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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
幽霊画
釈由美子が好きさん
http://www.dentan.jp/nezu/yanaka9.html
全生庵は一度訪ねましたが、まだ円朝の幽霊画コレクションは見ておらず、いつか行こう
と思っています。
『怪談』は、一箇所だけ、ギクッとしたところがありました。
映画を見ながら、ヒロイン豊志賀の怨みと崇徳院の怨みと、どっちが怖いかな、などと考
えているうちに、ふと、なぜ実朝は怨霊にならなかったのか、不思議だな、と思いました。
怨霊となって鎌倉で大暴れしてよい条件はすべて整っているのに。
怨霊の必要条件は、不条理な死因に誰もが同情するという共同幻想の存在かと思いますが、
実朝の怨霊が話題にならないのは、こういう共同幻想が欠落していたのかもしれませんね。
このあたりが、実朝没後の鎌倉の世情のよくわからぬところなんです。後鳥羽より実朝の
怨念の方がずっと怖いような気がするんですが。
実証は出来ないでしょーが。
>筆綾丸さん
実朝は『吾妻鏡』では、大変立派な青年将軍として描かれてますわな。
源家3代つーのは、鎌倉中・後期の武士達にとって「神様」になってたんでないでしょか?
頼朝と実朝は「立派な神様」、頼家は「荒ぶるメーワクな神様」。
神様だから、怨霊になンてならない、と。
>はぎつきさん
>とっても面白いですね!
でしょ?
怪異とか
繁田信一「陰陽師」(中公新書)、
動物が入り込んで怪異とみなされ、陰陽師に占わせて……というくだりを読んでいて、
平安貴族てのはよっぽど生活観なかったんだなーと思っていましたが、
覇府鎌倉でもやってたのですか。
ばかばかしいと思うのはわれわれには一般常識として自然科学の知識があるからですが、
その範疇から出たことに対しては、その対応は中世人とあまりかわらないのでは、とも思います。TVでは毎日、陰陽師の占のかわりに学者先生や解説委員の話をうかがっていますし。
……なに判ったようなこと書いてるんでしょうね、自分。
こん、こん。
>信楽さん
>動物が入り込んで怪異
『吾妻鏡』文治2年(1186)2月4日条ですな。
子ギツネが頼朝のベッド・ルーム(御帳台 みちょうだい)に入って来ちゃって、占いやったらよろしくなかったので。「荒神供」(こうじんぐ)をやりました、と。
今なら、
「あら、かわいい♪」
で済むんでしょーが。
もっとも、
「警備は、ど〜なってるンじゃ?!」
つー話にゃなりますか?
>陰陽師の占のかわりに学者先生や解説委員の話を
まったくで。
続、こん、こん。
釈由美子が好きさん
そうか、神様なんですね。
http://www.jttk.zaq.ne.jp/baahy704/stratford2.htm
昔の受験英語の神様の本に、こん、こん、とドアをノックされたら、Someone in と
いうのだ、とありました。
叡尊と葉室定嗣の関係が面白そうだなと思い、追塩千尋氏の『中世寺院の僧侶と寺院』
(吉川弘文館2006年6月)を入手しましたが、追塩という珍しい名は、料理で云う「追鰹」
と同じ系列の言葉なのかしらん。
中世神話の成立と政治史。
>筆綾丸さん
>そうか、神様なんですね。
あたくし、マジな話で、頼朝挙兵から承久の乱までを「鎌倉幕府の神話時代」と考えておりまして、特に頼朝と義時は神格化していたのではないか? と思っとります。
んで、この「鎌倉草創神話」が、後の幕府政治史に与えた影響を重視したいのですが、どーやったら、実証的で説得力のある論述ができるか?、なかなかむつかしく。
やれやれな今日この頃でありまつ。
ゴーフキャキューサ
ご無沙汰しております。
メタボリックな私は健康維持のために運動しなければならないのですが、ここ数日は、熱中症で死ぬよりはマシだよね、という口実のもとにサボり気味です。
ま、昨日の最高気温40.9度っていうのはさすがに尋常ではないので、健康に自信のある人も暫くは無理しない方がよいみたいですね。
筆綾丸さんがリンクされているページの岩田一男氏の名前はなんだか懐かしいですね。
自分が受験生だった頃に比べれば今は本当に英語学習のための教材が豊富ですが、私が今どきの受験生にお奨めしたいのは英文読み上げソフトです。
いくつかのサイトで好意的に紹介されていた「ReadPlease」というソフトを半信半疑で試してみたところ、予想していたより遥かに自然に読み上げるので、ちょっとびっくりしました。
後深草院二条に関する英文サイトを読ませたら、Towazugatari が「トゥワズギャタリ」、GoFukakusa が「ゴーフキャキューサ」になったりするのはご愛嬌ですね。
ああ、素晴らしきキャマキュラ時代・・・。
http://www.readplease.com/
http://home.infionline.net/~ddisse/nijo.html #anchor258249
Lady Genki
お盆休みもそろそろ終わり・・・なのでしょうか。
小太郎さんの投稿にあったリンク先でちょっと吹き出してしまったのですが。
>Lady Genki
って、玄輝門院のことですよね?
最初は誰だろうって思いました。「げんき(元気!(^^)/)」という名まえの女性。
Ladyですか・・・
たしかに英語に直しちゃうと、そうとでしか表現のしようがないのでしょうね。
「女院」に類する制度、ヨーロッパ史を見渡してもちょっと思いつかないので。
女院自体が天皇の后妃にも未婚の皇女にも適用されるというような不思議な称号で、
すべての事例を包括できるようなぴったりくる説明がしにくいものがありますね。
註:玄輝門院 藤原[小音]子。洞院実雄の女。後深草后。伏見の母。
>玄輝門院
>藤原[小音]子
「こねこ」て読むンですかね。
だったら、かわいいですね。
The Confessions of Lady Nijo
>むらじさん
Karen Brazell氏の翻訳( The Confessions of Lady Nijo)を確認したところ、玄輝門院が「東の御方」として登場していた時期から、すでに「Lady Genki」にしてますね。
欧米で『とはずがたり』に言及する人の大半は Karen Brazell氏の翻訳一冊だけしか読んでいないのですが、1973年の時点で彼女が全訳を出したことは確かに偉業ではあるものの、荒っぽさ・強引さは否めないですね。
参考までに粥杖事件の部分を引用してみます。
--------------------
On the day of the Full-moon Gruel Ceremony,events occurred that were almost more than we women could bear: Not only did His Majesty beat us severely, but he then summoned his attendants and had them strike us too. This annoyed me, and so I connived with Lady Genki to retaliate on the eighteenth by beating His Majesty in return. On that morning, while GoFukakusa was finishing his breakfast, we assembled the ladies in the tray room and assigned each of them to a station. The ladies Shindainagon and Gonchunagon were placed at the door to the imperial bathing room; Betto and Kugo remained outside; Chunagon went to His Majesty's living room; and Mashimizu was stationed in the corridor. Lady Genki and I stood chatting in one of the end rooms.
“His Majesty is certain to come in here,isn't he?" she asked nervously. Then,just as we had expected, he entered the room, dressed informally in wide-legged trousers. His Majesty was blissfully unaware of what was about to happen.
“What's this? There doesn't seem to be anyone in my room. Is anybody here? "??At this moment Lady Genki seized him. “Oh, that hurts. Is nobody here? Someone help !” he called, but no one came.
Morotada was immediately outside the room and made an effort to come to GoFukakusa's aid, but Mashimizu, who was standing guard in the corridor, told him that we were busy and that he would not be allowd in. Seeing that she was armed with a stick, he turned and fled.
While this was going on I beat His Majesty so soundly that he apologized profusely and made a solemn vow: “Never again will I order others to strike you.”
