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哲学・宗教質問箱
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:
:2005/05/12(木) 02:57:46
生かされることの「気づき」
「亡くなった人の分もがんばります」という言葉が受け入れられる場面は、普通、志を同じくした仲間同士がいて、そのうちの何人かは志半ばにして捨て石として亡くなり、「自分たちの死を無駄にしないで志を果たしてほしい」と言い残し、それを受けて、残された仲間ががんばることを誓う、というシーンではないでしょうか。だから、別に互いの面識のなかった事故の犠牲者同士が、「亡くなった人の分も生きよう」というのは、本来、誤用というもので、違和感を感じる方がいらっしゃるのは当然だと思います。しかし、誤用であろうとなかろうと、大事故から生還した人がそのショックから立ち直るためとか、理由のない罪悪感から逃れるためとかの「手立て」としてそのフレーズが機能するならば、それはそれで良いと思います。
また、大事故の生還者は少なくとも一時的には出来事の「証人」として生きることを要請されてしまいます。匿名でなく、突如としてパブリックな存在になるわけです。つまり一種の「責任」が生じてくる。世間は、こんな人に、一週間後に酔っ払って線路に転落して死ぬとか、児童無差別殺人をやるとかしてもらいたくないわけです。「あんなやつならあの時死んだ方がよかったんだ」とか「あんなやつがあの時生き延びて、別の立派な人が死んでしまったのは不条理だ」とか、世間から価値判断が下されることを、「証人」はプレッシャーとして感じていて、「生還した」という「選ばれた人間」に恥じないように生きます、という意味もあるのでしょう。そうするとその裏には、亡くなった方は「選ばれなかった人」という価値判断が入ってくるので、それに違和感を感じることもあるのだと思います。(もっともアウシュビッツでランダムに餓死刑を宣告されたユダヤ人男性が自分には家族があって、と助命を乞うた時、コルベ神父が私には家族がないから私を、と身代わりを申し出て代わりに死んだという有名なエピソードがあります。この時助かったユダヤ人だって、結局ガス室で死ぬ確率は高かったわけですが、ホロコーストを生き延びた上、すごく長生きして、コルベ神父が福者や聖人の称号を獲得する度に証人として登場しました。こういう話を聞くと、「いただいた命を大切に」という言葉がぴったりですし、死んだ者が「負け組」という単純な判断は崩れてしまい、それが人間ドラマのおもしろいところですが。)
ともあれ、そのような価値判断を保留するとしたら、この言い回しのもとには、もう一つ、「幸不幸の総和は同じ」という、よく知られた人生観があります。どんな人も死ぬときにはプラスマイナスゼロになるようにできている、若くして大きな幸運を得た人は晩年に苦しむとか、金があっても家庭運に恵まれないとかいうやつです。これを敷延して、ひとつの家族の中で、若くして死んだメンバーがあれば、残った人がその人の分も長生きする努力をするとかになりますし、同じ事故に遭遇した人々の寿命の合計は遭遇しなかった場合と同じで、生き延びた人は夭折した方の寿命の分をいただいたのだから体を大切に、という発想にもつながるわけです。これも、人生における「不当感」を納得するための「手立て」として多くの人に共有される知恵の一つとして機能しているのでしょう。
けれども、いかにあれこれ理屈をつけようと、人生の幸不幸や事故における生死を分ける規則は、多分、存在しません。ある人が、健康に気をつけようと、精進しようと、努力しようと、自堕落でいようと、害虫のように嫌われていようと、実は、幸も不幸も、病も事故も死も、大局的には「すべてランダムに起こる」のです。日ごろの行いも、血液型も、生まれ月の星座も生まれ年の干支も、みな異なる人たちが同時に、いっせいに命を失う航空機事故などを見ても明らかです。戦闘機に乗っても死なない人もいるし、自転車に乗っていて事故死する人もいます。もちろんそういう不条理の前で人は「運命」を口にしたり、「神のみ旨」を口にしたりして、何らかの「意味」を探るわけです。そして戦争や大事故などで生き延びた人は、そういう「運命」との取引の意識を強くし、処世観が変わるのでしょう。
