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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

161川蝉:2002/07/27(土) 10:12

147 無徳 さん今日は。

陣門流でしたか、本成寺八世の日現(1459年〜1514年)が「五人所破抄斥」で「一向御正筆に非らず」と指摘したのが古いようです。
山口範道師が二か相承が存在したという根拠の6番目の日現の「五人所破抄斥」のことです。

山口範道師が言っているように、二か相承なるものがあったことは確かでしょう。ただし、それが本物であったと言う事の証明には成らないですね。

>(1)1308 聖滅27年 徳治三年九月二十八日、日頂の本尊抄得意抄副>書
は、宗全第一巻43頁に収録されているものですね。
編者が「こお原本は佐渡世尊寺の所蔵に係る、未だ真偽を断ずべからず」と注記しています。読んでみましたが史料としてはちょと採用できないのではと思いました。

祖滅百年前後には、中古天台の秘密相承の影響と、門流対立から、浜門流、比企谷門流、中山門流等が唯授一人の相承を立てるに至ったそうです。有名な朗師譲状もあります。
それらが興門の二か相承より先か後か、私には分かりませんが、互いに相承を誇ったと言うことは、互いに他が偽物だと批判しあった事になりますね。

162五月雨:2002/07/27(土) 11:40
独歩さん

そういう意味があったのですね。昨日から目からウロコが落ちっぱなしです。お恥ずかしい話ながら、私は御書の目次をはじめてしげしげと見ました。真蹟だとか偽書だとか学会員の時にも、講に移ってお寺でも聞いた事も無いし、興味もありませんでした。どうしてそんな信仰の根幹に関わるような重要なことを触れもせず、と思ったけど触れたらマズい事があったのでしょう。

>投げかけられるご質問、実は疑問に思っている方はほかにも多くいらして、このやり取りは、案外、参考になさっている方々もいらっしゃるかもしれません。

そうであれば、私の初歩的な質問も誰かのお役に立っているのでしょうか。とすればしたかいがありました。独歩さんにいつも丁寧にご親切に答えていただいているお陰です。

左京日教という方は、一体いくつ名前を持っているのでしょう。ますます気になります。「七つの顔をもつ男」(映画の題名)でしょうか。ご教示楽しみにお待ちしております。

163いちりん:2002/07/27(土) 12:06
川蝉さん

>祖滅百年前後には、中古天台の秘密相承の影響と、門流対立から、浜門流、比企谷門流、中山門流等が唯授一人の相承を立てるに至ったそうです。

なるほどねえ。あちこちの門流が、「われらこそ正統なり。正式な相承を受けているのだ」と主張していったのですね。そして、おのおのが「相承書」というものを、持っていたりする。もちろん、すべてが偽造されたものだったのでしょうね。

>有名な朗師譲状もあります。

これは、弘安五年十月三日。日蓮さんが、亡くなる十日前です。日朗さんに相承したという書ですよね。真蹟在京都本圀寺というのですが。まあ、偽書でありましょう。
---------------------------------------
釈尊一代の深理も亦日蓮一期の功徳も残る所無く、悉く日朗に付属する所なり。寿量品に云く「我本立誓願(乃至)皆令入仏道。毎自作是念(乃至)速成就仏身」。
  弘安五年十月三日                   日蓮花押
---------------------------------------

「釈尊一代の深理」「日蓮一期の功徳」を「悉く日朗に付属する」というわけです。

「偉大な人」から「唯一の継承者」であるというお墨付きを大切にしたいという心。「わたしたちこそが、正しい。正統。真実」と言いたい心。
そこが、おもしろいですね。

なぜ、こうなるかなあと思ったりするのですが、まあ人間のもっている「わたしは、あんたらとは違う」と言いたい心なんでありましょうか。

日蓮さんをくさすわけじゃないけど、日蓮さんがやはり、「正統」とか「唯一」とか「われこそはあ……」という思いが強い傾向性があったから、弟子達もそういう影響を受けたという気がしないでもないです。(あ、ここは、わたしのつぶやきですから。。)

164一字三礼:2002/07/27(土) 13:20

日興上人のお手紙を調べていて、犀角独歩さんの示された通り、「身延久遠寺」はたしかに出てこなかったのですが、そのまま他を調べていましたら。

日円状(富要8巻3頁)に

はるの□□□の御よろこひかたかた申しこめ候(イ)ぬさてハくをんしにほくゑきやうのひろまらせをハしまして候よしうけ給ハり候事めてたくよろこひ入(ッ)て候・・

日円師から日興上人宛のお手紙に“くをんし(じ)”と称しております。やはり、「久遠寺」の呼称は川蝉さんの仰るように上古までさかのぼるようですね。

165アネモネ:2002/07/27(土) 14:09
横レス失礼します。
左京日教さんについては、六巻抄のスレッドの30〜50あたりでレスがあるようですよ。
そのとき、辞典からの抜粋をレスしてましたので、参考までに以下まとめて辞典から抜粋しておきます。

日教
(1428年−?)大石寺第九世日有上人の弟子。正長元年(1428年)出雲に生まれ、初め朝山妙蓮寺日耀の門に入って本是院日叶と名乗った。後、住本寺に入る。文明元年(1469年)出雲日耀等とともに京都住本寺日広の代官として幕府に諌状を呈している。文明12年(1480)年に、百五十か条を著した。翌年に京都鳥辺山に大聖人の碑を建立。百五十か条は造仏不造と方便不読を述べて日蓮大聖人の本仏論を主張、従来の日尊門流の教学に反対したもので、住本寺系と意見を異にしたため、住本寺を出ることになった。文明十三、四年ごろ、大石寺第九世日有上人の門に帰し、左京阿闍梨日教と名を改めている。文明十五年(1483)年、五月十日、御調寺の日乗に宗義相伝書を授け、日向に行き、穆作(むさか)の地で翌十六年一月七日穆作抄を著した。しかし、穆作の地においても日郷系の日門徒に嫌われ、再び大石寺に戻り、後に重須に行ったと伝えられている。長享二年(1488)一月十一日、五段荒量を著す。六十歳の時、同年六月十日、類聚翰集私を著し、翌延徳元年(1489年)十一月四日、六人立義破立抄私記を著している。なお寂年は不明」(新版仏教哲学大辞典 聖教新聞社刊より)

あわせて辞典の「百六箇抄」のところでも日教について書かれてましたので、その箇所のみ以下抜粋します。

「要法系の学僧で、後に総本山大石寺九世日有上人に帰伏した左京阿闍梨日教(日叶より改名)が、長享二年(1488)に著した「類聚翰集私」(富要二巻303ページ)に、百六箇抄の中から二十余項目を引用して種脱の本尊・末法御本仏・日蓮大聖人・代々法主即日蓮等を論じている。」(新版仏教哲学大辞典 聖教新聞社刊)

166犀角独歩:2002/07/27(土) 14:18

川蝉さん:

番帳事、別当をみんなで役回し、こんなことあるのだろうかと私は思うのです。第一、日朗譲状と整合性がなくなりますね。

川蝉さんは日蓮宗の目利きが正しいというのだから、間違いないという立場のようですが、私は宗派を背負った発言は信用しないという立場、差があるようです。

一字三礼さん:

なるほど、円師の状に「くをんし(久遠寺)」とありましたか。
これは貴重なご指摘、有り難うございました。

167犀角独歩:2002/07/27(土) 14:33

アネモネさん、有り難うございます。
石山で言われる教師の説明は、165に挙げたいただいところのようですね。

五月雨さんが感嘆するように教師は幾つか名前があってややこしいのです。
執行海秀師『日蓮宗教学史』では「顕応日教」の題名で第9章興門の教学 第2節に別節されて載っています。アネモネさんが引用した創価学会の資料は、この執行師の文章のパクリで、ただ、有師の弟子であることを誇大に記している点で執行師と異なる程度です。

一般的には日蓮本仏論を鮮明に論じた、法主本仏論を論じた歴史的な人物、二箇相承を京から富士に将来した張本人であるとされるという点を書き添えておけば、だいたいの人物像はつかめるでしょうか。

168犀角独歩:2002/07/27(土) 15:04

> 山口範道師が『日蓮正宗史の基礎的研究』

かつてワラシナさんも挙げた二箇相承真筆説の石山の定番文書ですね。
それにしても新しいものでは聖滅336年を経た文書を挙げて、「富士では上古から二箇相承書の存在説が常識化していた」とは少し言いすぎではないですか(笑)

この20の資料を提示した山口師も

今日二箇相承が存在しなかったという証拠を上げることは難いが、存在していたという証拠は多分にある。
今、二箇相承が存在したという証拠文献を大略次第してあげてみると次の通りである。(P35)

といい、示すのが無徳山が示した20項目ですね。
しかし、この論の展開、まことに奇妙ですね。こんなことが言えるのであれば「戸田会長から池田会長にエレベーター内での血脈がなかったという証拠を上げることは難いが、人間革命、聖教新聞、大白蓮華など血脈したことを記す文章は大略あげることができる」というようなものでしょう。まるで学的姿勢から逸脱しているとしか言いようがありません。

さて、この中で上古と言えるのは聖滅27年とされる頂師の本尊抄得意抄添書だけでしょう。
(五人所破抄見聞の考証は問答名人さんが記されているので、ここでは省略します)

引用の本尊抄得意抄副書と仮題されるこの書は、一瞥して頂師の真筆とはどうにも承知しがたい書です。川蝉さんが上げているように【編者云】と断って真偽、どちらかという偽に近いという調子で断りがついています。まあ、これを偽としたいのは、山口師が引く文に続く部分にもあるように感じられます。続けて挙げてみます。

興上人一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第シテ、日興ハ無辺行ノ再来トシテ末法本門ノ教主日蓮ガ本意之法門直受タリ、熟脱を捨テ下種を取ルベキ時節ナリ

ここでは興師を無辺行菩薩の再来、教主釈尊ではなく教主日蓮(本因妙)、さらに種脱判と思える論を展開しています。教学史的に見れば、どうしても石山で言えば時師以降の思想系譜であって、重須教学よりもさらに後代の趣を漂わせ、どこかと言えば尊門系の雰囲気を醸し出していますね。

第一、「一期弘法の附属を受け日蓮日興と次第」と二箇相承に合致する文章があるから、二箇相承があった証拠というのはまったく短絡なのであって、百歩譲って、この頂師文書が真筆であったとしたら、これをヒントに二箇相承が作られたと考えることもできるはずです。

ここら辺の考証がまったくなされない山口師のいう「証拠」というのは本題に掲げる「〜研究」というにはまことにお粗末と言うしかない私には思えます。

もっとも享師に篤信蹲踞する老僧の悪口雑言をなそうというのではなく、石山で言う研究というのは、そもそもこのように「最初に結論ありき(二箇相承ありき)」から、都合のよい資料を羅列する僧学であるという点を僭越ながら指摘せざるを得ないという意味です。もちろん山口師の人間性を否定しようと言うのではありません。

169犀角独歩:2002/07/27(土) 15:29

再度、川蝉さん:

読み直しまして…

川蝉さんは160に「昔から具眼の学者が書き判等を見て、正本と判断しているので、日蓮宗では正本としているのでしょう」と記したのに、私は166に「川蝉さんは日蓮宗の目利きが正しいというのだから、間違いないという立場のよう」と記しましたが、これはまったくの私の判読の間違いでした。単に川蝉さんは日蓮宗の番帳事への考えを総括してくださっただけでした。慎んでお詫び申し上げます。

170五月雨:2002/07/27(土) 16:57
アネモネさん、独歩さん
 
左京日教師について有り難うこざいます。六巻抄のスレッドも読みました。皆様すごい高尚な議論をされていますね。
二箇相承を京都から石山に持ってきた時に、それが本物かどうか疑った人は誰もいなかったのでしょうかね。それと御書の目次の古写本の欄が空いているのがどうしても気になります。「産湯相承書」の古写本の欄には「左京日教筆大石寺」とあるのに、二箇相承書には書かれていない。どういう風に都合が悪いのでしょう。低次元の疑問ですみません。

171問答迷人:2002/07/27(土) 17:56

五月雨さん 難しい問題ですね。

僕はこう考えています。二箇相承は、今日の日蓮正宗においては、肝心要とされています。それが、真筆は北山に有ったとしても、日興上人、あるいは日目上人の写本ぐらいは大石寺になければおかしい訳です。ところが、左京阿日教のもたらした写本しか、大石寺にはない事が、はっきりすると、二箇相承が、本当に大石寺の相伝書なのかと、疑問を持つ可能性が有ります。むしろ、空欄にしておけば、門外不出の、写本があるのだろうと、勘違いする訳です。

まぁ、そんなところではないだろうかと思います。宗門は書かない方が良いと判断したのではないでしょうか。

172顕正居士:2002/07/27(土) 21:25
二箇相承

は 1-北山本門寺で作られ、2-作成時期は15世紀、3-これが尊門に伝わり、
4-左京日教が大石寺にも将来したのでありましょう。二箇相承が訴訟の資料に
呈出されたことがあります。
-以下引用-
永正年間大石寺日鎮師は「富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて公称
すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず」と
主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが所謂
二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件
永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人
「富士日興上人身延離山の研究」
(早川一三著、昭和11年刊、同48年再刊ニチレン出版)
*日蓮聖人従(よ)り的々(ちゃくちゃく)相承並に本門寺々號、支証明鏡の
上は領掌相違無き者也、仍(よ)て状(さた)件(くだん)の如し。
*早川一三-後、北山本門寺法主。

重須本門寺は(頂)、澄、順師(談所派)の上古に教学的発揮があった。
台当分別(天台宗と日蓮宗と何が異なるのか)と事戒壇(公度僧、戒律)で
ある。時代が経つと、五-一思想(日興と他の五老に対立があった)に観念化
されるが、上古の実際的の対立はむしろ別の五-一(日向と他の五老)である。

173犀角独歩:2002/07/27(土) 22:10

> 171

なるほど。これは鋭いご指摘ですね。

他の書もざっと見てみたのですが、就註法華經口傳(御義口伝)の古写本が「(上巻)大石寺(下巻)要法寺」となっていますが、これは元亀の開版を指すのではないでしょうか。それとも元となる古写本があり、それまで石要で分けた保管してたというのでしょうか。疑わしいですね。

あと面白いと思ったのが『御講聞書』で、向師述なのに、要法寺(京)に古写本あり。これは身延にこそ、真筆があってしかりであろうに、真跡所在なし、「ああ、やはり」という感じでしょうか。

以前にも、問答名人さんと議論したところですが、御書全集に載らない所を富要から拾うとこれまた171のご指摘のような事態が明瞭になります。

血脉両抄・産湯相承事は全集にあるので、省きますが、重要相伝といわれるものを列挙すれば、

日蓮・御本尊七箇相承/房州日山
?・本尊三度相伝/水口日源
日蓮日興・寿量文底大事/房州日山
日興・上行所伝三大秘法口訣/要山日辰
?・三時弘教次第/筆者不明

となっており、主要な相伝書も石山に伝わるものがありません。
また、創価学会時代の御書学習会の延長かどうかしりませんが、真偽論考は行われない、いわば「素人騙し」のような有様は嘆かわしいものがあります。

余談ですが、せっかくの機会でしたので、山口師の『日蓮正宗史の研究』を再度、通読してみました。同師の人柄が偲ばれるソフトタッチの文の進みは好感が持てます。またその研鑽の深さはなるほど、人望を集めるに足る歴々たるものがありました。

『古文書会の一隅』というエッセイ風の文章はなかなかのものでした。そのなかに

鑑定。資料の真偽を鑑別するということは、最も重要なことである。古文書は歴史編纂の一級資料となる。けれども古文書であれば何でも資料になるということではない。古文書は“鑑定”という関所を通過してこそはじめて正史料になることができるのである(P13)

ごもっとも慧眼である。けれど、何故、これが二箇相承の上古二つの史料を挙げるのに少しも活かされていないのかと思いました。奥付を見れば1993年の発刊となっています。とすれば、頂師史料のことも、なおさら見聞・眼師の疑義も周知の事実であるのに、触れもしないというのは、自語相違と言われても致し方のない怠慢であると思った次第です。

