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六巻抄について

1バックアップ:2002/02/19(火) 20:21

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/15(火) 22:12

名前: 独歩 投稿日: 2002/01/15(火) 21:44

さて、六巻抄の発題をさせていただきます。

「六巻抄は何を説こうとしたのか」

まず、この点をフリーハンドで論じ合いたいと思います。

2バックアップ:2002/02/19(火) 20:22

234 名前: tokumei 投稿日: 2002/02/15(金) 02:06

もう一つ。
 自然界にある素因数の暗号化では、17年蝉(ジュウシチネンゼミ)が有名です。この蝉は地中で17年を過ごし、やっと羽化して寿命を全うするのですが、なぜそんなことをするのか今以て不明です。ある説では、寄生虫を避けるためとしています。ここに、蝉を狙うライフサイクルの長い寄生虫が居るとして、地中に発生する時期をずらさなくてはなりません。寄生虫のライフサイクルが2なら、蝉は2の倍数を避けて地中に出ようとします。或は発生しようとします(つまり交尾)。最良の策は、割り切れない長い素数の年月を過ごすことです。17はどの数でも割り切れないので、寄生虫のライフサイクルが仮に2年としても34年間は同時発生することがありません。また、寄生虫はこの蝉に合わせようと毎年発生したとすると、16年間は顔を合わせないで待たなければならない。16年間、宿主のない寄生虫が生き延びるのは大変なことです。
そこで、ある時期にライフサイクルを17年に合わす可く、引き延ばし進化し続けて、16年になったとします。ところが16かける17では272年間は顔を合わすことがないのです。どちらにしてもこの寄生虫は絶滅したことでしょう。
 さて、私はこの無始から始まっての数と立宗の750年が何か関連がないかと期待しています。

3バックアップ:2002/02/19(火) 20:22

235 名前: Libra 投稿日: 2002/02/15(金) 02:27

 独歩さんへ

> やはり、反論されましたか。当然でしょうね(笑)

 申し訳ありませんでした。つい書いちゃいました(笑)。

> 実際、その実否はとことんやると六巻抄見直しスレッドからはみ出ますので、
> まあ、やめましょう。

 了解です。このスレッドのせっかくの話の流れを、私がおかしくしてしまっ
たようですね。申し訳ありません。

> 229については、少し休んでから後述します。

 私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。

4バックアップ:2002/02/19(火) 21:12

236 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:13

Libraさん:

> 仰りたいことは分かります。「相即」とか「空」とかいう考えは、正しく使
わないと、すぐにとんでもないことになってしまいます。

そう思います。

>  タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)

これはなかなか面白かった。タントリズムが仏教の最終形態でありながら、先祖帰りを通り越して批判しそうに戻ってしまい、ついには仏教とは言えないものになったという批判は、インド学などでも言われていたと記憶しています。なにせバラモンでは、司祭が祈りをやめると太陽も昇らなくなると人々は怯えていたし、死後、祈りを捧げられないと餓鬼となって、さ迷い歩くことになるなどと恐れられていたと言います。ですから、司祭は絶対的な存在で、崇められ恐れられすべてを委ねていた…、学会にいたとき、「先生に逆らうと地獄に堕ちる」と言われていて、石山に来たら「猊下に逆らうと地獄に堕ちる」と、こうなりました。この根源はブラフニズム的宗教観という似非仏教にあったのでした。曼荼羅はタントラですから、これを本尊と言ってしまえば、こういう誤謬は自動的に引き出されていくことになるでしょうね。

>  「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)

これも言えています。漢訳の問題、さらにインド人と中国人の根本的な思惟形態の違いも大きな原因にあるのでしょうね。さらに日本には日本教ともいうべき「カミ」という思想が生き続け、神道、仏教、キリスト教という宗教のなかに大きく生き続けています。この“引き算”をせずに語られることが余りに大きいわけでしょうね。
いちりんさんのサイトなどを拝見すると、しかし、こんな問題意識をもたれた方がいらっしゃるので、見識のある方は、やはり気付いていると思うわけです。
縁起・空という言葉を使えば大乗仏教だ、ではなく、その根本的な思惟が板につかないとだめだということでしょうね。しかし、「空」は本当にむずかしいですね。第一、「空」と文字に書いた瞬間、言葉で説明した瞬間に実在化が生じてしまうわけです。

>  しかし、だからと言って、「空とか相即などと言うのはやめよう」と言うわ
けにはいかないと思うのです。重要なのは、「相即」とか「空」とかいう考え
を〝正しく使う〟ということではないでしょうか。

そうですね。「言語道断・心行所滅(原語の道を断ち、心の業を滅するところ)」という限界を常に意識していくこと、まあ、厳格には正しく使えないという限界をまず知ることでもあるでしょうね。それでも正しく使おうと努力するしかありませんね。

> 「報身」についても同じように考えます。

ここは、まあ今後ともゆっくりと(笑)

>  〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存
   在しない。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現
   した時に「仏」はこの世に誕生するのである〟

Libraさんの常套句ですね(笑)
これがまた、無始のうえに五百塵点が置かれる意義であると考えています。

> つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」としてさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。

言われることは、わかるような気がします。すると、法性、真如と法身は違うということでしょうか。

>> 難しいことを書くこと自体、もう罪悪視するような傾向があります。
> これは実感としてとてもよく分かります(涙)。

仕様がないと思うわけです。釈迦滅後1000年(聖人の考えでは1500年)部派によって構築された膨大な概念を、さらに中国仏教の誤謬を、さらに日本教の混入を、さらには中世の汚染を、さらに現代思想の混入を選別していこうとするわけですから。まして法華経は難解難入といい、学ぶのに難信難解でありながら、随自意というのでしょうから。しかし、Libraさんもお感じになられると思いますが、この思惟は、実に興味尽きるものではなく、そして、楽しく、思惟するほどに心洗われ、わかるほどに元気の出る作業ですね。私にとっては生きがいです。

> 私ごときの愚考などは捨て置いて、本題の方を進めちゃって下さい。

何をおっしゃいますか。よろしくお付き合いいただければと存じます。

5バックアップ:2002/02/19(火) 21:13

237 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/16(土) 10:18

tokumeiさま:

数学から相承までですか。また、深秘を記号と。構造主義のようで興味が涌きます。
私の尊敬するある方は、当初、仏教を学んだけれど、さらに知りたくなって精神医学に転じました。その方の仏教の説明は実に説得力があります。

数学で仏教が説明できるとしたら、これはまさに永遠の真理たりえるでしょうね。思惟を期待します。

6バックアップ:2002/02/19(火) 21:14

238 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:11

独歩さま

ありがとうございます。

寛師説を聖人・天台の祖意から見直すという本来の目的感から自ら脱線してしまいました。ややこしくなるので、これらの点はまとめてあとで考えたいと思いますが、いかがでしょうか。

仰せのとおりです。六巻抄の見直しが主題ですので他日御高見を拝聴いたしたいと心から願います。

三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。

これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。

三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。

浅学でありますので、定見がないため、北川師の考えを記します。

「法華取要抄」には、三者三千塵点劫。諸京経或明。釈尊因位或三祗。或動喩塵劫。或無量劫也。 略 又諸仏因位与釈尊因位糺明之。諸仏因位或三祗或五劫等。
釈尊因位既三千塵点劫巳来。娑婆世界一切衆生結縁大士也。此世界六道一切衆生他土他菩薩有縁者一人無之。

これについて、北川師は「日蓮聖人教学の研究」で、過去三千塵点劫における釈迦菩薩と我々と法華経を媒介として必然的な関わりがあることを述べられ、釈尊が菩薩という因位において我ら衆生に法華経の縁を結ばれた 中略  本門寿量品において釈尊の果位として五百塵点劫が明かされる 
によったものを省略して記載したものでした。

「清澄寺大衆中」は身延曽存で石山系では真蹟に数えますが、他門下では別れています。やや慎重に扱いたいところですが、この文の「我」と「先」が何を意味するのかが問題になります。けれど、常識的に読めば寿量品の「我」、つまり、釈尊です。では「先」を“(五百塵点)以前”と読めば、無始古仏と整合性を示すことになりますでしょうか。

北川師は真跡主義をとられていると思います。曾存も含むという意味でもあります。
ここで北川師は、同遺文を踏まえ、「これらのことから聖人は五百塵点劫を始めがあり終わりがあるという常識的時間観念でとらえられていたのではなく、久遠無始と解釈されたのである。そのことを「開目抄」には発迹顕本によって釈尊の本因本果が明らかにされた次下に
九界も無始の佛界に具し、佛界も無始の九界に備わりて、真の十界互具、 一念三千なるべし
と断定されている。これは聖人が顕本された時間を久遠無始という観念で把捉されていたと推測できる。したがって五百塵点劫の意味は顕本の本、無始と同義に解釈されるべきものであろう。」と記載されています。

7バックアップ:2002/02/19(火) 21:15

239 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:36

独歩さま

つづき

久遠無始と解釈するのはよいのですが、では逆に、ならば法華経では、ここに敢えて五百塵点という表現を用いなければならなかったのでしょうか。

そうです。ここがまさにポイントです。独歩さまが御高見の一端を披瀝されましたので、浅学である私は、浅井麟師の論文、北川師の本では把握の仕方が異なるので、両氏の考えに対して是非とも独歩さまの卓見をお聞きしたいという趣旨で記載させていただいたものです。
無始の古佛という言葉は聖人に始まる用語ではないでしょうか。是非、日蓮教学の学識者の通説に対する独歩さまの御高見を批判的にお示しいただけるとありがたいです。

報中論三については、独歩さまの考えが正しいのかも知れません。要麟師は天台教学を踏まえた通説的説明をされていますが、独歩さまの仰せのように聖人にはそこまでのお考えはなく三身円満の釈尊というお考えだったとも思います。

聖人は「寿量品の仏」を正意の本尊とみなされ、三身ともに無始無終の佛格とみなされていた、それが久成三身すなわち無始無終という「一代五時鶏図」のお考えだったのでしょう。

すみません。私の定見がなく参考文献の引用になってしまっていまして。

無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか。そこのところを独歩さまの考えを中断させてしまいまして、申し訳ありませんでしたが、ここのところを平易にご説明願えれば幸甚です。

8バックアップ:2002/02/19(火) 21:16

240 名前: 独歩 投稿日: 2002/02/18(月) 14:56

無明さま:

> 無始の古佛と己心の釈尊が同一か異同があるのか…ここのところを平易…

端的に申し上げれば、この点を聖人は明確にされなかったのではないでしょうか。
もしかすれば、極一部のお弟子には明かにされておられたのかもしれません。しかし、確実な資料でそれを知ることができないのが現状です。

古仏について真蹟から拾えば

・三身円満の古仏(開目抄下)
・無始古仏(本尊抄)
・過去古仏

の三点のみです。無始無終の三身円満をもって古仏と記されていることはわかります。私自身は五百塵点成道の釈尊を本尊、無始の古仏を三身円満であると考えるのです。しかし、実際のところ、計り知れない過去にそのような仏が“居た”と言った実在性を議論すべきではなく、法華経の文から本尊を選定し、さらに三身古仏を己心法の中に観ていくことを聖人は記されているのではないのかというのが一応、結論です。
極端なことを言えば、永遠の過去に仏が居たか居無いかという実在論、いわば有論に執して論ずるべきではないのではないのかという思いもあります。

一念三千という止観によって観る仏法界は、しかし、印度応誕で観るべきではなく、五百塵点の成道の仏と観、さらに無始三観円満古仏を観法したという聖人の思惟が披瀝されたものであるいうのが私の現段階の結論です。

