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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

2:2005/05/10(火) 06:37:22
(無題)
私は、フランス人に日本語を教えるときは基本的に標準語アクセントを使うよう努力しました。たとえば日本人がマルセイユのなまりで下手なフランス語を話していたら、違和感が大きいので、そういうことがないようにです。( もちろん完璧なマルセイユ語で話したら、そこで育ったんだと思えますが。)イントネーションだけに限ると、関西なまりはTVでもよく聞くし、アナウンサーになるのでなければそれほどハンディにならないのでは?
 フランス人の生徒には最初から丁寧語だけ教えました。「書く」「読む」とか、原型を覚えても、実際の生活では、原型ではおかしいし、生徒が若い人たちだから、日本に行っても目上の人と話すことの方が絶対多いと思ったので。丁寧な言い方を崩す方は、簡単だと思うので。ちなみに私はフランス語でGros motsと呼ばれる「悪い言葉」はもちろん、くだけた表現も一切使わないようにしてきました。そういうものは環境によって身についたなら別ですが、大人がわざわざ習って口にするものではないと思うので。それで、うちはそういう言葉をまったく使わなかったので、子供達まで、口に出来なくなり、友人関係でハンディになっていると文句を言われました。私は、うちと外で適当に使い分けているとばかり思っていたのですが。娘達のボーイフレンドから、彼女らがきれいな言葉しか使わないといい意味で指摘されたこともあります。
 リセの生徒には、たとえば、目上の人に絶対2人称を使わないように徹底的に訓練しました。たとえば、フランス語でも、たとえばデザートを食べた招待客に、「これ、おいしいですね。誰がつくったの?」と問われたら、母親の方をむいて、「C’est elle(彼女です)」と答えるのは失礼で、「C’est maman」というのが丁寧です。これを納得、確認させてから、日本語では母親に2人称も使えないことを説明しました。基本的な敬意の気持ちがあれば、いいのではないでしょうか。後、いわゆる接客用語とかはマニュアルを見て訓練するしかないのでは?
 私はフランスに暮らしてからの方が関西なまりがよく出ます。東京にずっといたら東京風がすぐうつりますが。でももともと、親代々が関西というのではなく、父は鹿児島出身でしたし、神戸生まれの母も、両親が関東大震災で焼け出されて神戸に出てきたので、祖父母は東京なまり、それで生活用語に関東イントネーションが伝えられました。私は、今でも覚えていますが、マッチとか、ガソリンとか、白菜とかいう単語を発音すると関西の友人に「変だ」と言われ続けたので、そういう言葉を口にするときは緊張していました。
 田辺聖子さんのような流ちょうな関西弁などもとよりしゃべれないので、今は、イントネーションでちょっとローカルを味わうくらいです。でも、関西で講演したりすると、自然に関西なまりになります。そして、何より、外国で長く暮らしていると、母国語のなまりなんか相対化され、全部なつかしい日本語という気になります。イントネーションは話し言葉におけるヴァリエーションであって、話す内容があり、コミュニケーションしたいという心があれば大きな障害にならないのでは。それにこの頃は、特に若い人は、そもそもイントネーションをあまりつけずにフラットに話すのが流行りみたいだし・・・ やっぱり、相手をリスペクトする心と、話す内容と、伝えたい意思の3つが重要では? それと、堂々と話すとそれがその場の標準語になるってケースも見ました。話者に個性とカリスマ性があればね。
 また、イントネーション云々以外にも、鈴を振るようなきれいな声の人とか、魅力的な表情で話す人とか、もともと条件のいい人も世の中にはいるし、羨ましいこともありますが、ないものはないし、与えられたものでやっていくという思い切りも必要なのでは? 逆に、世の中には、声をうばわれた人や、コミュニケーション障害の人もいます。美記さんのように美しい声で歌ったり曲を奏でたり出来る恵まれた人は、方言を消したいという後ろ向きな気持ちより、フランスでフランス語を習ったように、今は新しい場所で新しいコミュニケーションの可能性を広げていこうという楽しい気持ちで過ごしてください。そしたら、美記さんとお話をする人にもきっとその楽しさが伝わっていくのではないでしょうか?

3:2005/05/11(水) 11:18:31
福知山線事故で助かった乗客の発言について
福知山線の列車事故で、助かった方が取材インタビューで「なくられた方の分も生きよう」という発言をよくされていて、違和感を禁じ得ません。
その場に居合わせた同士がある事件・事故に巻き込まれて、何かの縁を感じるにしても
「生き残った人だけがそれを感じ、そしていえる」という状況がとてもつらいのです。
周囲にそう漏らすと「わかるような気がする」といわれてしまいます。
マイクを向けられると「そのようなことを自分もいってしまうかもしれない」
というのです。私にはまったく理解できません。
鎮魂の気持ちをこのように表現してしまうのは日本特有な心性なんでしょうか?
竹下先生はどのように感じられますか?

4:2005/05/12(木) 02:57:46
生かされることの「気づき」
 「亡くなった人の分もがんばります」という言葉が受け入れられる場面は、普通、志を同じくした仲間同士がいて、そのうちの何人かは志半ばにして捨て石として亡くなり、「自分たちの死を無駄にしないで志を果たしてほしい」と言い残し、それを受けて、残された仲間ががんばることを誓う、というシーンではないでしょうか。だから、別に互いの面識のなかった事故の犠牲者同士が、「亡くなった人の分も生きよう」というのは、本来、誤用というもので、違和感を感じる方がいらっしゃるのは当然だと思います。しかし、誤用であろうとなかろうと、大事故から生還した人がそのショックから立ち直るためとか、理由のない罪悪感から逃れるためとかの「手立て」としてそのフレーズが機能するならば、それはそれで良いと思います。
 また、大事故の生還者は少なくとも一時的には出来事の「証人」として生きることを要請されてしまいます。匿名でなく、突如としてパブリックな存在になるわけです。つまり一種の「責任」が生じてくる。世間は、こんな人に、一週間後に酔っ払って線路に転落して死ぬとか、児童無差別殺人をやるとかしてもらいたくないわけです。「あんなやつならあの時死んだ方がよかったんだ」とか「あんなやつがあの時生き延びて、別の立派な人が死んでしまったのは不条理だ」とか、世間から価値判断が下されることを、「証人」はプレッシャーとして感じていて、「生還した」という「選ばれた人間」に恥じないように生きます、という意味もあるのでしょう。そうするとその裏には、亡くなった方は「選ばれなかった人」という価値判断が入ってくるので、それに違和感を感じることもあるのだと思います。(もっともアウシュビッツでランダムに餓死刑を宣告されたユダヤ人男性が自分には家族があって、と助命を乞うた時、コルベ神父が私には家族がないから私を、と身代わりを申し出て代わりに死んだという有名なエピソードがあります。この時助かったユダヤ人だって、結局ガス室で死ぬ確率は高かったわけですが、ホロコーストを生き延びた上、すごく長生きして、コルベ神父が福者や聖人の称号を獲得する度に証人として登場しました。こういう話を聞くと、「いただいた命を大切に」という言葉がぴったりですし、死んだ者が「負け組」という単純な判断は崩れてしまい、それが人間ドラマのおもしろいところですが。)
 ともあれ、そのような価値判断を保留するとしたら、この言い回しのもとには、もう一つ、「幸不幸の総和は同じ」という、よく知られた人生観があります。どんな人も死ぬときにはプラスマイナスゼロになるようにできている、若くして大きな幸運を得た人は晩年に苦しむとか、金があっても家庭運に恵まれないとかいうやつです。これを敷延して、ひとつの家族の中で、若くして死んだメンバーがあれば、残った人がその人の分も長生きする努力をするとかになりますし、同じ事故に遭遇した人々の寿命の合計は遭遇しなかった場合と同じで、生き延びた人は夭折した方の寿命の分をいただいたのだから体を大切に、という発想にもつながるわけです。これも、人生における「不当感」を納得するための「手立て」として多くの人に共有される知恵の一つとして機能しているのでしょう。
 けれども、いかにあれこれ理屈をつけようと、人生の幸不幸や事故における生死を分ける規則は、多分、存在しません。ある人が、健康に気をつけようと、精進しようと、努力しようと、自堕落でいようと、害虫のように嫌われていようと、実は、幸も不幸も、病も事故も死も、大局的には「すべてランダムに起こる」のです。日ごろの行いも、血液型も、生まれ月の星座も生まれ年の干支も、みな異なる人たちが同時に、いっせいに命を失う航空機事故などを見ても明らかです。戦闘機に乗っても死なない人もいるし、自転車に乗っていて事故死する人もいます。もちろんそういう不条理の前で人は「運命」を口にしたり、「神のみ旨」を口にしたりして、何らかの「意味」を探るわけです。そして戦争や大事故などで生き延びた人は、そういう「運命」との取引の意識を強くし、処世観が変わるのでしょう。
 たしか、90代で現役医師の日野原重明さんは、50代でよど号ハイジャックを経験した時に死を覚悟して、生きて帰れたら余生は人のために尽くそうと思われた、と読んだことがあります。大病から回復された方がその後で大きな仕事をするという話も聞きます。それはその人の個性でもありましょう。「もうけものの命だから、余生は思いきり享楽的に生きよう」と思う人だって多分いるに違いないからです。失くしたと思っていた大金入りの財布が思いがけず出てきた時に、一度失ったものだからと思って金を慈善事業に寄付する人も、ないものだと思って散在してしまう人もいるでしょう。しかしその「なくした財布」の物語が、「生と死がくっきり別れた大事故」などのように社会性を持っていたり、歴史的事件が個人の人生を横切ったような場合、人は個性だけで行動を決定できないで、何らかの「分かち合い」を必要とするのかもしれません。
 ちなみに、この「亡くなった方の分も生きよう」というのが「日本的心性」かどうかを確認するため、数人のフランス人に聞いたところ、「そういう言い方は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人がよく言っている」と言われました。ナチズムによる明らかな「人災」で無実の600万人の同胞が殺され、その犠牲を無駄にしないように、繰り返されないように努力しよう、というわけで、「長生き」もそこに入り、「犠牲」は同胞の長生きの「代価」でもあります。そこで「普通よりうんと長生きする」と決意するとしたら、それはナチスの平均寿命とユダヤ人の平均寿命の総和を同じにしようという、例の「総和は同じで納得する」バランス感覚による不当感の解消や、一種の報復意識もあるのでしょう。
 ここでどうしても思い出すのは、田川健三さんが、今の大学生には全然理解してもらえないとおっしゃっている福音書の中の例の葡萄園のたとえ話です。朝から日没まで働いた人の日当が1デナリオンで、午後から働いた人も、日没の一時間前に雇われた人もまた1デナリオンもらえたので、一日中働いた人が文句を言ったという話です。葡萄園の主は、最初から1デナリオンの約束でその通り払うのに何の文句があるのか、自分は自分の金を好きなように支払う権利がある、というようなことを答えます。
 田川さんは、たとえば1デナリオンは日雇労働者が一日生き延びる最低の賃金だと想定し、日没近くまで仕事にありつけなかった人は、その日飢えて外に寝るしかなかったところを、最後に雇ってもらえて最低賃金をもらえたのだという趣旨のを解説します。十分の一の賃金では生きていけないからです。キリスト教的発想は、たとえば労働量に見合う賃金というメリットの発想でなく、すべての人が人間らしく暮らせるように、一日中働ける強い人や朝に仕事を見つけた運のいい人は、働けない人や職のない人と賃金を分かち合っても当然だというのです。なぜなら運や力の強い人の強さは、自分の徳ではなく、たまたまそうであっただけであるからです。でもこの話を聞くたいていの学生は、一日中働いた人が一時間の人と同じ賃金では「働き損」という、損得勘定でとらえて不当感を抱くのだそうです。
 聖書には「神は与え、神は奪う」という有名な文句もあります。幸福な生活から一転、全てを奪われた義人が決して神を呪わないで、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と受け入れる話です。確かに、どの人も、生まれ育って生きているのは、自分の意志や能力によるのでなく、世界や他者との関係性の中で生まれ、育ててもらい、生かされているのですから、個人の努力やメリットに応じて死生観を打ち立てるわけにはいきません。いろいろな宗教には、徳を積めば救われる、天国に行ける、解脱できるなどのいわばポイント制になった行動規範もありますが、この世における不当感を相対化して平穏と諦念に導く理論もたくさんあります。
 ひとつ思うのは、たとえばユングが「宗教は心理療法のシステムであり、(教会は)精神的な問題の全体を表現する強力なイメージ群を所有する」と言ったとしても、宗教は治癒力や意味付けだけでなく、やはり、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」、という永遠の問いを誘い、支え、その答え探しに同行する機能をもっているだろうということです。その問いは「私はどこから来てどこへ行くのか」でなく「我々」という関係性の中でしか深さを獲得できません。
 事故の生還者が、「亡くなった人の分も・・・」と口にしてしまうのは、実は、事故があろうがなかろうが、自分は他者との関係性の中で生かされているのだという「気づき」の言葉でもあるのではないでしょうか。

5Naomi:2005/05/12(木) 14:12:18
一神教について
昨年以来、ずっと頭の隅にひっかかっていることがあります。昨年7月の朝日新聞に梅原猛氏の文章が載っていました。「人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、20世紀に起こった人間の大量殺戮が21世紀にはより大規模におこる可能性すらある。このような状況において、あえて人類の末永い繁栄のために西の文明の二つの原理である人間中心主義と一神教を批判する必要があろう。−中略− 一神教の批判はもっと難しい。なぜなら、多神教は人類の原始時代の盲信に過ぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるごとく存在しているからである。私は、多神教は、もともと森に住んでいた人類が、森の中の様々な生きとし生ける者に人間の力の及ばない霊妙なものをみて、それを崇拝することによっておこったと思う。今もなお自然は人類の及びがたい霊性を持っていて、多神教の成立の地盤は決してうしなわれていない。また多者の信じる神をみとめる多神教は、人類の平和共存をはかるためにも一神教よりもはるかに有効な宗教であるとおもわれる。一神教は森が破壊されて荒野となった大地にうまれた種族のエゴイズムを神の意志に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私はおもう。」
私は梅原氏がすでに、他を認めない矛盾に陥っているとおもいました。でもキリスト教者のおかしてきた、ホロコースト、十字軍、レコンキスタ、30年戦争などをおもいますと、頭がくらくらします。ではキリスト者を辞めるかといわれれば、おそらく、死ぬまでやめないでしょう。大文字のキリスト教はわからなくても、小文字の複数のキリスト者は魅力的です。竹下様のお考えをうけたまわれますと、幸いです。        

6:2005/05/12(木) 18:34:38
一神教の好戦性について
一神教に関するこのような、一種紋切り型の不信感というのは、確かにアメリカの
 
対イスラム政策を見ていて高まったような気がします。

 ブッシュ大統領が「悪の枢軸」国を制裁する姿勢を打ち出した時、

その善悪二元論を単純だと思ったり、一神教的だと思った日本人は

少なくありませんでした

 しかも、実際、イスラム原理主義の側もアメリカを「悪魔」だと決め

つけていることが知られているので、どちらも善悪二元論で自分たち

が善の側に立っていると信じているのだから、結局、融通の利かない

一神教同士の喧嘩じゃないかと短絡的に語りたくなるのです。
 
 でも、一神教と善悪二元論はほんとうに関係があるのでしょうか。

 確かに、一神教、特に世界の創造者としての神を戴く宗教は、それ

に拮抗する悪のキャラクターを作ってしまう傾向が多いのは事実です。

その理由は簡単です。全能で至善の創造神の創った世界は全き善で

あるはずなのに、この世には殺戮を初めてする悪や不和、秩序の乱れが存在します。その

悪はどこから来るのか? 神が悪を許すはずはないのだから、悪を押

しつけるキャラクターが必要になるわけです。最初のレトリックは、悪魔は神

に許しを得た範囲で人間に試練を与えるために悪を行使するというも

のでした。だから、現代世界の一神教の始祖であるユダヤ教における

悪魔であるサタンには「敵」という意味しかありませんでした。

 しかし、人々は「サタン=悪魔」のイメージを増幅し、悪の力を増

大させていきました。善であるはずの世界の中で悪を位置付けるためには

それが一番効果的だったからです。果てには、悪魔を神のように礼拝す

る悪魔教まで現れて、ミサに対してその逆のことをする黒ミサ、魔女

たちが獣の頭を持つ悪魔と乱交するサバトなどのディティールが充実

していきました。イメージ化が進んで一種の偶像崇拝が生まれたのです。

 多神教や陰陽二元論の世界では事情が少し違います。多神教の神は「神

人同型」が多く、その「人格」の中にすでに善悪二面性があると考え

られています。戦争のような集団的殺戮の「悪」も、神々同士の戦いと

いう形で表現されて納得されてきました。だから、人々は、神に拮抗する

ような突出した「悪の化身」を発明せずにすんだのです。また陰陽二元論な

どは、陰と陽が交替し得るし、互いに互いを支え合っているようなバ

ランスの関係なので、どちらかがどちらかを制圧するという展開には

なりません。

 だから、多神教的世界よりも一神教の方が善悪二元論に陥りやすい

心理構造をはらんでいるのは事実だといえるでしょう。しかし、だからこそ一神教の歴

史はこのような二元論との戦いの歴史だったことを忘れてはなりません。

 キリスト教は、その内部で次から次へと生まれる善悪二元論の誘惑を

執拗に断罪していきました。初期のキリスト教は、ギリシャ・ローマ的多

神教の世界の中で自分たちを差異化するために、多神教対一神教とい

う戦い方をしてきたのですが、その後のキリスト教が戦ってきた内なる

異端は、多神教ではなく、常に二元論に基づいたものです。といっても、

前述したように、異端となった二元論は、もともと、一神教における

「悪の起源」を説明しようとするいろいろな試みが、いつのまにか正

統を逸脱したものだといえます。

 エジプトの太陽神が一神教の成立に影響を与えたとしたら、それ以

前からあったペルシャのゾロアスター教が世界は善と悪、光と闇の戦

いだという二元論に影響を与えたのは間違いがないでしょう。 一神教のはらむ

二元論の契機にゾロアスター教の遺産が拍車をかけて、多くのキリス

ト教二元論が生まれました。初期のキリスト教の異端であるグノーシス思

想にも、マニ教に発展したペルシャ型があり、善と悪は最初から対等

な対立原理でした。

 これに対してシリア・エジプト型のグノーシス思想は、全能の神を

温存しながら何とか悪の起源を説明するために、平行ではなく縦型の

レトリックを駆使したものです。代表的なものに、悪を含むこの世を創造した

「神」を超えた上位世界を想定して、そこに至高神を置く体系があります。

そこからさまざまな要素が「流出」していき、ある段階で、アクシデ

ントのように、悪を含む物質的なものや人間的な心などが生まれたの

です。しかし、悪である心身の中にも、実は上位世界から流出した「霊」

が燠火のように隠れています。人にとって、悪の世界からの救済とは、

自己の中にあるこの霊を発見して、心身を捨てて上位世界に回帰する

ことであるわけです。このレトリックは今でも「本当の自分さがし」などという生

き方指南や、ある種のカルトの超人志向などと共通していますし、神性

はすべてのものに宿るという汎神論的な世界観にも通じています。

 この考え方だと、一神教を維持しながら被創造界の悪を何とか説明

することができます。しかし、キリスト教はこのグノーシスを異端とし

て論破することによって正統の基礎を築くことになりました。なぜかというと、

この考え方では、はじめに「光りあれ」といって天地創造をした旧約

聖書のユダヤの神の説明がつかなくなるからです。実際、グノーシス派

は旧約聖書を切り捨てて、新約聖書のみを奉じ、イエス・キリストの

語った神こそが至高神にあたるという見解を示しています。これに対し

て、「正統」キリスト教の方は、たとえ矛盾をはらんでいても旧約聖

書と新約聖書のどちらをも聖典とする姿勢を守ったわけです。グノーシ

ス派のいう「霊」も、上位世界からの流出ではなくて、肉体とペアに

なって創造されたものだという立場を守ります。

 しかし旧約と新約を共存させたせいで、キリスト教にはその後も二

元論的異端が絶えることがありませんでした。代表的なものは、中世キリスト

教最大の異端であるカタリ派です。カタリ派はグノーシスの系統で、魂

のふるさとである至高神のもとに回帰することが人の救済であるとし

ました。しかしカタリ派は旧約聖書を否定しないで、旧約の創造神は汚れ

た物質界を創造した「悪」であると考えたのです。こうして善なる至高

神と悪の創造神という善悪二元論が成立してしまいました。彼らには「完全

な人間」を目指して肉体を痛めつけ禁欲や苦行に走るという、これま

た今でもある種のカルトの修行にも見られるある意味で普遍的な「行

き過ぎ」がありました。 もちろんペルシャ型グノーシスの流れを受けるマ

ニ教の影響もあったでしょう。

 実際、カタリ派的な善悪二元論は、中世に突然孤立して現れたわけ

ではありません。「正統」キリスト教としてのローマ・カトリックが一応安

定して精神界を独占したヨーロッパでは、紀元千年を過ぎた頃から終

末思想が流行るようになりました。「至福千年」思想というもので、新約

聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』に基づいた一種の集団幻想です。

この世の終わる前に天使が降りてきて悪の化身であるドラゴンを

鎖でつなぎ、千年の間は至福の時代が続くというものです。ただし天使

とドラゴンの戦いの間は混乱が続きます。また千年後には封印が解かれて

混乱が再開し、最後の審判があるというのですから、終末思想の色合い

が濃いわけです。その成立や展開についてはここでは述べませんが、中世

ヨーロッパにおける飢饉や疫病や戦乱の中で至福の時に憧れる人々の

心性が、天使対ドラゴンの戦い、善による悪の征伐というイメージを

増幅していたという時代背景は強調できます。つまり、中世ヨー

ロッパにおいては、黙示録的イメージの中での善悪二元論はかなり支

配的なものであり、それが十字軍による聖地奪還のような好戦性にも

つながっていたということです。カタリ派はその鬼子に過ぎなかったのです。

カトリックの秘跡を排して独自の典礼や位階を作った上にそれなりの

経済的基盤を持ったことではっきりと「異端」の烙印を押されましたが、

二元論自体は、時代の潮流を反映していたわけです。ボスニアやブルガ

リアにも神の友団(ボゴモリスト)という同系の二元論教会が生まれ

ていたことも知られています。カタリ派は聖書(当時のヨーロッパでは

ラテン語聖書のみ使われていた)を地元のオクシタン語に訳してすべ

ての信者の手の届くものにしていたり、女性の聖職者や説教者を認め

るなど、後のプロテスタント運動の先駆のような立場でもありました。

 しかし、結局、「正統派キリスト教」が、アルビ十字軍を派遣して

カタリ派を殲滅した(14世紀)という事実は、政治経済的な理由

(トゥールーズ伯の領地をフランス王領に組み入れる)は別としても、

ヨーロッパのキリスト教が、必死になって善悪二元論に抵抗し続けて

いたという証しにほかなりません。アリストテレスの影響を受けた主理

主義哲学と神学を融合させたりして、二元論を排した一神教の「正統」

を強化していったのです。

 そもそも二元論は誘惑的に働きます。それは従属しない他者を悪として

排除することで強化される「権力」が自己を正当化するのに二元論が

便利だからでしょう。二元論の誘惑はしばしば権力の誘惑なのです。それ

を考えると、中世から近代にかけていつも権力の道具になっていたキ

リスト教が、善悪二元論に何度も足をすくわれながらもその都度、悪

は人間の自由意志に向けられた試練であり克服すべきものであるとい

う一神教の緊張を持ちこたえてきたことはほとんど感嘆すべきことです。

その結果、善と悪が裏表のように曖昧に共存していていたり浄不浄に

置き換えられたりする多神教的世界では発達しなかったような、厳密

で抽象的な理論(それが近現代の国際法や法治主義の基となった)が

試行錯誤の後に続々と生まれてきたからです。

 現在のヨーロッパ風のユニヴァーサリズムは、そのように、二元論

を排除し続けた「正統キリスト教」の執拗な戦いの遺産を受け継ぎ、

それを非宗教化したものです。2千年にわたる言語化や理論化の努力が、

多文化共存の世界における共通のルール作りに役立ったわけです。いい

かえれば、二元論を排する論理にあまりにも知恵をしぼってきたので、

そこから「神」や「教会」を取り去って非宗教化しても、「普遍」の

体系が残ったのです。「普遍」を追求し、極めれば、論理の帰結として

非宗教化せざるを得ないともいえます。キリスト教世界の内側だけが思

想の土壌だった頃は「神」の名において構築された体系が、非キリス

ト教、特に非一神教世界との共存のツールとして使われる時に、「神」

を抜きにして有効であり続けたのです。だから、本来、今の世界を牛耳

る西欧起源の「近代理念」は非宗教的であります。「一神教が多神教より

理性的」だからその理念を押しつけているのではありません。しばしば欧米

の植民地主義や帝国主義と共に弄されたそのような言辞を捨て、宗教

や文化の優劣を問わないところに西洋近代理念の普遍性が生まれたの

です。ただ、その普遍主義を錬成し研ぎすませてきたものこそ、キリス

ト教と二元論との思想的戦いの歴史だったということなのです。

 その点、アメリカの建国理念となったユニヴァーサリズムは、少し

違います。非宗教化の必要がなかったからです。アメリカの拠って立つピュ

ーリタン的なプロステタンティズムは、二元論との戦いで生まれたの

ではなく、ヨーロッパの「正統キリスト教」が陥ったもう一つの権力

の誘惑である非民主的ピラミッド型官僚主義との戦いで生まれたから

です。プロテスタント的な民主的宗教共同体の拡張としての「民主

的な神の国」の理想はありましたが、それはやはり「神の国」であり、非

宗教化には向かいませんでした。その中で、結局、強者が生まれ、強者の

権力の誘惑と共に二元論の誘惑が立ち現れてくる。その最も短絡的な

形が、民主的キリスト教社会は善、非民主的イスラム教社会は悪とい

うような二元論として現れ、世界中の非一神教世界からは、「一神教

同士の内輪争い」だとか「キリスト教優位の傲慢」だとか受け取られ

ているわけです。
 
 この歴史のダイナミクスを見ずに、日本の文化人が、キリスト教=

狩猟民族の好戦的な文化と先入観を持つことがあるのは残念です。

司馬遼太郎の講演録か何かで、西洋人のカトリックの修道女が、日本のミッションスクールの

教室で教えていたときに、猫が紛れ込んできて、 修道女が、ヒステリックに、悪魔を追うように

追い払ったというエピソードを紹介したのを読んだことがあります。それで、愛の宗教といっても、所詮狩猟民族というか、

日本的なやさしい共存とは相容れない正体見たり、という論調が続くのでびっくりしました。どう見ても、これはたまたま

その修道女が猫嫌いだったとしか思えません。 こんなことを、司馬さんのような影響力の大きい人が

比較文化的考察の論拠にするなんて驚きでした。 しかし、こういう安易な結論への誘惑は誰にもあるかもしれないので、

自分も気をつけようとも思い、また、修道女のように、普通の人間であっても他者からはその宗教だのその国の人の代表者

とも見られるような立場にある人は、やはり、イメージを大切にして、自分の好き嫌いをぐっと抑えても、身分に期待される行動を

とるべきだなとも考えさせられました。

 梅原さんの批判しているもうひとつの西洋近代思想「人間中

心主義」の方も私は絶対擁護です。人間中心主義が自然を破壊し云々という理屈

もすごく安易な論議ですが、バランスシートでいえば、この人間中心主義の

もたらした善の方が絶対大きいと私は思っています。正しい人間中心主義や

正しい普遍主義は人を自由に向かわせます。すごく単純に考えても、たとえ

ば日本人で、別に権力者の家系に生まれたわけでもなくしかも女性である私

が、今こうして自由にものごとを考え、書いて発表できるということ自体、

西洋近代理念が良くも悪くも世界に行き渡っているおかげですから。

長くなったのでここでやめます。なおこの二元論については、今執筆中の『犬の帝国と猫の共和国』

から一部を転用しました。

7小浜:2005/06/10(金) 22:25:05
B16の対中政策について
お久しぶりです、こんにちは!
竹下さんのB16へのフィーバーぶり、楽しく拝見しています。
さて、しばらく前、B16は台湾との国交関係を見直して、
中国との国交正常化へとシフトさせていく方針だという
ニュース記事を読みましたが、この動きはどのように
解釈されますか?