こんな調子の石山教学、困ったものだと思いました。

174五月雨:2002/07/27(土) 23:38
問答迷人さん

結局石山はご都合主義なんでしょうね。一部の隙もなく絶対正しい宗教のほころびを見た思いです。

175いちりん:2002/07/28(日) 00:44

まあとにかく「絶対」に正しいなあんてものは、「絶対に」ありえないのかもしれません。
ただ「絶対に正しい」と「思いこみたい」「しがみつきたい」心があるだけと。

「うちは正しいぞ」と宣伝するところは、だいたいロクなところではない、アブないと、わたしは思っています。

それよりも、自分とこの「間違い」「愚かさ」「どうしようもなさ」を認めるとしたら、それが「正しい」のかも、などと思ったり。
そのときの「正しい」とは、固定した動かないものではなくて、つねに「生きていて」「変化していて」「鋭敏な心」なんじゃなかろうかと。

「正しい」とは「思いやりが深いこと」と言った人がいましたが。

176五月雨:2002/07/28(日) 10:27
いちりんさんのお話は心にスーと浸しみてきます。宗門にあっても学会にあっても私の方が絶対正しいと争い続けています。ホント、ロクな所じゃありませんね。昨日も法華講の人の話を聞いていると、本来ならこの世の苦しみから救ってくれる信心なのに、それ故に日々苦しまなければならない矛盾。それに対してきちんと話が出来ない無力な自分が情けなかったです。

>「正しい」とは「思いやりが深いこと」

いい言葉ですね。いちりんさん、また良いお話を聞かせてください。

177ワラシナ:2002/07/28(日) 15:57
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 2」

投稿no108アネモネさんへ。私の抱いた素朴な疑問とその解法を解説します。

0、No91番での私の語句「あるタイプの在家信者が抱え込んだ理念矛盾」のなかの「あるタイプのとは、「聖職者が本分的に担うべき領分としての布教、信仰指導、興学など、を越境的に抱え込み僧侶もどきの思想信状で信仰する過剰適応症信者」を指します。

2、この場合、普段の精神生活では行動指針が二重基準になっていて、余裕のあるうちはやっていけそうでも、二者択一を迫られる局面になれば精神は破綻してしまう。
「金も信心も一緒に」というダブル基準では暮らしていけなくなってその理想が崩れてきてどっちかをあきらめざるを得なくなった。ダブル基準に徹しきれなくなっただけでも挫折なのに「金か信心のどっちか」という新しい択一基準で生きなければならなくなった、としたら二重の挫折である。

3、これは、このタイプの在家信者にとって理想信徒条件たる「信心即生活」がまっとうできなくなった事即ち敗北に等しい。
これは四重にきつくて在家仲間からは「信心さぼった罰」扱い、教団側からはその生活面において信心の実証を示せなかった「法を下げる恥
さらし」と両者から冷笑されてしまう可能性があるであろうし、さらに未入信家族からは「何が信心か!!」と糾弾を受け、自身に対しては「自分は今まで何をして来たのか」と多年に渡る信仰も挫折の危機を迎える、からである。

4、わたしは機関紙での体験発表にある「信心第一でビジネスの勝利者」の真実を疑るものではない。
だが、そのいわゆる信者の成功体験発表の事例を総量的に見た場合、「信心即生活」の勝利者(うまくやっていけた)は信者全体の4分の1位ではないか、と予想してみている。
大部分の4分の3は失敗しているのではないか、と推測している。ここで使った「失敗」とは「そこそこの暮し以下に成ってしまった」程度のものでは無く、「自分の描いた理想像に近い職業生活の未達成」を言う厳しい基準なのである。

5、これは実証的なデータを見なければなんともいえないから4分の1、4分の3の数字は推測としておきますが、定性的な考察2から推測したのである。
ここではまたそれを補足する意味で付け加える。まず、上に例で挙げた「ダブル基準に生きた信者」が「理念矛盾を抱え込んだまま」に等しい事を説明すれば、「出家の本分」「在家の本分」なる言葉を考えてみれば解かる。
在家も出家もそれぞれに相応しい本分が一つあれば沢山で、いかに思い込みは激しい在家
とはいえ出家の本分迄越境的に抱え込んでしまったことにも訳があるのである。
一つにはそのタイプの信者が在家主導型の講組織(学会、顕正会)出身である事が多いからで、これは、それらの組織に濃厚な、意図的に出家の本分を不当に貶める政策の悪影響を受けたからであろう、と思う。
(6−9へ続く)

178ワラシナ:2002/07/28(日) 16:01
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 3」
*アネモネさんへ

6、4/3以上が理想達成レベルを目標にした場合には「信心即生活」が失敗しているとは
確かに思い切った表現であるが、これはあくまで自分個人の活動経験的な観察に基づいていったものにすぎない。
それによれば、信心即生活が文字どおり理想的に達成されるのは出家者だけで、在家信者がそれを深刻的に目指そうとすれば必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない仕掛けになっている、と観察されたのである。
そこそこに暮らしてる、或いは理想的なレベルで信心即生活の実証を示せた模範信徒の事例でも、よくよくみれば、職業的成功へと導いた要の兵法としては、「戦略レベルで信心を根本にした」上での「戦術レベルで仕事最優先」の政策を採った為ではないかと思われたのである。

問題はここに在って「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの仕事第一」「戦術レ
ベルでの信心第一」の三つの関係、差異が日々月々年々の節目節目で錯綜した形で顕れて要領よく応用するのが難しい事なのである。

だから、「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの信心第一」とが一緒になると「信心第一」という心情は気持ちだけでは済ま無くなってそのまま「生活時間の拘束の一番手に信心活動が位置する」という物理になってしまう。こういうときも必要だろうが何時もこれでは苦しくなる。 上の信心第一の「第一」をさらに内面的な精神活動に理解すれば信心活動で心の中も体も
すべて第一番に占められている状態が「信心第一の生活」なのである。
一体こうなった状態のどこに職業生活上の目標達成が第一順位に置かれていようか。

さて、現代では、よりよい職業生活上の創意を実現する為に必要な非営業的な社交がますます重要になっているのが今日のビジネス社会の特徴であって、その中での生き残りの為にもかっては軽視されていた趣味や私生活の充実が求められてきているのである。

だから、世間での稼ぎで苦労してる在家信者はこの事を本能的に知っていているから、ケースバイケース、で、生活態度の根本順序を「(そこそこの信心を根本にした上での)仕事最優先」に置いていると思うのである。

7、こうでもして、お茶を濁した生き方をしなくては、社会人としての必要な健全なバランス感覚が失われてしまうであろう。
いや肝心の布教を理想的な自然な形で実現するためにもこれからは益々「職業生活上の充実」が必要になってきているのである。
寺院の荘厳さだけが無言の折伏になっているのではなく、信者が失業しないで非信者より小遣いのゆとりがあり、この不況の中でも家族で旅行をたのしむほど豊かな暮らしをしている、それでいて、根底の命に清々しいものが流れているような姿こそが、現代では最高の無言の布
教推進パワーになると思われるのである。

8、だが、現状ではどうか。個々の信者の資産を増大させるような政策が発想されているか。 またあこぎな観察かもしれないが、社会的な影響力が強い年収一千万以上の富裕層を積極的に育成していく発想があるか。デートにもそこそこにカネがかかる現状に於いてできるだけ多くの男女をいかに幸せな結婚に導いていくか、カップルを作っていくか、という発想があるか。

更に言えば現代では「職業生活を中心にした自己実現に最高の幸せを感ずるのが人間にとっての幸福」であって、在家信者にとっては特に肝に銘じていなければならなかった筈の上の「」内の一行であったが、これと青年期に出会った正宗信仰の幸せ観との微妙な「ずれ」の意味するものについて丁寧に説明されたことがあったか。(これが無いために思春期にこの信仰に入った人の中で、あるタイプの人は、合理的な割きりができず、二重基準がマイナスに作用して社会人としての成熟にブレーキがかかったようになる。)

全てが無い無い尽くしだが、先年亡くなったボランティア僧として異色だった松藤師(正
信会系のkagamiさんもみとめておられた)が私の不満に応えたような先駆的な思索と行動
の軌跡を残していることを正宗教団の名誉のために記し置きたい。(雑誌「道心」に論文がいっぱい残っている。)
(9−12最後へ続く)

179ワラシナ:2002/07/28(日) 16:03
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 4」
*アネモネさんへ

9、だが現実には、あるタイプの信者、(割り切り不全、不健全症)では私生活の充実に完全に失敗し、その理念矛盾、という悪循環の結果理想的な形での布教ができないのである。(どんな環境に陥ってもそこそこの布教はできるが。)
そしてその根本原因について「必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない現実への直視ができなかった為ではないか」と書いたつもりである。
自分は長い間、これが、なかなか自分には認められなかった。必ず両立出来る筈と思って頑張って来たがとうとう出来なかった。それは誰の所為でもなく残念ながら自分に本当の意味での知識と教養が無かった為である。

その失敗の原因は特に三つA、B、Cあった。

A「戦略レベルでの信心根本」と「戦術レベルでの仕事第一」「戦術レベルでの信心第一」の三つの関係と差異に気がつかなかったこと。信仰というものが人生の長期間にわたる営みであることの意義を現実に即して(論語的に)考えなかったこと、観念的に捉えてしまったこと。言い換えれば信仰に入った若い時に戦略的人生設計を立てられなかったこと。

B、宗祖仏法の信仰の中身が、御利益信仰と哲学信仰の無数の交互的堆積でできていることがわからなかった事。御利益信仰面でいう「功徳と感ずる」の「感ずる」態度の他に「(功徳である)、、と知る」主知的な哲学的姿勢が「感ずる」反対側にあってバランスをとっていた事に気が付かなかったのである。だから御利益依存症になってしまい、強調される「理想の信心」の中にあるもう一方の目的であるー法の中道を「知る」と言う中性的思想的な態度に自己を立脚させる目的ーの方に気がつかなかった事。

これが欠けていた為に、合理的な生活設計人生設計を立てる重要性への認識ができてこなかった、と考えられるのである。
また、この視点がなかった事が、逆に現実的な幸福である、「職業生活を中心にした自己実現の確立で感じる最高の幸せ」構築への取り組みを鈍くしてしまった、と考えられるのである。上の8で言った「二つの幸福観の微妙なずれ」の意味である。

C、そして、最大の失敗は「自分という人間の出来上がり方、タイプ、特性への無知」で、自分がどういう人間か、特に人と比較してみた場合特徴、タイプ、への無知」であった。
これと、Bの宗祖仏法信仰の特質への無知が重なっていた点が致命的だったと思う。

ここに冒頭から強調している「或るタイプ」語の重要性がある。これはあくまで「その或るタイプに限っていえば」という前提で言っている事なのである。

逆に言えば、そのタイプに当て嵌まらない信者が「信心即生活」に見事に成功している事実を認めるのがわたしの立場なのである。

、だから、教団の教団的使命があるとすれば、それは「信心即生活」に失敗しそうな信者タイプの発見とそれに対する矯正的予防的ケアの必要である、と言っているのである。

10、私はそのタイプだった。だからその性向として、かっては私生活を犠牲にすることが広宣流布への献身の証として、誇りに思っていつかこの陰徳が陽報にと、漠然とした期待を抱いていたが、犠牲にしてきたその私生活の充実
こそが今では理想的布教の必須の手段になっていたのだったと気が付いて愕然とした。ここに教団全体の活力の急速の落ち込みの一因を見る思いがする。

11、いつもカネに注目した書き方しかしないのも「何が真の現実感覚なのか」を呼び戻すのにカネが一番適切な素材だからである。
カネは、ごまかしが聞かない、もってるかもってないか、出せるか出せないか。待った無しに堂々と請求がくる。金が無いと、月々の支払に追いまくられてものを考えられなくなり理念的探求が後回しになりる。
だが、かねそのものは文句なく有難いけどかねの扱いに託された信仰の理想と情熱こそ求めているものである。

12、最後に、、。宗教界のサイトではせっぱ詰まった情報をこそ提供されるべきと思っているから次の話題で最後を締めくくりたい。

或筋の情報では某自治体のホームレス受け入れ宿泊所にいる人の元職業は4割が土木建設関連作業員、6割が個人経営店舗の店員だとか。
入所するにも抽選合格する必要があり、2ヶ月間は新たな職探しを義務づけられ、見つからなければ追い出される、もともと失業して就業に失敗したからこそホームレスになったのだから対策が空回りしてる面がある。職場が見つかりアパートが借りられれば、仕度金が少し出るが、保証人は自分で探す必要がある。
注意すべきはこういう光景のなかでは必ずやーさんが生活の資をえている。話にはよく聞く生活保護費の不正受給みたいな働きかけをやってるらしい。だから、本当に困ったら正規の自治体の福祉担当課をたずねていった方が騙されないで済む。(h14/7/26)

180無徳:2002/07/28(日) 23:55
ワラシナさん今晩は:

「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 」を読ませていただき、思
わず<ウーン!!>と唸ってしまいました。

 もしかしたら私自身の内心ではワラシナさんと共通の問題意識は有ったのか
も知れませんが、ここまで意識化して考察したことはありませんでした。

 しかしながら、ワラシナさんの考察に触発されて、自分なりに考えを巡らせ
ながら、自らの過去の有様や現在置かれている位相を顧みますと、様々な思い
が交錯し、かつ錯綜して脳裏を駈け巡ります。(どちらかと言えば苦い思いが
心を占領しそうになることを禁じ得ません)

 29年間に亘る創価学会体験と創価学会を脱会してからのその後10年を越
える、私なりの如何にして日蓮仏法の信仰者たらんかとしての、呻吟と探求は
未だ燭光が見えるどころか、深く闇に閉ざれて先が見えないというのが正直な
状況です。

 私が知る幾人かの嘗て学会活動を共にした人達も、未だに生活レベルでは決
して豊かとはいえず、中には巨額の借金苦に今にも押しつぶされそうな友人も
居ります。

 私が創価学会の男子部隊長をしていた頃、創価学会の青年部においては最も
喧伝されていたのは、星野登山部長?(もしかしたら既に政治の世界に入って
いたかも知れません)の「今は小僧たりとも」というフレーズでした。

 「青年部は現在はいろいろと大変な時ではあるが、今は福運を積むときであ
り、将来は立派な家を持ちロールスロイスに乗って悠々と学会活動を楽しむよ
うになろうではないか」が合い言葉でありました。

 そのためには現在池田先生が指揮をとっていらっしゃる「法戦」にどんなこ
とがあっても退転することなくついていくことが、最も肝心であるとの指導で
ありました。

 それを具体的な実践の証とするために、班長会や隊長会はもとより部隊会の
ような会合にも一分として遅れることを咎められ、遅れた人間は会場に入れて
もらえず、外で中の様子を伺っているという状態でした。

 今考えれば全く意味のない愚かな実践であり、組織の原理に振り回され自ら
の主体性など全く無かったと言って過言でない状況でありました。

 おろかにも、そんな創価学会の指導に踊らされ振り回され、経済的な自立が
出来ない男子部が沢山沢山居りました。世の中はまもなくバブル経済による高
度経済成長の時代を迎えても、一向に経済的自立を達し得ないため、立派な家
やロールスロイスどころか、今度は借金苦に振り回されている始末です。

 私自身も様々な仕事に挑戦しましたが、呆気なく失敗の連続で女房には苦労
のかけっぱなしで男として面目有りません。やっと最近は趣味を活かしたパソ
コンのサポートとタクシーによる収入でどうやら経済的には先が見えたかなと
思ったら人生の先が見える年齢になってしまいました。(笑い)

 長々と愚痴めいたことを書き連ねましたが、ワラシナさんの仰ったことを私
の経験から具体的な裏付けであり、事例としてこの拙文を書いてみました。

181アネモネ:2002/07/29(月) 02:08
ワラシナさん

レスありがとうございます。何度も繰り返し読ませて頂きました。ワラシナさんがどれだけ純粋で、まじめな方なのか、その文面と内容からとても伝わってきました。少しご返信させて下さい。

>余裕のあるうちはやっていけそうでも、二者択一を迫られる局面になれば精神は破綻してしまう。

幼い子供に、「お父さんとお母さんのどっちが好き?」と聞くのと同じですね。もっと言えば、離婚するお父さんお母さんの目の前で、「どっちと一緒に暮らしたい?」と迫られ心を痛める子供の心理状態と同じですね。しかも、親の離婚に直面する子供の大半は、自分が悪い子だったからだと思い込み情緒不安定になる傾向が強いと聞きます。この状況にとても似ています。

