはつまり、戒壇本尊というまったく新しい蓮師とは何の縁もゆかりもない新義の発生があったればこそ、可能なことであったわけです。

言葉尻を言うわけではありませんが、戒壇本尊があれば戒壇題目がなければならず、そうなれば、戒壇戒壇もあることになります。そもそもこの3つは別立てに教義を構成したのが蓮師であったのに、漫荼羅が本尊と定まり、事檀論が取り沙汰される歴史的流れのなかで、あたかも戒壇専用の本尊、それも漫荼羅本尊が捏造されるに至る流れは、実に複雑怪奇と思えるのです。図形的に納得が行くところまで来たら、またこの点を考えなければならない、全く以て厄介な存在であるとつくづく思います。

1851亮太:2004/11/03(水) 20:24
柴又帝釈天(経栄山題経寺)の板曼陀羅は、帝釈天の姿が浮き彫りになっていて、
曼陀羅本尊の部分は、裏面にでも刻んであるのでしょうか ?
余談ですが、日蓮正宗の僧侶であった、北原徳善師は戒壇本尊の疑義を大村日統
能化(宗務院教学部長)と論戦し、宗門を去り逸早く宗祖根源たる妙法蓮華経の
五字の帰依を説いています。

1852犀角独歩:2004/11/03(水) 23:08

亮太さん、はじめまして。


> 北原徳善師…大村日統…論戦

この話は初耳です。もう少し詳しくお聞かせいただけないでしょうか。

1853亮太:2004/11/04(木) 00:57
犀角さん 初めまして
北原徳善師は現在82歳になると思います、戦前は法華宗本門流の僧侶でしたが、
戦後復員してから、淳師を師範として改宗されてからは、大杉山有明寺復興時
に住職、その後に伊豆長岡町の慈光寺初代住職になり、宗創問題に本山の姿勢
を糾されて、それが基になり大村師と論戦されたが、最初から戒壇本尊を否定
していた訳ではなかったそうです。
離宗後も師僧たる淳師・達師の恩を大事にされ本尊問題に悩まれたそうです。
奥さんもそれ以上に悩み、唱題を重ねるうちに様々な研鑚もされたと・・・・
戒壇本尊の疑いを持つようになったのは、河辺メモが流出する以前から故山口
師から、日禅授与の本尊の首題と花押が一致する不自然さを聞いていたそうです。
本来、人類の幸福と寺門興隆の繁栄を旨とする北原師には、宗門という封建体質
極まりない組織よりも、宗祖のご妙判を声として信仰をされています。
私は、北原師の説く宗祖根源の妙法蓮華経の五字の帰依こそが根本だと信じてい
ます、余談ですが大村能化に「一念三千法門」からの一説を問い糾したそうです
「妙法蓮華経と唱ふると時心性の如来顕はる。耳にふれし類は無量阿僧祇却の罪を滅
す。一念も随喜する時即身成仏す。縱ひ信ぜずとも種と成り熟と成り、必ず之によっ
て成仏す」この一文に板本尊とは説かれてもいないし、他のご妙判も同一に妙法蓮華
経の大事は説かれているが、この辺りはどう説明するか、僧侶として論理的に分かる
よう迫ったが、何一つまともに話にならなかったみたいです。

1854亮太:2004/11/04(木) 01:10
追加です。
現在は隠居され、宗祖弘安五年の真筆天目上人に授与された本隆寺の本尊を製版印刷
された御本尊を修行の本尊として安置されています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/120.html

1855犀角独歩:2004/11/04(木) 01:22

亮太さん、レス、有り難うございます。
お記しくださったお話は、わたしは感涙を押さえがたいお話です。
亮太さん、また、北原徳善師がご存命であれば、一度、是非お会いしお話を伺いたいと切望します。
深く御礼申し上げます。

1856亮太:2004/11/04(木) 12:54
 私も一度だけ、隠居されし北原師と会い種々のお話をお聞きしました。
信仰における謙虚さは、他の僧侶と比較にならない程、実直という言葉
が当て嵌まる方です。特に有明寺在任中は朝勤に力を入れていたらしく
部落の方が、唱題の際に叩く太鼓で目を覚ますなんてあったそうです。
報恩を大事にされる師は、草木にも佛性があり、父母の恩、師の恩、出会
われた人達の恩、先祖の恩を独自の観念文に取り入れていました。
私も機会があったら、お手紙を出して伺いたいと念願しています。