--------------------------------
原文と読み比べると、けっこう面白いですね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa2-2-kayuduenohoufuku.htm
Karen Brazell氏の略歴(コーネル大学のサイトより)
http://lrc.cornell.edu/asian/graduate/EAL/faculty
>釈さん
>こねこ
海外で日本文学研究を始めたばかりの人が読んだら、本気にすると思われまする。
大女と小男
釈由美子が好きさん
玄輝門院の名を漢和辞典でみますと、左伝や文選や後漢書に用例があり、奥深く静かで
安らかな様とあり、音としては、イン・アン・オン、訓としては、よし、などとあり
ます。女院の御名は、父ちゃんの実雄を、さねお、と訓むとするならば、さねこ、と訓
じたのではあるまいか、そうなれば、こねこ、の友達になれる、などと妄想しました。
小太郎さん
His Majesty の「Is anybody here?」という御下問には、「Someone in.」と答える
のがエチケットかと思いますが、 Lady Genki はいきなり羽交い締めにしたわけですね。
この描写から推量できることは、Lady Genki は大女で、His Majesty は小男であった
可能性がなきにしもあらず、ということでしょうか。
http://www.nikkei-bookdirect.com/bookdirect/item.php?did=17077
さきほど、高橋昌男『中世しぐれ草紙』(日経出版2007年6月)という歴史小説を読み
ました。
14世紀初頭の洛中洛外が舞台で、大覚寺党と持明院党の対立抗争を描いたものです。前者
は権中納言洞院宗秀を首領とした秘密結社(暗殺団)を組織し、後者は検非違使別当坊門
道平を首領とした秘密結社(暗殺団)を組織し、相互に暗殺を繰り返す中に、権大納言
正親町公継の娘(しぐれ姫)と前近衛大将菊亭季治の忘れ形見(瓜生丸)の悲恋を配し
・・・というような話で、随所に?という感じでしたが、最後には驚きました。
持明院党の松尾帝が譲位し、大覚寺党の笠置帝が即位したが、この笠置帝とは幕府の将軍職
にあった守顕親王で・・・ときます。あの時代の政治史として、将軍から天皇へという栄達
の道(?)は可能性としてゼロであって、こういう設定は夢物語としても不可能だろう、と
思いました。
小男について。
>筆綾丸さん
>玄輝
左伝に出ているとは知りませんでした。どのくだりだか・・・って御存知ですか?
>小男
『増鏡』第五 内野の雪のさいごのほうに、
正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御いみな久仁と申す。いとあてにおはしませど、余りささやかにて、また御腰などのあやしくわたらせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、なほいとあさましうおはしましけるを、閑院内裏やけけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内裏の焼けたるあさましさは何ならず、この御腰のなほりたる喜びをのみぞ、上下思しける。
とあるように、「小柄で腰が悪く、閑院内裏が焼けたとき立てたので上下皆喜んだ」というくらい、身体にはハンデがあったみたいですね。
亀山はたしか美丈夫だったでしょうか。
父帝の後嵯峨も、私の中では美丈夫の部類に入るのですが。
そうすると、小柄というのは生母の大宮院から由来したものでしょうか。
おなじ西園寺腹の玄輝門院は大女だとすると・・・
いやいやきっと。レディ・元気ですから、体格のいかんにかかわらず、勢いで抱きついたのかもしれないですね。
・・・と、こういうつまらない当て推量には、ヒントの少ないクロスワード・パズルのような楽しさがありますね。
・・・あ。ぜんぶヨタ話ですよ(笑)。
『増鏡』の本文をのぞいては・・・
>中世しぐれ草紙
これは面白そうですねぇ。
公卿たちのなまえがいまいちウソくさいのが惜しいですが・・・
琴の空音
むらじさん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87
脚萎え(?)の話で思い出すのは、池で舟遊中、白鳥の鳴き声を聞いてはじめて言葉を
発した、という誉津別王の啞の話ですね。ホムツワケは垂仁の長男ですが、皇位は
異腹の三男(景行)に行くのですね。ホムツワケの母(狭穂姫)は、兄(狭穂彦)に殉じて
焼死します。
後深草の脚萎えが治る理由は、嘘のような話と云うか(たぶん嘘だと思いますが)、
きわめて異常で、記紀との類似性が有るような気もしますね。『増鏡』の作者ともなれば、
記紀など大略暗記してるはずで、後深草の身体描写に何かを暗示したのかもしれぬ、と
いう感じもしてきますね。肉体的コンプレックスが政治や恋愛に及ぼした影響如何?
閑院内裏の焼亡がなければ、つまり、脚萎えのままであれば、践も登もできぬから、
践祚登極はなかったろう、というような意趣含みの表現といいますか・・・。
以上のような言い方は、今日、憚りがありますが、あえて書いてみました。
畏るべき諸橋大漢和に拠りますと(巻四の1118頁)。
? 安んじ和らぐさま。
(左氏、昭公、十二年)祈招之○○、式昭徳音。
祈招の○○として、式、徳音をあきらかにす(私訓)
? 和らぎ悦ぶさま。
(文選、琴賦) ○○琴徳、不可測兮。
○○の琴徳たるや、測るべからず、ああ(私訓)
? 奥深く静かなさま。
(胡茄) 空断腸兮思○○。
空しく腸を断つ、ああ、思い○○(私訓)
? 沈黙のさま。
(唐書、杜譲能傳) 朕不能○○度日。
朕、○○として日を度るあたわず(私訓)
玄輝門院は、不吉な?と?ではなく、?か?の佳例に拠るのでしょうね。
西園寺家は音楽の家だから、琴の徳の音は、平仄があっていますね。
『中世しぐれ草紙』には、久我内大臣頼忠とか、執権北条高敏とか、西園寺入道相国実道
とか、小倉山帝とか、音羽上皇とか・・・面妖な貴顕が色々登場します。
日出処の関白。
>筆綾丸さん
>高橋昌男氏『中世しぐれ草紙』(日経出版2007年6月)
ご紹介の ↑ これ、むらじさんもおっしゃる通り、おもしろそーですね。
小説は、荒唐無稽でも、おもしろけりゃ良いわけで。
「暗殺団が相互に暗殺を繰り返す」というのが、そそります。
今度、読みます。
>執権北条高敏
↑ この人は、得宗なんでしょか?
だったら、時政以来、初めて「時」の通字が付かない得宗になりますなァ。
>将軍から天皇へという栄達の道(?)は可能性としてゼロ
元が日本侵攻に成功して、西日本を占領してたら、惟康親王が即位してたかも、であります。
西国から大挙して逃げて来た長袖貴族達が、武力もないのにエバって、がちゃがちゃ口出しするので、キレた時宗が貴族達を大量虐殺して独裁政権を樹立、執権から関白に就任。
元の傀儡政権である西国王朝と時宗率いる東国王朝(つまりは鎌倉幕府)の間で、第2次承久の乱勃発! ・・・・・というよーな小説描いたら、おもしろくないですかね?
歴史小説
釈由美子が好きさん
久我内大臣の次男が執権高敏の一の腹心である長崎正則の娘を娶った、という記述も
ありますが、得宗のような得宗でないような・・・。
久我内大臣は、中納言の頃、宜秋門院との情事で宮廷を騒がせた、という記述もあり
ますが、時代が違うとは云え、宜秋門院は実在の人ですから、後鳥羽さんの逆鱗に触
れるかな、と思いました。
持明院派と大覚寺派の抗争を描いた歴史小説を、私は他に知らないのですが、我が国
で初めての試みでしょうか。
東西両王朝の戦争という小説、いつかお書きになってください。真っ先に読ませてい
ただきますね。
内ゲバ。
↑ こんな言葉、今の大学生くらいの年代の人々の大半は、きっと知らンのでしょーなァ。
>むらじさん
>閑院内裏が焼けたとき立てた
「クララが立ってる」というヤツですな。
>筆綾丸さん
>持明院派と大覚寺派の抗争を描いた歴史小説
「暗殺団が相互に暗殺を繰り返す」というのは、江戸幕末の京都における各セクトの殺し合い、暗殺合戦からの着想なんでしょーかねェ?
14世紀初頭も、幕末にゃ違いありませんからして。
忙しいのに、どん! どん! 読みたくなって来てしまった。
綿の脚
釈由美子が好きさん
新撰組の追跡をかわす桂小五郎幾松御両人の姿を、私は思い浮かべました。
後深草は、後鳥羽や土御門とほぼ同じく、四歳で即位したのですね(1246年1月)。
閑院内裏の焼亡は、宝治3年(1249)の2月だから、脚萎えが癒えるのは七歳ですね
(蛇足ながら、この一連の火災は、佐渡院の怨霊に起因するようですね)。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124900.html
『葉黄記』で、即位後の大甞會御禊の模様などを読むと、後深草の体は不自由では
なかったような感じがします。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/124610.html
脚萎え(les jambes en coton =綿の脚)であれば、後深草は、即位の時、独りで
高御座に登れなかったろう。身体にまつわる制度的なものの存在はわからぬながら、
不自由な体に、四歳の即位はありえたろうか、忌避されたのではあるまいか。身体の
異常性に対する制度的な圧力のようなものは、中世という時代、非常に強く働いたの
ではないか。不自由な体は何かの祟りであり、そのような人が皇位を継承するのは、
あの時代の政治哲学としてありえないのではないか。
『増鏡』には、何か作意があるような気がします。後深草の身体描写は虚構ではな
いか。なぜかはわからぬのですが。
抗争。
>筆綾丸さん
>持明院派と大覚寺派の抗争
実際は、抗争つーても、やってることは「幕府へのおねだり競争」ですから、平和つーか、かわいいモンですよね。
物騒なのは、正応三年(一二九〇)三月に伏見天皇が暗殺されかかった浅原為頼事件(http://jparchives.sakura.ne.jp/incident/medieval/db/1290_fusimiansatsu.html )くらいでせう。
その点、鎌倉幕府の政治抗争は、ホントに殺しますからねェ。
しかも、江戸幕末のテロ合戦みたいに動乱期の熱に浮かされてのものと違って、恒常的に殺し合ってますから、マジ、ヤバイですわな。
さすがは、東夷。
もっとも、朝廷だって、奈良時代の貴族・皇族間抗争は、まさに血で血を洗うモノでしたが。
[参考文献]中川収氏『奈良朝政争史―天平文化の光と影―』(教育社、1979年)
むか〜〜〜し、紹介しましたが、↑ これ、ちょー! おもしろいっす。
幕府へのおねだり競争?