>即ち敗北に等しい。これは四重にきつくて‥
>大部分の4分の3は失敗しているのではないか、と推測している。

本当に八方塞で心の逃げ場のない心理状態ですね。そして大半の信者は、その予備軍ですね。潜在的にたくさんいることと思います。

>在家も出家もそれぞれに相応しい本分が一つあれば沢山で、

仰る通りだと思います。あれもこれも信徒が背負わされてます。

>在家信者がそれを深刻的に目指そうとすれば必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない仕掛けになっている、と観察されたのである。

結局、ここのところのある意味での整合性から、在家教団における職業幹部が出てきたともいえるでしょうね。信心がそのまま職業になっていれば、理屈のうえで精神的破綻は回避されるわけですものね。

>すべて第一番に占められている状態が「信心第一の生活」なのである。
一体こうなった状態のどこに職業生活上の目標達成が第一順位に置かれていようか。

ワラシナさんはじめ、多くの真面目で純粋な信徒の方々の、これまでの苦しい葛藤の声を聞いた思いがします。

私のかつての地区長さんは、毎朝朝の勤行にお寺に参詣し、夜には会社帰りに一時間の唱題でお寺に参詣し、そして毎月月例登山に参詣し、そして毎月折伏をされてました。だけど、いつのまにか彼のもとからは、家族が離れていってしまわれたようです。それでも、信心活動のリズムは今も変わらず続けられ、先日、お寺の方のお葬式で久しぶりにお目にかかり、席が隣り合わせになりましたら、すかさず「30万登山に申し込んで下さい」と言われました。この方にとって、死者を見送る場さえもが活動の場になっていること、本当に哀れに思えてなりませんでした。

>これからは益々「職業生活上の充実」が必要になってきているのである。

私が御文を示すのは、本当に僭越ですが、
「御みやづかいを法華経とおぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と違背せず』は此なり。かへすがへす御文の心こそおもいやられ候へ」
私はここでの「御みやづかい」を、世間一般の労働を含めた生活の営み全てと拡大解釈してます。そうすると、二十四時間信心なんですね。本当の意味での信心即生活とは、これじゃないかと思ってます。お寺の方にもいつもそう言ってます。仏壇に向かっているとき、お寺に参詣しているとき、活動をしているときだけが信心じゃないってね。はっきり言うことにしてます。日蓮正宗の信心じゃないって言われますけど、気にしません。

182アネモネ:2002/07/29(月) 02:09
(つづき)

>信者が失業しないで非信者より小遣いのゆとりがあり、この不況の中でも家族で旅行をたのしむほど豊かな暮らしをしている、それでいて、根底の命に清々しいものが流れているような姿こそが、現代では最高の無言の布教推進パワーになると思われるのである。

本当ですね。小手先の言葉で無理な布教をするよりは、充実した生き方そのものが示されることこそ、布教推進パワーですね。

>言い換えれば信仰に入った若い時に戦略的人生設計を立てられなかったこと。

ワラシナさんのこの教訓を生かすならば、思春期の青年を信仰に導くことは、もっともっと慎重でなければいけないですね。

>ー法の中道を「知る」と言う中性的思想的な態度に自己を立脚させる目的ーの方に気がつかなかった事。

法の中道については、ほとんどお寺では教えられてませんね。本当は在家信徒にとっては、これがとても大事なことのように思います。極端に走らない。バランス感覚を持つ。集団心理に陥らない。これらは一般的な現代人なとっても、とても大事なことだと思います。

>逆に言えば、そのタイプに当て嵌まらない信者が「信心即生活」に見事に成功している事実を認めるのがわたしの立場なのである。

なるほどです。皮肉なことに適当な人のほうが、中道にかなってしまった‥。

>だから、教団の教団的使命があるとすれば、それは「信心即生活」に失敗しそうな信者タイプの発見とそれに対する矯正的予防的ケアの必要である、と言っているのである。

これは目を向けて頂きたいですね。この人たちこそ、最も心ががんじがらめに捕らわれ苦しんでいるわけですね。本当に救いが必要です。

>金が無いと、月々の支払に追いまくられてものを考えられなくなり理念的探求が後回しになりる。

私もその現実に、日々直面してます。生きていくために、まず、稼がなければなりません。まず、生きていかなきゃ、信心も出来ませんね。

>だから、本当に困ったら正規の自治体の福祉担当課をたずねていった方が騙されないで済む。

病気になれば病院に行く、それと同じことなのですね。

ワラシナさん、たくさんのレス本当にありがとうございます。ワラシナさんが書かれたような内容の葛藤を、人に言えずに抱えていらっしゃる方たっくさんいることでしょう。まじめで純粋な人ほど、その苦しみを自分ひとりで抱えてしまうものです。弱みをなかなか人に見せないものですから、この苦しみの根は皆深いと思います。
今、考えなければならないことは、これ以上、このような葛藤に苦しむ人を増やさないよう、たとえば宗教サイトを使って声をあげていくことも、ひとつの解決手段ですね。
本来、宗教家の言葉とは、このような苦しみを和らげるために発せられるもののはずなのに、逆に苦しみを増幅するものになってしまっています。しかも何度も何度も繰り返し聞かされているわけですね。その言葉にどれほどの人々が苦しんでいることでしょう。
このことに気が付いた人から、出来る範囲でいいから、まやかしを自分の言葉として声に出していくことだと思いました。掲示板はそのひとつの場ですね。人知れず苦しんでいる人こそ、この場にたどりついてほしいと思います。

183犀角独歩:2002/07/29(月) 11:00

私もワラシナさんの投稿に強い感銘を覚えました。
「ああ、私の人生もそうだった」と思いました。

184いちりん:2002/07/29(月) 11:29
創価学会などの教団に属して信仰をすると、いろいろ仕事に生きてくるものはありますね。
まず、日々の勤行と唱題。
毎朝、毎夕、おこなうわけですから。やはり、生活のけじめが付いてリズム正しくなります。

朝のお勤めをしたら、よしやるぞー!と元気に爽快になりますし、夕方のお勤めでは、その日にごちゃごちゃしたことがあっても、心は穏やかになります。

また、なにかしんどいこと、つらいこと、達成しなくてはならないことなどがあったら、集中して唱題をして祈りを深めていけば、やはり事態はうまいこといくものです。

それで、やり遂げるぞ、負けないぞ、達成するぞというような心が、定着してきます。これは、すごい力になりますね。

それから、組織の人間関係。いろんな人がいますから、アドバイスもらったり、励まされたり、慰められたり。ヒントをもらったり、仕事の情報ももらえます、人脈も増えます。人と人との関係でもまれますから、人柄もまるくなってきます。仕事とは別の社会だから、発想の転換、気分転換にもなります。もちろん、違うストレスもあるわけですが。



これはいいところです。じゃ、よくないところは、というと。
わたしなりに振り返ると、「この信仰はすごいからに、正しいから」という意識が強いから、それが日常のなかで、そういうエネルギーが出てきますね。「自分は正しいのだ」というエネルギーです。あるいは「自分の尺度で物事を見る」というクセというか。

で、「自分は正しい」というような心で仕事をしていますと、これはうまくいきませんね。だいたい、自分が正しいということは、世の中にはほとんど少ないわけですから。正しくても、じつは正しくないと思った方がいいかも。それで、どこか人間関係で、ぎくしゃくします。ぶつかります。それで、疲れますし、応援してくれる人があらわれなくなったりします。「自分が正しい」というような案行きを発する人には、応援する気がしませんからね。

日蓮主義の特徴として、「観心」といいながら、ちっとも「わが心を観る」ということをしません。「正しいのだ」「すごいのだ」「正義なのだ」というエネルギーが強くて、「自分の愚かさ」「どうしようもなさ」「いたらなさ」をよおく見つめるということをしません。

それで、やはり、どこか元気だけれども、勘違いしている。なにか思いこみが強くて、硬直した人格に、なりやすいんじゃなかろうかと、感じるわけです。
で、そういう人格は、なかなか仕事はスムースにはいきませんよね。

185犀角独歩:2002/07/29(月) 11:42

いちりんさん:

> どこか元気だけれども、勘違いしている。なにか思いこみが強くて、硬直した人格に、なりやすいんじゃなかろうかと、感じるわけです

こんなところをもって故田中角栄氏は池田さんをして「法華経を持ったヒットラー」と評し、宝島の特集であったと思いますが、創価学会をして「笑うファシズム」と評したのでしょうね。もっともこれは創価学会に限ることではないでしょうが。

全然、関係ありませんが、この前、いちりんさんを知るとある日蓮宗僧の方が「彼は30代までに300万遍の唱題を達成しているんだよね。うちの本堂でも2時間ばかり、お題目を唱えていったけれど、鍛錬された音声(おんじょう)で300万遍達成は事実だろうと実感した」と話されていました。

そのいちりんさんが語る勤行唱題の善い面・悪い面、実に参考になります。

186いちりん:2002/07/29(月) 11:48

そして、これもわたしに即して振り返ってみると、日蓮主義とくに冨士門流は、きわめて「理屈が強い」というエネルギーになりやすいんですね。

なんたら相対だの、本果第一番成道が、文底がどうたらと、小難しい論議がえんえんとあります。あるいは、知識のストックをたくさん持っていて、引き出しをあけて、「ああそれについても、誰それはこう言っています。原典ではこうですね」みたいなことが、好きになります。

で、いつしか、頭で理屈とか意義付けしながら行動するみたいな人格になりやすいのかもしれません。大脳の左半分の言語能力が鍛えられて、逆に、右半分の直感とか感性の能力が抑圧されていく。

で、世の中というのは、だいたいはいい加減で、デタラメで、ワケが分からんということですよね。理屈ではなんともならない。ひとつひとつ価値判断を加えて考えて理屈をもってしたら、身動きができない。

むしろ、直感ですぱっと動く、いいなあと感じたら進んでみる、みたいなにほうがうまくいくこともある。

なにより、「自分が好きなこと」に打ち込まないと、力が出てこない。好きでないことをやると、すごい努力が必要だし、長続きしない。

で、どうも、冨士門流の教義というかエネルギーには、「好きなことに打ち込め」というのが、排斥されるんですね。なにか、広宣流布だとか、正義だとか、そういう形作られた理念みたいなものに邁進するがすばらしいと思いこまされる。で、自分が好きでもないのに、○○のためにといって、頑張る。

頑張るというのは、好きでないのに、しんどい努力をしいられることですよね。それは、好きでないから、ワクワクしたビジョンや発想がない。「つらいことを頑張っている、我慢している自分はすごい」というような、へんな満足が出てきたりする。それで、ますます感性が鈍感になっていく。

というわけで、なかなかいい仕事ができないのかなあと。。
これは、わが人生を振り返りましてのことで。。

187孤独な迷子:2002/08/01(木) 07:31
アネモネさま

お返事を頂いていたのですね、有り難うございます。

 > ねぇねぇ、孤独な迷子さんは本当に孤独なわけじゃないよね‥。

「当たらずと雖も遠からず」と言うところですね。何しろ人間が重いのもで、心も身体も。

そのことが信心を始めた動機にもなっていますから・・・。


 一つ質問があります。

 よく大百法等に体験発表の記事が掲載されるていますね。あれって事実なのでしょうか。

 私のよく知る人は毎年数世帯の折伏をして、活動も積極的な人でした。面倒見もとても良く、
困っている人がいると見過ごせないような方でしたが、数年前に癌で亡くなりました。
まだ50代前半でした。猊下に御祈念して頂いているということでしたので、また元気な顔を
見られるものと思っていましたので、とても残念でした。

 また、ある学会員の方が私の所属する組織に移ってきました。何度かお会いしているうちに
解ったのですが、高校時代の同級生の親御さんでした。その同級生はアルコール依存症で本人も
そうですが、特に親御さんは苦しんでいるようです。

 私の周りでは、信心で良くなった(適切な表現かどうか分かりませんが)という話はほとんど
聞こえてはきませんでした。

 その親御さんも今では組織からは遠のいているようです。時々組織の方が家庭訪問に来るそう
ですが、同級生のことには触れずに、30万登山の話をして帰ってゆくようです。
先日、その親御さんと話す機会があったのですが、最後に「法華講は冷たいね。」と言われ、
言葉を失いました。

 
 なんだか、重たい書き込みになってしまい、申し訳ありません。


 五月雨さま、また書き込みをなさっていますね、本当に良かった。


 独歩さま、はじめまして。

 独歩さまの書き込みの中で、次のような一文が目に留まりました。

 >私は、この言いつけを守り、1年間、雨の日も風の日もお寺に
 >通いました。拒食症、極度の神経障害と闘っているときです。

 大変失礼かと存じますが、どのようにその状態から脱せられたのかお教え願えれば幸いです。

188五月雨:2002/08/01(木) 08:56
孤独な迷子さん
 
厚かましくも何事も無かったかのように、また書き込みをさせて頂いております。あれからも皆様方には色々とご教示頂きまして、ひとつもふたつもそれ以上賢くなりました。皆様の温かいお心のお陰です。
孤独な迷子さんが抱いているような疑問を私も持ちました。回りの人間を見ていると「?」とばかり思っていました。それで、こう考えました。大聖人様の教えーご戒壇様ー猊下ー指導教師ー信徒の順に信心体系(?)がありますね、正しい大聖人様の教えを信じている、だから信徒も正しいと思っているんじゃなかろうかと。それにしても修羅の争いに身を投じている人々を見ていると、とても正しい信心をしているようには見えません。そこで信徒ー指導教師ー猊下ーご戒壇様ー大聖人様の教えと反対に繰っていきました。ここの掲示板での過去ログを読ませて頂いたり、教えを乞うたりしながら見えてくるものがありました。今は「二箇相承書」が偽書だったというショックを乗り越え(?)ながら真実を探っています。孤独な迷子さんの疑問が早く解決される事を祈ってます。

189五月雨:2002/08/01(木) 11:48
「納骨」について不思議に思うことがあるのですが、自分の先祖代々の墓に入れるよりも、本山に納骨する方が良いみたいな風潮がありますよね。あれはどんな意味があるのでしょう。奥さんを亡くされた方が、お墓を持っているのに「納骨は本山にした方がいいですよ」と講頭に言われて困っていました。化義の中にあるのでしょうか。どなたかご存知の方は居られませんか。

190犀角独歩:2002/08/01(木) 12:23

孤独な迷子さん:

はじめまして。よろしくお願いいたします。
どうぞ、お心遣いなく「さん」付けでけっこうです、ここでは、みんなそんな感じてやってきましたので。私もそうさせていただきます。

ご質問のところは、私が極度の神経障害から、どうやって脱したかということでしょうか。そのように判断して、記させていただきます。

これには、何段階かありました。
私が症状を自覚したのは、10代の後半のことでした。倒れたのは26歳の時です。
救急車で運ばれ、検査入院して、この時、今でいう神経障害であることが告げられました。その後、悪化し、次々と拒食症も含めて、死ぎりぎりのところまで行きました。

このようなときは常に睡眠障害を伴うわけで、私も例外ではなく、夜と昼とが逆転していました。このような1日の時間帯の狂いを直すのに、毎日の寺院参詣はよく働いたと思います。

当時はまだ、「心療内科」を掲げる町中の病院がなかった頃でしたが、住まいの近くの大学病院にはあったのです。そこで出会った先生が、私の改善にもっとも合っていました。ご存じかもしれませんが、森田療法というものです。これに自律訓練法を組み合わせて、3年ほどで快癒することになります。以来、15年以上が経過しました。2度と症状は起きていません。

いちおう、寺院参詣についても記しておきます。毎日、参詣するようになったのは昭和56年頃のことでした。既に御講には昭和54年頃から、気が向くと参詣はしていました。
56年から58年くらいまでは、ほとんど毎日のように参詣していました。その頃、父を喪い、独立したこともあり、いったん足は遠のくのですが、例の第2次紛争以降、約5年間は、まるで寺院に住んでいるように詰めっぱなしの状態になります。

