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最近読んで印象的だった本

1藤原肇:2005/05/03(火) 03:32:41
「戦後日本の十大名著とは」のスレッドが低迷しているのは、十大名著を選ぶのが難しいという理由の他に、自分が読んで良かったと思う本に触れたいという気持が、このスレッドでは十分に生かしきれないことが関係し、それが阻害要因になっているという感じがします。
最近(過去でもいい)読んだ本で印象深く感じ、仲間と分かち合いたいという気分になった本があれば、この欄を使って議論したらいかがでしょうか。
言い出しっぺの私が先ず書き込むことにして、陣内秀信さんの「イタリア小さなまちの底力」(講談社)を読み、毎年のようにイタリアには行っているのに、見落としたものが余りにも多いと気づかされ、この夏はイタリアにまた行きたいという気持になりました。

35千々松 健:2008/11/02(日) 16:14:07
奇しくも、藤原先生の誕生日祝いが出来て大変うれしいです。

もちろん「mod」記号はモジュラーから来ていたのです。モジュラー形式とは「法」=modに他ならなかったのです。私としては今回初めて知りえて、恥ずかしながら驚いているところです。

「フェルマーの最終定理」からの引用です。文庫本 P278
「数学広しといえども、モジュラー形式ほど奇妙で不思議なものはめずらしい。モジュラー形式は、もっとも難解な数学的対象の一つなのである。しかしその一方で、20世紀の数論研究者マルティン・アイヒラーは、これを五つの基礎演算の一つに数えている。すなわち、数学の基礎演算は、加法、減法、乗法、除法、そしてモジュラー形式の五つだというのだ。たいていの数学者は、はじめの四つの演算ならば自由に操られるのだろうが、五つめの演算に対しては、いまだに多少の戸惑いを感じているのではないだろうか。モジュラー形式は、恐ろしく対称性が高いという重要な特徴を持っている。 中略・・・モジュラー形式にとてつもなく高い対称性を与えているのは、四次元空間(双曲空間)なのである。」

モジュラーの世界と楕円の世界を統一しようとしたのが谷山豊と志村五郎であったということも何かの縁であろう。日本人には上古代人の「ひふみ算」すなわち現代の数論で言うところの「mod9」の算術が秘められているのであろうか?
日本古来の智慧によって、フェルマーの最終定理も300年の時を経て証明されたわけである。

36千々松 健:2008/11/24(月) 11:25:53
日経サイエンスの連載が日経ビジネス人文庫になった「茂木健一郎 科学のクオリア」は若者の理科離れ傾向を少しは解消するために役立つと思われます。
その中で、小川洋子さんとの対談「数学する脳、文学する脳」が面白いです。
小川さんいわく p43-44
『脳の中の映像を言葉に移し替える』とか、『人類が誕生してからずっと遺伝子の上に刻み込まれているんだけど、かつて誰も言葉にしなかった記憶があって、それを見つけるために、掘り起こすために小説を書こうとしている。』

茂木さんいわく p48
『ゲーデルの不完全性定理によれば、もしもある論理体系が数論を含むほど豊かな公理体系だとすると、その中で正しいことはわかるんだけど、証明も否定もできない定理が出てくる。それはすごく大問題で、科学は整然とした論理的な世界だけで済まなくなくて、根底に矛盾というか、穴が開いていることがわかってしまった。その後にわれわれは矛盾を爆弾のように抱えて生きている。これは小説にも通ずると思うのですが、逆にそういう矛盾があるから、われわれも結晶的な世界で止まっていることなく、生命として動き続けているのかも知れません。小川さんの小説は、そういう「裂け目」をとらえているのではないでしょうか。』

この二人の対談から私は
六角形がイメージされる「結晶」と五角形がイメージされる「生命」、あるいは無生物と生物の関係がもしかすると遺伝子の何処かに隠されている、いや、既に刻印されているという幻想を抱いてしまいました。

37千々松 健:2008/11/29(土) 16:36:02
長らく本棚の奥にしまったままにしていた「華厳経をよむ」木村清孝著を読む

「小が大であり、一つがすべてである」
すべての物事・事象の統一性と相互関連性を「一」と「多」の一致に見ようとしているのが華厳経の中心テーマであり、哲学者の廣松渉氏も「実体主義」から「関係主義」へ、あるいは「物的世界像」から「事的世界像」への転換を主張されているが、それは仏教での「縁起的な存在感・世界観」に通じる。
>>華厳の教えは現代ではフラクタルやホロニックな考え方に至り、清水博先生の「意味を創出する関係科学=場の関係子論」であり、先端的宇宙物理の世界観にも入り込んでいる。もちろん「21世紀マンダラ」もその延長線に在ると思われる。

「うそも方便?」
「手立てが重要なことは、技術の習得でも、教育の場合でも同じでしょう。手立て抜きで何かを身につけ、また人に対して身につけさせるということはありえません。このことを私たちは改めて考えてみたいものです。」P129
>>真実の世界へと導く正しい手立てを「方便」というそうだが、私は「うそも方便」という言い方しか知らなかったので、本来の「方便」を次世代へ旨く伝えていかなければならないとつくづく思わされた。

38藤原肇:2008/12/23(火) 17:34:06
82才のレフ・トルストイが住みなれた家を出て、小さな鉄道の駅において肺炎で人生を終えた物語は、「リア王」と並んで漂泊する老人の悲劇の晩年として知られているが、ありきたりの家出ではなくて出家ではないかと長らく感じて、似たような境涯に至った自分について思い巡らせていた時に、この『トルストイ家の箱舟』という本にめぐり合わせたのは、実に幸運だったという読後感を持った。
しかも、晩年の老作家の秘書としてトルストイの身近に接した、モスクワ大学で哲学をやりトルストイの研究に手を染めたブルガーコフ青年の観察は、『ゲーテとの対話』のエッカーマンほどの深さはないが、非常に優れた記録を残すものとして興味深い手記であり、いろいろと考えさせられるものを含んでいると言える。
しかも、著者のふみ子・デイヴィスさんの実に素晴らしい表現の文体は、日本の文学界に君臨する女流作家たちの売文的な文章とは違い、凛々しいというか格調高いリズムで貫かれていて実に爽やかな記述だと思った。このトルストイに憧憬と敬愛の念が支配していた大正リベラリズムの時代が遠くなり、荒廃した売文記事が文学の名を騙る現代の不毛さを痛感させられた。

39遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:02:25
「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない」
アレックス・カーは断言した。
日本に35年間住んできたカー氏は、かつて彼が愛し、今なお多くのジャパノロジストがノスタルジックに執着しつづけている“美しき奇跡の国、日本"の惨状に警鐘を鳴らさざるを得ないと言う。

世界でも有数の美しい自然環境。アジアで最も豊かな文化遣産。先進国でも屈指の優秀な教育制度や高度なテクノロジー。工業分野の成長は各国の賞賛を浴び、その過程で得た利益で、ひょっとすれば世界で最も裕福な国となったかもしれなかった日本。だが今、この国は悲惨なほど落ち込んでしまっている。

目的もなく進められる土木工事の狂乱。周りの環境と二一ズに無関係に建てられる建造物。歴史や方程式を暗記させるだけで、独自の創造力や分析力を育てない教育。配当を払わない株式市場。誰も責任を取らない政治・行政のシステム。

バブル崩壊後の見渡すかぎりの惨状が、この国の経済・文化がすでに座礁してしまっていることを物語っていると、手厳しい。

カー氏は昨年、前著「美しき日本の残像」の完結編ともいえる“Dogs and Demons''(邦訳は今年4月刊の「犬と鬼」)を米国で発表。あまりにも日本の暗い面を冷酷なまでに露出したことで、米国内でかなりの波紋を引き起こした。とくに日本好きの米国人ジャパノロジストは、その内容に同意しなかった。

「ぼくは12歳のときから日本に住んでいたので、冷静に日本を観察できた。大人になってから日本が好きになる人は改宗した信者と同じで異常に熱心だ。彼らほ日本を一種の理想社会と信じたいのだ」

だが、日本在住35年のカー氏が直視するのは、多くのジャパノロジストがあえて目をそむける現実だ。その視線には、この国が失ってしまったものへの哀惜と、破壊した者に対する怒りがないまぜになっている。「日本は蛍光灯、プラスチック、看板、コンクリート、ビニールだらけの工業モードになってしまった。美しい山河をコンクリートで固めたばかリでなく、この国にあった文化・伝統を台無しにしてしまっている」

リゾートひとつとっても、超一流と胸を張るホテルといえばそこらじゅう大理石でピカピカ。ヘルス・スパも真っ白の廊下に白衣の女性がいてまるでクリニック。本当の賛沢はそんなものではない、と斬り捨てる。

「工業モードの勝利によって、かつてはワビ・サビを愛でた日本人の感覚が麻痛してしまし、本当の楽しみ方を忘れていると思う。国民の何もかも犠牲にして、生産業(製造業)だけを重視してきたこの国の“強国貧民"政策のツケです」

40遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:10:24
その根本にあるのは、日本の教育のあり方だと指摘する。

「元厚生官僚の故・宮本政於氏が、日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だと言ったが、これは正鵠を射ている。これも工業モードなんですね。分析的思考をできなくするように教育する。自分で考える方法を教えない。企業戦士を作るための骨抜き制度です」

こうした教育が、排他的な派閥を形成する要因になっていると言う。

「日本人が派閥を作るのは、外部の人とまともに競争しなくてもいいようにするためだ。そのための仕組みを上手に作り、外部の人が入らないようにする。たとえば、外国人が野心を抱いて日本にやってきても企業の中枢には入れてもらえない。起業しようとしても障壁があまリにも多い。外国人の教授を3年で母国に帰すという制度も、結局まともに競争させない上手な仕組みなんです」外国人の天才や文化人が日本にいてこそ、日本のロ一カルな文化が発達する。そういう人たちが野心を抱いて日本に住めるようにならないかぎり、日本はますます衰退する、と熱っぼく語る。

「日本の国土はたしかに狭いが、日本人の心はもっと狭いことに気づかなければならないと思う。個人の自由を束縛し、外国の新鮮な空気を取り込もうとしないシステムそのものが問題なのです。鈴木宗男の問題にしても、彼だけが悪いのではない。ウォルフレン(オランダ人ジャーナリスト)は「日本で起きるこういうスキャンダルほ、誰かが異常に取り過ぎたとか、ある線を超えたときにスキャンダルになり、その人だけが非難されるが、システムそのものほ依然として残る」と言ったが、その通りです」

日本ははたして変わり得るのだろうか。カー氏は悲観的だ。



41遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:15:25
「まず、小泉首相が提唱する構造改革は、おそらくここで止まるでしょう。小泉首相は、ゴルバチョフと似ている。ゴルビーはもともと共産党員でやってきたので、共産党の崩壊は許さなかった。改革もその直前で止まった。そこで彼の役割は終わり、エリツィンに代わってようやく改革が進んだ。小泉も同じです。代々自民党でやってきた彼は、自民党の崩壊は許さない。これ以上改革しようとすると自民党が崩壊してしまう」

国民も本当の危機感をまだ持っていないと言う。

「1950年代、60年代の日本人はアメリカに追いつこうと必死に勉強し、汗水流して働いて生活水準を上げようとした。しかし、80年代に入ってから、日本人は自分たちの夢はすでに実現したと錯覚してしまった。その時点で“まあまあ"という精神がしっかり根を下ろし、中途半端の沼地に少しずつ沈んでいった。みんな危機と呼んでいるけれど、まだ本当にその危機を感じていないと思う」

このままだと中途半端なまま、日本はこの危機から抜け出せない、と危慎するのだ。

「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない。ただ日本人にはロ一ンもあるが貯蓄もある。まだ、どうにかなると思っているんです。目覚めないでしょうね」

かつて日本はアメリカ人にとって魅カ的な国だったと言う。しかし今は、アメリカ人が日本に住んでも2〜3年で出て行ってしまう。それほど日本は魅カを失ったと、彼は嘆く。

カー氏自身、生活の拠点を、35年間暮らしてきた日本からバンコクに移した。外資ぱかりか文化人の日本離れも急速に進んでいるのだ。カー氏の警鐘を真撃に受け止めたい。



「元厚生官僚の故・宮本政於氏が、日本の教育が真にめざしているのは「教育」ではなく「去勢」だと言ったが、これは正鵠を射ている。これも工業モードなんですね。分析的思考をできなくするように教育する。自分で考える方法を教えない。企業戦士を作るための骨抜き制度です」

こうした教育が、排他的な派閥を形成する要因になっていると言う。

「日本人が派閥を作るのは、外部の人とまともに競争しなくてもいいようにするためだ。そのための仕組みを上手に作り、外部の人が入らないようにする。たとえば、外国人が野心を抱いて日本にやってきても企業の中枢には入れてもらえない。起業しようとしても障壁があまリにも多い。外国人の教授を3年で母国に帰すという制度も、結局まともに競争させない上手な仕組みなんです」外国人の天才や文化人が日本にいてこそ、日本のロ一カルな文化が発達する。そういう人たちが野心を抱いて日本に住めるようにならないかぎり、日本はますます衰退する、と熱っぼく語る。

「日本の国土はたしかに狭いが、日本人の心はもっと狭いことに気づかなければならないと思う。個人の自由を束縛し、外国の新鮮な空気を取り込もうとしないシステムそのものが問題なのです。鈴木宗男の問題にしても、彼だけが悪いのではない。ウォルフレン(オランダ人ジャーナリスト)は「日本で起きるこういうスキャンダルほ、誰かが異常に取り過ぎたとか、ある線を超えたときにスキャンダルになり、その人だけが非難されるが、システムそのものほ依然として残る」と言ったが、その通りです」

日本ははたして変わり得るのだろうか。カー氏は悲観的だ。

「まず、小泉首相が提唱する構造改革は、おそらくここで止まるでしょう。小泉首相は、ゴルバチョフと似ている。ゴルビーはもともと共産党員でやってきたので、共産党の崩壊は許さなかった。改革もその直前で止まった。そこで彼の役割は終わり、エリツィンに代わってようやく改革が進んだ。小泉も同じです。代々自民党でやってきた彼は、自民党の崩壊は許さない。これ以上改革しようとすると自民党が崩壊してしまう」

