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哲学・宗教質問箱
85
:
Sekko
:2006/09/28(木) 10:19:32
B16発言再び
以下は『カトリック・ウォッチング』のコーナーにアップするつもりで書いたものです。でもこのコーナーでも引き続きコメントがあるので、長いですが、まずここに入れておきます。
B16の問題発言騒動について(2006・9・22)
宗教哲学質問箱(2006・9・19)に、9月12日のB16がドイツで神学について講演した内容についてのイスラム世界の抗議行動への感想を書きました。B16の発言内容そのものについてはあえて触れなかったので、やや沈静化した今、内容についてコメントします。これについて、いろいろなフランス人のコメントを読みましたが、リベラルなキリスト教の立場からのものと、無神論哲学者の立場のものが同じことを別の角度と照明で観ているのが興味深いでした。
B16の講演内容は、難しいと思われるかもしれませんが、今、西洋無神論の系譜についての本を準備している私には、とてもよく整理された分かりやすい内容だと思えて、参考になりました。同時に、それに対する無神論者の反応が、私のテーマの内容を検証するようなものであり、ますます自分的にはタイムリーなものでありました。全貌は私の「無神論の系譜」が仕上がってから読んでいただくとして、この欄でB16を擁護してきた私として、今回の話をこれまでの彼についてのこの欄とどう関係付けるかをコメントしたいと思います。
まずフランスのリベラルキリスト教者の見方に沿ってみましょう。
B16の講演の論点は、三つあります。
a)キリスト教はユダヤ教の子供であると同じくらいギリシャ思想の子供でもある。つまり「信仰」と「理性」のバランスの上に立つ。
b)次に、すべての宗教は暴力を排除して精神の自由を尊重しなくてはならない。
c)最後に、行き過ぎた合理主義と共に、非合理的な狂熱に陥るような信仰を斥けなくてはならない。
この三点は、B16がすでに主張してきたことで一貫しています。ここで注意してほしいのは、a)です。
日本では、日本的アニミズムや多神教を差異化したいせいか、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の問題というと、「一神教」内部の問題だとくくりがちですが、ユダヤ世界で生まれたキリスト教が普遍宗教として発展したのはギリシャ語を共有するヘレニズム世界とそれを継承したローマ帝国でした。つまり、多神教世界だったのです。それから一時、同じ多神教のケルトやゲルマン世界の宗教と集合していくのですが、中世にもう一度、アリストテレスを再発見して、今日まで多大な影響を与えているトマス神学が成立したのです。
これに対してユダヤ教は民族単一神から一神教に発展しましたが、多神教社会で何度も「偶像崇拝」の誘惑に負けては神に罰せられています。最後に現れたイスラムと言えば、一神教としてはかなり厳格なすっきりした偶像拒否のものですが、アベロエスやアビセンナというような大学者を輩出して、古代ギリシャ思想を復権させました。ヨーロッパのキリスト教は、彼らのおかげでアリストテレスらのギリシャ思想を再発見したのです。だから、思想的には、キリスト教もイスラムも、主知的なギリシャ哲学の洗礼を受けているということです。つまり信仰と理性のバランスをどうとるかという問題は、キリスト教にもイスラムにも共通のものであって、一神教同士が自分らの神の優越性を競っているという単純な話ではありません。
明治の日本は和魂洋才を建前にしましたが、理性=科学=テクノロジーが世界に遍く力を持つ近代以降には、どの国のどの文化も、テクノロジーと産業のツールである理性に対して信仰や伝統をどう折り合いをつけていくのが大問題であるわけです。
次にb)ですが、歴史上、宗教はたいてい権力装置と結びついていましたから、暴力装置を内在し、さまざまな蛮行を繰り返しました。それは別に「宗教」だからの蛮行ではなく、覇権主義独善主義に向かう人間の蛮行で、「人間だもの」の蛮行なんですが、テクノロジーが発展して蛮行の規模が大きくなり共倒れの全滅の潜在力を得た時分から、まあ平和への外交の智恵も進んできました。特に西欧カトリックなどの老舗宗教は、世界が非宗教化されていく過程で、権力装置と宗教を分けるという智恵に到達し、まあ、もう宗教の名で暴力を発動しないという合意にようやく達したわけです。