実質数十世帯の小さな講中でした。しかし地域が東京でも創価学会の多いところでしたから、宗創問題が起きるや、怒濤のように脱会者が押し寄せてきました。講頭と一丸になって、数年間、寝食を忘れて、会報、コンピュータの導入、名簿、組織構築、会合運営方法の構築など、講中組織の整備に当たり、ようやくと形が整ったと思ったとき、元学会幹部であった人々がグループをなし、住職に日参して、私の人身攻撃が始まりました。結局、苦労してシステムができあがった段階で、元大幹部たちは、私はよけて、その席に座ることになりました。労せず出来上がったシステムの上に入れ替わったわけです。

結果的には、私自身が見切りをつける形で寺院を去ることになります。
その後、幸いにも、カルト問題と闘う多くの識者と知り合う機会を経、現在に至っています。結果的に寺院から脱却が私にとって、40年に亘った創価学会・石山への依存を断つことになりました。

いま振り返ると「拝み方を間違えると、かえって症状を悪化させることもあるよ」と呟くように言われた良医の一言。初めて会ったカルト研究科の大学先生に、帰り際に「じゃあ、先生がんばります」と私が挨拶したとき、「いやいや、違いますよ。頑張らなくて好いんですよ」とにこやかに返された一言。その先生が紹介してくれたカルト問題と闘う他宗僧侶の方とおっかなびっくり会ってみたら、石山で吹き込まれていたことと全然違っていたこと、ボランティアの現実に踏み込んでみてきたこと、多くの宗教問題に悩む方々に年間延べ1000人を超えて会ってきたこと、そんな流れの中で、私の神経は根治され、さらに精神的な健全性も獲得できたのだと思います。

ご質問の趣旨とずれておりましたら、お気軽に重ねてお問いかけください。

191犀角独歩:2002/08/01(木) 12:29

五月雨さん:

> 本山に納骨する方が良いみたいな風潮

こんなことがあるんですか。
浄土真宗じゃあるまいし、こんな化儀は石山にはありませんでしょう。
おかしな話ですね。

192五月雨:2002/08/01(木) 13:21
独歩さん

えっ無いのですか。私はこういう話は学会時代でも法華講に移ってもよく聞くことでしたので化義でもあるのかと思っていました。勝手に言っていただけなのでしょうか。浄土真宗ではあるというならば、浄土真宗的な思考をしているという訳ですね。

193犀角独歩:2002/08/01(木) 14:42

五月雨さん:

まあ、浄土真宗的思考をしているかどうかはわかりませんが、何を根拠にこんなことを言っているのか皆目見当がつきません。

194五月雨:2002/08/01(木) 17:30
独歩さん

今、現役法華講員のおばぁちゃんに聞いたところ、「よく聞いた話だけど邪宗のお寺の墓に入っても、そのお寺の宗教で供養してもらう訳であるまいし、入るのに問題はないのだからわざわざお山まで行かなくても」と言ってました。その方も理由に思い当たる節も無く、僧侶自体もそれを奨励してもいないのだから、結局個人が勝手なことを言っているのではという結論になりました。奥さんを亡くされた方も、この方のアドバイスで早々に墓石を建てて納骨をしたという事です。いろいろな考えがあってもいいけれど、首をかしげるような話を真に受ける人がいないとも限りません。私の周りは例外だといいのですが。

195アネモネ:2002/08/01(木) 23:52
孤独な迷子さん

>「当たらずと雖も遠からず」と言うところですね。

私、なんだかいきなり馴れ馴れしい言葉使いでレスしておりましたようで、大変失礼をいたしました。
私の入信の動機はいろいろな事情が重なったものですが、間違いなく当時の私も、親にすらさらけ出せない「孤独」を少しばかり抱えていました。だから、「孤独」という字に敏感に反応してしまったんですね。
私が入信して、変わったことがあるとすれば、家に御本尊さまがご安置され、それまでの「孤独」な心境が少しばかり変わったことでしょうか。入信間もない頃の私にとって、朝夕の勤行は、孤独である現実を忘れるかけがえのないひととき、やはり日蓮聖人とまみえるひとときと感じていましたね。だけど、そういうのは他の宗教でも同じでしょうね。神に祈れば、神とともに自分があると感じ孤独を忘れる。心の持ちようということからすれば、宗教にはそんな心の作用があるのだと思います。そうしたことは奇跡でもなんでもなくて、今でもそういうのは私は否定しないんですよ。
そういえば、奇跡など起きていない私の最初の体験発表とは、そんな心持ちになれたことを語ったものだったと思います。これが私の「初心の功徳」ではないかと締めくくりましたが、奇跡を語らない私の発表は、あまり歓迎されない異色なものだったようです。

>よく大百法等に体験発表の記事が掲載されるていますね。あれって事実なのでしょうか。

何かの偶然や巡りあわせを単純に結びつけていくと、奇跡のように語れるものではないかと思います。信仰に依らなくても、癌が消えた人はいますし、何も悪いことはしていないのに、不慮の死を遂げてしまう人もいますね。突然、愛する家族が通り魔に理由もなく殺され、突然人生が変わってしまった人もいて、「なぜ自分がこんな目に‥」と心がさいなまれる一方で、富士門の信仰では「過去世の業」と言ってしまう。簡単に結びつけて、因果を説いた気になっているわけですが、そんな言葉こそ、悲しみに追い討ちをかける、「言葉の暴力」以外のなにものでもないと私は思っています。

ワラシナさんが統計的な予測を書かれてましたが、恐らく信徒全体の四分の三は、苦しみの中にいるのが現実だと思います。世間の苦しみだけでなく、石山信心の重圧によって一層苦しみが深くなっているのが現状ではないでしょうか。

私のお寺のある人は、仕事の合い間の時間を使って、たくさんの人を折伏し、体験発表も多く語ってきています。必ず、折伏成就と結び付けているのは、仕事において営業成績が常にトップであるということなんですね。これだけを聞く限りでは、信心ゆえの奇跡と感じることでしょう。仕事を一生懸命にしなくても、信心活動第一に折伏をしていけば、自然と大きな契約が不思議ととれる。そんなことを結びつけて、何度も何度も発表されていました。
だけど、それは表向きのことなんですね。

営業成績トップであることは事実のようですが、信心の結果というよりも、彼女自身が仕事が好きで、人より努力を惜しまなかったからという当たり前の結果なんですね。しかし、そうしたことは体験発表の文面には入れないんです。その仕事への頑張りを精神的に支えたのは、信心であったことは嘘ではないと思いますが、必要以上のこじつけや誇張で、奇跡のように語られているものだと思います。体験発表の大半がそうではないかと類推します。また本人にしても、そのように結びつけて因果と思うことが習慣となって身についていますし、そのような信心の捉え方が大聖人の仏法だと疑うことなく書いていることでもあります。
しかし、現実的な問題としては、そう書かないと原稿のOKが出ないんですね。大白法だけでも毎月のように奇跡のような体験発表を読まされているわけですから、どのような原稿が体験発表としてふさわしいかは長年にわたって刷り込まれているわけですね。早い話が、暗黙のうちに書かされているのだと思います。

196アネモネ:2002/08/01(木) 23:54
(195からのつづき)

私は彼女が人知れず、息子さんのことでとても苦しんでいることを知っています。しかし、そのことを信心と結びつけて体験発表することはほとんどないです。語る時がくるとすれば、息子さんの苦しみが解決されて、それは信心活動の結果だとして話さなければならないのでしょう。
良いことは信心の結果、悪いことは罪障もしくは魔とか法難、場合によっては仏罰。信心していない人の不幸は全て謗法の結果。そういう単純な方程式が出来上がっているのだと思います。方程式にのっとれば、奇跡話になるというものです。

彼女の息子さんはとっくに成人しているのですが、就職しても一ヶ月と続かず、失業と就職を何度も繰り返して一向に自立せず、時には荒れ狂って母親である彼女に暴力を振るうこともあると聞きます。彼女は、営業努力で金銭的には余裕があるものですから、働かない息子に小遣いだけは必要以上に与えてしまう習慣がついてしまっているんですね。よけいに息子は、社会的自立の必要に迫られないわけで悪循環です。
彼女にしても、息子さんが小さいときから子育ては仕事や信心ほど好きではなかったらしく、そんなうしろめたさもあってか、結局は子供にたくさんのお金を与えることで、親としての責任を果たそうとしてきたのだと思います。そのことは本人もわかっているのです。
そして今では、御主人が早くに亡くなったこともあって、女一人、荒れる息子と日々向き合っているわけですが、時には地獄だと漏らしていたこともあります。

そこそこ長年のお付き合いのなかで、彼女の話にはパターンがあることに気がつきました。息子の就職が決まったときは、「この仏法をやってきたお陰だ」と歓喜の電話をかけてきます。しかし、一ヶ月も経たない頃には、せっかく決まった会社をいきなり辞めてきたと嘆きの電話があり、そしてこう言うんです。「これは私の宿業なのよ。あの子は題目唱えながら産んだ子だから、私の罪障が全て出るの。私にはわかるの。そういう命なのよ。この仏法はおまけはないから、私は折伏する使命からは逃れられないようになっているのよ。私は本当に宿業が深いのよ。長いこと信心してきたから、よーくわかってるの」と話されます。結局は、さきほどの単純な方程式に当てはめているだけなんですね。
私は、「そうじゃないんじゃないの」と言うのですが、興奮してますから全く私の言葉は耳に入りません。

息子さんは石山信心からは全く遠のいており、勤行もしなければお寺にも全く行きません。そんな退転状態だから仕事が続かないんだなどと、彼女は毎日のように叱咤してきたようです。
しかし考えてもみれば、なぜその子がそのように社会人としてきちんと自立しきれないのかというのは、信心をやってこなかったからというよりは、もっと根本的な原因があると思うんです。それは先にも書きましたが、その子の成長過程において最も母親の愛情を必要とする大事な時期に、ほったらかしてしまったという事実なのですね。ただでさえ仕事を持つ彼女には子供と接する時間は少ないのです。なのに子供と向き合える貴重な時間さえも、信心活動に費やしてきてしまったんです。息子さんは寂しい思いをしていたことと思います。自分から母親を奪ってきた信心など、おいそれとするわけがないんですね。
そしてそのことは、母親である彼女本人が、とっくに気付いていることなんです。因果を説くというならば、それが本当のところだと思います。だけど、なかなかその現実と向き合おうとはせず、石山信心の因果に逃げているとしか思えないのです。

彼女は今でも私のところへよく電話をかけてきてくれて、私は掲示板で勉強したことを少しずつ話してきました。私には何も出来ませんが、息子さんの問題について話が出たら、彼女の心ゆくまで聞かせてもらい、そして宿業なんかじゃない、信心しないからじゃない、そう話しかけてきました。その少しずつの積み重ねを経て、ほんの少しずつですが彼女も自分がマインドコントロールされてきたことに気がつき始めてきているのです。

197アネモネ:2002/08/01(木) 23:57
(196からのつづき)

彼女はもともと文章を書くことが嫌いだということで、最後の体験発表の原稿作成は、私もお手伝いさせてもらい、折伏のいきさつを聞きながら、一緒に仕上げました。しかし、あの単純な方程式を無視して奇跡を語らないその原稿は、講頭にとっては都合が悪く「お寺のご指導と違います」の一言で、内容が書き換えられてしまったと聞きます。
彼女は、事実を捻じ曲げた内容のものは発表できないと、体験発表を断ったそうです。そしてその後、幹部の方から彼女の家にはひっきりなしに電話やFAXなどのいやがらせが頻繁に入るようになり、ついに電話番号まで変えて、今ではすっかりお寺から距離を置くようになりました。
そしてお蔵入りとなった、もともとの原稿は、彼女のお友達が読んでくれたとのこと、そのお友達も今では、彼女の言葉を通してお寺のおかしさに気付き始めていると聞きます。
また、お寺から距離を置くようになった彼女は、精神的に落ち着きを取り戻し、心に余裕をもって息子さんと接することが出来るようになってきたのです。

先日、彼女とそのお友達にゆっくりとお会いする時間がありまして、掲示板で知ったことなどを、まとめてお話しいたしました。信心歴うん十年のお二人にとって、こうした石山のまやかしに目を向けることは、どれほど勇気のいることかわかりません。だけど彼女たちは、「残された自分の人生を大事にしていくことこそ、今できる本当の信心なのかもしれない」と、つきものがとれたように明るい声でお電話を頂きました。
息子さんの抱える苦しみから逃げたりせずに、きちんと向き合いながら今からでも親子の信頼関係を築いていかれること、私も見守りながら、彼女の人生の片隅に付き合っていこうと思っています。

>最後に「法華講は冷たいね。」と言われ、言葉を失いました。

私のお寺を見る限りのことですが、活動を励ます(煽る)ことはあっても、人知れず抱える苦しみに対してはまるで無関心ですね。心を励ますことはもちろんのこと、慰めることだって少ないです。せいぜい陰で無責任な因果を説いているのが関の山でしょう。
かつて、私が法華講に理想を求めていた頃、ひきこもりが社会問題になっていることを座談会で持ちかけてみたことがありました。ところがそのテーマは、私にとっては思いもよらない方向に展開してしまいました。結局、ひきこもりは、外道の人たちの宿業深い謗法の結果なだから、そういう家庭をみつけたらポストに大白法を入れようとかいう話になったんですね。本当にそんなことをしたら、余計苦しみを与えるだけです。私はこの結論に、ものすごい責任を感じましたよ。

>なんだか、重たい書き込みになってしまい、申し訳ありません。

とんでもありません。これからも思うところをなんでも書き込んで下さい。同じ苦しみを抱えていらっしゃる方の、気持ちの負担を和らげるものになることと思います。

私は、仕事の波があったりして掲示板を開けない時期もあるものの、時間が許されるときには出来るだけ毎日のように開いて、レスを読み、書き込みもさせて頂いてきました。表情が見えないぶんだけ、誤解が生じたり、またときには知らないうちに人を傷つけてしまうようなことも書いてしまい落ち込むこともありますが、だけど、ものを書くという作業は、非常にプラスの面が大きいなと思ってます。書くという作業は、自己分析が出来るひとつの方法なのかもしれないと思うのです。また書いたものを自分以外の人が読んで感想をもらうことで、自分では気がつかないところなども見えるようになります。時には意見がぶつかることもありますが、まさにそれは産みの苦しみですね。長い目で見れば、それも大事なことです。
お陰で、掲示板で毎日たくさんの方にお会いしている気持ちになっています。こうして孤独な迷子さんにもお会いできました。どうか、心身にご無理のないところで、これからもよろしくお願いいたします。

198犀角独歩:2002/08/02(金) 00:05

アネモネさん:

横レス、ごめんなさい。

195、196に記されたことは、実際の宗教カウンセラーにも匹敵するすばらしい内容です。
私は深く感動し、敬服いたしました。

199犀角独歩:2002/08/02(金) 06:45

【198の訂正】

誤)195、196に記されたことは
正)195から196に記されたことは

200アネモネ:2002/08/03(土) 00:57
犀角独歩さん

カウンセラーにも匹敵などと言われると、ふと自分のしていたことが恐ろしくもなります。
だけど今回の場合は、お付き合いも長い仲でしたので、なんとなく苦しみを打ち明けてくれたことが良かったです。もしも私にまでつっぱって、良い部分の自分を繕い続けていたなら、彼女はいつか自分で自分を追い詰めることになり、もしかすると精神的に破綻していたかもしれません。まぁ私も彼女には苦しみを漏らすこともありましたし(そのときは因果を説かれましたけど‥)、そういうことが話せる間柄というのが良かったのかなと思いました。その場合、聞いたことをお寺で絶対に口外しないってこと大事ですね。彼女が私に悩みを漏らすことが出来たのは、そこのところの安心感があったのではないかなと思ったりもします。

大半の人は、信心するほどに、かえって気持ちが追い詰められていく感じがします。苦しみや悩みを抱えていても、うっかり誰かに話せば何を言われるかわかりません。だから講中では、誰にも自分の悩みを打ち明けることなく、表面を繕った人間関係が築かれてます。必要以上に自分を繕うとなると、これはとても危険な状態だと思います。元気で幸せな自分しか見せられない、落ち込んで悩んでいる姿をどこにも見せられない。これは、とても精神的負担の大きい人間関係だと思います。