国民も本当の危機感をまだ持っていないと言う。

42遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:20:27

「1950年代、60年代の日本人はアメリカに追いつこうと必死に勉強し、汗水流して働いて生活水準を上げようとした。しかし、80年代に入ってから、日本人は自分たちの夢はすでに実現したと錯覚してしまった。その時点で“まあまあ"という精神がしっかり根を下ろし、中途半端の沼地に少しずつ沈んでいった。みんな危機と呼んでいるけれど、まだ本当にその危機を感じていないと思う」

このままだと中途半端なまま、日本はこの危機から抜け出せない、と危慎するのだ。

「最終的に日本を目覚めさせることができるのは、破産しかない。ただ日本人にはロ一ンもあるが貯蓄もある。まだ、どうにかなると思っているんです。目覚めないでしょうね」

かつて日本はアメリカ人にとって魅カ的な国だったと言う。しかし今は、アメリカ人が日本に住んでも2〜3年で出て行ってしまう。それほど日本は魅カを失ったと、彼は嘆く。

カー氏自身、生活の拠点を、35年間暮らしてきた日本からバンコクに移した。外資ぱかりか文化人の日本離れも急速に進んでいるのだ。カー氏の警鐘を真撃に受け止めたい。

アレックス・カー/1952年アメリカ生まれ。
東洋文化研究家。12歳の時、海軍の弁護士だった父に連れられ初来日。横浜に2年間住んだ後に帰国。エール大学で日本学を専攻する。19歳のときヒッチハイクで日本一周の旅を敢行。その時出会った徳島県祖谷(いや)の茅葺き屋根の家 に魅かれ、慶應義塾大学に通いながら、古い家屋を修復する。『美しき日本の残像』(朝日文庫)で新潮学芸賞受賞。最新刊は現代日本の暗部を暴く『犬と鬼』(講談社・4月刊)

43遊夫戯人:2009/01/03(土) 12:30:05
以上は 大野さんのHPから。
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/alexkerr.htm

44千々松 健:2009/02/26(木) 22:09:01
>28 ゲーテ ファウスト「神秘の合唱」再考、「フィボナッチ数列の殿堂」への夢 >65〜とも関連します。

この場合の「合唱」こそは Harmony の意味であると思います。
「ものみなの うつろうからに さながらに」と富永老師が575調に訳されている ゲーテの詩のGleichinis(グライヒニス)を更に踏み込んで「相似象」と訳して『すべて、過ぎ行くものは相似象である』と宇野さんは説明しています。
・・・ゲーテの「ファウスト」と<カタカムナ> p214
ゲーテは同時代に生きたルターによる聖書のドイツ語翻訳には異論を持ち、特に三位一体に関連しては手厳しいようでした。結論的には父と子と聖霊の三位は一体すなわち「合同:Unity」ではなく「調和:Harmony」であると言いたかったのでしょう。
ファウストの第二部の最後に、そして、ゲーテ自身の人生のラストソングにそれを歌い上げているのですから。
ゲーテの言葉に『最高の幸福の瞬間にも極度の逆境の瞬間にも、われわれは芸術家を必要とする。』とあるように、芸術家を歌や和歌と置き換えれば納得されます。
本日『介護百人一首』というのがNHKの番組で紹介されていましたが、逆境の中での歌こそ心を和やかにしてくれます。

45千々松 健:2009/02/27(金) 09:59:55
「和歌」は倭の歌、輪の歌、琶の歌、把の歌と展開すると、、、巳が出現し蛇や龍や注連縄がイメージされて、最後には「ウロボロス」に行き着きそうです。
また「ココロを和やかにしてくれる歌」が和歌でもあったのです。生も死も、喜劇も悲劇も、和魂(ニギミタマ)も荒魂(アラミタマ)も、すべてを超えて、なごやかに平和に、やがては涅槃に入るのです。
この「ネハン」のことばの響きは何処かで聞いた響きに似ています。そうです「ソラニモロケセ ユヱヌオヲ ハエツイネホン カタカムナ」の「ハエツイネホン」の最後の部分「ネホン」は「ネハン=涅槃」に違いないと思いました。
ネハンとネホンからニホン・にほん・日本になったかどうかは定かでは有りませんが、有り得そうですね。
松岡正剛氏の「方法日本」について少し勉強しなくてはならないと思います。

46千々松 健:2009/02/27(金) 21:13:16
手元に「NHK人間講座2004年6月〜7月 おもかげの国 うつろいの国 松岡正剛」がある。その頃、「日本文化の特徴は余白にある」と考えていた時期であったから、それに関してのみの興味で、半分も聞いていなかったことを反省して、再度目を通した。
日本の「編集文化」を考えるという副題で、解説には「多様にして一途」といわれる日本文化。その各場面には、アワセ、カサネ、キソイ、ソロエという、独特の編集方法が強く働いている。「おもかげ」と「うつろい」をキーワードに日本文化の特徴をみる。」とあった。

何のことはない「アワセ、カサネ、キソイ、ソロエ」は和紙という伝統文化から生まれた折り紙に関してのことばであるし、おもかげはイメージであり、うつろいは動態幾何学であるから、両方を合わせれば「さながらに」=相似象に他ならないことに気が付かされた。
また、司馬遼太郎の晩年作「この国のかたち」の中で、真水(マミズ)や若水(ワカミズ)に触れていて、古神道的なものに興味を持っていたことが判り、それなりに納得できた。

47千々松 健:2009/03/02(月) 15:20:00
>29についての補足です
ネット上で“非苦集滅道”を検索したところ「浄土生無生論」というが見つかりました。
その「初一 真法界門」の中間辺りに下記の経文が見つかりました。
『 非心非空。非地水火風。非眼耳鼻舌身意。非色聲香味觸法。非眼界乃至非意識界。非無明乃至非老死。非無明盡乃至非老死盡。非苦集滅道。非智非得。非檀那乃至非般剌若。非怛答阿羯。非阿羅訶。非三藐三菩。非常樂我淨。』  

般若心経のある箇所にほぼカサネアワセられることは直ぐに分かります。我々が通常として目にする般若心経は「非」がすべて「無」になっているわけですが、本来の内容からしてみて、どちらがぴったりするかをキソイますと、やはり「非」の方に軍配が上がると思います。
サンスクリット語の「Na」の否定形は「無・不・非」の三種類に使い分けて翻訳するべきと書きましたが、漢文の世界でも実は別のところでは正しく「非」を使用して翻訳されていたことが判るのです。
今回はネット検索の有効性を目の当たりにすることができました。これを他山の石として、後生大事にしている「般若心経」は新たにソロエ直すことにいたしましょう。

48千々松 健:2009/04/12(日) 09:56:12
「生物と無生物のあいだ」で知られる分子生物学者の福岡伸一が、ソトコトという雑誌でロハスの思考を広めた木楽舎から「動的平衡」という本を出した。
最後の三センテンスを引用させてもらいます。P251後半

『自然界は渦巻きの意匠に溢れている。巻貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目、そして私たちの住むこの銀河系自体も大きな渦を形成している。 私たちは人類の文化的遺産の多くに渦巻きの文様を見る。それは、人類史の中にあって、私たちの幾代もの祖先が渦巻きの意匠に不思議さと興味、そして畏怖の念を持っていたからに違いない。 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。そのように考えるとき、私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。』

「森羅万象を記述する言葉」すなわち「始めに言霊ありき」は、ことだまの響きから「玉」に通じていて、ラセンのカタチとなるのでしょう。

49千々松 健:2009/04/20(月) 22:39:26
西堀栄三郎の「創造力」−自然と技術の視点から−より以下の3点を引用します。

『人間が自然と一体となることによって、人間のなし得る範囲も驚くほど拡大される。さらにいえば、自然への探検は、あくまでその対象を慎重なまでによく知り、親しみをもったうえで、勇気をもってするものでなくてはならない。私は山登りを通じてそのことを学んだのである。』P31

『労働には「働く」という活動性と「考える」という創造性と「喜ばれる」という社会性の三つの要素があり、これらが互いに影響し合い、相互に作用し合ってうまく循環したとき仕事は楽しくなり、・・・この三つの要素がうまく循環したときに、・・・人を動かし、社会をも動かしていくのである。』P160

『南極で一年間生活していたとき、私はいろんなことを考えさせられた。宇宙には化学や物理だけでは説明できない何ものかがあるのではないだろうか――。「心」のほかに「気」というものが確かに存在しているように思われた。東洋思想にはそういうものを認める寛大さがあるが、やがてはそれを含んだ科学や技術が生まれるのではないかと思う。』P301

50千々松 健:2009/05/19(火) 10:16:12
>48 補足
福岡伸一教授が「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」または、「循環的で永続的なシステムである」し、「渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ」と最新の「動的平衡」で述べているとおり、
これからの生命科学には、“静的な構造論から動的な流れ論へ”の視点が重要となってくるはずである。
我田引水と言われるかも知れませんが、21世紀マンダラの「神聖方陣」は静的な構造を、もう一方の「螺旋モデル」の方は動的な流れを示唆しているものと考えています。

51藤原肇:2009/08/09(日) 11:28:46
平凡社新書の「幸田家のしつけ」を楽しく読み、幸田露伴と文の間の親子関係の機微について、多くのことを学び取ることができ豊かになったと思ったが、実に残念だと感じたことが一つあった。
それはこの本を「さらば、暴政」を書く前に読まなかったので、大事な視点について見過ごしていたと気づいたからだ。
それは安倍の「美しい日本」を批判するに際して、もしも、「生気の乏しい器量よしより、不器量でもいきいきとしているほうが人相よしだ」という一節に気づいていたら、同じ形容詞を使うにしても、「美しい」は天与の性質であるのに対して、「生き生き」は生命体の心構えと共に、努力の結果を反映したものである以上は、個人や共同体などの組織体をまとめ、それを統合する政治の用語として、意味論的にもより高度で説得力があるのに、それが安倍には分かっていないと批判が出来た。
ところが、そこまで論旨を展開できなかったのは、まだ私の発想が幸田家のしつけの水準に至らず、せっかくの機会を前に未熟だったと気づき、とても残念だったと言う気分に包まれたのである。

52プロジェクトラーニング:2009/08/09(日) 19:43:00
藤原さんのコメントがヒントになり、私は、お盆に読みかえしている「ねずみ花火」(向田邦子『父の詫び状』に収録 文春文庫)という短い話をみてみました。向田邦子という人は意味論に通じていたと思います(見事なほどに)。彼女の話は、現在の不意の出来事が過去の記憶を動かすという構図となっています。「思い出というのはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足元で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆(ば)せ、人をびっくりさせる」過去の記憶というのは、今の出来事(すぐれた観察を通して得た見かた)が契機となって、当人によって絶え間なく作り直されていると言えそうです。向田邦子は意味論をあやつる職人だと思いました。なるほど、こういう風に言葉に向き合えばよいのかと多く学ぶものがありました。向田邦子は1981年8月22日台湾上空での飛行機の爆発事故にあっています。そのことを思うと、藤原さんが意味論の真価を知らせるために、そちら(台湾)から日本に届けて下さったように感じております。

53T.N.:2009/08/09(日) 22:08:27
 藤原氏の指摘は、「美しい」という言葉を「国」との結びつきでより高い価値(次元)を持つ「生き生き」
という言葉に置き換えることにより、相手が意図せず示している本質(自らは新しい価値を創造できず、受け
継いだものを金科玉条とする世襲政治家)を浮び上がらせるという、面白い事例になっていると思います(そ
ういえば麻生首相著「とてつもない日本」も、同じような言葉の組合せです)。「生き生き」というのはオバ
マ米大統領の"Yes, we can."に近いでしょうか。
 最近、藤原氏の影響で読み始めたクリストファー・ウッド著「バブル・エコノミー」にある
”景気後退とは、過剰生産に伴って余儀なく引き起こされる経済活動の縮小のことである。一方、不況は過剰
設備投資が原因になっている。景気後退においては主な不均衡は在庫となって現れるが、不況ではそれが設備
とその生産能力に影響が出てくる。在庫は急速な調整が可能だが、過剰な設備とその生産能力を吸収するには
何年も必要とする。”
といった文章を読むと、やはり用語を正確に捉えて使っている人間は違うという印象を持ちます(あいまいな
表現に終始する日銀や政府の景気観測発表と比べて)。

54プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 06:14:07
藤原さんの例と、T.N.さんのコメントを読んで、私は意味論の実利をつかみたいので、自分のフィールドであるビジネスで考えてみました。近江商人の商売の十訓の一つに、「店の大小よりも場所の良否、場所の良否よりも品の如何」というのがあります。例えば、『ヤマダ電機の品格』 立石泰則 講談社 という書籍(どこからどう読んでもヤマダ電機批判)がありますが、立石さんに聞いた訳ではないので、どうなのか分かりませんが、この表題には、「ヤマダ電機が意図せず示している本質(たくさん店がある。店は都心の一等地だ。けれど店には品がない。)を浮び上がらせる」ことをしていると解釈できるのではないでしょうか。※もし宇宙巡礼にヤマダ電機関係者がおられたら、これは上述著書が存在しており、世間がそういう目で見ていることもあるという例を示したのみで、ヤマダ電機を意図的に誹謗中傷しているのではないので、そのことご了解下さい。

55一色:2009/08/10(月) 08:16:07
自分では美しいと思って刺青をしている男や厚化粧している女が目立つが、自分が美しいと勝手に思い込んでいるだけのことが多く、それは決して品性があるわけではないし、生き生きしているものに匹敵するわけではない。
確かに形容詞の使い方一つを見ても、美しいという見せ掛けの美辞麗句を使って粉飾することで、国民をたぶらかそうとした安倍の言語能力の幼稚さは明らかで、それに気づかずに騙されて人気を盛り上げた国民も、愚かなマスコミと共に見る目か狂っていたと思う。
安倍よりもさらにお粗末な麻生の言語能力によって、国民が言葉の持つ重要性について気づいたというのは、言葉の乱れている時代とはいえ実に皮肉だったということになる。

56プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 09:55:35
言葉が乱れているときに国民が言葉の持つ重要性に気づいただけではまだ不充分。意味論に通じ使えるようになって実利とする必要があります。そのためには意味論の、スキルとして静的にも動的にもその原理を、もっと広く国民に広めないといけません。私はビジネスパーソンが意味論に通じたら日本経済総体でみると凄い力になると思います。ジャーナリズムの世界でも、別スレッドでヒロイエさんが紹介して下った山岡俊彦さん主催するアクセスジャーナルをみると、飼い犬(pet dog)と対して野良犬(stray dog)があり、弱い者いじめに対する「強い者いじめ」という素晴らしい“らしさ”が浮かび上がっています。もっと言葉を編集して私たち“らしさ”を出し合いましょう。きっとそれが藤原さんにも喜んでいただけることだと思います。