8sekko:2005/06/12(日) 05:14:56
ヴァティカンと台湾
 JP2 が逝去したとき、中国の国営TVはニュースを流しませんでした。ヴェトナムもそうです。その後、中国政府は、一応哀悼の意を伝えましたが、台湾のヴァティカン大使が葬儀に招かれたことに抗議して、葬儀には出ませんでした。実のところ、ヴァティカンは、B16の前、JP2時代にすでに、中国との国交正常化の方針を打ち出しています。
 ヴァチカンとの公使の交換、そのおかげでローマに外交官を駐在させておくことのメリットは、台湾にとって、とても大きなものなので、私も個人的には、続けてほしいと思います。しかし、問題は、やはり、今の台湾の憲法が、共産党から逃げてきた外省人による中華民国憲法であり、この憲法が、台湾が中国本土を領有しているという限り、他の国が、中国と台湾の両方と国交を結ぶのは、矛盾しているといわざるを得ません。共和党のブッシュが政権にいるうち、オリンピックの前に、台湾が、実情に合った台湾国の憲法を施行して民主的に独立を図ることが望ましく、ヴァチカンも、中国との国交正常化の条件として、台湾を武力制圧しないことを強調してくれていればいいですが。中国国内には、多分日本より多い隠れカトリック信徒がいるので、彼らを今の状態から解放して、愛国教会とも折り合いをつけるという課題ばかりをヴァティカンが優先させるとしたら残念です。中国の覇権主義に対抗するには、東南アジア諸国と独立台湾と日本がいい意味で連携することが必要だし、それは、対韓国や北朝鮮と違って、メンタリティ的にも可能だと思うのですが・・
 私にはフランスで知りあった台湾や中国の友人や知人もいて、台湾問題には大いに関心があります。昨年末の立法委員選挙で与党連合が敗北したのにはがっかりしました。台湾のヴァティカン大使らが外交能力を発揮することを望みます。ヴァティカンは、経済や政治や国益の思惑なしに、平和を何よりの優先事項として国際関係を見てくれる唯一の外交大国なのですから。

9:2005/06/19(日) 08:16:12
ロザリオに付いて
ルネッサンスの絵画集を見ていて気が付いたのですが、あの頃の絵に登場する聖職者達はロザリオを付けていませんね。またいろいろな絵にも十字架(磔刑図の十字架は別として)はほとんど描かれていないように思いました。いわゆるロザリオはいつ頃、何がきっかけで作られたのでしょうか?(多分、ロザリオの祈りができた時でしょうが・・)

10sekko:2005/06/19(日) 20:20:21
(無題)
お答えしまーす。ロザリオはもともと、聖母像の頭に、祈りひとつにつきバラひとつという計算で人々がバラの冠を
かぶせたことから始まり、12世紀くらいにはあったそうです。イエスの茨の冠の棘のない部分というか、それに拮抗するものだったんでしょうね。それから、ロザリオの祈りというものが出来て、バラ冠のロザリオが祈りの回数を繰っていく玉の輪になったのでしょうね。フランス語でロザリオを意味するシャプレ(chapelet)と言う言葉も帽子のシャポーと同じで、聖母の頭飾りから来ています。13世紀だかにドミニコ会を創設した聖ドミニコが、ロザリオを修道服の腰の紐にいつもぶら下げておくことを規則にしたので、ドミニコ会系の修道士をあらわした絵にはロザリオが描かれていることがあります。アクセサリーのように庶民にも蔓延したのは18、19世紀ではないでしょうか。ルルドのマリアが「出た」頃には、マリアが自分でロザリオを手にしていても違和感がなくなっていたのですね。「そんな新しいもの持つなよ」と突っ込みも入れたくなりますが・・・
 私がサウジアラビアで買ったイスラムの数珠(らくだの骨製)は11個球が3つで33玉でした。これを3回やると、アラーの99の名を唱えられるわけです。これを一生やってたら、天国でやっと教えてもらえるという100番目の名が知りたくてうずうずしちゃいますよね。でもいわゆる数珠はヒンズーとか仏教の方が古いでしょう。祈りと、手の中でころころ玉を繰るという感触は相性がいいんでしょうね。

11Hiromin:2005/06/21(火) 11:04:59
生命は脳にある?
竹下様。
カトリック・ウォッチングのコーナー、いつも新鮮な思いで拝読しています。
ところで、最新の記事の中に「受精卵はどこが脳になるか決まってないから生命とはしていない」というくだりがありますが、それが私にはちょっと不思議な感じがしました。私の中では生命(とか魂)って、必ずしも脳の中にはありません。私をもって日本人の典型とすることはできませんが、でも、そこのところに多少の違和感を持つ日本人は多いのではないかと思います。ヨーロッパの人にとってはやっぱり“脳”が生命活動の中心なのですか?

12sekko:2005/06/23(木) 18:49:20
受精卵について
 ごめんなさい。私の言葉が足らなかったようです。言いたかったのは、どこが脳になるかの体軸の決定によって、他の全ての器官の場所も決まってくるということです。受精卵は、分裂して胚細胞になりますが、それが試験管の中での人工授精の段階では、その後どこに何が出来るのかわからず、それを決定するのは、受精卵を子宮に戻して着床したときだということです。つまり、子宮という環境のない受精卵は、それが志向している有機体を実在可能態として身体化する能力を自己のうちに持たない、確かに生きているが、魂を入れられた生命体ではないというのです。
 ショウジョウバエとかの受精卵ではそういう位置信号が卵胞細胞から発せられますし、鶏では体軸は重力によって決定されるそうです(円盤状の胚が垂直線に対して45度の角度で卵黄の上に浮動し、その下方の突端が頭になる)。哺乳類では、卵が母体を離れないので、早い時期における体軸決定の必要がないそうです。だから、試験管の中でもう細胞が64分裂してても、その一部を任意に除去しても欠損が埋め合わされ、しかし一度体軸が出来たら、欠損は修復不可能なのです。
 カトリック教会は、人は受精の瞬間から生命であり妊娠中絶は罪といってたのですが、1996年にイギリスで、冷凍していた3000の受精卵が廃棄された時に、それが堕胎かどうかが議論されました。結局、(体軸の)位置信号のない受精卵はまだ胚とは言えない、形成原理を受容する能力はあってもそれを生み出す能力はないからというのが合意になったようです。このレポートは、日本語では、上智大学神学会の『神学ダイジェスト』(1998年冬号No85)で読めます。ちなみに、この号は、生命科学と倫理の特集ですが、すばらしい論考がたくさんあります。
 そんなわけで、脳が生命の中心というより、生命は環境とともにはじめて成立するという、含蓄ある話です。
それにしても、人工受精卵の廃棄が子宮外堕胎に相当するかどうかなんて、カトリック神学者以外にとってはどうでもいいようなことを真剣に考えて、詭弁を弄するのかと思えば、最新の発生学の成果を駆使してここまで深い洞察に達するイエズス会、あなどれません。

13今紫:2005/06/24(金) 22:58:34
はじめまして
拝啓、竹下節子先生。はじめまして今紫と申します。私はカトリックの洗礼に向けて勉強しています。先生の著書を拝読して聖人や聖母マリアの話に興味を持ち益々惹かれてゆきます。

ところでお聞きしたいのですが竹下先生、『ムー』という雑誌はご存知ですか? 今月発売された中の記事に「ローマ教皇」の特集がありました。内容によると、聖マラキ(アイルランドの司祭)がローマ教会、および教皇の未来を予言したことが書かれており、教皇レオ13世がイエズスと悪魔の会話を聞いて恐ろしい危機を抱いて祈りを作調しミサで披露した話と、聖ピウス神父が前教皇ヨハンネス・パウルス2世の誕生を予言したりと様々なことが書かれていました。

それと、日本も含めてカトリック教会が今、フリーメーソンに支配されているという噂も聞きますが先生はどう思われているのですか。私もそれが心配でなります。

もう一つ、ファティマの予言でフリーメーソンの活発、社会主義の台頭が述べられていますが私は(これはあくまで私の憶測ですが)こう考えてしまいます。聖母はひょっとすると、彼らのほかにキリスト原理主義、イスラム原理主義、エホバの証人、モルモン教、オウム真理教、リトル・ペブル、ラエリアン・ムーヴメントなどのカルト、そして、日本を中心に世界で「総体革命」の名の元で繰り広げ、政治、経済、芸能界、司法などに力を伸ばしている日蓮正宗(これも日蓮原理主義に属している)から分離した創価学会のことを警告しているのではないでしょうか? 信者の方には申し訳ないがもし、それが誠であれば私はそれに対し震えが泊まりません。そう考えるのは私一人だけでしょうか・・・・。

14sekko:2005/06/25(土) 08:50:11
心配ないです。
ご愛読ありがとうございます。もしこのご質問の趣旨が、そんなことはないですよ、と私に言ってもらって安心してカトリックの共同体に入りたいということであれば、とりあえず、大丈夫ですよ、と申し上げます。
 今日、中公文庫から、『ローマ法王』を出しました。文庫用の後書きも入っているので、お読みください。1998年に朝日新聞社から出した『ノストラダムスの生涯』という本のなかで「聖マラキの予言」について書きました。聖マラキは実在しますが、予言は400年もあとに突如現れて、ローマ法王の選出にまつわる権力争いに使われました。他にもいろいろなエピソードはありますが、すべて噂の域を出ず、信仰の問題とは関係がないので、お話として読むか、気になるならまったくその手の雑誌や本から遠ざかったらいかがでしょう。
 私は学生時代に、多分雑誌の特集だとかを読んで、突然、関東大震災の再来が怖くなって、こんな不安の中では暮らせないと真剣に考えた時期があります。80年代に世界各地の聖母のお告げを収集して、本当に聖母かどうかというより、これだけ多くの人が終末観にとらわれているなら、やがて核戦争が起こるに違いない、と確信してオーストラリア移住を計画したこともあります。99年の7月に東京にテポドンが落とされるという有名な噂がネットに広まったときは、ちょうどその日に東京で講演を頼まれていたのをキャンセルしようかとも思いました。
 幸いどの時も、正気に返って日常生活を続けましたが、私はこのように、ネガティヴな予測だの流言蜚語などに一時的に迷わされた経験もあるので、陰謀史観に恐れる人たちを笑えません。しかし、フリーメイソンなどの陰謀史観は、底に差別主義や排他主義が流れていることが多いので、まず信じないで退けてください。この手の話には固定ファンがいて、売れるから再生産されるわけですが、はまるタイプでまだはまっていない人は気をつけてください。すでにはまっている人や自分でそういう話を作っている人は、私のこのサロンに来てくださる方にそういう話を広めたくないので遠慮してください。
 特定の話題で、自分でいろいろ批判的に検討した末にどうしてもここが分からないというものについては答えます。でもたとえば陰謀史観を説く人には、同じ土俵で反論出来ないことが多いです。単純に言うと、「陰謀があった」というので、「その証拠は」と聞くと、「それが巧妙に隠蔽されているからこそ陰謀なのだ」、という感じですから。
 私はこの世に陰謀がないとは言いませんし、宗教原理主義が世界の平和を脅かさないとも言いません。でも、多くの場合は、そんな不安を口にして再生産しても、まず害の方が大きいです。個人の生活の周りには、もっと緊急でかつ、自分の努力や采配で回避したり改善したりできる危機や問題がたくさんあると思います。また、私達を直接必要としている人が近くにいるかもしれません。そんな堅実な生活感覚を失わせるような言辞は批判的に管理なさることがお勧めです。
 それにしても、いろいろな「警告」を同列に扱わずに、何が本当に危険なのか、それに対して何が出来るのかを見極めることは簡単ではありませんね。キリスト教風に言うと、それこそ聖霊が今紫さんを、より不安のない方へと導いてくれますようにお祈りします。

15Masako:2005/10/12(水) 13:43:01
現代のグノーシス
正教の図像表現については私も古典期のギリシャと正教化ギリシャの文化の
断絶を以前から非常に奇妙に感じていました。この点はまた別途ゆっくり考えてみたいのですが、竹下さんのレポートを読んでいて、アンティセミティズムに見られる
ような正教世界の負の側面に新に目を開かれました。ちょうどその頃、クルド人難民
(だったかちょっと記憶が定かではありませんが)の親がわからない子供を
ギリシャの片田舎の村のコミュニティで受け入れて、その理由が
「正教の洗礼さえ受ければ何人であろうとわれわれのコミュニティの子供だ」と
言ったという村の長の話をある人から聞いて、正教世界の懐の広さに関心した
ところだったからです。つまりこれはウラを返せば、正教以外のものに
対しては非常に排他的になるということですからね。

どうも我々(というか私は)近代主義や合理主義にむなしさを感じる
あまり、非近代的なものの暗部に対して甘くなるという欠点があることを
最近非常に感じています。

さて、表題なんですが、かつて政治学者の永井陽之助氏が20世紀をこれほど
悪くしたものとしてグノーシス主義を挙げていました。永遠に変わらない「本質」
顕現主義がその根底にあって、アクティブに現れれば地上に理想王国をつくろうという
大衆運動になるし、ネガティブにはわれわれの見ている世界はすべて幻である
という現世否定のシニカルなものとなると言っています。その極端なものとして
レーニンのボルシェビキ革命やナチズムが挙げられていますが、グノーシスの特徴は
人間世界を物理世界と同じようにパズルとして見る、それを解く解法があり、
その暗号解読のキーワードを発見すればこの世がよくなるというビジョンが
根底にあるという説明です。

私のグノーシスのイメージは永遠の真理、隠された叡智を一握りの
人たちが持っているというエリート主義、秘教主義的なものですが、
−ここで話がちょっと飛躍しますが−もし竹下さんが難病に
かかって苦しんでいて、その力を持った人があらわれてその病気を半分ぐらい
実際に治すことをしてくれた場合(秘教的なやりかたで)、
どうされますか?変な質問ですみませんが、たとえば代替療法のあるものが持つ負の
側面がグノーシスと関連しているような気がしての質問です。

16Sekko:2005/10/14(金) 23:40:22
グノーシスについて
 「代替療法のあるものが持つ負の側面がグノーシスと関連しているような気がして」というところは興味深いですが、質問との関連がいまひとつ分かりません。フランス語でagnostique といえばほとんど無神論と同義なので、誤解されると困りますが、私は基本的に、「超越的なもの」は感じてもいるし認めてもいるし、必要だとも思っていますが、地上的な形では私には理解不可能だとも思っているので、理解しようとも思わず、アグノスティックで暮らしています。だから「グノーシス的知識」を所有している(と称する)人を探そうとも頼ろうとも特に思いませんし、自分の中の「神的なもの」を抽象しようとも発展させようとも別に思いません。ニューエイジ思想と親和性があるせいか、グノーシス系カルトがあまりにも多いので、警戒心の方が強いです。私にとってはグノーシスの代替になっているのが理性とか知性です。信仰がそこに加われば磐石ですが、信仰の方は、私からはアクセスできないけれど、向こうからはアクセスしてくれている呼びかけを認めることで知性に意味ができる、といったものでしょうか。
 それで、もし秘教的スキルを持った誰かに難病を治してもらったらということですが(半分じゃやな気もしますが)、もちろん感謝すると思いますが、それでその人を宣伝しまくるとか、人に勧めて回るとか、帰依するということは多分ないと思います。ただし好奇心に駆られて、他のケースを観察したり、その人のウオッチングを続けたリ、「意味」を探ろうとはするかもしれません。これまで、難病はないですが、身体的な危機に陥った時が二度あり、その時に思ったのは、何とか治りたいとかこれが治れば魂を売り渡してもいいなどということではなく、これが楽になるなら死んでもいいとか、こんな状態だったら生きている意味はないなあかのどちらかでした。同時に、こんなにあっさり生の執着がなくなるなら、本当に死ぬ時も、割と楽かも、と自分で驚いていました。
 私も痛いのや苦しいのはもちろん嫌ですが、薬や手術もほんとは嫌だし、巡礼や奇跡のグッズや奇跡の療法とかにも全然惹かれません。シスターとかのお手伝いをして感謝される時には、これからもお手伝いできるように、私ができるだけ長く「頭がはっきり、体がしっかり」の状態でいられるよう祈ってくださいとはお願いしますが、そして、少なくとも何人かの方は多分ほんとに祈ってくださっているはずなので、そういう「プロ」の祈りが効かなくなればあきらめもつくかと思ってます。
 そういえば、MLにこの夏に会った人の話を書いたことがあるので、ここに一部再録します。

 「私はこの夏、癒しの超能力を持っているという男性に出会いました。能力に気づいたのは40歳で、今78歳で、生きているうちにそのメカニズムを私に伝えたいという話でした。そのとき、原因不明の全身の痛みに何年も苦しんでいる女性を救った話を聞きました。治療を施す前に、今までの生き方を反省して世界観を変えてもらうことが必要だそうです。それがあまりシビアな話なので、本当にそれをクリアする人なら治っても不思議じゃないと思いました。それくらい「なんとしてでも治りたい」という本人のモティヴェーションが要るのだそうです(軽いのは簡単に治せるらしいのですが)。私は「自分が
苦しんでたとしたら、こんなおじさんに説教されて自己批判するような気力はないだろうな、」とすでに負け組の気分で聞いてました。同行した友人のTVのディレクターは腱鞘炎がひどいからといってその場で治してもらってました。私も、痛いとこはなかったのですが、しいて言えば、唇にできたメラノーゼ(老人性のシミ)をとりたいけど、といいますと、水の入ったペットボトルを開けて手をかざしながら彼に携帯で電話したら、水にエネルギーを注入してあげるから、それでシミをなで続けると必ずとれる、と言われました。ほっとけば真っ黒になる、完全に真っ黒になった人も治したことがあるとも言われました。広がったらメラノーマで癌の一種ですから、ちょっと違うと思いましたが。
それで私がどうしたかと言いますと、ご想像通り、シミが消えなくても別にいいや、と思って、携帯に電話しなかったのです。せっかくエネルギーを入れてもらっても、毎日手当てするのも面倒だし、そんなに努力する気があるなら、私のところにはルルドの水やザムザムの水や各種聖水「癒し水」がすでにいろいろあるのですから。
(顔の欠点がすべて消える確かな方法は鏡を見ないこと、とも言われてますし)
母には、自分が使うからやってもらっといてよ、と言われたのですが、母は昨年病気をして以来、自分の健康が世界の最優先事項になってしまっていて、「生き方の反省」なんて不可能な自己チュウのモードで生きてるので効かない気もしたので。でも、母はルルドの水で毎日マッサージをしてるというので、モチヴェーションは高いかもしれません。まあ、何をしても治る人も治らない人もいて、たまにすごい根性で病や痛みをねじ伏せる人もある、といった感じでしょうか。ちなみに母は西式健康法の信奉者で、幼いころ右手を心臓の上に45分上げているという「行」をして、それから右手を上げるたびに「電気がきて」、それで子供たちのちょっとした傷や痛みをいつも取ってくれたそうです。そんな行をしたから神経がおかしくなったんじゃないかとも思えますが。」
 というものです。この夏ご親切に提案してくださったNさん、ご期待に添えなくてすみません。でも、絶対治せるという人に会ったり、そういう話を聞く度に、私が感じるのは目くるめくような不公平感なのです。そういうチャンスもなく苦しみながら死んだ信仰深い人とか、痛い治療を繰り返してよくならず絶望したり、医療過誤や薬物中毒の被害を受けた人とかのことが思われて。
 それに、癒しの能力がある人のことを認めると、呪いというか、人を病気にする能力がある人のことも認めざるを得なくなります。まあ、癒しの方が、相手に治りたいというモチヴェーションのレセプターがある分、能力が発揮しやすいと期待しますが。もし、私に突然、癒しの能力が授けられたら、不公平感に苦しめられながらも、できるだけたくさんの人を助けたいと思いますが、そこにセレクションの観点が入ってくるかもしれず、まあ、だから、そんな誘惑につながる能力は私にはない方がいいと思います。そして、そんな癒しの恩恵を受けられない大多数の人たちの側に立って、それでも、生には何か超越した意味があって、痛い人と痛くない人、苦しんでいる人と苦しんでいない人、そして多分死んだ人と生きている人の間にも同じ風が吹き渡っていると語っていければと思います。あまり返事になってないかもしれませんが、また他の皆さんの考えもお聞かせ下さい。

17Masako:2005/10/16(日) 23:56:44
癒しの超能力
竹下さん、お返事有難うございます。私の質問はちょっと変でしたね。実は、身体の不調からたまたま受けたある代替療法がたしかに効いて、その結果自体はかなり快適なものだったのですが、そのプロセスがどうにも秘教的なもので、続けるべきかどうかジレンマに陥っていたという個人的な事情からの質問だったのですが、難病云々という極端な設定をしてわかりにくくなってしまってりました。

この件については自分の中で結論が出てもうやめることにしていたのですが、竹下さんのお返事の
最後の部分「生には何か超越した意味があって・・・」以降がそれをもう一押ししてくれたようです。お世辞ではなく、こういう聡明な友人の一言を聞ける幸せを感じました。

当該代替療法はインドの伝統医学アーユルヴェーダで、おそらくアーユルヴェーダ医にもいろいろなスクール、タイプがあるのでしょうが、たまたまというか運悪く、私が関わったのが今になって気づくとかなりエソテリックなもので、これは相当やばいんじゃないかと思うようになった次第です。そしてそれでも治療を止められないのは単に効果があったというだけではなく、私の中にも「この病気にはどこかに完全解があるはずだ」といったような気持ち、また、自分の中に「病気の状態から健康な自分になりたい」という思いがあり(これは自然なことではありますが)、そこに完成型を前提とし、志向する不健全さを発見した次第です。

そしてもちろんその私の志向が引き寄せたということもいえますが、相手方の志向にもそれが強くあり、アーユルヴェーダ医学というのは心身ともにバランスがとれた状態を目指すものではありますが、いろいろ歴史等を見ていると、エントロピーの法則に逆行するような若返りの医学という
面も非常に強く持っているのではないかということに気づきました。これはマヤラジャなどの治療が中心だったことを考えればうなづけることです。

こういったものが大衆化によって今は日本でもアーユルヴェーダはかなり広まっています。いわばマハラジャ対象のような手のかかる治療が大衆化されOLにまで流布し、あくことなき健康とアンチエイジング志向の波に乗ってやってきているのが今の日本なのかもしれません。

そして私は(あくまでも私の関わったアーユルヴェーダ関係者限定ですが)彼らの中に到達点としての理想型へ患者を当てはめようとする志向という意味でグノーシス性を、また何か非常に乾いていて非人間的なもの、つまり治療対象とされた私へのコンパッションを欠いたものを感じたのです。それは普通の日本の西洋医でよくいる感じの悪いよくない医者というのと全く違う、ある種哲学的不快さでした。ここでまた飛躍してしまうかもしれませんが、ヴェーダ・ウパニシャッド哲学というのはそんなものなのかもしれないと感じています(あまり勉強したことがないので断言は危険ですが)。うまく表現できませんが、今回の体験を通じ、いままであたりまえのように思っていたlove とかcompassionという西欧キリスト教世界の価値を再発見した気持ちです。