持明院派と大覚寺派の抗争って
これ、南北朝の争いですよね。
なんで、これが、平和でかわいいんだ。
それに、南北朝の合一は、交互に皇位を継ぐという話だったのに、
北朝がこれを破り、南朝側は、後南朝を建てる。
そして、後南朝の二人を暗殺して、本当の意味で南北朝は終わるのである。
『恋時雨稚児絵姿』
>筆綾丸さん
>むらじさん
カメ気味レス、すみませぬ。
似せ絵の一例である『天子摂関御影』という作品が残されているのですが、それを見ると後嵯峨院・亀山院・後宇多院・伏見院がほぼ同じくらいの体格なのに対し、後深草院は明らかに小さく描かれていて、後深草院が小柄な人物であったのは確かみたいですね。
『増鏡』の閑院炎上の場面、話が面白すぎるので私も事実とは思えないのですが、微妙な記事ではありますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu5-gofukakusatenno-genpuku.htm
『徒然草』第33段を見ると、玄輝門院は聡明で思慮深い女性だったようです。
『とはずがたり』の粥杖事件での活躍ぶりは、監督二条による演出だと思いますね。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-33-imanodairi.htm
>『中世しぐれ草紙』
私は高橋昌男氏の名前を知らなかったのですが、1935年生まれで、『三田文学』の編集長を務め、何度も芥川賞候補となっている練達の小説家なんですね。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/kogun/kogun78TM.htm
『中世しぐれ草紙』は「鎌倉末期の京。公卿邸で出会った美しい姫君と吉野山の稚児の恋が、宮中の陰謀に火をつける−。上方で出版された読本のひとつ、『恋時雨稚児絵姿』なる中世譚の現代語訳。作者未詳の戯作を恋愛心理小説として自在に訳出」した小説だそうで、この『恋時雨稚児絵姿』というのが気になりますね。
http://www.maruzen.co.jp/shop/item_detail.html?item_cd=MJ07061190&category_cd=30100160130
>松本さん
はじめまして。
>なんで、これが、平和でかわいいんだ。
『中世しぐれ草紙』が出発点で、鎌倉末期の話をしている訳でしょ。
京都の鎌倉への陳情合戦など「平和つーか、かわいいモンですよね」という釈さんの評価は別におかしくないと思いますが。
話が転がってきたな。
>小太郎さん
ども。やっぱ、読みたいですな。でも、読むより、書くのが忙しいっす。
>松本さん
らっしゃい。
分かり難い書き方で、すんません。
↓ で、小太郎さんも書いてくれてる如く、私が言うてるのは、鎌倉末期の話です。
南北朝は、おっしゃるよーに「歌書よりも軍書に悲し」で、抗争つーよりも、戦争そのものでさね。後村上天皇なんか、御自ら鎧着てますし。
後南朝は、悲惨過ぎです。
鯰尾
釈由美子が好きさん
http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/nendai/128900.html
http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/nendai/129000.html
??4月 胤仁親王、物心つかぬまま、立太子
??(この間、異賊警固の執達、火箭の如し)
9月 亀山院出家
(緻密な布石か、将又、定石破りの奇手か)
同月 惟康親王、都へ配流、嵯峨で出家
(落飾後、逍遥、徐に大覚寺の門を蹴飛ばし、秉燭之頃、帰庵)
10月 久明親王、仏頂面で、鎌倉へ下向
(この間、飯沼助宗、玉響の我が世の春を謳歌)
12月 何故か、円覚寺焼亡
??3月 浅原為頼、蹶起・割腹、叛意は春の朧夜の如し
(この間、宰相中将折檻、濡衣か)
10月 一遍、笑うが如く、示寂、釈尊、嘉し給い、風花舞う
こう、恣意的な時系列を作ってみますと、非常に象徴的な事件と思われるのは、円覚寺
の焼亡ですね。これは放火で、浅原の蹶起を促す狼煙なのではあるまいか。北鎌倉の空
を掩う黒煙は、反得宗の黒幕(って、誰?)のようだ。狼煙から蹶起までうかうか間延
びしてしまい、これが事件の背景を不分明にした、というところが、怪我の功名(?)。
三条家伝来の名刀「鯰尾」ですが、瓢鮎図のように、つるつるすべって、これでは腹が
切れまい、と思いましたが、杞憂のようですね。
浅原の次男は腸を全部ぶちまけていますが、割腹時の武士の嗜み(?)を示すこの表現
は、文献上、かなり早いものでしょうか。
久明親王下向の時に、女騎狩装束とあり、騎馬の女性がいたのですね。親王将軍の行列
とは云え、女性の乗尻とは珍しいですね。
小太郎さん
小松茂美氏の『天皇の書』(文春新書)所載の法皇晩年の書と、『増鏡』の幼少時
の身体描写を比べますと、落差がありすぎるんですね。書と身体に相関関係などな
いだろうとは思うものの。
高橋昌男氏は、あの複雑怪奇な時代をよく小説にしたものだと、まずそのことに驚き
ました。
というところで。
折しも、播磨・美作の国境である杉坂峠に行ってきました。
周知のように、後醍醐天皇が隠岐への配流の途次、ここの関を通り、児島高徳が帝を奪還しようとして失敗した、という場所です。現代では、ほとんど人跡未踏のような土地になっていますが、かつては山陰方面との重要な交通路として栄えたようです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003579.jpg
天莫空勾践、時非無范蠡。
てんこーせんをむなしゅーすることなかれ。ときにはんれーなきにしもあらず。
>kariさん
>児島高徳が帝を奪還しようとして失敗した、という場所
つまり、高徳が ↑ の詩を書くために自然破壊をおこなった場所ですな。
後醍醐には、この手の「忠臣」が多いのに、人材の使い捨てが目立ちますよねェ。
旧日本軍みたい。
>筆綾丸さん
年表を改めて見させて戴くと、持明院統の久明の鎌倉下向に、大覚寺統があせり、結果、引き起こされたのが、浅原事件・・・・・みたいな発想に、私はなります。
無粋な上に、単純なんですな。あたくし。
アップ情報♪
むらじさんが、今話題の、
高橋昌男氏『中世しぐれ草紙』(日本経済新聞出版社、2007年6月)
の書評を書いてくださいますた。
是非、ご覧下さいませ。
http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/shosekishoukaishigure.html
この即応性がネットの利点♪
感服
むらじさんの、いつもながらの見事な書評、感服致しました。
随所に、むらじさんの慧眼が感ぜられますが、
「わたしのなかで久我頼忠の姦計はイアーゴウのそれなのであり、瓜生丸と公幸との剣を
交えての対決はハムレットとレアティーズのそれであり、かみ合わない男女の感情のもつ
れは『夏の世の夢』や『十二夜』等々のそれと同種のものなのである」
というところは、さすがですね。私などはぼんやりしていて、全く見抜けませんでした。
kariさま
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200702250016.html
今年の冬、隠岐国分寺が焼け、蘭陵王の伎楽面も焼失したようですね。
公爵近衛文麿揮毫の石碑と、跡地に近接する闘牛場が、とても印象深かったですね。
http://www.renkeijiku.net/roman/html/roman/shimane/shi_s04.html
黒木御所の碑は、誰の書か、忘れましたが、背後の崖は鳶が営巣しやすそうでした。
御写真の中で、斜行的な石積みの壇が、私には珍しく思われるのですが、これはこの
地方独特のものですか?