57プロジェクトラーニング:2009/08/10(月) 10:40:38
そういえばこのスレッドは「最近読んで印象的だった本」だったと気づき、意味論はひとまず置いて、藤原さんが幸田露伴を持ちだされたので、私不肖にも生涯初めてとなる『五重塔』(明治25年)を其一から其三十五まで、めっちゃ読みにくい文体でしたが、これって音読するといいかもとも思い、読了しました。幸田露伴が言っているのは、職人には、社会との関係を遮断してでも仕事へと突入する超越的とも言える瞬間、それに続く純な仕事への集中の大事がある、ということではないでしょうか。私が、総理大臣にむかって言うことではないかもしれないけれど、麻生太郎さんに『五重塔』を読んでもらって所感を述べてもらいたいです。辞書をひかないと読めないので漢字を知るにも都合がよいと思います。

58村山貴子:2009/08/10(月) 23:57:04
マンガしか読めずまともに漢字も読めない男が、たとえ自民党の総裁として首相になっているからといって、麻生太郎などに「五重塔」を読んでもらおうと思うのは、発想としてお粗末過ぎるので唖然とするばかりです。
それは著者の幸田露伴翁に失礼であるだけでなく、われわれ露伴の読者に対して無礼であるし、カラスに白鳥の舞を踊れというようなものであり、話題が脱線しているだけでなく議論が混乱している感じがします。

59山村貴男:2009/08/11(火) 00:20:56
村山貴子氏の投稿58に乾杯。

60プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 05:48:49
山村貴男さんは「村山貴子氏の投稿58に」乾杯なんてしてないで、「最近読んで印象的だった本」スレッドで感じたことを述べているだけなのに、意味の通らぬコメントをする村山貴子さんを少しは疑問に思ったらいかがでしょうか。「それは著者の幸田露伴翁に失礼であるだけでなく、われわれ露伴の読者に対して無礼であるし」とありますが、『五重塔』は読者を選ぶのか? そもそも村山貴子さんは、幸田露伴翁と露伴の読者の何なのか? 国民が総理大臣に『五重塔』を読んでほしいと願ったら幸田露伴は失礼だというのか? ですが不肖にも生涯はじめて『五重塔』を読んだ私ですから、そもそも麻生太郎さん云々の前に、お前にごときに『五重塔』を読まれたらたまったものじゃないと言われたような気持ちとなり悲しいですが、宇宙巡礼に学ぶ者として反省し再読し理解に努めます。私にはじみちにそうするしか術がないないので、村山貴子さん、幸田露伴にお詳しいのならぜひご教示下さい。また人のコメントにケチつけてないで、あなたの所感も述べてみて下さい。

61千々松 健:2009/08/11(火) 08:45:22
疑問詞構文の8W1Hの中でも、最近はWhoseが重要になって来ていると考えています。Why,What,How to,ないしは論理思考をいくらしても、最後は味方や良き理解者を得ることが大切になるようです。それが「Whose」の意味になります。お互い良き理解者でありたいと願っております。
「それはヨカ、バッテンこう考えたらもっとヨカ」というように、今後とも提示版を「生き生きと」したいものです。
ところで、よく向田さんの小説をもとにしたテレビドラマを真夏に観ていたのですが、今年は無いのでしょうか?

62プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 10:35:27
千々松さん、向田邦子の「母の贈物」(『きんぎょの夢』に所収 文春文庫)という作品はお読みになっていますか。TBSで9月14日に放映されます。向田邦子に久世光彦がいたように「Whose」は大切です。藤原節で言えば、「結論的に言うと、実力のバランス関係で相手よりも強ければ、ポテンシャルの差で吸い取れるのが情報であり、価値ある情報は相手の側が持ってくるし、知的に追い詰めて本音を叩き出すためにも、信頼される立場を確保することが肝心である。」(『インテリジェンス戦争の時代』P28)の指摘に学び直しました。ご指摘ありがとうございます。

63プロジェクトラーニング:2009/08/11(火) 18:41:06
村山貴子さんに半畳を入れられて、まったく嫌な気分で今日が明けたが、そして自分の投稿後に「人のコメントにけちをつけるな。つけるのなら価値をつけなさい。」と結んでおけばよかったと臍をかんだ。けれど千々松さんに脚下照顧と諭されたおかけで、気分を取り直しこの貴重な盆休みの間に読んでおこうと思っていたジョン・デューイ『民主主義と教育』 松野安男訳 岩波文庫 の読書にとりかかりました。第一章にこのようなフレーズがあります。「通信を受けることは、拡大され変化させられた経験を得ることである。人は他人が考えたり感じたりしたことを共に考えたり感じたりする。そしてその限りにおいて、多かれ少なかれ、その人自身の態度は修正される。そして通信を送る側の人もまたもとのままではいない。」(上巻P17)宇宙巡礼の掲示板の大事がいいわらわされているようで、皆さんと共有したくなりました。

64千々松 健:2009/08/12(水) 11:32:15
プロジェクトラーニングさん有難うございました。今年も向田ドラマを観ようと思います。

「失敗学」の創始者といえる畑村洋太郎氏の書かれた「みる わかる 伝える」は図もたくさんあって理解しやすい。
絵と言葉すなわち「カタチとコトバ」の相乗効果を改めて認識した思いでした。
工学系の出身で創造設計原理の研究をされていると聞くが、次の3点で印象に残った。
第1点目:「見ない、考えない、歩かない」の3ナイではなく、「現地、現物、現人」の3現を通じてのみ真実がわかる。 
第2点目:「順演算と逆演算の関係を、左手系と右手系の関係に置き換えて説明している。両手を合わせることで抜けのない検討ができる。
第3点目:正しいやり方をそのまま書く「陽」と、やってはいけないことをやるとどうなるか、やるべきことをやらないとどうなるかを書く「陰」の両方の知識を持つことで、立体的な見方ができるようになる。

 そして、極めつきは「真の科学的理解とは、要素の摘出と構造化を通じて目の前のものや現象の状態を正確に知り、現象の因果関係を正しく理解することである。」p65
これは要するに「意味論」に通ずるに違いないと思うのだが、更に畑中氏は続けて「だから、真の科学的理解をしている人は、新しく何かを作り出す創造もできるし、周囲の状況の変化によって現象が大きく変わったときにも、それにきちんと対処できるのだ。」

65プロジェクトラーニング:2009/08/12(水) 16:53:46
千々松さんのコメントにヒントを受け、私は、E.S.フォーガン『技術屋の心眼』を一読してみました。著者は、工学設計の過程を詳細に検討し、近代の科学技術の進歩にもかかわらず、設計の過程においては、数式や計算といった解析的なやり方だけでなく、直観や言葉には表せない思考といったものが重要な働きをしていることを例証しています。図像的な思考というのでしょうか、心眼とは、直観的なイメージを現実のイメージに変換する能力・センスであり、それを養うには、眼を通して入ってくるものをはじめ、耳、鼻はもとより、手触りや重みを感じる筋肉の感覚まで、様々な感覚的情報を集積し相互に関連づける経験であり、人はこれを通して物を本質的に知るとあります。意味論を考えるうえで示唆があるのは、ジェームス・J・ギブソンがいうところの事物が我々に行動を促すアフォードをしているところにあるかもしれません。経営学では、この例は有名なのですが、デザイナーの深澤直人さんは、傘立てのデザインを頼まれて、普通の人は造形物を考えるところを(たとえば、陶器仕様にするか金属仕様にするかとか、四角にするか丸にするかといった具合に)、玄関の壁に沿って床に一本の線を引いて、それに少し窪みを入れたそうです。傘の先をその窪みに置いて、柄を壁に立てるという人の行動をアフォードするデザインです。畑村洋太郎さんの見識に加えて上記も参考にしていただけると「もっとヨカ」です。

66プロジェクトラーニング:2009/08/12(水) 18:16:35
本ではないですが、三夜連続のNHKスペシャル「日本海軍 400時間の証言」はとても興味深かったです。大日本帝国海軍・軍令部の実態がここまで明かされたのは初めてではないでしょうか。海軍反省会なるものが11年間も続き400時間にわたって軍令部のメンバーが記憶を紡ぎだしたのですから、これは凄い事実です。まさしく対話によって歴史が編集されたと言えましょう。ときの軍令部総長が、陸軍のクーデータを恐れ、海軍が先手をとって(今ならまだ勝てる可能性があると)開戦になし崩し的に動いていったという証言は生々しかったです。東京裁判では、戦争指導者として文官1人、陸軍関係者6人が絞首刑となりましたが、海軍関係者の被告は終身刑でその後釈放されています。この際にも、水面下で海軍トップの裁判対策を組織的に行っていたという証言でした。これでは海軍あって日本の国家なしではありませんか。300万余人もの日本人の命を奪うという結果を招いたことに対して、いま現在を生きる我々は、人と組織が持つ問題に対して歴史からの示唆をもっと深く知らなければならないと感じました。

67千々松 健:2009/08/12(水) 18:48:27
飛鳥時代以前には日本へ道教が伝わっていたのですから、飛鳥時代にイランからゾロアスター教が伝わっていたのではないかという松本清張の仮説(小説「火の回路」)は興味が持たれます。
逆に日本がルーツかも知れないという逆序の発想も必要で、順序と逆序の両方の視点から考古学は見て行かねばならないと思われます。少なくともそれを受け入れる「何らかの素地」が無くてはならないわけですから。
ただし、逆はあり得ないという証拠が一つでも見つけられれば、それは氷解されるという理屈になります。

 さて、小室氏の意味論は数学的な証明論のようではないかと思われ、「形式論理」や「詭弁の論理」で「ためにするインチキ」や「ウソ」に誘導され、まんまとそれに引っ掛かるのが「意味オンチ」になるのでしょう。一度、冷静になって、絵に描いて集合論で確かめることが必要だといっているのではないかと推察します。
そして、「必要十分条件」が満たされて、初めて正しいと見なければならないということなのでしょう。
歴史から学んだり地質学を学んだりは、まさに逆序の発想が大切になるのですね。

68T.N.:2009/10/10(土) 22:48:21
 「やっぱりあぶない、投資信託」、「やっぱりあぶない、個人向け国債」。どちらも今年の6月4日に亡くなっ
た水沢渓氏の著書です(享年73)。共に110頁ぐらいの薄い本なのですが、単なる投資指南本に止まらず、歴
史的・世界的視点で経済の解説を行っています。これほどコンパクトに纏め、なおかつ説得力を持ち、わかりやす
い本というのはちょっとありません。
 「投資信託」の方は2006年末の出版。ニューヨーク株も東証株価も危険水域に入っていると警告しています。
わずか半年後に、サブプライムローン問題による株価暴落が起き始めました。「国債」の方は2007年夏の出版。
第5章の近未来シミュレーションには、日本国債のデフォルトと、総選挙で与党が議席を半減させる敗北が記されて
います。日本国債のデフォルトこそまだですが、見事な予言書です。

69藤原肇:2009/11/05(木) 00:23:04
日本問題を専門にしたり日本についての仕事をする外国人で、、文科系や政治問題を扱う人の圧倒的な多数が、たいていの場合に奥さんが日本人女性であることは、私の数十年の海外生活で確認したことである。
日本でも財界や政界あるいはジャーナリズムの世界において、目覚しい活躍をしている人のほとんどの場合が、夫人のほうが人間的に優れていたのも事実である。
ということは、連れ合いが優れていない男はうだつが上がらないか、奥さんが悪かったので離婚し再婚していないケースが多い。特にアメリカのジャパノロジストにおいては、奥さんの考えを英訳して成功している人や、奥さんの指導が実って日本の専門家として大成している人が圧倒的である。
日本びいきのオーストリー系のアメリカ人として知られ、日本でもフアンの多いマネージメントの発明家である、ピーター。ドラッカー博士の場合も同じである。ドラッカー博士の方が家柄としてはより上流水球であり、ウィーンでのつき会った人が凄かったことは、『傍観者の冒険』を読めば明らかだ。
しかし、ドイツ生まれの夫人のドリスが書いた自伝である、「あなたにめぐり会うまで」を読むことによって、ドラッカー博士が素晴らしい妻に恵まれ、そのお陰で大成したことがよく分かるだけでなく、第二次世界大戦に至るまでのドイツの社会が、こんな興味深い社会構造と文化を持っていたと明白になった。
ただし、この本は絶版であり入手困難だから見つけるのは大変で、私は出版社が持っていた最後の一冊を社長からもらい、こんな有難いことはないと思った次第である。

70プロジェクトラーニング:2009/11/05(木) 05:36:05
藤原肇さんの記事を読んだ後に思いついたのは小泉八雲です。パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であり、一般的に知られているラフカディオは彼のミドルネームです。1890年40歳で来日、翌年に島根県松江尋常中学校と島根県尋常師範学校の英語教師に任じられた後、日本人の妻と結婚(やはり奥さんが日本社会への良き道先案内人だったようです)、帰化して三男一女の子をもうけ、1904年54歳の若さで狭心症により当時の東京の自宅(牛込)で亡くなっています。最近読んで印象的だった本として『神国日本』を推します。またハーン研究書として『神々の猿』 ベンチョン・ユーは優れています。いずれも読み進めているうちにハーンに「おまえはそれでも日本人か」と詰問されているような気になります。なにゆえハーンはこれほどまでに日本を知り通し得たのでしょうか。

71田中治:2009/11/05(木) 12:10:25
昨晩、夕食後の寛ぎの時間に、久しぶりにテレビに電源をいれるとアメリカのウェルズリーカレッジを舞台にした映画「モナリザ・スマイル」を放映していたので鑑賞した。映画のシナリオは1954年前後の設定であり、その頃のアメリカの上流階級の子女の精神構造に思いや想像をめぐらせながら、男と女についても考えさせられていた。今朝になり、藤原さんの投稿を読んで、すぐに思いついたのは犬養道子著の「男と女」である。
古今東西の歴史や文化さらには文明の中で、男と女はいかに存在し機能してきたか、また「自然」から「雄雌」を見る視点をもち、ホモ・サピエンスとはなにかについて考察されている点でも、単なる知識を越えて深く考えさせられる名著であるとおもう。この本が出版されたのは1970年代であり、“ウーマンリブ”が声高に叫ばれた時代背景も無視はできないが、内容はきわめて普遍的なテーマがほとんで、人間なら誰にとっても無視できないテーマでもある点で一読の価値はあると思う。