18Sekko:2005/10/20(木) 05:32:27
それなりに
 なるほど、そういうわけだったのですね。哲学的不快さというのは、すごいですね。でも、ある意味、傷ついてる人は感受性が強くなっていて、直感的にそういうことを見抜くのかもしれません。フランスで仏教の講義をしてるフランス人と話したときに、慈悲をcompassion と訳すのはよくない、キリスト教では、イエスがともに苦しんでくれるからcom+passion でいいが、仏教では、苦しみが取り除けるのだから、もっと優れているのだ、と言われたことがあります。でも、よく聞くと、苦しみの原因になっている執着を取り除くとか、痛みのある実相の世界を虚と認めるというような、精神のアクロバットがあって、今ここで苦しんでいる人の多くはそんな努力をする気力がそもそもあるだろうかと疑問に思ったことがあります。イエスが一緒に苦しんでくれるというのも、ただのレトリックだと思えるかもしれませんが、同病の体験談を読んだだけでも、気が軽くなったりすることはありますから、誰かがずっと痛みに寄り添ってくれていると思えるのは、悪くありません。「希望は捨てずに、期待はするな」が、最近の私の生活哲学と前に書きましたが、「期待をするな」が不幸の回避の第一の智恵かなあと思うことがよくあります。
 ある状態が、悪化したとき、以前できていたことができなくなったとか、何かが壊れたとか、傷ついたとか、失くしたとかいうとき、まあ、できる範囲で部品を変えたり、修理するのはもちろんいいにしても、どこかで、「別に前のとおりに戻らなくてもいいじゃないか」と認めるのは、大事なことだと思います。確かに人間の自己イメージには慣性が働いていて、たとえば「若くてきれいで健康で」あった自分のイメージを結構引きずっているのに実際は多くのものが変化しています。そのずれも把握しないうちに、世の中には「もっと美しい、もっと能力のある本当の自分があるはず」などという言辞があふれているので、多くの人は、「前にあって今はないもの」の幻想と、「あるけれどまだ見えていないもの」の幻想の狭間で、「あるがまま」を2重に収奪されているのではないでしょうか。
 私の「あるがまま」「とりあえず」「それなりに」快適にやっていくお手本は、やはりうちの3匹の猫たちです。あちこちからたたき出されても、ティッシュ1枚落ちているのを見つけたら、とりあえず、その上に丸くなって、それなりに満足。2匹がいがみ合い、すごいストレスの基に生きているはずで、こちらもはじめは何とか昔の平和を回復しようとして、ありとあらゆることをやり、疲れ果て、もうあきらめてしまって、ふと見たら・・・別に解決したわけでなく、悪いままなんですが、なんと言うか慣れてしまって、
別に開き直ったとかいうのでなく、抵抗するのをやめたら、別の見え方もあるし、そのうちその実態に近い低レベルの「自己イメージ」ができて、いやあそれなりに落ち着いて、新たなちょっとした喜びとかもあるもんだ・・・というのが私の現実です。というと、あまりにもさえませんが、そこはそれ、それなりに、エントロピーを上げられるところは上げているんですよ、ほとんどニューロン・レベルだけですが。でも、外部が崩壊していくと、結構内部は充実していって、悪くないですよ。とにかく、paraitre から etre へ、
これが「真実があなたを自由にする」ってことの意味じゃないかなあとか思います。

19:2005/12/04(日) 13:38:25
全免償
今日ミサにゆきましたら、教皇B16が12/8、無原罪の聖マリアの祝日にミサ,告解、教皇のための祈りをすると、全免償(有限の罪を全部許す?)を与える、と言われたとききました。まるで、中世にかえつたような、時代遅れの宣言におどろきました。また一方妙に懐かしい感覚もあり、いつてもいいなあ、そういう機会もないと、教会にゆかないし、なんて考えもうかびました。竹下先生は教皇の発言をどのようにお聞きになりましたでしょうか?お聞かせいただきますと,幸いにぞんじます。

20Sekko:2005/12/05(月) 23:11:54
全免償について
 実は日本語の用語はよく分からないのですが、おそらく、フランス語のIndulgence pleniere 昔で言ういわゆる免罪符だと思います。それなら、2000年の大聖年のときには1年中やってたと思います。金で買える免罪符はさすがに反宗教改革時代になくなりましたが、金でなく愛によって免償できるということになり、完全に消えたことはありません。第2ヴァチカン公会議前のフランスでは、色々な特別の祈りのカードがあって、これを祈れば30年の免償とか書いたのがたくさんあります。罪障消滅の後に課せられる償いの部分が大きすぎ長すぎて、免償なしには一生かかっても償えなかったのですね。でも、第二ヴァチカン公会議以降は、償いが軽くなり、告解に行く普通の人には、事実上、すぐ償えるか、あまり感心を抱かれなくなりました。でもパウロ6世とか、JP2は、この全免償を、多分、信者のコミュニオンの道具として復活させたかったように思います。つまり、個人の罪と罰とかではなく、免償と一人一人の回心が、少しずつネットワーク全体を強くするようなイメージ、です。
 全免償がもらえるような機会に指定された場所で指定された手続きを経て祈ると、そこに参加できなかったすべての人に少し手をさし述べることができる、と思います。大聖年の免償も昔はローマのどこそこの教会とか決まっていましたが、今は、世界中で、司教が指定した場所でもOKとなっています。パリでは、そこかしこで、ここの教会は全免償認定とか書いてありました。私は、時代遅れというより、場所にとらわれなくてすんで、民主的というか、コミュニオンのヴァーチャル力が充実したなあと思いました。
 この時代、心のべクトルを、謙虚に他者に向けることができるような機会があれば、どんな手段でもあり、と私は思います。今のカトリック教会にとっては、免償は金儲けでもなく、脅しでもなく、自らの栄光の確認でもありません。多くの人が、現実のあまりにも物質的な世界から、少しでも頭を霊的な方に向けて、秘蹟の中で、他の人との連帯を感じあえるチャンスがあるなら、アメを差し出すことがあってもいいのではないのでしょうか。少なくとも、ある種のカルト教団が、こうしないと地獄に落ちるとか世の終わりだとか行って、恐怖のムチで、人を宗教に引っ張るやり方よりも健全です。
 今年はパリの不思議のメダイのチャペルの御出現の175年の聖年で、その最後の日が12月8日です。楽しそうなので行こうかなあと思ってます。ともかく、全免償を、なんだか、自分の罪悪感や不幸感に対して、お得感のあるようなものとして捕らえず、ましてや厄除けや願望成就みたいなものとは混同せず、思いを他の人と分かち合うこと、というのが、今のカトリック教会の狙いだと私は理解してます。

21:2005/12/08(木) 16:29:17
お返事ありがとうございました。
「心のベクトルを謙虚に他者に向けるような機会」「思いを他の人と分かち合うこと」という発想にうなりました。日本の場合全免償という言葉自体、半世紀前に信者になつたものにしか、つうじません。これで他の人とおもいを分かち合うことが、とにかく、教会で出会う機会がふえる、といつたことから、できるのだとすると、確かに意味のあることかなあ、とおもつたことでした。黙想会にでても全免償になるときくと、いつてみよう、とおもえてくるのですから、効果はあるのですね。ともかく、教会に行かない私が次の日曜の黙想にはでかけることになりました。友達が行こう,行こうというものですから。やはり他者とであい、心をわけあう機会になるのですから、全免償は少々、薬みたいなものかな、とおもいました。ただ、カトリツクが極端に少ない日本ではカトリツク内の少数にしか、こんな言葉はつうじません。これもバチカン内思考のようにおもえてくるのもたしかです。先生の思考の表現力には舌をまきます。だから、お礼もしどろもどろな私をおゆるしください。

22hiromin:2005/12/24(土) 12:02:36
聖母マリアについて
竹下様。
ちょっとおかしな質問なのですが。。。
この間キリスト教に関する本を読んでいて、ふと思いついたことがあります。
それはマリアさんはいつから聖処女になったのだろうか、ということです。
というのは、イエス・キリストがもし人間の男女の子どもでないなら、つまり人間世界の父親の子どもでないなら、
キリストは神の遺伝子を純粋に受け継いだ人で、変な言い方ですがマリアさんはお腹を貸しただけで、マリアさんの遺伝子も入ってないのではないのか?純粋な神の子であることにするためにマリアさんは聖処女でなければならなかったのではないか?
と、妄想したわけです。これは、マリアの母もまた聖処女であった、という話をどこかで聞いたことと合わせてそう思ったわけですが。。。
マリアさんが聖処女であるというのは最初から(キリストのいた時代から)言われていたことなのですか?

23Sekko:2005/12/26(月) 08:56:02
聖処女の話
 面白い質問です。というか、普通は、イエスは少なくともマリアの子供であることは間違いないといわれているので、もし遺伝子が片方だけなら、マリアの遺伝子は少なくとも受け継いでると思われています。だからこそ、マリアは母親の胎に宿ったときに現在を免れていたとかいう理屈付けをみなが考えたのですから。
 そして、母親の遺伝子だけなら、当然女性ですよね。イエスが男であったことは、Y染色体を持っていたことで、それはマリアから来ません。これだけでも両性生殖だということが分かります。トリノの聖骸布やオヴィエドの布や、アルジャンターユの長衣など、受難関係の聖遺物に付いた血痕はみなAB型で、これも、両性生殖でしかあり得ません。
 でも、キリスト教の関係者は、このことをあまり気にしてないと思います。マリアが処女じゃなかったとか、イエスがマリアとヨセフの子だったとか、そういうことが「ばれて」、それを隠すための陰謀とか刺客とかいうのは、安手のミステリーにはありがちですが、大事なのは、神が100%人間になってくれたというところで、人間ならAB型もあり、両性生殖も当然なので、「それがどうしたの?」ってとこもあると思います。たとえていえば、カトリックで聖体がイエスの体になるといっても、大事なのはPresenceプレザンスであり、聖体の成分を分析して「小麦と水」であっても困らないのと同じです。ワインに赤血球が入ってなくても平気。
 聖処女信仰は2世紀頃が起源のようで、教義の変遷については私の『聖母マリア』(講談社選書メチエ)とかを読んで見てください。「合理的解釈」をしたいなら、日本でも子供は神からの授かりものというように、1世紀のユダヤ世界では、子供のことを「神の子」と呼ぶことは珍しくなく、父母がそろっていて同時に神の子というのは矛盾しないという人もいます。でも聖処女信仰は、単に「単性生殖」とか、マリアと聖霊の合体だとかいうところから、受胎の時も出産のときも出産の後も処女だったとかエスカレートするので、もうそうなったら、「合理的解釈」は不可能です。
 でも、ここが、実は、キリスト教の面白いところです。エデンの園で、神のいうことをきかなかったアダムとイヴだとか、堕落する天使とか、悪いことばかり繰り返す人間だとか、外から見てると、「全能の神なら、もっと被造物を管理しろよ」と突っ込みを入れたくなるほど、神は、なぜか「自由意志」を尊重することになっているのです。
 ある人が誰かに自分への愛を強要しようとしたら二つの方法があるとアベ・ピエールは言います。ひとつは、一種のマインド・コントロールで、依存関係を作り上げること、お前は私なしではだめなんだよ、という類のもので、カルトの教祖とか、親子やカップルにも見られます。もうひとつは、人が愛さずにはいられないような完璧な存在であることが明らかな場合。もし、全能で愛である神が、白日の下にそれを表したら、人間は、神を愛する他に選択肢がありません。
 しかし、人間の自由意志にこだわる神は、だからこそ、ちょっと間接的に、身を隠しているというのです。そして、この暗闇の部分が、信仰を必要とするのです。神を触ることも見ることも直接知ることさえなく、それでも、信仰の中で神を愛することが可能だというのが神の望んだ人間の偉大さであり、それが実現するには「完全な自由」が保障されている必要があります。神は「自由な選び」を創造に組み入れたのです。専制君主とか、さまざまな暴力装置を必要とする国家や、カルト教団の教祖や、愛を強要する母親や恋人などと全然違います。多分、自由は、真実と関係があるからでしょう。「真実は人を自由にする」というのもそういうことではないでしょうか。
 だから、たとえば今のカトリックが、「処女受胎」を含む、検証不可能なさまざまなディスクールを掲げながら、それを万人に納得させるために無理につじつまを合わせることなく、AB 型でも、両性生殖でも単性生殖でも細かいことにはこだわらない、グレー・ゾーンは多い、でも自由意志で、まとめて信じてくださいね、と言っているのは、キリスト教的な神のやり方を踏襲していることになります。私は、個人的には、好きです。ご利益があるとか、良いカルマをつんで、良い来世を目指すとか、すごく偉い超能力の教祖様がいるとか、ましてや信じなければたたりがあるとか言われて、「信心」に誘われるのではなくて、まったく自由だと言われたいのです。
 アベ・ピエールは、ただし「人になった神」というのを一度信じたら、その人(キリスト教徒)には、イエスに倣う一種の責任が生じてくると言います。聖母マリアの話を信じる、という人は、自分や自分の愛する子供までを他者のために捧げたマリアの生き方に何らかの形で共感して寄り添っていく義務を自由に選択したということかもしれません。たとえば、自分や自分のエゴの投影である子供よりも優先される他者があり得ることを認めるとか。
 神が人間の「自由」を尊重したおかげで、人は悪からも逃れられずに苦しみまくっていますが、自由な信仰が他者の苦しみへと視野を広げてくれたら、苦しみは分かち合いへのトランポリン(これもアベ・ピエールの言葉)にもなると言われます。
 話が広がりましたが、そういうわけで、キリスト教は別にイエスが「人間の男女の子でない」と言ってないのに注意してください。まあいろいろな教派的、文化的理由でマリアが神格化していった歴史はありますが、人間マリアの子というのは大体のコンセンサスなので、マリアは別に代理母ではなく、イエスの少なくとも半分の遺伝子提供者だと思ってOKです。

24:2005/12/27(火) 09:00:41
お二人の会話に感激
ひろみんさんの質問はカトリツクである私をうならせました。なにも考えずただ、信仰が先にたつたものの盲点を指摘してくださり、考えがひろまりました。竹下先生の回答は見事というほかありません。『自由は真実と関係がある』『『信じるということは義務を自由に選択したということ』これは実にすつきりした、回答で自由意志で信仰を受け入れた、そのこと自体に神の愛と私に課せられた、責任を強くかんじました。そして、そんなすごい責任を果たす目標をあたえてくださつた、神に新たな感謝がわきおこつてきました。全国のかたに、ひろみんさんと竹下先生の問答を読んでいただきたいとおもいました。

25Miki:2005/12/28(水) 00:25:41
クリスマス1
竹下さん、お元気ですか?もう今年のクリスマスも終わりました。実は私、クリスマスのちょうど一ヵ月前に虫垂炎になって、(それもあまり軽くない)順天堂大学付属病院で手術したのです!その時入院手続きの書類に、順天堂関係の知り合いがいれば書いてくださいと書かれてあったのでリーズの名前を書かせて頂きました。そのせいかとても親切にして頂き、手術には副院長も携わったんです。ありがとうございましたとリーズにお伝えください。このサロンにいらしてる人たちより、とても低レベルな質問ですが、クリスマスって本当は何をするべき日ですか?

26Miki:2005/12/28(水) 00:43:17
クリスマス2
(続き)日本ではクリスマスは社会現象といってもいいほど恋人達のイベント化してます。今年も好きな人とすごせなかった私。そのせいかあんなにメダイユのマリア様に助けて頂いてるのにクリスマスなんてなくなれ!って思ってしまいました。今ではイエス様に申し訳ない思いでいっぱいです。クリスマスってカトリックでは何をするべき日なのですか?どんなふうにお祈りして、どんなものを食べるのかなどさっぱりわかりません。チキンを食べるのはキリスト教の教えですか?私はクリスマスに対して疑問だらけです。よかったら何か教えてください!

27Sekko:2005/12/29(木) 14:30:14
クリスマスについて
 今、日本に来ているので、「チキンを食べるのがキリストの教え」って何?と居候先に聞いてみると、クリスマスにはKFCとか、チキンマクナゲットとか、がすごい宣伝だったそうで、クリスマスは「フライドチキンとショートケーキ風クリスマスケーキ」がスタンダード、と言われてびっくりしました。チキンを食べるのはケンタッキーの教えでは?
 まあ七面鳥というのはありえます。コニャックで味付けした七面鳥にマロンを飾るとか。狩が解禁されているので、ジビエもよくクリスマスの食卓に出ます。普通の若鶏は少なくて、シャポン(去勢した雄鶏)が立派で柔らかいのでクリスマスっぽいですね。復活祭と同じく、イエスの象徴である子羊も良く出ます。イヴの夜の食事とクリスマスの昼の食事と両方が家族の集まリのメインです。
 カトリックではクリスマスの前の4週間が、伝統的には肉を断って地味に暮らすみたいな期間になっていて、その間のミサでは、将来のイエス再臨と最後の審判に備えるような、どちらかというと暗いテキストが読まれます。年間の典礼のどこかで、こういう終末観を入れて、心構えをさせるのですが、これがクリスマス前というのは良くできていると私は思います。今のカトリックでは、「最後の審判は近い、悔い改めよ」と脅すというより、再臨するイエスを迎えるために、うちをきれいにしてお花を飾るような、うきうきして、ケーキを焼くような、そんな準備をしよう、という呼びかけのトーンになっています。そして、その「再臨」の禁欲期間はけっきょく、赤ちゃんの誕生という形でクリスマスに結実するので、明るくかわいく楽しいです。もともと、冬至で、太陽がもっとも低く日照時間が短くなることで、その後、日が長くなります。つまり太陽神の死と再生という古代からの祭りをクリスマスに置き換えたので、4週間の間、日がだんだん短くなり、暗くなる間に、死とか最後の審判とかに思いをはせ、それが最高に達した時に、新しい光、赤ちゃんが誕生してくれる、というイメージがぴったりです。日が冬至の21日とずれているのは、グレゴリウス歴で今の計算をするまで、クリスマスが定着したユリウス暦のヨーロッパでは25日が冬至だった名残です。ヨーロッパにいると、冬の日が短くて、日光不足性のうつ病になる人も多いので、11月末からクリスマス前までの一番暗くて苦しい時期に街にイリュミネーションが灯ることは、心理的なサポートとなります。クリスマスのあとは、寒くても、光の春というか、日がどんどん長くなるのは、生まれた子の成長のようで楽しいです。
 はじめは、33年後に無残な殺され方をすることをみんなが知っているのに、どうしてこの「幼子」をみなが幸せそうに見られるのかと疑問でした。この子は皆の犠牲となって死ぬのに。死ぬために父から送られてきたのに。花祭りのお釈迦様ならもうすっと立って、「天上天下唯我独尊」と偉そうなので、長生きすることも分かってるし悲劇性はないけれど、赤ん坊のイエスというのは馬小屋で、無邪気に寝てるだけ。不憫だと思ってもいいはずだけど、人々は喜んでいる。これは、やはり、その前の4週間における「終末」への思いを経て、たとえ終末があろうとも、いや、終末が視野にあるからこそ、人は誕生を喜び、真に生きるのかもしれないと思えます。そして喪失の予感を抱きつつ真に生きるからこそ、人は愛することもできるのです。Mikiさんに好きな人がいるということそれ自体が生の証で、生のプレゼントだと思います。クリスマスは、好きな人のため、そしてMikiさんのことを好きである多くの人達のため、お祈りしてください。 そしてそういう出会いを用意してくれたことへの感謝を、馬小屋に無心に寝かされている赤ちゃんに投影してみてください。日本ではあいにく、25日を過ぎるとクリスマスは姿を消しますが、教会などに行くとまだ赤ちゃんが飾ってあるのでは? 私は、年々、クリスマスの赤ん坊イエスがかわいく思えてきました。
 イヴのミサではいろいろな歌が歌えるので、教会の音響が良ければ、本当に楽しいです。お祈りもまとめてできるし。でもとりあえずは、「家族のお祝い」というエッセンスを尊重して、貴方を愛するご家族のためにお祈りください。まだ遅くないですよ。1月6日までは「誕生祝」はつづくので。ではよいお年を。

28古川利明:2006/01/16(月) 17:35:45
男系の起源とは
 日本滞在中は、竹下さんの知人の方とも一緒に表参道のカフェで、例によっていろいろなお喋りを楽しめて、満足しています(笑)。その中で竹下さんに伺った中に「結婚制度の起源にあるものとは」という問いに、「父親の画定である」との答えに「なるほど」と思いました。といいますのは、今、「女性(女系)天皇の論議」がウルサイですが、要するに「男系天皇の血」をこれまでに維持できてこれた最大の理由は「側室(制度)」の存在ゆえなんですよね。つまり、これまでは「オトコの天皇」は、「男子」が生まれるまで側室を何人も持って、子作りをすることができたから、「男系の血」というのは保たれてこれたんですよ。しかし、近代の「一夫一婦制」のもとでは、そんなことはできませんから、「天皇制(王政)」と「近代(の婚姻制度)」はそもそも両立しえない運命にあるんですよ。ここの部分は敢えてというか、「わざと」一連のギロンから避けているんですよね(右派・保守も、左派系フェミニストも)。これは竹下さんの領域ですけど、キリスト教にはマリアの「処女懐胎」のエピソードがありますよね。あまりうまく質問ができなくて申し訳ありませんが、そこらのあたりから「婚姻制度」と「男系」というものを斬っていったら、竹下さんの目からはどのように映りますか。欧州にまだ存続している王政のあるところもあるので、そこらあたりも睨みつつ、ぜひ、竹下さんのお考えを聞かせてください。

29Sekko:2006/01/18(水) 02:50:19
男系について
 仕事が押せ押せになってきて、じっくり書けないのですが、このテーマは確かに面白いですよね。あの時お話ししたように、「男が自分の財産や権威を子孫に継承させる」必要が生れた時に、「子孫の確定」のために制度としての婚姻がどの文化でも生れているので、要は
妊娠の管理であり、「一夫一妻」の「一夫」の部分が重要なのですね。「一妻」かどうかは経済力によるだけだったりします。あるいは「一妻」が子供を生産できない時ですね。女性の結婚はたいてい、ヴァージンロードを父親に連れられて夫に渡されるのに典型的に見られるような、「財」の移動でした。
 確かにそういう意味では、聖母マリアが処女であり続けたというのは、「父なる神」の権威を「子なる神」に移行させるためには絶対必要だったのでしょう。それから言うと、男であるイエスには、子供がいては困るという論理は必ずしも成り立ちません。イエスは「教会」と結婚し、キリスト教徒はみなイエスの子というイメージ、聖職者や修道者の独身制や「イエスの花嫁」という表現も、「一夫」が重要なのであって、「妻子の数」はどんなに多くても問題ないのでしょう。
 一神教が「一夫」への貞節をベースにしているとしたら、多神教社会では、もっと母系が残ってもよさそうでしたが、結局、財と権威の蓄積が男系を生むのですね。ヨーロッパでは、財と権威の継承権としての王家の系図はいつまでも残しているから、傍系はいくらでもあって、あまり直系にこだわらないというのはあります。フランスでさえ、今王政復古しても全然平気というか、誰が王になるかという順番は自明のものとしてあります。
 感動的だったのは、敬虔なカトリックだったベルギーの先王ボードワンで、愛する妃(スペイン人)との間に子供ができず、すごく悩んだ末、「ベルギー国民の父」となる道にたどりついたことです。一妻を守ることを、一神を守ることに重ねて霊的な権威を増幅させていき、霊的な財を増やして、弟だったか、次の王に無事引き渡すことができたという感じですね。これがサウジアラビアとかになると、部族国家をまとめるために、アブドルアジズが各部族と姻戚関係を作り、何十人という子孫がいまやネズミ算式に1万人を越す王族になって、強固な消費者のマーケットを形成し、まあ、事実上「一神」を守るというイメージも薄れ、それが、原理主義者を刺激して、という事態になっているので、ベルギーとは対照的です。
 カトリックが国教のモナコは、独身で即位したアルベール公が、他に子供もいる黒人女性と婚外子(男子)をもうけていたことが分かったのですが、これをすり抜けるレトリックも面白いものでした。まあ、ヨーロッパの王家は、王権神授説時代から、独身制の聖職者に対抗して霊的権威をいかにシェアするかというのが課題でした。
 日本では、天皇家はそのまま祭司としての権威を保持し、しかも一神教じゃないから、教会との拮抗や一神教の霊的権威の獲得のために知恵をしぼってきたヨーロッパの王家のような基礎体力がないのかも。王族の「臣籍降下」という感覚はなく、プリンセスは結婚してもプリンセスのままだし「臣籍」じゃなくて「親戚」の世界。分かりやすいのか分かりにくいのかよく分かりませんよね。他に考えることもないではないのですが、とりあえず無難なセンでやめときます。

30古川利明:2006/01/20(金) 20:52:40
いろいろと考えさせられます
 「一夫一婦制」をベースに置く「婚姻制としての男系」の根っこにあるものとして、「財と権威の蓄積」という分析は、「うーむ」と考えさせられます。結局、集約的な農業生産の開始とともに、財産の蓄積、そしてそれとリンクしている貨幣が生み出され、そこから貧富の差や統治機構、さらには「システムとしての男系」が生まれてきているんでしょうね。私の大好きなジャン・ジャック・ルソーしかり、また、レヴィ・ストロースなんかもそうだと思うのですが、そういった「文明の進展(?)」という視点から、婚姻(家族)制度をみているんですよね。本来はそうした研究を専門にしているアカディミシャンこそが、現在の「女性(女系)天皇制」のギロンに一石を投じてもよさそうなのに、例によって、「見ざる、言わざる、聞かざる」ですものね(笑)。「天皇」と聞いただけで勝手に「タブー」だと思い込んでしまっているんですから。「諸君」や「正論」「SAPIO」といった「マッチョ大好き雑誌」はそもそもああいうノリなのは、私はアレで全然、かまわないと私は思うのですが(桜井よしこ等の主張も含めて)、「世界」や「論座」あたり(のツッコミ)がヒドイですよね。フランス同様、いまの日本の左派が腰抜けなのも、こういうところにも一因があるように、私には思えるのですが(笑)

31yoshi:2006/01/26(木) 19:53:13
落ち込むこと
竹下さんでも落ち込むことってありますか。

32くみん:2006/01/26(木) 19:57:34
あこがれ
ピアニストです。フランス人にどうして日本人のピアニストはロマン派が好きなのかと聞かれ、「ロマン派に憧れているから」と答えようとして辞書を引き、J'aspire と答えたら、全然通じませんでした。なぜですか。