たしか、90代で現役医師の日野原重明さんは、50代でよど号ハイジャックを経験した時に死を覚悟して、生きて帰れたら余生は人のために尽くそうと思われた、と読んだことがあります。大病から回復された方がその後で大きな仕事をするという話も聞きます。それはその人の個性でもありましょう。「もうけものの命だから、余生は思いきり享楽的に生きよう」と思う人だって多分いるに違いないからです。失くしたと思っていた大金入りの財布が思いがけず出てきた時に、一度失ったものだからと思って金を慈善事業に寄付する人も、ないものだと思って散在してしまう人もいるでしょう。しかしその「なくした財布」の物語が、「生と死がくっきり別れた大事故」などのように社会性を持っていたり、歴史的事件が個人の人生を横切ったような場合、人は個性だけで行動を決定できないで、何らかの「分かち合い」を必要とするのかもしれません。
ちなみに、この「亡くなった方の分も生きよう」というのが「日本的心性」かどうかを確認するため、数人のフランス人に聞いたところ、「そういう言い方は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人がよく言っている」と言われました。ナチズムによる明らかな「人災」で無実の600万人の同胞が殺され、その犠牲を無駄にしないように、繰り返されないように努力しよう、というわけで、「長生き」もそこに入り、「犠牲」は同胞の長生きの「代価」でもあります。そこで「普通よりうんと長生きする」と決意するとしたら、それはナチスの平均寿命とユダヤ人の平均寿命の総和を同じにしようという、例の「総和は同じで納得する」バランス感覚による不当感の解消や、一種の報復意識もあるのでしょう。
ここでどうしても思い出すのは、田川健三さんが、今の大学生には全然理解してもらえないとおっしゃっている福音書の中の例の葡萄園のたとえ話です。朝から日没まで働いた人の日当が1デナリオンで、午後から働いた人も、日没の一時間前に雇われた人もまた1デナリオンもらえたので、一日中働いた人が文句を言ったという話です。葡萄園の主は、最初から1デナリオンの約束でその通り払うのに何の文句があるのか、自分は自分の金を好きなように支払う権利がある、というようなことを答えます。
田川さんは、たとえば1デナリオンは日雇労働者が一日生き延びる最低の賃金だと想定し、日没近くまで仕事にありつけなかった人は、その日飢えて外に寝るしかなかったところを、最後に雇ってもらえて最低賃金をもらえたのだという趣旨のを解説します。十分の一の賃金では生きていけないからです。キリスト教的発想は、たとえば労働量に見合う賃金というメリットの発想でなく、すべての人が人間らしく暮らせるように、一日中働ける強い人や朝に仕事を見つけた運のいい人は、働けない人や職のない人と賃金を分かち合っても当然だというのです。なぜなら運や力の強い人の強さは、自分の徳ではなく、たまたまそうであっただけであるからです。でもこの話を聞くたいていの学生は、一日中働いた人が一時間の人と同じ賃金では「働き損」という、損得勘定でとらえて不当感を抱くのだそうです。
聖書には「神は与え、神は奪う」という有名な文句もあります。幸福な生活から一転、全てを奪われた義人が決して神を呪わないで、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と受け入れる話です。確かに、どの人も、生まれ育って生きているのは、自分の意志や能力によるのでなく、世界や他者との関係性の中で生まれ、育ててもらい、生かされているのですから、個人の努力やメリットに応じて死生観を打ち立てるわけにはいきません。いろいろな宗教には、徳を積めば救われる、天国に行ける、解脱できるなどのいわばポイント制になった行動規範もありますが、この世における不当感を相対化して平穏と諦念に導く理論もたくさんあります。
ひとつ思うのは、たとえばユングが「宗教は心理療法のシステムであり、(教会は)精神的な問題の全体を表現する強力なイメージ群を所有する」と言ったとしても、宗教は治癒力や意味付けだけでなく、やはり、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」、という永遠の問いを誘い、支え、その答え探しに同行する機能をもっているだろうということです。その問いは「私はどこから来てどこへ行くのか」でなく「我々」という関係性の中でしか深さを獲得できません。
事故の生還者が、「亡くなった人の分も・・・」と口にしてしまうのは、実は、事故があろうがなかろうが、自分は他者との関係性の中で生かされているのだという「気づき」の言葉でもあるのではないでしょうか。
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