また映画のタイトルにモナリザとあり、実際に映画のなかでレオナルド・ダヴィンチのモナリザの絵が登場するので、千々松さんが別スレッドでフランスのシャンボール城にある二重螺旋階段について触れられていたことを思い出した。わたしもここを訪れたことがあり、ダヴィンチが設計したとされるこの螺旋階段を登って屋上に出て、そこからの眺めを満喫したことを思い出した。

シャンボール城は地上から眺めたり、内部を歩き回っているときよりも空から俯瞰してはじめてその凄さを実感できるタイプの城であり、航空写真を見ると、四角形や円形や三角形が随所に配置され、その中を二重螺旋が階段の形をとって、天地を貫く構造になっている。ひたすら天や東に志向する神の家としてのゴシック教会やファサードが特徴的なイタリア・ルネッサンス様式の建築物とは一線を画した当時としてはある意味実験的な城なのではないかと感じた。屋上から眺めたときにまず目に入ったのは、意外なことに水路であり、おそらくロワール川から引いたものだと思うが、これもダヴィンチの水道計画を採用して作られたらしい。

72田中治:2009/11/05(木) 12:11:13
ロワール川流域に建つ数々の古城のひとつにアンボワーズ城があり、ダヴィンチを庇護したフランソワ1世はこの城に居たらしい。このアンボワーズ城からすぐ近くにクロ=リュセというこじんまりした城館があり、ダヴィンチは晩年この城館に滞在し世を去っているが、今でも多くの観光客が世界中から訪れていてダヴィンチの世界的な人気を再認識した。城館の内部はもちろん興味深いのだが、もっとも感銘を受けたのは、城館に属す広い敷地の庭のそこかしこに、ダヴィンチの発明した戦車や建造物の模型、絵画などが置かれ、訪れた人が自然のなかを自由に散策しながらレオナルドの作品を鑑賞し、それぞれが思いを馳せることができるような仕組みになっている。わたしが訪れたのが盛夏だったこともあり、燦燦と降り注ぐ陽光が豊かに茂った木々の葉の緑に映え美しく、心地よいそよ風とともにダヴィンチの作品を自然のなかで鑑賞した。以前、ダヴィンチが生まれたとされるヴィンチ村にも滞在したことがあるが、トスカーナの豊かな田園風景が広がる美しい自然の風景を思い出し、レオナルド・ダヴィンチは自然から生まれ自然に帰していったことを痛烈に実感した瞬間でもあった。クロ=リュセでのこの粋な展示は、ダヴィンチがフランスにとって客人だったものの、彼を受けいれたことの栄誉を500年経ってなお、このような形で表し、万人にシェアしているのだろうというフランスの気概のようなものさえ感じた。

イタリアではレオナルド・ダヴィンチというとまっさきに絵画が思い浮かぶが、フランスでの彼はひたすら幾何学・建築・水の研究・都市計画の研究をしていたようであり、ここでの研究の成果はそのまま、その後のフランスの発展の大きな源のひとつになっているように思える。

話が随分脱線したが、男と女なる視点からダヴィンチを眺めると、彼は生涯妻を娶らなかったし、どの地においても女にそれほどの関心を示していないのは明らかで、彼が肉体的に両性具有だったとする説もあるようだが、いずれにしろこのルネッサンスの巨人は、自己の内部において女的なるもの・男的なるもの、つまり両性を同時に内包し、機能させ、足りない点について他者から補完してもらう必要がなかったのかもしれない。

映画「モナリザ・スマイル」はジュリア・ロバーツが主演の、全体としていささか味わいに欠けるハリウッド映画だとは思ったが、モナリザの微笑の中に含まれる普遍的なテーマを久しぶりに思い出し、いささかパッチワーク的な内容だが、犬養道子著「男と女」を再読しながら、思いつくまま投稿させていただいた次第である。

73千々松 健:2009/11/06(金) 17:08:02
田中さん シャンボール城とレオナルド・ダ・ビンチのレスありがとうございます。
先週、フランスの思想家レビストロース氏が100歳で亡くなった。「男と女」の関係を人類学者として構造的に探求されていたと聞く。
AからBに変換することに対して、BからAに逆変換することも同様に「可逆的な変換」であるとした。と橋爪大三郎氏は悼みの記事で書かれていたが、
そらはまさに「順序+逆序=秩序」を意味していたのであると思われる。

74田中治:2009/11/06(金) 21:00:41
千々松さん、シャンボール城の構造についてフィボナッチ数列の観点から繋げていただきましてありがとうございます。また構造主義の巨人レヴィ=ストロースの男と女の人類学的構造論は是非読んでみたいものです。シャンボール城ですが、365本の塔には私自身気づいていませんでした。ご指摘感謝いたします。また千々松さんの○△□のお話と繋がって、わたしの頭ではついていくのが大変ですが、大変興味深く読ませていただいております。シャンボール城は城そのものの構造には大変興味をそそられるのですが、「場の選択」が正しかったのかどうかについては、私もまだよくわかりません。
話は少し変わりますが、イタリアのプーリア州にカステルデルモンテという古城があります。この城は8角形ですが実際に訪れた際、コンパスで方角を測ってみましたら、八角形と8方位は完全に一致しておりました。また冬至や夏至時の太陽の位置・月の位置を計算して作られたとスタッフの方が話されていました。実際、冬至や夏至の日にここで天文観測することもあるそうです。(行ってみたいものですね!)この城は13世紀の神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ2世が築城したとされる城だから、フリードリッヒ2世に庇護されたフィボナッチはここを訪れたか、実際に設計に携わった可能性すらあるのではないかとかねてより思っておりますがいかがでしょうか。私などと違って、千々松さんが実際にご覧になれば、相当な発見があるだろうと推測いたします。

75千々松 健:2009/11/07(土) 08:05:25
田中さんのイタリアの「カステルデルモンテ」のご紹介ありがとうございます。
お陰様で、新たなイメージが湧きそうです。今はやりの「検証」に多少時間がかかりそうですので、取り敢えずは下記のコラムをご覧ください。
「ゼロと紙の旅は道連れ」
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/zerotokami.html

76我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:09:55
前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダビンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダビンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

77我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:10:36
前回の欧州出張中に偶然立ち寄った本屋で VITRUVIIの『DE ARCHITECTURA LIBRI DECEM』(建築十全)のラテン語 ドイツ語対訳本を入手することができた。VITRUV自身についてはあまり知られていないが、ローマ皇帝AUGUSTUSに仕えたVITRUVは、この本を皇帝に捧げており、その格調高い導入部分は、2000年の時空を超えて現代において読者に新鮮な感動と喜びを伝えるものである。この本は紀元前33年から22年ごろにかけて書かれたと思われるが、以来古代ヨーロッパ社会における建築に関する古典的名著として、幾多の建築家、建築従事者、知識人、聖職者に(密かに)読み継がれてきたことは、引用のされかたからも窺い知れる。先に話題になっているダビンチが25歳ごろにはこの本の印刷版がイタリアで出ており、ダビンチの死後ではあるが、その後ローマにおいて1542年にはVITRUVの研究と彼の著作の忠実な再興を目的としたACCADEMIA DELLA VIRTUが結成された。

78我星(マイ・スター=Meister):2009/11/07(土) 11:23:39
キリスト教以前の本に接することで、本当に清々しい気分になる。私はラテン語をスラスラとは解さず、意味はドイツ語対訳を通じて理解しているが、二ページ見開きで左にラテン語、右にドイツ語の対訳という形式になっており、ドイツ語で対訳を読んだ後に、ラテン語にも目を通すようにしている。ラテン語を静かにつぶやきながら復唱することで、頭の中が洗われる、清々しい気持ちになり、数年前に南イタリアのサレルノにある古代ギリシャ遺跡PAESTUMの神殿の面影が、頭の中に蘇るのである。そして、欧州を旅し、行く先々で接し目にする物を言わぬ石造建築に、古代から脈々と伝えられる叡智の具体的表出を感じ、えもいわれぬ畏怖と親しみを感じる次第である。

79我星:2009/11/07(土) 23:12:18
Architecti est scientia pluribus disciplinis et variis eruditionibus ornata, cuius iudicio probantur omnia quae ab ceteris artibus perficiuntur opera. Ea nascitur ex fabrica et raciocinatione. Fabrica est quae manibus perficitur e materia, cuiuscumque generis opus est. Ratiocinatio autem est, quae res fabricatas sollertiae ac rationis pro portione demonstrare atque explicare potest.

80我星:2009/11/07(土) 23:21:58
勝手な意訳 
建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能、肉体的作業(FABRICA)と、知識、精神的作業(RATIOCINATIO)である。

81千々松 健:2009/11/08(日) 22:23:35
>79「 rationis proportione demonstrare 」
我星さんが引用文された最後の行の部分は注目に値すると思われます。
「ラティオ」とは自動車の名前にありますがレシオ、比率、律動の意味ですから、
超意訳になるかもしれませんが「比率としての割合を実証している」「神聖なる比例を表出している」
となると思います。無論「Divina Proportione」は神聖比例と訳され、近代は「黄金比」と呼ばれています。
良く知られているように黄金比はフィボナッチ数列に関係してきます。1,1,2,3,5,8,13,21,34,54,88,144、、、
現代建築家のル・コルビジェはそれを3倍にした数列を「モジュロール」と呼んで使用していました。彼のデザインは素晴らしいのですが、3倍の数値のみに意味を持たせようとしたので、残念ながら後継者がいなかったようです。
フィボナッチ数列の考えの基本にある古代の「フトマニ」の思考からすれば、実は初項と第二項にどんな数を持ってきても、大項目で隣同志の比率を計算すれば、すべて黄金比になることは前に述べたように事実ですので、もっとオープンに構えるべきだったと思われます。

82千々松 健:2009/11/09(月) 10:56:14
>81 済みません訂正です。
「律動」は「リズム」のことであって、ラティオの訳としては正しくないのでした。
ただし、フィボナッチ数列とそこからも生まれ出る神聖比例の黄金分割は広い意味での「宇宙的リズム」として認識してよいのではないかと思うのです。
「音」も「光」もこの「宇宙的リズム」の中に在ると考えて良いのです。そして、それは時空の中では「螺旋」として表出されるのです。

83千々松 健:2009/11/09(月) 12:02:30
>74、75のつづき
今回、神聖ローマ皇帝のフェデリコ(フリードリッヒ)2世について知り得たことですが、彼はイスラム教とキリスト教とユダヤ教等の混在したシチリア島で教育を受けたおかげで、9ヶ国語を操るほどの国際人であり、鷹狩り好きで、カステルデルモンテを建てたようです。科学と数学を好み、ピサのレオナルドと呼ばれたフィボナッチを良く宮廷に招いていたようです。またナポリ大学の創設者でもあり、南イタリアの文化風土を築いた人物のようです。
『また「8」という数字は、風位と宇宙的均衡を示し、イスラム世界においては、天国を寓意する数字だそうです。フェデリコ2世は、幼少の頃から天文学や数学に特に強い関心を示していただけあって、数字のもつ意味に強いこだわりがあったということを聞くと、何やら深い意味がありそうですが、今となっては全て推測するだけしか出来ません。真東を向いた玄関の縦横の長さは、五芒の星に基づく黄金北によっていて、これはルネッサンスの先駆けと言えるそうです。また、5つずつある暖炉と雨水溜は、「火」と「水」を表しているそうです。建物の影は、春分と秋分の正午になると、中庭の縁までを満たすようになっています。また夏至の時には、中庭のちょうど真ん中の天空に、中世の北極星ヴェガが現れるのです。合理的な知識人でありながら、占星術や予言を畏怖していたフェデリコ2世は、この城の設計に当たって、スコットランド人の天文学者を招いたと言われています。』
フィボナッチ自身がどこまで設計に関与したかは探れませんでしたが、「スコットランド人の天文学者」が関係していたとすればケルト文化の影響も当然入っていたと思われます。やはり建物内には左回りの螺旋階段があるそうです。
それにしても、イタリアの「二人のレオナルド」には興味が湧きますね。

84さげ:2009/11/09(月) 23:03:37
暴政が支配する日本に救いはあるか(1)
のリンクがおかしいです

85西條 謙太郎:2009/11/14(土) 02:09:22

我星さんや田中さんのように、「ウィトルウィウスの建築十書」をラテン語
・ドイツ語対訳で読んだり、数多くの古城を実際に訪れたりして、ヨーロッ
パでの幅広い見聞と考察の経験をもとに、古典や建築を通じて叡智を探ると
いうことは、まさにルネッサンスの教養人と同じ体験をされているというこ
とで、たいへんすばらしいことだと思います。

グローバル社会の現代において、非ヨーロッパ世界の人々にも、ヨーロッパ
、ギリシャ・ローマおよびそれ以前からの叡智の伝統の存在を伝え、それら
の叡智へのアクセスの道しるべを置いておくことは全体のバランスを取るう
えで重要なことだと思います。

なお「ウィトルウィウスの建築十書」に関してご参考情報を
下記しておきます。

http://www.tohata.co.jp/memorial/pdf/tohatakenzo.pdf
http://blog.u1architects.com/?eid=568994
http://www.kanazawa-it.ac.jp/dawn/152101.html

86千々松 健:2009/11/14(土) 19:57:04
>85 西條さんの情報に感謝します。
ローマ皇帝アウグストュスに仕えたマルクス・ウィトルウィウス・ポリオがBC1世紀に書いた「建築について」は欧州最初の建築論書であるという。「ウィトルウィウス建築十書」として1521年にイタリア語に訳されたものが現存していた。
ダ・ヴィンチの人体図のルーツを見て、一つの疑問点が解消された。大枠としての正方形の中に内接する円があり、さらにその円に内接する正方形があり、その中で両手と両足を大きく開いた男性裸体が描かれていた。図形的な中心はヘソや陰部ではなく丹田に位置しているように見える。
鉄棒で逆上がりをした時の支点も丹田に来るようだし、丹田呼吸法も考えると興味深い。
いずれにしても、元々は円と四角が内・外接していたものがあったという事実を確認できて嬉しい。
実際の建築においてこそ、●▲■の幾何学と黄金比に代表される代数学が美しく融合しているのではないかと感じられる。

87松本英樹:2009/11/24(火) 11:16:46
ダ・ヴィンチがウィトルウィウス(ビットルビウス)の人間正方体図を参考に
したとした場合、彼は人体バランス(1:√2)の比率を否定した。
その時、この人体図に2つの違和感を感じたのではないだろうか?

