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素朴な疑問

1803犀角独歩:2004/10/26(火) 09:57

勉強中さん:

31日のこと、了解しました。

> 坂井師

正信会の僧侶からすれば、彫刻本尊の真偽などさしたる興味でもないということでしょう。また、本山復帰を意識すれば、お宝は手を付けない・コメントはしないが得策という思いがあるのかと…。これは坂井師に限らずこの会の一様の思いであると観察しています。まあ、ここが正信会の限界であるとも思っています。

> 高橋師も宗旨の根幹の真偽に関する論考に、何の意見もないのかと不思議

残念ですね。条々事の発表者とも、そう話しました。彼は高橋師の活字になり、本になっていないものを丹念に集めてファイルにしていたと言っていました。石山のなかにあって真面目な研究者だと尊敬もしていたと、ところが当日のあの態度を見て、がっかりしたと言っていました。わたしも同様です。いずれにしても、一次資料の写真も出さない論攷は説得力はゼロ、もっと言えば、そんな研究はないに等しい、随分と無駄な文章を書いていると思います。まあ、条々事の正本・案文・下書きが興師のものであるというのであれば、その写真を発表することが師の使命であり、また、そうしなければその論攷はただの石山の御神輿担ぎに終わるわけですから、気の毒にも思います。

> 私は、熊田氏の「日蓮上人」では「御影堂」を「冨士大石寺の本堂」と紹介していますので、当時「弥四郎曼荼羅」が「御影堂」にあっても何の不思議もないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

そうでしょうか。達師はたしかに御影堂には当初、件の彫刻本尊が安置されていたといい、その後は宝蔵に遷ったと発言していたと記憶します。石山のアナウンスでは、彫刻本尊は広宣流布の暁まで宝蔵に秘蔵厳護、故に顕師も正本堂の須弥壇は倉の造りになっていた、奉安堂も様式としては倉であるといった類の発言をしてたと記憶しています。

精師以降、広宣流布まで宝蔵に秘蔵厳護されていたはずのものが御影堂本堂に置かれているとしたら、以上の石山見解と齟齬を来すという点を1790にわたしは記したのです。


伊野 健太さん:

> 富士宗学研究会とは、どこが主体になっている団体の事ですか?

仰る主体というのは宗派その他のことでしょうか。
であれば、特にありません。雅仙堂さんという在野の研究者が数十年の資料蒐集編纂をまとめ、研究を目的にする団体とわたしは理解しています。

> 書籍を出版されてるのでしょうか。

詳しくは以下のアドレスに問い合わせてみてください。

rmc-info@world.odn.ne.jp


小僧さん:

呼びかけづらいHNですが、そのままコピペさせていただきました。恐縮でございます。
また、わたしへは「先生」などの尊称は無用です。当板はお互い「さん」付けが決まりになっております。そのようにお気軽にお願い申し上げます。

ご投稿、有り難うございました。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。


みかんさん:

ママ起こし、有り難うございました。


頭角無類さん:

> …双鉤填墨のような手法を用いて文字を写しとって作られた

たしかにレジュメを読み直してみますと、そのような誤解が生じる言い回しになっているのかと反省いたしました。レジュメがお手元にあるようなのでご確認いただければと存じますが、わたしは

「(1)日禅授与漫荼羅の各文字を模写・原図とした
 (2)各文字ごとに丸木板上にレイアウトし直し「パッチワーク」した」

と「模写原図」に拠ったのではないのかと申し上げたわけです。


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