10無明:2002/02/21(木) 12:16
独歩様

有難うございます。上記について拝見致しました。

執行海秀師の「日蓮の観心本尊抄に現れたる佛身観」から引用します。

「壽量品に現れたる本佛とは何ぞやと云うに、それはかの「諸法実相抄」に云うがごとき凡夫の当体を直ちに本佛と云うのではない。
それ(本佛)はあくまで我等凡夫の父なる客観の佛を指すのであって、しかもそれを本尊とするのである。
即ち、父子一体、佛凡一如の事一念三千の妙法蓮華経を説いた本門の教主釈尊こそ、久遠実成の本佛であって、我等の信仰すべき主師親三徳有縁の本尊である。」

「しかるに「諸法実相抄」「授職灌頂口伝抄」等においては無作顕本を論じて、観心の立場においては、客観の久遠本佛とは即ち自己主観の顕れであって、自己にほかならないと云うのである。
「本尊抄」においては、観心の場合、己心に客観の久遠本佛を具足することは説くも、これをもって直ちに自己即本佛なりと云うのではない。ただ観心の世界においては、客観の本佛が、自己と没交渉に在他のものとして存在するのでなく、自己の中に本佛が影現し、己心に本佛の顕現を味識するのであって、いわば本佛と自己との父子一体の関係を体認することなのである。
即ち観心本尊とは、客観の本仏を信仰の世界に自己との関係において見出したものと云うことができよう。」

「ゆえに「本尊抄」においては客観的な本門の本尊の外に主観的な観心の本尊を説くのではない。
従来、「本尊抄」によって己身本佛己心本尊を説くがごときは、観心をもって直ちに本尊と解したがためであろう。もっとも本抄に
   我等己心本尊五百塵点乃至所顕三身無始古佛。
と云い、また、
   佛既過去不滅未来不生所化以同体此既己心三千具足三種世間也。
と云う文によって、己心本尊を主張せんとするものである。
しかしこの文はあくまで在他の本佛の存在を認めた上で、これが自己の己心に具足することを述べたのであって、しかもかかる観心を直ちに本尊とするのでないことは、前述したごとくである。
即ちかかる観心は佛の悟りの世界に現れた事一念三千であって、これは本門の題目として信受すべきものなのである。」

11無明:2002/02/21(木) 12:18
続き

「しかして「観心本尊抄」に説く観心本尊とは信仰の世界に現れた「久遠実成の本佛」にして、これを「本尊抄」には『五百塵点乃至所顕三身無始古佛』とも、或いは『五百塵点已然の佛』とも云うのであって、いわゆる「本門の教主釈尊」であり、更に剋実して云えば「本門の観心たる妙法蓮華経の教主釈尊」を指すのである。」

「これは「開目抄」に『壽量品の佛』と云い、『久遠の佛』と云い、或いは『久遠実成の佛』と云う佛にほかならない。 中略 「観心本尊抄」に現れた日蓮の佛身観は「開目抄」の佛身観と全く同一基調の思想に立つものと云うことができる。」

「中古天台の説く佛身観は、法界縁起の一大円佛論であり、あるいは唯心縁起の理神論である。
ところで「本尊抄」に現れたる佛身観は、かかる一大円佛でもなく、また理神的存在でもない。
それは我等の己心に内在して、しかも相対的に絶対者として、超越的に存在する事佛であって、帰依渇仰すべき対象である。
しかしてこの本仏を「我本行菩薩道」の誓願に酬いて無始以来より三世成恒に、毎自悲願の救済を垂れて止まざるところの、久遠実成の佛であると見るのである。」


山川智応師の「日蓮主義の信仰」から引用します。

「日蓮聖人の教義は、理よりも事を重しとし、法よりは佛を重しとする。そしてその佛は無始の佛である。天台の云うような五百塵点劫の始覚という始めのある佛でなく、無始無終の佛である。そこに旨帰がある。」

12無明:2002/02/21(木) 12:24
独歩様  

無始古仏に関して学識者の論説を紹介してきましたが、この過程で顕本論や三五塵点についての考え方が実に様々であることがわかりました。また、この過程で真跡主義の重要性(望月師も真偽未決の遺文の扱いにやや難がある等)、中古天台本覚思想が石山だけでなく朝師、導師等に大きく影響していることがわかりました。その事も含めて独歩様の「試案」(己心の釈尊と無始古佛の立て分け)については大いに刮目していますし、このような考えについて私なりに理解を示しているところであります。
非常に有意義でした。心から感謝申し上げます。

しかしながら、「六巻抄」の検討が立宗七百五十年の今、極めて重要ですので、本件については、もしよろしければ、この辺で終息させて頂き、次に進んで頂ければ幸いです。
引き続きロムをしつつ学ばせて頂きます。

13無明:2002/02/21(木) 12:28
問答迷人様

無始古仏で時間をとってしまい大変失礼致しました。
次の問いが既に問答迷人様から発せられておりますので「六巻抄」の検討を再開願いたいと思います。引き続きロムをしながら学んでいきたいと存じます。
そして、適宜独歩さま、問答迷人さま等のお考え等について質問をさせて頂ければうれしいです。
「六巻抄」の検討は本当に重要だと思っていますので、よろしくお願い申し上げます。

14問答迷人:2002/02/21(木) 14:23

無明さん

とんでもありません。一番突っ込んだ疑問点なのでしょうね。私もよく勉強させていただこうと思っています。先に進んだ場所で、又、この問題が浮上してくる局面が、きっとあると思います。その段階で、又新鮮な視点をお示しいただけるとありがたいと考えています。それから、別に、このスレッドは、六巻抄のみ限定のスレッドという訳でもありませんので、一見関係無いような論点でも、後々に大きく影響してくるものだと思います。無明さんの、これからの六巻抄見なおしの議論への御参加を御願いする次第です。

15独歩:2002/02/21(木) 18:48

無明さん:(どうやら、こちらでは「さん」付けがコンセンサスとなったようなので、私も準じることにしました。今後は、私にもどうぞ「さん」で、お願いいたします)

無始古仏の問題は、まだまだ詰めるるべきところは多いにありますが、六巻抄の見直しをスレッドのテーマとしているので、ご提案のとおり、前に進めさせていただきたく思います。なお、引用される執行師の見解は大部、私は賛同しているものです。

いずれにしても、直ちに結論に至り無始を論ずるのではなく、有始を基に無始に迫るという思考階梯が重要であろうかと存じます。これはまた、四句分別と言った思惟法に順ずるべきであるという点をロムの皆様に締め括りとして、申し添えさせていただくものです。

16問答迷人:2002/02/27(水) 13:38

独歩さん 御質問です

【第七に種脱相対して、一念三千を明かすを示すとは】の段の

日寛上人が何れの文底に一念三千が沈められているかと言う設問において、

『師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。』

と述べていますが、この原文は、何処にあるのでしょうか。原文に当れません。

17独歩:2002/02/27(水) 16:12

問答迷人さん:

> 師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。』
と述べていますが、この原文は、何処…

実は私もわかりませんでした。当流の深秘の相伝だというのではないでしょうか。

早坂師は、この文に

「本因初住」では、本因の菩薩の位の事であり、
我本行菩薩道所寿命。今猶未尽。復倍上数。
と、説かれる本因妙のことであり、「文底」の意味不明瞭ではないか。
寿量品で一念三千の理論が完成するのは、国土世間が明示されてからである。このことからすると、問いの答えに該当せず、日寛の的外れの解釈である。(『六巻抄』に関する一考察(530頁)

と難じています。
この批判は的を得ています。そもそも「本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給え」とはなんでしょうか。本因妙の「我本行菩薩道所寿命今猶未尽復倍上数」の菩薩という菩薩を現す文の底に名字妙法事一念三千が秘沈しているというのでしょうか。これでは国土世間によって殊極まるはずの事一念三千がそれ以前に成じていることになります。本迹勝劣を高飛車に述べながら、これでは本迹一致とすら見えます。寛師教学は天台の本・事を迹・理とし、ただ聖人のみが真の本・事であるというのに、あにはからんや、国土世間を待たず

また、続く名字妙法事一念三千とは、すでに天台の事一念三千ではなく、寛師己義の一念三千なのでしょう。名字即究竟を説明しているのでしょうが、そもそも、その根拠が曖昧で単に「こっちは五十二位なんか経なくても直達正観」だと掛け声があるばかりです。

それで、言われるところは、この事一念三千とは久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人、即戒壇之本尊、こう信じれば、名字即究竟、直達正観で即身成仏だという枠組でしょう。
名字の言をもってきて、下種にかけるわけでしょうが、実際、この結縁とは久遠元初ではなく、明らかに五百塵点劫であるというのが寿量品の説相です。ここでも矛盾しています。

このような「深秘の相伝」と言われるものは、聖人の教えと違背し、かつ天台の説とも違い、さらには寿量品、すなわち、釈迦牟尼仏の説相とも違う、久遠下種そのものを改変したものであるというほかありません。。

18問答迷人:2002/02/27(水) 17:25

独歩さん

それでは、本国土妙の「娑婆世界常説法教化」の文底という事でしょうか。

19独歩:2002/02/27(水) 18:27

問答名人さん:

>18

まあ、どうでしょうか。聖人の仰せのまま、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底」ではないでしょうか。本因妙・本果妙・本国土妙の三妙は合論ですから、切り出すと部分観になってしまいますね。

それを「本因妙」にこだわるのは、つまり菩薩道、上行菩薩への導引のためではないでしょうか。「上行菩薩、即日蓮は本仏である」これを言わんがためと思えます。さらに凡夫即極、人界まで仏を引き下げる理由は、結局は法主(石山住職)絶対を鼓舞する足がかりなのしょう。

以前、早坂師の講義を一度だけ聴いたことがありますが、「本因妙の教主って、おかしな言葉ですよ。本因は菩薩なんだから教主のわけはないでしょう。教主だったら仏じゃなくちゃおかしい」そんなことを話されていた。

私は、細かい点で、早坂師とは、ぜんぜん考えは違うのですが、こういう当たり前の視点というのは本当に大切であると思っています。

それを深秘だ、相伝だとやって、「この御書の釈迦とは日蓮大聖人と読まなければいけない」とか「この御本尊というのは戒壇之本尊ということだ」と、すべて日蓮本仏、人法一箇で説明する、これは、もはや病気です。石山の開目抄解釈というのは、手前勝手な読み替えによって、煙に巻き、まっすぐに読めば、素直にわかることを、まるで見えなくしてしまっています。心の目を閉ざさせて、ひとり石山の言うがままに信じ込ませようとする作意に充ち満ちています。もちろん、私はけっして目の不自由な方を差別する気はありません。心眼ということに限って申し上げることです。

20問答迷人:2002/02/27(水) 19:16

そうすると、三重秘伝抄で言えば、

『有るが謂わく、通じて寿量一品の文を指す、是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕わすが故なり。』

が正解と。そうですね、それが一番素直であると思います。ひねくり回すと、訳が判らなくなってしまいますね。了解です。

21問答迷人:2002/02/28(木) 08:15

独歩さん

次ぎの【事理の一念三千を示さば】において、「本門を事の一念三千と名づく是因果国に約して此れを明かす故なり」と述べた後、当流の秘伝として、文底独一本門が別にある、という展開になっています。逆に捉えれば、日寛上人も、三妙合論を以って、事の一念三千が明かされたという立場を一応は踏襲している事が判ります。この場合、何れの文底かと言えばやはり、寿量品一品の文の底に一念三千が沈められている、という意味と思われます。

