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六巻抄について
52
:
問答迷人
:2002/03/16(土) 08:23
つづきです。
法華題目抄の文では、「迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合せて百二十重の妙なり。」と述べられ、報恩抄の文では、「天台大師出世す。此の人の云はく、…或は本迹あって観心なしといゐしかば」とそれぞれ述べられ、『迹門』『本門』『観心』を三本柱とされています。さらに、白米一俵御書の文では「観心の法門と申すはなに(何)事ぞとたづ(尋)ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。」と述べられています。
これらを綜合的に考えてみると、『観心=聖人の独自法門』という解釈は出来ず、本尊抄の文は、独歩さん仰るように、そのままの意味で「この己心に観ずる十法界中、仏界を五百塵点成道・釈尊を観、本門教主と立てる」と捉えるのが正解であろうと、私もそのように思います。
そうすると、結局、教相は、権迹相対し、本迹相対して、法華経本門を選び出す事によって尽きており、観心とは、その後の、法華経本門の教えを如何に実践するか、という時点で、観心というあり方が問題にされる、という事なのでしょうか。
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