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六巻抄について

83Libra:2002/03/25(月) 15:12
いちりんさん:

> Libraさんのよく整理された資料には、感心します。

 ありがとうございます。しかし、素晴らしいのは「学説の主張者」であって私ではあり
ません。

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  ある先行する学説に対して、その後に述べられる学説がもつ関係は四つしかない。つ
  まり、肯定と批判と無知と無視である。しかし単なる〝肯定〟ならば、同じ学説を繰
  返すことに意味はない。せいぜい先行する学説の主張者の業績をうばわない様注意す
  べきだ。〝無知〟というのは、先行する学説の存在を知らないことだが、これは致し
  方がない。後でそれを知ったとき、自説を修正しなければならない。しかし言うまで
  もなく〝無視〟ということが最悪であり、日本の学界に横行している。これを平和的
  共存というべきか。

  (松本史朗『縁起と空─如来蔵思想批判─』、大蔵出版、1989年、p. 17)
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 私自身は「単なる無知者」です。いや、それも言い過ぎで、<「単なる無知者」である
ことすら難しい>というべきかもしれません。

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  少しでも考えれば、自分の過失を全く知らないために結果的に思い上って見えるだけ
  の人はあくまでも単なる無知者であって、決して度し難い「増上慢」の人ではありえ
  ないことはすぐ分ると思うからである。単なる無知なら知れば直ちに改めうるが、知
  っていても改めようとしない「増上慢」は、知れば知るほど開き直るだけに過ぎない。
  従って、「増上慢」とは、今日風に言うなら、いくら言葉や論理によって、その非を
  批判されその誤りを知るに至ろうとも、言葉や論理ばかりが全てではないとばかりに
  居直りを決め込んで従来の考え方を少しも改めようとしない人のことなのである。

  (袴谷憲昭「『法華経』と本覚思想」、『駒沢大学仏教学部論集』第21号、1990年、
    pp. 113-114)
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  「無知」をはっきり知ることは難しい(袴谷憲昭)
  http://www.be.wakwak.com/~libra/003.html


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