33Sekko:2006/01/29(日) 02:17:44
落ち込むことんついて
 一日って、年平均したら、半分は夜ですよね。それで、普通の人は、日没の後も人工の光でまだ起きていて、睡眠というブラックアウトを日に7、8時間に抑えているわけですが、昼ばかりだと地球は焦げつき、夜ばかりだと凍りつくというわけで、起きている時間も、その半分くらいは暗くても自然かなあと私は思うのですが。そう、「普通の状態」があってそこから落ち込むというより、光になったり陰になったりするのっぺりした一日の中で、ブラックアウトの睡眠を楽しみ(小さい頃から、毎日やってくる、寝ることの不思議が、気になって気になってしかたなかったんです)、その中で、たまに他人との関係で、傷つけられたり、元気ををもらったりというのはあります。傷ついた時は、猫みたいに傷口ぺろぺろやって寝て治し、元気なときはそれをおすそ分けするためにわりと外へ出しちゃう方なので、外から見てると「いつも元気」っぽく見えるのかも。でも基本的に今落ち込んでるとか元気とか、「自分の状態」の把握に興味を持たないようにし、あるべきモデルも想定せず、自分の心身状態に関して、ぼーっとした距離感しか持ってません。もちろん病気になったら薬を飲むとかの最低限の対症療法はしますが、健康法もなし、健康診断もせず、です。
 最近、エルサレムから数キロのアブー・ゴシュの修道会の院長が変わりました。この修道会は、12世紀にマルト騎士団が建てた教会にあって、現在10人の修道士が住み、今年創立30年を祝います。30年前に、ノルマンディのベネディクト修道会の院長が、世界の分裂の元は、初期キリスト教とユダヤ人の分裂のせいだと言って、ユダヤ、イスラム分け隔てなく門戸を開き地域社会に尽くそうと、この地に4人の修道士を派遣したのです。今回新院長になったのは、最初の4人の生き残り2人農地の一人、シャルル・ガリシェ師です。
 何で、急にこんなことを書いているかといいますと、このガリシェ師の略歴が紹介されてるのを見てちょっとびっくりしたからです。「1976年、アブー・ゴシュ着任」の後、「1993年、鬱病」とあるのです。その後は、「1996年、パリ、サンタンヌ病院精神科看護師」「1999年、サンテ刑務所付き司祭」「2004年、イスラエルへ帰還」「2005年、アブー・ゴシュ修道院の院長に選ばれる」です。
 聖職者(しかも修道院長)の略歴に、鬱病なんて病名を書くなんて・・・でもわざわざ書くということは、それが彼のキャリアにとって大きい意味を持ち、最終的にはポジティヴだったからだろう・・・それにしても・・・一昔前なら、ここは「信仰の夜」と書かれるところだったろうに・・・と感慨を覚えました。逆に、十字架のヨハネからリジューのテレーズまで、聖人聖女を訪れ苦しめた「信仰の夜」、あれも今なら、鬱病と診断されかねない。信仰にも、昼もあれば夜もある。輝く光に照らされる人ほど、夜の冷たさも、睡眠でブラックアウトできずにひっそり絶えなければならないこともあるのだろう。アート評論のところで書いた12月の展覧会で、メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、鬱病へと変化していくさまをいろいろ見ましたが、神学にまでなっている「信仰の夜」も、ひょっとして鬱病に?
 それで、このガリシェ師がどうして欝になったかといいますと、ノルマンディから一緒に来てイスラエルで17年苦を共にしたアラン修道士の死を看取ったからです。それを振り返って彼は、「信仰は死別の時に役に立たなかった、死はいつも試練だ。しかし、英雄的に喪を生きない、とあきらめて、抵抗せずに受け止めたら、死は新しい生をくれる」と言っています。彼は、2004年にイスラエルに戻り、もう一人の同士である前院長の死を看取り、今度は「欝に落ち込む」ことなく、新院長の任を引き受けたわけです。
 ヴァチカンの聖人認定審査の基本は、英雄的な徳性とか、英雄的な信仰です。だから殉教者などはそれだけで、英雄性が認められるわけですが、この「ヒロイック」というのは、他者のために身を捧げると思えばいいのですが、「強い」とか、「負けない」とかと解釈しちゃうと、夜が来たとき眠れなくなって、「信仰の夜」や欝に突入するのですね。
 ちなみにこのガリシェ師は、1997年の復活祭の夜、ひどい狂乱状態で精神科に運ばれてきた女性が叫んだのを聞いた時に、本当に立ち直ったと言います。看護師がその女性の身につけていた十字架だか聖画のメダルだかを取り外そうとすると、彼女はすごい勢いで、「だめ、これは私の全部だから!」と拒否したというのです。狂乱の中でも残る分かりやすい信仰、小さなオブジェの中にでも自分の全部を託すことができる人の心の不思議、そこにガリシェ師は夜明けの匂いをかぎつけたのでしょう。
 そんなわけで、ショックはできるだけ抵抗せずにやり過ごし、夜が来たら目を閉じ、それでも体調や体質やらの具合で落ち込んでしまったら、それを厳しい目で見ないで、ぼーっと育てていけば、いつか新しい光が差してくるかもしれない、というのが、ガリシェ師に学ぶ欝の正しい過ごし方、でしょうか。
 くみんさんの憧れの質問の答えは、フランス語の質問箱のほうにしますね。

34Masako:2006/01/30(月) 22:08:49
メランコリア考
>
メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、
最近どうしてこんなに「鬱病」が増えているのだろうと思っていたのですが、「神なき時代の病」とみると、納得できるようなところもたしかにありますね。「存在」の病がprescribeされるレヴェルへと矮小化されたというか。でもそれなら、「神」について西洋人ほど突き詰めた思弁をしない日本人に鬱病が増えているのもちょっと不思議な気もします。生きる意欲の希薄さというのが日本的な「鬱」なのかもしれません。日本人の近年の自殺率の高さを「日本人総鬱病」説で説いている人もいますが、それはあたらないにしても、高率な原因は巷間いわれるような経済的な問題やリストラ云々でなく、現代日本人にはjoie de vivreが欠けているからではないかと推測しています。何でもmake loveの年間回数の最高がギリシャ人で最低が日本人だとかいう、ちょっと笑える統計が最近出ていました。このひとつをもって日本人総鬱病とはいえませんが(joieにはいろいろあるので)、少子化の一因は社会システムだけでなくここにもあるのでは。

35Masako:2006/01/30(月) 22:16:46
下記、1行目のみ引用です
すみません、下記の1行目のみ、その下の竹下さんの言葉の引用です。
<マークがわかりにくくてすみません。

ガリシェ師のお話たいへん感動的でした。
「信仰の暗夜」、十字架のヨハネとか思い起こさせられて、懐かしい気がしました。
「暗夜」とは何の関係もありませんが、少しは体調も回復したので今年は久々に渡欧して
憧れながら行ったことがなかった、コルマールへ行ってみたいななどと
考えています。イーゼンハイムの祭壇画を一度見てみたくて。

36Sekko:2006/02/01(水) 02:50:46
アルザスは・・・
 アルザスは冬すごく寒くて、夏すごく暑いので、春か秋がお勧めです。時期がわかれば、パリの宿泊先とかアレンジできますよ。アルザスはホンと、フランスじゃないですね。長崎も日本じゃないなあと思いましたけど。日本の自殺率の高さと少子化とセックスレスが関係していて、Joie de vivre が欠けているという推測は怖いです。実は私も、「それを言っちゃおしまい」というので言うのを控えていますが、日本って決定的に変と思うことがいくつかあります。
 熟年離婚のことなどはこちらでも報道されてショックだという人がたくさんいます。昔よく「亭主丈夫で留守がいい」とか「仕事とSEXは家庭に持ち込まない」などという言葉がありましたが、この二つもすごく深いところで怖いですよね。
 まあ病気としての欝はもう人生のアクシデントとしか言いようがない側面もあるので、ケースバイケースで対応し、自傷や他傷を事前に防ぐため周囲がベストを尽くすしかないとは思いますが。でも適切な言葉のコミュニケートによって回復することもあるので、そういう言葉を模索していくことは大切だと思います。

37古川利明:2006/02/01(水) 21:16:22
私もアルザスは・・・
 竹下さんの「アルザスはフランスではない」という発言に思わず驚いてしまって(笑)、哲学・宗教の話題から外れてしまいますけど、ひとこと。私もフランス国内はだいたい回った(つもりな)のですが、それでも「空白域」がまだ少しあって、その一つがアルザスです。東部地域のミュルーズまでは行ったというより、クルマでかすっただけですけど、その北、例えばストラスブールなんかは自慢ではないですが、一度も行ったことがありません。そもそもドイツ自体、まともに滞在したことがなくて(それはイギリスも同じ)、ポーランドは何度も行っているのに、ドイツはいつもワルシャワから(直通の夜行バスで)通過してしまうため、自分の中にはドイツはベルリンも含め、「街の記憶」というものがありません。ストラスブールあたりだと、食事なんかもドイツ料理そのものだ(じゃがいもにソーセージ、サワーキャベツ)とか聞きますし、「最後の授業」じゃないですけど、「フランスの中のドイツ」なのでしょうかね。しかし、そんなことを言ってしまったら、ペルピニャンはスペインですし、マントンはほぼイタリアですので、「国境」っていうのも、人間が便宜上、人工的に引いたものに過ぎないんだなあと思います。ユーロも流通して、前みたいな両替の煩雑さやパスポートコントロールもなくなったことですし、今度そっちに行ったら、たまにはフランスの国境の外に出てみようかなあ、と思っています。

38Fusako:2006/03/07(火) 23:43:53
鬱の話
たまたま竹下さんのご本を読んだので。フランスの少子化対策、じゃあない(「少子化対策」は日本での用語でした)「家族政策」について調べていて、ついでにあれこれで、竹下さんの本に行き当たりました。
で、家族政策と離れて、「鬱」の話。日本で鬱、自殺は増えています。で、欝はたいてい職場がらみか、或いは、これはあまり表に出ていませんが、家庭がらみですね。職場の問題は、教員・公務員・自衛隊に鬱が多い。企業にも増えていて、要するに仕事が回らないので問題になっています。民間ならとっとと首にするのを、公務員では解雇できないので、公務員の鬱が問題になるわけです。
自殺は経済問題。自殺も、「死んだことになっている」、つまり、戸籍から抹消されたホームレス(フランスで言えば、SDF、sans abris)も、借金(消費者金融という「金貸し」)苦からの逃避が、これも、仕事がらみですが、多いようですね。
フランスや北欧もけっこう「鬱」があるとはききますが、日本とはかなり違うのでは?

39Sekko:2006/03/08(水) 07:32:16
欝の比較文化
 北欧やフランスの特徴的な欝にはやはり、冬の日照時間が短くて、それがホルモンだか脳内物質の分泌だかに影響して、というのがあり、ハロゲンランプとかを毎朝2時間照らして治療したら緩和するというのはよく聞きます。ここのとこずっと天気が悪く、雨の翌日たまに青空が出ると、芽の出かけている木々が嬉しそうなオーラを出しているのに初めて気づきました。木は危険を察知すると化学物質を出してコミュニケートするとか聞いてましたが、嬉しい表現もあったとは、驚きました。全部の木じゃなくて、同種の木が集まっているところにたまに。
 というトンでも話はこれくらいにして、私は、このごろ、鬱病も自閉症などコミュニケーションと同じように、グラデーションを成していると思っています。普通に活動意欲のある部分から、まったくゼロになるところまで、漸進的にグラデーションがあると。それで、意欲の針が、職場の問題とか家族の問題とか、体の不調とか、日照時間の短さなどによって、どんどん、あるいは少しずつマイナスの方にぶれていく欝も確かに存在します。この契機は文化によってすごく差があり、カイロのスラムで何十年もヴォランティアをしていたシスター・エマニュエルが言っていたように、すごく貧しい生活でも、それが欝の契機にはならないで全員インがヴァイタリティに満ちている場所もあり、戦争中で空襲されて逃げているとか、収容所の中とか、サヴァイヴァルのアドレナリンが出ているような状況でも、欝への傾斜はないようです。何らかのきっかけでマイナスに傾斜していく場合も、少しずついい方に引っ張るより、ショック療法というか(たとえば家族が事故にあうとか、事件を起こしたとか、自分の体の方がSOS を出すとか、天災に巻き込まれるとか)、背に腹は変えられないというような状況にあって驚いて針がプラスの方へ向かうことの方が多いようです。欝に向かっていても、安定剤のような薬を飲んでいない限り、意識は明晰な人がほとんどですから、ケースバイケースで、カウンセラーを受けさせたり、原因を取り除く(太陽灯をあてるなどもふくめ)工夫を周囲の人ができればいいのですが。人の心をもっとも動かせるのは人の言葉だったりするので、適切な言葉を探して声をかけるというのが効果を発することもあります。
 しかし、体験のない人には想像しにくいかもしれませんが、欝の中には、意欲の針が、何の契機もなしに、グレーゾーンを通らずに、ぽんと、限りなくゼロに近いところに振れてしまうものもあるのです。これは前にも書きましたが、人生のアクシデントとしか言いようのないものです。ホルモン変化(つわりや更年期など)や他の病気が原因の時もあり、それは、じっとやり過ごして原因が取り除かれるとけろりと治ったりするのですが、うつ状態にいる人は、いつか治るという見込みや希望を自分では感じられないので、頭で理解できるように情報を与えるべきです。
 そうでなく、ただ、まるで遺伝子にプログラムされていたかのように、青空が広がろうと、健康状態がよかろうと、ただ、ぽんと針がマイナスに振れる時、これが一番、周囲の理解を得られにくいこともあってつらいし、文化や生活史から隔絶しているので、手のつけようがありません。活動意欲ゼロの上に孤独を抱え込みます。しかし、このタイプの中にも、周期性をつかんで、小康状態のときにいい仕事をするとか、意欲がなくても機械的に普通の生活をするとか、いわば「高機能鬱病」の人もいます。こういう人は、グレーゾーンを通過してきた個人的痛みやつらさがない分、一種抽象的な「死」と共存しながら、結構長く生きたりもできます。自殺する意欲もない時より、小康状態の時の方が危ないので、小康状態の時をどうやって管理するかが大事です。理由はなくとも、生れたからには生きて、自分の中の「生命」の部分に水をやって育て、他者との関係を結び、「死」の部分は覆いをかけて、繁茂しないようひ弱にしておく、と心がけるといいですね。
 って、あまり答えになってませんが、要するに、欝や自殺で比較文化が成立するような部分は、まだ、他者が助けになってあげられる段階なので、問題解決のためにみんなで力をあわせましょう。リストラや借金、老いや病気、私たちや私たちの大切な人にもいつでも襲いかかり得ることです。私で役にたつことがあれば、心の問題でもこのコーナーでどうぞ声をかけてください。

40Fusako:2006/03/09(木) 23:10:27
鬱、続き
お返事をありがとうございました。でも、わたしがおたずねしたかったのは、そう、日仏、ないし、日欧の違いですね。Joie de vivre という言葉を見て、日本でそれに当たるのは何かしら、と考えました。で思い浮かんだのが、全く逆の「生活苦」、で、日本人はこれで鬱になり、自殺するんですよね。もう一度ひっくり返すと「生活苦」という言葉がフランスにあるか、ということになりますね。
日本の鬱の場合、「生きる意欲」がなくなる、というより、「これでは生きてゆけない」と思いつめてのもの、で、欝であることがわかったらクビになる、と思いつめてひた隠しに隠してどんどん悪化する、とかね。病気ですから休みます、というAbsenteismeは日本ではあり得ません。
わたしは、あまり日本人ではないので、一時鬱になりましたが、それは友情の破綻によるものでした(ずっと後からわかった)。でも、たいていの日本の鬱、って(「メンタルヘルス」というのが最近の用語)、仕事や勉強がらみ、金がらみ、です。仕事がらみ、というのは、前回書いたように、業績不良だの、いじめ・セクハラで鬱になる現象。日本には、仕事をやめたらヨーロッパ型の生活扶助や失業手当がありませんし。そういうものがあって消費者金融というか「高利貸」に頼らないですめば、とか、フランスの家族手当ほどの現金給付(子ども一人に月額二万弱?)があればどれだけの子どもが育てられるか、とか、お金だけの問題ではないのですが(お金を出すシステムは国民の合意にもとづく社会政策から導き出されるわけですし)、考えています。これまた全然違う話題ですが、熟年離婚も、生活できるお金が保障されれば離婚する、という話です。

41Sekko:2006/03/10(金) 06:07:44
生活苦
 すみません。哲学宗教の質問箱だったので、欝は、理由のない、不条理な、「小さな死」のような、文化の比較を超絶したあの鉛のような鬱病を念頭においていたので。別に理由がはっきりしている欝の方が「軽い」とか治りやすいとかしのぎやすいと思っているわけではありませんが、理由なき欝の孤独は、社会状況や個々の生活史とは関係のない、人間の実存の深淵と結びついているようで、時々考えこんでしまいます。こういう欝の体験者がいらしたらコメントください。
 今TVのニュースを見てたら、フランス人の健康調査があって、自分が欝状態にあると感じているフランス人は8パーセントいて、その中の38パーセントが医者に通うとありました。言葉は低気圧と同じDepressionなので、イメージ的には「落ち込み」に近いですけど。
 昨日見た別の番組で、アメリカ人が自国とフランスとを比べて、アメリカは野心があればどんどん昇れるけれど、そこから落ちたりすると悲惨だ、それに比べるとフランスは負けたり失敗したりすることに寛容で、成功者の方がむしろ嫌われると言っていました。
 日本はむしろフランスの方に似てる気もしますが、日本の方が「世間体」を気にしてと言う要素は大きいでしょう。「生活苦」にぴったり当てはまる言葉は確かにフランス語にないし、「Joie de vivre 」にぴったりの日本的表現もすぐに思いつきません。きっと、フランスでは、きれいな服を着ておいしい物を食べて、飲んで、おしゃべりしてというのが長い間、王様から庶民までの分かりやすい幸せと善のコンセンサスだったのに比べて、日本では、武家に寡黙で質素な儒教文化が浸透して、着飾っておいしいものを食べるのは遊郭とかの「悪所」で、素直に喜びというより「遊蕩」のイメージがあったので、ずれているのですね。
 失業したりの純粋な生活苦というのはどの国にもあるし、そのために社会から疎外されるのは特に先進国の問題ですね。日本風の熟年離婚はあまりこちらでは聞きません。普通退職金というものはありませんし、相手が嫌になったら熟年まで我慢するという発想は多分ないです。日本は戦後の高度成長期に、専業主婦を夫婦のモデルのようにして社会が成り立っていたから、育児の途中で離婚したら母子の生活が成り立たない現実があって、それで熟年まで待ったりするんですね。フランスに5年住むアフガニスタンの学生が、初めてパリに来たときメトロの中でキスするカップルを見て驚いた、誰も気にしていないのにも驚いた、セクシャリテが楽しみのためにあるのだと知った、と言ったら、周りのフランス人は笑いました。彼らには楽しみ以外のセクシャリティが可能なのか一瞬分からなかったのです。アフガニスタンの学生は、僕の国では子供を作るためのものだと思っていたと答えました。フランス人たちはみんな虚をつかれた感じでした。彼らにとってはセクシャリティは「おいしい食事」と同じカテゴリーに入っていたようです。

42Masako:2006/03/10(金) 13:00:47
実存の深淵
下記のジャミソンの本は未読ですが、衝撃を受けたのでよく覚えているのですが、
パラパラと見たとき最初の方に、自分は深く鬱からくる自殺の誘惑と
戦っていて、同じ誘惑にさらされている友人ととにかく何らかの兆候が
相手にあったら何としてでも阻止しあうという約束をしていた、という
くだりがあって、ここを読んだ時、実存の深淵を垣間見たような、非常に深い
苦悩を感じ衝撃を受けたことを思い出しました。
「存在苦」と言えばよいのでしょうか、
そういう苦悩です。

ジャミソン自身、躁鬱病に苦しみながら、精神科医として素晴らしい仕事をしつつ
著作活動をしていて、アメリカでは非常に読まれています。

「早すぎる夜の訪れ―自殺の研究」
ケイ ジャミソン (著), Kay Redfield Jamison (原著), 亀井 よし子 (翻訳)

43Sekko:2006/03/12(日) 06:47:24
躁について
 ジャミソンの本、検索するとあまりにも面白そうだったので、今日早速、パリの本屋で仏訳を入手しました。彼女が躁欝で、躁の状態を知る故に、この病気を後悔しないみたいなことが興味深いと思ったのです。「普通」と「欝」の2状態の人には、欝からの回復が目標になりますが、「躁」の味を知っている人は欝のどん底にいても躁へのノスタルジーがひそかにうずいているので。そして、いったん躁になったときは、それも、周囲との状況とは全く隔絶してたりするので、欝のときに労わっていた家族は、ちょっと呆然として、躁を素直に喜んであげられない、「普通」を分け合えない断絶があります。「躁」は同情を得られない分、ある意味、欝より孤独であり、欝の予感があるので「生き急いでしまう」面もあります。この辺を
ジャミソンがどうとらえているか興味深々です。すべて「養生」は「中庸」にあり、それを侵犯して生きる躁鬱は、スリリングでもあります。(もちろん「生活苦」に由来する思いつめとは別の問題です。しかし、どちらも、あまりにも人間的な現象です。)

44Fusako:2006/03/13(月) 21:30:39
躁と鬱
鬱ときくと、ラフマニノフの曲をなぜか連想しますが、ラフマニノフには躁の要素はないような。昨年聴いたエレーヌ・グリモーのショパンがラフマニノフのような音で、色で言えばグレイでしたね。
こういうあっちこっち不安定に揺れ動くロマン派と違って、古い曲はバランスのとれた端正なものばかりのような印象があります。
忙しかった一日を終えての四方山話です。

45古川利明:2006/03/14(火) 13:15:43
面白いですね
 この躁鬱論議が面白かったので、私もチョット書きます(笑)。しかし、アフガニスタンから来た人への、フランス人の「楽しみ以外のセクシャリティにいったい、何があるんだ」との発言は何ともスペシャルですよね。もともと明治以前は日本のカルチャーもセクシュアリティに対して、もっとオープンだったと思うんですけど、例の「富国強兵路線」で、そういうものを「いかがわしいもの」と抑圧してきた部分はありますよね。かび臭い儒教的な発想を引っぱり出した部分もあるかもしれませんが、結構、アングロサクソン的なピューリタリズムもあるかもしれませんね。フランス人に比べて、日本人に鬱が多いというのは、そういった社会に存在するさまざまなタブーの存在とも関連があるような気がしますが。

46Sekko:2006/03/19(日) 01:35:33
ジャミソンの本
 私の買ったジャミソンの本はMasakoさんの書かれた自殺の本とは違う自伝のようです。一番よく読まれているという話だったので選びました。まだ全部読んでませんが最初はかなり違和感がありました。この本がこんなに人気を博したのは、「こんな病気を抱えている人でも社会的に立派に成功し幸せになれるんだ」と励みに思う人か、「こんなに立派な偉い人でも、実はこんなに苦労しているんだなあ」と自分を慰める人かどっちかに受けたような気がしたのです。躁の初期に一種の啓示を受けることへの著者の自覚にも、不思議に共感できませんでした。それに、躁で舞い上がって、浪費したら、頼もしい立派なお兄さんが飛んできて借金を清算してくれるんですよ。いや、別に、彼女が躁の落とし前をつけないことに嫉妬しているのではなくて、結局、彼女が金のあるWASPで、若くて頭がよくて、金髪碧眼の美女であることがすべてを変えるなあと思ったのです。
 どんなに躁鬱が実存的に苦しくても、金や権力やコネや若さがあれば、かまってもらえる。(アル中から復帰して大統領にもなれる。)しかし、年寄りや障害者や貧乏人の欝とか、女子供や凡人の躁は、無視されたり制裁されるだけ。結局、普通の世界の差別構造が、より先鋭化するのが「病気」というフィールドなんだなあという思いです。

47あんとに庵:2006/03/19(日) 09:19:54
十字架の聖ヨハネ
う〜む。鬱を巡るお話面白いです。わたくしも鬱傾向があるので。
「十字架の聖ヨハネ」が現代では鬱と診断されてもおかしくないというくだりに。おおう!と。
あのメンタルは画家が作品に悩む時によく体験する精神なんですね。「暗夜」を読んだ時の規視感といったら。
そしてアート論評に書かれた「怠惰との親和性」というのはもう痛いほど経験中と申しますか。(その辺り、怠惰とメランコリアについてもっと読みたいなぁ・・・)ダ・ヴィンチの作品の少なさも関係してるんでしょうか?ダ・ヴィンチのような天才ではありませんが、作品へ向えない、そのエネルギーの枯渇というのはよく体験します。ことに最近その傾向が強いのですが、鬱だな・・と思ったり致しますね。逆に作品を描くパワーってどの辺りから来るのかと自分でもわからない時がありますし。まぁマイブームがなんらの形で生じている時というのは作品に向える。そういう時は大抵操に入った状態かもしれません。マイブームの時の活動力は鬱時の10倍はあります。近年ではフィリッポ・リッピがマイブームだったことがありイタリアでリッピばかり見ていたりとんでもない分厚い画集を買い漁り、揚げ句の果てに絵柄までリッピになり、カルメル会にあこがれ、なんだかもう大変でした。しかし鬱になるとそういう意欲が全然無くなり草食動物化します。仕事の意欲も枯渇して困りますね
そういえば鬱の言葉が低気圧と関係があるとのこと。私は低気圧になると鬱状況に陥ります。何故かそうなりますね。かといって晴れたら操になるかというとそういうわけでもないのですが。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/

48Fusako:2006/03/19(日) 12:58:07
日本の若者の状態
鬱、とか、生活についてこちらに書くきっかけになった竹下さんの本は「カルトか宗教か」でした。「家族政策」と全然関係なさそうですが、風が吹いて桶屋になり、ついでに鬱となったのは、特に日本の失業者、とりわけ若年層を考えてのことでした。
フランスでは、今、暴動に続いて初期雇用契約で若者がまたまた行動していますね。日本では、ニート・フリーターという、若年の失業者・非正規雇用者がこれも大きな問題になっていますが、政策なんてないに等しいです。特に、これを「鬱」と言うべきか、「引きこもり」などの生きる意欲に欠けている若年が大量にいるのに対して、全国にNPO頼みの委託施設をわずかに数十箇所指定し、それも効果が疑わしいし、失業対策に本腰を入れるなら強化しないとならない職安は民営化し、そうでなくとも労働法と関係ない口入産業の派遣・請負業ばかりがはびこっています。人を転がす口入産業、金を転がす銀行(儲かる企業だけを向いている)と高利貸(セーフティネットのない社会で市民にはこれしかない「消費者金融」)ばかりが肥大化する社会。
特に若い層が、まともな賃金と労働時間でまともな生活ができる社会でなければ、子どもも持てないし、Joie de vivre なんてないですよね。
そういう中で、これは計量化できないけれど、日本の若者の「心」ってどうなってきているのか気になっています。欧米ほどの暴力的カルトではないけれど、もともと、あまりものを考えず、自力で生活できる意欲にも乏しく成長している日本の若年の中にはびこっている、あるいは、若年の中にできている空洞に入り込んでいるもの、それが気になっています。

49Nao:2006/04/10(月) 16:44:54
ユダの談合
????4/7,読売朝刊から。
????米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフイツク協会」は6日、1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。イエス・キリストの弟子ユダがロ−マの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従つたからとの内容が記されていたという。解読したロドルフ・カツセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

????イエスはほかの弟子とは違い教えを正しく理解していたとユダを褒め「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と,自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。

竹下先生
????このことはフランスでは、どんな議論になつているのでしょうか?これからなのでしょうが、フランスの論議がでてきましたら、是非ご紹介いただきたくぞんじます。

