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哲学・宗教質問箱

92Sekko:2006/10/02(月) 23:18:05
私の立ち位置は明快です
 B16発言内容についての解説は、カトリック・ウオッチングに入れるために書いたもので、もともとカトリックの動きやB16の「文脈」に関心を寄せている人のためです。
 今回の事件、カリアチュアからルデケールも含めて、私の信ずるところは単純です。なんびとも、その表現が犯罪を構成しない限りは、表現の自由を有するというものです。フランスで言うと、私文書、公文書の偽造や詐欺や誇大広告などはもちろん、人種差別撤廃法に触れるなどもそうです。名誉毀損は親告罪でしょう。しかし、フランスでは、カトリックの力が強かったことと戦ってきたという歴史があるので、宗教についての表現の規制は現在ありません。涜聖罪もありません。つまり、宗教や神や教祖や聖者について、どんなに悪口や偏見を書いてもそれだけでは罪を構成しません。特定の宗教リーダーについての悪口なら、その教祖が名誉毀損で訴えることも可能ですが。
 つまり、今のフランスでは、たとえばアラブ人がアラブ人だということを理由に侮辱すれば差別罪に引っかかりますが、ムスリムと原理主義者とテロリストを混同しても、それは信教や思想のグループなので、罪になりません。言論上で議論がなされればいいことです。同時にイエスやマリアやマホメットや仏陀について悪意を持って書いても罪になりません。
保護する対象になるのは、自分で自由に選べないこと(障害者であったり、女であったり、肌の色が違ったり特定民族であったり、など)です。
 フランスでも、王や神や教会の悪口や批判を書いて冒涜罪や涜聖罪になった時代がありました。今は違います。
 聖書のここがひどいとか、コーランは暴力的だとか言うことは、間違いではありえても罪ではありません。公務員も、哲学教師のルデケールが学校で生徒や学生にイスラムの悪口を言ったら問題ですが、それでも、教育大臣は、内輪の勧告をすればよかっただけです。公に批判すべきではありませんでした。ましてや公務員といえども、一公民として、生徒でなく一般読者に向かい、一般新聞に署名入りで自分の考えを(たとえそれが妥当なものでなくとも)発表する自由はあるし、それがフランスで罪を構成していない限り、そのことで自由や安全をおびやかされてはなりません。
 フランスの教育大臣は、その自由の保障こそ、世界に向けて発信すべきでした。世界には、特定権力の押し付ける冒涜罪や涜聖罪のある国がたくさんあり、そのような国で、権力を批判したり、基本的人権や男女平等を主張して投獄されたり殺されたりする人は多く、さらにもっと多くの人が、言論を封じられたり恐れながら生きています。自由と安全を望んでいるそんなサイレント・マジョリティたちは、ヨーロッパで起こっていることをどう見るでしょう。「空気を読む」ことや「原理主義者を刺激しない」ことが、表現の自由(挑発する自由、失言の自由、間違いを犯す自由も含むみます。古川さんの言うように、100パーセント正しい人はいないのですから。)に優先するかのような昨今では、原理主義的な少数者の独裁下で自由を奪われている人たちを絶望させるでしょう。そりゃあ、フランス人は、自国の大使館が焼き討ちにあったり、パリにテロが仕掛けられるのは嫌なので、原理主義者の神経を逆なでするのはよくないと思うでしょう。でもそれは、恐怖に負けたエゴイスティックな保身ですよ。
 力がまかり通ると法は引っ込むんです。「法的な罪を構成しない限り表現は表現者の責任において自由である。」この基本に到達するために、キリスト教ヨーロッパは何世紀も血を流してきたんですよ。
 だから、私は、その原則に立って、B16には謝罪の必要がないと言っているのです。内輪的には、巻き添えになって焼かれた教会や殺された修道女のためにも反省すればいいと思いますが、彼のように、内容的(イスラムを弾劾するものではなかった)にも文脈的(カトリック神学部内部での講義)にも、本質的な間違いを犯していない場合、彼が保守的宗教人間だからというだけで、その表現の自由と安全が制限されるものではないと思います。ましてや、過去にカトリックが異端審問や火刑や十字軍などいろいろな蛮行を犯してきたという理由で、今のカトリックのリーダーが基本的人権を制限されるべきではありません。それなのに、法王を糾弾しないとカトリック・シンパだからだと思われたり、あるいはルデケールのように、イスラムを糾弾すると狂信的なやつだ、原理主義者と同じ穴の狢で危険人物だと叱責されたりするのはおかしいのではないでしょうか。
 宗教の経典がそれを生きる人間の世界と連動していくのは当たり前で、こんなにひどいテキストがあるなどと、外側からや内側から疑問や批判の声が上がることで、自己批判したり、解釈を変えたり、民主主義や基本的人権といった普遍的価値と折り合いをつける試行錯誤がなされていくものでしょう。モーツアルトのオペラでクレタの王がマホメッド(他の賢人もですが)を批判しているので上演禁止とか、シェイクスピアの「ベニスの商人」が反ユダヤ的だから上映禁止とか、歴史的文脈を無視して芸術表現を規制する動きもあります。心と精神を拡張しないと自由はありません。
 宗教や軍事やイデオロギー独裁の多くの国で恐怖のうちに生きている多くの人々と連帯するために、今のフランスや日本のように表現の自由を保障されているはずの法治国家の表現者は、恐怖に負けずに正論を唱え続けるべきではないでしょうか。


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