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六巻抄について
6
:
バックアップ
:2002/02/19(火) 21:14
238 名前: 無明 投稿日: 2002/02/17(日) 10:11
独歩さま
ありがとうございます。
寛師説を聖人・天台の祖意から見直すという本来の目的感から自ら脱線してしまいました。ややこしくなるので、これらの点はまとめてあとで考えたいと思いますが、いかがでしょうか。
仰せのとおりです。六巻抄の見直しが主題ですので他日御高見を拝聴いたしたいと心から願います。
三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。
三五の問題で三は因位をあらわし、五は釈尊の果位をあらわしているとみれないでしょうか。六或示現ではとも思うのですが。
これは、どうでしょうか。的外れの応答しないために、もう少し詳しく再掲していただけますか。
浅学でありますので、定見がないため、北川師の考えを記します。
「法華取要抄」には、三者三千塵点劫。諸京経或明。釈尊因位或三祗。或動喩塵劫。或無量劫也。 略 又諸仏因位与釈尊因位糺明之。諸仏因位或三祗或五劫等。
釈尊因位既三千塵点劫巳来。娑婆世界一切衆生結縁大士也。此世界六道一切衆生他土他菩薩有縁者一人無之。
これについて、北川師は「日蓮聖人教学の研究」で、過去三千塵点劫における釈迦菩薩と我々と法華経を媒介として必然的な関わりがあることを述べられ、釈尊が菩薩という因位において我ら衆生に法華経の縁を結ばれた 中略 本門寿量品において釈尊の果位として五百塵点劫が明かされる
によったものを省略して記載したものでした。
「清澄寺大衆中」は身延曽存で石山系では真蹟に数えますが、他門下では別れています。やや慎重に扱いたいところですが、この文の「我」と「先」が何を意味するのかが問題になります。けれど、常識的に読めば寿量品の「我」、つまり、釈尊です。では「先」を“(五百塵点)以前”と読めば、無始古仏と整合性を示すことになりますでしょうか。
北川師は真跡主義をとられていると思います。曾存も含むという意味でもあります。
ここで北川師は、同遺文を踏まえ、「これらのことから聖人は五百塵点劫を始めがあり終わりがあるという常識的時間観念でとらえられていたのではなく、久遠無始と解釈されたのである。そのことを「開目抄」には発迹顕本によって釈尊の本因本果が明らかにされた次下に
九界も無始の佛界に具し、佛界も無始の九界に備わりて、真の十界互具、 一念三千なるべし
と断定されている。これは聖人が顕本された時間を久遠無始という観念で把捉されていたと推測できる。したがって五百塵点劫の意味は顕本の本、無始と同義に解釈されるべきものであろう。」と記載されています。
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