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哲学・宗教質問箱
53
:
Sekko
:2006/04/24(月) 01:22:42
ユダの福音書〈続き〉
ユダの福音書ですが、最近読んだコメントでは、それが「全ては宇宙的デザインにしたがってオーガナイズされていた」というグノーシス的世界観に傾くところが問題だとしていました。正典の福音書もよく見れば、イエスがユダに「しようと思っていることをしなさい」と言ったり、最後の晩餐のあの雰囲気で、ことの次第を見抜けなかった他の11使徒の方がお間抜けな感じです。オリーヴ山でのあの苦しみを見ても、イエスは次の日に逮捕されても「驚いた、ショックだったよ、弟子に裏切られて。晴天の霹靂。」というような状態じゃないですね。それにもちろん旧約の預言の成就というグランド・デザインがあるわけです。だから、『ユダの福音書』のようなテキストが嘗て流布していたことは不思議じゃないし、そんなにスキャンダラスじゃないですね。
アングロサクソン国でまた騒ぐとしたら、ひとつは「復権ブーム」もあります。「ダヴィンチコード』が女性原理だの女神だのマグダラのマリアだのの「復権」を書いたように。
また、ピューリタン系プロテスタントが、聖人伝系テクストを否定してきたので、「外伝」と聞くとすわ「秘密の伝承」と色めきたつ事情もあります。実際は、このユダの福音書が発見された洞窟文書は66ページ、13の手稿があり、そこにはヤコブの原福音書とかペトロの手紙とか、アロゲネスの書〈そのテキストの2つは1946年のナグ・ハマディ文書と重複)とかあるんですが、たとえばヤコブの原福音書が、ヨセフを老人の姿で描く伝統のもとになっていたり、別の、偽マタイ福音書とかが、イエスが馬小屋で生れ、馬やロバに囲まれていたという伝承を流布させたのだということは知られています。正典が採択された4世紀ごろには頃には、さまざまなテキストが出ていて、外伝となった後も実際は伝承の中で生き続けていたわけです。しかし、そういう枝葉を取り払ってできたプロテスタント世界では、外伝がメディアに出て来るたびにスキャンダルになったり、それを政治的宗教的に利用しようとするグループがでて来るわけですね。
しかし、よく考えると、ユダの「裏切り」はすでに旧約の成就というグランド・デザインの中に位置づけられていたのですから、単純に「悪者」と見なされていたわけではありません。ボルヘスのように、「人類全てを救うためにもし神が屈辱を必要としていたのなら、真のメシアは沈黙のユダである」といった人もありました。裏切りもまた、神に対する人間の自由のひとつの表現だと見る意見もあります。ユダのおかげで、キリスト教世界の人は、いろいろな自問や思索を余儀なくされ、「裏切り=悪」という二元論的で単純な断罪の誘惑と戦ってきたのだと思います。
裏切りといったら、他の11使徒も、イエスが殺されるまでちりぢりになって逃げて知らん顔していたのですから、これもひどい話です。80歳で弟子に囲まれ食あたりで死んだ釈迦に対して、33歳で弟子たちに裏切られて死刑になったイエス、それでそれが神の子で、そういうパラドクシカルなところがこの宗教の人間的魅力になってます。それを、「今まで悪人とみなされていたユダは、実は善人だった」という単純な「実はいいやつ」復権話で矮小化されたくないという感じですね。
そして、ユダヤ教をキリスト教に接ぎ木するためのアクロバティックでパラドクシカルなグランド・デザインを、「全ては宇宙的な予定調和」という形でニューエイジ風に拡大希釈してしまうのも、また魅力を半減すると思います。それに危険でもあります。前世がどうとか先祖の霊がどうとかと言われるのと同じで、判断力や思考力の求められる余地がなくなるので。ユダやペトロのせいというか彼らのおかげで、キリスト教に陰影がもたらされて、永遠にじたばたするのは人間的でいいかも。
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