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六巻抄について

19独歩:2002/02/27(水) 18:27

問答名人さん:

>18

まあ、どうでしょうか。聖人の仰せのまま、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底」ではないでしょうか。本因妙・本果妙・本国土妙の三妙は合論ですから、切り出すと部分観になってしまいますね。

それを「本因妙」にこだわるのは、つまり菩薩道、上行菩薩への導引のためではないでしょうか。「上行菩薩、即日蓮は本仏である」これを言わんがためと思えます。さらに凡夫即極、人界まで仏を引き下げる理由は、結局は法主(石山住職)絶対を鼓舞する足がかりなのしょう。

以前、早坂師の講義を一度だけ聴いたことがありますが、「本因妙の教主って、おかしな言葉ですよ。本因は菩薩なんだから教主のわけはないでしょう。教主だったら仏じゃなくちゃおかしい」そんなことを話されていた。

私は、細かい点で、早坂師とは、ぜんぜん考えは違うのですが、こういう当たり前の視点というのは本当に大切であると思っています。

それを深秘だ、相伝だとやって、「この御書の釈迦とは日蓮大聖人と読まなければいけない」とか「この御本尊というのは戒壇之本尊ということだ」と、すべて日蓮本仏、人法一箇で説明する、これは、もはや病気です。石山の開目抄解釈というのは、手前勝手な読み替えによって、煙に巻き、まっすぐに読めば、素直にわかることを、まるで見えなくしてしまっています。心の目を閉ざさせて、ひとり石山の言うがままに信じ込ませようとする作意に充ち満ちています。もちろん、私はけっして目の不自由な方を差別する気はありません。心眼ということに限って申し上げることです。


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