1857れん:2004/11/05(金) 08:35
亮太さん、初めまして。
北原徳善師…故山口師から日禅授与の本尊と題目・花押が一致する不自然さを聞いていた…。以前故山口師に手紙を出しまして、その御返事には彫刻本尊は真筆と書いておられましたが…。
犀角独歩さん、「大石寺教学の研究」の著者直人氏のHP「興門所伝考」に鮮明な北山蔵日禅授与曼陀羅が掲載されてましたので、じっくり見てみました(笑)。禅師授与は、首題の妙字は妙海寺蔵、蓮字は日華師授与に似てますね。全体的にみて、禅師授与そのものは弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備えており、少なくとも偽作・贋作の類ではないことは確認しました。感想としては愚鈍凡夫さんと同じように感じました。直人氏は禅師授与を彫刻本尊の原本とする説を否定してますが、私としては直人氏の彫刻本尊を興師造立とする説の方が信憑性に欠けるように思います。彫刻本尊の鑑別の難しさは、全体的には禅師授与をパッチワークしながらも、あの異常な愛染の筆法・佛滅度後を佛滅後とするなど彫刻本尊作成者による作為・改作が認められるところでしょう。何れにしましても、独歩さんの近刊書籍の一日も早い上梓を楽しみにしております。

1858オスカー:2004/11/05(金) 09:53
れんさん、初めまして
山口範道師からも、私も同じ事を手紙でいただきました。
山口師は戒壇本尊を否定はしていませんが、どうも不自然さが感じると
一部の僧侶には語っていたみたいです。堀上人も富士日興上人詳伝の中
で、板本尊については研究の余地があると示しているように、石山の日
禅授与の本尊の公開が望ましいものです。

1859犀角独歩:2004/11/05(金) 13:57

れんさんのあまり記されない(笑)に「!」と目を惹かれました。

> 禅師授与…弘安三年五月の蓮師図顕曼陀羅の諸特徴を備

ええ、仰るとおりですね。
けれど、ある方は「妙海寺漫荼羅を原本にした臨模じゃなかろうか」と仰っていました。ご意見としてはものすごく面白いですね。

それにしても、ようやくと、北山禅師授与がネットで流通が始まりましたか。
れんさんはご覧になり、どのような印象を懐かれましたでしょうか。

わたしのほうは、本日、先だっての講演内容を載せた出来上がります。
カラー版、50頁足らずです。来週月曜にはプレリリース版、こちらは120頁ほどで白黒版です。本番リリースは、そっちにかまけている間にまた少し遅延しています。
本を出すというのは本当にたいへんです。

“いまの”彫刻本尊は禅師授与漫荼羅の臨模作為が原本…、まあ、これは「図形から見た」という着想ですから、文章で違うと言われると困ります(笑)

わたしは勝手発想で記せば、中世は完則師図に見られる如く「在御判」の入ったもの。憲師実見の段階でも別物。それより以前は、第82でそれに充てた、腰書きが付いたのは台座に据えられたであろう精師段階、御影堂から宝蔵に遷されたとき。けれど、この段階ではまだ‘いまの’ではなかったろうと。寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物ではないのかと思っています。それは寛師の諸尊勧請からそう思うわけです。なにせ「奉書写之」ですから。なんてあれこれ、考えています。

以下、さらに雑談。案外、禅師授与漫荼羅の宣伝効果を狙った『誑惑顕本書』に上手く操られ、さらに幕末の火事で燃えてしまった代わりを造るのに使われたのが禅師授与漫荼羅なんてストーリーだとすれば、いまのは150年ばかりのもの…。それも正本堂で修繕の折ですり替わり、いまのはもっとも新しいなんていう方もいらっしゃりますが。まあ、これは諸説の紹介で、書籍にまとめた内容とは、ぜんぜん別の自由発想ですが。