①図は緊張した体勢(引っ張られた姿勢)で、腕の長さが異常に長い。
②人体の中心点は、ただ1点でいいのだろうか。(静態と動態)を含めるべき
人体バランス比率は、大枠□、内接●、内接□で構成される(1:√2)より、
(1:Φ)の比率が、より自然体バランスに近いと見抜いたのだろう。
黄金比が判るヒントとして□と○を合わせたともいえるかもしれない。

解剖学上、果たして丹田なる存在が理解されていたかどうか解りませんが、
陰陽を考慮すると、人体が回転し、背中を見せる図になるが、そこに「生命の樹」
が浮き出てくるかもしれませね。

88松本英樹:2009/11/26(木) 06:10:48
>87
(1:√2)の比率を否定した、という表現は強すぎました。
(1:9√2/10)の方がより実態に近いと感じた、というニュアンスです。
日本人は日常的にこの比率の中で生活しています。
畳の部屋で(大の字)に寝転がるだけですが(笑)

「最近読んで印象的だった本」という表題とかけ離れますが、最初にこの人間
正方体図に出会ったのが「間脳幻想」P279.1990年代初頭。この図は
大変インパクトがあり、後に、正方形の対角線から黄金数を導く図法、直角三角形
の転がし運動に繋がります。□△○の併せ技です(笑)

89千々松 健:2009/11/26(木) 12:55:37
○△□の文明論。
木の文化と石の文化の建築における差異を考察すると面白い幾何学が学べます。
自然の木から角柱を切り出すには√2の比率が大切となり、それは1.414の白銀比が生じます。
岩壁から石は直方体に先ずは切り出され、そこから円柱なり球体を更に切り出す時には(1+√5)/2すなわちラージファイ=Φが関係してきますので、
当然に黄金比が生じます。
 すると、木の文化からは白銀比が生まれて、石の文化からは黄金比が生まれる運命にあったのです。
ウィトルウィウスの述べていた「建築に従事するものに必要なのは実際の作業を通じた熟練の腕、技能・・」(我星さんの訳)
の意味するところは、黄金比に通じることさらに言えば、フィボナッチ数列を操れることになるのではないかと思わされました。

90千々松 健:2009/11/30(月) 12:17:05
ウィトルウィウス(Vitruvius)やレオナルド・ダ・ビンチが●▲■を人体図を使って考察していますが、一体何を見つけようとしていたのでしょうか?
その点について、既に誰かがどこかで述べているやもしれませんが、もしもあれば是非とも検証しなければならない興味深いテーマです。
さて、台湾の張錦春さんがご自身の鉄棒回転運動によりにより「動態幾何学」の心髄を示されていることに大きなヒントを頂戴したおかげで、
●▲■の基本図形の各種比率が整数や黄金比や円周率に依っている事実と、白銀比は円に対して内接する正方形と外接する正方形との間に登場することが理解されました。
本来は「フィボナッチ数列の殿堂への夢」のレスに適した内容かもしれませんが、ダ・ビンチゆかりのシャンボール城とフィボナッチゆかりのカステルデルモンテ城の建築設計美からの一連の繋がりから
ここに致します。
 ご参考までに
レオナルド・ダ・ビンチとウィトルウィウスの人体図
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/pythagoras/VV.html
ダ・ビンチ・コードと●▲■の秘密
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/pythagoras/PP.html

91藤原肇:2009/12/01(火) 00:53:22
カンボジアへの旅に持ってきた『持丸長者』に取り付かれてしまい、アンコールワットの遺跡が後回しになるほど熱中して、「幕末維新篇」と「国家狂乱篇」の二冊を四日かけて読了しました。凄い情報量であり、目下のところ頭がくらくらしています。
私が広瀬さんの本と出会いを持ったのは「クラウゼヴィッツの暗号」であり、これは中国各地の大学を歴訪した旅の時に、飛行機の中で読んで面白いと思った本でした。
そして、北京大学の図書館に案内された記念として、各地の大学にプレゼントするために持って行った、出て間もない『アメリカ人、ロシア人、中国人とつきあう法』と一緒に、毛沢東が働いたという北京大学図書館に寄贈したものでした。
そのときに北京大学図書館長から訪問記念として、古い活字で印刷した『離騒』と『楚辞』を貰って来ましたが、確か田中角栄も周恩来から貰ったように記憶しています。
それにしても、私よりも若い世代の広瀬さんが大いに成長して、『持丸長者』のような手間隙だけでなく、重厚なリサーチが必要な本を造ってくれたことは、実に嬉しいと思わずにはいられません。
今回のカンボジア旅行の最大の成果は、日本を動かした怪物たちとの出会いでした。

92T.N.:2009/12/02(水) 23:49:14
 「持丸長者」は未読ですが、新聞にかなり大きな広告が出ているのを見たことがあります。おそらくそこそこ
売れたのでしょう。広瀬氏と藤原氏の視点には共通するところが少なくないと思いますが、一方が割と大きく取
り上げられるのに、もう一方は存在自体が危険視され、書評すら出ません。藤原氏の本にあって、広瀬氏の本に
ないのは何か、読み比べてそんなことを考えるのも、面白いかもしれません。

93千々松 健:2009/12/11(金) 21:57:35
本日、偶然に「経世済民の新時代」をブックオフにて入手しました。
1994年712号タケヤマ・レポートの再録である「大不況を動態幾何学で読む」は特に圧巻でした。
フィボナッチ数列の秘める自然の発展法則をF(ファイ/藤原)座標とガウス座標(複素数空間)を使用して、信用と実物経済の関係がもたらす社会循環モデルを落合氏と構築されていました。要するに静態的から動態的均衡理論へと新しい次元で思考することの必要性が説かれています。
帝王学には昔から幾何学が必要で、21世紀は動態幾何学に移行しなければいけないというわけです。陰陽太極図は人間に理解しやすいように平面投影しているが、本当は蚊取り線香に似た対数螺旋なのでした。
「メタサイエンスの時代の訪れとアジアの世紀」では藤原博士がUSAを去り、これからの未来あるアジアへ移動された意味が理解できます。

要修正点:p117 「これは用紙のA、B判や葉書の縦横の比率で、美学でいういわゆる黄金分割というヤツですな・・・。」(落合氏の反応)は修正が必要です。実はA,B判は1:√2の白銀比の方です。また葉書も多少違います。普通の「名刺」の比率は1:1.618で黄金比になっています。
ただし、A判とB判との関係には実は黄金比が隠れているのでしたね。

94千々松 健:2010/01/05(火) 14:43:41
「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは①「成立している事態の全体が世界である」②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけている。
私的には、この二つは「21世紀マンダラ」としての「神聖方陣」が①で「ラセンモデル」が②に相応すると考えることで納得した。
①は陰陽で成立している形態としての世界であり。②はFLKM系列の4つの数の流れ(配列)により自己増殖するように構成されたプログラムソフトである。
また、①が結果で②が原因であるとも言えるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、②と①が揃って世界の秩序(陰陽太極図)が表わされていると言えるかもしれない。
松岡氏の千夜千冊に出ていた「ウィトゲンシュタインとカタルトシメス」は良く言い得て妙である。

95千々松 健:2010/01/12(火) 10:10:03
1月11日 首相動静
『午前11時43分、東京・丸の内の丸の内オアゾ着。同ビル内の書店「丸善丸の内本店」で本を購入。松井孝治官房副長官、編集工学者の松岡正剛氏が同行。午後0時50分、同所発。同52分、東京・丸の内の丸ノ内ホテル着。同ホテル内の日本料理店「椿壽」で松井、松岡両氏らと昼食。
午後1時40分、「椿壽」を出て、同41分から同3時39分まで丸ノ内ホテル内の客室で松井副長官、松岡氏と懇談。同41分、同ホテル発。』
(時事通信より一部引用)
注目の「松丸本舗」には寄らなかったようですが、松岡正剛さんとの会話はどのようなものであったか興味が持たれます。いずれ、「編集工学的」に公表してもらえるでしょうが期待しています。
また朝日新聞の首相動静欄では『「暴走する資本主義」(ロバート・ライシュ著)、「レヴィ=ストロース講義」(クロード・レヴィ=ストロース著)、「日本辺境論」(内田樹著)など28冊を購入。』とありました。
それら28冊の中には「さらば暴政」も含まれていたのでしょうか。既に購入済みであってほしいものですね。

96千々松 健:2010/01/18(月) 20:18:02
1)「ぼくとガモフと遺伝子情報」という本の中で書かれていたことですが、DNAの二重螺旋構造で有名になったJ.D.ワトソンは、ガモフから手紙を貰っていて、その中でDNAがAGCTの4つの塩基を持っていることと遺伝子の働きにまつわる謎を解くのに数理論的アプローチが役立つ可能性を示唆されていたようです。
また、他の個所ではタンパク質は全て3Nアミノ酸(9,9,21,30,39,126、及びタバコモザイクウィルスの場合は135)の数から構成されているという個所にも出会いました。構成数は3の倍数であり、mod9では0又は3になることになります。
昨年、新型インフルエンザの理論的な組み合わせはN9H16で144種類が予想されるということを知り、その時にも1+4+4=9で、mod9上では0となることを認識したのですが、本日の本との出会いで全てのタンパク質がそうであることになれば、ガモフの手紙の意味するところは重大であった訳です。それに対してワトソンはガモフを避けていたきらいが感じられます。きっと、二重構造を映したX線写真をある英国の研究機関から不当に入手していたことをとやかく言われたくはなかったからでしょう。

2)「したがって、非を退けて是のみを求め 混沌を退けて秩序のみを求めるのは 天地の理をわきまえず 万物の情にうとい人間のすることだ」荘子秋水篇第17
これはエリッヒ・ヤンツが「自己組織化する宇宙」の冒頭で、―自己組織化パラダイムの触媒者イリヤ・プリコジーヌに捧げた―引用文です。
ニューサイエンスの盛んな80年代に先端物理学者が東洋の考え方にヒントを見出そうとしていた証拠の一つですが、とても含蓄が有りますね。

97千々松 健:2010/02/07(日) 22:05:40
「かたち」の謎解き物語 ―日本文化を●▲■で読む―宮崎興二著
宮崎氏は四半世紀前に「プラトンと五重塔」という本で刺激を受けたことのある建築工芸家です。
「天地人」は伏義・女媧・神農に通じ、伏義と女媧はコンパス(規=き)と定規(矩=く=さしがね)の象徴であるという、神農はそれらを道具にして形づくられたものになろう。
左右という漢字も「左」という字は手に定規を持って直線と直角を描いている形であり、「右」という字は手にコンパスで円を描いている形であるという。(口はくちであって丸である)
そして、左右をカサネた「尋」と言う字は左右の内部の工と口が含まれていて、ヨはコンパスであり、寸は定規であることが見て取れ、「神を尋ねる」という意味になるという。

 私は「尋ねる」が甲骨文字に一番多く残された文字の「貞く」(きく)に関係し、その派生語が「兆」であるので、亀甲占いが左右のどちらに裂け目が現れるかを見て判断した様子を窺い知ることが出来ると思う。また「貞く」(きく)は「規矩」(キク)と同音であるのは偶然ではなかろう。
さらに、●▲■を図形との関係で考察すると、伏義はコンパスであるから●すなわち天であり、女媧は定規であるから■すなわち地であり、神農は円と四角の中間的な存在として多角形(八角形が代表とされる)がイメージされる。それは三角形の集合体として把握されるので▲すなわち人になるのではないかと思う。

98藤原肇:2010/03/22(月) 06:41:36
アメリカへの旅を前にして準備のために、一日を誰にも会わずに使うつもりだったが、読み出した本があまりに興味深かったので、何もしないで夜中まで読んでしまった。その本はパリに住む竹下節子の「レオナルド・ダ。ゥ゛ィンチ伝説の虚実」(中央公論)であり、読み進むに従い藤井先生との対談を思い出し、こんな不思議な照応関係がありうるかと不思議な感慨に包まれた。
実は『間脳幻想』に続く対談の第二段として、『秘密の生理と秘密結社の文明史』とでも題した、本を作ろうと編集作業したことがあり、先生との対談のテープを書き起こして、最初の章を一週間かけてワープロに打ち込んでいた。第一章はピラミットの建設の設計についてで、フィボナッチ数列を使った計算を繰り返し、画期的な議論をまとめたと満足したのに、ワープロのボタンを押し間違えたせいで、データがすべて消えて失われてしまった。
失った第一章に費やした努力が大きかったので、虚脱状態に陥って仕事は永久に放棄されてしまい、藤井先生との十年間の対話によって、数冊は出来るはずの対談の企画は挫折したままだ。実に惜しいと公開し続けたが、ピラミッドの設計の計算をやり直すことは、とても再挑戦する気になれないほどで、あの頃が能力と気力で私の絶頂だったのだろう。
竹下さんの本は『ダヴィンチ・コード』批判をベースにして、フィレンツェにおけるネオプラトニズムを軸に、レオナルドや秘密結社の歴史を論じているが、われわれの対談は秘密を持つ人間の心理が、脳内ホルモンと堂関係しているかを土台にして、秘密結社の歴史について論じたように記憶する。それにしてもボタンの押し違いでデータを失い、ショックで企画を放棄したことが惜しまれ、竹下さんの本で輪郭の一部を思い出せたのはうれしい。
人生の巡り会わせとは実に不思議であり、藤井先生との友宜を懐かしく偲ぶ私大である。

99藤原肇:2010/03/22(月) 07:50:00
98は思いつくままに書き綴ったために、誤字だらけで読みづらものになつてしまつたが、読んだ本で突然のように藤井先生の思い出がが蘇ったのは、今の瞬間が春分の日でお彼岸の仲日であり、故人の霊が訪れたということがあるのかも知れない。そういえば書き込みをしている今の瞬間に太陽が真東から昇り、昔の人の自然暦の精神と対面できる意味で、春分の日の日の出を迎えることは素晴らしい体験になった。
先週の週末は読者の一人で川崎市の矢向に天然温泉を掘り当て、縄文天然温泉志楽の湯の持ち主に招待され、素晴らしい湯質の温泉に一泊してきただけでなく、翌日は八ヶ岳の裾野の茅野市に彼が持つ、野天風呂を楽しむために案内されて一泊してきた。そこは尖石の泉といって縄文中期の遺跡があり、日本最古の神社のひとつの諏訪神社を含めて、そこから藤原家の産土神の鹿島神宮は真東に位置し、春分の日は東西軸を決定付ける瞬間でもあるる
しかも、出雲族の霊山である奈良の三輪山の真東には、国譲りの後で支配者になった天孫族が伊勢神宮を作り、三輪山の真北には日枝神社のある比叡山がある。そして、日枝神社の真東には久能山が位置しており、徳川家康は江戸の真北に日光の東照宮を建てている。
最近は平野貞夫さんと連続して対談をしているが、坂本竜馬は北辰一刀流の免許皆伝であり、その背後には北極星による妙見信仰があつて、日本の大掃除への動機が生きているのだが、果たして平成無血革命の行方はどうなるのだろうか。そんなことを春分の日の太陽を見て思ったが、藤井先生と『間脳幻想』を共著にもてたことは幸せであり、この書き込みが99で次は00で再生を意味し、これまた奇妙なめぐり合わせになったのも面白い。