しかし、イスラム世界は、もともとキリスト教風の政教分離が難しい上に、南北問題のあおりや、石油利権の問題、イスラエル問題もからんで、宗教の名のもとに暴力を発動する原理主義グループや戦闘的グループが生まれているので、理性と狂信や暴力の折り合いは今現在の大問題になっているわけです。しかも数からいうと少数であるはずの原理主義者たちは、情報社会のネットワークをフル活用して、少しでもネタ(カリカチュアにしろB16発言にしろ)あると、正確な「情報」でなくプロパガンダの「狂熱」をあっという間にイスラム世界全域に広げてしまいます。
原理主義者でないムスリムはもちろんこの状況を憂慮しています。
フランスのムスリムへのアンケート調査では、宗教にかかわらず全ての人間の平等を認めるというのが94パーセント、政教分離に賛成するのが73パーセントとあります。ここでのフランスのムスリムとは三分の二がフランス国籍(移民の二代目や三代目が多数派)で三分の一が外国籍の、両方を含みます。成人の半数が三〇歳以下です。男女平等には91パーセントが賛成、たとえフランス以外のイスラム国においても一夫多妻や不倫女性の石撃ち刑には反対というのがそれぞれ79パーセントと78パーセント、88パーセントがラマダンを守り、43パーセントが日に5回の祈り、週一モスクへ行くのは17パーセントだそうです。フランスのカトリックで毎週教会へ行く人よりは多いという程度でしょう。
問題は、ムスリムがキリスト教に改宗することについて、受け入れられない、許さないとするのが45パーセント、自由だとするのが46パーセント(無回答9パーセント)というところです。
これは、近代ヨーロッパの理念の一つで基本的人権の一つとされる「信教の自由」の問題です。人は必ずどこかの共同体の中で生まれますから、普通は当然「親の宗教」を受け継ぎます。成人してからもその宗教を捨てたり離脱したりすることはどこの社会でも許されませんでした。異宗教間の婚姻が不可能だったり、棄教者は共同体から追放されたり殺されたりもしたのです。ヨーロッパでは異宗教間どころか同宗教間でも新旧争いで血を流した時代を経たので、この「信教の自由」を抜きにしては「近代」理念は成立しませんでした。「信教の自由」のある空間、これがフランスでは「非宗教空間」という仮想の共和国聖域なわけです。
このフランスにおいて、ムスリムの45パーセントも互いのイスラム離脱を許さないと答えているのを、共和国主義に反する由々しきことと見るか、イスラムでさえ46パーセントが他宗教への改宗を自由としているのはさすがフランスだと見るか、難しいところです。どちらにしても、「信教の自由」は、「寛容」と結びついています。「親の宗教」は家族や親族の価値観や先祖をどう祀るかという問題と関わっているので、それを捨てるか捨てないかというのは情緒的な問題でもあります。そこで「個人の自由」を基本的人権と認めるのは、情緒を制御して平和に他者と共存する理性の働きでした。情緒からはなかなか「寛容」は生まれません。
また宗教そのものが寛容と相いれないとする考えもあります。それは宗教が基本的に「蒙昧」であって理性とは相いれないと言うことにつながります。それに対して、B16は、キリスト教はギリシャ哲学の理性とパレスティナ宗教の信仰という二つの流れを持っているのでバランスがいいと言っているわけです。今回の発言の要旨は、信仰は、蒙昧頑迷ではなくて、人間に共通である普遍的な理性に従わなくてはいけない、ということです。そして理性に従うことは決して神の意志に反することではなくむしろ神の本性につながるというのです。
これに対して、イスラムでは、キリストのような「人になった神」をたてないので神はまったく抽象的超越的であるから、理性という人間的なものは意味をなさない、という議論が古来からあったという例をB16が引いたので大騒ぎになったのです。この文脈で、イブン・ハズムという人が、絶対超越者である神は、自分の言ったことに責任を持つ必要もない、何でもありだ、と言っていたと孫引きしたのですが、このイブン・ハズムという人は、実は非常に主知主義的なイスラム神学を批判した人だったわけです。前述したように、キリスト教神学がギリシャ理性主義を取り入れたのは、イスラムの学者たちによる古典ギリシャ哲学の発見のおかげであったぐらいですから、イスラム世界はすごく知的で理性的な流れの伝統(アヴィセンナやアヴェロエスなど)があり、蒙昧とはほど遠かったのです。しかし誰かが理性的になると、原理主義や狂信の側にふれる人も必ず出てくるわけで、神は絶対不可知の存在だからすべての理性的議論を無化するという人も出るのです。