50Sekko:2006/04/10(月) 17:39:42
ユダについて
「ナショナルジオグラフイツク協会」は4月9日、15日、27日にこのテーマでTV番組を放映し、その後5月3日号でユダの福音書のダイジェストを発表するといっています。この中でユダは、裏切り者から「英雄」さらに「聖人」として復権という機運があります。
 しかしこの福音書はすでに2世紀からリヨンの司教エイレナイオスの異端論によって伝えられていて、325年にニカイアの公会議によって、他の30ばかりの外伝と共に正典から外され失われました。1978年になってエジプトの洞窟から農民が1部を発見、おそらくグノーシス派の一派カイン派のものだと思われています。カインの子孫と称するこの一派は、3世紀から4世紀ごろに、この「ユダの福音書」を手写したようで、元は、正典の4福音書と同時期(1世紀後半)にギリシャ語で書かれたものだと見られます。
 この手稿の現在の所有者で、エジプト政府に返還を決めているスイスのMaecenas財団で分析されるまでに手稿は痛みました。16年もアメリカ系銀行の金庫に眠っていたため、パピルスが乾いて、上部は裂けたそうです。キリスト教考古学者らが改めてユダの立場について研究しましたが、それ以来巷に出てきた「ユダ擁護」の本はすべて、イデオロギーの色のついたものです。ピエール=エマニュエル・ドザの『ユダからホロコーストへ』は、教会がユダをスケープゴートにして、反ユダヤ主義に必要だったユダヤ人像を生み出し、それがヒトラーにまでつながったとします。ニコラ・グリマルディ(『Le livre de Judas』Puf)によれば、ユダは、イエスの教えがモーセの教えと合致しているか審査してもらおうとしてイエスを司祭に引き渡したのだ、神の意思を確認したかったのだということです。今出ている本のたいていは、学問的考証の影に反教会主義が見え過ぎているものが多そうです。
 でも西方教会ではユダだけじゃなく、ユダヤ人全体が「イエス殺し」「神殺し」という汚名をずっときせられてきました。それは、西方教会を担うローマ人が、ローマ総督ピラトがイエスを有罪にしてローマ式の十字架刑を執行したというイメージを嫌って、「イエスの死を望んだのはユダヤ人」という印象を強める必要があったからでしょう。日本人などの眼から見たら、イエスだって、12使徒だってユダヤ人なのに変だなあと思うのですが、コスモポリタンでギリシャ的なパウロが普遍宗教のキリスト教を創っていったこともあって、イエスのユダヤ・ローカル性からローマ世界帝国領内の人々の眼をそらせるために、「イエスを殺したのはユダヤ人」という形を強調したのでしょうか。今もホロコーストの後遺症が大きいヨーロッパの反ユダヤ主義の根は、キリスト教の「神殺しのユダヤ人」史観そのものにあったので、「ユダ」という一人の裏切りにあったのではない、ユダの裏切りの物語は、イデオロギー的ではなくむしろ人間的な物語としてインパクトを持ち続けてきたと思います。でも私が『キリスト教』でちょっと書いたように、ユダの名前が「ユダヤ人」と重なるのが皮肉でした。彼がシモンとかヨハネという名だったら、大分変わってきたとおもうんですが。
 それで、またアメリカですが、アメリカのメディアが今急にこのことを大スキャンダルであるかのように言い立てるのは、ひとつにはユダヤ人コミュニティのロビーイングの力に支えられたイデオロギー的なものだと思いますし、キリスト教が原理主義的に政治勢力となっているアメリカだからこそ効果があるのですね。フランスでは、One of them という感じです。でも、『ダ・ヴィンチ・コード』の大成功以来、フランスでも、宗教無教養派がアメリカ由来の「スキャンダル」に飛びつく傾向があるので、この『ユダの福音書』を種にしてまたダン・ブラウン、または第二第三のダン・ブラウンがベストセラーを書けばいいなという雰囲気ですね。
 カトリック自体は、すでに4世紀の時点で、この福音書を正典とは認めないという立場を決めてしまっているわけですから、それを前提に発展しているので、個人の信者が動揺するとかは基本的にありません。信仰は考証や証明とかではないし、真実とは史実とイコールでもないのですから。

51Fusako:2006/04/10(月) 23:23:23
ユニヴァーサリズム
別のことを調べていて、フランスのユニヴァーサリズムについて触れた文章に行き当たりました。先日出ていたセゴレーヌ・ロワイヤルさんはPACSの方ですよね。で、これはフランスの同性愛者の問題についての研究者が書いたもののようですが、PACSは、フランスの実際的ユニヴァーサリズムの例である、というものでした。
http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/Pacs.pdf

52あんとに庵:2006/04/12(水) 18:56:25
ユダについて
sekkoさんのおっしゃられる通り、ユダが裏切り者だったからユダヤ人が・・・というのは本来的にはあまりないですよね。それよりもユダヤ人の中にある「反教会主義」の動向が気になりますね。何故なのでしょう?

53Sekko:2006/04/24(月) 01:22:42
ユダの福音書〈続き〉
ユダの福音書ですが、最近読んだコメントでは、それが「全ては宇宙的デザインにしたがってオーガナイズされていた」というグノーシス的世界観に傾くところが問題だとしていました。正典の福音書もよく見れば、イエスがユダに「しようと思っていることをしなさい」と言ったり、最後の晩餐のあの雰囲気で、ことの次第を見抜けなかった他の11使徒の方がお間抜けな感じです。オリーヴ山でのあの苦しみを見ても、イエスは次の日に逮捕されても「驚いた、ショックだったよ、弟子に裏切られて。晴天の霹靂。」というような状態じゃないですね。それにもちろん旧約の預言の成就というグランド・デザインがあるわけです。だから、『ユダの福音書』のようなテキストが嘗て流布していたことは不思議じゃないし、そんなにスキャンダラスじゃないですね。
 アングロサクソン国でまた騒ぐとしたら、ひとつは「復権ブーム」もあります。「ダヴィンチコード』が女性原理だの女神だのマグダラのマリアだのの「復権」を書いたように。
 また、ピューリタン系プロテスタントが、聖人伝系テクストを否定してきたので、「外伝」と聞くとすわ「秘密の伝承」と色めきたつ事情もあります。実際は、このユダの福音書が発見された洞窟文書は66ページ、13の手稿があり、そこにはヤコブの原福音書とかペトロの手紙とか、アロゲネスの書〈そのテキストの2つは1946年のナグ・ハマディ文書と重複)とかあるんですが、たとえばヤコブの原福音書が、ヨセフを老人の姿で描く伝統のもとになっていたり、別の、偽マタイ福音書とかが、イエスが馬小屋で生れ、馬やロバに囲まれていたという伝承を流布させたのだということは知られています。正典が採択された4世紀ごろには頃には、さまざまなテキストが出ていて、外伝となった後も実際は伝承の中で生き続けていたわけです。しかし、そういう枝葉を取り払ってできたプロテスタント世界では、外伝がメディアに出て来るたびにスキャンダルになったり、それを政治的宗教的に利用しようとするグループがでて来るわけですね。
 しかし、よく考えると、ユダの「裏切り」はすでに旧約の成就というグランド・デザインの中に位置づけられていたのですから、単純に「悪者」と見なされていたわけではありません。ボルヘスのように、「人類全てを救うためにもし神が屈辱を必要としていたのなら、真のメシアは沈黙のユダである」といった人もありました。裏切りもまた、神に対する人間の自由のひとつの表現だと見る意見もあります。ユダのおかげで、キリスト教世界の人は、いろいろな自問や思索を余儀なくされ、「裏切り=悪」という二元論的で単純な断罪の誘惑と戦ってきたのだと思います。
 裏切りといったら、他の11使徒も、イエスが殺されるまでちりぢりになって逃げて知らん顔していたのですから、これもひどい話です。80歳で弟子に囲まれ食あたりで死んだ釈迦に対して、33歳で弟子たちに裏切られて死刑になったイエス、それでそれが神の子で、そういうパラドクシカルなところがこの宗教の人間的魅力になってます。それを、「今まで悪人とみなされていたユダは、実は善人だった」という単純な「実はいいやつ」復権話で矮小化されたくないという感じですね。
 そして、ユダヤ教をキリスト教に接ぎ木するためのアクロバティックでパラドクシカルなグランド・デザインを、「全ては宇宙的な予定調和」という形でニューエイジ風に拡大希釈してしまうのも、また魅力を半減すると思います。それに危険でもあります。前世がどうとか先祖の霊がどうとかと言われるのと同じで、判断力や思考力の求められる余地がなくなるので。ユダやペトロのせいというか彼らのおかげで、キリスト教に陰影がもたらされて、永遠にじたばたするのは人間的でいいかも。

54Fusako:2006/05/12(金) 23:00:02
週末の四方山話
今週、フランスに住む友人と夕食を一緒にする機会がありまして、出かけるときに地下鉄に乗り、ちょうどその車両が「女性専用車」。「増えてるんですか。」とたずねられて「増えてます。」わたしは利用しませんし、良いと思えない傾向ですが、これってコミュノタリスム車両?
鬱話では、景気回復といわれていますが、日本の自殺は結局8年連続で3万人を超える、との報道がついさきごろ出ましたね。

55Sekko:2006/05/17(水) 02:24:02
女性専用車両
 女性専用車両、私は一度乗りました。ホームで待ってる時から華やかそうでなんだかわくわくしました。サウジアラビアみたいだと思いました。女性は他の車両でもOKなのに男性が乗れないのは気の毒な気もしました。歌舞伎座とかで女性トイレがいっぱいの時、女性(おばさんですが)は平気で男性トイレに入っても非難されないことを思い出しました。
 その後で、何かの雑誌で、この車両についてある男性作家が、どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさんまでが女性車両を利用していると書いていたので、驚きました。女性車両に乗るのは性的価値の自己申告だというのです。ひょっとして「若い女性」専用車両だったのかとびっくりしました。サウジアラビアの生活指針には、初潮からは顔や体を黒いアバヤで隠すのですが、閉経後も美しい人は隠さねばならないと書いてありました。リヤドでは、実際はおばあさんでも、いや、年配の女性ほど、家の中でも寝る時以外はヴェールをすっぽりかぶっている人が多いと聞きました。通りでは、全身黒で顔も見えないので、はっきり言って、老若や美醜どころか、性別も分かりません。ヴェールを外す人だけが、自分は男だとか女でも性的価値がないだとかカムアウトするわけです。(サウジでは性的価値というのは要するに男を誘惑する罪の根源ということです。) レイプは基本的に首切りの死刑なので、深刻です。
 本当に男が全て女を襲うのなら、確かにライオンとシマウマは同じ車両に入れられないとも言えますが、人間なんだから、すべては文化現象ですよね。でも、少なくとも東京とパリに暮らしたことのある女性はきっと、パリでは映画館やメトロで痴漢に会わないことに気づいていると思います。初めは、日本の映画館は自由に席を選べるけれど、パリでは(特にひと昔前までは)全て案内嬢が席を決めましたからそのせいで痴漢目的の人は来ないのかなあと思ってました。映画上映中の館内は日本よりも真っ暗になります。でもメトロでかなり込み合ってもまず痴漢はいません。
 別にフランス人の方が上品だとは思えないのですが、言えるのはフランス人女性だったら触られたら叫ぶ確率が非常に高く、そしたら周りにはそれに介入する乗客が多いだろうと言うことです。そういう予測がつくので、自然とブレーキがかかるのでしょう。リスクが大きすぎるということでしょう。それ以外にパリに痴漢が少ない理由は思いつきません。私も日本にいた頃は、映画館で何度も黙って席を替えたりしましたが、叫んだことはないです。フランスだったら叫ぶと思いますね。誰かがきっとフォローしてくれそうだから。日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか。逆に今は、狂言で叫ばれたら即男性の人生破壊というくらいインパクトが強くて、男性は戦々兢々、男性専用車両に乗りたい人もいるかもしれません。
 娘がルーマニアの学会に行ったとき、東欧の女性研究者はみな下着のような服で発表したと言って驚いていました。西欧ではみんな雑誌のグラビアのような服を着ていると思っているらしいというのです。フランスではむしろモノセックス的なカジュアルな服が多いです。白衣の下はジーンズにスニーカーでもOKで、日本で順天堂医大に研修に行った時はだめだったようで、黒い靴と黒いパンタロンを買ってました。体をどう包むかというのはジェンダーの大問題ですね。

56Fusako:2006/05/17(水) 23:14:44
女性専用車両(続)
これだけではなくて、今の日本の公共交通でのマナーの悪さ、ルールのなさ、に失望しています。空いている席をめがけて、若い人や子どもが、年上の人を押しのけてダッシュするのが普通の状態です。痴漢も多いようですね。わたしは流石に今は「どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさん」であることと(でもこの表現は嫌いですよ、痴漢されるぐらいなら女として認められている、という言い方ですね)、そんな風に、女性用、高齢者用、障害者用、と分ければいいとは思えないのと、それにもう一つは、女性専用車両を使っていた娘が「あれもすさまじいものがあってね、化粧はし放題だし、同性だからという遠慮のなさか、ぐいぐい押してくるし・・・」という話にへえー、というのがありまして、使わないです。
男性、女性、あるべきように自然にいて、お互いに言うべきことはきちんと主張できるのが望ましいですよね。日本の男性と女性のあり方、ってとても不自然だし、対等でないです。毎日毎日、それにイライラしています。だいたい、男女が、自然に半々に近い組織というのがほんとになくて、仕事の組織では「オールブラックス」がいまだに大半。たまに女性の多い組織だと、女性の問題点がもろに出ます。重箱の隅をつつくような細かい揚げ足のとりあい、優等生志向、人間関係と仕事とが感情的にからまりあっている、視野が異様に狭い、・・・でわたしは、日本自体が、どうもそのような女性的社会ではないか、という印象を持っています。

57古川利明:2006/05/18(木) 20:40:55
女性専用車両
 この女性専用車両、私なりにいろいろと考えさせられるものがあります。一般的には「痴漢対策」ということなのでしょうが、それって痴漢は「男性から女性」というふうに捉えられていて(もちろん、それは事実だと思いますが)、でも、以前、東海道線の満員電車に乗っていて、私、脂ぎったオバハンに股間へ太ももを差し込まれたことがありますよ。向こうは気持ちいい表情をしていて、「カンベンしてくれ」と思いましたが、こうした「男性の被害者」もいることを知ってほしいのが一つ(笑)。でも、こうやって「男性」と「女性」という枠にカテゴライズさせて、問題解決を図ろうとする手法っていうのは、非常にコミュニタリズム的ですよね。それと、直接的には関係ないのかもしれませんが、映画の「毎週水曜日は女性だけ割引料金」というのも嫌ですね。ただ、世の中、男女差別がいろんなところではびこっているので、そういう「罪滅ぼし」なのかということで、自分を納得させてますけど。とりわけ日本の社会は「男女差別」というより、「男尊女卑」が徹底しているんですよね。女性という存在に対するリスペクトの念がない男はダメですよ。男女間に体力差は一般に存在しますけど、能力に関しては基本的に「格差」はない、という立場です。ただ、ジャーナリズムなんかは、3Kなんていう生易しいものではなくて、どぶ板というのか、現実という汚濁の中に入って、ネタを取ってくるのが仕事なので、一方でそういうハードなことを女性にさせてしまうというのは、いかがなものか、という思いはありますけどね。例えば、後輩の記者を鍛えるのに、男性だったらいくらでもシゴいたところで、「アホ、お前なんか辞めてしまえ」でいいですけど(笑)、なかなか女性にそういうふうには言い辛いですよね。やはり、「女の涙」には弱いですから。

58hiromin:2006/05/19(金) 00:00:28
女性専用車両
突然失礼いたします。
私も通勤のとき、時々女性専用車両を利用します。混んだ時間帯は女性専用の方が空いているんです。
なので私の場合は痴漢対策ではありません。何度も痴漢にあってしまう友人もいますが、私はこれまでに一度だけ痴漢にあいました。
竹下さんのお話「日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか」を読んでそのときのことを思い出しました。
もう何年も前の朝の通勤電車の中でお尻を触られました。で、私は黙っているタチではないので「ちょっとアンタ何してんの?」と言い、一緒に乗っていた友人(女性)が「どないしたん?触ってんのか?」と言い、私は「次の駅で降りてもらうで」とにらみました。
それはものすごく気の弱そうな若い男で半分泣きそうになってたのですが、それを見た友人の闘志に火がついてしまい友人はその男をさらに責めました。そしたら周りの空気が若い男に同情的になったんです。もうびっくりです。だって私が被害者なのに。
(まあ確かに私をターゲットにしたその男はある意味で不運だったといえるかもしれませんが。結局次の駅でダッシュで逃げられてしまいました。)周りはほとんどが中高年のおじさんたちでした。なんか、こういう時誰も助けてくれないんだーと思うとちょっとショックでした。まあ我々のことを助ける必要はなかったんですが。。。
なんかこういうのって、今の日本の傾向を表してる、といえなくもない気がします。攻めやすいところを攻めるというか。
あまりいい例をいま思いつきませんが。

59古川利明:2006/05/19(金) 21:02:24
自己防衛の重要性
 確かに竹下さんの書き込みで思ったんですが、パリのメトロに乗っていても(別にメトロだけに限らないですが)、若い女性は服装がおしなべて質素というか、カジュアルですよね。だいたいジーンズで、そんなケバい化粧もしていないし、日本みたいにブランド物をチャラチャラさせてはいませんよね。少し話は逸れますけど、パリジェンヌ(&マダム) はやっぱキレイですよ。前、一度、ロンドンから入って、ドーバーを渡って、パリに着いたとき、ほんとに女性がキレイだと思いました(ただ、こういうことを書くとフェミニスト系のオバサンに猛抗議を受けそうですが)。フランスの女優はハリウッドのそれとは、全然、違いますもの。フランスの女性は30、40になってから美しいですね。その意味でいうと、セゴレーヌなんかよりも、ジョスパン内閣時代の司法大臣をやっていたギグー女史の方が私は好みです(笑)。で、話を戻しますと、痴漢だけでなくて、所詮、アカの他人なんて、「自分」を助けてなんてくれませんよ。見て見ぬフリ。とりわけ日本ではそうだと思います。ただ、私自身は、世の中、そんなもんだと思っているので、「私」(=古川)に関してはそれでいいと思っています。でも、自分から異議申し立ての声を上げないことには、なかなか周りの人もそれを支持してくれるふうには動いてくれなんじゃないか、と思うんですけど。

60Sekko:2006/05/20(土) 02:39:54
他人を助ける
フランスでは、「危険な目にあっている人を助けない」のは刑法上のDelitです。Crimeじゃないですけど。だから、助けて、と言いさえすれば、助けることが可能なのに助けない周りの人は互いにまずい立場になります。それで、助けようとしたけれど失敗しても、それはもちろん罪じゃありません。これにひきかえ、アメリカでは、たとえば急病の人をそばにいた医者が手当てして治らなくても後で、その介入がもっと悪くしたとか言われて訴訟を起こされることが多すぎて、一時期もう誰も他人を触らなくなりました。何もしなければリスクをかかえないということで。
 それで、確か聖書のエピソードから名をとった(今ど忘れしました。どなたか教えて下さい)法律ができて、緊急の場合に援助した行為の結果による法的責任は問われないことになったはずです。ちょうど、フランスのNon-assistance
罪と同じ頃の話だったので、あまりの差に驚いたことがあります。助けないと罪になる国と、助けた方が結果責任をびくびくしないように法律でフォローしないとだめな国があるんだと・・・
 ええと、エリザベット・ギグーは私も好き。好みが似てますね。セゴレーヌのことを友人(60代フランス人)が、「小学校の女の先生みたいだ」といってたので笑えました。もちろん小学校が悪いとか女の先生を軽く見てるんじゃないんですが、あまりにもぴったりだったので。ギグーは会ったこともありますが美人でシックで知性的でカリスマありました。
 ギグーなんかは別としても確かにフランスの女性は何か一生現役やっててそれはそれで気の毒に思えるとこもあります。「女性」としてはコミュニティ的にくくられますが独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜では分けられないですね。個人として評価される率大きいです。女性誌なら多少はターゲットが分かれますが、日本のように細かくないです。
 後、年配の女性ではバダンテールも好き。彼女もエリザベトです。

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61Fusako:2006/05/20(土) 08:37:37
法律
GOOD SAMARITAN ACTでは?

62Sekko:2006/05/20(土) 21:28:02
法律
そうかもしれません。でもそれって、イギリス? 政教分離してない国っぽいネーミングですね。私が前に聞いたのはアメリカの話でちょっと違う名のような気がするのですが、手元に当時のやり取りが残ってないので・・・また分かったら書きます。

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63Fusako:2006/05/22(月) 09:23:04
フランスの女性
前にもちょっと書きましたが、「独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜」で分けずに、フランスでは大人の女性を「マダム」と言う、「おばさん」という言葉で大人の女性をくくる日本と、雰囲気が違う、と書いた本を読んだことがあります。この表現そのものにあらわれているのではないかと思うのですが、かわいい子どもであるよりも、成熟した大人であることを重視する文化、ってこれは別の欄にも書きましたが、がフランス?
「おばさん」がもっと年取ると「おばあさん」で、「かわいいおばあさんになりたい」と言う人は多いですね。何だそれ、青二才から「かわいい」なんざ言われたかぁねえ、がわたしの見解ですが。「おばさん」「おばあさん」、いずれにしても、呼びかけのことばとしては良くないですね。大人に対する敬意、のようなニュアンスがなくて。少し古い日本語には、「おかみ」「ねえさん」「刀自」等と、「マダム」にじゅうぶん比肩できる言葉があり、また、そういう方たちもいた、と思うのですが。

64Sekko:2006/05/22(月) 17:09:01
女性の呼称
 うーん、フランスは大人の女が尊敬されていて・・と書きたいところですが、呼称については問題ありだと思います。マダムとかの語源や使われ方の変遷はここで触れませんが要するに、どの男の持ち物であるかという基準ですね。公式文書では、A嬢がB氏と結婚したら、「B夫人A」となります。そして、B氏が死んだら、「B未亡人A」と書かれます。世間的にはマダムBのままですが。
 通称はマダムAでもマダムBでもOKですが、Bだけ書いていたら必ず「旧姓」を書き込まされ、それは 「Nom de jeune fille」というんです。父の名と言われることもあります。つまりマドモワゼルは何歳でも、どの男の娘であったかを名乗り、マダムはどの男の娘からどの夫の妻になったのかをあらわしているわけです。アメリカ人から古いヨーロッパの封建制だと攻撃されそうな呼称です。でも、フランス人はあまり目くじら立てず、いろいろ改正の動きはあるものの、呼称は文化だからと割り切って、実質を取るという感じかなあ。実態がよくなればいいと言うのでしょうか(B夫人といってもB氏は夫人の所有物という人もいますから)。アメリカとは逆の方向でプラグマティックだったりします。
 それに比べて、日本の呼称は、よく言われることですが、一番末の子供の視点から見た関係ですよね。家族での呼称がおばあちゃん、お母さん、お兄ちゃんetc・・夫婦も母さん父さんと呼び合うような。そしてこれは年齢と大体連動してますよね。子供から見て両親と同年輩のが「おじさん、おばさん」です。日本の子供が、友達のお母さんをシステマティックに「何とか君のおばちゃん」というのもこのせいですね。つまりフランスの女性の呼称はどの男の所有物かを基準、日本の呼称は年齢を「子供の視点」から見た疑似家族における位置基準。で、孫からおばあちゃんと言われるのはいいけれど、知らない人や、看護師やヘルパーから、おばあちゃんと言われたくない、という人は多いわけです。地域共同体が家族みたいになってた頃は受け入れたんでしょうが。それで、おばさんと言うのも、親と同年輩、から、おばあさん予備軍になり、どちらにしても、もともと「女性」と言うメタカテゴリーとは別の無性的家族カテゴリーです。そして全ての呼称は敬意を失ってレべルダウンします。(「お前」とか「貴様」から「Monsieur」「Madame」まで世界共通)
 とにかく「呼ぶ」と言うことにすでに神聖の侵しが内包されているのですよね。だから、王とか「偉い人」は2人称を避けて3人称で呼ばれます。日本語などは王でなくとも、目上の人は2人称で呼べない、それで、子供という最も「目下」から見た3人称を使い、それが、しかし、どんどん敬意を剥ぎ取られていくわけです。
 それにくらべると、なんと呼んでもイントネーションだけで反応してくれる猫たちは、神聖不可侵かなあ。

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65古川利明:2006/05/22(月) 21:05:56
女性の呼称
 えっ、竹下さん、ギグー女史と知り合いなんですか?(驚)彼女はジョスパン内閣の司法大臣として、セクト対策にも力を入れていましたよね。何か、例えば、共謀罪法案審議でも、死刑執行なんかでも、法務官僚の言う通り以上の動きができない(つまり、官僚のロボット)日本の法務大臣とは大違いですよね.かつて、日本の自民党の法務大臣でも「私の信念として、大臣在任中は死刑執行のサインはしない」と拒否した人はいたんですけどね。民意に従って官僚をコントロールするのが大臣の仕事でしょう。そういう発想が皆無なんですよ。まあ、これは「男女の差」というよりも、「政治家としての資質の差」でしょうけど。で、ギグー女史については、私がパリに行った際には、ぜひ、紹介して下さい(笑)。ド・マゴーあたりでぜひ、お茶をしたいです。フランス語の女性の呼称でいうと、一般には「マダム」は既婚者、「マドマゼル」は未婚者ということですけど、ある一定年齢以上(30歳くらいより上?)になると、独身でも「マダム」を使いませんか。少なくとも、「マドマゼル」は失礼という感覚がありますよね。それと似た使い分けに「ムッシウー」と「ギャルソン」にもありますよね(例えば、カフェのボーイには「ムッシウー」を使うべきで、「ギャルソン」は失礼にあたるとか)。私は結構、「おねえちゃん」という呼称が好きですが、どうも、竹下さん掲示板だと「市民権」が得られていないので、使わないようにしてますが。でも、日本では、かなり年齢のいった女性に対しても、親しみを込めて、「お嬢さん」って言いますね(特に、おもいっきりテレビのみのもんた)。でも、そういう感覚で、ギグー女史に「マドマゼル」と呼びかけるのは、「C’est tres mal」なんでしょうね。