さて、問題の、文底独一本門ですが、『独一本門』という言い方には、何か由来するところがあるのでしょうか。いかにも、、唐突な感じがしますが。

22独歩:2002/02/28(木) 10:38

問答名人さん:

「文底独一本門」、これがまた、観念文では「人法一箇文底独一本門戒壇の大御本尊」となってきて、石山僧俗には意味は知らずとも、毎日、誦する常套句となっていくわけですね。

「本門を事の一念三千と名づく是因果国に約して此れを明かす」とは、天台の教判に、まあ忠実なのでしょう。本尊は五百塵点成道・教主釈尊(人=仏)、法は事一念三千、しかし、となるべきところが、人(日蓮)法(戒壇之本尊)へと、いきなり飛躍しています。で、独一であると、まあ、独一でしょう、こんなことを言っているのは寛師とそれ以降の石山ばかりですから。

ところで、因果国とは菩薩道・成仏・娑婆世界とは五百塵点を指しているわけです。しかし、石山教学では、久遠元初当初(そのかみ)を言うのであって、これは因果国の五百塵点已前を指しているわけです。つまり、当初思想は五百塵点成道を簡んでいるわけで、この点で成道論が二つになっており、これは現在も2種の日蓮本仏論が立ち混乱の原因となっています。

なお、一念三千が、即自受用報身如来とするのが中古天台本覚思想の説であって、独一でありません。ただ、それを天台ではなく、日蓮とするところで、独一となるのでしょう。
これしかしながら、いくら相伝だと叫んだところで、その原形が天台の変形亜流である恵心流口伝法門にあるのでは独一も、当流の秘伝とも言えないことになります。

まさに仰るとおり、唐突という感は否めません。

23独歩:2002/02/28(木) 10:43

既に問答名人さんにはご紹介しているところですが、ロムの方のために、恵心流口伝法門の焼き直しであるという点について、早坂師の指摘を挙げておきます。
↓以下をご覧ください。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

24問答迷人:2002/02/28(木) 12:46

独歩さん

なるほど。そうすると、独一には、由来するところがあり、それは、中古天台の恵心流口伝法門である、という事になるわけですね。それでは、日寛上人が「師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法……」という時の師とは、どなたなのでしょうね。変な話という事になります。


>ところで、因果国とは菩薩道・成仏・娑婆世界とは五百塵点を指しているわけです。しかし、石山教学では、久遠元初当初(そのかみ)を言うのであって、これは因果国の五百塵点已前を指しているわけです。つまり、当初思想は五百塵点成道を簡んでいるわけで、この点で成道論が二つになっており、これは現在も2種の日蓮本仏論が立ち混乱の原因となっています。

他スレッドで、この点はすでに議論されてきた事ですが、『久遠元初当初』という表現がこの段に現われていますので、簡潔に、二つの日蓮本仏論を整理していただけませんでしょうか。

25いちりん:2002/03/01(金) 00:16

「本因」とは、すべての原因、第一原因というような意味でしょうかね。
もう、これ以上の原因はない。究極の原因である、と。

26tokumei:2002/03/01(金) 05:50
>>19
以前、早坂師の講義を一度だけ聴いたことがありますが、「本因妙の教主って、おかしな言葉ですよ。本因は菩薩なんだから教主のわけはないでしょう。教主だったら仏じゃなくちゃおかしい」そんなことを話されていた。
********
とありますが、以下のような文獻があります。
寛記雑々
   蓮祖は本因妙の教主なる事
問ふ、凡そ教主とは但三界の独尊を指すべし。何ぞ蓮祖聖人を以て、教主と名づくるや。
答ふ、末法下種の三徳有縁の師なり。何ぞ教主と名づけざらんや。況んや復台家に於て智者大師を以て教主と為す、真言に於て善無畏三蔵を以て教主と為す。何ぞ但吾宗を難ずべけんや。
問ふ、証文如何。
答ふ、止一【初】に云く、止観明静前代未聞智者大随の開皇十四年四月廿六日より荊州玉泉寺に於て、一夏敷揚し二時に慈霑したまへり【文】。弘一上【八】に云く、止観の二字は正しく聞体を示し、明静の二字は体徳を歎ずるなり。前代未聞とは能聞の人を明し、智者の二字は即ち是れ教主なり。大随等とは説教の時なり【文】。故に知んぬ、台家には智者大師を以て教主とするなり。
釈書一【十】に云く、善無畏とは甘露飯王之裔なり。唐開元四年【丙】辰長安に至る、玄宗預め真儀を夢む、入対するに●び、夢と異なる無し。大いに悦んで西明寺に館し、崇めて教主となす【文】。宋高僧伝第三無畏伝に云く、開元の始め玄宗夢む、真僧と相見ゆ、丹青に御して之を写す。畏れ此に至るに及び、夢と符号す。帝悦んで内道場を飾り教主となす【文】。真言宗には無畏を以て教主とする事明かなり。
   追
補注十二【十四】に云く、且夫れ儒者は乃ち三皇五帝を以て教主と為す。尚書の序に云く、三皇の書、之を三墳と謂ふ、大道を云ふなり。五帝之書之を五典と謂ふ、常道を云ふなり。此の墳典を以て天下を化す。仲尼孟軻よりして下は但是れ儒教を伝ふるの人なるのみ。尚教主に非ず、況んや其の余をや。
御書九【十八】に云く、儒家には三皇五帝を用ひて本尊と為す【文】。
華厳宗には浄源法師を以て、中興の教主と名づくる事、統記卅【十一】往見。

27独歩:2002/03/01(金) 07:37

問答名人さん:

> 簡潔に、二つの日蓮本仏論を整理

大きくは二つであると思います。一つは日蓮と釈尊を同一者とすること、もう一つは日蓮を釈尊の師とし、別者とすることです。

いみじくも26にtokumeiさんが引いている『寛記雑々』に

「蓮祖は是れ釈尊のこと」(富要3-313)

といいます。ところが『日蓮正宗要義』では

本門の釈尊と雖も…文上の仏、永遠に即する当初に一人の聖人あって…根本の仏こそ日蓮大聖人(96頁)

もちろん、この二つは五百塵点を無始と解すれば等価となり、本(日蓮)迹(釈尊)、体(日蓮)用(釈尊)の現われということにもなるでしょう。

なお、日蓮本仏論の濫觴という有師は「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」といい、戒壇之本尊と聖人の一箇論にはいたっておらず、寛師の本仏論は区別すべきであろうと考えます。

28独歩:2002/03/01(金) 07:48

いちりんさん:

「本因」というのは、つまり、釈迦が成仏することができた根本の因ということなのだと思うのです。つまり、「菩薩道」であると。

ところが、日蓮本仏論では、たとえば、『当体義抄』の

至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す

などといい、さらに『三世諸仏総勘文廃立』に

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき

と言って、この本因を簡び、斥けて、即座開悟を言い出すわけです。しかし、この書では、まだ即座開悟は釈迦如来であるとするのに、現代石山教学では、27に引くとおり、その釈迦如来を簡び斥けて、日蓮を本仏、あるいは体の仏である言い出したわけです。

寿量品の本因は潰え、当初(そのかみ)の即座開悟、つまり、本因説を破るとともに、寿量品の説相にも違反する、途方もない珍説であると考えます。

29独歩:2002/03/01(金) 08:02

tokumeiさん:

引用される『寛記雑々』の教主説は、寛師のまったく己義でしょう。聖人の説とは違います。真蹟遺文を追って見ればすぐにわかりますが、聖人は「教主」の語彙を釈尊に使うのであって、その他、阿弥陀、大日にも断りを入れて使われますが、いずれにしても教主を仏以外に使用されていません。

なお、引かれる雑々にいう「夫れ儒者は乃ち三皇五帝を以て“教主”と為す」は、たぶん、開目抄の文を引用しているのでしょうが、この原文は

儒家には三皇・五帝・三王、此等を“天尊”と号す

です。つまり、寛師は故意に天尊を教主と言い換えて、日蓮教主説の論拠しています。このようなことは寛師には見られるのであって、この点、十分に注意を払う必要があります。

30問答迷人:2002/03/01(金) 23:05

独歩さん

>一つは日蓮と釈尊を同一者とすること、もう一つは日蓮を釈尊の師とし、別者とすることです。

了解です。そうすると、日寛上人は、この二つの、日蓮本仏論をどのように統合したのでしょうか、或いはしていないのでしょうか。


もう一つ、お伺いします。次ぎの、【第八に事理の一念三千を示さば】に踏み込みますが、本尊抄の、

「一念三千殆ど竹膜を隔つ」

の文を引いて、日寛上人は、独一本門の存在証明にしています。日寛上人の説(理の一念三千と事の一念三千の差は、大変な隔たりがあるのだけれども、文底独一本門から見るとき、その差は、竹膜ほどの僅かな相違になってしまう)に拠らず、本来の聖人の祖意に戻って考えるとき、この『竹膜を隔つ』とは、如何なる意味でしょうか。

31独歩:2002/03/05(火) 09:28

問答名人さん:

少しご無沙汰しました。

> 一念三千殆ど竹膜を隔つ

ご指摘を受けて、改めて「竹膜」が寛師教学でここまで強調されて、使われていることに改めて驚きを禁じえないところがありました。
かなり前にも記したことですが、「一念三千」というのは釈迦牟尼仏、法華経を説いただけでは闡明にならなかったのであり、結局、天台の出現を見て、世に現れた法門であるというのが“法華宗”としての聖人のお考えなのであろうと思います。つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。

ですから、法華経に寿量品が説かれても、その経文だけで読めば、一念三千が沈んでいることはわからないけれど、国土世間まで説かれるのであれば、もう、まさに竹の節目の間にある膜一枚ほどまでぐらいまで、経の文の上からは読めないけれど、迫っている、それほどのことを表すばかりの意味ではないのでしょうか。

32tokumei:2002/03/05(火) 16:40
>>31つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。

なるほど、ひとによって一念三千が違うのですね。
すると・・・一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説(教義)なのでしょうか?

本因の教主が存在すると考えなくては理解できないほど現在の科学者は混乱しています。
というのは、科学者は大体がキリスト教徒なのですね。この辺が科学の限界です。理解できないことは神の意志として片づけてしまうのです。もっとも、比喩的に神の意志というわけで、実際に神が居るのか、偶然の産物なのかは判断不能です。
たとえば、宇宙はホットビックバン理論で膨張を続けることがわかっていますが、宇宙が生まれる初期状態を生み出す確率は(100×10000の1)×100分の1(記述しにくい(笑) と言う確率です。つまり、宇宙爆発が起こっても、その宇宙が成長を続けて宇宙になる確率はそれだけすくない、極めて偶然性の高い産物で、ほとんどあり得ない確率です。
本因の教主が法であるか人であるかは存じませんが、私は生まれることが出来て有り難いと思います。
それはそれとして、この膨張の先には、膨張を続けるか縮小に戻るかまだ意見が分かれています。かりに縮小が起こるとして、縮小に反転すると、宇宙から時間概念が無くなってしまいます。これはどう言うことかというと、可逆性と非可逆性という問題で、ビデオテープの逆再生が可能である状態では、起きた事象が過去であるか未来であるかが判別できないのです。
何も知らないでビデオを見た人はどちら向きに回っているかわかりません。これは鶏が先か、卵が先かという問題です。
さて、そうすると本因の教主は過去の人なのか、未来の人なのか、わからないのですよね。これは今現在が久遠であるか末法であるか判別不能であることとよく似ていると思います。

33独歩:2002/03/05(火) 18:10

tokumeiさん:

> 32

お書きになられるような現代科学と仏教を同列に論じることは、わたしは無意味であると思っています。また、久遠仏は天地創造、全知全能といった類の超越的な存在ではないでしょう。

> …一念三千とは宇宙に存在する真理なのでしょうか?それとも誰かが説いた仮説

このような疑問を立てられる人は、たぶん一念三千の出所であるとされる『摩訶止観』を読んだうえでの一念三千理解ではないのでしょう。

その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。

また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、

摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)

というのです。

「一念三千は真理」であるとか、宇宙の法則などというのは、そもそも原文を読まずに徒に神秘化した結果であろうと、私は思います。もちろん、tokumeiさんは、疑問形で書かれているので、そう思われていないのだろうと拝察します。

34独歩:2002/03/05(火) 18:10

tokumeiさん:

書き忘れました。「本因の教主」とはなんでしょうか。

35tokumei:2002/03/05(火) 18:59
つぶやきに書き込めば良かったのでしょうか。どうやらスレッド違いのようで申し訳ないですが、

>「本因の教主」とはなんでしょうか。

この板と御書に出てくる用語として使いました。独歩さんはきっともっと根元的なことを言われているのだと思いますが

>>31つまり、その対比は釈迦の法華経、天台の一念、日蓮の題目という関係です。
>>33その正体は止観(禅定)における観法なのであって、いわゆる真理であるとかなんとかということとは無縁でしょう。つまり、我が心、就中、仏の己心を三千の法と観るということでしょう。すなわち「説己心中所行法門」です。

少し異同があるようにおもうのですが、結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?