B16は、アヴィセンナなどが信仰を理性的に語ったことに触れずにイブン・ハズムの言葉を出したものですから、まるで、イスラムは理性的でない、キリスト教は理性を重んじる、みたいにとられてしまったということですが、別に一般向けの講演でなかったのでそのへんが誤解されるとは思わなかったのですね。趣旨は、宗教や信仰の問題を力で解決してはならない、理性で解決しようということで、宗教者としての自戒だったのですが。
ややこしいのは、B16は、蒙昧主義は原理主義や聖戦主義(これはイスラム原理主義やテロリストに限らずキリスト教原理主義や十字軍の侵略や異端審問の蛮行も含めて)批判しているのですが、同時に、理性主義や近代主義の行き過ぎが招いた信仰やモラルの喪失や相対主義の罠に対しても、同じくらいの危機感を持って批判していると言うことです。 特に、ヨーロッパ近代は、キリスト教自体を母胎にして生まれた事情があります。絶対的一神教とちがって、キリスト教の特徴は、人であり神であるというイエス・キリストという仲介者をたてて、そこに聖霊も加えて三位一体の神を信じるところです。
「絶対神」対「人間」の関係の時は、神が絶対王権みたいなもので、神の言葉は一方的に通告、神罰も一方的、だったのが、人間であるキリストを通じて、少しずつ人類という議会が王と交渉できるようになったという見方もあります。王権の一部委譲、立憲君主制みたいになって、教義の解釈や適用に柔軟性が出てきた。悪く言えばご都合主義、良く言えば時代や人類の文化、政治、科学の発達などの条件に合わせて宗教を発展させてきたわけです。しかし、こうして民衆を王宮に招き、人間を神の領域に招いていると、少しずつ、民衆は王を必要としなくなり、人間の「理性」は「超越的な神」を必要としなくなっていきます。近代理念を生んだ「啓蒙主義」の時代は、無神論をも生んだのです。
そして、それが「西欧の神」と「西欧の無神論」であった次代は、まあ同じことの裏表というか表裏一体をなしていたので、互いに支え合って共存できたわけです。しかし、ポストモダンの時代になって、多文化多宗教が混在してくると、文化相対主義というのが生まれ、西欧的キリスト教にとっては、実は、これが「無神論」よりも深刻でやっかいなものでありました。なぜなら、すべてを相対化してしまうと、「絶対神」も、「絶対善」も「真理」も、「絶対理念」も、「民主的多数派の支配」も意味をなさなくなってしまうからです。それでもまだ冷戦のイデオロギー対立があった時代は、仮想敵や善悪がはっきりしていたのですが、そしてJP2も自由陣営側で戦えたのですが、冷戦が終わると、「キリスト教無神論」よりもっと始末の悪い「相対主義的無神論」が自由陣営に蔓延している現実に目を向けざるを得ませんでした。それと戦うために、冷戦下の自由の戦士だったJP2は、晩年には頑迷な保守主義者と言われてしまうのです。
B16もそうです。主知主義のインテリで、第二ヴァティカン公会議でもカトリックの近代化のためにがんばった彼は、JP2が倒すことに成功した「マルクス主義的無神論」の後で、今度は資本主義世界の「ポストモダン無神論」と戦わなくてはなりませんでした。B16は教皇になってから大きく言って三点で「反動」姿勢を打ち出しています。
まずJP2が認めたダーウィン主義の見直し、科学の中に「知性ある摂理」を盛り込もうとするニュアンス、遺伝子医学への批判などです。第二に啓蒙主義批判、理性はキリスト教的限界と共存すべきであること。第三に、政教分離の侵犯というか、遺伝子治療に関するイタリアの国民投票で信者にボイコットを呼びかけたことです(効を奏しました)。
まあ、大手宗教のトップがこの手のことを言うのは、ノーマルというか、それはまあいいのです。問題は、「西欧近代」とともに、少しずつ政教分離して非宗教化してきたと思われていた世界で、1970年代の終わり以降、イランのホメイニ革命に象徴されるような原理主義的傾向があちこちで台頭してきたことです。そして、「ポストモダン的無神論」と戦って保守化するキリスト教も原理主義的カラーを帯びて、イスラム原理主義と競合するように見えることです。それで、「一神教同士の内輪争い」などと言われたり「宗教が悪い」と言われたりして、「ポストモダン無神論」の倫理なき拝金主義や歯止めなく環境を破壊する産業主義が野放しになる現実があります。
この状態を、近代主義理念を創った「キリスト教無神論」の哲学の側から見てみると次のようになります。
世界のコンセプトには二つあり、その一つは、宇宙は精神と物質とに分けられるというものです。たいていの独裁者や独裁体制はこのコンセプトを採用します。なぜなら、独裁を、従属させられている側が「理性的に批判」するのを封じるために、自分たちの独裁の権利は「超越的なもの」によって保証されていると言うためです。それが無神論の共産主義国家でも同じです。彼らの独裁を保証するのは神でなくとも、イデオロギーでもいいのです。だから法治国家によって追われることを恐れる独裁的指導者たちは、キューバでもボリビアでもイランでも、けっこう連帯し合ったりするのです。