66Sekko:2006/05/22(月) 21:58:18
ギグー女史
 そうか、ギグーさんと政治的な話をするということはなぜか考えつきませんでした。彼女が私を覚えているかどうか知りませんが、彼女のENAの同級生が私の町に住んでいて、バロック音楽好きなので、私たちのコンサートにも来たのです。で、その人の奥さんがガボン出身のジャーナリストで、前のだんなさんがガボンで殺されたとか、その子供がうちの向かいの小学校に通ってて、そのガボンのジャーナリストが旦那の同窓生であるギグーを看板にして、アフリカの女性の会みたいなのをやってて、そこのテーマソングみたいなのを私のトリオの友人が作曲して、私の別の友人(いっっしょに踊ったことがある)に歌わせて、それにみんな当然ながら社会党が関わっていて、でもうちの町はUDF之市長で。ギグーは隣町から国会議員の選挙に出てて。しかし途中で私のダンスの友人である歌手とガボンが喧嘩して、そのうち作曲者である私の親友のゲイと歌手も冷たい関係になり、間に入った私もあわててと、なかなか複雑な関係になってまして・・ギグーみたいなビッグネームをつれて歩いてるとみんな権力とか利権に迷うようだし、特にガボンのジャーナリストはほとんど虚言癖だったんですよ。目いっぱいギグーを利用して。私の周りにはmilitants socialistes が多いのですが、EXPOをしてもコンサートをしてもギグーとか来ると即政治色ができて、私は敬遠しています。
 ギャルソンは黒人の奴隷や召使を何歳でもボーイとかガールとか呼ぶのと同じですね。アフリカのフランス人宅では今でも黒人をボーイとか平気で呼んでます。アメリカの初期、南部では、黒人の人口の五分の三が統計に入れられました。黒人男一人につき五分の三人前だったわけです。
 マドモワゼルだとはっきり分かってる知り合いにだったら、マダムと言って訂正されることもありますね。まあ普通はマダムですね。娘とお店に入って「ボンジュール、メドモワゼル」とか言われたら、うれしいというより不愉快です。財布を持っているほうを尊重しろ、と言いたくなります。朝市などに行ったら、誰にでも「マ・プチット・ココット」とか声をかけてますね。

67古川利明:2006/05/23(火) 20:37:40
ギグー女史
 そうですか、フランスも結構、狭いですね<特にENA人脈。ギグー女史は本来は何をやってる人なんですか?(弁護士とか、下院議員とか)。セゴレーヌの方はなぜか、脚光を浴びていますけど、ギグー女史に関してはその後、あんまりマスコミで取り上げられることもないですよね。ジョスパン内閣の閣僚になるくらいですから、社会党員なんでしょうけど、たぶん、セゴレーヌみたいな上昇志向はない人なんでしょうね。で、フランスの女性なんで、子供の4、5人くらいはいそうな気がしますが。しかし、そのガボン出身の「自称・ジャーナリスト」というのも、相当、胡散臭いですね。まあ、左派で票が割れてもしょうがないですけど、彼女あたりは大統領選への「色気」はないんですかね。セゴレーヌよりはいいんじゃないかと思うんですが。

68Fusako:2006/05/23(火) 22:11:29
女性専用車両
わたしは、「チカンがこわくて通勤電車に乗れるか、ってんだ」という見解ですので、女性専用車両は使いません。
で、今回、女性専用車両導入に際しての各社のお知らせをちょっと見てみましたが、「安心してご利用いただくために」というのが説明でしたかね。「痴漢」という言葉はなくて、明示的な説明はないままに日本人は全員でなんだか納得している(外国の方にはどう説明するのでしょうね。アラブとは全然違いますでしょ。)、というのが、「日本的」なのではないかと思った次第です。

69Sekko:2006/05/24(水) 16:07:36
なぜヴァティカンが?
どうもこのコーナーが宗教・哲学と関係なくなってきたんで、ちょいと戻して。
来週発売の読売系週刊誌からダ・ヴィンチ・コードについてのコメントを求められ短ですが、どの程度載せてもらえるか分かんないので、ここで宗教についての部分を敷衍しときます。
 『> ▽イエスとマグダラのマリアの関係にスポットをあてて、
> 物議を醸した映画は過去にもあったと思うのですが、
> 欧米ではどうして、こういう“異端”が受けるのでしょうか。

 キリスト教が欧米の成り立ちの根幹にあって、キリスト教権威との桎梏の中で「近代」を築いてきたという歴史があるので、基本教義について共通の了解があるからこそ、異説が意味を持つのでしょう。しかし、実際は、紀元4世紀頃までのキリスト教世界は、教義についてもいろいろな説を持ついろいろなグループがある多様なものだったのです。さまざまな「発掘」文書はそれを示しているに過ぎません。
 その中で、一定の聖典を採用したローマ・カトリックという宗派がたまたまヨーロッパの母胎になり、そこから派生した欧米文化が近代世界のスタンダードになった形です。でも別に「欧米キリスト教」以外のグループが無理に闇に葬られ「秘密」となったわけでなく、イスラムの勃興などによって自然淘汰されただけでしょう。そういう異説の文書が中近東で発掘される度に、やれ秘密だとかタブーだとか騒ぐのは、「欧米のキリスト教のみが正当な(正統の誤変換ではありません)キリスト教」という欧米中心史観が揺らぐからかもしれません。
 もう一つは、先のムハンマドのカリカチュア騒ぎのように、今の欧米には、うっかりフィクションにもできない本物のタブーのテーマがあります。イスラム教についてや、ユダヤのホロコーストについてです。これらについてはいくらフィクションだと言っても、威圧的なロビーはいるし、原理主義者テロリストはいるし、否定的なことは書けないのが現実です。
 これに対して、カトリックの教皇などは自由にカリカチュアにされています。いくらスキャンダルになったといっても、同じキリスト教文化圏の表現の自由ということで、宗教側の成熟や余裕が感じられます。
 もちろんキリスト教原理主義者もいるにはいますが、ダ・ヴィンチ・コードのスキャンダル程度では、所詮内輪ネタではないでしょうか。
 日本でも、過去に雑誌がホロコーストはなかった式のタブーを犯してユダヤロビーから叩かれたり、悪魔の詩の翻訳者が殺されたり、危機管理が出来ていないのを露呈してきました。でも、どうやらキリストネタやヴァチカンネタはお目こぼしの書き放題だと気付いて、ダ・ヴィンチ・コードに関するキリスト教側の反応をおもしろおかしく記事にしてるようですが、見苦しいです。日本のメディアにも皇室ネタをはじめとして厳然たるタブーがあると思いますが、多文化の内輪もめネタを垂れ流していると、タブーとそれをめぐる地政学からますます目をそらすことになるのではないでしょうか。
 キリスト教についてフィクションの中にある間違いや曲解について、それがある程度の影響力を超えたら、教会側が態度を表明するのは当然だと思います。権威とはそのためにあるのですから。それが結果的に本や映画の宣伝になったとしても、それをきっかけに、キリスト教の歴史などを知ってもらいたいというキリスト教メディアも少なくないようです。伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

70あんとに庵:2006/05/25(木) 04:00:49
なんと
>伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

そのアンケートの数字は頭が痛いですね。しかしフランスもキリスト教に関して無知な人が増えてきたということなのでしょうか?それとももともと潜在的にそういうのを信じやすい人がいるということなのでしょうか?
しかし、キリスト教の伝統のある、ある程度は教育が行き届いた国ですらそうなわけですから、アジアなどで教会が困って反ダ・ヴィンチ・コードを表明したのは無理もないかもしれません。ヴァチカンが重い腰を挙げた事情も分ります。
もっともお祭り好きのイタリア人はバチカンの反応で却って見に行く人が増えちゃったようです。それでもおっしゃる通り、これを機会に歴史を勉強するのも転んでもタダでは起きない的でよいかも。

71Fusako:2006/08/11(金) 09:13:39
東京新聞
本日の東京新聞朝刊25面にカルトに関連して竹下さんのコメントが載っていましたね。
東京新聞を手近で調達できない方は、Googleのニュース検索で、「カルト」で、今なら簡単に読めます。

72Fusako:2006/08/11(金) 09:14:43
追伸
「カルト」で、というのは、このタームで検索して、という意味です。言葉不足でしたので。

73Sekko:2006/08/15(火) 16:13:16
カルトのこと
 この東京新聞の取材は旅先に追いかけられてきたんですが、なかなか言い尽くせなくてあせりました。このことでラジオのインタビューも最近受けました。私の『カルトか宗教か』の本は、もちろんオウム事件を念頭において書いたのですが、それにしても、あの事件の後、日本人は全然学習してなさすぎ。ある人に、『あの事件で日本人が学んだのは[オウムは悪い宗教、だからオウムやその流れの宗教には入っちゃいけないし、その出身者やそこにいる人を排斥しよう]ということに過ぎない。別のカルトが別の教義でやってきたら免疫がないのだ』と言われました。ピンポイント学習で応用力はゼロ。ショックです。
 社会における宗教は何らかの意味で、共同体の人間にとっての「超越」(人はどこから来てどこへ行くのかなどの問題)のモデルを提供しオーガナイズする社会的サービス機関であり、宗教の仮面をつけたカルトは、その中の特定の人間やグループの利益を図る営利グループです。そもそも「人はどこから来てどこへ行くのか」などの問題は、思春期にすでに発見する問いであるはず。そんな頃に受験のスキルばかり教えないで、問いの立て方や、伝統宗教における答えのモデルを教えておくことで、青年期にそれに反発したり問い続けたりできるわけです。試験の設問の答え方だけ習った優等生が「いい大学」に入って、実存的な問いをよそおったカルトにやすやすと取り込まれるのを見るとがっかりです。でも、いい大人だって、こうやって脳を鍛えろとか、こうすれば人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るとか、(実はその裏に、そうしないとボケるとか、嫌われるとか、下流になるとか、老けるぞとかいう脅迫的言辞が張り付いてるんですが)ハウツーものや奇跡のメソードやお得な製品に心を惹かれ、「だめもと」で信じている人が多いんですから、若者を愚かだと笑う気もしません。マインドビジネスはビジネスのとこに本質があるんですから。変なカルトの原動力になるのは大抵金か性欲か権力欲のどれか又は複合で、ある意味単純なのですから、みなさん、バランス感覚を養い合いましょう。ダヴィンチコードでキリスト教に関心を持つようになった若者をキリスト教系カルトが狙うというのも情けないことです。まずまともそうな本を読み、話を聞きたくなったら、日本基督教団かなんかのお墨付きの老舗の教会などに行って気軽に質問してみましょう。日本のキリスト教業界の方、すでにいる信者の世話ばかりではなく、人生における問いの立て方と答え方のモデルを広く啓蒙してください。そう、正しい問いの立て方は、「どうやったら脳を鍛えられるとか、人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るのか」とかいうのではなく、どうやったら他者の役に立てるのか、自分より弱い人の力になれるのかということなんです。ちゃんとした宗教はみんな究極には「利他」を説いてますよ。自分の問題は自分のできる範囲でできるだけ他者を悲しませないようにクリアして、後は、自分より喉の渇きを訴えている人をみつけて水を分けましょう!

74Fusako:2006/08/17(木) 22:34:59
日本の宗教
日本は緩やかな多神教の国、と思っているのですが、緩やかな=強制の少ない、多神教の=多元的な価値が共存する、だったら、それはけっこう素晴らしい状態でしょうに、なぜかそういう社会でもないような感じがします。一見強制ではないけれど同調への圧力が極めて強くて個人を個人として活かさない、とか、多元的な議論が成り立ちにくく、「和」が良しとされる、とか。
そういう同調の「和」の仲間内的組織からはじき出される、あるいは、そういうものを求める心性に、「マインドビジネス」がつけこむように思います。
わたしは特定の宗教は信じていないのですが、個人を超えたものがあるという感覚を持つ、という意味での宗教心はとても大切だと思っています。そういうのは、教育の中の宗教教育で教えられるものなんでしょうか。
日本で、「ご先祖さま」とか「お天道様」「世間」といった言葉で表現してきた「個人を超えるもの」に対して敬虔である心、これが本来の宗教心に近いような気がしますが。

75Sekko:2006/08/20(日) 15:36:12
日本の多神教
 新陳代謝=外部とのエネルギー交換のない「仲間内組織」はそうしても全体主義に傾斜しますよね。日本の多神教とは、単に神が多数あるというのではなく、複数の神を信仰してもOKというので、先祖神、氏神、自然神、竈神、道祖神、その他、何とかに効く神、と多様性を認めることで、一神教とは、「他の神を拝むな」という排他性に本来の特徴があります。だからこそ、巧く機能すれば「神の前の平等」のような人工的な一種、逆説的「非宗教」空間ができるんで、キリスト教もローマ帝国内では「無神論」だと非難されていたんですね。
 なんにしても、生きた人間の欲望が作る恣意的な規範でなく、個人を超えたシンボリックな規範を提示して、それに敬虔な気持ちを抱かせるようにするという工夫や演出の積み重ねが人間の知恵であり続けたのでしょう。その意味では、集合的「ご先祖様」や「お天道様」はいいとして、「世間」の規範は、あまりにも人間的すぎて、ちょっと、と思います。人は世に連れ世は人に連れ、というんで、時代や所や力関係によって変わりながら抑圧的に働くことの多い「世間」は、一番厄介かもしれません。
 また、宗教心とか霊性というのは、多くの人間が二律背反的に意識してしまう「心と体」や「生と死」を統合するものとしての「超越」をさすのでしょう。そんな「統合のモデル+規範+期待の空間」が宗教の基本なのかも。

76Sekko:2006/08/29(火) 18:27:03
一元論と仔猫殺し
 個人のメールの方に、近頃ネットを騒がせている(?)女流作家の猫殺しについての意見を求める質問が来ました。猫を避妊手術する代わりに自然な出産をさせて、生れた仔はがけから落として殺すと言う話だそうです。
もうひとつおしゃべりルームに『バカの壁』を読んだ方からこんなコメントが。

{「一元論を超えて」ですが、ここでの「一元論」は竹下先生の論考の「善悪二元論」に相当します(と思います)。
「一元論」(竹下先生の論考の「善悪二元論」)を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなければならない(p,201)、という「常識」重視の立場、論考から結論を得てられます。}

それを受けて
{「一元論」「ニ元論」「それを超える論」について、竹下先生に整理していただき、解説していただきたいものです。}
というコメントも。

それで、まとめてここに日頃の考えを書きます。

 まず私は真実はひとつでないとか、全ては相対的であるというポストモダン的言説に組しません。
 もちろん真実は皿の上に盛られて出されてくるようなものではなく、我々と対象の係わり合いの中に生れ、ものさしともなり、それを導いてくれるもの、のような感じです。養老さんの話で「一元論」というのは、「許容できる真実はひとつしかなく、よってそれに反するものは全て偽である」という意味で、つまり一元的価値によって「裁く」という善悪二元論につながるということなのでしょう。一元論とは全体主義的ともいえます。一神教が善悪二元論に傾きやすい傾向を持つことは『アメリカに・・・』の本にも書きましたが、この二つは必ずしも一致しないので、気をつけてください。善悪二元論は権力保持者が一般に陥りやすい傾向です。
 そして一元が悪いから多元がいいという話も要注意です。多元による分割はコミュノタリスムの罠に陥りやすく、多元間の対立や競争を招くからです。
 それで、どうしたらいいかというと、類として(つまり生物学的な条件を共有する人類として一元的で普遍的な価値観を中心に共有して、その周辺部は個人レベルまで徹底的な「多様」を許容し、保護し、残すという立場に私は賛成しています。共有すべき価値観というのは、国際倫理規定にある『全てのヒトの誕生と死を含めた生命のサイクルを安全に全うさせることが善で、それを阻むものが悪』というやつです。
 その際、ヒト以外のものの生死や、あるいはヒトの誕生する前や、前世や、死んだ後のことは、それぞれの文化や文明や伝統や革新や流行や趣味の多様性に任せる。ただ、生れて息をした瞬間から最後の息を吐く時まで、この間は、いかなる理由でも互いに傷つけあったり殺しあったりせず、できるだけ守りあい助け合って、それぞれの寿命をまっとうできるようにしようということです。
 死んだ後の審判とか生まれ変わりとか、前世が何とか、そういうのはそれぞれの文化や宗教の任せです。しかしどんな古い伝統でも、権力の都合でも、「他のヒトを生贄にする」とか「典礼として特定のヒトを傷つける」とか、「ヒトにヒトを殺させる」とかはやめていこうとするものです。
 ヒト以外の動物はというと、唯一、「ヒトから固有名詞で呼ばれている動物についてはヒトに準ずる」とありました。(逆にヒトなら名もないAさんでも権力者や家族でも軽重はつけない)
 ヒトには生れて間もない仔猫を食べる飢饉の状態もあれば文化もあるかもしれないし、犬猫を食べるとか、毛皮のために動物を殺すとか、牛は聖なるものだから食べないとか、豚は穢れてるから食べないとか、まあ、食物連鎖だけから言っても、ものすごい殺生のうちにたいていのヒトは生きているので、罪のないもの、石もてこの女を打て」じゃないですが、かなり同じ共同体に生きてるヒト(私の場合は自分の子が仔猫殺しをしたら大問題にすると思います)同士以外には批判的なことはとても言えません。
 いったん固有名詞をつけちゃったタマとかポチには責任が生じるのですが、それでも、うちの固有名詞つきの猫たちに牛だとか羊だとか豚だとかのキャットフードを与えていると、食物連鎖からいっても不自然だなあ、牛が猫に食われていいのか、などと嫌な思いをしてます。また私は蚕の幼虫系がすごく嫌いなので、タイの市場などで、それがゆでられて食用に山盛りになっていたら、吐き気です。益虫でも姿が怖いと殺虫剤です。それは個人的なので、他のヒトに不快を与えないように気をつけますが。(蚕の幼虫を食べるタイのヒトを見て叫ぶとか顔をしかめるとかしないように。)そしてうちの固有名詞猫でない猫の仔を間引く作家を批判などしません。もちろん「タマや、こっちへおいで」といいながら毒を盛るのはだめで、そういう人はヒトへのリスペクトも問題ある可能性大です。
 とにかく、「中心になるルールは守る、周辺は多様を受け入れてリスペクト」、これが大事です。簡単に聞こえますが、今も、毎日戦争やテロヤ死刑でヒトがヒトを殺したり殺せと命令したり、そうかと思うと、ちょっと他人と違うヒトや弱いヒトを差別したりいじめたり搾取したり、そういうことが茶飯事なのですから、毎日このテーマを反芻して肝に銘じていかないと、と、永遠のテーマになっています。

77:2006/09/06(水) 10:20:47
ポストモダン的言説
 養老,『バカの壁』にはポストモダン的言説が散見されます。メモには一つしか記していないのですが、   NHKのモットー「公平・客観・中立」   を俎上に上げて、NHKは神か?と論じています。公平・客観・中立などできる筈がない、という訳です。そうしたらNHKはどんな報道・言論をすれば良いのか、思考中止に追い込まれます。
 中教審の報告でも「人は平等である筈がない」という驚くべき言説がされていたと思います。人の個性を見れば、人権宣言を持ち出してきても、福沢諭吉の「人の上に人を造らず、」と言っても、二の句がつげないのですね。
 この点に関して、竹下先生から次のような敷衍する助言を貰っています(おしゃべりルーム 8/15 )。

    社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな    「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめ   くほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。

 ポストモダン的言説は「生き方を導く志向」を軽視ないし毀損する可能性もあるように思いました。

78古川利明:2006/09/19(火) 12:43:12
ローマ法王の発言
 ご無沙汰しています。例のローマ法王の「ムハンマドは邪悪」発言で、イスラム圏を中心に大騒ぎになっていますね。特にイスラム原理主義系の連中にしてみると、「待ってました! 格好の脅しのネタが入った」っていう感じで(いちおう、法王は後で謝罪したので)、そのへんのヤクザとあんまり変わらないという感じですが(笑)、しかし、法王も「軽率の謗り」は免れないでしょう。彼は何であんなに脇が甘いというか、はっきり言って、「アホ」なんですか。ヨハネ・パウロ2世だったら、「ありえなかった」んじゃないですか。で、カトリックの信者は誰もこのことを批判しようとしないのですが。別に法王は「神」ではなく、ただの「オッサン」ですよね。で、竹下さんのファンもだれ一人、これだけアクチュアルな話題にどうして質問を寄せないんですか。組織や共同体の中にいて、その組織や、さらには「己」を自己批判できてこそ、「真に自由な精神」だと私は思うのですが…。

79Sekko:2006/09/19(火) 23:47:47
やっぱこういう質問は古川さんから来るんですねえ。
 私がこの話題に飛びつかなかったのは、質問がなかったこともありますが、いくつか理由があります。
 まず、日本で、「一神教同士の喧嘩」と一部で見られるほどには、フランスでは、キリスト教徒とイスラム原理主義の温度差が大きすぎて、争いになっていないことです。伝統的なカトリック国はまた伝統的なガリア教会の国でもあって、ローマ法王の存在はあまりにも希釈されています。JP2は確かにメディアティックでしたが、涜神とか冒涜とかいうコンセプトそのものがフランスではアナクロニックになっていて、教皇という存在はJP2の頃から、辛らつなカリカチュアや悪趣味なゴシップ記事やスキャンダルにさらされるのは普通でした。
 同じことが他宗教のシンボルや教祖はもちろん、個人やセレブに向けられていたら名誉毀損で大問題になるようなものが、カトリック系では野放しで、だから逆にインパクトもなく、そこには、今のカトリックの鷹揚さと共に、長い間カトリック教会が権力を持って社会を検閲してきた歴史に対する購いみたいな暗黙の了解があるかのようです。涜神罪の復活だけは避けたいという了解でしょう。
 今回の話も、面白いギャグにこういうのがありました。誰かがジダンに、
「知ってるかい、全イタリア人が、ムスリムに非難されているB16を支援しているそうだ。」と言う。
「いったいそいつは何をしたんだい?」
「ムスリムの兄弟を侮辱したんだ」
「なに、今度は姉妹じゃなく兄弟を? 捨て置けないな、よし、そいつの
ナンバーは16だな、行って懲らしめてやる」
 という感じです。
 ギャグになることのもう一つは「教皇の無謬性」というやつで、今回の件に関して、B16は謝罪したわけではなく、遺憾の意を表明しただけですが、それを揶揄して、教皇は謝らない、なぜなら教皇は「無謬」で絶対に間違わないからだ、というので、ギニョールなどでもからかっていました。
 もちろんこれはわざとした誤解で、近代カトリック教会は教皇と公会議(司教会議)のどちらが権威があるかということでいろいろもめたのですが、一応、教皇は公会議の承認を受けなくとも新しい教義を公布できるという意味の教皇の無謬性が1870年に決まりました。でも条件はいろいろあり数回しか使われていず、聖母マリア好きのJP2が聖母がイエスを助ける救済者であるという教義を出すかと思われていたのも出さずに終わり、ましてや普通のことでは、教皇が、この前言ったことは違っていた、と誤りを認めることがあるのは当然です。
 まあ、今回のB16の発言は、歴史上の発言を引用しただけで、全体の趣旨は異宗教間の平和的な対話を望んでいることなので、「遺憾」でOKだったと私は思います。最も彼はドイツ人でホロコーストの責任問題を民族的に背負っているので、ユダヤ人とユダヤ教への配慮が繊細な分、イスラムへの脇が甘かったのかもしれません。(といっても今回のババリア訪問では当地ユダヤのラビの面会希望に対して返事しなかったそうです。中東情勢と関係があったのかは分かりません)
 しかしこの教皇は、ともかく、神の名において人の命を奪うのはいかなる文脈でも全て誤っていると明確に言っています。「冒聖」や「涜神」を理由に人を殺すのは悪だというのです。
 教皇が「遺憾」の意を示した同じ日、ソマリアの病院で、イタリア人の看護修道女が侵入したイスラム過激派に狙い撃ちで殺されました。70歳の修道女です。カトリックである以外に彼女に非のないのは明らかです。教皇の責任は、むしろこのような罪のない犠牲者を出したことでしょう
 しかし、今回のことは、単に「アホなおっさん」が「空気を読めなかった」というようなことでは決してありません。今年初めの例のデンマークのムハンマドのカリカチュア騒ぎと同じ根を持っています。デンマークのカリカチュアも、今回の教皇の発言も、普通に見たり読んだりして、どうして問題になるのか理解できないのです。
 フランスに、アラブ系のモアメド・シファウイというジャーナリストがいて、イスラム原理主義のプロパガンダに対する西欧諸国の政治家の温い態度を批判する著作をすでにいくつか出しているのですが、カリカチュア事件の真相を暴いた本を最近出しました。ようやく冒神罪のコンセプトを捨てた西洋に、イスラムがらみでまたその基準を蘇らせようとする政治家は、近代が獲得した精神と表現の自由に反するものだという動機ですが、彼の取材の結果は驚くべきものです。要約するとこうです。
 デンマークの事件では、新聞デンマーク一の部数を持つ日刊紙が、まるでゴシップ誌のようにムハンマドを揶揄して、良心的なムスリムがそれに傷つき怒り、西洋の他の国が軒並みそれにあわてて襟を正したという風に見えました。
実は、この新聞Jyllands-Postenは、コペンハーゲンのイスラミストのモスクでの説教を継続して録音し、翻訳して、掲載することで、すでにイスラミストから嫌悪されていたというのです。フランスでも、過去に、モスクでの説教を公開してムスリムのヒステリーを引き起こして中止されたことがあったそうです。金曜日のモスクでのアラビア語の説教はそれほど過激だそうです。
 そして、コペンハーゲンのイスラム過激派のトップは、アフメド・アブー・ラバンというエジプトのイスラム兄弟団の人で、エジプトから追われた後、ナイジェリアとアラブ首長国で働き、その後デンマークに政治亡命を認められた人物です。モアメド・シファウイは、シンパを装ってこの人物に取材して、ことの真相を知りました。アブー・ラバンは、オランダの映画監督テオ・ヴァン・ゴーグが2004年に惨殺されたことに共感していて、1993年のワールド・トレード・センターのテロの指導者でアメリカに投獄されているオマール・アブデルラーマンら、過激派のイマムたちとも関係があり、デンマークのムスリムのメディア代表の地位にあります。
 それで、カリカチュアが載った時、デンマークのムスリムを扇動しましたが、あまりにも大したことがなかったせいか、3パーセントしか動員できませんでした。フランスのムスリムもそうですが、ほとんどは、モアメド・シファウイと同じ穏健派で、一部過激派に批判的だからです。
 そこで、ことを国際的に広げようとしたアブー・ラバンは、実際のカリカチュアに、もっと猥雑で汚らしい偽物を付け加えて、関係者に送り、その偽物がアラブ世界の公式リアクションを誘発したというのです。その最初はエジプトでした。デンマークのエジプト大使がプロパガンダをアラブ連盟の書記長でもと外務大臣のアムル・ムッサに送り、それが2005年の10月から2006年2月までダマスからジャカルタに至る、大使館放火やテロや過激抗議につながったのです。皮肉なことに過去にアブー・ラバンを追放したエジプト政府はこのプロパガンダを規制したそうです。この事件の最中に元のカリカチュアを掲載した勇気あるジャーナリストもヨルダンやエジプトにいましたが、投獄された人もいるそうです。
 フランスで掲載した風刺週刊誌(そのおかげで私も目にすることができた)に対する訴訟はこの秋再開されます。
 ちなみに、このモアメド・シファウイの本のカヴァーにはアルジェリア系のイラストレーターのラモが、カリカチュアを描いています。彼らの身辺が心配ですが、「共和国の自由」のためにフランスのムスリムががんばってくれるのは楽しみです。