36問答迷人:2002/03/06(水) 07:55

独歩さん

なるほど。竹膜というと、理の一念三千と、事の一念三千との隔たりの事だと刷り込み済みなので、文上の法華経と文底の一念三千との隔たりとは考えも出来ませんでした。確かに、本尊抄の文は、その様に読めば、何の抵抗もなく、ストンと心に落ちてきます。了解です。しかし、日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたものですね(笑)。

37独歩:2002/03/06(水) 11:50

tokumeiさん:

> 結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?

まず、このご質問に答える前に、私の書き込みの基本姿勢をもう一度、記します。
私は750年間の間に聖人の教えがいろいろと解釈され、偽書が捏造されて、その祖意がわからなくなっている、だから、まず「聖人の祖意は何であるのか」、この点を闡明にしよう、個々がスタート時点であると書きつづけてきたのです。

その結論から申し上げて、少なくとも聖人と興師の教えに「本因(妙)の教主」という考えはないはずです。それと聖人の説は天台とは何ら矛盾しないと私は考えています。

しかし、聖人は「止観(禅定)ではなく唱題行ではないか」という疑問は生じるかもしれません。この点を本尊抄に

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。

というのは、止観の否定ではなく、さらに簡便な修行法の提示であったと拝しています。つまり、法華経において五種法師、四安楽等の修行、止観に一念三千の観法(実際は不可思議境まで考慮すべきですが)、聖人において唱題といい、つまり外適時宜ということで、それぞれを否定する関係ではないと考えるのです。

ですから、tokumeiさんが「異同」とする点は、私は異同とは感じません。唱題行自体、止観行であり、五種法師その他の修行の意義を含むと思うからです。

ただ、私が記したのは一念三千は真理であるなどということではなく、止観行において、己心に十法界を観、さらに十如、三世間と観る禅定における観(十)法(界)であると記したのです。

38独歩:2002/03/06(水) 11:51

問答名人さん:

> 日寛上人も、随分と御苦労されて、ひねくり回されたもの…

まったく仰るとおりであると(笑)

39tokumei:2002/03/07(木) 00:04
>>33また、『摩訶止観』とは関口真大師の言を籍りれば、
摩訶止観10巻は、仏教史上にあらわれた最大かつ最も懇切な座禅の指導書であり、すなわちまた禅の指南書である(岩波文庫9頁)

と、かようにおっしゃるので独歩さんは禅宗の人かと思いました。

40独歩:2002/03/07(木) 01:25

tokumeiさん:

> 関口真大師…独歩さんは禅宗の人

そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)

41tokumei:2002/03/07(木) 02:25
>>40そうですか。では、一念三千を引く日蓮聖人は天台宗の人ですか(笑)

違うでしょう。独歩さんの理論では禅宗でしょう(笑)

43問答迷人:2002/03/08(金) 22:46

tokumeiさん
独歩さん

禅宗とか、天台宗とか、何か、難しすぎて良く分かりません。まぁ、この辺で、次ぎに進めさせていただきたいと存じます。よろしくお願い致します。


【第八に事理の一念三千を示さば】

問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。

人法体一、というのは、普通は無いですよね。法を師として仏に成る事が出来るわけですから、当然、法が勝れ、人が劣る。ところが、ここでは、人法体一であると。それが、事の一念三千であり、文底独一本門であると。寛師が、このように断定すると、何か、それが本当の様に聞こえるから不思議です。

そもそも、釈尊の教えに、人法体一とか、人法一箇なんて教えがあるのでしょうか。

44独歩:2002/03/09(土) 00:21

問答名人さん:

> 43

まさに、そうですね。人法ではなく、仏法であるはずです。
ただ、人法ということは他宗でも言い、日本仏教に共通した成句ではあるようです。それを使い恒一、体一、一箇とやるところが寛師ですね。

私が、いちばん指摘したいのは、そもそも寛師がいう法とは法ではないという点です。
人法一箇というとき、人とは日蓮、法とは戒壇之本尊(曼荼羅)というのが寛師です。
しかし、文字として板、あるいは紙幅に書き記されたものが法そのものでしょうか。文字即実相と言えばそれまでですが、しかし、文字を直ちに法というのは空・縁起という大乗仏教の指標と真っ向から対立する実在論(有論)でしょう。

天台は破法偏に

因縁生の法は即空即中にして心行の処滅し言語の道断ず(心行処滅・言語道断)

というのであって、そもそも言葉・文字で表わせないのが法です。それなのに、寛師においては法が板曼荼羅という実在化されているとする点で、もはや仏法の法から逸脱しているわけです。もちろん、人を日蓮に配当する、天台勝釈尊劣を焼き直した日蓮勝釈尊劣という日蓮本仏(示同凡夫=人、凡夫本仏論)の過ちは既に指摘してきました。

45問答迷人:2002/03/09(土) 09:18

独歩さん

ところで、法華経では、妙法蓮華経とは、本門の教主釈尊を指しているのではなかったでしょうか。もし、そうなら、法華経においては、人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事ではないのでしょうか。

46独歩:2002/03/11(月) 07:20

問答名人さん:

> 人=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、人と法は実は一つだ、という事…

私は、このように拝さないのです。拝するとすれば、仏=本門教主釈尊、法=妙法蓮華経で、つまり、仏・法であろうかと思うのです。
聖人の真蹟を追えば

寧(なん)ぞ人法を謗じて殃(わざわい)を招かんや(秀句十勝抄)

と見られるのですが、この「人」は仏を意味するもののように思えません。
仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのかと、私は疑っています。

47問答迷人:2002/03/11(月) 08:36

独歩さん

>仏法=人法とみていくのは、やはり、凡夫本仏論などの本覚的な発想なのではないのか

あっ、気がつきませんでした。仰る意味、判ります。知らず知らずに、「人法」という用語に引きずられて、本覚思想的発想をしてしまっている、というのは実に恐ろしい事だと思いました。やはり、何事も、聞いてみないと判らないものです。Sさんが、カルチャーショックと言われてましたが、いまさらの様に、話し合う事が大切だと思いました。ありがとう御座いました。

48問答迷人:2002/03/14(木) 08:06

【第九に正像未弘の所以を示さば】

日寛上人は、次ぎの本尊抄の文を引いて、迹門、本門、観心が、それぞれ、三重秘伝の第一権実相対、第二本迹相対、第三種脱相対に該当すると述べています。

『問うて曰く、竜樹・天親等は如何。答へて曰く、此等の聖人は知って之を言はざる仁なり。或は迹門の一分之(これ)を宣べて本門と観心とを云はず』

この本尊抄に聖人が、迹門、本門、観心、とりわけ、『観心』と述べられた事は、何を意図されているとお考えですか、お伺い致します。

49独歩:2002/03/15(金) 12:20

問答名人さん:

「観心」、難しい問題ですね。本尊抄の題号の読みとも関わりますね。
まあ、「観心の本尊」で「“の”の字が大事」、「観心とは信心」「受持即観心とは、受持即信心」などというのですが、実際は、どう読むべきなのでしょうか。また、本覚思想との関わりからは、どう考えるべきなのか、問題は山積みですね。

本尊抄であれば、

観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり

とあるばかりです。となると、この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てるというのが、趣旨ということになるのでしょうか。

いずれにしても寛師が観信を信心と読み替えるのは、なかなかにくいアイディアではあるけれど、聖人が仰るのは、やはり、本尊抄の文面の範囲で考えるべきであると、私は思うのです。

50独歩:2002/03/15(金) 14:05

49の訂正

誤)寛師が観信を信心と読み替えるのは
正)寛師が観心を信心と読み替えるのは

51問答迷人:2002/03/16(土) 07:51

独歩さん

聖人が観心について述べられている真蹟御書を三箇所、挙げて見ます。

法華題目抄(文永三年一月六日 平成版御書357頁)  
法華経の時迹門の月輪(がつりん)始めて出で給ひし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提も未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是偏に妙の一字の徳なり。迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、合せて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合せて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合せて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。

報恩抄(建治二年七月二一日 平成版御書1034頁)
陳(ちん)・隋(ずい)の代に天台大師出世す。此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末(すえ)、数千万人時をつくりどっとわらふ。

白米一俵御書(弘安三年 平成版御書1545頁) 
たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心(かんじん)の法門なり。観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理くやう(供養)、止観の第七の観心の檀はら(婆羅)蜜と申す法門なり。

52問答迷人:2002/03/16(土) 08:23

つづきです。

法華題目抄の文では、「迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。」と述べられ、報恩抄の文では、「天台大師出世す。此の人の云はく、…或は本迹あって観心なしといゐしかば」とそれぞれ述べられ、『迹門』『本門』『観心』を三本柱とされています。さらに、白米一俵御書の文では「観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。」と述べられています。

これらを綜合的に考えてみると、『観心=聖人の独自法門』という解釈は出来ず、本尊抄の文は、独歩さん仰るように、そのままの意味で「この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てる」と捉えるのが正解であろうと、私もそのように思います。

そうすると、結局、教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる、という事なのでしょうか。

53顕正居士:2002/03/16(土) 12:47
日蓮五大部の『觀心』用例

一「本尊抄」
1-問曰。出處既聞之。觀心之心如何。答曰。觀心者觀我己心。
見十法界。是云觀心也。
2-問曰。龍樹天親等如何。答曰。此等聖人知而不言之仁也。
或迹門一分宣之不云本門與觀心。
二「開目抄」
1-止七云。(略)一種禪師。唯有觀心一意。
2-弘七云。(略)一師唯有觀心一意等者。
三「安國論」-無し。
四「報恩抄」-或ハ本迹アツテ觀心ナシトイヒシカハ。
五「撰時抄」-一字一句ニ因縁約教本迹觀心ノ四ノ釋ヲナラヘテ。

これだけです。日蓮聖人の「觀心」は端的に「一念三千」(凡身
に三因仏性を具す)の意義とみえます。但し、流通語として禅観
の意義に用いることがある。

所で奇怪な遺文があって、「立正觀抄」、「立正觀抄送状」です。

54いちりん:2002/03/16(土) 13:07
「観心」という言い方そのものは、天台あたりからでしょうかね。
「観」という感じでは、「観念」「観法」という言い方もありますが。