もう一つのコンセプトは宇宙には一つの実体しかなく、エネルギーも精神もマチエールの中に含まれているというもので、社会をオーガナイズするには、その宇宙の調和を自分で考え出さなくてはなりません。これが宗教指導者や理想主義者や国家主義者や民族主義者を含むグループで、自分たちが価値観やルールを創出できると信じています。それを押し付けるために血を流すのもいといません。
しかし、この世界の諸問題、政治的暴力や経済的不公平を解決するには、そのような原理主義者や独善主義者や覇権主義者たちに殺し合いをさせて多くの犠牲者を出すほかないのだろうか。我々は、火にかけた牛乳が煮こぼれるのを防ぐために見張るように、彼らの暴走を常に見張っていなくてはならない。
このキリスト教無神論の見方では、B16の反動もイスラム原理主義者の反応も同じカテゴリーで、神の代理人のような宗教指導者やイデオロギーの化身みたいな扇動者は等しく「要注意」ということのようです。「我々」という彼らの宇宙のコンセプトがどちらなのかははっきりしません。これは『シャルリィ・エブド』(風刺週刊紙)のフィリップ・ヴァルの意見で、彼は、『シャルリィ・エブド』がムハンマドのカリカチュアを掲載したのは、キリスト教側からのイスラム批判のためではなく、価値観の押し付けに対する表現の自由のためだけであったことを強調したいわけです。確かに『シャルリィ・エブド』はキリスト教や教皇や政治家のカリカチュアはもっと派手に、時には悪趣味に出し続けています。
理性と信仰のバランスの問題は確かに大きな問題ですが、バランスの問題だけではないような気もします。精神と物質とか精神と肉体の問題も同じです。それが離反していると自覚してしまう人間だけがその統合も必要とするのかもしれません。「知・情・意」という言葉がありますが、知性と感情の他に、意志をもって進んでいくには、ある光に照らされる必要があるのでしょう。その光を求めたのが「啓蒙」思想だったのだとしたら、その光を守っている限り、啓蒙思想のいろいろな展開は、キリスト教無神論もふくめて価値を持ち続けていると思います。
同じ光が宗教のリーダーたちを照らしてくれることを願いましょう。
さて、ヴァティカンは、時期外務大臣にフランス人のマンベルティ枢機卿を任命しました。彼はコルシカ人の父を持ち、モロッコのマラケシュ生まれ。イスラムにも強く、ラテンにも強い頼りのありそうな人物で、パリの政治学院を卒業、パンテオンのパリ第二大学法学部で公法の学位も持っています。
今回のB16の「失言」について、B16は発表するすべての文を自分で書き、最後の最後まで自分で推敲するので、担当官がチェックする暇がないという指摘がなされていました。現在の世界の宗教的緊張の中で、一国の首長がその発言にどんなに気を使っても使い過ぎでないというのは正論です。しかし、教皇は政治ではなく聖霊によって選ばれ聖霊によってインスピレーションを得ているはずの宗教の長でもあるので、外務担当官の用意した無難なコミュニケばかり読み上げるとしたら、たとえ「失敗」や「揚げ足取り」を避けられたとしても、何か大切な部分を失う気がします。
馬鹿げた自主規制や行き過ぎた政治的公正がはびこる世界では批判的精神は痩せてしまいます。B16は経験ある神学者で、理性の行き過ぎと信仰の行き過ぎの両方を戒めて試行錯誤している人なので、信ずるところを自由にしゃべってもらうのは悪くないと思います。「次の選挙」だの「お世継ぎ養成」だのを心配しなくていい世界で唯一の首長なのですから、時々メディア的に墓穴掘っても、それで世界中の人にようやく注目してもらえるのだから、どんどん平和主義的正論を言ってほしいですね。JP2は二〇世紀末にカトリックの蛮行をいちいち謝罪して回っていました。その後から出発するB16にはまた彼なりの使命があるのでしょう。
ともかく、誰がどこでどんな「失言」をしたとしても、「復讐」を唱えて暴力を行使するのは間違いなのは確かです。それを言うのすら遠慮しなくてはならないとしたら、表現者が生きていくことはできないでしょう。これからのB16の言説に引き続き注目したいです。しかし「失言」だけじゃなくて聞くべきことをたくさん言っているのに、最も注目されるのが「失言」とは皮肉ですね。
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