話の続き。
編集長さま。
さすがに詩を刻んだという桜の木は残っていないようでした。
むしろ刻んだからこそ、枯れちゃったのかも・・・。
筆綾丸さま。
この石積みには私もぎょっとしたのですが、ちょっと謂れがあるようです。
実はこの石碑の右隣に顕彰碑が建っており、発願者は津山出身で三代目の早稲田大学学長・平沼淑郎、連名には兄の平沼騏一郎(時に枢密院議長)、他に宇垣一成、犬養毅が見えます。碑は昭和6年(遷幸600年記念)のものですから、犬養にとっては暗殺される一年前にあたります。こうした錚々たる人々の肝煎りで、何らかの意匠が凝らされたということでしょうか。ただ、この手のものは私も見たことはありません。むしろ、古代寺院の基壇などを思わせるところがありますね。
御礼とお知らせ。
本日は、栃木県歴史文化研究会大会にご参加くださいまして本当にありがとうございました。
この掲示板を見て参加された方々もいらして本当に盛況でした。
講師の入間田先生もとても喜んでくださいました。また来年も開催いたしますので、
皆様お待ち申し上げます。
さて本日は講演会のお知らせがございます。
?栃木県中世考古学研究会第9回研究会
日時 平成19(2007)年10月27日(土)午前10時から午後4時
場所 上大羽交遊館(栃木県益子町大羽・地蔵院前)
参加費 2,000円(資料代・昼食代等)
内容
午前10時開会
10:10〜11:20 地蔵院の勢至・観音菩薩像について大澤慶子氏
11:20〜12:00 益子氏について 鴨志田智啓
12:00〜1:00 昼食(お弁当を用意いたします)
1:00〜1:30 地蔵院出土の中世瓦について 大澤伸啓氏
1:30〜2:00 茨城県の中世瓦との比較 比毛君男氏
2:10〜3:00 討論
3:00〜4:00 地蔵院の見学
午後4時解散
参加申し込み 斉藤 弘氏にメールまたは葉書にて、下記までお申し込みください。
メール bxf04042@watv.ne.jp
??葉 書 〒326−0338 栃木県足利市福居町602
にお申し込みください。
その他 翌10月28日(日)には、益子の史跡や寺院の見学会も行います。宿泊を希望
する方は一緒にお申し込みください。(宿泊代は、約1万円)
? 茨城大学人文学部・地域史シンポジュウム
北関東の武士(もののふ)たち
ー新しい中世武士団のイメージー
日時 平成19(2007)12月9日(日)
午前11時から午後5時まで
場所 茨城大学水戸キャンパス理学部インタビュー・スタジオ
アクセス JR水戸駅より茨交バス(7番乗り場から)約15分 「茨大前」バス停下車
基調講演
『坂東武士』の実像 野口 実氏
報告
「関東武士団の研究の軌跡」 伊藤瑠美氏
「常陸平氏 再考」 高橋 修氏
「東国武士団と都鄙間の文化交流 内山俊身氏
ー下総下河辺氏と関戸の宝塔ー」
「武士団と町場ー下野小山氏ー」 松本一夫氏
「武士団と寺院、門前町 田中大喜氏
ー上野新田氏と世良田長楽寺ー」
コメント 糸賀茂男氏
パネルデティスカッション 酒井紀美氏
高橋 修氏
問合せ 茨城大学人文学部 高橋修研究室 029−228−8120に
入場無料です。申し込みも不要です。
皆さんふるってご参加ください。特に2番めのシンポジュウムは、このアーカイブスでも話題なっていることがディアルタイムで聞けますね。このシンポジュウムでさらに深まればよいと考えています。
皆様にお知らせ申し上げます。
問答無用! 撃て!
>kariさん
>むしろ刻んだからこそ、枯れちゃったのかも・・・。
ははは。きっと、そーですよ。高徳、なんて罪深い。
>犬養にとっては暗殺される一年前にあたります。
う〜む。なんと言ってよいものか・・・・・?
テロルの時代でしたねェ。
>筆綾丸さん
>斜行的な石積みの壇が、私には珍しく思われるのですが、
さすが、目の付け所が違いますね。
あたくし、上ばっか見てて、石段に目が行きませんでした。
観察力が無いなァ。いかん、いかん。
>相国入道さん
ども。
>この掲示板を見て参加された方々もいらして本当に盛況でした。
お役に立てたなら、ひじょーに嬉しゅうござりまする♪
追福
kariさま
なるほど、そういう事情があったのですか。
積石が南朝の廷臣を象徴する骨(肋骨か何か)のように見えてきますね。
釈由美子が好きさん
『吾妻鏡』元久2年(1205)5月12日に、美作国神林寺に、故幕下将軍家追福の為、三重の
塔婆を建立せんとした、という記述があって、主語は誰か、なぜ美作国か、神林寺の所在
は何処か、なぜ三重なのか、神林寺と頼家との関係如何、などと考えますと、なぜこの
記述があるのか、さっぱりわからないですね。
クイズ再開しました。
お話しに割り込んですみません。日本中世史アーカイブズにあるコミュニティのクイズ、本日第2回目をはじめました。よろしくお願いします。
平沼兄弟
>筆綾丸さん
確かに後深草院の書は決して弱々しくはないですね。
リンク先の解説では、「後深草天皇の遺墨の多くに見られるごとく淡墨で、また筆力もたくましい。持明院統と大覚寺統という皇統を巡る争いのなか、自らの皇統を守ろうとした天皇の気性の強さがあらわれている」などと言われているのですが、「気性の強さ」まで読み取るのは若干無理がありますかね。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/fujii/051201/HomePage/kaisetsu18.htm
>kariさん
kariさんの写真を見ると塔身に何か書かれているのかと思ったのですが、窓の形に彫ってあるだけでしょうか。
私は何となく九段会館(旧・軍人会館)のような帝冠様式の建物を連想しました。
建立が昭和6年だとすると、設計者の美意識への影響という点で、まんざら的外れな感想でもないのかなと思います。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/tsuyama/mimasaka.htm
http://www.town.sayo.lg.jp/kanko/kanko/mokuteki/sightseeing.html
>平沼淑郎
ウィキペディアと平沼赳夫代議士のホームページを見たところ、淑郎が兄で、騏一郎は弟ですね。
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ここで祖父と普段、呼び慣れている呼称で書いたが騏一郎は終生、独身であった。私の母は、騏一郎の実兄で、早稲田大学の学長をした平沼淑郎の孫に当たり、小さい頃より騏一郎に可愛がられて、実の子の如く育てられた。その関係で私が現在騏一郎の跡を継いでいる。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_01.html
--------------------------
同ホームページによると、淑郎は
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津山市の生まれ。1923年より約15年にわたり早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献した。商学部校舎の1階に、朝倉文夫作の胸像がある。平沼の学徳を慕う商学部卒業生により寄贈されたもので、その逝去にあたり会津八一が追慕した「言念君子、温其如玉( ここに君子をおもえば温としてそれ玉のごとし )」の風貌を漂われている。また、第3代学長として、早稲田騒動直後の対立・抗争の収拾にあたった。学外では、社会経済史学の全国的組織「社合経済史学会」の創設にあたり初代代表理事となって活躍した。
http://www.hiranuma.org/japan/gallery/family02.html
--------------------------
とのことですが、「社合経済史学会」は多分モトにした資料をOCRで読み取った際のミスで、正しくは「社会経済史学会」でしょうね。
>相国入道さん
できれば行を詰めてもらえるとありがたいです。
携帯で読むときはちょっとつらいので。
>I さん
リンクを張っておきますね。
コメントの「くれぐれもこのヒントで当てないでください。回転がはやくなると苦しいです」には笑いました。
実際、かなり切実な問題ですね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
ええと。
小太郎さま。
塔身の文字は「杉坂史蹟」の四字です。
また、ご訂正ありがとうございました。津山は、医師や学者など、近代日本に貢献した人々を多く輩出していますね。
筆綾丸さま。
美作国の神林寺は現在の真庭市にあります。ですが、美作の中世史料は極端に少ないので、周辺の事情はよく分かりません。現地では「美作守護の梶原景時が三重塔を建立した」という伝承があるようです。もっとも、その時の守護は和田義盛ですが。
http://www1.harenet.ne.jp/~yutaka3/jinnrinnji/index.htm
「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」再開♪
生き仏研究者I氏が、ラーメン屋さんの「冷やし中華、はじめました」みたいな感じで、書いてくれておりますよーに、「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」第2戦を開始いたしますた。
ふるって御参加くださいませ♪
でも、マニアックでっせ。ひっひっひ。
すでに小太郎さんが書いてくだすってますが、あたくしもリンクしときますね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
>筆綾丸さん
神林寺なんですが、『吾妻鏡』には、元久2年(1205)5月12日条にしか出て来なくて、私も知らなかったンですが、kariさんもお書きくだすってるよーに、ネット情報ですと、
「源頼朝が梶原景時を奉行として堂塔を建立した」
とあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-maniwa-kuse-zinrinzi.htm
この辺が関係するンでしょーか?