100松本英樹:2010/03/22(月) 10:06:12
<幻のピラミッド設計図>
私が黄金分割ピラミッドの設計図を纏めることが出来たキッカケは「間脳幻想」
であることは間違いないのですが、もしも藤原博士が原稿の消去という事故がなく、
無事に出版されていたならば、黄金分割ピラミッド初号基は藤原博士の手で完成されて
いただろうと思います。是非この目で見てみたかったです。誠に残念なことです。

ピラミッド設計を考察してゆく過程では色々と不思議な体験が起こるようですね。
藤原博士の原稿消去事件はいつ頃の出来事でしょうか? 
ちなみに1996年〜1998年にかけて「ピラミッドとフィボナッチ数列」を関連
付けて考察していた人たちが日本でも幾人かいたことが後で判りました。
(インターネットは便利なツールですね)私もその内の一人でしたが・・
世界中だといかほどか。これは共時性の出来事ではないかと思っています。
黄金分割ピラミッド模型を組み立ててゆく過程を写真に残しましたが、
それらの写真の中に不思議な光の玉が写ることもありました。
また考えが煮詰まり、思考停止に陥ったとき、「後押ししてくれる存在」を
意識したこともあります。そういう時、新しいヒラメキが起きるのです。

あれやこれやの出来事から「黄金のピラミッド」は、あの世とこの世を橋渡し
する存在ではないかと妄想するに至りました。摩訶般若「波羅蜜多」ピラミッド

2010年3月 春分の日〜彼岸にかけて

101S.N.生:2010/06/13(日) 16:48:45
アルビン・トフラー夫妻が書いた「富の未来」を読んで感じたのは、「ヒュチャ―・ショック」で彗星のようにデビューしたトフラーの思想が、「第三の波」によって具体的な姿を世界に示したのであり、この本はその完結編に相当しているという点がまず第一だ。
しかも、農業革命、産業革命、情報革命という三大革命によって、それを節にして文明が大きく変わったのであり、われわれが遭遇しているこの時代が、前代未聞の大変な内容を持つ文明だから、それにふさわしい心構えが必要とする点で、一連の藤原著作の文明論と重なり合っている。
だが、これからの時代をわれわれが生き抜く上で、何に対して注意を払うべきかという点で、時間と空間に対しての適応性の重要性の指摘は共通だが、第三の要素として考えられているものが、トフラー説では「情報」であるのに対して、藤原理論では「知恵」とか「慧智」になっているために、意外なほどのずれがあるという感じがする。
それはhttp://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/paper/mtk/mtk.htm において、藤原さんは産業社会の動態分析を試みており、農業革命による労働集約型の社会の活力減は食料だから、エネルギーとしてはカロリー単位と規定した。次に産業革命による技術集約方の社会の活力源は石油や電力だから、キロ・ワットやギガ・カロリーが単位だとして、石油などの熱源に注目して理論を進めている。更に情報革命の活力源は情報そのものであり、ビットとかギガ・バイトの高速で動く情報量が、知識集約型の社会を決定付けるとして、リニア型と螺旋型の発展の相の違いを論じている。
そうなると知識集約型の社会を決定付けるのは、知識の量ではなくて質に関わっているから、当然のことで選択され洗練された情報として、インテリジェンスが決め手になっている以上は、その精緻としての知恵や慧智が主人公になるとする。
ここを出発点にして価値評価の分岐が始まり、トフラーが論じる形に顕れる富に対して、そんなものは場の理論からして幻影に過ぎず、それにこだわったことで誤りが始まってしまい、賎民資本主義に迷い込んだのではと疑問を提示した、藤原理論を支えている基盤があるのではないか。これが「富の未来」を読んで感じたことである。

102藤原肇:2011/02/27(日) 08:36:01
気休めのつもりで伊藤敦夫の『永田町「悪魔の辞典」』を読んだが、本人が「あとがき」で「ビアスの域に達するには、まだまだ時間がかかりそうだ」と書いているように、美術館の名画の前でーにキャンバスを立てて模写し、本物に肉薄を試みる努力はなかなかである。日本にもアンブローズ・ビアスの観察眼に憧憬の気持ちを抱き、悪政の支配した魔窟に生きたのに病魔に感染されず、70に近づいた段階でこれだけの達観を得た人がいたことに感心した。だが、永田町が舞台だのに人物の実名が削られ、誰のことかは行間でも読み取れないほど、綺麗さっぱりと化粧が施されており、それが出版実現の理由だと読み取れた。
副島隆彦とその弟子たちによる『悪魔の用語辞典』は、ビアスの皮相な観察眼と語り口に啓発されて出来たとはいえ、知識を寄せ集めた卒論的な肩にやけに力の籠った本だったが、それに較べてこの『永田町「悪魔の辞典」』は五代目の古今亭志ん生の芸に似て、軽い語り口の奥に洞察と知恵が潜んでいる感じで、腹の底から笑いがこみ上げる思いが何度かした。おそらく、長年にわたり魔窟の空気の中で息を殺して生きていたので、プラトンの洞窟の影絵を見続けて仕掛けの秘密を知り抜くに至った体験が、これだけの心の余裕を生んだのに違いない。その代償は亡国政治として国民が尻拭いをさせられるにいたっているが・・。
その事実を著者自身がが「永田町は結局、政界という魔窟に住み、政局に生きる者たちの世界」と指摘しているので明らかだが、魔窟に棲みついているのがゾンビであり、これは「Japan’s Zombie Politics」のパロディー版だとの印象を持った。
それにしても、流石に政界の裏表に精通している人だけあって、日本の政党は『雨傘政党』だとの表現は言い得て妙であり、最近の日本では集会や会議が居酒屋での「飲み会」になり果て、政党は公金を使った「飲み会」の別名だと理解できたし、ウィットという点ではなかなかのでき具合になっていた。著者の筆法はユーモアよりもエスプリに属し、著者の政治生活を通じての転変が、あのタレイランの若き前半の足跡に似ていたがゆえに、この境地に達したのだろうという印象を持った。
ということは、日本の祭りごとには天岩戸の前の乱痴気騒ぎ以来の伝統が、永田町や各都道府県の県庁所在地に岩戸がある仕掛けになり、ザンビアやコンゴ以下の部族政治の文化が日本国中に蔓延しているから、文化勲章や文化の日が国民の祝日になった意味が分かる。日の丸の白と赤の色彩は混ぜるとピンクになり、メコンの伝える悲劇の水音の響きによれば、日本版の清和会内閣から菅内閣に続くソフトなクメール・ルージュは、亡国のネオコン政治の色合いと売国路線の実態が、実は桜色だったと納得した次第である。

103藤原肇:2011/10/13(木) 21:30:59
「まえがき」を読んだ段階で既視感(デジャビュ)に捉えられたのは、この『原子炉時限爆弾』と題した本の初版出版日が、311地震(中曽根大震災)の六か月前だったからだ。実は私の処女出版の『石油危機と日本の運命』も、1973年秋の石油ショックの六か月前に出版されていた。しかも、私の本の記事は1971年の『文芸春秋』に活字になった記事や、72年に『日経』の「経済教室」に何回も出た記事があったのに、十社以上断られて最後にサイマル出版会から出ている
文芸春秋社は「石油危機が来るなんていい加減な話は、雑誌ならまあ良いが単行本として出すなんて、無責任なことは出来ない」断ったし、日経は「日本の財界人は石油の重要性を知っているから、頑張ってエネルギー政策を重要視しろと書くなら良いが、藤原さんは日本の財界人人は石油の重要性に無知だと書くから、うちからは出すわけにいかない」と断った。
その時に日経の外報部の大原記者が、自分は『セブンシスターズ』などの翻訳を出しているから、出版社を知っているので探してあげようといって、サイマルに話を持って行ってくれた。そして、初版3000部をハードカバーで刷ったが、最初の六か月では1000部も売れなかったが、六カ月後に予測が当たってベストセラーになり、数万部ほど読者を獲得したのだった。似たようなことは広瀬隆さんの本でも起きたようで、初版の六カ月後に出た私の入手したものは六刷りということになっていて、40年前に私が体験したのと同じことが起きたようである。

104藤原肇:2011/10/13(木) 22:57:53
広瀬さんは「まえがき」で「ここ十数年ほど、原発の大事故の確率はどんどん高まっているが、逆に、大事故がどれほどおそろしい惨事であるかについて解説する報道がバッタリ途絶えて、ほとんどの人が知らないため、原発事故を化学工場の事故と同程度に考える人が増えて来たことは、あたかも羅針盤なしで航海に出ているような状態で、気が気ではない」と書いている。私も本が出まで十社以上断られ時間が過ぎて行くので、気が気ではなかったのを思い出す。
石油ショックで日本中が混乱しトイレットペーパーの買い占めなどが起きた後で、通産大臣だった中曽根が『海図のない航海』と題した本を出し、英雄気取りで諸葛孔明になったつもりで「出師の表」を引用していたので、この男の無責任さと愚劣さを嘆息したものだが、実は中曽根は核武装のために原発作りを推進していたのだ。そして30年後に中曽根大震災を発生させ、日本を放射線汚染で地獄列島にしてしまったのである。
 広瀬さんは「核戦争の危険性を警告する名画は『猿の惑星』や『博士の異常な愛情』」など数えきれないほど制作されたが、原発事故を描いたドラマは、これまで史上この作品一本だけである」といって、「チャイナ・シンドローム」の悪夢について取り上げている。そして、「その放射能放出のために、州都の貼りスパークはパニックに陥って、母親たちが乳飲み子を抱いて逃げまどい、原発周辺では次々と目を疑うような植物の不気味な異常や、住民の白血病、癌の大量発生が起こって、それを州政府とアメリカ政府が今日まで隠し続けて来た」と書くが、まさにこの状況は県知事や日本政府の態度とそっくりだ。しかも、最近のことだが招かれて鹿児島の飯山一郎さんを訪れて目撃したが、連日のように子供を抱えた母親や多くの家族が放射能を恐れて、鹿児島まで逃げて来ていたのを目撃してしまった。
 それに加えて「闇に葬られた秘密報告書」のところには、「日本政府は、大量の死者が出るという、あまりにおそろしい被害が予測されたために、国家ぐるみでその報告書を葬ったのである。・・・その秘密の作業の中心にいたのが、東海村の原子炉導入に奔走した白洲次郎であった」と指摘し、図面の矢印の範囲について農業ができない地域だとして、「日本全土で農業ができないのだから、日本人が日本列島に住めないと考えてよいだろう」と書く。だが、「この事故の条件は、出力16.6万キロワットの東海発電所で大事故が発生し、わずか2%の放射能が放出された場合を想定して、日本全土が壊滅する、という結論であった」と書いてあるのを読み、福島原発の事故より遥かに小さいので愕然とさせられたのだった。半径1000kmの範囲に日本列島はスッポリ入ってしまうのだから、次の慎太郎大震災の破壊力は絶望的だということになる。

105千々松 健:2011/10/16(日) 22:57:17
>103
1973年10月13日は小生の結婚記念日ですが、その頃にトイレットペーパー騒ぎがありました。その半年以上前から石油危機の警鐘を鳴らしていた藤原博士のことを当時は失礼ながら存じませんでした。「原発炉時限爆弾」の本が出されて半年後にフクシマ第一原発事故が発生していることとカサネると不思議な時間差を感じますね。この2011年10月13日には書店で東日本大震災関連の本を一堂に会して展示している中に広瀬氏の本も見ていたので、まさにシンクロニティです。

106山中:2011/10/17(月) 12:06:22
「予言者は故郷に受け入れられず」と昔から言います。それは大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです。
その点で広瀬さんや藤原さんの洞察力が受け入れられないのは当然であり、空きめくらの前で危機を予告してもわからないわけでしょう。

107亀山信夫:2011/10/21(金) 16:31:07
藤原さん、貴重な広瀬隆の著書『原子炉時限爆弾』の御紹介ありがとうございました。特に、目を引いたのが白洲次郎に関する記述でした。

*****************
それに加えて「闇に葬られた秘密報告書」のところには、「日本政府は、大量の死者が出るという、あまりにおそろしい被害が予測されたために、国家ぐるみでその報告書を葬ったのである。・・・その秘密の作業の中心にいたのが、東海村の原子炉導入に奔走した白洲次郎であった」
******************

ご存じのとおり、白洲には四分の一だかのユダヤの血が流れており、かつ吉田茂との結びつきが深いことから、バックは英国であることが容易に読み取れます。

同時に、皇室インナーサークルの栗原茂氏と、『月刊日本』の論説委員・山浦嘉久氏からも、今日でも白洲の流れを組む某組織の存在を教えて戴いています。この組織は相当の影響力を今の日本に及ぼしているとのことです。

ネット界では未だに電通云々というテーマが主流ですが、上場を機に既に電通には昔日の勢いはなく、上記の新しい勢力が日本に台頭しているのに注意すべきなのでしょう。このあたりは、明日都内で山浦氏に会いますので、忘れなかったら色々と情報を引き出してきたいと思います。


ところで話は変わって、106の山中とさんとやら、「大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです」と偉そうに書いているが、それが本当だとしても、余りにも同胞である日本の庶民をバカにした書き方だと思わないのかい? 貴殿は自分のことを何様のつもりだと思っているのか…、と聞きたい気がするなぁ。

108T.N.:2011/10/22(土) 13:48:35
 白洲次郎は数年前ブームになり、いろいろな本が出版され、NHKドラマにもなりました。どういうところが
持ち上げる人間を決めるのかわかれば、面白いでしょうね。