独歩さんが、神経障害になられた話を読ませて頂きましたが、きっとたくさんの人がそんな切迫された状態にあるのではないかと思いました。潜在的にとても多いのではないでしょうか。それを表に出すわけにはいかないのですから、本当につらいと思います。
多くは、家族共々信心をしているわけですから、家族にさえ弱音は吐けないでしょうし、信心仲間となるとこれまたある意味でライバルみたいなものですから、当然、何を言われるかわからないので相談できない。しかも講の中では、プライバシー保護の意識などまるでないですから、信頼して打ち明けたつもりが瞬く間に講中全体の知れるところにもなりかねません。ならば外部の人となると、これは本来折伏する相手で、この人たちにこそ幸福な姿を示さなければならない相手ですから、自分の苦しみなど打ち明けては、法を下げることを意味し、口が裂けても言えない。
本当に八方塞、心が休まる暇がありません。結局、ひとりで抱えるしかないわけですね。
こんな状態になれば、よほど図太い神経か、いい加減な人でない限り、誰だって神経障害を起こしてしまうことでしょう。純粋でまじめに取り組む人ほど、追い詰められていくのだろうと思います。

独歩さんの通われた先生が、「頑張らなくていいんだ」と仰っていましたね。周りの人がなにげなく励ます言葉が、かえってその人を追い詰めてしまう場合も多いと聞きます。本来励ますことと慰め癒やすことというのは、神経や心へのはたらきが違うのかもしれないと思ったりもします。
カウンセラーの先生方というのは、そういうところを臨床的によく研究なさったうえで、患者さんに自然な対話をなされているのでしょうね。

ともかく、こんな繕いの上に成り立つお寺での人間関係などは改善できるものではないですね。何か少しでも反対意見を言えば、「悪縁がついている」とか、「魔にたぼらかされている」とか、「世法に染まっている」とか全く話になりません。しかもその言葉の挑発にうっかり嵌ると、こっちまでイライラが頂点に達して修羅の心となります。私自身、そんな状態がどれほど長く続いたことか。
お寺に行くにしても、人間関係にドップリつからず距離を置くことですね。程よくそういう距離が置けないなら、思い切って行かないことだと思いました。退転だ、堕地獄だ、などと陰口されることなど、一切気にしないことですね。離れてしまえば滅多に耳にも入ってこないですから、心穏かに暮らせます。

独歩さんにおかれても、五月雨さんや私とほぼ同じように、お寺でのトラブルが直接身にふりかかってきたことで、脱却の機会を得ていらっしゃったのですね。
きっとその時は情けなく、そしてもしかすると死ぬほどつらい出来事でもあったことと思います。安易な因果や因縁になぞらえたくはありませんが、振り返ってみれば大きな転換点だったことと拝察いたします。
そしてそのお陰で、私たちはいろんなことを学ばせて頂いてるわけで、五月雨さんではありませんが、独歩さんから役職を強奪したお寺の方々に、感謝したいような‥言い過ぎかもしれませんが。そんな感じさえします。

201五月雨:2002/08/06(火) 11:35
独歩さん

>独歩さんから役職を強奪したお寺の方々に、感謝したいような‥

私も同感です。独歩さんがこの掲示板に居られなかったら、私達はどこで真実を教えてもらう事が出来るでしょう。

といいながら、またも厚かましく独歩さんに質問させて頂きます。よろしくお願い致します。
「大石寺の歴史の過去ログ」を読ませて頂きました。本尊書写の相伝書と戒壇本尊の仏滅年数の違いが出て参りましたが、本尊書写の相伝書「本尊七箇相伝」というのはどういう書なのでしょうか。この書は本物なのでしょうか。そして、今現在配布されているお形木本尊の仏滅年数を何故戒壇本尊のそれと同じにしないのでしょうか。同じにすれば、何ら疑義が生じなかったのではと思うのですが。疑問に思っています。真実をお聞かせ下さい。

202犀角独歩:2002/08/06(火) 19:42

五月雨さん:

> 「本尊七箇相伝」

ここまで到達されましたか。すばらしいですね。
富士宗学要集では第1巻 P31 に『御本尊七箇相承』の名で載っています。
石山で言えば、「大聖人から興師に伝えられ、血脈付法の猊下に伝えられてきた」と言います。富士年表には弘安5年(1282)10月10日となっています。

この書の末に

弘安五壬午十月十日 日蓮在御判
右此の七箇の大事・唯授一人の秘伝なり聊爾に口外す可からず云云、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無日蓮大聖人

とあることから、唯授一人血脈相承の書と石山は言いたいところ、亨師は、あっさり、富要のこの部分に二重線を傍らに引き

年月御名判等の三行に二線を引きたるは後人の偽加なるを以つてなり(1-33)

と否定しています。それにもかかわらず、上記の富士年表の記載があるという矛盾があります。

さらに石山・昭和新訂(3-2719) では「日興記之」とあるも、聖典にはこの部分を削除し、実際は興師本はおろか、上古歴代の写本も、伝えられたものもありません。富要では保田妙本寺山師の写本によったとあります。

現時点さんも引く執行海秀師の『興門教学の研究』第4章第2節本尊七箇相伝と本尊三度相伝に

「本尊七箇大事」に至っては興門流独自の思想が窺われる。
本尊七箇相伝で、一般に云う十界互具を「応仏ノ上ノ沙汰」といい、「出世の応仏は垂迹施権」といい、また「法界即日蓮、日蓮即法界」といい、更に「代々の聖人悉く日蓮と申」などは、明らかに日蓮本仏論を伝えるものである。また惹いては代々の貫首の当体に日蓮聖人を仰ぎ、本尊と見なすのものである。
殊に明星直見の本尊「明星の池に日蓮聖人が影が大曼荼羅の相であったというが如き」伝説は後世のものと見ざるを得ない。(P61)

とあります。私は、この執行師の言をもっともであると思うのです。

なお、二千二百三十余年の件についての説明は問答名人さんのほうが適役であろうと思います。お願いします。

205問答迷人:2002/08/06(火) 22:14

五月雨さん こんばんは

犀角独歩さん こんばんは

ご指名がありましたので、少し、書き込ませていただきます。

>今現在配布されているお形木本尊の仏滅年数を何故戒壇本尊のそれと同じにしないのでしょうか。同じにすれば、何ら疑義が生じなかったのではと思うのですが。疑問に思っています。真実をお聞かせ下さい。

先ず考えなければならないのは、大石寺の本尊書写の化儀が、「二千二百三十余年」と書写する事になっている、ということですね。恐らく、上代の日道上人以来、「三十余年」と書写するしきたりになっていると言うことでしょう。その理由は不明ですが、日道上人の御伝土代に、三十余年と認めた御本尊が大事なんだ、という表現があることから類推すると、三十余年と認められた大事の本尊があって、その大事の本尊に書かれているまま書写する、というしきたりになっていたのだと僕は思っています。

その、富士門流の大事の御本尊こそ、戒壇の板本尊なんだ、という事だと、極めて判りやすいのですが、そうはならないのです。戒壇板本尊は、二十余年と認められているからです。

ご質問のように、書写のしきたりを、「二十余年」に変更すれば、万事、丸く収まるではないか、ということですが、これも、そうは行きません。有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分、との書き込が、私たちの下付されている御本尊には書かれていますが、戒壇板本尊には書かれていないのです。しかも、弘安二年に認められた別の御本尊には、この書き込みがしてある御本尊が存在します。ですから、二十余年だけの違いではないのですから、事はやっかいです。日興上人が、書写に当たってこの書き込みを追加した、などという説明がまことしやかにされていますが、他の御真筆の御本尊に同じ書き込みがされているとなると、日興上人が付加した、などという説明はふっとんでしまいます。どう考えても、元々の御本尊があって、その御本尊には、この書き込みがしてあって、しかも、三十余年と書かれていた、という可能性が極めて高いわけです。もし、戒壇本尊に合わせて、書写のしきたりを変更するとするならば、この書き込みも削除しなければならなくなるでしょう。

とりあえず、概略、お答えいたしました。引き続いて、ご質問、承ります。

206五月雨:2002/08/07(水) 16:23
独歩さん

 ご教示有り難うございます。

>ここまで到達されましたか。すばらしいですね

いえいえ、とんでもございません。そういう本があるんだなという程度で何の理解もありません。でも、内容は見た覚えがあります。たしか、法王本仏論を学会から吹っ掛けられて、それに対する反証に持ち出してきた文書だった気がします。独歩さんのご説明によると、真筆も写本も無いようなあやふやな文書のようですね。それを使っての“真実の証明”だったというのは、何か解せません。
過去ログをもう一度読み返しています。道師「御伝土代」にも、『仏滅後二千二百三十余年』と言われているのですね。ところで、この本も知りません。
ご面倒かと思いますが、この本のことについてお教えください。

大聖人様の仏法は相伝仏法だから、その相伝が無ければ大聖人様の法は分からないとよく言われます。時のご法主上人だけが御書を正しく解釈出来る、ご法主上人で無ければ、文の底に隠された本当の意味も分からない。その時代に合った御書の教えをご法主上人がご指南くださるのだから、そこに信伏随従しての成仏できる信心だと思ってきましたが、これは本当に大聖人様のお教えなのでしょうか。そんなに正しい法主上人なら、無理な三十万登山、この不景気な社会において三年で百五十億の金集めなどしないと思います。
正しい仏法を「大聖人様からの血脈相承」によって正しく受け継がれている割には、やってる事が信用ならんと思うのです。
独歩さんはどう思われますか。

207五月雨:2002/08/07(水) 16:46
問答迷人さん

ご丁寧なご説明を有り難うございます。迷人さんのお答えの中に道師「御伝土代」の引用がありました。失礼しました。
戒壇本尊の実情のなんとややこしい事でしょう。私みたいなアホな人間は単純ですので、全部統一して知らん振りしていれば、何の疑義も持たれなかったと簡単に思うのです。なのに石山は戒壇本尊の写しとしてお形木本尊を平気で配布し、仏滅年数の違いなどどこ吹く風ですね。内事部で聞いたら「たしか二千二百二十余年です」と当たり前のように言ってました。ウチの御本尊と違いますと聞こうと思いましたが、なーんにも考えていないノー天気な言い方に聞く気が失せました。
有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が戒壇本尊に書かれていないというのは、どう確認出来たのですか。石山が当然のごとくに「書いていません」と平気な顔して言ってるのですか。
 戒壇本尊は生身の大聖人様なんだ、大聖人様の出世の本懐なんだとずーーーーと信じてやってきました。独歩さんと迷人さんの親切丁寧なご回答を頂いても、次の質問さえ浮かびません。「ありゃ、まぁ」これが私の本音です。

208問答迷人:2002/08/07(水) 17:43

僕の友人が、奉安殿で、最前列で御開扉を受けたときに、有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が認められていない事を確認して、御住職に聞きました。そしたら、御住職が、宗門の上層部の御僧侶に質問して、その回答を貰ったのです。曰く「確かに戒壇本尊には認められていないが、日興上人が、書写の時にはこの文言を書き込むように御指南されたのである」という趣旨の回答でした。不審に思って、御真筆御本尊の賛嘆文を調べてみたら、なんと、すでに、日蓮聖人が、賛文として、多くの御本尊に書き込まれているではありませんか。書かれていない御本尊も勿論有ります。そうなると、日興上人が書き込むよう指示したというのは、口からでまかせだと思うのです。そして、たまたたま、戒壇板本尊には書かれていないだけではないのか、という疑問は消えません。信徒に渡す御本尊に賛文を書き入れるのは、元々の御本尊に賛文が入っていたからに違いない、そう僕は考えざるを得ません。

209犀角独歩:2002/08/07(水) 18:35

五月雨さん:

> 大聖人様の仏法は相伝仏法

この面は一概に否定はできないと思います。
相伝の可否は、しかし、教学史を正確に分析すると実際の相伝か、途中からの発生はおよそわかる気がします。

たとえば御本尊三度相伝などは、七箇相承より、ずっと信憑性は高く見えます。
しかし、これは唯授一人相伝とは言い難いのです。澄師師を継いだ学頭の順師がその内容を知っていた形跡が見られるからです。また、その全同の内容で朗門にも伝わっているからです。

重要な点は、相伝仏法であることが直ちに唯授一人の決め手とはならないと言うことです。聖人の事跡を考えても、その形跡は見られません。また、興師に係る相伝と思われるものも、複数の人に分け広がっています。これはつまり、弟子の器量に合わせた分々、複数の相伝があったと見做すべき証拠となるのではないのかと私は思っています。そういった意味での相伝は、否定する必要もないように思えます。けれどまた、いまとなって、何が聖人からの相伝であったかは、詳細に理解することはできないでしょうね。

> 相伝が無ければ大聖人様の法は分からないとよく言われます。時のご法主上人だけが御書を正しく解釈出来る、ご法主上人で無ければ、文の底に隠された本当の意味も分からない。その時代に合った御書の教えをご法主上人がご指南くださるのだから、そこに信伏随従しての成仏できる信心だと思ってきました

見事な概略、まさに石山のアナウンスはそのとおりですね。
けれど、いわれる相伝というもののほとんどが、なぜ他山に所蔵されている写本によらなければいけないのか、この点がまずおかしな点であろうかと思います。

石山で言う相伝は聖人から興師、興師から目視へと67代、相伝したそうで、金口嫡々のほか、文章があるのかどうか、その実態は歴代以外は知らないわけでしょう。まあ、確認しようがないと思います。あればいいなあと思います、実際。

代表的な相伝書である二箇相承はしかし、ただの一度も石山にあったことはなく、北山に蔵され、北山には石山とは別に後継者が(代師)が立ったわけですから、仮に二箇相承が真筆であったとしても、相承は北山にあったことになるでしょう。それを石山の相伝だというは土台、無理があります。しかも、その真筆であることを最初に語るのは辰門であり、石山にもたらしたのもそこから出た教師。これでは信憑性はありません。

条々事という石山ばかりが真筆と認める興師筆とされる書があるのですが、このなかにも二箇相承のことは、ただの一度も出てきません。また、興師から伝えられた血脉両抄は唯授一人と言いながら、尊門であるというのも、なんだか辻褄がありません。

文献的に確認できるものに限ってしか言えませんが、石山の言う相伝というのは、信憑性は著しく低いわけです。

いずれにしても唯授一人ということがポイントなのでしょうが、聖人は寂間近に本弟子六人を定められているのに、唯授一人なんて別相伝があるわけはないように思えます。

> 正しい法主上人なら、無理な三十万登山、この不景気な社会において三年で百五十億の金集めなどしないと思います。

いちりんさんの言を借りるわけではないですが、なにをもって「正しい」ということなのか、難しいですね。30万人集めて150億円集める、石山僧にとってはこんなよいことはないでしょうね。搾り取られる方からすれば、こんなひどい話はないことになります。

> 正しい仏法を「大聖人様からの血脈相承」によって正しく受け継がれている割には、やってる事が信用ならんと思うのです。

このような実感、正直かな感想には真実があると思います。

> 道師「御伝土代」

同師がまとめた門下最古の伝記といわれるものです。正確には『三師御伝土代』と言われ、蓮祖・興師・目師の簡潔かつ信憑性のある伝記が記されています。土代とは今で言う土台ということで、後に整理するための草稿といった意味合いであるとのことです。

本で言えば、富士宗学要集第5巻の最初、聖典ではP587に掲載されています。
唯授一人相伝はおろか、二箇相承のことも、戒壇之曼荼羅のことも載っていません(当たり前ですが)石山のアナウンスでは「土代だから」となるのでしょうね(笑)

210犀角独歩:2002/08/07(水) 18:46

> 208

このお話は、私は確か以前にもうかがっているのだと思いますが、石山の対応はまったくひどいとしか言いようがありません。在家なんかなんもわからん素人だと言わんばかりの小手先、場当たり発言ですよね。

問答名人さんが、襟度をもって、僧侶の礼節をしっかりと通して、質問されたのに、これです。その襟度礼節に対しの答えといい、その後の経緯といい、問答名人さんは人間ができていると思うのです。さらに興師曼荼羅まで、しっかり確認され、結論を出された問答名人さんに、私は敬意を表します。

211問答迷人:2002/08/07(水) 19:45

独歩さん

>興師曼荼羅まで、しっかり確認され、結論を出された問答名人さんに、私は敬意を表します。

過分のお褒めを頂いて、恐縮の極みです。ただ、僕の文章が曖昧で、誤解を与えてしまったと思いますので、訂正させていただきます。僕が確認したのは、日蓮聖人の真筆曼陀羅の賛嘆文です。日興上人の書写の曼陀羅の賛嘆文までは、調べる資料が手元になく、実施出来ていません。以上、訂正させてください。