たいしたことがわかんなくて、すいません。
あと、元久2年(1205)5月12日条の原文は、
美作国神林寺内、奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆、
仍寺僧等申材木事等、仍今日可採用當国杣山之由、所被仰下也、
ですが、現代語訳すると、
「美作国の神林寺の中に、故幕下将軍家(源頼朝)の追福のために三重の塔婆を建てることを思い立たれた。そこで(神林寺の)寺僧たちが材木の事などを申し上げた。そこで今日当(美作)国の杣山(の材木)を用いるようにということを、御命令になったところである」
となるはずですので、「奉爲奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆」の主語は、当時の将軍である実朝で良いと思います。
>kariさん
どもです♪
断腸亭日乗
kariさま
ご丁寧にありがとうございます。
釈由美子が好きさん
ご丁寧にありがとうございます。
頼家は変だな、と思いましたが、故幕下将軍家=故右大将家=頼朝ということなの
ですね。実朝、そして、源家にとって重要なお寺だったようですね。
小太郎さん
後深草は、譲位から出家までの三十三年間、日記を書き継いだそうですが、ふと、断腸亭
日乗を思い出し、偏奇館主の面影が法皇と重なってしまいました。
世は棄てた、だからもう、日記など無意味だ、という法皇のお言葉は、荷風散人の言草の
ようで、面白いですね。
洛北の旧家の土蔵から、『水草宸記』の一部が発見され、13世紀後半の京鎌倉をめぐる奇妙
な事件の数々が次第に明らかになる、というようなサスペンスを、有能な作家が書いてくれ
ないかな、などと思っています。
後嵯峨の書は帝王らしく豪奢なもので、この書風は持明院派に流れて大覚寺派に伝わらず、
すくなくとも書においては、持明院派のほうが優れている、という感じがしますね。他の
分野、たとえば、恋愛、政治、音楽、学問、宗教、体育等は、わかりませぬが(笑)。
重代の物の具
いろいろ話題が転がってきて、目が離せなくなってきましたね。^^
>筆綾丸さん
過分のおほめ、ありがとうございます。
>シェイクスピア
きっとだれが読み流しても、きっと筆綾丸さんだけは目に留めてくれるだろうと思っていました(笑)。
>小太郎さん
後深草院の筆跡
たしかにイメージとかけ離れていますね。
ただそもそも、筆跡と人格とはどこまでリンクするものなのか、そのへんのところはどうなんでしょうか?
筆跡でいままでいちばん笑えたのは、
公家の総本山のはずの後醍醐の豪放な筆跡と、もともと鎌倉武士であるはずの足利尊氏の女性的ともいえる流麗な筆跡とのコントラストでした。
ちなみに、大人しくて控えめな私は実に粗暴きわまる自体の持ち主です(結局そこかい)。
>釈さん
>「冷やし中華、はじめました」
このノリには、大爆笑!
レスだけではつまらないので、今朝起き抜けにふと思ったことなどを。
家重代の物の具、って、ありますよね?
いうまでもなく、先祖代々伝えてきたヨロイカブトなんですが。
江戸時代はともかくとして、鎌倉武士のあいだではどれほど珍重されていたのでしょうか?
こちら方面は疎いので、平安末期の「源太の産着」とか、武田家に伝えられた新羅三郎義光の「盾無の鎧」くらいしか思いつかないのですが。
もしも鎌倉時代に「重代の物の具」を保有している武士がいたとしたら、二通りだと思うのです。
ひとつは、鎌倉将軍家とか、北条得宗とかいった、超一流の家の嫡々の家。
もうひとつは、熊谷次郎直実や佐野源左衛門常世みたいな、「三ちゃん」御家人。
(パパとボク。それだけ とも言う)。
初代の人とかが着ていた鎧は、その後子孫がどんなに繁栄したとしても、子孫どうよう増えることはありませんから、庶流に伝えられる機会は少なくなります。
北条家なんかは「私の家は評定衆になれるんです!」という家だけでもごろごろしているわけですが、義時や泰時が着用した鎧兜には数に限りがありますから、そうそうどの家にもいきわたる・・・というわけにはいかないですよね?
そうすると、なまなかな北条諸流では持っていない「重代の鎧」を、その他大勢の痩せ御家人は持っている・・・という珍?現象がごくふつうにあり得たのかな・・・と思ったのです。
評定衆北条某が持っていないものを、そこらへんの痩せ御家人がふつーに持っている。
それが「重代の物の具」の姿だとすると、物の具じたいによほどの由緒がないかぎり、
単に古いというだけでは必ずしも重視されたり珍重されたりしなかったのだろうか?
え?よた話もほどほどにしなさい・・・って?^^;
ええ、たぶんよた話だとは思いながら、書いているんですが。(^^ゞ
起き抜けって、しょうもないことをマジになって考え込んだりしますからねぇ。
そう、仕事モードがさめやらないいま時分とおなじくらい(苦笑)。
しょぼい御家人は、
>むらじさん
ビンボーで新製品はなかなか買えないので、ボロくなっても簡単に捨てたりできず、代々、だいじにだいじに武具を使い、結果、重代の物の具になってしまうつーことはなかったンでしょかね?
つーか、武具って、いくらぐらいしたんでしょーかねェ?
太刀(たち)や長刀(なぎなた)なんて、消耗品ですから、お手頃価格でないと困りますよねェ〜〜〜。
馬じゃって、「ヒヒン」と鳴いてメシ喰ってウンコしますが、今で言えば、チャリンコや原チャリみたいなモンですから、そーバカ高くはないと思うンですが。
>筆綾丸さん
>源家にとって重要なお寺だったようですね。
この辺が、もちょっと具体的にわかると良いのですが、隔靴掻痒な感じでございまする。
ごぶさたです
釈由美子が好きさん、どうもこんにちは。あ、いや、こんばんは、ですね。
先日は早とちりしてスミマセンでした。
そのー、ちょっと聞いてみたいんですが。
あ、いや、無理にと言いませんよ、勿論。
もしも、知っていれば・・・です。
刀と槍だと槍の方が強く。
それでも武士が刀を持っていった理由は、
刀は敵と戦うものではなく、首を胴体と切り離すためだった。
敵を倒した後、首を刎ねて、その首を見せて褒美をもらうため、
というのは、本当でしょうか。
ごっさまあ
久明親王鎌倉下向時の「女騎」が気になり、『吾妻鏡』をみると、建仁3年(1203)
9月29日、頼家修善寺下向時に、女騎十五騎、とあるのですね。
久明親王にとって、「女騎」は佳例にならないと思いますが、そもそも、将軍の下向
(遠出)には、女騎が必ず随行するものだったのかしら。
儀式上の意味は? 女騎の馬の毛色は?・・・などと考えると、気になって寝られませぬ。
むらじさん
後醍醐の書は、単刀直入、下手ですよね(笑)。もう少しなんとかならなかったのか
・・・というような。
サイデンステッカー氏が亡くなったのですね。
高校生の頃、受験英語にうんざりして、川端の『雪国』の英訳を読み、よくわからぬ
ながら、綺麗な英語だなあ、と感じたことを思い出しました。
『蜻蛉日記』に、gossamer という訳語を与えたのも、氏でしたか。
ゴッサマーは東北地方などで時々見られるそうですが、いちど見てみたいな。
・・・サイデンさん、お好きな落語を聴きながら、日本の地でゆっくりおやすみください。
>刀と槍だと
>松本さん
あたくし、鎌倉幕府政治史が専門でして、知識の範囲が狭いのは、自他共に認めるところでございます。
↑ の件は、戦国くらいの話と拝察しますので、いい加減なことは言えませぬ。
つーか、良く知らないし。
なにしろ、鎌倉時代にゃ、槍がありませんので。
一般的な話として、槍のが長いので、刀よりゃ強いでしょね。
もっとも、いわゆる斬馬刀みたいなチョー長い刀もありますし、使う人の技術もありますからねェ。
斬馬刀、その道の第一人者の方に聞いたところによると、実戦で使ったみたいです。
>筆綾丸さん
女騎て、具体的に、どんなのか、全然わかりせぬ。
刀と首取り
横レスですいません。
>松本さま はじめまして
>武士が刀を持っていった理由は、
>刀は敵と戦うものではなく、首を胴体と切り離すためだった。
この話、鈴木眞哉さん(注1)の著作「刀と首取り」(平凡社新書)で読んだことがあります。鈴木さんは軍忠状等を解析して、鉄砲伝来前の合戦での死因は弓矢によるものが殆ど、鉄砲伝来後は鉄砲によるものが殆どで、刀傷が致命傷になった場合は殆ど無いと書かれておられました。
槍ではありませんが、飛道具が主な武器だったということです。
刀が唯一武器として使われたのは、(江戸の)幕末、新選組とかの尊王攘夷運動においてですね。
(注1)鈴木眞哉さんは、第3回史料講読講座で釈さまが紹介くださった、「偽書『武功夜話』の研究(洋泉社新書y)」で藤本正行さんと伴に著者になっている方です。
なるほど。
>NAO4@吟遊詩人さん
レス、ありがとございます。
>刀傷が致命傷になった場合は殆ど無い
>飛道具が主な武器だった
なるほど。そーゆー話でしたか。
>鈴木眞哉さん(注1)の著作「刀と首取り」(平凡社新書)
存在は知ってましたが、未読であります。ありがとございます。
骨のある風景
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/118008.html
吾妻鏡治承4年(1180)8月25日条の前段、俣野景久と甲斐源氏の一戦に尽きますか。
俣野党は、百余張の弓弦を鼠に食われ、太刀で応戦するも矢石に負けて逐電した、と。
この鼠は、調略か何かで内通した裏切者に弦を切られた、ということかと思いますが、
安田党の「剱刃を免れず」とは、矢数が尽きて敵が突撃を敢行すれば、おっとり刀(?)