いずれにしても、興師に由来すれば弘安2年漫荼羅は「二千二百三十余年」である点は動かないと、これは文献的に思います。また、その時点で「本門戒壇漫荼羅本尊」などという発想自体、抑もなかったろうと思います。その発想が生じるのはいったいいつ頃であるのか、いずれにしても戒壇院は天皇受戒の場ですから、そうなれば、紫宸殿本尊の如き発送が生じるのも当然と思えます。天皇用の漫荼羅本尊が戒壇院マンダラでなければ、整合性は採れないことになります。けれど、本尊が仏像であれば、、その造立はもちろん天皇ご本人となるのでしょうね。

1860ワラシナ:2004/11/05(金) 19:09
亮太さんへ はじめまして。戒壇本尊真偽問題に関心を持っている者です。
ぶしつけなお願いですが。北原徳善師にお話を伺う前に亮太さんご自身と先ずお会いしてお話を伺いたいと思っております。
どこかで会っていただけないでしょうか。

1861れん:2004/11/05(金) 19:31
オスカーさん、初めまして。
山口師…どうも不自然さを感じる…。さすがは富士門の古文書を長年研究されてきた方ですね。山口師のこのご意見は傾聴に値します。私も石山の日禅授与曼陀羅の公開を望みます。
犀角独歩さん、ご本の出版準備でお忙しい中、返レス誠に有難うございます。
中世は完則図の如く…さらに幕末の火事で燃えてしまったかわりを造るのにつかわれたのが禅師授与曼陀羅…寛師がいう「本門戒壇本尊」も案外別物…。
私も虚心坦懐に資料を眺めてみて、流れからみてそれが事実だろうと思いました。改めて独歩さんのご考察に賛同いたします。
興師に由来すれば弘安二年曼陀羅…けれど(戒壇院)本尊が仏像ならば、その造立は天皇ご本人となるのでしょうね。
私も今ではその様に考えています。
北山蔵日禅授与曼陀羅を見た印象としては、本能寺曼陀羅と妙海寺曼陀羅を足して二で割った感じと言いましょうか。ある方は妙海寺曼陀羅を原本にした臨模じゃなかろうかと仰ったそうですがそれも無理はないと思いました。何れにしても現在の彫刻曼陀羅の底本は富士門伝承の曼陀羅の中では、独歩さんが図形から考察されたように禅師授与曼陀羅であることは間違いと存じます。

1862亮太:2004/11/05(金) 19:34
 いいですけど、只今引越しの準備で忙しいので、来月に入ってからなら
時間が取れると思いますので、その時にでも御返事願います。
 その際に待ち合わせ場所、時間を決めましょう。

1863愚鈍凡夫:2004/11/05(金) 19:57

う〜ん、しつこいようですが(ほんま、しつこい)。 (;^_^A アセアセ…
ところで、大石寺奉安堂の「戒壇之本尊」は何代目なんでしょうかね?
あの台座の上の蒲鉾状の半丸太は、直に彫刻してあって、板漫荼羅を貼り付けるようなまねはしていないのでしょうか・・・・・・。

不思議に思うのは、何故、板ではなく、半丸太なんでしょうか。みんな正面からしか見ないわけですから、わざわざ半丸太に彫刻しなくても良さそうなものですが・・・・・。言わなければ、ほとんどの人は半丸太か板か分からないわけですからね。

1864ワラシナ:2004/11/06(土) 09:03
亮太様へ、早速のご返信ありがとうございます。その時になりましたら連絡用のメールアドレスをここに記します。

1865通りすがり:2004/11/06(土) 14:34
 戒壇本尊を直接に拝見出来なければ、もう一つ別の手段がありますが、
 可能性は無いに等しいですけど・・・・
 大阪北野の蓮華寺に御会式に奉掲される、写しの本尊を拝するしか方法
 はありませんね、諸菩薩が若干のズレがあるみたいですが、首題、花押
 四天王、梵字は板本尊とそのままみたいなので、一度参詣して直に拝す
 るしか手段がありませんからね。
 信徒以外でも参詣出来る筈なので