 この本の表紙はここで少し見れます。
http://www.amazon.fr/L-Affaire-caricatures-Dessins-Manipulations/dp/2350760316/ref=sr_11_1/171-2743065-3291405?ie=UTF8

長くなったので、一応これで。

80Sekko:2006/09/20(水) 00:05:24
あんとに庵さんち
 今、あんとに庵さんのブログを見たら、今回の教皇発言について他の方のブログも借りて分かりやすく解説してありました。私はこういうことを書くのは面倒だったんで、よかったらそちらをお読みください。9月19日のとこです。http://d.hatena.ne.jp/antonian/
 とにかく、この国にいたら、原理主義の足音があらゆるところから響いてくるんで、ほんと怖いです。今回モロッコに行って、相対化できてよかった。レポートをまた書きます。

81あんとに庵:2006/09/20(水) 22:06:54
ベネディクト16世問題
sekko様>いつもお世話になっております。
ご紹介戴き恐縮です。

信者からすると、「あの強面な学者教皇がなんとも脇の甘いアホかましたな。意外に抜けてるのな。」以上の感想しかないんですが。部外者である世の人のほうが教皇の無謬を信じているかのような反応にこれまた鼻白むことしきり。

古川さんだけでなく、ヨハネ・パウロ2世と比較する人も多いようですが、時代が違いますがな。笑)それくらい今難しい時代になっている。政治の現場ですら複雑化し、20世紀の指導者のようなカリスマが出にくい状況になっています。

ヨハネ・パウロ2世のカリスマ性を重視するのは危険です。そういう構造は実はカルト化しやすい。劇場型政治がどれくらい危険かはわが国の例を見てもわかるとおりです。その点脇が甘く、なおかつハンス・キュングという教皇と真っ向から対立する神学者を友人に持っているベネディクト16世の方がいいかもしれません。我々はその意見の対立の中でどのようにあるべきか思考することが可能になります。

まぁ閉じた場である神学校の講義があたかも公的に発せられたもののごとき扱いこそおかしいなとは思いますが、それでも教皇職というのはもう一学者ではいられないということを、今度こそラッツィンガーは自覚したでしょうね。

もとよりイスラム教が暴力を内在する宗教などとは思ってませんね。普通信者はみなそう思ってるでしょう。だから余計に反応が冷ややかではあるかもしれません。信者や司祭からは「教皇はポカやらかしたな」という感想しか聞きませんです。一部の第二バチカン公会議前の宣教師ぐらいか「教皇のいう通りや」などという了見の狭い反応していたのは。

82古川利明:2006/09/24(日) 17:20:27
場の空気
 竹下さんの書き込みを読みながら、ふと、思ったんですが、「9・11」以降、例の「文明の衝突」というロジックで、アメリカが旗振り役となって、イスラム原理主義を中心に、イスラム社会を必要以上なまでに叩いて、虐めている状況があるじゃないですか。確かに、法王の発言問題は、その説教の一部を引っ張り出し、過剰に反応しているという側面はあると思いますが、今、イスラム教徒がキリスト教文化圏(特に米英)で、どういう状況に置かれているか、「場の空気」が読めなかったのかなあ、と思います。都合が悪くなると、素人にはなかなか入っていけない「神学論争」で逃げるのはナンセンスだと思います。本来のアカデミズムも、明晰に、かつ、平易に語りうるものだと、私は思うのですが。

83古川利明:2006/09/26(火) 21:44:11
一過性の問題でしょうか
 それと、たまたま、昨日の毎日新聞の朝刊(25日付け)で、国際面の「東論・西談」という記事で、ローマ支局の海保真人記者が書いています。彼は私が毎日の大阪社会部にいたときの同じ持ち場のキャップだった人で、いちおう、それなりの取材力とニュースセンスを持っているとは思います。私自身は今のバチカンについて、細かいことはよく知らないのですが、ただ、記事では、一つに前法王との比較で、「ヨハネ・パウロ2世は、イスラム原理主義に潜む暴力的脅威を察知していたゆえ、世界のイスラム指導者と接し、共に祈り、平和を唱えた。結果、イスラム社会から尊敬され、『西側の敵』とみなされることはなかった」とあります。そして、その後段で、「西欧主義的かつ保守的な法王の今回の発言は一過性の問題ともいえない」とも。竹下さん、そのへんのあたりは、どういうふうに捉えておられますか?

84あんとに庵:2006/09/27(水) 23:11:12
神学の講義を「神学に逃げる」とはこれいかに?
神学論争に逃げるもナニも、それが為されたのはカトリックの神学校という閉じた場であり、原文読めば神学の話でしかない。つまりイスラム批判などではなく、あくまでも「主意主義」批判の話です。イスラム云々はタマタマ彼が最近読んだ本にあった記述で、そこに見出される事例から読み取れる神観はフランシスコ学派の「主意主義」にあるものでもあり、それがやがて宗教改革のちの神学世界、或いは西洋思想の世界に通じるという話であり、主知主義の再発見を促しているものです。つまり彼の主題は西洋に蔓延するニヒリズム的な思想や、或いは自由主義神学への批判でしょう。寧ろリベラルなプロテスタント神学、或いはリベラルなカトリック神学批判です。あと「信仰と理性」を強調している背景には、カトリック世界が今、このリベラル(理論が先に立つ)と保守(信仰がどっぷり系)が二分しているような傾向もありますから、後者をも批判しているのでしょうね。
この彼の神学論が果たして妥当か?否か?についてはわたしは沈黙する神の時代にどうなのか?と懐疑的ではありますし。教会至上主義な教皇の思考の一端を見たという感じで微妙に批判的になりますが、とにかくカトリックギョーカイ内の神学のミニマムな話であることに変わりはありません。

その「神学論争の場における神学の話」を、政治的な場に持ち込む発想そのものがいかにも宗教を政治的なものとしか捉えられない「ナンセンスな」発想でしかない。そういう場の言葉を一部切り取り取り上げ、政治利用し大げさに騒ぎ立てるマスコミの二分化した発想こそ、先ずアカデミズムへの侮蔑と聖域(神学世界)に生きているものの価値をまったく評価しない、ある種、原理的な視点を感じざるを得ませんね。

85Sekko:2006/09/28(木) 10:19:32
B16発言再び
 以下は『カトリック・ウォッチング』のコーナーにアップするつもりで書いたものです。でもこのコーナーでも引き続きコメントがあるので、長いですが、まずここに入れておきます。

B16の問題発言騒動について(2006・9・22)

 宗教哲学質問箱(2006・9・19)に、9月12日のB16がドイツで神学について講演した内容についてのイスラム世界の抗議行動への感想を書きました。B16の発言内容そのものについてはあえて触れなかったので、やや沈静化した今、内容についてコメントします。これについて、いろいろなフランス人のコメントを読みましたが、リベラルなキリスト教の立場からのものと、無神論哲学者の立場のものが同じことを別の角度と照明で観ているのが興味深いでした。
 B16の講演内容は、難しいと思われるかもしれませんが、今、西洋無神論の系譜についての本を準備している私には、とてもよく整理された分かりやすい内容だと思えて、参考になりました。同時に、それに対する無神論者の反応が、私のテーマの内容を検証するようなものであり、ますます自分的にはタイムリーなものでありました。全貌は私の「無神論の系譜」が仕上がってから読んでいただくとして、この欄でB16を擁護してきた私として、今回の話をこれまでの彼についてのこの欄とどう関係付けるかをコメントしたいと思います。
 まずフランスのリベラルキリスト教者の見方に沿ってみましょう。
 B16の講演の論点は、三つあります。
 a)キリスト教はユダヤ教の子供であると同じくらいギリシャ思想の子供でもある。つまり「信仰」と「理性」のバランスの上に立つ。
 b)次に、すべての宗教は暴力を排除して精神の自由を尊重しなくてはならない。
 c)最後に、行き過ぎた合理主義と共に、非合理的な狂熱に陥るような信仰を斥けなくてはならない。
 この三点は、B16がすでに主張してきたことで一貫しています。ここで注意してほしいのは、a)です。
 日本では、日本的アニミズムや多神教を差異化したいせいか、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の問題というと、「一神教」内部の問題だとくくりがちですが、ユダヤ世界で生まれたキリスト教が普遍宗教として発展したのはギリシャ語を共有するヘレニズム世界とそれを継承したローマ帝国でした。つまり、多神教世界だったのです。それから一時、同じ多神教のケルトやゲルマン世界の宗教と集合していくのですが、中世にもう一度、アリストテレスを再発見して、今日まで多大な影響を与えているトマス神学が成立したのです。
 これに対してユダヤ教は民族単一神から一神教に発展しましたが、多神教社会で何度も「偶像崇拝」の誘惑に負けては神に罰せられています。最後に現れたイスラムと言えば、一神教としてはかなり厳格なすっきりした偶像拒否のものですが、アベロエスやアビセンナというような大学者を輩出して、古代ギリシャ思想を復権させました。ヨーロッパのキリスト教は、彼らのおかげでアリストテレスらのギリシャ思想を再発見したのです。だから、思想的には、キリスト教もイスラムも、主知的なギリシャ哲学の洗礼を受けているということです。つまり信仰と理性のバランスをどうとるかという問題は、キリスト教にもイスラムにも共通のものであって、一神教同士が自分らの神の優越性を競っているという単純な話ではありません。
 明治の日本は和魂洋才を建前にしましたが、理性=科学=テクノロジーが世界に遍く力を持つ近代以降には、どの国のどの文化も、テクノロジーと産業のツールである理性に対して信仰や伝統をどう折り合いをつけていくのが大問題であるわけです。
 次にb)ですが、歴史上、宗教はたいてい権力装置と結びついていましたから、暴力装置を内在し、さまざまな蛮行を繰り返しました。それは別に「宗教」だからの蛮行ではなく、覇権主義独善主義に向かう人間の蛮行で、「人間だもの」の蛮行なんですが、テクノロジーが発展して蛮行の規模が大きくなり共倒れの全滅の潜在力を得た時分から、まあ平和への外交の智恵も進んできました。特に西欧カトリックなどの老舗宗教は、世界が非宗教化されていく過程で、権力装置と宗教を分けるという智恵に到達し、まあ、もう宗教の名で暴力を発動しないという合意にようやく達したわけです。
 しかし、イスラム世界は、もともとキリスト教風の政教分離が難しい上に、南北問題のあおりや、石油利権の問題、イスラエル問題もからんで、宗教の名のもとに暴力を発動する原理主義グループや戦闘的グループが生まれているので、理性と狂信や暴力の折り合いは今現在の大問題になっているわけです。しかも数からいうと少数であるはずの原理主義者たちは、情報社会のネットワークをフル活用して、少しでもネタ(カリカチュアにしろB16発言にしろ)あると、正確な「情報」でなくプロパガンダの「狂熱」をあっという間にイスラム世界全域に広げてしまいます。
 原理主義者でないムスリムはもちろんこの状況を憂慮しています。
 フランスのムスリムへのアンケート調査では、宗教にかかわらず全ての人間の平等を認めるというのが94パーセント、政教分離に賛成するのが73パーセントとあります。ここでのフランスのムスリムとは三分の二がフランス国籍(移民の二代目や三代目が多数派)で三分の一が外国籍の、両方を含みます。成人の半数が三〇歳以下です。男女平等には91パーセントが賛成、たとえフランス以外のイスラム国においても一夫多妻や不倫女性の石撃ち刑には反対というのがそれぞれ79パーセントと78パーセント、88パーセントがラマダンを守り、43パーセントが日に5回の祈り、週一モスクへ行くのは17パーセントだそうです。フランスのカトリックで毎週教会へ行く人よりは多いという程度でしょう。
 問題は、ムスリムがキリスト教に改宗することについて、受け入れられない、許さないとするのが45パーセント、自由だとするのが46パーセント(無回答9パーセント)というところです。
 これは、近代ヨーロッパの理念の一つで基本的人権の一つとされる「信教の自由」の問題です。人は必ずどこかの共同体の中で生まれますから、普通は当然「親の宗教」を受け継ぎます。成人してからもその宗教を捨てたり離脱したりすることはどこの社会でも許されませんでした。異宗教間の婚姻が不可能だったり、棄教者は共同体から追放されたり殺されたりもしたのです。ヨーロッパでは異宗教間どころか同宗教間でも新旧争いで血を流した時代を経たので、この「信教の自由」を抜きにしては「近代」理念は成立しませんでした。「信教の自由」のある空間、これがフランスでは「非宗教空間」という仮想の共和国聖域なわけです。
 このフランスにおいて、ムスリムの45パーセントも互いのイスラム離脱を許さないと答えているのを、共和国主義に反する由々しきことと見るか、イスラムでさえ46パーセントが他宗教への改宗を自由としているのはさすがフランスだと見るか、難しいところです。どちらにしても、「信教の自由」は、「寛容」と結びついています。「親の宗教」は家族や親族の価値観や先祖をどう祀るかという問題と関わっているので、それを捨てるか捨てないかというのは情緒的な問題でもあります。そこで「個人の自由」を基本的人権と認めるのは、情緒を制御して平和に他者と共存する理性の働きでした。情緒からはなかなか「寛容」は生まれません。
 また宗教そのものが寛容と相いれないとする考えもあります。それは宗教が基本的に「蒙昧」であって理性とは相いれないと言うことにつながります。それに対して、B16は、キリスト教はギリシャ哲学の理性とパレスティナ宗教の信仰という二つの流れを持っているのでバランスがいいと言っているわけです。今回の発言の要旨は、信仰は、蒙昧頑迷ではなくて、人間に共通である普遍的な理性に従わなくてはいけない、ということです。そして理性に従うことは決して神の意志に反することではなくむしろ神の本性につながるというのです。
 これに対して、イスラムでは、キリストのような「人になった神」をたてないので神はまったく抽象的超越的であるから、理性という人間的なものは意味をなさない、という議論が古来からあったという例をB16が引いたので大騒ぎになったのです。この文脈で、イブン・ハズムという人が、絶対超越者である神は、自分の言ったことに責任を持つ必要もない、何でもありだ、と言っていたと孫引きしたのですが、このイブン・ハズムという人は、実は非常に主知主義的なイスラム神学を批判した人だったわけです。前述したように、キリスト教神学がギリシャ理性主義を取り入れたのは、イスラムの学者たちによる古典ギリシャ哲学の発見のおかげであったぐらいですから、イスラム世界はすごく知的で理性的な流れの伝統(アヴィセンナやアヴェロエスなど)があり、蒙昧とはほど遠かったのです。しかし誰かが理性的になると、原理主義や狂信の側にふれる人も必ず出てくるわけで、神は絶対不可知の存在だからすべての理性的議論を無化するという人も出るのです。
 B16は、アヴィセンナなどが信仰を理性的に語ったことに触れずにイブン・ハズムの言葉を出したものですから、まるで、イスラムは理性的でない、キリスト教は理性を重んじる、みたいにとられてしまったということですが、別に一般向けの講演でなかったのでそのへんが誤解されるとは思わなかったのですね。趣旨は、宗教や信仰の問題を力で解決してはならない、理性で解決しようということで、宗教者としての自戒だったのですが。
 ややこしいのは、B16は、蒙昧主義は原理主義や聖戦主義(これはイスラム原理主義やテロリストに限らずキリスト教原理主義や十字軍の侵略や異端審問の蛮行も含めて)批判しているのですが、同時に、理性主義や近代主義の行き過ぎが招いた信仰やモラルの喪失や相対主義の罠に対しても、同じくらいの危機感を持って批判していると言うことです。 特に、ヨーロッパ近代は、キリスト教自体を母胎にして生まれた事情があります。絶対的一神教とちがって、キリスト教の特徴は、人であり神であるというイエス・キリストという仲介者をたてて、そこに聖霊も加えて三位一体の神を信じるところです。
 「絶対神」対「人間」の関係の時は、神が絶対王権みたいなもので、神の言葉は一方的に通告、神罰も一方的、だったのが、人間であるキリストを通じて、少しずつ人類という議会が王と交渉できるようになったという見方もあります。王権の一部委譲、立憲君主制みたいになって、教義の解釈や適用に柔軟性が出てきた。悪く言えばご都合主義、良く言えば時代や人類の文化、政治、科学の発達などの条件に合わせて宗教を発展させてきたわけです。しかし、こうして民衆を王宮に招き、人間を神の領域に招いていると、少しずつ、民衆は王を必要としなくなり、人間の「理性」は「超越的な神」を必要としなくなっていきます。近代理念を生んだ「啓蒙主義」の時代は、無神論をも生んだのです。
 そして、それが「西欧の神」と「西欧の無神論」であった次代は、まあ同じことの裏表というか表裏一体をなしていたので、互いに支え合って共存できたわけです。しかし、ポストモダンの時代になって、多文化多宗教が混在してくると、文化相対主義というのが生まれ、西欧的キリスト教にとっては、実は、これが「無神論」よりも深刻でやっかいなものでありました。なぜなら、すべてを相対化してしまうと、「絶対神」も、「絶対善」も「真理」も、「絶対理念」も、「民主的多数派の支配」も意味をなさなくなってしまうからです。それでもまだ冷戦のイデオロギー対立があった時代は、仮想敵や善悪がはっきりしていたのですが、そしてJP2も自由陣営側で戦えたのですが、冷戦が終わると、「キリスト教無神論」よりもっと始末の悪い「相対主義的無神論」が自由陣営に蔓延している現実に目を向けざるを得ませんでした。それと戦うために、冷戦下の自由の戦士だったJP2は、晩年には頑迷な保守主義者と言われてしまうのです。
 B16もそうです。主知主義のインテリで、第二ヴァティカン公会議でもカトリックの近代化のためにがんばった彼は、JP2が倒すことに成功した「マルクス主義的無神論」の後で、今度は資本主義世界の「ポストモダン無神論」と戦わなくてはなりませんでした。B16は教皇になってから大きく言って三点で「反動」姿勢を打ち出しています。
 まずJP2が認めたダーウィン主義の見直し、科学の中に「知性ある摂理」を盛り込もうとするニュアンス、遺伝子医学への批判などです。第二に啓蒙主義批判、理性はキリスト教的限界と共存すべきであること。第三に、政教分離の侵犯というか、遺伝子治療に関するイタリアの国民投票で信者にボイコットを呼びかけたことです(効を奏しました)。
 まあ、大手宗教のトップがこの手のことを言うのは、ノーマルというか、それはまあいいのです。問題は、「西欧近代」とともに、少しずつ政教分離して非宗教化してきたと思われていた世界で、1970年代の終わり以降、イランのホメイニ革命に象徴されるような原理主義的傾向があちこちで台頭してきたことです。そして、「ポストモダン的無神論」と戦って保守化するキリスト教も原理主義的カラーを帯びて、イスラム原理主義と競合するように見えることです。それで、「一神教同士の内輪争い」などと言われたり「宗教が悪い」と言われたりして、「ポストモダン無神論」の倫理なき拝金主義や歯止めなく環境を破壊する産業主義が野放しになる現実があります。

 この状態を、近代主義理念を創った「キリスト教無神論」の哲学の側から見てみると次のようになります。
 世界のコンセプトには二つあり、その一つは、宇宙は精神と物質とに分けられるというものです。たいていの独裁者や独裁体制はこのコンセプトを採用します。なぜなら、独裁を、従属させられている側が「理性的に批判」するのを封じるために、自分たちの独裁の権利は「超越的なもの」によって保証されていると言うためです。それが無神論の共産主義国家でも同じです。彼らの独裁を保証するのは神でなくとも、イデオロギーでもいいのです。だから法治国家によって追われることを恐れる独裁的指導者たちは、キューバでもボリビアでもイランでも、けっこう連帯し合ったりするのです。
 もう一つのコンセプトは宇宙には一つの実体しかなく、エネルギーも精神もマチエールの中に含まれているというもので、社会をオーガナイズするには、その宇宙の調和を自分で考え出さなくてはなりません。これが宗教指導者や理想主義者や国家主義者や民族主義者を含むグループで、自分たちが価値観やルールを創出できると信じています。それを押し付けるために血を流すのもいといません。
 しかし、この世界の諸問題、政治的暴力や経済的不公平を解決するには、そのような原理主義者や独善主義者や覇権主義者たちに殺し合いをさせて多くの犠牲者を出すほかないのだろうか。我々は、火にかけた牛乳が煮こぼれるのを防ぐために見張るように、彼らの暴走を常に見張っていなくてはならない。

 このキリスト教無神論の見方では、B16の反動もイスラム原理主義者の反応も同じカテゴリーで、神の代理人のような宗教指導者やイデオロギーの化身みたいな扇動者は等しく「要注意」ということのようです。「我々」という彼らの宇宙のコンセプトがどちらなのかははっきりしません。これは『シャルリィ・エブド』(風刺週刊紙)のフィリップ・ヴァルの意見で、彼は、『シャルリィ・エブド』がムハンマドのカリカチュアを掲載したのは、キリスト教側からのイスラム批判のためではなく、価値観の押し付けに対する表現の自由のためだけであったことを強調したいわけです。確かに『シャルリィ・エブド』はキリスト教や教皇や政治家のカリカチュアはもっと派手に、時には悪趣味に出し続けています。

 理性と信仰のバランスの問題は確かに大きな問題ですが、バランスの問題だけではないような気もします。精神と物質とか精神と肉体の問題も同じです。それが離反していると自覚してしまう人間だけがその統合も必要とするのかもしれません。「知・情・意」という言葉がありますが、知性と感情の他に、意志をもって進んでいくには、ある光に照らされる必要があるのでしょう。その光を求めたのが「啓蒙」思想だったのだとしたら、その光を守っている限り、啓蒙思想のいろいろな展開は、キリスト教無神論もふくめて価値を持ち続けていると思います。
 同じ光が宗教のリーダーたちを照らしてくれることを願いましょう。

 さて、ヴァティカンは、時期外務大臣にフランス人のマンベルティ枢機卿を任命しました。彼はコルシカ人の父を持ち、モロッコのマラケシュ生まれ。イスラムにも強く、ラテンにも強い頼りのありそうな人物で、パリの政治学院を卒業、パンテオンのパリ第二大学法学部で公法の学位も持っています。
 今回のB16の「失言」について、B16は発表するすべての文を自分で書き、最後の最後まで自分で推敲するので、担当官がチェックする暇がないという指摘がなされていました。現在の世界の宗教的緊張の中で、一国の首長がその発言にどんなに気を使っても使い過ぎでないというのは正論です。しかし、教皇は政治ではなく聖霊によって選ばれ聖霊によってインスピレーションを得ているはずの宗教の長でもあるので、外務担当官の用意した無難なコミュニケばかり読み上げるとしたら、たとえ「失敗」や「揚げ足取り」を避けられたとしても、何か大切な部分を失う気がします。
 馬鹿げた自主規制や行き過ぎた政治的公正がはびこる世界では批判的精神は痩せてしまいます。B16は経験ある神学者で、理性の行き過ぎと信仰の行き過ぎの両方を戒めて試行錯誤している人なので、信ずるところを自由にしゃべってもらうのは悪くないと思います。「次の選挙」だの「お世継ぎ養成」だのを心配しなくていい世界で唯一の首長なのですから、時々メディア的に墓穴掘っても、それで世界中の人にようやく注目してもらえるのだから、どんどん平和主義的正論を言ってほしいですね。JP2は二〇世紀末にカトリックの蛮行をいちいち謝罪して回っていました。その後から出発するB16にはまた彼なりの使命があるのでしょう。
 ともかく、誰がどこでどんな「失言」をしたとしても、「復讐」を唱えて暴力を行使するのは間違いなのは確かです。それを言うのすら遠慮しなくてはならないとしたら、表現者が生きていくことはできないでしょう。これからのB16の言説に引き続き注目したいです。しかし「失言」だけじゃなくて聞くべきことをたくさん言っているのに、最も注目されるのが「失言」とは皮肉ですね。

86古川利明:2006/09/28(木) 21:29:34
法王の発言の重み
 あんとに庵さん、一つだけ意見を言わせて頂いても宜しいですか。私はこの発言が、例えば、現場の無名の神父さんの発言でしたら、「あー、そうですか」で済みますし、そもそもニュースにもならなかったと思うのですよ。しかし、法王はバチカンのトップで、法王庁はいろんな国とも外交関係を持っているわけですよね。そうした「立場」にある、いわば「公人」たる法王の発言は、例え、神学校の場であっても、もう少し慎重であるべきじゃなかったんでしょうか。法王の発言というのは、ものすごい重みがあると私は思います。それはおそらく、バチカンの歴史的、政治的、そして宗教的な重みの中から出てきていると、私は思うのですが。