で白兵戦とならざるをえない・・・。
http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=STXKC0479%2021082007&g=K1&d=20070821
以前話題の九戸城ですが、頭骨のない人体はともかく、手足の刀傷は太刀によるものか
どうか、この記事だけではわからないですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%B0%9A
森林太郎の義弟の弟子が、鎌倉の材木座から発掘した人骨群には、相当の刀傷があった
そうですが、刀の種類と傷の部位が気になりますね。
骨のある怖い地名
それは中尊寺の荘園、骨寺村。
http://ww21.tiki.ne.jp/~honedera/
>kariさん
>「杉坂史蹟」
ありがとうございます。
自分で検索してリンクしておいた写真を見ると、一番上は明らかに「杉」ですね。
何故か人名が彫ってあるものと思い込んでいた自分が恥ずかしい。
「日本のいちばん長い日」に、平沼騏一郎は約二十万冊の蔵書を誇る私設図書館(無窮会)に逃げ込んで叛乱部隊の襲撃を逃れた訳ですから、書物に命を救われたようなものですね。
http://www.hiranuma.org/japan/talk/fire_04.html
財団法人無窮会
http://www.mukyukai.jp/
>むらじさん
>足利尊氏の女性的ともいえる流麗な筆跡
一般論としては筆跡と人格は必ずしも結びつかないとしても、尊氏の書と例の有名な伝足利尊氏像(騎馬武者像)はおよそ接点がありえない感じがします。
>筆綾丸さん
>女騎
国文学研究資料館の「国文学論文目録データベース」で検索すると、「『女騎あまた』の記事」(安井久善、「季刊ぐんしょ」10号、1990 /10)という論文がひとつだけひっかかりました。
わずか5ページ、しかも 「ぐんしょ」だから本当に短いものでしょうが。
真景累ケ淵と水運
筆綾丸様 釈由美子が好き様
「怪談」御覧になりましたようで。
私も地元がらみでしたので、ホラーは大嫌いの女房を引っ張って、シネコンへ。三遊亭圓朝によって下総羽生(常総市羽生)の伝説が怪談話となる、さすがはシェークスピア、と単純に圓朝を褒めるだけでなく、圓朝がいかにあの話を仕入れたかに興味がもたれました。鬼怒川水運は物資・年貢だけでなく面白話も送ったのでしょう。千姫ゆかりの弘経寺、真宗横曽根門徒の報恩寺もあり、その当時は独特の雰囲気があったのでしょう。新五郎やお園が働いた河岸のロケ地は、実際の鬼怒川とほぼ平行してながれる小貝川の河川敷のようです。また、豊志賀のお墓のロケ地(新五郎とお久の再会した場所)は天台宗関東檀林の逢善寺(稲敷市)です。
感謝です
NAO4@吟遊詩人ありがとうございます。
そうか、やっぱり本当だったのか。
「刀と首取り」(平凡社新書)ぜひ読んでみます。
「相撲は葬送儀礼として始まった」(by 松浪健四郎文部科学副大臣)
朝日新聞によると朝青龍問題にからめて松浪文科副大臣が、
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「協会は、伝統、歴史、文化を言う資格はない。相撲は葬送儀礼として始まったのに、元横綱の琴桜(先代佐渡ケ嶽親方)が亡くなった時も、相撲も土俵入りもしなかった」と批判。
http://www.asahi.com/sports/update/0829/TKY200708290261.html
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したそうですが、何じゃこれ、と思って新田一郎氏(東大相撲部監督)の『相撲の歴史』(山川出版社)を引っ張り出し、最初からずっと読み直したところ、同書29頁以下に、
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(前略)『日本書紀』の皇極玉天皇元(六四二)年七月、百済より来朝した使者智積(ちせき)を迎えた際に、健児(宮廷の衛士)らに相撲をとらせた、という。この相撲については、従来ともすれば、百済の使者の饗応のための宮廷でのもよおしと理解されがちであったが、この記事には「百済使人大佐平智積等を朝(=宮廷)に饗す」とある一方、「健児に命じて、翹岐(ぎょうき)の前において相撲をとらしむ。智積等、宴おわりて退き、翹岐の門を拝す」とあることに注意すべきである。翹岐は、当時在日して河内にあった百済の王族であり、相撲は翹岐の前でおこなわれ、一方、宮廷でおこなわれた饗宴の後に智積が翹岐の門前におもむいて拝礼したというのであるから、この相撲は宮廷における饗宴とは別のものであり、使者の饗応のためでなく、翹岐のためにおこなわれたものと考えた方がよいだろう。じつは翹岐はこれよりさき、五月下旬に子を亡くしており、翹岐の門前における智積の拝礼が、このことに関わるものであるとすれば、この相撲もまた、翹岐の子の葬送に関わる百済の習俗に関連するものかもしれない。
この点について、考古学者の森浩一などは、高句麗の古墳壁画にみられる相撲図像や、日本における力士埴輪の広汎な分布ともあわせて、相撲と葬送儀礼とのあいだに密接な関係があり、それは東北アジアから朝鮮半島を経て、日本にいたる文化の流れに沿うものだったのではないか、と推測している。「相撲の祖」であるスクネ(野見宿禰)がまた埴輪製作にたずさわる土師臣の祖とされていることを、この点とむすびつける論者もある。もっとも、相撲節と葬送儀礼とのあいだには、直接の関連をみいだすことはできず、スクネと埴輪製作との関係も、『日本書紀』ではクェハヤとの「力くらべ」とは別の箇所で語られており、相撲との関連で考えるべきではない、とする指摘もあるのだが。
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とあって、松浪氏もそれなりに勉強しているのだなあと感心はしましたが、まあ、古代まで遡ればそれに類する学説もあることはある程度の話なのに、「相撲は葬送儀礼として始まった」と断定するのは若干変な感じがしますねー。
美作の寺院一題。
先に美作国神林寺が話題になっていましたが、実は似たような例が鎌倉後期にもあります。
美作国の万福寺(津山市東田辺)というところに、以下のような文書が残っています(詳細は、湊哲夫「正応四年寺領寄進状について」『津山郷土博物館 博物館だより』52、2006年)。
黒澤山万福寺
寄進寺領事、
四至<限東小□□(松原カ) 限南笛田 限西土□(無カ) 限北横手>
右、寄進志者、依虚空蔵菩薩厳重殊勝座、奉為関東御祈祷、四至之内、除諸御公事、任先例、奉為寄進之上者、於以後彼寺領等、致違乱煩之輩、堅可処罪科者也、仍寄進状之趣、如件、
正応<二二>年<大歳辛卯>六月日 (花押)
従来、『鎌倉遺文』には近世の『作陽誌』所載の文書写が掲載されていましたが、昨年に新出の原本として紹介されたものです。料紙や字句の不整合さから、鎌倉期のものとするには難しいようですが、異体字を正確に記していることなどから、およそ室町期のものとして良いように思われます。偽作したのか、写なのかは断定できませんが・・・。
で、不思議なことに『美作古簡集註解』巻14にはこれが北条貞時寄進状とされているのですが、花押がかなり違うのですね。貞時のものと判断される根拠は、彼がこの時期の美作国守護だから、ということで、先の神林寺の場合と同様な推定がされているわけです。