「摩迦止観」も「観」ですね。「止」と「観」。
天台の観心の行法は「四種三昧」ということになりましょうか。

55問答迷人:2002/03/16(土) 13:53

顕正居士さん

なるほど。端的に、法華経迹門、法華経本門、一念三千法門(法華経本門文底)、という意味ですか。私は、やっぱり寛師教学の発想で考えてしまうので、回りくどくなってしまいます。反省。どうもありがとう御座いました。

56独歩:2002/03/16(土) 15:35

観心の、聖人の受容というのは実にいろいろと考えられると思うのです。
観心というのは、いちりんさんがおっしゃるように観法と置換することも痛痒はないと思います。

原則でいえば、教相と観心でしょうし、また、問答名人さんが引かれた法華経題目抄の百二十重妙(天台と聖人では法数の取りが違う)、本尊抄では四種三段の観心三段…、それにしても白米書は独自の世界を展開されていると感じます。また顕正居士さんが「奇怪」と仰せになられる立正観抄では一心三観論として展開されています(この書を奇怪と仰せになられるのはどのような意味であるのか文面からは計れませんけれども、しかし、私も同様に「?」を付す書です)

注視すべきであると思うのは、寛師が独自の五重相対義の説明のなかで登場する観心はいみじくも五重相対と違う配立を示している点です。問答名人さんが

> 教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる

と問われるのは至極当然のことで、本迹に次ぎ観心を言うのは四釈であって、つまり、因縁釈・約教釈・本迹迹・観心釈でしょう。ですから、本迹相対の次に相対を立てるのであれば、むしろ本(門)観(心)相対とでもしたほうが、むしろ自然な気が、私はしてきました。まあ、この点は煩雑になりますのでのちに譲ります。

いずれにしても聖人において、観心を代表して述べるのは本尊抄ということになると思うのです。ここで、この題号『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』の“観心本尊”とは、どのような意味となるのかが問題になると思います。同抄に説くところは四種三段なので、その結論をもって文底・観心とするのも至極で、また、観心を十法界を観ること、すなわち一念三千を観ることとするのも至極であろうかと思います。ただ、私は寛師が言う「観心(信心)の本尊)というのは、どうも納得できません。

本尊を論及されるのに己心観心(法)の末、本門教主釈尊をして本尊とする結論に至られるわけですが、ここでいう本尊と観心と関係は、観心の本尊というより、「心で観る本尊」という意味合いが強いように思われます。つまり、観心の本尊というような観心=本尊の関係ではなく、心で観るのは一念三千(法)と本尊(仏)という二立であると思えるわけです。もちろん、詰まる所、法と仏を一体と見なすことは誤りとはいえませんが、はじめから束ねてしまって論ずるべきではないように感じます。文底・観心は通常、四種三段の

又於本門有序正流通…十方三世諸仏微塵経々皆寿量序文也

というのであって、ここに三世間が成就し、事一念三千(法)がなり、その教主(仏)、すなわち本尊も明らかになる、この点を心で観ることを観心本尊というのであろうと思うわけです。また、付言すれば、これはまた、釈迦牟尼の在世(正法)でもなく、天台の時(像法)でもなく、聖人の時、すなわち、末法に始まることを言うのが「如来滅後五五百歳始」であって、末法の機とすることを

末法之始為正機

と述べられるのでしょう。ただし、これは機の辺で論ずる故に、末法が優れているとか、釈迦・天台より日蓮が優れているなどという論点とは違っているはずです。

つまり、聖人における観心法門とは記上の文底・事一念三千であり、その教主を五百塵点成道・本門釈尊とするわけです。

ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途方もない牽強付会であると言わざるを得ません。

57無徳:2002/03/16(土) 23:01
独歩さん今晩は、

>ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は
>南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人
>法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉
>め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途
>方もない牽強付会であると言わざるを得ません。

あいや!
 何とも強烈な言説に驚くと共に、拠って立つ位置が違うと斯くも受け止め方が違う
ものかと、あらためて人間の認識の位相からくる言語理解の根底にアンビギュイティ
を感じざるをえません。

 私は日寛教学に通暁しているわけではありませんが、日蓮本仏や戒壇本尊ならびに
人法一箇(人即法)と言った、いわゆる興門教学に信仰の立脚点を置く身からすると
日寛教学はほとんどストンと胸に落ちるタームに満ちているように思われます。

 それはまあ!興門教学なるものが日寛上人によって体系化されたものとすれば当然
と言えば当然なんですが、

>さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えて
>しまうわけです。

とは、如何なる意味なのでしょうか?

58独歩:2002/03/16(土) 23:45

無徳さん:

こんばんわ。

> 57

驚かれるのは意外です。
まさに記したまま、そのままですよ(笑)

59無徳:2002/03/17(日) 01:20
独歩さん:

 私の知り合いに松本修明と言う方がおられます。おそらく独歩さんもご存じかと思
われますが、(現在御僧侶をされておられますので実名を述べさせていただきました)
この松本修明さんは一仏二名論との立場を採られております。

 つまり、一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経であると
して、日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕として位置づけているみたい
です

 松本修明さんも日寛教学に強烈な批判(ほとんど否定論者といえそうです)を加え
ておられますので、私と会うと何時も激論になります。もっとも、とても私の教学力
では太刀打ちできませんのであくまで信仰論で逆襲します(笑い)。

 独歩さんも一仏二名という松本さんの論に近いと考えてよろしいでしょうか?

60独歩:2002/03/17(日) 09:07

無徳さん:

松本修明という方を、私は存じ上げません。

> 一仏二名論…一名を五百塵点成道における仏とし、もう一名を南無妙法蓮華経…日蓮御坊を人本尊として立てずあくまで上行再誕…

ほお。しかし、私の考えとは違います。私は五百塵点成道の本門釈尊を、聖人は本尊(仏)と立て、南無妙法蓮華経を題目の行として立てたという字句どおりの考えです。

本尊抄の祖意に基づけば、釈尊と無始古仏の二仏論と一仏二名は言えなくもありませんが、この点についても、やや違うであろうというのが、私の見解です。

南無妙法蓮華経を仏、つまり「南無妙法蓮華経如来」という成句をもって言ったのは、たしか霑師でしたか。

私は、南無妙法蓮華経を仏とするのは、法の擬人化ならぬ、擬“仏”化であって、賛同しかねます。法に仏的、あるいは人的ファクターをもたせることには反対です。(その意味で、実は天台も援用する三身説の扱いには極めて慎重です)

ただ、松本師が全体的にどんなお考えなのかわかりませんので、「松本さんの論に近い」かどうかは推し量りかねます。

61顕正居士:2002/03/19(火) 12:23
立正観抄(法華止観同異決)、同送状

立正観抄と及び同送状は止観勝法華、禅勝止観を批判した書で
最蓮房に宛てたものである。奇怪であるのは、
立正観抄-「一言妙法」(石塔血脈)の説が出る。
同送状-「止観別教分斉」の説が出る。
本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル。日本天台は開祖最澄以来、東寺真言
に対抗するために密教の摂取に努めた。本門思想の時代といえる。
(参考-浅井円道「上古天台本門思想史」・平楽寺書店)
観心ノ大教興レバ本ノ大教廃ル。次に祖師禅最勝の思想が興った。
観心思想の時代といえる。しかし四重興廃の後、室町時代には再び
法華超勝の思想が蘇り、本迹を捨てない観心を唱える。尊舜「法華文句
略大綱私見聞」や偽日興「御義口伝」であり、立正観抄、同送状の教判
は「略大綱私見聞」、「御義口伝」に同じである。すなわち、立正観抄と
同送状に現れた思想は、爾前、迹門、本門を剋実して寿量文底の
一念三千(三法妙)をもとめ、これを題目の実体とする日蓮聖人の思想
と筋道を異にするのみでなく、室町時代に発達した高度の教判である。
また「本迹を捨てない観心」は「本迹を捨てる観心」、止観勝法華や
禅勝止観を換骨奪胎した「本因妙抄」等の思想とは異なるものである。
立正観抄(法華止観同異決)
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0527.html
立正観抄送状
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso0534.html

62顕正居士:2002/03/19(火) 12:35
訂正

本ノ大教興レバ観心ノ大教廃ル→本ノ大教興レバ迹ノ大教廃ル

迹門-中国天台
本門-日本天台(台密)
観心-口伝法門
の三時期を経過し、過去を整理したのが四重興廃であるとおもう。

63いちりん:2002/03/19(火) 14:37
……

「天台己証の法」とは是なり。
当世の学者は、血脈相承を習い失う故に、之を知らざるなり。
故に相構え相構えて、秘す可く秘す可き法門なり。然りと雖も、汝が志神妙なれば其の名を出すなり。

「一言の法」是なり。
伝教大師の「一心三観一言に伝う」と書き給う是なり。
問う、未だ其の「法体」を聞かず如何。
答う、所詮一言とは「妙法」是なり。

(中略)

「天台大師の血脈相承の最要の法」は「妙法の一言」なり。

天台伝教の解釈の如くんば「己心中の秘法」は但「妙法の一言」に限るなり。
然而当世の天台宗の学者は天台の「石塔の血脈」を秘し失う

……

読みやすいように、句読点と「」をつけてみましたが、なるほど、きっかいな書ですね。

「一言の法」それは「妙法」という一言。
天台の「己心中の秘法」はただ「妙法の一言」である。
そして、それは天台が「石塔の血脈」に記されていたのである、と。

しかし、最蓮房宛の書は、ほとんど偽書っぽいですね。
もしや、もともと最蓮房など存在していなくて、本覚法門を日蓮に仮託して語る際に、最蓮房という天台教義に蘊蓄のある人間を仮構すれば、表現しやすかったのでしょうかね。

64顕正居士:2002/03/24(日) 01:22
最蓮房

が実在したという説をみなさん何かご存知でしょうか。最蓮房宛の遺文
の多数には日蓮聖人の教学とは全然異なる思想が表現されています。
これらに真翰は存在しませんが、最蓮房宛諸書が引用されている上古
の文献は真偽を別にして何かありますでしょうか?