87Sekko:2006/09/29(金) 19:56:50
命を狙われる言論人
 今朝、ラジオで、イスラミストから家族(妻と娘)もろとも命を狙われる哲学教師Robert Redeker が2日ごとに引越しする潜伏先でインタビューに答えているのを聞きました。B16がらみで、9月19日にFigaro紙の論壇で「イスラミストの脅しに対して自由世界は何をすべきか」という論考を載せたからです。次の日、チュニジアの内務省がこのフィガロを発禁処分にし、続いて、原理主義グループからの弾劾判決ファトワが発せられたのです。
 私がショックだったのは、これについて、教職員組合が彼を支援しなかったことです。フランスには「哲学教師=無神論者=反カトリック=左翼=親アラブ」という根強い伝統があり、誰かがカトリックを批判することで教会や保守主義者から弾圧や統制を受けると、すぐに連帯して表現の自由のために戦います。しかし、そういう左翼インテリの伝統のせいでイスラム原理主義には脇が甘く、しかも、攻撃されたのが伝統的に彼らの敵であるローマ法王ということで、そのローマ法王をかばう形になったルデケールの記事に冷たかったということです。この哲学者は2001年の11月、の「ル・モンド」でもイスラム原理主義の批判をして、普通なら9・11の後でもあり無難だったはずが、やはり「イスラム嫌い」ということで哲学教師組合から追放されかねない騒ぎになりました。
 ところが、実際、ルデケールは、フランスの「哲学教師=無神論=左翼」の一人ですから、今回のことも、別にローマ法王をかばったのでなく、表現の自由に対する暴力的反応に怒ったのだと思われます。確かに表現は少し過激でしたが、それによって、彼と彼の家族が命を狙われるというのはまったくの理不尽であるのは言うまでもありません。ルデケールは記事の内容については後悔していない、自分は充分に言葉を選んで書いた、と言っています。もちろん誰かが信念を持って何かを書いても、それが一部の人に忌み嫌われたり、誰かを傷つけたり、社会的に抹殺、糾弾、無視などされることはあり得るでしょう。しかし、それでも、少なくとも身体の安全は守られるというのが自由世界の最低の保障であるべきです。
 たとえ、責任ある一国の長や大手宗教の長が「失言」しても、その個人や彼が代表する国やグループを即攻撃するなどが許されていいはずはなく、話し合いによる解決に向けて努力するべきで、ルデケールもそういう意味で論じたわけです。ラマダンの期間に入ったこの時期、一人の哲学教師が、共和国の中で、仕事も捨てて潜伏を余儀なくされ、妻子もおびえなくてはならないとしたら、まさに異常事態です。
 だから私は、むしろローマ法王みたいに、独身で、選挙区や跡継ぎなど個人的に守るものが何もない人に、リスクを負って平和の正論をどんどん言って欲しいのです。でも、そのせいで罪もない修道女がアフリカで殺されることや、カトリック教会が過去に自由の敵で弾圧と暴力の装置だったからといって、今の状況に連帯せずに口をつぐむフランスの「左翼インテリ無神論者」には我慢できません。「失言」のもとがローマ法王だからといって、「宗教同士のいがみ合い」と矮小化しているうちに、怖いことになりそうです。日本でもすでに禁書の訳者が暗殺された事件もありました。危機管理だけの問題ではないと思うのですが・・

88あんとに庵:2006/09/30(土) 09:40:26
古川様
表現の自由を謳うマスコミが、表現者の意図を曲解し間違ったイメージを流布した。そういうマスコミこそ批判されてしかるべき一件でしょう。まぁマスコミ人が国語力がまったくないというか、知性がないというか、哲学思想の知識がかけらもないので理解できるトコに反応しただけかもしれませんが、そうでないなら意図的にそこを切り取って政治の場に教皇を引きずり出そうとしたことになりますね。そういう動きのほうを警戒したくなります。

これが逆転していたらどうだったんでしょうね。イスラム教徒の指導者がキリスト教に関する批判的とも言えることを言ったために西側諸国の人が暴力に出た。という構図だと。日本人なら暴力に出た西側の人間に怒りをぶつけるでしょうねぇ。

教皇発言は批判されてもいいけどそれはその言論、つまりここではあの神学講義に対して為されるべきであって、「周りに気を使え」倫理を持ち出すのは知的放棄の何者でもない。ましてやsekkoさんが仰るとおり言論に暴力を持って応じるはたとえどんなものであっても愚の骨頂です。

ただ。わたくしもブログに書きましたが、古川さんの仰るとおり「教皇職」というのは神学者でいることは赦されない。その辺りどう振舞うかは確かに問われるものではあるでしょう。(ただ、カトリック神学校の講義まで公的な対象者向け的なものとして扱われるってのは学の現場としては激しくつまらないなぁ。)

また、前教皇との比較、ステロタイプな評価等は、チョムスキーのいうまさになんらのコントロール下に置かれているとは言えます。前教皇は現教皇と保守性においてナニも変わりはない。表象に見えるポーズに騙されちゃ駄目です。前教皇はレーガン、もしくは小泉並の演技者です。

89あんとに庵:2006/09/30(土) 09:44:26
いや流石です
しかしsekkoさんの16発言への所感は流石です。
べね16さんのあの回りくどいうにゃうにゃした文章よりずっと整理されていて判りやすいです。

90Sekko:2006/10/10(火) 06:38:38
公務員の責任
 前回書いたロベール・ルデケールの話(組合の支援を得られないことについて)をフランス人にしましたら、公務員の発言は中庸で穏健であるべきだという教育大臣の言葉にあるように、公務員だからそういうことを書くべきではなかった、と猛烈に反論されました。国家公務員はある意味でフランスを代表する立場にあるのですから、外国にいる同国人(この場合はイスラム国にいるフランス人)を危険に陥れるような言動は許されなかった、と言うのです。確かに日本でも教員や裁判官はプライヴェートでも風俗に行ったり賭け事をしてはいけない、とかあったのを思い出しますが、それは品位の問題で、危機管理とは違いますね。イスラム原理主義がらみで殺された方は国立大学の先生でした。彼の場合は自分だけの被害でしたが。ルデケールの書いたものは確かにいたずらに原理主義者を刺激する口調でしたが、それが彼の信ずるところだったとしたら、署名記事だったのですから、書く権利はあったと思うし、新聞社が載せたということ自体の責任も大きいと思います。
 B16もそうですが、つくづく、テキストとコンテキストということを考えさせられます。文と文脈。文も発言も、どういう時期にどういう場で誰に向かって発させられたのかを抜きにしては存在しません。その意味ではコーランの内容がどうとか言うのも同じで、福音書の中の平和主義者のイエスの言葉だって、文脈を無視して取り出したら、その辺のカルト宗教と変わらないものもありますから。B16がコンテキストを曖昧にしたまま歴史文献を引用したのは不用意であり、その発言をまた、コンテキストを抜きに取上げてプロパガンダに使う原理主義者は卑怯であり、その緊張状態の最中に、危機状況を読まず火に油を注ぐような発言をフランス公務員が書いて、それを載せた新聞も挑発と取られても仕方ないのかもしれません。
 先週の月曜、ヴァチカンはヴァティカンにいるイスラム国の外相を全て招いて、対話路線の続行を強調しました。こういう対応を見ると、B16がただの「宗教の長」や「公務員」でなくて独立国の元首であることの強みを感じます。彼がぽかをしても百戦錬磨のスタッフがついてるし、テロに萎縮したり居直ったりしないで、逆に話し合いのきっかけにもって行くのはいい対応でした。B16のトルコ訪問も含めてこれからどう展開するか注目です。
 トルコと言えば今日シラクがアルメニアで、アルメニア人のホロコーストを認めないとトルコのEU参加は不可能みたいなニュアンスでしゃべって、アルメニア人を喜ばせていました。ジャック・シラクでJ・C、イエス・キリストと同じイニシャルなので、その気になってすっかり博愛主義になったと揶揄されていました。

91古川利明:2006/10/02(月) 21:21:03
よくわかりません
 ひとつは竹下さんの意見も読ましていただいたのですが、あまりにも長すぎて、主張されたいポイントが掴めないのが、まず、あります。「法王の発言の趣旨自体は正しい。しかし、引用等に不適切な部分があったのではないか」ということなのでしょうか? 明快さとわかりやすさを求めようとしている、竹下さんにしては、いつもの歯切れのよさがないように感じます。それはそうと、あんとに庵さんですが、「表現者の意図を曲解し、間違ったイメージをマスコミは流布した」とありますが、これはいったい具体的には何を指すのですか? 要は「マスコミの一連の報道は、ただの揚げ足取りで、そのことにより、神聖なる法王の名誉を傷つけたことは、許せない」という趣旨なのでしょうか。私はこの世に100%正しく、善なる人間はいないし、逆に100%間違っていて、悪い人間もいないと思っています。しかし、あんとに庵さんの考え方を推察するに(竹下さんも、このカトリック問題に関しては、どうも、少しそういう傾向があると思いますが)、「法王の言ってることは100%正しいのだ」という独善性のようなものを感じます。そこには、「批判」を受け入れる寛容性があまり感じられないのです。ひょっとして、今度の問題も「私たちは、いわれのない迫害を受けているのだ」というふうに感じておられるのでしょうか? そして、これだけ世界を巻き込んだアクチュアルな話題だというのに、ほかの竹下さんのファンの方々の書き込みがないのも気になります。賛成、反対、批判等々、いろんな立場から談論風発があっていいように思うのですが……。私自身の立ち位置、そして、意見はありますが、いろんな意見、もちろん「反対意見」を言う権利と自由だけは、絶対に守らなければならないと思っています。私は法王発言の存在まで否定しているのではないんです。でも、その発言を巡って物議を醸した背景にあるものは何なんだろうと、そこについていろいろと意見をぶつけることが大事ではないのか。そういうふうに思っているだけです。

92Sekko:2006/10/02(月) 23:18:05
私の立ち位置は明快です
 B16発言内容についての解説は、カトリック・ウオッチングに入れるために書いたもので、もともとカトリックの動きやB16の「文脈」に関心を寄せている人のためです。
 今回の事件、カリアチュアからルデケールも含めて、私の信ずるところは単純です。なんびとも、その表現が犯罪を構成しない限りは、表現の自由を有するというものです。フランスで言うと、私文書、公文書の偽造や詐欺や誇大広告などはもちろん、人種差別撤廃法に触れるなどもそうです。名誉毀損は親告罪でしょう。しかし、フランスでは、カトリックの力が強かったことと戦ってきたという歴史があるので、宗教についての表現の規制は現在ありません。涜聖罪もありません。つまり、宗教や神や教祖や聖者について、どんなに悪口や偏見を書いてもそれだけでは罪を構成しません。特定の宗教リーダーについての悪口なら、その教祖が名誉毀損で訴えることも可能ですが。
 つまり、今のフランスでは、たとえばアラブ人がアラブ人だということを理由に侮辱すれば差別罪に引っかかりますが、ムスリムと原理主義者とテロリストを混同しても、それは信教や思想のグループなので、罪になりません。言論上で議論がなされればいいことです。同時にイエスやマリアやマホメットや仏陀について悪意を持って書いても罪になりません。
保護する対象になるのは、自分で自由に選べないこと(障害者であったり、女であったり、肌の色が違ったり特定民族であったり、など)です。
 フランスでも、王や神や教会の悪口や批判を書いて冒涜罪や涜聖罪になった時代がありました。今は違います。
 聖書のここがひどいとか、コーランは暴力的だとか言うことは、間違いではありえても罪ではありません。公務員も、哲学教師のルデケールが学校で生徒や学生にイスラムの悪口を言ったら問題ですが、それでも、教育大臣は、内輪の勧告をすればよかっただけです。公に批判すべきではありませんでした。ましてや公務員といえども、一公民として、生徒でなく一般読者に向かい、一般新聞に署名入りで自分の考えを(たとえそれが妥当なものでなくとも)発表する自由はあるし、それがフランスで罪を構成していない限り、そのことで自由や安全をおびやかされてはなりません。
 フランスの教育大臣は、その自由の保障こそ、世界に向けて発信すべきでした。世界には、特定権力の押し付ける冒涜罪や涜聖罪のある国がたくさんあり、そのような国で、権力を批判したり、基本的人権や男女平等を主張して投獄されたり殺されたりする人は多く、さらにもっと多くの人が、言論を封じられたり恐れながら生きています。自由と安全を望んでいるそんなサイレント・マジョリティたちは、ヨーロッパで起こっていることをどう見るでしょう。「空気を読む」ことや「原理主義者を刺激しない」ことが、表現の自由(挑発する自由、失言の自由、間違いを犯す自由も含むみます。古川さんの言うように、100パーセント正しい人はいないのですから。)に優先するかのような昨今では、原理主義的な少数者の独裁下で自由を奪われている人たちを絶望させるでしょう。そりゃあ、フランス人は、自国の大使館が焼き討ちにあったり、パリにテロが仕掛けられるのは嫌なので、原理主義者の神経を逆なでするのはよくないと思うでしょう。でもそれは、恐怖に負けたエゴイスティックな保身ですよ。
 力がまかり通ると法は引っ込むんです。「法的な罪を構成しない限り表現は表現者の責任において自由である。」この基本に到達するために、キリスト教ヨーロッパは何世紀も血を流してきたんですよ。
 だから、私は、その原則に立って、B16には謝罪の必要がないと言っているのです。内輪的には、巻き添えになって焼かれた教会や殺された修道女のためにも反省すればいいと思いますが、彼のように、内容的(イスラムを弾劾するものではなかった)にも文脈的(カトリック神学部内部での講義)にも、本質的な間違いを犯していない場合、彼が保守的宗教人間だからというだけで、その表現の自由と安全が制限されるものではないと思います。ましてや、過去にカトリックが異端審問や火刑や十字軍などいろいろな蛮行を犯してきたという理由で、今のカトリックのリーダーが基本的人権を制限されるべきではありません。それなのに、法王を糾弾しないとカトリック・シンパだからだと思われたり、あるいはルデケールのように、イスラムを糾弾すると狂信的なやつだ、原理主義者と同じ穴の狢で危険人物だと叱責されたりするのはおかしいのではないでしょうか。
 宗教の経典がそれを生きる人間の世界と連動していくのは当たり前で、こんなにひどいテキストがあるなどと、外側からや内側から疑問や批判の声が上がることで、自己批判したり、解釈を変えたり、民主主義や基本的人権といった普遍的価値と折り合いをつける試行錯誤がなされていくものでしょう。モーツアルトのオペラでクレタの王がマホメッド(他の賢人もですが)を批判しているので上演禁止とか、シェイクスピアの「ベニスの商人」が反ユダヤ的だから上映禁止とか、歴史的文脈を無視して芸術表現を規制する動きもあります。心と精神を拡張しないと自由はありません。
 宗教や軍事やイデオロギー独裁の多くの国で恐怖のうちに生きている多くの人々と連帯するために、今のフランスや日本のように表現の自由を保障されているはずの法治国家の表現者は、恐怖に負けずに正論を唱え続けるべきではないでしょうか。

93あんとに庵:2006/10/07(土) 05:12:22
バイアスがある
古川さんは、教皇文書を読まれたのでしょうか?
普通に国語力があればあれがイスラム批判が主眼ではないことはわかることです。

尚、私は教皇も当然批判しますよ。「神聖な教皇」なんてチャンチャラおかしいですね。教皇も間違いを犯す人間に決まってます。私の文を読んで教皇批判が出来ない人間だと判断を下すようなそういう感想しか抱かれないというのはきついようですが読解力を疑います。どうして今回の事件に関してマスコミ報道の仕方がおかしいといっただけで、そういうものの見方になるのか不思議です。それこそまさにある種のメディアコントロール下にあるというか、洗脳されたものの見方ではないかと思ってしまいます。

まずもって、イスラムの暴力を引き起こした報道の仕方は果たして正しい為され方だったのか?これは教皇文書をきちんと読むならば、イスラムに関連した文書のみ特化して持ち出し煽った方法論こそ問われるものではあるでしょう。
日本の報道に関してはあまりにも酷いとしかいいようがありませんね。これが逆にイスラムの識者、もしくは無神論者が同じようなシュチュエーションで糾弾されても私はその人をかばうでしょう。問題は「カトリックの教皇が批判された」ことではなく(教皇がくそなことを言えばわたくしも容赦なく叩きます)「発話者の意図を曲解」して反応した原理主義者やマスコミの受け止め方です。発話者がどういう立場であれ、本人の意図と関係なしに物事が一人歩きしてしまい、それが既成事実化するというのはメディアによく見られる現象です。

ですので今回の事件に関してはまさに報道の問題がまずあるでしょうね。
尚、教皇の影響力を大切に考えているのは寧ろ古川さんだという感じなのが面白いです。わたくしは教皇なんぞのいうことは普段はあまりいうこと聞かないほうなので、下らないことをいうならスルーしてしまうから今回も初めは真剣に受け止めませんでしたが、世の中のほうが大騒ぎになったので、真面目に注視してみたという感じです。

94あんとに庵:2006/10/07(土) 05:30:00
教皇職ということ
sekkoさんと意見が多少異なるのですが、教皇職というのは一神学者ではいられないという厳しい立場であるとは思います。この点に於いて古川さんの仰る「果たして教皇として適切であったか」という問いには、やはり「教皇」として脇が甘かったというしかない。本来は自らの意見を述べる自由があるのは理想なのですが、現実としては人の命に関わるという難しい立場ですね。ですので古川さんの主張もよくわかります。

しかし暴力を前にいうべきことをいえないということは例えば信徒達が人質に取られているかのごとき状況下で暴力化していくナチズムへの批判が出来なかったあの時代へ逆戻りしてしまうといえます。この点に於いてsekkoさんが主張なさっている暴力を否定し、言論の自由を守るべきというご意見に賛同します。

一部の暴力的な人々のせいによって、ムスリムが誤ったイメージをもたれることもまた懸念します。

95KAORU:2006/10/10(火) 12:07:27
B16がくれたもの
古川様、あんとに庵さま、竹下先生。B16の発言に関する皆様のやりとり、勉強になります。
しかしながら(古川さんの疑問に答えることになりますが)、ものすごい論客たちを前にして話すべき内容を持ち合わせていないというか。
ただ、古川さんの『教皇として発言は慎重であるべきだった』というところは分かる気がします。どっかの知事が大学などの講演でこんな発言をしてた、というのを批判する記事はよくあるし、それを読んで私たちはいろんなことを判断します。でも、もちろん、皆さんのおっしゃるようにだからといってそれを暴力に結び付けてはいけないと思います。
B16の発言について、新聞などではほとんど詳しい内容は分かりません。たぶん私が読み落としているだけなのだと思うのですが、新聞を軽く読む限りでは『教皇の発言が一部のイスラム教徒に批判されて教皇は遺憾の意を表した』ぐらいにしか読めませんでした。だからマスコミの報道の仕方がおかしいというお話もなんだかピンと来なかったです。ただ、私はマスコミというものについてあまり信用していないので(つまりその報道の仕方は往々にして偏りがあり、世論を煽ろうとする傾向もままあると思っているので)、これがとても興味のある話題であったならいろんな方面から調べただろうなぁとは思います。そして、マスコミを判断する材料をまた増やしたことでしょう。
で、私は、宗教の世界もこの掲示板のようにガシガシ言いたいことが言えたらいいのにと思いました。暴力とかじゃなくて、例えとっかかりは揚げ足取りだったとしも、こんな風な言葉によるバトルはいいことではないかと思います。いろんな立場の人がいていろんな考え方があって、立場を変えればこうなるんだなぁ〜って考える想像力ってとても大切で、それがなければ互いに寛容になれはしないですよね。暴力のない平和な世界を築くためのキーワードのひとつは寛容ではないかと思っています。
なんだか、脈絡のない文章でスミマセン。自分で言いたいこともよく分かってないし、それにも増して文章力がないんですけど、私も何か書きたくなっちゃって口を挟みました。
考える機会を与えてくれたB16に感謝です。

96古川利明:2006/10/10(火) 21:53:38
相変わらずよくわかりません
 皆さんの書き込みを読みながら、非常に世の中の現実から遊離しているなあと感じます。まあ、竹下さんはジャーナリステックなところもきちんと踏まえているので、たぶん、今度の教皇発言問題が、どういうところで世間を騒がせているかというのはわかっていると思います。教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。すごく私は、とりわけ左派的な市民運動にありがちな独善性と排他性を感じます。「反戦平和」だとか、「憲法改悪反対」だとか、誰の目から見ても文句がつけようのないフレーズを、目を吊り上げて言って、それで満足しきっているっていうのか(そういうのは、案外、女性が多いですよね。でも、別に女性一般がすべてそうだとは全然、思っていませんので、念のため)。たとえ説教のうちの全体のごく一部であれ、あのムハンマドの引用に、どうしてイスラム系の人たちが過敏に反応してしまったのか、そこに目をやって考えてみようとする精神のしなやかさと、想像力が欠けているのではないかと、私は思います。まあ、「マスコミ報道は低劣だ」と言うことで、自己を正当化するしかないんでしょうが、そんな姿勢でいると、より世の中から遊離してしまいますよ。なんていうんですかねえ、もう少し「清濁合わせ呑む」ようなキャパを期待するのは、私のないものねだりというものなのでしょうか(苦笑)

97Sekko:2006/10/10(火) 23:57:49
あるジャーナリストの死
 日本では多分北朝鮮の核実験(地震とか誘発しないのですか?)のせいで目だっていないと思いますけど、先週末、チェチェンを支援しプーチンの批判をしていたロシア人女性ジャーナリストが自宅の前で銃弾を4発受けて暗殺されました。都合の悪いことを言われたら力で圧殺、ペンを剣で斬って捨てるというのは、宗教原理主義だけではありません。
 「教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。」と古川さんは書いておられますが、これが誰が聞いてもごもっともでないところが問題なんですよ。「隣人は牽制、うちだけが大事」、「民族、宗教が違うと連帯なんて不可能だし、する気もない」、と思う人のほうが多いし、動物としての生存戦略としてもほとんど自然です。
 そこを、あえて「不自然」な理想を唱えるのが宗教家だの「左派市民運動の女性」だのだとしたら、それは貴重なのではないかと今は思います。私も「市民運動家」とか風紀委員とか委員長みたいなのって苦手だったのですが、この時代、もしあらゆる宗教のリーダーがそろって「汝の隣人を愛せよ」と信者に言ってくれたら嬉いですよ。ローマ法王、あんたが目を吊り上げて暴力を糾弾し平和を唱えなくてどうする。
 清濁併せ呑むキャパばかりが支配すれば、目を吊り上げて清を唱える人はいつの間にやら濁から殺されるのです。
 まあ、実際の戦略は、突撃で解決するものではなく、交渉、取引、妥協とか、雌伏とか、いろいろやらざるを得ないのは当然ですが、それこそ、役割分担の妙があってもいいと思います。宗教家と称する人は、神の名で人を殺さず、理性と愛が大事と説けばいいし、感情をむき出しにして市民運動をする人や、ヒューマニズムに駆られて戦地に赴き人質になって国に迷惑をかける人がいてもいいのです。そんな人がまったくいなくなっちゃったら、その方が怖いですよ。だって、「清濁併せ呑む」技は、それこそ微妙なバランス感覚を研ぎ澄ませ続ける必要があって、「清」や「濁」に振れる人あってこその高度な技ですから。そして、「清」に振れる人を揶揄するより、「濁」に振れる人をきっちり批判しましょう。
 まあ、古川さんの言ってること(相変わらずわかんないと言ってること)はなんとなく分かりますけど。でもまあこの話題はこの辺ですね。考えるタネに移民と奴隷の話を近くUPしますので、それについてまた感想を聞かせてください。

98聖アシジのフランシスコ(前世):2006/10/30(月) 01:38:55
本来の環境保護に目覚めましょう。
私の独り言2006/最終内容。より多くの人に愛が届きますように!
これから私が話すことは、ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
何が正しくて、何が違っているという内容ではなく、まず私の主観をおつたえします。経済そのものが生きずまり、大変な状況のように思えますが、
景気も回復し大丈夫のように見た目ではそう思います。しかし、地球環境からして考えるに、起こっている社会の実態とスクラップ・アンドビルドは
個々の気づきを促し、それぞれのカルマが刈り取られ成功しているようにみえます。しかし、地球環境=経済の実態は密接な関係にあります。用は
日本国内においては多くの人が無駄に働き(非効率)、環境を破壊しながらエネルギーを生産、それを稼ぐために余分に働いているのが実態です。
神から出た無限のエネルギー(ソーラーパネル)は活用されず、金儲けの手段に成り下がり、豊かな国であるはずなのに、貧乏を好んでいます。
多くの国で稼いだお金は預金され、金が金を生むと金貨極上のごとく信じています。
無限のエネルギーを活用しなかったら、今後必ず、危機を生むことでしょう。
私が思い、涙が出てた内容は、悪の連鎖の行き着く先は、地球の崩壊はもとより宇宙の崩壊にいたることでいす。今の宇宙は7度目の宇宙です。
近隣の惑星の方に迷惑をかけることとなるでしょう。
全人類のカルマを日本人が全て刈り取るか、そのまま見ていて、最後の審判を拡大させ、多くの方の命を消し去るか。地上に天国を作るか、多くの人を本人が気づくまで待つて手遅れになるかです。
多くの富を抱え込んだまま、滅んでいく日本の姿は、世界の7不思議となるでしょう。
地球環境から見てもう時間がありません。お金もうけで地球は救えないのです。
まずは地球あっての、各個人のカルマの刈り取りが可能であり、地球あっての審判です。
スクラップ・アンドビルドとは悪の国アメリカのやり方です。
神の国日本は、創造的・破壊です。言葉の通り受け止めるべきだと思います。
創造が先です。でなければ、悪のエネルギー連鎖反応がおこり、その後は誰にも止められません。
経営上はスクラップ・アンドビルド有効です。
しかし、地球を消し去ってから取り戻せないと思うのです。


私のような若いものでも、財政赤字、北朝鮮核問題、省資源、過労働、殺人、犯罪。これらのすべての原因は一つだとわかります。、神の無限のエネルギーの蛇口をひねれば、地球は救われるのです。自分たちを救う前にまず地球が先です。地球あっての私たちです。ファチマ第3の予言も、因果の理法、エネルギー連鎖反応からして、地球の最後を女性の宇宙人が通告した内容です。
タイムリミットは、マヤ暦が終わる2012年12月22日、このタイムリミット地球崩壊をさすものではありません。
しかし、地球が崩壊しないとも言い切れません。私たちの未来は不確定性理論です。
これらのことは、地球に住まわせてもらっている私たちと宇宙との約束事です。
その約束を果たす時が来たということです。

ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、またある人には、生活には困らない。ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
ですから、人の話は、半分聞いておいてください。全てを信じたらだめです。あなたらいしすばらしい個性が無くなるからです。
あなたの良きインスピレーションにお役立てください。

一消費者より、無限の愛をこめて。

99Sekko:2006/10/30(月) 05:30:07
これ何ですか?
下のこれって、「宗教」というキーワードに反応して来るスパムですか?
それとも、善意の警告メール? 「私のような若い者でも」とあるから若い方なんですね。
どうかもう少しリラックスして楽しいことを考えたりしてみてください。「無限の愛」ありがとうございました。

100:2006/12/26(火) 02:26:14
Massimo from Amsterdam
Shu no go-koutan oyobi shin-nen no o-yorokobi moushi agemasu. Watakushi wa ahita kara Roma de shin-nen o sugoshi masu. Takeshita-sama no rainen no go-takou to go-katsuyaku o o-inori moushiage masu.
Koko suujitsu, watakushi wa, "ika ni shinu ka?" to "ika ni ikiru ka?" itsuite kangaete imasu. Kitto sono hutatsu wa onaji koto ka, arui wa sugoku chikai mono dato omoi masu.
Tanoshii kyujitsu o!


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