109家頁百薬:2011/10/23(日) 00:34:14
思うに、ひとつには、日本国憲法の改正を目論む勢力、が あると思いますね。

110asa:2011/10/23(日) 22:58:11
誠に恐れ入りますが、自分は敢えて偉そうなことは言うつもりはありませんし、
自分と異なる意見や投稿内容に対して何ら批判するつもりはございません。
下記のご投稿内容については、決して間違っているものとは言えないと思いますが、
「余りにも同胞である日本の庶民をバカにした書き方」だとは決して思っておりません。
逆に、余りにも同胞である日本の庶民をバカにしたと感じられる神経そのものも、
異常では無いかとさえ感じてしまうところもあるのですが。
だが、人それぞれ感じ方というものに根本的に異なるところもありますので、どう
どう感じるのかは、個人の勝手だと思いますので、気にする必要は何処にも
無いし、何ら相手にする必要もありませんので、どうか気になさることは、
お互いに気にする必要は無いのでは無いでしょうか。

「大衆は目先のことや利益になることにしか関心がなく、嫌なことは無視したがるせいです」

111藤原肇:2012/10/17(水) 21:50:59
鶴岡真弓の書いた「黄金と生命」を読み終えて、思わず「ううん・・」と感嘆のうなり声を発してしまったが、これだけの内容の本を仕上げる日本人がいたと知り、心から嬉しいという幸福感に包まれたと白状したい。この本はヨーロッパの読者に向けて書かれたといって良く、もしもヨーロッパの言葉にでも訳されて、選ばれた良質の読者に読まれたらいいと思った。
最近の日本についての評判は地に堕ちており、余りにもお粗末な人間が政治を弄び、世界から嘲笑と顰蹙を買っている日本は、日本人と名乗るのが恥ずかしいほどで、未熟で愚劣な連中に弄繰り回されて情けない限りだ。そういった日本の悲しい現状に対して、本書は世界スタンダードをクリヤーする水準のもので、ケルト文化を足掛かりに文明史に取り組み、ユーラシア大陸の次元で歴史の英知対決しただけあり、これだけの該博な人物がいたのかと日本人が再評価されそうで、大いに名誉を回復し得るのではないかと思った。
錬金術の歴史と信用について扱った本書は、シンボルとしての光り輝く黄金と信用を論じ、時間差を操る魔術がが生み出す価値のずれが、経済的な価値の虚像を描き出すシステムとして、芸術家らしい時間の遠近法として分り易く見せてくれる。
本書を読み終えた記念に巻末に読後感として、私は熱気に包まれて次の文章を書きつけた。
日本人のイマジネーションの欠如のために
天の溶鉱炉の産物で太陽の黄金である
プルトニウムを地上に持ち込もうと試み
金儲けのためのマネーとして金メッキを施し
欲張り爺が死の灰を地上にまき散らした

112千々松 健:2012/10/18(木) 22:09:53
>94 2010/01/05(火)の投稿を想起する機会を得たので、今の時点にて編集し直します。

「論理哲学論考」の冒頭でウィトゲンシュタインは
①「成立している事態の全体が世界である」
②「対象の配列が事態を構成する」と簡単に言ってのけています。

それを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば
①は「神聖方陣」で
②は「ラセンモデル」と言えるでしょう。

①は陰陽で成立している現象(論)としての世界であり、
②の対象とは実体(論)としてのフィボナッチ数列で、
対象の配列とはFLKM系列の4つの数の流れ(配列)に相当します。
FLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)です。

また、①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

そして「山中4因子=iPS細胞を生み出す特定の4つの遺伝子」の発見も、この「逆序」に関係していると考えられます。

113千々松 健:2012/10/22(月) 18:24:26
鶴岡真弓さんの「黄金と生命」の本が届いたので早速見開くと、挿絵や写真のアナログ情報は全て左側のページに印刷されていました。これは左脳と右脳の情報処理の特徴が活かされていると思いました。これが第一の好印象です。
次に、目次から数分で読み飛ばした限りの第二印象ですが、ユーラシア大陸の極東(日本)と極西(アイルランド)に位置する二つの時空を超えた文化人類学を日本女性が博学をもって展開しているようにも読めるコトです。
先日のNHKで松任谷由実が彼女とケルト文化を紹介する番組が放映されたばかりでしたから、より興味が湧きます。秋の夜長にじっくりと読んでみようと思います。

114NHK:2012/10/25(木) 09:39:25
ジョン・パーキンスが何度も試みて最終的に出版した、苦渋に満ちた「エコノミック・ヒットマン」は回顧録であると共に、理想の共和国が搾取の帝国に変貌した米国への告発録であり、全世界に向けた良心の呵責に基づく懺悔録だ。
LA INTERNATIONALという経済誌の2002年の1月号に掲載された、「落合信彦 オイルマン伝説の終焉」と題した記事は、鹿砦社から上梓された奥菜秀次の『捏造ジャーナリスト落合信彦』に収録され、多くの読者に注目された記事である。
第三回目のこの記事の前に二つ記事があり、それを読めばペテン師の落合が日産10万バーレルを掘り当てたという、エクアドルの油田開発のホラ話の時期が、エコノミック・ヒットマンの物語に重なっている。そして、略奪と侵略の蛮行だったことにも気づかず、この鉄面皮の小説家は自慢話の形ででっち上げ、英雄行為として自慢して得意になっている。
しかも、嘘とでっち上げで落合の小説に多くの日本人が騙され、落合の石油ホラ話や外人部隊伝説の影響で、若い青年が外人部隊に志願して人生を誤り、エネルギー政策の失政に加担したことは、小説家の虚言の影響力の恐ろしさを示す。
だが、落合信彦はチンピラ作家に過ぎないし、化けの皮が剥がれていている今でも、日本のメディアから追放されないで虚言を吐き続けているのは、メディアがコーポレートクラシーの一部だからだ。落合はパーキンスに較べれば能力は一万分の一以下で、単なる作家で口から出まかせ専門だが、日本中に詐欺師が蔓延するきっかけを作り、ミニヒットマンだから書評に取り上げてみた。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-1818.html#more
だが、エコノミック・ヒットマンは途上国を騙して、絶望的な人たちから搾取することで、野蛮な資源簒奪をして儲けることを狙う、コーポレートクラシーの実践者であり、現代版の奴隷商人として富を築く吸血鬼だが、三文小説家とは桁違いの犯罪者でもある。
http://www.youtube.com/watch?v=17mE5fPQjt0
しかも、パーキンスは過去の犯罪行為を懺悔しているが、日本のエコノミック・ヒットマンとして財をなし、神話で虚名を飾り立てた経済界の頭目たちは、松下幸之助、稲盛和夫、竹中平蔵、宮内義彦、孫正義を始めとした、株券というニセガネを操る闇紳士が、国富を食い荒らす売国行為をしたのに、誰一人として懺悔せず告発もされていない。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/3cc41bdedcb0edf0b982b93e305d65cc
その後に現れるのがジャッカルのはずだが、小泉純一郎、菅直人、野田桂彦、前原誠司などは、ネオコンに飼いならされたポチ公で、残飯あさりのハイエナに過ぎない。

115千々松 健:2012/10/25(木) 20:46:10
新井満氏の「自由訳・老子」を読んだ。
2箇所を引用します。

『万物は一つの例外もなく
時の流れと共に変化する
変化した末に亡び
さらに変化した末に再生する
いいかね
こらが万物を産んだ
天と地のはたらきなのだ
したがって万物とは一つ残らず
存在即ちモノに於ても
現象即ちコトに於ても
相対と変化の力にさらされることになる』p92

『この宇宙を
くまなくとうとうと流れつづけている
いのちの巨大な運動体
宇宙大河を...
それが道(Dao)の実相さ
(中略)
天と地と万物の
生と死と再生をつかさどり
あまねく変化させながら
宇宙の果てまで流れていっては
また流れもどってくる
メビウスの帯のように循環し
永遠に流れつづけているのだよ
ゆったりとおおらかにね
これが、道(Dao)さ』p13-15

116千々松 健:2013/01/18(金) 23:42:46
同世代の篠原資明氏が最近書いた「空海と日本思想」のように、プラトンの基本系<美・イデア政治>と空海の基本系<風雅・成仏・政治>をカサネて思考するならば、我田引水になりますが、その先は<●▲■の流儀>に帰着せざるをえないことが良く理解されるでしょう。
例えば、美(●)・真(▲)・善(■)であり、Want・Plan・Actionであり、父・聖霊・子であり、様々に変奏ないし、変容されているコトが見て取れるのです。それは分野を越えて展開されて、まさに重重帝網の如くになるのです。

65歳の誕生日に合わせて下記を更新いたしましたので、ご覧ください。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/field.pdf

117千々松 健:2013/01/31(木) 18:14:17
大日経にある「三句の法門」すなわち『菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟となす』を引用して、空海は「一切の教義、この三句に過ぎず」「三句を束ねて、以って一つの吽字と為す」と言っているという(吽字義)。(篠原資明著「空海と日本思想」岩波新書 P82を参照)

この三句を三密に置き換えて考えてみると、1)意密、2)口密、3)身密となり、例のWant-Plan-Actionの三拍子にカサネられるから「●▲■の三拍子でワルツは踊ろう!」に繋がると考えた訳です。
そして、美を欲し(ウォント)、真を探り(プラン)、善を行う(アクション)と考えられるので、まさにプラトンのイデア論と空海の真言密教とは相似象になるのです。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/field31.pdf (再度の更新版)

それにしても、阿吽の呼吸の「吽」の文字一つに凝縮する発想は三位一体のそれを超えるものですね。

118千々松 健:2013/02/03(日) 22:51:34
「吽」の文字一つに凝縮する発想をした空海に触れたところで、以前、藤原肇博士が「世の中には求心型と遠心型の二種類の思考形態があり、日本は求心型でドンドン集約して行くので、縮み思考の日本文化と言われている・・・」の一文を思い起こしました。
また、口と心と行と三つ揃ったまことを命(ミコト)と言うし、生きて行くための命(ミコト)の智慧が「生命知」ならば、生命知は「三句の法門」であり、「●▲■の流儀」であり、日本古来のフトマニ図の中央にある「アウワ」であります。更にイメージ動力学を働かせれば、レオナルド・ダ・ヴィンチがジョコンダ(モナリザ)に描き込んだコトでもあったのです。
それに、博士の三部作「間脳幻想」「宇宙巡礼」「生命知の殿堂」は三つ揃ったミコトに相当するかもしれませんね。
また、釈迦が亡くなる際に若い弟子たちに遺したコトバであるパーリ語の「ヴャヤ ダンマー サンカーラー」(漢字で示せば「生・法・行」)が思いだされます。

119千々松 健:2013/02/04(月) 16:37:13
先日、生命学者の福岡伸一氏が西田哲学を訪ねるNHKの番組に登場していた。「動的平衡」論で生命知を研究している福岡氏にとって、西田哲学は新鮮かつ有用であったに違いない。
「生命は多と一との矛盾的自己同一」と云う西田の考えは、清水博氏の「二重生命の循環」にもカサネられると思う。
一筆書きの円相図「○」を好んで描いて万象をイメージしていた様子がうかがえた。

120千々松 健:2013/02/04(月) 16:42:34
>94および>112に書いたことを以下のように再度修正させていただきます。

哲学者のウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」の冒頭で
①「成立している事態の全体が世界である」
②「対象の配列が事態を構成する」と言っています。

これを「21世紀マンダラ」モデルに置き換えれば
①は胎蔵界曼陀羅に似た「ラセンモデル」で
②は金剛界曼陀羅に似た「神聖方陣」と申せましょう。

①は陰陽を含むラセンで成立している現象論的な世界(万象)であり
②の対象とは実体論としてのフィボナッチ数列と循環する4つの数の流れ(配列)に相当し、このFLKM系列が自己増殖するように構成されたプログラムソフトの本質(論)に当たると考えたのです。
①が結果で②が原因であるし、①が陽=順序で、②が陰=逆序であり、①と②が揃って宇宙の秩序(陰陽太極図・ト―ラス)が現わされている訳です。

121千々松 健:2013/02/04(月) 20:49:29
西田幾多郎が太平洋戦争の終戦二ヶ月前に稲村ケ崎の自宅で亡くなった際に、鈴木大拙が傍にいて号泣したという話を、今でも残っているその部屋を案内した西田の孫が語っていた。金沢が同郷で同級でもあり、晩年には同じく鎌倉を棲みかにしていた二人の仲を想う。
そして、鈴木大拙と言えば仙突の「○△□」に触れなくてはならない。

「生命知の殿堂」インテルメッツオ40<仙突の宇宙図>
http://blogs.yahoo.co.jp/mochy2156/51000731.html
出光美術館にある仙突の作品「○△□」について、「・・・出光佐三が仙突を海外に紹介した際、この作品の意味について議論したということが伝えられている。その際、出光が提案したのが『宇宙』を表わした作品としての解釈である。出光と親交のあった仏教学者の鈴木大拙はこれを受けて、自著の中で『The Univers』として紹介し、以降、海外では広大な宇宙を示した作品であるとして知られている」と解説されていた。

それにつけても「●▲■の流儀」は古今東西に普遍的な智慧であると考えられますね。

122千々松 健:2013/02/06(水) 12:21:39
「順序+逆序=秩序」の宇宙が現わされている「陰陽太極図・ト―ラス」について補足します。
原子モデルで有名な物理学者のニールス・ボーアは陰陽「太極図」を引用して、「Contraria sunt complementa」(対立するものは、相補的である)と述べています。
相対する歯車がある時、片方が右回りする時には、もう片方は左回りしますが、この二つの歯車は旨く噛み合えば回り、力が伝えられるが、外れたならば伝わらないことになります。

ボーアのタイチズはこちらから
http://blog.daum.net/gomildo/13624551 2008年

日本人によるアート化はこちらから
CONTRARIA SUNT COMPLEMENTA / 第5回ジャパンアートスカラシップ 1997年
http://video.the-search.jp/0/video/%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97/PaD6k-xoDgI.html