1866通りすがり:2004/11/06(土) 14:35
可能性とは、写真撮影が出来るかの可能性です。

1867通りすがり:2004/11/06(土) 14:53
 大石寺の末寺で、比丘日禅師授与の形木本尊を所持されている寺院も
 あります。その寺の総代の邸宅に今も現存していますが、プライベート
 の事もありますので、名前は「妙光寺百年史・第二編 資料164ページ」
 に所持されている方の名前が書かれていますので、連絡をしてみて拝見
 させて貰えればいいんじゃないですか。
 石山の今の体質じゃ、後二十年ぐらいかかりますよ。

1868単己:2004/11/06(土) 16:08
愚鈍凡夫さん、半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。違っていたらごめんなさい。

1869れん:2004/11/06(土) 18:18
通りすがりさん、大阪北野の蓮華寺の御会式に奉掲される移しの本尊…たしかに大石寺奉安堂の彫刻本尊が一般に公開されてない現在においては、たとえ‘写し’であっても、実地調査して実見すれば、あの不鮮明な写真よりかは多くの情報が得られると思います。その‘写し’の鮮明な写真の公開も今後の課題でしょうね。
愚鈍凡夫さん、犀角独歩さんのご考察を踏まえて考えますと、石山にては精師の家中抄において彫刻本尊の存在が明記されますが、憲師文献・完則図・現在の彫刻本尊はそれぞれ相貌が違いますから、精師以後に限っても、相貌から判断すれば、今の彫刻本尊は少なくとも三代目?位ではないでしょうか。独歩さんの仰る通り、道師文献から弘安二年に「二千二百三十余年」と讃文のある「日興上人」と蓮師が授与書きされた御筆曼陀羅の曽存が推測されますが(これが事実とすれば、恐らく熱原法難勃発後弘安二年九月下旬に図顕されたと思われます。三十余年とあるのは弘安二年中では九月図顕の御本尊集第六六番が下限だからです)、その曽存御筆曼陀羅は興師宛てで、熱原の農民信者の無事を祈念するものであるとしても、いわゆる本門の戒壇(本門寺の戒壇・事戒壇思想)とは無関係のものだったと思います。

1870れん:2004/11/06(土) 18:20
訂正
誤→移し。正→写し。

1871犀角独歩:2004/11/06(土) 20:31

寝る間もない程、忙しいのですが、れんさんのご投稿はあまりに刺激的です(笑)
つい、わたしの心中、投稿の虫が疼きます。

> 弘安二年…三十余年…「日興上人」と蓮師が授与書き

れんさん、わたしはこの大漫荼羅は、興師への「上人」号を与えるためのものであったと想像しています。その際に秀・弁2師にも上人号を下されたという「おまけ」がつくのではないでしょうか。以前、わたしは漫荼羅授与、允可、免許の意味があったと憶測を記したことがありましたが、興師授与「上人」号下賜の意義を具えた弘安2年漫荼羅、その当時として、際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉・埃と考えられた興師とその一門であれば、あのような北山文書が次々と生まれていったのではないでしょうか。

1872犀角独歩:2004/11/06(土) 20:35


>1871

急いでいたので、ひどい打ち間違いです(自嘲)
どうして肝心の所でやってしまうのでしょう。

誤)名誉・埃
正)名誉と誇り

1873れん:2004/11/06(土) 21:56
犀角独歩さん、寝る間もない程忙しい最中に、私の投稿で失礼いたしました
>この大曼陀羅(ケイタイではマンダラのダの字が蓮師の使用されている字に変換できないのでこの表記でご容赦ください)は興師への「上人号」を与えるためのものと想像…
私も同じように考えます。曼陀羅授与書に「日興上人」と記して上人号を与えた一つの傍証が弘安二年十月十七日付けの興師宛ての蓮師書状「聖人等御返事」(興師写本北山蔵、御筆写真・興風第11号263ページ収録)と考えた方が自然ですね。
>興師授与「上人号」下賜を具えた弘安二年曼陀羅、その当時として際立った「三十余年」で、その讃文を受け取ったことを名誉と誇りと考えられた興師とその一門…
私も、二箇相承や本門寺額をはじめとする北山文書が次々と生まれた背景は、まさに犀角独歩さんのご考察の通りと思います。なお熱原法難時の蓮師書状には「伯耆殿日秀日弁等下」「下伯耆房」と蓮師が記してますがこの「下」字について興師は「六人御弟子中ニモ下字給たるハ日興外仁無之」と非常に誇らしげに記しているのが印象的です。熱原法難時における蓮師よりの興師宛て曼陀羅による上人号授与と興師宛て書状における「下」字の使用に、興師は生涯名誉と誇りを持たれておられたことと思います。

