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六巻抄について

37独歩:2002/03/06(水) 11:50

tokumeiさん:

> 結論として独歩さんは天台説を採るという事ですか?

まず、このご質問に答える前に、私の書き込みの基本姿勢をもう一度、記します。
私は750年間の間に聖人の教えがいろいろと解釈され、偽書が捏造されて、その祖意がわからなくなっている、だから、まず「聖人の祖意は何であるのか」、この点を闡明にしよう、個々がスタート時点であると書きつづけてきたのです。

その結論から申し上げて、少なくとも聖人と興師の教えに「本因(妙)の教主」という考えはないはずです。それと聖人の説は天台とは何ら矛盾しないと私は考えています。

しかし、聖人は「止観(禅定)ではなく唱題行ではないか」という疑問は生じるかもしれません。この点を本尊抄に

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裹(つつ)み、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまふ。

というのは、止観の否定ではなく、さらに簡便な修行法の提示であったと拝しています。つまり、法華経において五種法師、四安楽等の修行、止観に一念三千の観法(実際は不可思議境まで考慮すべきですが)、聖人において唱題といい、つまり外適時宜ということで、それぞれを否定する関係ではないと考えるのです。

ですから、tokumeiさんが「異同」とする点は、私は異同とは感じません。唱題行自体、止観行であり、五種法師その他の修行の意義を含むと思うからです。

ただ、私が記したのは一念三千は真理であるなどということではなく、止観行において、己心に十法界を観、さらに十如、三世間と観る禅定における観(十)法(界)であると記したのです。


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