212いちりん:2002/08/07(水) 22:52
「百六箇抄」には、こういう記述がありますよね。
---------------------------------------
又御本尊書写の事予が顕し奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地祇もよも用い給わじ、上行無辺行と持国と浄行安立行と毘沙門との間には若悩乱者頭破七分有供養者福過十号と之を書す可きなり。
---------------------------------------
御本尊書写のことは、わたし(日蓮)が書き顕し通りに書きなさいよ。
日蓮御判と書かなければ、諸天善神の加護はないぞよ。
「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書きなさい。

……というわけですが、ほんとに、日蓮さん自らがあらわした御本尊に、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書いているのでしょうか。わたしは、まだ真筆本尊で、そのように書かれたものを見たことはないのですけど。

「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」というこの文句は妙楽が言ったものなんでしょうが、しかし、なんといいましょうか、「罰」と「功徳」で縛り上げているような感じもしますですね。

とくに、「若悩乱者頭破七分」というのは、おっかない。
誹謗したら、頭が七つに割れるぞというわけですから。

これが、「組織を離れたり、法主やら池田先生やらの偉大な人を誹謗したりすれば、頭が割れるぞ」なあんて脅しに使われたりもするし。

あるいは、日蓮さんのじきじきのことばでも、「念仏無間、真言亡国」とか「日蓮を悪しく敬わば国ほろぶべし」とか。

わたしは、つくづく思うのは、自分自身を、ふりかえっても感じますが、宗教の背後には、「恐怖」があるということですよね。みんな、じつは「恐怖」をいだいて、信仰しているなあと思います。

で、どうも、そういう信仰は、違うんじゃないかなあ、ということ。

213問答迷人:2002/08/07(水) 23:43
いちりんさん

>ほんとに、日蓮さん自らがあらわした御本尊に、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」と書いているのでしょうか。わたしは、まだ真筆本尊で、そのように書かれたものを見たことはないのですけど。

一例を挙げます。弘安元年八月の御本尊には、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」が認められています。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/Mandala053.bmp

214いちりん:2002/08/08(木) 00:39
問答迷人さん

なるほど、たしかに書かれていますね。
ただ、「若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号」の書体の雰囲気が違うので、あとから日蓮さんが書き加えたみたいな感じもするし。
あと、謗法がなんとかという言葉も、書かれていますね。

215犀角独歩:2002/08/08(木) 05:30

問答名人さん:

> 211

ご丁寧に有り難うございます。恐れ入ります。


いちりんさん:

「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅は8幅現存するようですね。引用される経文・釈文は20種類近くもあるようでもあります。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/mandara_shakumon.gif
(季刊教化情報第12号 桐谷征一著『いま大曼荼羅の世界を考える』P20から転載)

216五月雨:2002/08/08(木) 08:44
問答迷人さん

ご友人が実際に見て、戒壇本尊に「有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分」が書かれていない事を確認されたのですね。
迷人さんが、質問をされてそれに対する僧侶の回答は本当にヒドイです。こうして誤魔化し続けてきたのでしょう。「日興上人がこう言われた、血脈付法のご法主上人がこう言われた」と嘘に嘘を重ねて今の宗門があると思います。
現猊下は「正直な信心」と常に言われているのは、ただのブラックジョークだったのか・・・嘆息つかせて頂きます。

>元々の御本尊に賛文が入っていたからに違いない

この元々の御本尊は一体どこにあるのでしょうか。これがあれば問題は一挙解決する気がします。

217五月雨:2002/08/08(木) 09:12
独歩さん

ご丁寧なご教示をいつも有り難うございます。私は「血脈付法のご法主上人」を不思議な力がある方だと捉えていました。大聖人様からのご内証をお持ちだから一般僧侶・信徒には分からない事が分かるのだと。「三十万登山は大聖人様の御命です」と猊下が言われた時、「血脈付法のご法主上人」だからそういう事が分かるんだと納得したものです。
大聖人様の法門が乱れない為に時の「血脈付法のご法主上人」が仏法の判断をするのだと聞いた事があります。確かに誰でも彼でも御書を勝手解釈してああだ、こうだと言い始めると宗内に乱れが生じると思うのです。だから今でもその点には引っ掛かるのです。信徒が御書を勝手に解釈してよいのだろうかと。反面、石山僧侶のテイタラク振りと信用ならん「時の血脈付法のご法主上人」の解釈はホンマに正しいのかと訝しく思うのです。複雑な心境です。
石山のおける相伝の実態、『三師御伝土代』についてよく分かりました。有り難うございました。

218いちりん:2002/08/08(木) 09:30
犀角独歩さん

>「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅は8幅現存するようですね。引用される経文・釈文は20種類近くもあるようでもあります。

桐谷征一さんの目録で、よくわかりました。ありがとうございます。

あれを見ますと、日蓮さんは、いろいろな賛嘆文を書かれているわけですね。
そうして、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」というのは、たくさんある曼荼羅のなかでも、現存するものは、8幅ほどであると。

これらを見ると、日蓮さんは、『法華経』や『涅槃経』などの文句を書いており、取り立てて「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」をしっかり書けと、わざわざ相伝することもないような気もしました。

どうして、冨士門流は、この文句にこだわろうとしたのでしょうね。

219五月雨:2002/08/08(木) 09:34
いちりんさん

横レス失礼致します。
私も信心を始めて以来、この二つの言葉でよく脅かされていました。「御本尊様にはこう書かれています。“若悩乱者頭破七分、有供養者福過十号”と。謗れば頭と心臓が七つに割れ、供養する者には功徳があります」と何かの折に聞かされたものです。

>「罰」と「功徳」で縛り上げているような感じもしますですね。

確かに縛り上げられて活動しなきゃと脅迫観念を持ちました。組織を離れた時も頭の片隅にこの言葉がありましたが、実際には周りの人間の期待にも反して罰にも当たらず平穏な日々を送っています。
どうして、大聖人様はこういう事を多く言われたのでしょう。慈悲の仏法には残酷な一面もあるのでしょうか。

>で、どうも、そういう信仰は、違うんじゃないかなあ、ということ

そうですよね、宗教は人の心を救ってほしいと思います。

220いちりん:2002/08/08(木) 10:23

五月雨さん
この文句は、もともとは『法華経』の「陀羅尼品第二十六」に出てきますね。

若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん

鬼子母神が、お釈迦さまの前で、誓うわけです。
『法華経』の教えを説く法師を守護します。そのために、悪鬼にやられてしまわないように、呪文を捧げます。そして、もしも法師を迫害する者があったら、わたしたちが、そやつの頭を七つに割ってしまいましょう。

阿梨樹(アルジャカ)という花があるらしいのですが、それは七つの花弁があるんだとか。見たことはないので、わかりませんが。

この七つと、南無妙法蓮華経の七文字と結びつけたりもするんでしょうね。

あるいは、頭上の七穴とも関係して、首から上に七つの穴があると。口一つ、鼻の穴が二つ、耳が二つ、目が二つで、合計七つ。その穴が病になるのだとか。

あるいは、心破作七分ともいって、物理的に頭が破壊されるというよりも、心が駄目になる。精神錯乱するなどと、言われてきました。

いずれにしても、おそろしいですね。
まあ、もとはといえば、『法華経』に罰と功徳の脅しと勧誘みたいなものが、たくさん書かれています。まあ「譬喩品」あたりを読んでみてください。

この『法華経』のもつ排他的なエネルギー、独善的なエネルギー、我の強さが、じつはおおもとの源泉であろうとわたしは思っています。

『法華経』はすばらしい経典ですけど、すばらしい部分と、厄介な部分がごっちゃになっています。まあ、いろんな人たちが、長い期間によってたかって作り上げた(もとの教えに、あれやこれやとくっつけたりしました)という成立事情にも原因があると思いますけど。

221アネモネ:2002/08/08(木) 12:46
横レス失を礼いたします。

犀角独歩さん

独歩さんがご紹介して下さった、桐谷征一著『いま大曼荼羅の世界を考える』の転載を拝見しますと、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記された聖人真筆曼荼羅が8幅あって、そのうちの7幅にはあわせて「有開罪於無間、讃者積副於安明」という賛文も書かれているようですね。問答迷人さんがご紹介下さった御本尊にもこの賛文が確認できました。
よく似た意味合いのことだと思うのですが、ところが、私たちが下付されている御本尊には、私が見たところでは「有開罪於無間、讃者積副於安明」の賛文はないようですけれども、どうしてなのでしょう。
また、8幅のうちNo.59の御本尊もこの賛文がないわけですが、これも何か理由が考えられるのでしょうか。
また、この8幅ないし7幅において、たとえば下付された相手の状況などで何か共通する点などあるのでしょうか。
また、本尊集の番号がほぼ続いているようですが、この番号は年代順につけられた番号なのでしょうか。

もしも以前にもこれらについて書かれているようでしたから誠に申し訳ありませんが、今、ここで疑問に思いましたので、ご質問させて頂きます。よろしくお願いいたします。

222犀角独歩:2002/08/08(木) 16:01

アネモネさん:

曼荼羅に記される経文(釈門)に、なぜ差異があるのかは、よくわからないですね。

なお、桐谷師の所についている曼荼羅の番号は、その曼荼羅の写真が掲載されている『本尊集』の通し番号であろうかと思います。
いま、手許にその写真集がありませんので、どのような順番になっているのかはたしかめられませんが。

223犀角独歩:2002/08/08(木) 17:51

―222からつづく―

ところで、アネモネさんは「賛文」という言葉を使用されていますが、桐谷師はこれを単に経文・釈文と呼んでいます。何か固有名詞がついているのかどうか私は知りません。

なお、讃文は、同書によれば、以下のような変遷があるとのことです。

(1)「文永八年太才辛未九月十二日蒙御勘遠流佐渡国、同十年太才葵末酉七月八日図之。此法華経大曼荼羅、仏滅後二千二百二十余年、一間浮提之内未曾有之、日蓮始図之。如
来現在猶多怨疾況滅度後、法華経弘通之故有留難事、仏語不虚也」(佐渡始顕、本尊鑑3)

(2)「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間、雖有経文、一閻浮提之内未有之大曼荼羅也。得意之人察之」(文永11年7月25日、本尊集13)

(3)「大覚世尊御入滅後、経歴二千二百二十余年、雖尓月漢日三ケ国之間、未有此大本尊。或知不弘之、或不知之。我慈父以仏智隠留之、為末代残之。後五百歳之時、上行菩
薩出現於世、始弘宣之」(文永11年12月日、本尊集16)

(4)「仏滅後二干二百二十(三十)余年之間、閻浮提之内未有之大曼荼羅也」(同書P22)

また、他のロムの方にも参考に記せば、弘安期における仏滅年代「二千二百二十余年」「二千二百三十余年」の出入についても表が設けられています。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/butumetunendai.gif

桐谷師の同書の言おうとしていることは、日蓮曼荼羅には定型はないということのようです。山中喜八師の整理も上げ、現存127幅を山中師は107種に分類するけれど、これではもはや、定型はないのに等しいと見解を述べています。もっともだと思います。

では、石山は、「戒壇之曼荼羅(之)を書写し奉る」と言いながら、何故、それには記されていない「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」にかくも拘るのでしょうか。
(なお、奉書写之の之が、元来は戒壇之曼荼羅を指すのではなく、その書写した曼荼羅を指すことは、かつて重須資料に基づき記したとおりです)

石山は「内証を写す」などと言いますが、すると、戒壇之曼荼羅にないのに書かれる「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が内証なのかといえば、そんなことではないだろうと思うわけです。

この点について、問答名人さんとも意見が一致したとおり、これは興師・弘安二年授与の曼荼羅にそのような書き留めがあったのであろうと私も想像します。もちろん、この曼荼羅は、いわゆる戒壇之曼荼羅でも、万年救護曼荼羅でも、禅師授与の曼荼羅でもない、かつて北山にあって盗難に遭い紛失した曼荼羅であろうというのが、先の問答名人さんと私の議論の結論でした。この曼荼羅に、たぶん、この釈文があったのであろうと思います。

もう一つ、これは本尊三度相伝に係り、私が留意している点ですが、文永9年大歳壬申正月元旦に興師に授与された曼荼羅(要法寺所蔵)には

問答第一行戒智徳“筆跡付法”の沙門日興に之を授与す

とあるといいます。この「筆跡付法」とは何を指すのか、いかにも本尊三度相伝の内容、あるいは曼荼羅に記す釈文「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と記すことを付法することなのかと想像を逞しくしたいところです。

この点は『破愚邪立正論』にも、この点を論い、

一大事の仏法をば付属し相続する者は日興一人ならではと思ひ定め玉いて自ら御筆を染め玉へ忝くも本地寂光自受用報身如来の境智の尊躰大聖人の魂をさらさらと一幅の御本尊に書き顕し日興上人へ下され候、其の書に云く文永九年(壬)申正月元日、問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与すと書き印るし下され候此れ千万の法門も入らざる大聖多くの弟子あれども日興は四徳を備へたる故に我が一期の大事の仏法をば残らず付属する者なりと遊はされ候事唯我与我の御内証を顕し玉ふ御本尊なり

まで讃歎するのですが、しかし、この曼荼羅は文永9年なのです。
実に解を得ることが難しい点であろうかと思います。

224犀角独歩:2002/08/08(木) 18:18

【223の訂正】

誤)この点について、問答名人さんとも意見が一致したとおり、
正)この点について、問答名人さんが記されたとおり、

225アネモネ:2002/08/08(木) 22:54
犀角独歩さん

唐突な質問にも関わらず、ご丁寧なレスを有難うございました。
まずは「賛文」、私の意図したものではなくて、打ち間違いです。すみません。「賛嘆文」と「讃文」そして「賛文」はそれぞれ意味が違ってくるのでしょうか。

>文永9年大歳壬申正月元旦に興師に授与された曼荼羅(要法寺所蔵)

この御本尊にも「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」は書かれているのでしょうか。

質問ばかりで恐縮ですが、日興上人がしたためられた御本尊は全て「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が書かれているとみて良いのでしょうか。
本当に古い法華講の家で、日興上人の御本尊をお持ちのお宅もあると聞きますが、「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」が書かれているのかどうか知りたいような‥、また厄介な興味を抱いてしまうところです。

余談になりますが、「御本尊集」についていろいろ検索してみましたら、

日蓮宗 現代宗教研究所 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute HOME 目次 現宗研所報 第29号 所報第29号:69頁〜 研究ノート ←前|▲|次→| 《研究ノート》 日蓮宗の本尊は、 なぜ解りにくいのか、 どうした
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_069.htm

で、以下の文章をみつけました。内容がとても興味深かったです。一部、抜粋しますと、

【「百二十余幅の大曼荼羅は内容・形状共にバラエティに富んでいる。 「一紙のお曼荼羅」 (中尾尭 『ご真蹟にふれる』 日蓮宗新聞社) はお守りとされたかもしれない。 あるいは信徒の集会では、 何枚も継がれた大きな大曼荼羅を前にして教義の説示、 解説がされたであろう。 例えば、 『御本尊集』 (立正安国会) 中、 第十八番目の平賀本土寺蔵の大曼荼羅は両界の大日如来を勧請して、 真言宗に対する何等かの意図を示したのである。 大曼荼羅は単なる礼拝対象ではなく、 信徒に教義を伝える情報機能を併せ持っていたと見てよかろう。 」(三原正資氏著)
 
御本尊のこういう捉えかたも、けっこうイメージがつかみやすいなと感じました。

他にもいろいろな論文がありまして、面白かったです。日蓮聖人がかなり軍記ものの書物の影響を受けているといったものもあり、人間像に迫れるようでした。

日蓮宗 現代宗教研究所 Nichiren Buddhism Modern Religious Institute HOME 目次 現宗研所報 第33号 所報第33号:61頁〜 教化学研究 ←前|▲|次→| 日蓮聖人の『平家物語』受用を通して布教教化のあり方を考える 今
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_061.htm

日蓮本仏論が崩れてから、かえって日蓮の人となりに興味が広がりました。蓮長の時代にも興味が尽きません。まぁ、その興味が信仰といえるものなのかどうかは、また別ですけれども、ドブチェクさんの「日蓮聖人の本尊観」のレスを読んでいて、気持ちがわかるなぁと思いました。