1874愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 00:53

横レス失礼します。
上人号下賜というのは、日蓮一門の中でのことですよね。台家に行ったら「何それ」って言われそうですが。 ( ̄Д ̄;;
蓮祖としては法華宗の一派としての自覚はあったかも知れませんね。そういう意味ではイエスと似ているのかも知れません。結果的にキリスト教を興したのは弟子たちですから。蓮祖の弟子たちは、一宗を興された上での下賜と受け取っていたのでしょうね。宗祖日蓮から賜った「上人号」であると信じていたから誇らしく感じたのかも知れません。

1875愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 01:13

>>1868:単己さん、初めまして。
レスを頂いたのに読み飛ばしていました。 m(_ _;)m ゴメン!!

> 半丸太の意味は相貌が彫られている面が反ったり、ひび割れしないようにと「大聖人様の甚々のご配慮」と雑談の中で聞いたことがありますが。

反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。何十年も掛けて自然乾燥させた角材は、癖が全部出切ってしまいますからそれ以上変形する事はありません(故意に多量の水分を含ませない限り)。メンテによりますが、その角材を削って板にすれば、少なくとも千年は保つでしょう。200㎏を優に超えると思われる半丸太よりも、板のほうが扱いやすいし、重機やトラックのない時代ですからね・・・・・。もし蓮祖が認めたとしたら、日興師は一人でどのような手段を労して身延の山奥から大石ヶ原まで運んだのかといった問題をクリアしなければなりません。

1876単己:2004/11/07(日) 05:25
>単己さん、初めまして。

こちらこそ、初めまして。

>反りやひび割れを心配するのであれば、半丸太よりも角材を選ぶと思います。

そうですか。無知でした。保存という意味からでは無いのですね。多少安定性がいいくらいで何のメリットがあるのか分からないですね。
半丸太か板状かについて確か細井管長が半丸太と言っただけで、他の僧などにはこういう発言はなかったように記憶してます。
実際のところ半丸太状というのはどうなんでしょうね。

1877通りすがり:2004/11/07(日) 17:10
犀角さんの、所持されているある程度鮮明な写真とは、頭角無類さんがアップ
された写真なのですか?首題・花押・四天王・梵字はクッキリ分かりますけど
書写年月日や勧請されている諸菩薩はボケていて今一つ実感がわかないですが
全くの別物になるのでしょうか。

1878犀角独歩:2004/11/07(日) 17:45

通りすがりさん、わたしが所持している写真はカラーです。
同じ漫荼羅を撮影したことはわかりますが、別の写真のような…。
頭角無類さんがアップされた画像はアミ版が掛かっていますから、印刷物に掲載されたものをスキャンしたものではないでしょうか。わたしが所持するものは、現物を撮影したものを、そのまま出力したものです。
取材上の守秘義務があります。これ以上は勘弁してください。

1879愚鈍凡夫:2004/11/07(日) 19:43

単己さん、どうも。
半丸太の素性が分かれば、現在の「戒壇之本尊」誕生の経緯がはっきりすのでしょうが・・・・。
確か、奉安殿から正本堂に遷座するときに「戒壇之本尊」を担いだ人の話が出ていましたね。その人の証言でも「戒壇之本尊」は、半丸太だったとのことでした。
これは以前、犀角独歩さんが投げかけた疑問であったと思いますが、「戒壇之本尊」に関する文献の記述に「厚二寸二分(約6.6㎝)」とあるのはどういう意味でしょうね。
この記述は「戒壇之本尊」が板であるからこその表現であると思われます。
ならば、いつ頃板から半丸太にすり替わったのか? その理由は何か? そして、プロデューサーは誰か?
この半丸太の漫荼羅は、数ある板漫荼羅との差別化を図るために半丸太に加工されたのかも知れないと思ったりしています。

1880通りすがり:2004/11/07(日) 20:47
犀角独歩さん
有難うございました。


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