123藤原肇:2013/05/12(日) 11:31:53
この小説の存在を知ったのは5~6年前であり、「ミトコンドリアと生きる」という新書を読み、そこで著者が処女作について触れており、ミトコンドリアを主人公に小説を書くとは、面白いアイディアだと感じたものだった。そのまま久しく本と出合う機会がなく、何年か後に「生命知の殿堂」を纏めた時に、書架からこの本を見つけて再読し、いつかこの小説を読もうと思い数年が経った。そして最近だが古本屋でこの本に出会い、読み始めたら驚きの連続を体験したので、その読後感を記録しておきたい。
これだけ高度な専門知識を取り込んだのに、読者を引き込む書き方をする能力が、瞠目に値すると思わずにはいられなくなり、それをまず冒頭に記しておくと共に、こんな本を書いてくれたことを著者に感謝したい。私にはとても出来ないことに挑み、私の時間を節約する仕事を果たし、読むチャンスを与えて貰ったたことが嬉しい。いい本との出会いというものは、こんな印象を持つことだが、それが古典ではなく小説だったのが、思いかけない収穫だと感じた次第である。
ミトコンドリアの世界は地の最先端に属し、解説すること自体が一筋縄でないが、著者はそれを簡単に乗り越えている。30年前の私自身もそんな努力をして、不可能だとあきらめた体験があり、その後は解説は読者側に任せることで、私は問題提起と良いヒントを見つけ、それを記録することに専念してきた。そして、ドロマイトからマグネシウムを抽出して、それを未来のエネルギー源に繋ぎ、媒体としての水について考えた。その過程でシリカの問題が登場し、生命との関連で興味深いテーマと出合い、その問題を対談としてまとめて「フナイ」の二月号に発表した。
そんな時に「パラサイト・イブ」を読み、大いに啓発されてやって見る気になり、本当は珪素の問題の対談を続け、テーマを集約するのが当然だのに、その流れを私の独断で大幅に変更した。そして、急遽テーマとスタイルを数学の世界に移し、プラトン結晶の問題をフェルマーの最終定理と結びつけ、プラトンの師傅はソクラテスではなく、ピタゴラスとツアラストラだという、長年抱いてきた考えを公表してしまった。
こんなやり方は不用意だが、世の哲学者たちに対して、挑戦してみる気になったからだ。こんな気分にさせてくれたという意味で、「パラサイト・イブ」は衝撃的な本として、私の晩年にダイナマイトを投げ込んだテロリストの役目を果たしたのである。

124千々松 健:2013/05/12(日) 13:48:47
今日は「母の日」だから、ミトコンドリアの話題は大変相応しいですね。
真核生物の細胞を宿主として、好気性のαプロテオバクテリアなどがそこに入りこみ、そこで「ミトコンドリア」に為ったと考えられているという。
また、不思議なコトに、核DNAとは違ってミトコンドリアDNAは母系遺伝しかしないというから、そこに「母性の起源」(ミトコンドリア・イヴ)を観るようです。

125千々松 健:2013/05/14(火) 21:07:12
シュタ―ナ―の「遺された黒板絵」について『一見して、すべてが了解できた。見ればわかった。シュタイナーの黒板絵はパウル・クレーに匹敵するものだった。』と松岡正剛は千夜千冊の第33夜に書いている。そこで、パウル・クレーの記述に飛んで見ると、新たな知見が得られました。
「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ」。
我々の細胞内におけるミトコンドリアの共生(寄生?)を考える時、まさに清水博先生の「二重生命の与贈循環」論にカサネられるのです。
また「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」というクレーの日記に残されたメッセージも、芸術を広くとらえて科学、技術、哲学、数学などをも含めて考えるならば、より納得できそうです。
そして「芸術は長し、されど人生は短し」のヒポクラテスの言葉が想起されるのです。さらに、クレーの「スペーシャル・オーガニズム」論は、宇宙も人間も○△□でイメージされる3つの要素が融合されて一体不可分であると思考するコトにも通じるでしょう。
そして、空海が「吽」一文字で表わした内容は○△□の一体化に他ならないので、言葉=声は響きであるのでしょう。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/column/DFW.html

126千々松 健:2013/05/16(木) 12:48:11
<ヒトの遺伝子情報に観る数の不思議と21世紀マンダラの関連性を探る>
ヒトゲノムには核ゲノムとミトコンドリアゲノムがあり、核ゲノムは24種の線状DNAに分かれて染色体を形成しています。ミトコンドリアDNAは16569塩基対の環状DNAとして存在している。そして、DNAにはATGCの4種類の塩基があり、AとT、GとCが組み合わさる二重らせん構造を持つという。

さて、単なる数の遊びであるかもしれませんが、以下は持論との関連を述べます。
核ゲノムの24種とDNAの4つの塩基については、フィボナッチ数列を(mod 9)で処理し、さらに多次元化して現れる24項目で循環する数の流れが4種類(FLKM系列と命名)在るコトに繋がるでしょう。【 HMn≡FLKMchain(mod 9) 】
また、今話題のミトコンドリアDNAでは16569塩基対の数に注目です。9を法とする剰余演算では16569は0になります。【 16596≡0(mod 9) 】
さらに19569=263*9*7 で7が登場しますが、これも「ミトコンドリア・イブ」には7人の娘たちが居たはずであるという説に繋がるかも知れませんね。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st%20Century%20Mandala.pdf

追記:季刊誌の「kotoba」最新(11)号に「現代人は、ミトコンドリア・イブにつながっている」という対談が載っています。それに依れば、小生は縄文系と思ってきたが、どうも弥生人系に相当するらしい!(酒を飲むと顔がすぐ赤くなる体質なので)

127千々松 健:2013/05/16(木) 16:10:26
ラファエロの描いた「アテナイの学堂」にはアレクサンドリア学派のヒュパティアが白衣の女性科学者として描かれています。ユークリッド原論の編集者として有名な彼女の父であるテオンはここにはどうも登場していないようです。年相応に見える近くの人物はピタゴラスと見られているからです。
この「アテナイの学堂」を改めて観察すると、アーチ構図が特徴であり、中央に四重に描かれているのが判ります。(四重らせん構造への考察は省略)
また、若きラファエロはレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」を同時代に模写していた訳ですが、それは現在残されているルーブルの本物のモナリザ以上に意義があると思います。特に全体の構図に於いてです。
それは生と死と再生を一枚の絵にしたモノとして観る場合に尚更ですね。
そして、中央の女性象が「ミトコンドリア・イブ」に見えてくるのは私だけでしょうか? ダ・ヴィンチはもちろんですが、例のナポレオンもそう考えていたに違いないでしょう。ゲーテが「ファウスト」のラストで描こうとしたのも、このコト(母性回帰?)ではなかったでしょうか。
千々松さん、チョットチョットと言われそうですが、藤原肇博士が「パラサイト・イブ」に衝撃を得られたコトに図らずも共振してしまった次第です。

128千々松 健:2013/05/16(木) 22:08:29
昨日入手した季刊誌の「kotoba」最新(11)号には福岡伸一さんがマップラバーからマップヘイターへ自身を変化させた話も出ていて大変面白い。彼は細胞と細胞の関係を研究する過程で、「全体性を気にしないでマップヘイターとして細胞は行動しながら、全体としてはうまく調和がとれる。なるほど、生命とはこのようにできているのか、と気づいた私は、生物学者であるかたわら「動的平衡」をキーワードに本を書くようになりました。」と告白している。
たとえ遺伝子の全体地図ができたにしても、生命のあり方は解明できないと気づいた福岡伸一は単なる分子生物学者を超えた存在となったようです。
それにしても4年前に「21世紀マンダラ」を手渡す機会があったのですが、その中に生命のあり方に関するヒントが隠されているコトを彼が少しでも気づいてくれることを今は願っています。

129千々松 健:2013/06/11(火) 11:39:29
<3.11から3×9=27ヶ月目に当たり>
古くて新しい「日本のオペレーション・システム(OS)」を今こそ認識すべきです。
古来のフトマニと陰陽を統合したカタチで表わされる「21世紀マンダラ」モデルに注目しましょう!
そこにはフィボナッチ数列を包含するフトマニ数列群とそれが生み出す神聖比例や陰陽道の太極図にみる左右の渦巻きバランスとひふみ算による全ての数の有限化が見てとれるからです。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/21st%20Century%20Mandala.pdf

「世界を変えた17の方程式」という最新書でイアン・スチュアートは≪これからは無限から有限へと方程式のアルゴリズムは方向転換されるだろう≫と展望していますから、純粋数学者達もそろそろ気が付いてきたのではないでしょうか。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO55991070Y3A600C1MZC001/

130千々松 健:2013/06/20(木) 13:42:26
イアン・スチュアートは「世界を変えた17の方程式」p401の中で、『未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ』と述べていますが、これは無限連続から有限離散への数学の方向転換を促しているものです。
この離散数学は有限的で離散的な構造を扱う数学で、無限と連続で象徴される従来の数学とは大いに違い、コンピュータ・サイエンスの発展に伴い、その重要性は認識されているが、旧来の学校数学はそれに充分に対応していないというのが現状のようです。
更に、整数のカタチを取っていると言うことの意味ですが、例えば、12÷9の計算を考えてみましょう。これを1.33333...と小数点を含めて表現する場合が無限連続の数学で、商1余り3と整数だけで表現するのが有限離散の数学と言えます。そして、モジュラー計算(合同算術)では、12≡3(mod 9)と簡潔に表わせるコトになります。
大事なコトですが、これは「フトマニ数列群の出番である」と言っているのに等しいのです。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
この方程式は、神聖比例を生じるフィボナッチ数列の一般論として位置づけられるフトマニ数列(FMn)のアルゴリズムを示していて、9を法とする剰余算では整数のみによる循環(FLKMの4系列)で表わせるという合同式です。

思えば『神の数学』守護者さんからヒントを頂いてすでに6年が経ちますが、『日本古来のDNAの為せる業』がやっと『未来を変える方程式』として成就したという想いがいたします。
日本古来のフトマニに秘められた「二つを足して、次に正しく置く」というアルゴリズムとひふみ算術およびカバラ算術に共通する(mod 9)の復活が同時になされるべき時が遂に到来したのです。

131千々松 健:2013/06/21(金) 21:07:31
【FMn≡FLKMchain(mod 9)】という『未来を変える方程式』は「フィボナッチ数列や律動とラチオについて」「フィボナッチ数列の殿堂への夢」「モノとコトあるいはカタチとコトバ」等のレスに共通したアイデンティティです。
また、30年前のニューサイエンスの高揚がオカルト化の嵐の中で消滅したコトを反省して、あくまでも数学的な論理思考のコトバを持ったカタチで提示される「生命知の殿堂」のアーキタイプとしての方程式にも当たります。そして、それは全てのアーキテクチャへと繋がって行くのです。

132千々松 健:2013/06/24(月) 13:04:05
【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
:『黄金比(神聖比例)を生じるフィボナッチ数列(フトマニ数列群)は、法を9とするモジュラー算術で観察すると、24項目で循環する4つの数の流れ=FLKM系列を持っている』

「デュラックスピノル」についてはDNAの4重らせん構造をテーマにした時に触れていて、相対性理論と量子論の融合に寄与したポール・ディラックが示した4つのスピノルとFLKM系列の関係性について直観で述べていました。
また、『物理学には数学的な美が重要である』(ディラック)と『神は整数を作られた。それ以外は人間が作ったものである』(クロネッカー)をカサネてみる時、『万物は流転する』(ヘラクレイトス)、『万物は数である』(ピタゴラス)と古代ギリシア人が考えていたことは、改めて納得せざるを得ません。

133千々松 健:2013/06/25(火) 21:15:11
面白いことに、フトマニ数列群で0項を10、第1項を12にすると第9項目に618、第10項目に1000、第11項目に1618、第12項目に2618が現れる。これらは千単位で見れば、φ、1、Φ、Φ^2の近似値に相当する。隣り合わせの数の比が黄金比になるコトの整数レベルでの実例である。
http://homepage2.nifty.com/thinking-way-8W1H/FutomaniJ.pdf
スタートの10と12は2で割れば5と6の関係になるので、これは動植物に係る5という数と鉱物に係る6という数のコラボレーションにより生じる神聖比例数と言えようか?
フィボナッチ数列の一般式と位置づけて良いフトマニ数列群のアルゴリズムは「二つを足して次の間に置く」です。(パソコン上でエクセルなどの表計算なら、一つだけ計算式を作れば、後は簡単にコピーで済みます)
「世界を変えた17の方程式」でイアン・ステュアートが言う「未来は離散的であって、整数の形を取っており、方程式はアルゴリズム、すなわち計算のレシピに道をゆずるべきだ」とカサネて考えるならば、自ずとその意味が明らかになるコトでしょう。

134千々松 健:2013/06/26(水) 15:20:12
『世界をその最も奥深くで統べているものが、何であるかを認識し、一切の作用の力と種子とを目で観る』という行動をゲーテはファウストに課していた訳ですが、アートが芸術と科学・技術の両方を含めていた良き時代の「宇宙巡礼」でありました。
現代に生きるファウスト的人間といえる博士の「宇宙巡礼」は21世紀に入り、その数理的な裏付けが為されたのです。
武谷三段階論的に言えば、現象論:ト―ラス、実体論:Φとフィボナッチ数列、に対して最後の本質論は何かというコトですが、それはFLKM系列に関係すると考えられます。
下記の数式は、計算のレシピとも言えるアルゴリズムを示す合同式です。

【 FMn≡FLKMchain(mod 9) 】
Fchain:【0,1,1,2,3,5,8,4,3,7,1,8,0,8,8,7,6,4,1,5,6,2,8,1】
Lchain:【0,2,2,4,6,1,7,8,6,5,2,7,0,7,7,5,3,8,2,1,3,4,7,2】
Kchain:【0,3,3,6,9,6,6,3,0,3,3,6,0,6,6,3,9,3,3,6,0,6,6,3】
Mchain:【0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5,0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4】
24項目で循環するフィボナッチ(F)系列が基本となっていて、リュカ(L)系列はF系列を2倍したもので、ケン(K)系列は3倍したもの、ミチコ(M)系列は4倍したものに該当します。もちろん(mod 9)で処理します。また、0を起点にして観察すると、各項目は足し算することでも一致します。F+L=Kは例えば第6項目ではF8+L7=15、1+5=K6となり、F+K=Mは同じくF8+K6=14、1+4=M5となります。1倍と2倍を足したら3倍になり、1倍と3倍を足すと4倍になる理屈です。
では更に広げて、2倍と3倍を足したら5倍になる数列は考慮しなくていいのでしょうか?
それを仮にP系列としましょう。
Pchain:【0,5,5,1,6,7,4,2,6,8,5,4,0,4,4,8,3,2,5,7,3,1,4,5】が考えられます。
しかし、これはMchainを後半からスタートさせた系列に一致するのです。9-5=4だからです。
9-6=3、9-7=2、9-8=1以下省略で、法を9とする限りはFLKMの4つの系列に集約されてしまうのです。
まあ、何と有限で幽玄な世界が現れるのでしょう!


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