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素朴な疑問

173犀角独歩:2002/07/27(土) 22:10

> 171

なるほど。これは鋭いご指摘ですね。

他の書もざっと見てみたのですが、就註法華經口傳(御義口伝)の古写本が「(上巻)大石寺(下巻)要法寺」となっていますが、これは元亀の開版を指すのではないでしょうか。それとも元となる古写本があり、それまで石要で分けた保管してたというのでしょうか。疑わしいですね。

あと面白いと思ったのが『御講聞書』で、向師述なのに、要法寺(京)に古写本あり。これは身延にこそ、真筆があってしかりであろうに、真跡所在なし、「ああ、やはり」という感じでしょうか。

以前にも、問答名人さんと議論したところですが、御書全集に載らない所を富要から拾うとこれまた171のご指摘のような事態が明瞭になります。

血脉両抄・産湯相承事は全集にあるので、省きますが、重要相伝といわれるものを列挙すれば、

日蓮・御本尊七箇相承/房州日山
?・本尊三度相伝/水口日源
日蓮日興・寿量文底大事/房州日山
日興・上行所伝三大秘法口訣/要山日辰
?・三時弘教次第/筆者不明

となっており、主要な相伝書も石山に伝わるものがありません。
また、創価学会時代の御書学習会の延長かどうかしりませんが、真偽論考は行われない、いわば「素人騙し」のような有様は嘆かわしいものがあります。

余談ですが、せっかくの機会でしたので、山口師の『日蓮正宗史の研究』を再度、通読してみました。同師の人柄が偲ばれるソフトタッチの文の進みは好感が持てます。またその研鑽の深さはなるほど、人望を集めるに足る歴々たるものがありました。

『古文書会の一隅』というエッセイ風の文章はなかなかのものでした。そのなかに

鑑定。資料の真偽を鑑別するということは、最も重要なことである。古文書は歴史編纂の一級資料となる。けれども古文書であれば何でも資料になるということではない。古文書は“鑑定”という関所を通過してこそはじめて正史料になることができるのである(P13)

ごもっとも慧眼である。けれど、何故、これが二箇相承の上古二つの史料を挙げるのに少しも活かされていないのかと思いました。奥付を見れば1993年の発刊となっています。とすれば、頂師史料のことも、なおさら見聞・眼師の疑義も周知の事実であるのに、触れもしないというのは、自語相違と言われても致し方のない怠慢であると思った次第です。

こんな調子の石山教学、困ったものだと思いました。


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