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素朴な疑問

181アネモネ:2002/07/29(月) 02:08
ワラシナさん

レスありがとうございます。何度も繰り返し読ませて頂きました。ワラシナさんがどれだけ純粋で、まじめな方なのか、その文面と内容からとても伝わってきました。少しご返信させて下さい。

>余裕のあるうちはやっていけそうでも、二者択一を迫られる局面になれば精神は破綻してしまう。

幼い子供に、「お父さんとお母さんのどっちが好き?」と聞くのと同じですね。もっと言えば、離婚するお父さんお母さんの目の前で、「どっちと一緒に暮らしたい?」と迫られ心を痛める子供の心理状態と同じですね。しかも、親の離婚に直面する子供の大半は、自分が悪い子だったからだと思い込み情緒不安定になる傾向が強いと聞きます。この状況にとても似ています。

>即ち敗北に等しい。これは四重にきつくて‥
>大部分の4分の3は失敗しているのではないか、と推測している。

本当に八方塞で心の逃げ場のない心理状態ですね。そして大半の信者は、その予備軍ですね。潜在的にたくさんいることと思います。

>在家も出家もそれぞれに相応しい本分が一つあれば沢山で、

仰る通りだと思います。あれもこれも信徒が背負わされてます。

>在家信者がそれを深刻的に目指そうとすれば必ず信心か仕事のどちらかが犠牲にならざるを得ない仕掛けになっている、と観察されたのである。

結局、ここのところのある意味での整合性から、在家教団における職業幹部が出てきたともいえるでしょうね。信心がそのまま職業になっていれば、理屈のうえで精神的破綻は回避されるわけですものね。

>すべて第一番に占められている状態が「信心第一の生活」なのである。
一体こうなった状態のどこに職業生活上の目標達成が第一順位に置かれていようか。

ワラシナさんはじめ、多くの真面目で純粋な信徒の方々の、これまでの苦しい葛藤の声を聞いた思いがします。

私のかつての地区長さんは、毎朝朝の勤行にお寺に参詣し、夜には会社帰りに一時間の唱題でお寺に参詣し、そして毎月月例登山に参詣し、そして毎月折伏をされてました。だけど、いつのまにか彼のもとからは、家族が離れていってしまわれたようです。それでも、信心活動のリズムは今も変わらず続けられ、先日、お寺の方のお葬式で久しぶりにお目にかかり、席が隣り合わせになりましたら、すかさず「30万登山に申し込んで下さい」と言われました。この方にとって、死者を見送る場さえもが活動の場になっていること、本当に哀れに思えてなりませんでした。

>これからは益々「職業生活上の充実」が必要になってきているのである。

私が御文を示すのは、本当に僭越ですが、
「御みやづかいを法華経とおぼしめせ。『一切世間の治生産業は皆実相と違背せず』は此なり。かへすがへす御文の心こそおもいやられ候へ」
私はここでの「御みやづかい」を、世間一般の労働を含めた生活の営み全てと拡大解釈してます。そうすると、二十四時間信心なんですね。本当の意味での信心即生活とは、これじゃないかと思ってます。お寺の方にもいつもそう言ってます。仏壇に向かっているとき、お寺に参詣しているとき、活動をしているときだけが信心じゃないってね。はっきり言うことにしてます。日蓮正宗の信心じゃないって言われますけど、気にしません。


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