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哲学・宗教質問箱
17
:
Masako
:2005/10/16(日) 23:56:44
癒しの超能力
竹下さん、お返事有難うございます。私の質問はちょっと変でしたね。実は、身体の不調からたまたま受けたある代替療法がたしかに効いて、その結果自体はかなり快適なものだったのですが、そのプロセスがどうにも秘教的なもので、続けるべきかどうかジレンマに陥っていたという個人的な事情からの質問だったのですが、難病云々という極端な設定をしてわかりにくくなってしまってりました。
この件については自分の中で結論が出てもうやめることにしていたのですが、竹下さんのお返事の
最後の部分「生には何か超越した意味があって・・・」以降がそれをもう一押ししてくれたようです。お世辞ではなく、こういう聡明な友人の一言を聞ける幸せを感じました。
当該代替療法はインドの伝統医学アーユルヴェーダで、おそらくアーユルヴェーダ医にもいろいろなスクール、タイプがあるのでしょうが、たまたまというか運悪く、私が関わったのが今になって気づくとかなりエソテリックなもので、これは相当やばいんじゃないかと思うようになった次第です。そしてそれでも治療を止められないのは単に効果があったというだけではなく、私の中にも「この病気にはどこかに完全解があるはずだ」といったような気持ち、また、自分の中に「病気の状態から健康な自分になりたい」という思いがあり(これは自然なことではありますが)、そこに完成型を前提とし、志向する不健全さを発見した次第です。
そしてもちろんその私の志向が引き寄せたということもいえますが、相手方の志向にもそれが強くあり、アーユルヴェーダ医学というのは心身ともにバランスがとれた状態を目指すものではありますが、いろいろ歴史等を見ていると、エントロピーの法則に逆行するような若返りの医学という
面も非常に強く持っているのではないかということに気づきました。これはマヤラジャなどの治療が中心だったことを考えればうなづけることです。
こういったものが大衆化によって今は日本でもアーユルヴェーダはかなり広まっています。いわばマハラジャ対象のような手のかかる治療が大衆化されOLにまで流布し、あくことなき健康とアンチエイジング志向の波に乗ってやってきているのが今の日本なのかもしれません。
そして私は(あくまでも私の関わったアーユルヴェーダ関係者限定ですが)彼らの中に到達点としての理想型へ患者を当てはめようとする志向という意味でグノーシス性を、また何か非常に乾いていて非人間的なもの、つまり治療対象とされた私へのコンパッションを欠いたものを感じたのです。それは普通の日本の西洋医でよくいる感じの悪いよくない医者というのと全く違う、ある種哲学的不快さでした。ここでまた飛躍してしまうかもしれませんが、ヴェーダ・ウパニシャッド哲学というのはそんなものなのかもしれないと感じています(あまり勉強したことがないので断言は危険ですが)。うまく表現できませんが、今回の体験を通じ、いままであたりまえのように思っていたlove とかcompassionという西欧キリスト教世界の価値を再発見した気持ちです。
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