226いちりん:2002/08/09(金) 10:41
しかし、日蓮さんの曼荼羅は、いろいろと論議がありますね。
日蓮宗にあっては、冨士門流ほどのこだわりがないのでしょうが。

浄土真宗などは、南無阿弥陀仏の六字名号が本尊というようになつているかと思います。厳密には、阿弥陀如来が本尊であって、形にあらわれた「有相」のものにはこだわってないようです。

日蓮さんの曼陀羅も、「もうこれなくしては本尊の意味がない」というエッセンス中のエッセンスをとらえるとしたら、南無妙法蓮華経の七文字でいいんでありましょうね。

もっともプライオリティーが高いのは、南無妙法蓮華経の七文字。(さらに凝縮すれば、「妙法」さらには、「妙」の一字になるのでしょうが)

ついで、日蓮という字。そして、花押でしょうか。
ついで、釈迦・多宝の二仏ということでありましょうか。
そして、四天王(まあ結界的な意味で)とか。。

227川蝉:2002/08/09(金) 13:47
横から失礼します。

御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

208 : 問答迷人 さんのコメントの中に
「僕の友人が、奉安殿で、最前列で御開扉を受けたときに、有供養者福過十号、若悩乱者頭破作七分が認められていない事を確認して、」
と有りましたが、
本化妙宗の高橋智遍師が「創価学会が真実ならー私は日蓮聖人の信仰をやめる(昭和35年刊)」において、大石寺の板本尊の座配を示しています。それによると「頭破・・」が有ります。
また、美濃周人氏の「虚構の大教団」においても、「今は大石寺宝蔵に眠る、昔からある戒壇の大本尊」として板本尊に「頭破・・」が有るとしています。

現在、問答迷人 さんのご友人が拝したという御本尊と別物と云うことになるようですね。

230問答迷人:2002/08/09(金) 17:33

川蝉さん こんにちは

いつも、貴重な書き込みを頂戴し、まことにありがとうございます。今後とも、よろしくお願い申しあげます。

>御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

その様です。なお、ネット上の「御本尊集」は、この立正安国会の御本尊集をそのままアップしてある様です。通し番号も同じだと思います。日蓮正宗関連HPリンク集に文献・資料の「御本尊写真集」としてリンクさせてあります。

http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html


>本化妙宗の高橋智遍師・・「頭破・・」が有ります。美濃周人氏・・「頭破・・」が有るとしています。

そうですか。友人の質問と、それに対する宗門高僧の回答が、「頭破・・」が無い、という点で一致していたので、戒壇板本尊には「頭破・・」が無いものと、考えておりましたが、有るという文献が有るわけですね。

実際はどうなんでしょう。戒壇板本尊の写真からは、有無は読みとることは先ず不可能でしょう、ぼけていますから。どなたか、大石寺戒壇板本尊の座配、讃文について、資料をお持ちの方、お示しいただけると幸いです。

231犀角独歩:2002/08/09(金) 17:35

> 本化妙宗…高橋智遍師…大石寺の板本尊の座配

これはいったい何を元にして座配を示したものなのでしょうか。
板曼荼羅の写真が公開されたのは後にも先にも明治44年(1911)熊田葦城著『日蓮上人』に1回だけ、今から91年前の小さな写真製版です。これを元に座配を予想されていますが、これらの信憑性は如何ばかりのものなのでしょうか。ここでは、「有供養者…」が記されていると断定されているわけですか。

孫引きですが、こんな記述があります。

一、大石寺板本尊之事、日憲参詣の時委しく拝し奉る。竪五尺横二尺四寸也。去(さ)て御勧請の次第は上段には釈迦多宝本化の四菩薩、次の段には文・普・薬・弥・舎・迦・大梵・釈提・大日月・明星、次の段には天・章・伝・転・阿闍・提、次の段には鬼子・十羅・天八、仏滅後二千二百二十余年○大曼茶羅也・日蓮御判、其の下に横
 右為現当二世造立如件
御判の右の脇に
 本門戒壇之願主弥四郎国重法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日云云
弥四郎とは波木井殿の事也。私云板御本尊を彫りしも御影も日法の御作也。」(日憲「当家諸門流継図之事」=立正大学編「日蓮宗宗学全集第18巻149頁」)

日宗全が手許にないので、詳しく当たれませんが、この記録では「有供養者…」については、まったく語られるところがありません。座配についての説明であるから書かれていないと言えば、それまでですが、特記すべき内容ですね、本来であれば。

ただ、川蝉さんが引くところと同様なものであるかどうか失念したのですが、私が過去に見た座配図にも「有供養者…」はあったように記憶しています。これは高橋師のものであったのかも知れません。

> 美濃周人…「今は大石寺宝蔵に眠る、昔からある戒壇の大本尊」

だいたい、この記述は何を根拠しているのかまったく不明です。私は40年も石山に関与していましたが、これを言い出したのは創価学会であり、紙幅正本ありと言ったのは久保川法章師です。しかし、これらはまったく裏の取れない、いわば“ガサネタ”の類のような気がしますが、どうなのでしょうか。

ただ、川澄勲師の文章などを読むと

阿部さんが丑寅勤行をしていることは、御宝蔵には今も厳然と本因の戒旦の本尊が坐すことを前提とした(仏道雑記  http://homepage2.nifty.com/houmonken/sub2.htm#0600)

などということが書いてあるので、「?」と思うわけですが、美濃さん辺りは、いったいどこから得た情報を書いているのか、まったく理解できません。

> 現在、…御本尊と別物

まあ、こう結論づける蛮勇は俄に起きませんね。
第一、レプリカとして作るとすれば、同じように作るでしょうから。

232犀角独歩:2002/08/09(金) 18:05

私がもっているいちばん大きな戒壇之曼荼羅の図です。

たしか虚構山幻想寺から落としたのですが、惜しいかなかここがなくなってしまったのです。ここに座配図もあったと記憶しています。

このサイト、すばらしい出来であったので閉鎖は残念でした。…知らないうちに私のサイトとリンクが組んであってびっくりさせられたものだったのですが(笑)
この虚構山幻想寺、また管理者の方の情報をご存じの方は、ぜひともお教えください。

私は、この戒壇之曼荼羅図を見て、直ちに思ったのは上段左右にある鶴丸です。
鶴丸が身延で使われていた?はずはないので、少なくともここの部分は後世のものであることは間違いないであろうということです。

また、第1段の座配は左右3行ずつ、つまり憲師の「釈迦多宝本化の四菩薩」の六尊、それ以上は記されていない気がします。

ほとんど、ぼやけてわかりませんが、釈文が書かれている余地はないように思えます。あくまで、そう見えるという話ですが。

233犀角独歩:2002/08/09(金) 18:08

―232からつづく―

失礼、ジャンプを入れ忘れました。以下です。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaidanmandara/kaidanmandara.html

234アネモネ:2002/08/09(金) 18:11
川蝉さん

こんにちは。よろしくお願いいたします。

>御本尊写真集である立正安国会刊「御本尊集」の通し番号は図顕の年月日順の番号になっていますね。

ありがとうございます。

>現在、問答迷人 さんのご友人が拝したという御本尊と別物と云うことになるようですね。

私も今年のお正月の初登山のとき、自分の目で確認してみたいと思い、一時間以上並んで前のほうに座って拝したところ、やはり「頭破・・」はなかったようんですね。
どういうことなんでしょう。昨日みつけた多くの論文のなかにも、たしか大石寺の大御本尊に「頭破・・」があるといったものがありましたが、これは勘違いではないのかな?と思って読み流しました。ますます不可解になってきました。

235アネモネ:2002/08/09(金) 18:13
問答迷人さん

「御本写真集」ありがとうございます。
いくつか見てみましたが、どれも「頭破‥」の向きが他のお文字と随分と違うようですね。

236アネモネ:2002/08/09(金) 18:28
富士年表でも本尊授与に本集と番号が記されてあり、また学会の方が運営されているサイト(?)で、もう少し詳しい年表をみつけました。
http://www.ginpa.com/karagura/nenpu8/nen8.html
http://www.ginpa.com/karagura/nenpu9/nen9.html

それを参考に「頭破‥」の入った御本尊を時系列にピックアップしてみますと。

1278年(弘安元年)
8月
*本尊を「日頂上人」に授与 (本集53・清水海長寺蔵) (要8-222) ・賛文「有供養者福過十 悩乱者頭破七分」・日興→日頂舎弟寂仙房日澄に付属 注57-08
*本尊を顕す (本集54・京都本能寺蔵) ・賛文「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

11月21日
*本尊を俗藤太夫日長に授与 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」 現存最大(243.9cm ×124.9cm) (本集57・岡宮光長寺蔵) 注57-11

1279年(弘安2年)
2月
*本尊を妙心に授与 (本集59・中山浄光院蔵) 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

*本尊を日目に授与 (本集60・桑名寿量寺蔵)(要8-222) [日興→新田卿公日目 (宗全2-112)] 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

4月8日
*本尊を「日向法師」に授与 (本集61・茂原藻原寺蔵) 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」
        
7月
*沙門日法に本尊を授与 (本集65・沼津光長寺蔵)「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」

10月
*本尊を沙弥日徳に授与 (本集67・戸田妙顕寺蔵) 「若悩乱者頭破七分 有供養者福過十号」

237アネモネ:2002/08/09(金) 18:30
(つづき)
一方、この時期で他に本尊集の番号のあるもので記載のあったもの、つまり「頭破‥」が入っていない御本尊は、

1278年(弘安元年)
3月16日
*本尊を顕す (本集47・中山法宣院蔵) [通称・病即消滅御本尊] [これより以降、十方分身諸仏、善徳仏の列座なし]
*4月21日 本尊を俗日専に授与 [本集48・京都立本寺蔵]
7月
*本尊を顕す (本集49・岩本実相寺蔵) ・当本尊以降、天照、八幡の2神の位置が定まる ・当本尊以降の花押、「ボロン」字に(御書の花押は5、6月頃より変化) 注57-06
5日
*本尊を沙門日門に授与 (本集50・京都頂妙寺蔵)
*本尊を顕す (本集51・京都本圀寺蔵)
10月19日
*本尊を顕わす。(本集56・京本圀寺蔵)
1279年(弘安2年)
4月8日
*本尊を優婆塞日田に授与(本集62・玉沢妙法華寺蔵)
*本尊を比丘日弁に授与(本集63・峰妙興寺蔵)
6月
*本尊を比丘尼日符に授与(本集64・中山法宣寺蔵)
9月
*本尊を優婆塞日仰に授与(本集66・和歌山蓮心寺蔵)
11月
*本尊を優婆塞日安に授与(本集68・沼津妙海寺蔵)
*本尊を沙門日永に授与(本集69・京立本寺蔵)
*本尊を優婆塞日久に授与(本集70・千葉随喜文庫蔵)

分類してみると、何かあるかなと思いましたが、残念ながら私にはわからないです。

238犀角独歩:2002/08/09(金) 19:09

> 優婆塞日安に授与(本集68・沼津妙海寺蔵

この曼荼羅を達師は戒壇之曼荼羅の臨写である(『板本尊偽作論を粉砕する』)と言っています。著者・安永師は、この曼荼羅を模刻したのが板曼荼羅という主張ですが。
つまり、この曼荼羅に釈文がなければ、ほぼないと見てよいような気がします。

ところで本尊集でみると68はaとbがあります。続けてみても、ほとんど同じように見えます。山口師が言う剥離法による正本と影本かなと思い、並べてみました。ほぼ似ているのですが、幅とか細かいところで違っています。これは真筆なのでしょうか。達師が臨写というもわかる気がします。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/myokaiji/myokaijimandara.html

239犀角独歩:2002/08/09(金) 19:17

>238

自己レス、この二つは座配も違い、別の曼荼羅なのですね。
しかし、68bは墨がべったりとした感じで、筆の勢いもなく、どうも真筆とは見えません。
まあ、素人鑑定ですけれども。

240犀角独歩:2002/08/09(金) 19:31

アネモネさん:

ここのところのアネモネさんの書き込み、なかなか情報性があって、面白いですね。
ジャンプ先を追うだけでもたいへんです。

241犀角独歩:2002/08/09(金) 20:28

問答名人さん:

先にご紹介いただいた御本尊集のサイトに、礼に日禅授与の曼荼羅は載っていますか。
何か見つからないようなのですが、お教えください。

242問答迷人:2002/08/09(金) 20:58

犀角独歩さん

>日禅授与の曼荼羅は載っていますか

僕も、それを探しましたが、見当たりませんでした。立正安国会の御本尊集には漏れているようですね。

243犀角独歩:2002/08/09(金) 22:41

242 問答名人さん:

あ、やはり、そうでしたか。
禅師授与曼荼羅、いわくありげですね、やはり。

達師の言を合わせて整理すると、戒壇之曼荼羅は禅師授与の曼荼羅を元に作成され、それを元に妙海寺曼荼羅が臨写された…とこうなります。

ところで、この妙海寺曼荼羅臨写説は達師の『板本尊偽作論』だけで読むと、68aの曼陀羅と言うことになるのですが、実際、全体のイメージからすると93の曼荼羅のほうが、ずっと似ています。「おかしい」と思い、『板本尊偽作論』そのものにあたってみました。

やはり、安永師が言うのは、こちら93の曼荼羅のほうでした。ただし、願主その他の着想を68aの曼荼羅から得たと言うのが安永師の主張でした。

試みに戒壇之曼荼羅を白黒反転し、妙海寺曼荼羅(93)と並べてみました。
確かに、よく似ています。が、細部では異なっているようです。

※以下に画像をアップしました。が、このような曼荼羅の画像の処理、比較などを不敬・謗法と感じる方は無理してみることはありません。また、戒壇之曼荼羅を「生身の日蓮大聖人・究竟の大曼荼羅」と思われている方には刺激が強いかも知れません。御覧にならないないほうがよいでしょう。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/myokaiji/hikaku.gif

このような比較を是非とも禅師授与曼荼羅で試みたいのですが、肝心の写真がありません。残念です。

244犀角独歩:2002/08/09(金) 22:54

―243からつづく―


大きさを比較すると

戒壇之曼荼羅 丈 四尺七寸五分 幅 二尺一寸五分
妙海寺曼荼羅 丈 三尺二寸七分 幅 尺七寸九分

となっています。戒壇之曼荼羅のほうが一回り大きいのですが、余白装飾部があるので、ほぼ同じくらいの大きさのように感じます。

仮に、もしこの二つが正本と臨写であったとしたら、どっちがどっちなのかということになりますが、妙海寺曼荼羅が真筆であれば、片方は木彫です。当然、妙海寺曼荼羅が正本と言うことになるでしょう。けれど、もし妙海寺曼荼羅が真筆ではない場合、戒壇之曼荼羅を臨写したことになるのでしょうか。しかし、この曼荼羅が真筆ではないというのは石山ばかりではないでしょうか。私は愚論を記すことは差し控えます。

245犀角独歩:2002/08/09(金) 22:59

―244からつづく―

ただし、243、244は単なる比較と資料の提示です。
問答名人さんが主張される禅師授与曼荼羅を臨写し木彫の下書きとするなどの可能性を否定するものではありません。

246問答迷人:2002/08/10(土) 00:18

犀角独歩さん

243の比較、興味深く拝見しました。よく似ているなぁ、と思いました。ただ、向かって右側の梵字と、蓮の字の右端との位置関係がかなり違っていますね。仮に十界の諸衆が、あとから書き加えられたと仮定しても、主題と梵字との関係は保たれると考えるのが至当でしょうから、やはり、よく似ているけれども、別の御本尊だと思います。如何でしょうか。

247犀角独歩:2002/08/10(土) 00:32

246 問答名人さん:

ほぼ賛成です。ただ、この大きな花押といい、その他の配列。
薄紙を乗せて、なぞるというのではなく、見ながら写すとこのぐらいの差はありかなと思うわけです。でも、全体的に戒壇之曼荼羅のほうが優美ですね。