でも、ですね。単純に読むと、寺の檀越である在地領主(地頭御家人)による寄進状と考えた方が、はるかに一般的ではないかと思います。神林寺の場合も、地元の御家人が建立したものを、時の守護によるものと読み替えて伝承しているようですが・・・。
つまり、在地の武士による建立 → 関東祈祷寺化の申請、という順序で、神林寺が『吾妻鏡』に記された、その手続き上に守護が介在する、ということなら理解可能です。
ちなみに、上記の史料は美作では最古の中世文書ということになります。
従四位下黄昏少将
kariさま
寄進状に関する御高察、興味深く拝読いたしました。
なるほど、そうか、と時代背景がすこし見えてきたような気がします。
小太郎さん
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/nanntaiheiki.html
難太平記14の赤鳥に、女騎あまた、とあるのですね。神託にからめてありますが、鎮西の
女騎の夢は、神功皇后を暗示してる感じですね。頼家追放時の女騎や久明親王下向時の
女騎との関係はわかりませんが。
怪談じみた名の骨寺村は、いちど行ってみたいところですね。
吾妻鏡の相撲の記述には、葬送儀礼の名残りは感じないですね。和気藹々の八百長じゃ
ねえか、というようなのはありますが。
水戸御史太夫さま
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0611/sin_k330.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
お墓のロケ地が気になりましたが、「天台宗関東檀林の逢善寺」でしたか。映画では、
没年が寛政七年とあり、おや、と思いました。
白河楽翁の改革のあおりを喰らい、筆綾丸(喜多川歌麿)や蔦絡丸(蔦屋重三郎)など
の遊び人は、お奉行様からきついお咎めを受けました。だから、従四位下黄昏少将を死
してもなお恨む、というのではなく、化政の爛熟期のほうが、あの怪談の時代背景に
相応しい、と感じたのです。
岩波新書の、奈良県内の数千基の墓石分類表をみて、角柱型石塔は18世紀初頭に誕生した、
と知りました。東国でも、寛政期であれば、あの形でいいようですね。
なお、源氏の夕顔を踏まえた松平定信の歌ですが、この花は凋むだけで散らぬので、間違
いですね。ただ、散らぬ夕顔をあえて散らせたところに、虚仮皮膜の此の世の不思議を示
す妖しい芸があるかもしれませぬ。
再興中世前期勉強会月例会のご案内
直前の掲示で恐縮ですが、明日、再興中世前期勉強会月例会で田井秀氏が「将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―」という発表をされますので、摂家将軍に興味のある方は是非ご参集ください。
日時:9月1日(土) 14:00〜
場所:滝野川会館 303集会室
東京都北区西ヶ原1−23−3
http://www.kitaku-town.com/map/ki007302
交通:JR上中里駅(京浜東北線)東口 徒歩7分
JR駒込駅(山手線)北口 徒歩10分
地下鉄南北線西ヶ原駅 徒歩7分
報告者:田井 秀 氏
タイトル:将軍九條頼経と北条泰時との確執―五大堂明王院の建立に見る―
コメント:摂家将軍の九條頼経は、北条氏との対立の末に京都に戻されてしまう。それは、宮騒動(寛元の政変)として有名であるが、そこに至るまでの対立は、具体的には、どのようなものであったのか、定かではない。そこで、本報告では、その両者の具体的な対立の様子を、五大堂明王院の建立経過に見出し、以後の幕府政治への影響を考えていこうとするものである。
参考文献:
工藤勝彦「九條頼経・頼嗣将軍期の将軍権力と得宗権力」(『日本歴史』513号、1991年2月)
野口実「執権体制下の三浦氏」(同『中世東国武士団の研究』第?部第二章、高科書店、1994年 ※初出『三浦古文化』34号、1983年11月)
秋山哲雄『北条氏権力と都市鎌倉』(吉川弘文館、2006年)
http://www.toride.com/~czb/
なお、発表者の田井秀氏についてはこちら。↓
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/e/d6a8ab63c9cffc01c665cf4e0cea9194
>筆綾丸さん
すみませぬ。
レスはのちほど。
川場村・吉祥寺
再開された「クイズ・ココはどこ」第1問目は、「回転がはやくなると苦しいです」という I さんの心の叫びも空しく、はぎつきさんがあっさりと正解を出されてしまいましたね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
正解の群馬県利根郡川場村にある吉祥寺は、上州武尊(ほたか)という険しい山の麓にあるお寺さんで、地元では「花の寺」として有名ですね。
ちなみに、最近有名になった自動販売機からもそれほど離れていない場所です。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/dahkhome/NewFiles/degikesiki9.html
http://i329805.town-web.net/04point_03/65kiti/00.html
>筆綾丸さん
リンク先から引用させていただくと、
-----------------
駿河国并びに数十ヶ所の所領は、この後詰(ごづめ)の時の恩賞なり。国々入部(=領地に入ること)し給ひし時、我等少年の初めに供して、富士浅間宮に神拝し時、神女詫して云ふ、「遠江国近くして吾氏子にほしかりしかば、赤坂の軍の時、我告げしことは知れりや知れりや」と云へり。入道殿座を退て「何事にか候けむ、覚悟せず」と申し給ひしかば「笠じるしのことを案ぜし時、我赤鳥を給(た)びし故に勝つことも得、この国を給ひき」と詫宣せしかば、故殿その時思ひ合はせて、「女の具(とも)は軍には忌まふことぞかし、いかで思ひよりせむ。誠に神の御謀」と信を取り給ひしより以来、「我等も子孫も必ずこの赤鳥を用ふべし」と仰せられき。さるは鎮西(=九州)にても大事な陣にては毎度女騎あまた我等(=私)が夢にも見、人の夢にも見えしなり。必ず此の如くの勝利有りしなり。そははや我家の武具の随一になりき。
-----------------
とのことですが、赤鳥って何かなと思ったら、女性用化粧道具のひとつなんですね。
この話の流れからは、鎮西で出てくるのも富士浅間宮のお使いということじゃないですかね。
神功皇后のような地元の女を夢見たら、富士浅間宮側から嫉妬されるのでは。
http://aal.msis-net.com/kamon/kaisetsu/bunrui/kizai/akatori.html
(「家紋百景」というサイトの一部)
お礼
小太郎さん
富士浅間宮のお使い・・・そうか、そういうことなんですね。
化粧道具を図案化した家紋というのは、珍しいですね。
>おのおの方
釈さん、実質上の地下潜行中であります。
レスできず、すんません。
編集長ブログは、最後の砦なので、意地で書いてますが、やっぱレスおくれ気味。
あ〜〜〜、忙し。
なぜ、こんな目にあってるか? は、10月に明らかになるであろう。
>小太郎さん
>最近有名になった自動販売機
ぎゃははは!!! ツアー組んで、見物に行きますか?