65いちりん:2002/03/24(日) 01:28

最蓮房って、不思議ですよね。

最蓮房宛の御遺文は、どうなっていますでしょうか。

たとえば、ほとんどが真偽未決か偽書とされているのか。
あるいは、なかでも、真跡があるのでしょうか。

66問答迷人:2002/03/24(日) 09:22

顕正居士さん

富士宗学要集を検索してみました。キーワードは、最蓮、祈祷、諸法実相抄、十八円満、草木成仏、生死一大事、血脈、当体、立正観、です。問題のある文献も含まれていますが、そのまま列挙します。日精上人以降は省きました。


1350年頃日順上人本因妙口決 御書に云はく本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なりと書す是れなり(二巻80頁)

1380年日眼上人五人所破抄見聞 立正観抄に御判釈ある止観法花の勝劣、(四巻13頁)

1480年日叶上人百五十箇条 最蓮御房御返事に云く、当世の天台宗何より相承して止観は法華に勝ると云うや、(二巻174頁)

1487年日教上人四信五品抄見聞 祈祷抄に云く正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如く(四巻64頁) 

1660年日精上人日蓮聖人年譜 祈祷経送状に云く別紙に一巻註して進らせ候、毎日一返闕如無く読誦せらる可く候(五巻131頁)

67いちりん:2002/03/24(日) 10:55
問答迷人さん

なるほど、室町時代以降の文献から出てきますか。

しかし、「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」あたりは、出てきませんですね。

68問答迷人:2002/03/24(日) 15:58

変ですねぇ

あれだけ有名な諸法実相抄なのに、様々なキーワードを追加して検索しましたが、日寛上人の文段以降しか、引用例がありません。検索キーワードは【行学、なみだ、大事の法門、日蓮一人、日蓮が一門、妙法蓮華経の当体、日淨、日浄、諸法実相、体の三身、用の三身】を追加しました。

日寛上人の引用を一例、挙げておきます。富士宗学要集第四巻257頁の観心本尊抄文段下に『諸法実相抄に云く「されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」等云云。』と引用されています。

69顕正居士:2002/03/24(日) 15:59
問答迷人さん。検索ありがとうございます。

「本因妙口決」の「御書に云はく」は、当体蓮華の説が出る当体義抄で
ありますね。しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。
問題になるのは「五人所破抄見聞」であって、この著者が妙蓮寺日眼
なら1380年には「立正観抄」が成立していたことになるが、1世紀後の
西山日眼と取り違えて伝承した可能性がある。もし日教(日叶)の引用
が最初なら最蓮房宛諸書の成立は15世紀半ばに想定されるでしょう。

70問答迷人:2002/03/24(日) 16:36

さらに、生死一大事血脈抄は、何処にも引用されていませんね。キーワードは【臨終只今、自他彼此、水魚、異体同心、臨終正念】を追加して検索してみました。宗学要集には引用箇所なし、です。

71問答迷人:2002/03/24(日) 16:52

顕正居士さん

>しかし「本因妙口決」は三位日順の著述ではないでしょう。

私も、内容からして、その様に考えています。この文書には、本因妙抄が引用されている事から、日順上人の著述とは考えられない、とされています。

>問題になるのは「五人所破抄見聞」であって

仰る通りだと思います。もし、そうだとしたら、又しても左京阿日教師の御登場ですね。大石寺戒壇大御本尊に付いての記述の初出もこの人でした。二箇相承の写本を大石寺にもたらしたのもこの人です。

72独歩:2002/03/24(日) 20:44

問答名人さん:

> 66〜

この検索結果はすばらしい成果であると感服します。
なるほど。

73いちりん:2002/03/24(日) 20:55

ちなみに「三大秘法抄」を検索したら、どのあたりから出現しますでしょうか。

74独歩:2002/03/24(日) 21:28

問答名人さん:

『五人所破抄見聞』は妙蓮寺眼師ではありませんでしたか。これを教師と言われるのは、なにか特別な意味があるのでしょうか。

75問答迷人:2002/03/25(月) 08:04

独歩さん

宗学要集の記載によれば、年代が混乱しているのです。

Ⅰ 五人所破抄重須本奥に云く 嘉暦三戊辰年七月草案 日順。(1328年)

Ⅱ 応永廿二●正月廿九日。日代聖人御筆大事の書也可有る重宝也。太夫阿闍梨日円に授与す之を  日任華押(1415年)

Ⅲ 日眼見聞蓮山本の奥に云く。伝写本云 康暦二庚申年六月四日書畢本化末弟日眼在御判(1380年)

Ⅱの記載は西山の第四代日任師によるものであり、その後に妙蓮寺日眼師が注釈すると言うのは不自然である事。さらに日任師の署名が1415年なのに、その後に妙蓮寺日眼師が1380年に注釈すると言うのは、不可能でしょう。この日眼師は西山第八代の日眼師(在位1458年-1486年)と見るのが妥当ではないかと存じます。顕正居士さんのご指摘は、このような内容であるかと考えました。もし、西山第八代の日眼師とすれば、日教(日叶)師の百五十箇条(1480年)が先である可能性があると思ったわけです。

76問答迷人:2002/03/25(月) 08:47

いちりんさん

ざっと検索してみましたら、やはり、左京阿日教師の「四信五品抄見聞」(1487年)が初出のようです。(それ以前のものとして、日順師の著作と伝えられる、例の本因妙口決にも出ますが、これは、前述の通り、採用できません。)

『太田抄に云く報花経を諸仏出世の大事と説かれて候は此の三大秘法を舎みたる経にて渡らせ玉へば可し秘す々々』(富士宗学要集第四巻65頁)

詳しくは、時間があるときに検索してみます。少し御時間をください。(どなたか、検索して、結果を御報告戴けると有り難いのですが…。)

77いちりん:2002/03/25(月) 09:16
ふと思ったのですが、そもそも「富士宗学要集」というものは、富士門流の宗学を集めたものでしょうが、それは大石寺関係のものだけですよね。

それで、そもそも「日蓮は菩薩か本仏か」とか「法華の本門と迹門は勝劣があるのか」という論議は、室町時代に京都で盛んになっていたのではないでしょうか。

なにしろ京都は、町衆がほとんど日蓮宗だったようですし、二十一本山があって、たいへんな勢いでした。いわば、最先端の仏教ニュー思想みたいな。(北陸では、真宗がニュー思想で勢いを伸ばす)

だから、日蓮本仏論、種脱相対論、凡夫本仏論みたいな論議は、富士のふもとの田舎で行われるよりも、京都で行われたのではないでしょうか。

だから、大石寺の法主たちの書いたものよりも、要法寺あたりの坊さんのほうが、先進的な理屈を展開していたかもしれなないなあと思うのですが。

最蓮房関連の偽書とか、御義口伝とか、そういうものは、室町時代の京都あたりで盛んに作られたりしませんでしょうか。

78いちりん:2002/03/25(月) 09:22
板曼荼羅とか、二箇相承書がどうじゃこうじゃというのは、大石寺のお宝ですから、「富士宗学要集」を調べると、いろいろと改竄、偽作のプロセスが見えてくると思いますが、日蓮本覚思想とか日蓮本仏論の発生過程となると、「富士宗学要集」だけでは難しいかなあと感じました。

八品派の日隆さんとか、要法寺あたりの坊さんたちの書いたものとかを、調べなくてはいけなくなりそうな。。

79いちりん:2002/03/25(月) 09:26

ちょっと室町時代のことを、調べてみますと。

まず、鎌倉末期に、日像によって妙顕寺の「四条門流」がひらかれ、南北朝時代には、本国寺の「六条門流」がひらかれる。

室町時代には、新宗教として、「法華宗」と「真宗」が活発にひろまりまった。

真宗は、蓮如の活躍によって、北陸の農民に広がり、法華宗は日像の力による。日蓮は幼少の日像さんを見抜いて、伝法を託したとも伝えられる。

日像は、後醍醐天皇から布教の勅許を得たり、足利直義から将軍家の祈祷を託されたりして、法華宗が一気にメジャーに踊り出た。

そもそも法華宗は、現世利益っぽいから、京都の町衆にどんどんと広まった。
応仁の乱の前夜には、京都の町衆の大半が法華信仰に帰したともいわれている。
(ちなみに、1536年の「天文法華の乱」では、武装した比叡山の僧兵によって、法華宗の21本山は、すべて灰燼に帰してしまい、以後十年間は、法華宗の布教は許されなかった)

法華宗は、日本の中心地・京都において、もっとも活発でダイナミックな新宗教として広まっていったのだと思います。そのなかで、教義論争が沸騰していった。なにしろ日蓮主義は、教義論争が大好きだから。

80独歩:2002/03/25(月) 13:16

問答名人さん:

> 75

有り難うございます。顕正居士さんのご説明の妥当性もともに確認できたところであろうと思います。

通常、所破見聞は眼師、聖滅99年の作、それも日蓮本仏論、初出資料といわれるところですが、やはり、この点には疑問が呈されてきました。ご紹介のもう一人の眼師についても、執行師も指摘しておりましたね。

教師となれば、以下に続くいちりんさんの京都の思想勃興との整合性もあり、私も多いに賛同するところです。

81Libra:2002/03/25(月) 13:29
 『五人所破抄見聞』の成立問題については、宮崎英修氏の以下の説も参考になると思い
ます。

  「五人所破抄見聞」は妙蓮寺日眼の著作ではない(宮崎英修)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/102.html

82いちりん:2002/03/25(月) 13:44
Libraさんのよく整理された資料には、感心します。
なにより、読みやすいし。啓発されて、ありがたいです。

宮崎英修さんの次の文、おもしろかった。
「……大そう丁寧な誡励をいただいたが更に「よく調べ直すがよかろう、もし判らなければ教えてもよい(30)」との御慈教を蒙っている。この某師の論調は全体がこのような責任のない無根拠の小児的主張にのみ始終しているが或は別の記録類をご存知の方でもあるのであろうか。どのような記録か知らないが、これで大石寺の門末を満足させることができると考えられているならばまことに天下泰平、感嘆すると同時に憫笑にたえない。」

あの温厚で好々爺風のような晩年の宮崎先生を思い出しました。

83Libra:2002/03/25(月) 15:12
いちりんさん:

> Libraさんのよく整理された資料には、感心します。

 ありがとうございます。しかし、素晴らしいのは「学説の主張者」であって私ではあり
ません。

  ──────────────────────────────────────
  ある先行する学説に対して、その後に述べられる学説がもつ関係は四つしかない。つ
  まり、肯定と批判と無知と無視である。しかし単なる〝肯定〟ならば、同じ学説を繰
  返すことに意味はない。せいぜい先行する学説の主張者の業績をうばわない様注意す
  べきだ。〝無知〟というのは、先行する学説の存在を知らないことだが、これは致し
  方がない。後でそれを知ったとき、自説を修正しなければならない。しかし言うまで
  もなく〝無視〟ということが最悪であり、日本の学界に横行している。これを平和的
  共存というべきか。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 17)
  ──────────────────────────────────────

 私自身は「単なる無知者」です。いや、それも言い過ぎで、<「単なる無知者」である
ことすら難しい>というべきかもしれません。

  ──────────────────────────────────────
  少しでも考えれば、自分の過失を全く知らないために結果的に思い上って見えるだけ
  の人はあくまでも単なる無知者であって、決して度し難い「増上慢」の人ではありえ
  ないことはすぐ分ると思うからである。単なる無知なら知れば直ちに改めうるが、知
  っていても改めようとしない「増上慢」は、知れば知るほど開き直るだけに過ぎない。
  従って、「増上慢」とは、今日風に言うなら、いくら言葉や論理によって、その非を
  批判されその誤りを知るに至ろうとも、言葉や論理ばかりが全てではないとばかりに
  居直りを決め込んで従来の考え方を少しも改めようとしない人のことなのである。

  (袴谷憲昭「『法華経』と本覚思想」、『駒沢大学仏教学部論集』第21号、1990年、
    pp. 113-114)
  ──────────────────────────────────────

  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/003.html

84独歩:2002/03/25(月) 17:47

Libraさん:

秀逸な先行業績のご提示、有り難うございました。
襟を正す思いです。

それにしても、所破見聞のことで、四半世紀も前に英修師が、顕師と、それも月刊ペンで争っていたとは知りませんでした。

また、松本師の

その後に述べられる学説がもつ関係は四つ…肯定と批判と無知と無視

とは、まさにそのとおりでしょうし、しかも、これが学説という高尚なレベルばかりではなく、ある特定のグループ、あるいはリーダーの教えを絶対するメンバーの固執・偏執した態度にも当てはまるものであると思ったものです。

さらに袴谷師の「無知」と「増上慢」の説明も実に参考になるものでした。

このような点を押さえながら、なせれる冷静な議論であれば、多いに意義のあるところでしょう。もっとも先行学績を隈なく認知することは困難で、その一端を披露いただくことに、Libraさんへの期待するところが大となります。

