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哲学・宗教質問箱

23Sekko:2005/12/26(月) 08:56:02
聖処女の話
 面白い質問です。というか、普通は、イエスは少なくともマリアの子供であることは間違いないといわれているので、もし遺伝子が片方だけなら、マリアの遺伝子は少なくとも受け継いでると思われています。だからこそ、マリアは母親の胎に宿ったときに現在を免れていたとかいう理屈付けをみなが考えたのですから。
 そして、母親の遺伝子だけなら、当然女性ですよね。イエスが男であったことは、Y染色体を持っていたことで、それはマリアから来ません。これだけでも両性生殖だということが分かります。トリノの聖骸布やオヴィエドの布や、アルジャンターユの長衣など、受難関係の聖遺物に付いた血痕はみなAB型で、これも、両性生殖でしかあり得ません。
 でも、キリスト教の関係者は、このことをあまり気にしてないと思います。マリアが処女じゃなかったとか、イエスがマリアとヨセフの子だったとか、そういうことが「ばれて」、それを隠すための陰謀とか刺客とかいうのは、安手のミステリーにはありがちですが、大事なのは、神が100%人間になってくれたというところで、人間ならAB型もあり、両性生殖も当然なので、「それがどうしたの?」ってとこもあると思います。たとえていえば、カトリックで聖体がイエスの体になるといっても、大事なのはPresenceプレザンスであり、聖体の成分を分析して「小麦と水」であっても困らないのと同じです。ワインに赤血球が入ってなくても平気。
 聖処女信仰は2世紀頃が起源のようで、教義の変遷については私の『聖母マリア』(講談社選書メチエ)とかを読んで見てください。「合理的解釈」をしたいなら、日本でも子供は神からの授かりものというように、1世紀のユダヤ世界では、子供のことを「神の子」と呼ぶことは珍しくなく、父母がそろっていて同時に神の子というのは矛盾しないという人もいます。でも聖処女信仰は、単に「単性生殖」とか、マリアと聖霊の合体だとかいうところから、受胎の時も出産のときも出産の後も処女だったとかエスカレートするので、もうそうなったら、「合理的解釈」は不可能です。
 でも、ここが、実は、キリスト教の面白いところです。エデンの園で、神のいうことをきかなかったアダムとイヴだとか、堕落する天使とか、悪いことばかり繰り返す人間だとか、外から見てると、「全能の神なら、もっと被造物を管理しろよ」と突っ込みを入れたくなるほど、神は、なぜか「自由意志」を尊重することになっているのです。
 ある人が誰かに自分への愛を強要しようとしたら二つの方法があるとアベ・ピエールは言います。ひとつは、一種のマインド・コントロールで、依存関係を作り上げること、お前は私なしではだめなんだよ、という類のもので、カルトの教祖とか、親子やカップルにも見られます。もうひとつは、人が愛さずにはいられないような完璧な存在であることが明らかな場合。もし、全能で愛である神が、白日の下にそれを表したら、人間は、神を愛する他に選択肢がありません。
 しかし、人間の自由意志にこだわる神は、だからこそ、ちょっと間接的に、身を隠しているというのです。そして、この暗闇の部分が、信仰を必要とするのです。神を触ることも見ることも直接知ることさえなく、それでも、信仰の中で神を愛することが可能だというのが神の望んだ人間の偉大さであり、それが実現するには「完全な自由」が保障されている必要があります。神は「自由な選び」を創造に組み入れたのです。専制君主とか、さまざまな暴力装置を必要とする国家や、カルト教団の教祖や、愛を強要する母親や恋人などと全然違います。多分、自由は、真実と関係があるからでしょう。「真実は人を自由にする」というのもそういうことではないでしょうか。
 だから、たとえば今のカトリックが、「処女受胎」を含む、検証不可能なさまざまなディスクールを掲げながら、それを万人に納得させるために無理につじつまを合わせることなく、AB 型でも、両性生殖でも単性生殖でも細かいことにはこだわらない、グレー・ゾーンは多い、でも自由意志で、まとめて信じてくださいね、と言っているのは、キリスト教的な神のやり方を踏襲していることになります。私は、個人的には、好きです。ご利益があるとか、良いカルマをつんで、良い来世を目指すとか、すごく偉い超能力の教祖様がいるとか、ましてや信じなければたたりがあるとか言われて、「信心」に誘われるのではなくて、まったく自由だと言われたいのです。
 アベ・ピエールは、ただし「人になった神」というのを一度信じたら、その人(キリスト教徒)には、イエスに倣う一種の責任が生じてくると言います。聖母マリアの話を信じる、という人は、自分や自分の愛する子供までを他者のために捧げたマリアの生き方に何らかの形で共感して寄り添っていく義務を自由に選択したということかもしれません。たとえば、自分や自分のエゴの投影である子供よりも優先される他者があり得ることを認めるとか。
 神が人間の「自由」を尊重したおかげで、人は悪からも逃れられずに苦しみまくっていますが、自由な信仰が他者の苦しみへと視野を広げてくれたら、苦しみは分かち合いへのトランポリン(これもアベ・ピエールの言葉)にもなると言われます。
 話が広がりましたが、そういうわけで、キリスト教は別にイエスが「人間の男女の子でない」と言ってないのに注意してください。まあいろいろな教派的、文化的理由でマリアが神格化していった歴史はありますが、人間マリアの子というのは大体のコンセンサスなので、マリアは別に代理母ではなく、イエスの少なくとも半分の遺伝子提供者だと思ってOKです。


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