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哲学・宗教質問箱

18Sekko:2005/10/20(木) 05:32:27
それなりに
 なるほど、そういうわけだったのですね。哲学的不快さというのは、すごいですね。でも、ある意味、傷ついてる人は感受性が強くなっていて、直感的にそういうことを見抜くのかもしれません。フランスで仏教の講義をしてるフランス人と話したときに、慈悲をcompassion と訳すのはよくない、キリスト教では、イエスがともに苦しんでくれるからcom+passion でいいが、仏教では、苦しみが取り除けるのだから、もっと優れているのだ、と言われたことがあります。でも、よく聞くと、苦しみの原因になっている執着を取り除くとか、痛みのある実相の世界を虚と認めるというような、精神のアクロバットがあって、今ここで苦しんでいる人の多くはそんな努力をする気力がそもそもあるだろうかと疑問に思ったことがあります。イエスが一緒に苦しんでくれるというのも、ただのレトリックだと思えるかもしれませんが、同病の体験談を読んだだけでも、気が軽くなったりすることはありますから、誰かがずっと痛みに寄り添ってくれていると思えるのは、悪くありません。「希望は捨てずに、期待はするな」が、最近の私の生活哲学と前に書きましたが、「期待をするな」が不幸の回避の第一の智恵かなあと思うことがよくあります。
 ある状態が、悪化したとき、以前できていたことができなくなったとか、何かが壊れたとか、傷ついたとか、失くしたとかいうとき、まあ、できる範囲で部品を変えたり、修理するのはもちろんいいにしても、どこかで、「別に前のとおりに戻らなくてもいいじゃないか」と認めるのは、大事なことだと思います。確かに人間の自己イメージには慣性が働いていて、たとえば「若くてきれいで健康で」あった自分のイメージを結構引きずっているのに実際は多くのものが変化しています。そのずれも把握しないうちに、世の中には「もっと美しい、もっと能力のある本当の自分があるはず」などという言辞があふれているので、多くの人は、「前にあって今はないもの」の幻想と、「あるけれどまだ見えていないもの」の幻想の狭間で、「あるがまま」を2重に収奪されているのではないでしょうか。
 私の「あるがまま」「とりあえず」「それなりに」快適にやっていくお手本は、やはりうちの3匹の猫たちです。あちこちからたたき出されても、ティッシュ1枚落ちているのを見つけたら、とりあえず、その上に丸くなって、それなりに満足。2匹がいがみ合い、すごいストレスの基に生きているはずで、こちらもはじめは何とか昔の平和を回復しようとして、ありとあらゆることをやり、疲れ果て、もうあきらめてしまって、ふと見たら・・・別に解決したわけでなく、悪いままなんですが、なんと言うか慣れてしまって、
別に開き直ったとかいうのでなく、抵抗するのをやめたら、別の見え方もあるし、そのうちその実態に近い低レベルの「自己イメージ」ができて、いやあそれなりに落ち着いて、新たなちょっとした喜びとかもあるもんだ・・・というのが私の現実です。というと、あまりにもさえませんが、そこはそれ、それなりに、エントロピーを上げられるところは上げているんですよ、ほとんどニューロン・レベルだけですが。でも、外部が崩壊していくと、結構内部は充実していって、悪くないですよ。とにかく、paraitre から etre へ、
これが「真実があなたを自由にする」ってことの意味じゃないかなあとか思います。


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