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六巻抄について

99Libra:2002/03/29(金) 18:45
独歩さん:

> いま『法華論疏』を読み直していて、宝塔並座と三身の部分で、Libraさんの曼荼羅観を
> 擦り合わせていました。Libraさんの言うところは伝統的な解釈と矛盾しないと思えまし
> た。

 またいろいろ教えて頂ければ幸いです。しかし、その前に、

  犀角独歩さんとの対話
  http://www.be.wakwak.com/~libra/z021.html

の続きを早くアップした方がいいかもしれませんね。

> 引用される充道師は起信論の真偽について論じられない野は憾みを感じますが、それも
> 置いて「法(法身)が絶対(常住・遍満)であるが故に、その法を証得した仏(報身も
> また絶対である」という点は、やや難を感じます。そもそも「絶対」ということを天台
> が言っているとする点は頷けません。

 <実相にまで到達しえた智慧であるが故に、その智慧はそれだけの「常住性と普遍性」
を持つ>ということを天台は言っているのだろうと思います。しかし、逆に、「実相の理」
を「法身」たらしめるのは「修得の智」であるとも思います。

  ──────────────────────────────────────
   「真理」には口がありませんから、いくら「無始」であっても、そのままでは衆生
  を救済する力を持ちません。
   私は、
  
    〝真理は「無始無終」であるが、ただ真理があるだけでは「仏」はまだ存在しな
    い。「真理」を「智慧」としてさとって、衆生を導く存在が出現した時に「仏」
    はこの世に誕生するのである〟
 
  と考えています。つまり、「真理」が「法身如来」になったのは、それを「智慧」と
  してさとって、衆生を導く存在である「仏」が出現した時点であると。

  (229 名前: Libra 投稿日: 2002/02/14(木) 19:02、
    旧・富士門流信徒の掲示板、スレッド「六巻抄について」、
    http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rokkansyo.htm
  ──────────────────────────────────────

 浅井前掲論文で「釈迦の成道によつて始めて存在の常住性・無限性が成立するところに、
天台教学の本来がある」と言われているのも、そういうことではないかと私は思っていま
す。


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