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六巻抄について
57
:
無徳
:2002/03/16(土) 23:01
独歩さん今晩は、
>ところが寛師は、ここを本門・一念三千ともに理であるなどといい、事一念三千は
>南無妙法蓮華経、それも戒壇之本尊、さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人
>法一箇として、仏と法を取り替えてしまうわけです。まさに聖人の本意は、恰も誉
>め殺しにされ、天台の説は色を失い、釈尊はおシャカとされてしまうわけです。途
>方もない牽強付会であると言わざるを得ません。
あいや!
何とも強烈な言説に驚くと共に、拠って立つ位置が違うと斯くも受け止め方が違う
ものかと、あらためて人間の認識の位相からくる言語理解の根底にアンビギュイティ
を感じざるをえません。
私は日寛教学に通暁しているわけではありませんが、日蓮本仏や戒壇本尊ならびに
人法一箇(人即法)と言った、いわゆる興門教学に信仰の立脚点を置く身からすると
日寛教学はほとんどストンと胸に落ちるタームに満ちているように思われます。
それはまあ!興門教学なるものが日寛上人によって体系化されたものとすれば当然
と言えば当然なんですが、
>さらに教主・仏を日蓮(自受用身)として人法一箇として、仏と法を取り替えて
>しまうわけです。
とは、如何なる意味なのでしょうか?
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