禅師授与曼荼羅とも同じような比較をしてみたいですね。

いずれにしても、戒壇之曼荼羅が後世の作であるとすれば、一つのものをそのまま写したと言うより、寄せ集めた可能性もあるわけです。

唯一、私が戒壇之曼荼羅で評価するのは、この木彫は筆順がしっかり彫り込められている点です。あのややこしい花押も筆順がわかるわけです。想像で彫ったのかどうかは別として、この点はすばらしいとともに、それなりの水準を感じるわけです。

248犀角独歩:2002/08/10(土) 00:33

一つ、書き落としました。
やはり、戒壇之曼荼羅のほうにも釈文はないように見えますが、この点は々お思いになりますか。

249犀角独歩:2002/08/10(土) 00:35

やってしまいました。

248の訂正

誤)この点は々お思いになりますか
正)この点はどう、お思いになりますか

250問答迷人:2002/08/10(土) 00:37

追加です。

あと、明らかに相違が伺えるのは、主題の経の字と、日蓮との距離が戒壇本尊は接近しており、93は離れています。

また、経の字の右下端と、大廣目天の大の字との位置関係が違っています。戒壇本尊では、大の字の左下端に経の字の右下端が来ているのに対して、93では、経の字の右下端は、大の字のほぼ中央を貫いています。

251問答迷人:2002/08/10(土) 00:47

犀角独歩さん

>やはり、戒壇之曼荼羅のほうにも釈文はないように見えますが、この点は々お思いになりますか。

この写真で見る限りでは、一段目は、左右三行ずつですね、ここには、「有供養者云々」は認められていないようですね。二行目以下も、列衆だけで、そのような書き込みは見当たりませんね。恐らく、認められていないのではないかと思います。

252アネモネ:2002/08/10(土) 01:23
横レスを失礼いたします。

犀角独歩さん

>240)
 恐れ入ります。

>唯一、私が戒壇之曼荼羅で評価するのは、この木彫は筆順がしっかり彫り込められている点です。

筆順まではわかりませんでしたが、戒壇之曼荼羅からは確かに日蓮聖人の筆跡がはっきり見える気がしますね。黒字に金字が映えるからでしょうか、かなり遠くに座っても聖人のお文字の勢いが目に飛び込んできます。
演出ばかりではなく、そういうところも、心を動かしてきている一因かもしれないなと思ったりもします。

253アネモネ:2002/08/10(土) 01:25
252)訂正です。

誤→黒字に金字
正→黒地に金字

254犀角独歩:2002/08/10(土) 05:19

250 問答名人さん:

細かい点での相違があるのは、要するに臨写であれば、そのようなことは起きても不思議はないと思うのです。たとえば68aと68bの曼荼羅はよく似ていますが、横幅が違っています。しかし、全体的なイメージはよく似ています。これは、まあ両方真筆であるということなのですが、臨写ではこれぐらいの差は起きるだろうと思います。ただ、だから、戒壇之曼荼羅と妙海寺曼荼羅がその関係にあると即断するわけではありません。

252 アネモネさん:

石山の板曼荼羅は、筆順がしっかりわかるように彫られています。これは末寺の曼荼羅でもそうです。殊に板曼荼羅の場合、花押の筆順もしっかりとわかるわけです。これは興師のみが花押の筆順を伝えられたからであるとすら豪語するわけです。その真偽はわかりませんが、しかし、少なくとも、あの複雑な花押の筆順が彫り込まれていることは興味が惹かれます。

ただ、少し曖昧な記憶ですが、妙蓮寺の板曼荼羅も花押が彫られていたと記憶しますので、特に石山に限ると言うことではないのかも知れません。ただ、他門ではこのような彫刻の仕方をするところはなかったと思います。むしろ、「掘り下げ」と石山の彫刻を蔑視し、墨を削り取った点を強調し、非難しています。

別段、石山を擁護するわけではありませんが、あの彫刻の仕方は明らかに筆順を表すために有効であるとは思います。

255犀角独歩:2002/08/10(土) 10:18

画像を反転してみて、思ったのですが、戒壇之曼荼羅は妙海寺曼荼羅より、種子その他も優美で、かつ筆跡も明確。もし妙海寺曼荼羅に疑義があるとすれば、達師の言も捨てるべきではないと思いました。

河辺メモで取り沙汰される禅師授与曼荼羅も、このような比較はできるだろうと思いました。こちらは剥離法で正本と影本の2福がありながら、本尊集に載っていないようなのですが、写真は出回っていないものでしょうか。大きさその他の比較もしてみたいと思うのです。

それにしても、真筆曼陀羅と言われるものは、本当にすべてが真筆なのであろうか?という疑問が改めて沸きました。

いわゆる格式のある寺院が永年所蔵してきたなどといういわくがあるために、疑義があっても、古来からの真筆説がまかり通っているものも、いくつかあるなどということはないのであろうかと思ったりします。ただ写真集ができ、これだけ出回り、さらに山中師などの研究もあるわけで、いわる120余幅は日蓮門下の共通認識と言うことでしょうか。

戒壇之曼荼羅はいずれにしても、木彫なのであって、元より真筆議論に乗せるべくもありません。いったい、その元が聖人の真筆によるのか、あるいは真筆を模した筆を彫ったものであるのか…、素朴な疑問と言うより、なんだか複雑なことを書いていますが、知的好奇心には素直であろうと思うばかりです。

256ワラシナ:2002/08/11(日) 00:46
no180の無徳さんへ「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 13」

0、「フォーラム21」(11号)の「さよなら人間革命」という学会活動実録風
エッセイでは、無徳さんよりちょいと年上の60位の往年の学会男子部員の半生が
つづられた連載になっていて毎回これを読むのが一番の楽しみです。

1、その人はs’35年二十歳入信だったか。s’40年正本堂御供養には半年間の
飲まず食わずで給料の三倍、約10万?出したとか、のところの迫力が強烈に印象に
残った。生活面では中卒左官職人からスタートしてタテ線隊長までやって結婚。
バブル期までには自動車修理工場を経営して6人くらい使って順調だったが、平成に
入ってから破綻して、家屋敷処分して、小さな自動車修理業で再出発したが借金が
残った。

2、その時その主人公の苦境を見かねたかっての担当組織の男子部員だった人がいて
、現在中堅会社の幹部をやっていた。その人の縁故営業力で有力な得意先を紹介して
もらえた。そして、何とか経営が軌道に乗った、という話なのである。
その男子部員は30年前は司法試験かぶれの大学生で、主人公が何かと弟分のよ
うに面倒を見ていたのであった。

3、私はこの挿話に組織活動の偽らざる真実をみるのである。その男子部員は活動的
には当時から見れば落ち零れ評価だったのである。活動家の人物評価基準では「勉強
ばっかで、本当はもっと学会活動が必要なんだ今の彼にとっては、、」位に思われて
いたことであろう。
ところが、面倒を見られていた側の大学生の方では、「先輩学会活動ばかりやって
て、本当はもっと将来を見据えた勉強が必要な時ではないのかな、いくら中卒だか
らといったって、、」位に逆な評価基準で先輩隊長を低評価していた節が伺えたの
である。
なぜなら、30年後苦境の先輩を手助けするために再会したときには、かっての男
子部員は学会活動(正宗信仰そのものまでもかどうかまではわからなかったが)か
ら縁を切っていたからであった。

4、かっての自分が面倒を見ていた後輩の組織の一員に逆に面倒をみられる立場に
なってしまう事。これはよくあるケースで、だからこそ、年長者は後輩の将来の成
長を見据えて気を配る必要がある。だが、ここで私が注目したいのはちょっと違っ
た角度であって、アネモネさんが評したように「かえって組織活動を適当にやって
る人のほうが」仕事と信心のバランスが上手い具合になってる、、という観察が否
定できない、、そのように映って見える現実がある、ということなのである。
活動にのめり込むように我を忘れている信心の先輩の姿勢に何か健全でない、ふに
落ちないものを感じても、その瞬間にはその先輩には遠慮して言い出せない後輩。
ここには5,6年の年長差のある青年同志の心にある「永遠の通い合いと行き違い」
のようなものが見える。その当時はお互いがこれでいいのかな、とチラっと感じた
だけで、この先どちらの生き方が、という勝敗まであらそう積もりはないから、もっ
ぱら自己主張の権利は先輩だけが独占してしまったであろう事は容易に想像できたの
であった。

5、組織活動、講中信心活動にのめり込むのではなく、かといって否定するつもりも
全くない、さめた感じの人々が組織にはいた。当時、活動中心主義だった私にはこの
人々の生き方の価値がなかなか分からなかったが、ふとしたきっかけで徐々にわかり
かけてきた。

6、とりあえず、うそかほんとか確認できませんが信心活動停止した後輩の援助で仕
事が旨くいったというエッセイの紹介をした次第です。(h14/8/10)

257いちりん:2002/08/11(日) 01:09
わたしは、フリーで仕事をしてきて12年くらいになりますけど、まあつくづく感じるのは、

●チャンスというのは、たくさんある。けれども、なかなかそのチャンスを活せない。
 そのとき、こちらに実力がそなわってなかったり、金がなかったり。忙しかったり。
 実力というのは、チャンスを生かす力だなあと思いますね。

●当たり前だという気持でいると、必ずしっぺ返しが来る。
 ありがたいなあという気持でいると、いい仕事が来る。
 けれども、あるがたいという気持でいると、いい仕事がくるから、ありがたいと思わなくちゃというのでは、いい仕事が来ない。それは、取引であって、純粋な心からの気持ではないから。

●まったくあたりまえのことだけど、やはりすべては人間関係だということ。
 こいついいやつだあ、こいつ信頼できるなあ、こいつは安心できるなあ。そのように思われる器があれば、それは仕事はきますよね。

●仕事というのは、楽しくないと努力が要るし、力が発揮できない。仕事を趣味にしてしまえるのが、いちばんいいのだけれども。それには、自分が楽しめる、力が発揮できる仕事を見つけなくちゃいけない。

●なにがあっても、天におまかせ、みたいな気持だとうまくいくみたい。
 一見、どないしょう。これは困った。えらいこっちゃ、というような事態になっても、あとになったらそのことでいい方向に行くということがある。だから、凡夫の浅はかな判断で、いまくいったとか、あかんとか決められない。

258アネモネ:2002/08/11(日) 03:21
ちょっと疑問に思いましたので、レスさせて頂きます。

「頭破‥」が入った御本尊の中で、本尊集53と60は、富士年表には記載されていないようなのです。特に60は先日ご紹介した年表によると、

1279年(弘安2年)2月
*本尊を日目に授与 (本集60・桑名寿量寺蔵)(要8-222) [日興→新田卿公日目 (宗全2-112)] 「有供養者福過十号 若悩乱者頭破七分」

とあります。これを本尊集で確認してみますと、「大廣目天王の右側に日興聖人の添書が存在したのを、削損してある。今「王」字の鮎の中に「日興」の二字が残存している」説明がされていました。

大石寺の歴史スレッドの独歩さんの(163)のレスに、この御本尊のことについて書かれてありました。以下抜粋させて頂きます。

「気になるのは弘安二年本尊で

弘安二年太歳己卯二月日、釈子日目に之を授与す、(天王の点の中に日興の二字存在す余の御加筆の文字は後人抹却したるなり) 桑名寿量寺。

2月なので、土代の記述には当たらないのでしょうか。」

この御本尊は、最初、日興上人が授与された御本尊ということなのでしょうか。
桑名寿量寺は、日蓮宗のお寺のようなのですが、日目上人に授与された御本尊がどうして日蓮宗のお寺にあるのでしょう。また、どうしてこの御本尊授与については、富士年表に記載されていないのでしょう。

259アネモネ:2002/08/11(日) 05:01
今はどうなのか知りませんが、かつて自衛隊員に学会員がとても多かったと聞きました。自衛隊と学会はどちらも組織なわけですが、自衛隊組織での上下関係が、一方の学会組織では逆転していることが多かったということを聞いたことがあります。
ワラシナさんの256)のレスを拝見しまして、そんな話を思い出しました。

職場では、仕事の出来る人が尊敬され、法華講や学会では、活動に熱心な人が尊敬されるんですね。仕事の出来る人とは、一概には言えませんが、とりあえず会社に利益を上げる人ということで、これは数字で顕されるものといえます。一方、信心活動の場合はどうかというと、お寺によく来る人、唱題をたくさんする人、折伏をよくする人、そして御供養をたくさんする人といった具合で、どうやらこちらも数字で顕されるもののようです。
数字で顕されるということは、その優劣が目で見てわかりやすく、誰もが認めてしまうところですが、でもここが錯覚というか落とし穴なのでは‥と思ってしまいます。
他のお寺はどうか知りませんが、私のお寺には、いたるところに折れ線グラフや棒グラフの大きな紙が張られていて、まるで営業所のようです。

仕事の場合、これはどうしたって、利益追求からは完全に逃れられませんから、数字がつきまとうのが現実ですね。それから逃げることは出来ないと思います。
だけど、信心の場合は本当に数字なんだろうかって、私はいつも疑問に思ってました。数字で、人のことが判断できるものなのだろうかって。むしろ数字が邪魔をして、人間性を考えることが出来なくなり、数字によって、盲信させられているんじゃないかって思うくらいです。
実際のところ、数字に煩わされるのは、会社だけでウンザリと言いたいところではないでしょうか。あっちの数字もこっちの数字もとそんなに背負えるものではないですから、結局はどっちかに傾いてしまうんですね。好きなほうに傾くものかと思いますが、信心で数字を背負ってしまうと大変なことになるかもしれません。お寺の中の人間関係に競争原理が働きますから、往々にして人間性を阻害させてしまう場合が多いです。また、仕事で数字が背負えなくなるので、生活が破綻する危険もあります。しかし、そのことを誰にも相談することが出来なくて、そうなってくると精神面さえ壊れてしまうかもしれません。何のための信心だったのかということになってしまいます。
私なんかは、信徒は数字を背負ってはならないと思うんですね。私も信心歴は短いものの、かなり危険領域にいたと思います。

結局、仕事の場合もそうかもしれませんが、数字って負うものではなくて、追ってくるものかもしれない、つまり後からついてくるものじゃないかなと思います。

260ワラシナ:2002/08/11(日) 12:02
「信者にとっての信仰と経済に横たわる深い問題 14」

−リベラル中間層の存在ー
0、前回13−5で、「組織活動にさめた態度で臨んでいた人々の価値があることをきっかけに分かりかけてきた」と書いたがそのきっかけを書く。

1、学会を自分から飛び出して妙信講に移ったわけが正本堂問題にあったから、御供養勧募の事情には前から興味があって私は知りたがっていた。ある日学会経由で顕正会に入った人から40年秋頃の体験を聞いてみたが、意外な感想に驚いた。一部マスコミで強調された狂気じみた募金獲得騒動をその人は「体験していない」というのである。何でも中堅担当幹部がの供養金獲得目標を無視して「配下の会員に決して無理をさせない」という自分流の基準で処した為無理をした金額ではなかったから「いくら出したのか覚えていない」というのである。だから、顕正会員として正本堂募金のあくどさをつい強調してしまいがちな自分は拍子抜けしてしまったのであった。
 その後この種の事例はほかにも聞いたことがあった。

2、大げさに言えば、学会では40年代に入ると旧リトアニア領事の杉原氏を小さくしたような英雄が組織の中に育っていたようなのである。こう考えてみて初めてつぶれるつぶれるといわれつづけてきた学会が今もって崩壊しない理由がわかると思う。表題の、自分の頭で判断するリベラル中間層がかなりいるからである、と考えられるのである。言い換えれば、組織体制べったりそうに見えて、普段は目立たない,低評価されている彼らではあったが、隠れたところでは立派な自己主張を貫き、長い目で見た時には組織の存続、世代間情報資産の継承といった課題に於いては、彼らこそが目立たないところで大きな貢献をしていた事になるのである。

3、このような見方は私たちと同時代に隣国共産中国で起きた権力闘争紛争である、「文化大革命」に乗せられてしまった事への反省が背景になっている。権力者が人生体験なき若者を政治権力闘争にあおり彼らから真の青春の楽しさ素晴らしさを奪ってしまった事への反省である。建前だけの急進革命派に長い間圧殺されてきた実権派の価値に気がついたからであった。
私には「正本堂問題」と「文化大革命」が重なって見えるからつい言ってしまうのである。

4、結局、どの集団,教団でもよいがリベラル中間層が育っているかどうかが大事なのだと思う。
(h14/8/11)


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