85顕正居士:2002/03/26(火) 08:12
無始古佛

「台宗二百題」の『法華教主』に
「問う。法華の教主は、三身の中には、いづれぞや。答う。報身なり。
もし、報身なりといわば、相多身大、これを報身と名づく。法華の教主は
、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし。〜」
法華教主は顕本しても丈六劣応の姿は変えず、久成の三身は多宝、
分身で表現されます。「生身尊特」の論と云います。ゆえに

「我等己心釋尊五百塵點乃至所顯三身無始古佛也」の意義は
「己心釋尊」=「釋尊五百塵點乃至所顯三身」=「無始古佛」です。
三語は同一の対象を指し、本尊抄で繰り返し出る「教主釈尊」に対応
します。法華教主自身は顕本しても丈六劣応の身のままであるから、
久成三身は観心の対境であります。しかし、
「教主釋尊五百塵點已前佛也。因位又如是」であり、教主釋尊と異なる
古佛がいるのでないが、それは法華教主の姿で直接に表現されないから
「迹に即した本」は観心の対境になる。「本門本尊抄」でなくて「観心
本尊抄」が題である理由とおもう。

参考
台宗二百題(隆文館その他)
金光明經文句記卷第三(下)-大正蔵
http://ccbs.ntu.edu.tw/cgi-bin/webgetfile_.exe?pid=9259&offset=5

86独歩:2002/03/26(火) 18:38

顕正居士さん:

貴重な資料のアップ、いつも感謝申し上げております。

> …法華の教主は、四八の相好なり。まさにこれ応身なるべし

この「台宗二百題」について、委しく知るところでないのでお尋ねしたいのですが、これはつまり、印度応誕お法華経説法の教主、すなわち、曼荼羅には並座の釈迦牟尼仏と表わされるほうの教主ということでよろしいのでしょうか。

反面、五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつという意味でありましょうか。

不勉強のところ、解説いただければ有り難く存じます。

87顕正居士:2002/03/26(火) 20:17
「天台宗論議二百題」

はいわゆる中古の邪義を一掃した上で、天台学の難問200題をめぐる
議論を編纂した書で、享保2(1717)年の東叡山版が最初の出版です。
純正日本天台の学習に必携の書で、簡単に入手できるかと思います。
200題の各の名称はKanden師のサイトに在ります。
http://www.biwa.ne.jp/~kanden/data/200dai.html
『法華教主』の議論は質問、解答があり、反論が始まった冒頭です。
法華教主は丈六の生身、華厳教主のごとき尊特身に非ず、応身である
という反論に法智大師の生身尊特、尊特は生身にわたるの論で会通を
して行きます。ですから。
「五百塵点成道の釈尊は報身正在で分かつ」のでなく、わかたない、
丈六の生身ただちに法身と達し、報身と判ずるので、本尊抄においても
釈尊を分けたりしないが、丈六の生身を無始古佛と感見することは
脱益円機の衆生には教相でも、種益円機の衆生には観心である、
ゆえに三大秘法の名目では本門本尊であるのに、この抄を観心本尊抄
と題するのであろうということであります。

88独歩:2002/03/27(水) 01:54

顕正居士さん:

> 「天台宗論議二百題」

のことでしたか。これは、たしか手許にありました。山から探して再読してみます。
ここに無始古仏に係る内容がございましたか。

有り難うございます。

89いちりん:2002/03/28(木) 16:18
「三身論」ってよくわからないなあ。。
とくに天台のいう「報身」って、本来の伝統的な「報身」と随分と違いますよね。
三諦論と連動させるために、無理にこじつけたのでしょうか。
しかし、天台においては、この「報身」がポイントなんですよね。

90顕正居士:2002/03/29(金) 04:58
「法報應三身」

『丁福保佛學辭典』によりますと
http://www.jhoo.com/cgi-bin//dic.cgi?i=2314&kw=法報應三身&bk=ding

「台家所立の三身也。法報應の名は法華論より之を取る、
是れ開真合應の三身也。開真とは法と自受用・報に及ぶとの二なり。 
合應とは應中に他受用と報の勝應とを合する也。 
一、法身、中道の理體也、本有の三千也。
二、報身、報とは因行の功紱にして顯佛の實智也。
之を二分すとは、自受内證法樂の身を名づけて自受用報身と為す。
初地已上の菩薩に對して應現する報身を名づけて他受用報身と為す。
此と應中の勝應身とは同體の異名なり。 
三、應身、又應化身と曰ふ。 
理智不二の妙體自り、衆生を化度せんが為に種種の身を應現する也。
亦之を二に分つ。 初地菩薩に對して應現する者を名づけて勝應身と
為す。即ち上の他受用報身也。
地前凡夫と及び二乘とに應現する者を名づけて劣應身と為す。
釋迦如來の丈六の身是れ也。(以下訓読省略)」

91顕正居士:2002/03/29(金) 09:04
法報應三身説は法華論に由来し台家所立だが独創説ではなく
嘉祥大師「法華義疏」卷10
http://www.buddhist-canon.com/SUTRA/DCX/DFaHua/T340603b.htm
にあります。両つの三身説はややこしくはなく、開合の異であります。
「然し、また、自受用智は他とは関係なく、全く自内證の法楽を受けるの
智であるから、他受用智とは別であると考へられ得るし、然らざれば、
智の範囲が広過ぎることになる點で、真の報身は自受用智を指し、
他受用智は之を應身となすほうが整斉した説になる。同時に此應身は
地上の菩薩に対するものであるから、特に勝應身とし、一般の應身を、
之に対して劣應身となすべきである。(中略)故に、法應化の三身説を
合真開應、又は合本開迹の三身説と呼び、法報應の三身説を
開真合應、又は開本合迹の三身説と称して区別する。此中では、
前者の方が歴史的に古く現れ、後者は後に発達したもので、此後者で
まさしく、一應、発達の頂点に達したと認められるのである。」
(宇井伯壽「仏教汎論」p.46)

92独歩:2002/03/29(金) 12:37

顕正居士さん:

非常に明解且つ原意に基づくご説明有り難うございます。

皆さん:

やや蛇足ながら、法華三大部に限り、『天台電子辞典』により「三身」語で検索してみました。単に検索結果を挙げるばかりです。なお、前後行を列する方式のために文を充分に表わしておりませんが、意を汲む便には叶おうかと思います。

********************************************************
法華玄義.TXK(5707):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,23
條餘者可領。三道三識三佛性三般若三菩
提三大乘三身三涅槃三寶三徳。諸三法無
量止用十者。擧其大要明始終耳。三道輪
********************************************************
法華玄義.TXK(5711):5釋名三法妙,T33'No1716,744a,27
三識。知三佛性。起三智慧。發三菩提心。行
三大乘。證三身。成三涅槃。是三寶利益一
切。化縁盡入於三徳。住祕密藏云云。一類通
********************************************************
法華玄義.TXK(5810):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,6
相似乘。四十一位分眞乘。妙覺究竟乘云云。七
類通三身者。眞性軌即法身。觀照即報身。資
成即應身。若新金光明云。依於法身得有
********************************************************
法華玄義.TXK(5825):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,21
報身。微妙淨法身。即法身。具相三十二。即應
身。三軌名異義。即三身。故普賢觀云。佛三種
身從方等生。法界性論云。水銀和眞金能
********************************************************
法華玄義.TXK(5828):5釋名三法妙,T33'No1716,745b,24
塗諸色像。功徳和法身處處應現往。若此
三身不縱不横。妙決了三身入法身妙。歴
七位妙云云。八類通三涅槃者。地人言。但有
********************************************************
法華文句.TXK(1854):2序品1,T34'No1718,21b,28
生。此之分文極有眉眼。覈論宗體殊無趣
向。若歎通教。通教無三身。又非入佛慧。名
不普聞種種義不成。若歎別教。別教初地已
********************************************************
法華文句.TXK(10122):8寶塔品11,T34'No1718,113c,2
如分身皆集。由多寶出故則三佛得顯。由
持經故即具三身。普賢觀云。佛三種身從
方等生即此義也。有人分此品下十一品。是
********************************************************
法華文句.TXK(11503):9壽量品16,T34'No1718,129a,1
P:129a
用耶。可以意得不俟説也。一身即是三
身不一不異。當知一佛身。即具諸身壽命
********************************************************
法華文句.TXK(11521):9壽量品16,T34'No1718,129a,19
也。三阿耨達池出四大河。此譬應身壽命從
法報出同他長短也。此品詮量通明三身。
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
********************************************************
法華文句.TXK(11523):9壽量品16,T34'No1718,129a,21
若從別意正在報身。何以故義便文會。義
便者。報身智慧上冥下契。三身宛足故言義
便。文會者。我成佛已來甚大久遠。故能三世
********************************************************
法華文句.TXK(11527):9壽量品16,T34'No1718,129a,25
故能益物故言文會。以此推之正意是論
報身佛功徳也。復次如是三身種種功徳。悉
是本時道場樹下先久成就。名之爲本。中間
********************************************************
法華文句.TXK(11533):9壽量品16,T34'No1718,129b,1
P:129b
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
********************************************************

93独歩:2002/03/29(金) 12:38

―92からつづく―

法華文句.TXK(11534):9壽量品16,T34'No1718,129b,2
場及中間所成三身。皆名爲迹。取本昔道場
所得三身。名之爲本。故與諸經爲異也。
非本無以垂迹。非迹無以顯本。本迹雖
********************************************************
法華文句.TXK(11576):9壽量品16,T34'No1718,129c,14
下。破近顯遠。初又三。一出所迷法。二出能
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
********************************************************
法華文句.TXK(11577):9壽量品16,T34'No1718,129c,15
迷衆。三出迷遠之謂。祕密者。一身即三身
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
********************************************************
法華文句.TXK(11578):9壽量品16,T34'No1718,129c,16
名爲祕。三身即一身名爲密。又昔所不説
名爲祕。唯佛自知名爲密。神通之力者。三身
之用也。神是天然不動之理。即法性身也。通
********************************************************
法華文句.TXK(11581):9壽量品16,T34'No1718,129c,19
是無壅不思議慧。即報身也。力是幹用自在。
即應身也。佛於三世等有三身。於諸教中
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
********************************************************
法華文句.TXK(11583):9壽量品16,T34'No1718,129c,21
祕之不傳。故一切世間天人修羅。謂今佛始
於道樹得此三身。故執近以疑遠。此本説
中不復言及二乘但對菩薩。菩薩攝在天
********************************************************
法華文句.TXK(11663):9壽量品16,T34'No1718,130c,11
今之望分身。亦如華嚴十號中所列釋迦異
名若干不同。又諸經所辯。佛有三身名字
不同。所召法體皆異。或説毘那或舍那或
********************************************************
法華文句.TXK(11672):9壽量品16,T34'No1718,130c,20
知。就法報應佛壽命大小。如玄義云云。或
三身相望辯大小。或三身各別皆爲小。合説
名爲大。例三點云云。此皆隨所應度。爲其
********************************************************
法華文句.TXK(11881):9壽量品16,T34'No1718,133a,19
明文在茲何須迴捩疑誤後生耶。然今非
實下。第二迹中唱滅。三身並有非滅唱滅
義。如淨名云。法本不生今則無滅。即是法
********************************************************
法華文句.TXK(11944):9壽量品16,T34'No1718,133c,22
釋難値。三佛並難値。衆生樂著小法見
思障重。聞三身不滅則不修道。難得契
會也。所以下釋也。諸薄徳人過百千劫。或
********************************************************
法華文句.TXK(11948):9壽量品16,T34'No1718,133c,26
惡。不爲其人唱滅。是人見佛常在靈山
也。或不見佛。其人障重善輕。爲説三身難
會。衆生聞之便作是念。三佛雖復非生非
********************************************************
法華文句.TXK(13055):10觀音品25,T34'No1718,146a,25
例如此。結名不煩文。別答爲三。一口機應
二意機應三身機應。口又二。初明七難次
結。火難爲四。一持名是善。二遭火是惡。三
********************************************************
法華文句.TXK(13075):10觀音品25,T34'No1718,146b,15
勸供養。應以者。答方便力也。現身答其問
遊也。説法答其問口也。凡有三十三身十
九説法云云。從成就下。結別開總。別文廣
********************************************************

