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素朴な疑問

195アネモネ:2002/08/01(木) 23:52
孤独な迷子さん

>「当たらずと雖も遠からず」と言うところですね。

私、なんだかいきなり馴れ馴れしい言葉使いでレスしておりましたようで、大変失礼をいたしました。
私の入信の動機はいろいろな事情が重なったものですが、間違いなく当時の私も、親にすらさらけ出せない「孤独」を少しばかり抱えていました。だから、「孤独」という字に敏感に反応してしまったんですね。
私が入信して、変わったことがあるとすれば、家に御本尊さまがご安置され、それまでの「孤独」な心境が少しばかり変わったことでしょうか。入信間もない頃の私にとって、朝夕の勤行は、孤独である現実を忘れるかけがえのないひととき、やはり日蓮聖人とまみえるひとときと感じていましたね。だけど、そういうのは他の宗教でも同じでしょうね。神に祈れば、神とともに自分があると感じ孤独を忘れる。心の持ちようということからすれば、宗教にはそんな心の作用があるのだと思います。そうしたことは奇跡でもなんでもなくて、今でもそういうのは私は否定しないんですよ。
そういえば、奇跡など起きていない私の最初の体験発表とは、そんな心持ちになれたことを語ったものだったと思います。これが私の「初心の功徳」ではないかと締めくくりましたが、奇跡を語らない私の発表は、あまり歓迎されない異色なものだったようです。

>よく大百法等に体験発表の記事が掲載されるていますね。あれって事実なのでしょうか。

何かの偶然や巡りあわせを単純に結びつけていくと、奇跡のように語れるものではないかと思います。信仰に依らなくても、癌が消えた人はいますし、何も悪いことはしていないのに、不慮の死を遂げてしまう人もいますね。突然、愛する家族が通り魔に理由もなく殺され、突然人生が変わってしまった人もいて、「なぜ自分がこんな目に‥」と心がさいなまれる一方で、富士門の信仰では「過去世の業」と言ってしまう。簡単に結びつけて、因果を説いた気になっているわけですが、そんな言葉こそ、悲しみに追い討ちをかける、「言葉の暴力」以外のなにものでもないと私は思っています。

ワラシナさんが統計的な予測を書かれてましたが、恐らく信徒全体の四分の三は、苦しみの中にいるのが現実だと思います。世間の苦しみだけでなく、石山信心の重圧によって一層苦しみが深くなっているのが現状ではないでしょうか。

私のお寺のある人は、仕事の合い間の時間を使って、たくさんの人を折伏し、体験発表も多く語ってきています。必ず、折伏成就と結び付けているのは、仕事において営業成績が常にトップであるということなんですね。これだけを聞く限りでは、信心ゆえの奇跡と感じることでしょう。仕事を一生懸命にしなくても、信心活動第一に折伏をしていけば、自然と大きな契約が不思議ととれる。そんなことを結びつけて、何度も何度も発表されていました。
だけど、それは表向きのことなんですね。

営業成績トップであることは事実のようですが、信心の結果というよりも、彼女自身が仕事が好きで、人より努力を惜しまなかったからという当たり前の結果なんですね。しかし、そうしたことは体験発表の文面には入れないんです。その仕事への頑張りを精神的に支えたのは、信心であったことは嘘ではないと思いますが、必要以上のこじつけや誇張で、奇跡のように語られているものだと思います。体験発表の大半がそうではないかと類推します。また本人にしても、そのように結びつけて因果と思うことが習慣となって身についていますし、そのような信心の捉え方が大聖人の仏法だと疑うことなく書いていることでもあります。
しかし、現実的な問題としては、そう書かないと原稿のOKが出ないんですね。大白法だけでも毎月のように奇跡のような体験発表を読まされているわけですから、どのような原稿が体験発表としてふさわしいかは長年にわたって刷り込まれているわけですね。早い話が、暗黙のうちに書かされているのだと思います。


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