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哲学・宗教質問箱

16Sekko:2005/10/14(金) 23:40:22
グノーシスについて
 「代替療法のあるものが持つ負の側面がグノーシスと関連しているような気がして」というところは興味深いですが、質問との関連がいまひとつ分かりません。フランス語でagnostique といえばほとんど無神論と同義なので、誤解されると困りますが、私は基本的に、「超越的なもの」は感じてもいるし認めてもいるし、必要だとも思っていますが、地上的な形では私には理解不可能だとも思っているので、理解しようとも思わず、アグノスティックで暮らしています。だから「グノーシス的知識」を所有している(と称する)人を探そうとも頼ろうとも特に思いませんし、自分の中の「神的なもの」を抽象しようとも発展させようとも別に思いません。ニューエイジ思想と親和性があるせいか、グノーシス系カルトがあまりにも多いので、警戒心の方が強いです。私にとってはグノーシスの代替になっているのが理性とか知性です。信仰がそこに加われば磐石ですが、信仰の方は、私からはアクセスできないけれど、向こうからはアクセスしてくれている呼びかけを認めることで知性に意味ができる、といったものでしょうか。
 それで、もし秘教的スキルを持った誰かに難病を治してもらったらということですが(半分じゃやな気もしますが)、もちろん感謝すると思いますが、それでその人を宣伝しまくるとか、人に勧めて回るとか、帰依するということは多分ないと思います。ただし好奇心に駆られて、他のケースを観察したり、その人のウオッチングを続けたリ、「意味」を探ろうとはするかもしれません。これまで、難病はないですが、身体的な危機に陥った時が二度あり、その時に思ったのは、何とか治りたいとかこれが治れば魂を売り渡してもいいなどということではなく、これが楽になるなら死んでもいいとか、こんな状態だったら生きている意味はないなあかのどちらかでした。同時に、こんなにあっさり生の執着がなくなるなら、本当に死ぬ時も、割と楽かも、と自分で驚いていました。
 私も痛いのや苦しいのはもちろん嫌ですが、薬や手術もほんとは嫌だし、巡礼や奇跡のグッズや奇跡の療法とかにも全然惹かれません。シスターとかのお手伝いをして感謝される時には、これからもお手伝いできるように、私ができるだけ長く「頭がはっきり、体がしっかり」の状態でいられるよう祈ってくださいとはお願いしますが、そして、少なくとも何人かの方は多分ほんとに祈ってくださっているはずなので、そういう「プロ」の祈りが効かなくなればあきらめもつくかと思ってます。
 そういえば、MLにこの夏に会った人の話を書いたことがあるので、ここに一部再録します。

 「私はこの夏、癒しの超能力を持っているという男性に出会いました。能力に気づいたのは40歳で、今78歳で、生きているうちにそのメカニズムを私に伝えたいという話でした。そのとき、原因不明の全身の痛みに何年も苦しんでいる女性を救った話を聞きました。治療を施す前に、今までの生き方を反省して世界観を変えてもらうことが必要だそうです。それがあまりシビアな話なので、本当にそれをクリアする人なら治っても不思議じゃないと思いました。それくらい「なんとしてでも治りたい」という本人のモティヴェーションが要るのだそうです(軽いのは簡単に治せるらしいのですが)。私は「自分が
苦しんでたとしたら、こんなおじさんに説教されて自己批判するような気力はないだろうな、」とすでに負け組の気分で聞いてました。同行した友人のTVのディレクターは腱鞘炎がひどいからといってその場で治してもらってました。私も、痛いとこはなかったのですが、しいて言えば、唇にできたメラノーゼ(老人性のシミ)をとりたいけど、といいますと、水の入ったペットボトルを開けて手をかざしながら彼に携帯で電話したら、水にエネルギーを注入してあげるから、それでシミをなで続けると必ずとれる、と言われました。ほっとけば真っ黒になる、完全に真っ黒になった人も治したことがあるとも言われました。広がったらメラノーマで癌の一種ですから、ちょっと違うと思いましたが。
それで私がどうしたかと言いますと、ご想像通り、シミが消えなくても別にいいや、と思って、携帯に電話しなかったのです。せっかくエネルギーを入れてもらっても、毎日手当てするのも面倒だし、そんなに努力する気があるなら、私のところにはルルドの水やザムザムの水や各種聖水「癒し水」がすでにいろいろあるのですから。
(顔の欠点がすべて消える確かな方法は鏡を見ないこと、とも言われてますし)
母には、自分が使うからやってもらっといてよ、と言われたのですが、母は昨年病気をして以来、自分の健康が世界の最優先事項になってしまっていて、「生き方の反省」なんて不可能な自己チュウのモードで生きてるので効かない気もしたので。でも、母はルルドの水で毎日マッサージをしてるというので、モチヴェーションは高いかもしれません。まあ、何をしても治る人も治らない人もいて、たまにすごい根性で病や痛みをねじ伏せる人もある、といった感じでしょうか。ちなみに母は西式健康法の信奉者で、幼いころ右手を心臓の上に45分上げているという「行」をして、それから右手を上げるたびに「電気がきて」、それで子供たちのちょっとした傷や痛みをいつも取ってくれたそうです。そんな行をしたから神経がおかしくなったんじゃないかとも思えますが。」
 というものです。この夏ご親切に提案してくださったNさん、ご期待に添えなくてすみません。でも、絶対治せるという人に会ったり、そういう話を聞く度に、私が感じるのは目くるめくような不公平感なのです。そういうチャンスもなく苦しみながら死んだ信仰深い人とか、痛い治療を繰り返してよくならず絶望したり、医療過誤や薬物中毒の被害を受けた人とかのことが思われて。
 それに、癒しの能力がある人のことを認めると、呪いというか、人を病気にする能力がある人のことも認めざるを得なくなります。まあ、癒しの方が、相手に治りたいというモチヴェーションのレセプターがある分、能力が発揮しやすいと期待しますが。もし、私に突然、癒しの能力が授けられたら、不公平感に苦しめられながらも、できるだけたくさんの人を助けたいと思いますが、そこにセレクションの観点が入ってくるかもしれず、まあ、だから、そんな誘惑につながる能力は私にはない方がいいと思います。そして、そんな癒しの恩恵を受けられない大多数の人たちの側に立って、それでも、生には何か超越した意味があって、痛い人と痛くない人、苦しんでいる人と苦しんでいない人、そして多分死んだ人と生きている人の間にも同じ風が吹き渡っていると語っていければと思います。あまり返事になってないかもしれませんが、また他の皆さんの考えもお聞かせ下さい。


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