94独歩:2002/03/29(金) 12:38

―93からつづく―

********************************************************
摩訶止觀.TXK(1800):2歸大處5,T46'No1911,20c,19
若。實相之身非色像身非法門身。是故非
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
********************************************************
摩訶止觀.TXK(1801):2歸大處5,T46'No1911,20c,20
身非非身。所作辧已歸於法身。達此三身
無一異相是名爲歸。説此三身無一異相。
是名爲旨。倶入祕藏故名旨歸。若謂般若
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3705):4方便章6,T46'No1911,42a,5
也。蔽三諦上醜遮三諦上見愛寒熱。却三
覺蚊虻莊嚴三身。故以三觀爲衣。即是伏
忍柔順忍無生寂滅忍也。又起見名寒起愛
********************************************************
摩訶止觀.TXK(3711):4方便章6,T46'No1911,42a,11
例可解。百一長衣者。即是一切行行助道之
法。助成三觀。共蔽諸惑嚴於三身。此是歴
諸法修忍爲衣也。食者三處論食。可以資
********************************************************
摩訶止觀.TXK(10288):8業相境4,T46'No1911,114c,21
圓極。故名無上。即是報身。垂形九道普門
示現。故名自在。即是應身。如是三身即是
大乘高廣直至道場。餘如上説云云。
********************************************************
以上です。

95独歩:2002/03/29(金) 13:17

―94につづく―

なお、私は“三身”の説明としては岩本裕師が『正しい教えの白蓮』に書くところが、もっとも納得のいく説明であると考えています。その意味で、天台学で展開されるところが直ちに是であるというものではありません。

「余は最近にさとりに到達した」と説くのも、すぺて仏の方便であるという。また、「如来が入滅した」と説くのも、「如来がこの世に現われるのは希有である」ことを知らせるための方便であるという。したがって、ブッダは入滅したのではなく、永遠に教えを説きつづける存在であり、ブッダの寿命は無量であると説かれる。

そののち、数百年が経つあいだに、このように永遠に教えを説く仏の姿が信仰的に次第に固定化し、この仏は特定の言葉で表現されるようになる。すなわち、仏は永遠に教えを説く存在として、仏教徒の心の中に生きている神的な存在、言い換えるならば人間的な存在を超越した存在となったのであって、このような仏を応身仏というのである。応身とは梵語ニルマーナ=力−ヤ nirmanakaya の訳で、「不可思議な創造(ニルマーナ)により出現した身(カーヤ)」の意であるが、永遠に教えを説く存在として特定の姿をしているわけではなく、教えを受ける者の信仰に関する先天的能力に応じて現われると考えられ、応身と訳された。各経典の冒頭に出てくる「如是我聞、一時仏在」といったときの「仏」は、表面的には歴史上のブッダが類推されているが、実は応身仏としての仏である。

ところが、この応身仏に象徴化されている歴史上のブッダの肉身が滅び去り、この世に存在しないことは、まぎれもない事実である。仏教徒は応身仏に歴史上のブッダの経歴なり生活環境なり、あるいはその人格などを反映させて、応身仏を修飾し、その具体化をはかったが、なおそのブッダの姿を彷彿たらしめることはできなかった。そこで、ヒンドウ教のアヴァターラ(権化)思想にならって、応身仏の化身を出現させた。これが報身仏である。報身は梵語サンボーガ=力−ヤ sambhogakaya の訳で、元来は「果報を享受する身」の意で、求法者として長いあいだ修行に精進して、その果報として仏国土を主宰し、その楽しみを享受する仏であることを意味する。阿弥陀如来・薬師如来はもともと報身仏であり、大目如来もその成立においては実は報身仏であったが、後期の成立であるだけに、その原初的性格は不明瞭であることも杏めない。

こうして、応身仏が成立し、報身仏が展開したが、ここにそれらの仏をして仏たらしめる絶対者が当然存在しなければならない。この原理としての「仏」を法身仏という。
応身・報身・法身の三身説を含めて仏身に関しての仏典の記載は錯雑を極める。上述したところは応身・報身・法身の三身説に関して最も簡明に整理して説明した発生的な見方である。ところが、この三身説についても、『妙法華』を所依の経典とする天台宗では、別の解釈をする。すなわち、『妙法華』の所説により、伽耶城で成道し、拘戸那掲羅城で八十歳で入滅した釈尊を応身とし、報身の釈尊をその実体とし、報身は久遠の往古に成仏し、未来永劫にわたって常に霊山の浄土に住すると説き、これを久遠実成の釈尊とする。しかも、この久遠実成の釈尊は法身・報身・応身の三身相即で、「菩薩」としての修行によって仏となったのではなく本来自然に元から仏であるとする。日蓮はさらにその意義を強調しているのであって、彼のいう「釈迦仏」とは実にこの久遠実成の釈尊である。この久遠に対する日蓮の渇仰は熱烈であり切実であるが、この信仰形態を前述の三身説に照らして分析してみると、これらの三身のその成立の根源である歴史上のブッダとが完全に一体化されて、法身仏としてのブッダということになっていることが知られる。発生的に考察するならば、歴史上のブッダの象徴が応身仏であり、その権化が報身仏であることから、歴史上のブッダが応身仏・報身仏をして仏たらしめる最高原理としての法身仏と同一視され、逐に一体化されたと考えられる。しかも、このような仏教者の心象は、歴史上のブッダをさえ「仏」たらしめる元初仏をを生み出すに至った。その端的な例がわが国の真言宗の本尊である大日如来に見られる。すなわち、大日如来はその成立においては明らかに報身仏であるが、教学においては本地法身仏とされ、原初仏の性格を持つに至った」(上368頁)

ただし、岩本師の、ここでいう聖人に対する分析については、果たして真偽分析、また、滅後の派祖教学展開とを明瞭に分析した結果から述べるところであるかは、やや疑問が残るところです。

96Libra:2002/03/29(金) 15:48
 三身説については、以下の資料も参考になると思います。

  智ギ(〔豈+頁〕)の三身論と『起信論』の本覚思想(花野充道)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/096.html

  日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/106.html

97独歩:2002/03/29(金) 16:09

Libraさん:

待っていました(笑)

いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えました。

上述のことは、ちょっと置いて、引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身)もまた絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台が言っているとする点は頷けません。

なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょうか。

元来、三身は「祕密者。一身即三身名爲祕。三身即一身名爲密」と釈されるのであって、すると、「法身か、報身」という問いは人の「身(カーヤ)」の優性を論ずるような誤解を招くと思います。聖人の真蹟中に三即一を見出せない理由は、この辺りにあると言えば、やや言い過ぎかもしれませんが。

98顕正居士:2002/03/29(金) 17:49
独歩さん。お調べの三大部「三身」出現数と比較すると
「註法華経」の「三身」出現数はたいへん多く、六大部の「三身」が出る
重要箇所をほとんど記入してあるのかも知れません。日蓮聖人の主要
な関心が「本地三身」と「迹中三身」にあったと断定できるでしょう。

ゆえに岩本裕氏の三身概説はもっともですが、「本来自然に元から仏」
はどうでしょう。「我本行菩薩道」、本因妙の存在も天台家の説であり、
「総勘文抄」みたいの純理佛は日蓮が否定するところとおもいます。

「註法華経」はEISAI師のサイトに電子版があります。
http://www.kosaiji.org/download/hokke/index.htm

99Libra:2002/03/29(金) 18:45
独歩さん:

> いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を
> 擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えまし
> た。

 またいろいろ教えて頂ければ幸いです。しかし、その前に、

  犀角独歩さんとの対話
  http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html

の続きを早くアップした方がいいかもしれませんね。

> 引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも
> 置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身も
> また絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台
> が言っているとする点は頷けません。

 <実相にまで到達しえた智慧であるが故に、その智慧はそれだけの「常住性と普遍性」
を持つ>ということを天台は言っているのだろうと思います。しかし、逆に、「実相の理」
を「法身」たらしめるのは「修得の智」であるとも思います。

  ──────────────────────────────────────
   「真理」には口がありませんから、いくら「無始」であっても、そのままでは衆生
  を救済する力を持ちません。
   私は、
  
    〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存在しな
    い。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現した時に「仏」
    はこの世に誕生するのである〟
 
  と考えています。つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」と
  してさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。

  (229 名前: Libra 投稿日: 2002/02/14(木) 19:02、
    旧・富士門流信徒の掲示板、スレッド「六巻抄について」、
    http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rokkansyo.htm
  ──────────────────────────────────────

 浅井前掲論文で「釈迦の成道によつて始めて存在の常住性・無限性が成立するところに、
天台教学の本来がある」と言われているのも、そういうことではないかと私は思っていま
す。

100Libra:2002/03/29(金) 18:46
―99からつづく―

> なお円道師の田村師の法身に対して、『法華文句』寿量品釈の「報身正在」を説くのは
> 尤もなのでしょう。私はこの点を本尊の選定面から読むのですが、これは違うのでしょ
> うか。

 ここは、<「教主釈尊」と「無始古仏」の差異>の問題とも関係するところかもしれま
せんね。

  ──────────────────────────────────────
   独歩さんが仰るように、宗祖は言葉を厳密に使われる傾向が強いと思いますので、
  「無始古仏」と「教主釈尊」は意識的に区別して用いられているのかもしれません。
   その場合、問題は、それらの間の「差異」ということになりますが、法身(〝無始〟
  無終)までも視野に入れた三身全体を「無始古仏」と呼ばれ、特に智慧の側面である
  報身(〝有始〟無終)に着目する時に「教主釈尊」と呼ばれている、という考えは成
  り立たないでしょうか。つまり、一尊四士の「一尊」は「無始古仏」で、曼荼羅の
  「妙法蓮華経」は「教主釈尊」である、というふうには考えられないでしょうか。

    拙文「本尊論メモ」、〔01.12.10付記〕
    http://www.be.wakwak.com/~libra/z013.htm#fuki011210

  (「犀角独歩さんとの対話」、http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html
  ──────────────────────────────────────

 「本尊の選定」についてですが、浅井円道氏は、創価学会で説かれている「宇宙生命論」
について、

  ──────────────────────────────────────
  また宇宙の大生命とは「宇宙自体がすでに生命そのものであって」太陽も地球も星く
  ずもアミーバも大生命体の部分的発現に他ならぬという。非常に荘大華麗な構想であ
  り、人を天文学的夢幻境に誘うに充分であるが、これは法界を身体となす毘盧遮那法
  身仏思想の通俗化である。

  (浅井円道「創価学会の出現と問題点」、望月歓厚編『近代日本の法華仏教』〔法華
    経研究Ⅱ〕、平楽寺書店、1968年、p. 173)
  ──────────────────────────────────────

と言われています。確かに、このような「密教的法身を中心とする」仏身論によって、現
在の創価学会のような密教的本尊観が成立しているのだろうと思います。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/063.htm

  大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/064.htm


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