それにしても、誰が口火を切るか? と思ってたら、やっぱ小太郎さんでしたわ。
>最近有名になった自動販売機
やっぱり中前勉は武闘派集団ですね(笑)
猫の足跡が付いた須恵器発見
中世関連でなくて恐縮ですが。
??兵庫県姫路市の市埋蔵文化財センターは31日、同市四郷町の見野(みの)古墳群(6世紀末〜7世紀中ごろ)の横穴式石室から、猫のものとみられる足跡が付いた須恵器=写真=が見つかったと発表した。副葬品に動物の足跡が残るのは極めて珍しい。
共同調査する立命館大の学生が杯身(つきみ)と呼ばれる食器(直径15センチ)の内側に、白く丸い肉球らしき跡が五つ並んでいるのを発見した。
センターの担当者は「器を焼く直前に偶然、動物の足が付いたと思われる。埋葬当時は気付かなかったのでは」と指摘。地元の同古墳群保存会メンバーからは「猫好きの権力者のために作ったのかも」との声も。
(2007年09月01日??読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is70901b.htm
天平の亀
http://yamanoguchi.cocolog-nifty.com/blog/
http://yamanoguchi.com/
葛木連戸主と和気広虫を中心に、天平時代の政変劇をめぐる怪異を、軽妙洒脱でやや毒の
ある筆致で描く、歴史小説のようなファンタジーです。
戸主は、氏族にも一人の人間とおなじく寿命があり、葛木氏はわがこと畢り、もはや世を
去るだけの氏族だ、という哲学を奉じて、あをによし平城のみやこの小役人を淡々と勤め
ながら、従五位上紫微少忠という地位にのぼる。広虫は、十代の半ば、備前国藤野郡から
上京し、戸主と知り合い、光明皇后の慈善事業を手伝うべく、夫婦になる。
「三笠山」では、聖武帝に取り憑いた大仏の鋳造の過程がよくわかり、「正倉院」では、
鑾を花蔵の宮に鳴らし蹕を涅槃の岸に住せん、という光明皇后の駢儷体の願文が地の
ユーモラスな文体に象嵌されて独特な雰囲気を醸し出し、「勢多大橋」では、東大寺二月堂
修二会の若水の導き方が波斯国の幻術のように優れていて、「宇佐八幡」では、道鏡没後
の下野薬師寺の言い伝えが哀れを誘います。
びみょーに
掲示板を凍らせてしまったのかも、と不安だった今日このごろ。
水戸御史太夫さんが紹介されていた逢善寺に関して、個人でホームページを作成している方がいますね。
リンク先の「逢善道人墓」という宝篋印塔は、南北朝くらいと見ていいんでしょうか。
(>亜季多さん)
http://www.ushiq.net/~ushiq/houzenji/main12.htm
http://www.ushiq.net/~ushiq/houzenji/main.htm
>釈さん
>10月に明らかになるであろう。
もう発表してもよいのでは。
新刊紹介:佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』
佐藤和彦・谷口榮編『吾妻鏡事典』 東京堂出版 2007年8月20日発行 定価5,000円+税
「吾妻鏡」がもつ、社会史や思想史の史料としての側面にアプローチ。政治と合戦、人名考証、社会史、書誌研究の四部構成よりなり、考古学の視線も加えて解説。(おびより)
内容(目次)
はじめに 【編者】
序説 『吾妻鏡』の編纂者と編纂目的を探る 【奥富敬之】
? 政治と合戦
(一) 治承・寿永の乱 【佐藤和彦】
(二) 奥州合戦 【大石直正】
(三) 比企氏の乱・和田合戦 【樋口州男】
(四) 承久の乱 【櫻井彦】
(五) 寛喜の飢饉 【野村育世】
(六) 貞永式目(武家政権の自立) 【堀内寛康】
(七) 宝治合戦 【角田朋彦】
(八) 諸国群盗の蜂起(反権力の動向) 【渡邊浩史】
(九) 諸国災害と飢饉(社会不安の増大) 【錦昭江】
(十) モンゴル戦争・幕府崩壊への道 【松井吉昭】
? 人名考証
149名を立項(人名省略)
【新井信子・石附敏幸・櫻井彦・佐藤和彦・鈴木隆敏・土屋伸也・錦昭江・根本隆一・
野村育世・樋口州男・堀内寛康・松井吉昭】
? 社会史
頼朝と都市鎌倉の造営 【谷口榮】
鎌倉武士と城館 【谷口榮】
東海道を往来する情報 【谷口榮】
鎌倉の武家儀礼 【今野慶信】
鎌倉の故事と先例 【今野慶信】
『吾妻鏡』に登場する様々な人々 【今野慶信】
『吾妻鏡』を彩る女性たち 【今野慶信】
占いとまじない 【今野慶信】
出産をめぐる生と死の風景 【谷口榮】
鎌倉の罪と罰 【今野慶信】
鎌倉の信仰 【今野慶信】
鎌倉を取り巻く生き物たち 【谷口榮】
海を渡ってきた銅銭 【谷口榮】
? 吾妻鏡の書誌研究
吾妻鏡の諸本 【高橋秀樹】
吾妻鏡研究の軌跡 【角田朋彦】
吾妻鏡年表 【佐藤和彦】
鎌倉概略図
系 図(清和源氏・将軍系図、北条氏系図)
あとがき 【谷口榮】
吾妻鏡事典
買いました☆
『事典』といってもボリュームたっぷり!読む事典ですね。
さて、一冊買ったからなんか一冊捨てないと、もう置くところがない…。
一体何が起こったのか
葛飾区郷土と天文の博物館特別展
『関東戦乱 〜戦国を駆け抜けた葛西城〜』
「今年は、葛西城に初めて学術的なメスが入ってから35年目を迎え、また、博物館考古学ボランティア活動も15周年を迎えます。今回、この節目の年にあたり、今までの葛西城の考古学による調査成果と文献による調査成果を多くの方に知っていただけるよう、博物館考古学ボランティアの協力を得て展示会を開催いたします。」(葛飾区郷土と天文の博物館webページより抜粋)
■期間 10月21日(日曜日)〜12月9日(日曜日)
関連のシンポジウムなどもありますので詳細は
http://www.city.katsushika.lg.jp/museum/ev-tenji.html
にてご確認ください。
なお、今回の展示及びシンポジウムは下記の博物館とも連携しているそうです。
〈 展 示 〉
川越市立博物館「後北条氏と河越城」 平成19年9月15日〜10月22日
行田市立博物館「忍城主成田氏」 平成19年10月13日〜11月25日
寄居町鉢形城歴史館「印判状と後北条氏」 平成19年10月13日〜11月25日
埼玉県立嵐山史跡の博物館「後北条氏の城」 平成19年12月1日〜平成20年2月24日
〈 シンポジウム 〉
埼玉県立嵐山史跡の博物館「後北条氏の城−合戦と支配−」 平成20年1月26・27日
江戸東京博物館「大田道灌と城館の戦国時代」 平成20年3月8日
幸せすぎてこわい(笑)。
走る城。
>井上さん
>戦国を駆け抜けた葛西城
ハウル?
>小太郎さん
>もう発表してもよいのでは。
もうちょっと引っ張りませう。不気味で良いざんしょ?
「大山鳴動して・・・」とならぬよーにせにゃ、なりませんが。
抜けた城。
ラピュタ?
>筆綾丸さん
>山之口洋
作品の幅が広い方ですね。
『天平冥所図会』は品切れ中らしいので、先にノモンハン航空戦を扱ったという『瑠璃の翼』を読もうと思います。
主人公の「稲妻部隊」隊長・野口雄二郎は実在の人物で、著者の祖父とか。
http://yamanoguchi.cocolog-nifty.com/blog/cat7614635/index.html
>井上さん
写真見ましたが、これひとつで猫の肉球と断定していいのかなと若干不安になりました。
>釈さん
了解ざんす。
逢善道人宝篋印塔
鈴木小太郎様
逢善寺にある逢善道人の宝篋印塔ですが、以前調査したことがあります。その結果、基礎に「文禄癸巳」「定珎□□(敬白カ)」と刻まれており、銘文からすれば1593年に逢善寺の住持・定珎によって建てられたことになります。古式にも見えますが、相輪もだいぶ太くなり、時期相応の様式といえるでしょう。この定珎さん、織豊期の関東天台の僧のなかでも有名であり、信長の焼き討ちにあった延暦寺の復興支援も頼まれたそうです。
これと少々関連しますが、ただいま、私担当で「千妙寺―天台の歴史と美術―」を開催しております。茨城県筑西市黒子の名刹に伝わった護法童子や毘沙門天の仏画、青蓮寺門跡の法親王からの、そして足利晴氏巻数返書、宇都宮国綱書状、北条高広禁制、秀吉・家康の朱印状なども公開しております。
http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/02_tenji/thema/sennmyouji.htm
石山寺・亀谷禅尼供養塔
>水戸御史太夫さん
>相輪もだいぶ太くなり
隅飾は古風だなと思ったのですが、相輪も判別のポイントなんですね。
ご教示、ありがとうございます。
宝篋印塔で検索していたら、石山寺の「亀谷禅尼供養塔」というのがちょっと気になりました。
伝承では「亀谷禅尼」は中原親能の妻で「頼朝乳母」とされているそうですが、建立時期からすれば、中原師員の後妻で、叡尊との関係が深い「亀谷禅尼」を考えるべきなんでしょうね。
などとエラソーに書いてしまいましたが、kariさんの論文「亀谷禅尼の軌跡」の単なる受け売りです。
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/public/view.asp?piid=02030200030061&view=1
http://www2.pf-x.net/~sanraku/ohmi11/images/0011.htm
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/hokyo-into.htm
モンゴルの桜
小太郎さん
『瑠璃の翼』、さきほど、読了しました。
野口雄二郎は収容所で亡くなり、一昨年、遺骨が帰ってきたそうです。
ノモンハンという名がラマ僧の階級を意味する言葉とは、はじめて知りました。また、
飛行機にはじめて機関銃を装着したのは、全仏オープンのテニス・コートに名を残す
ローラン・ギャロスというパイロットだった、とは驚きました。
稲妻戦隊の主力戦闘機97式は中島飛行機製で、あの時代、翼面積荷重がずば抜けて軽く、
空中で六方が踏めたそうです。勧進帳の弁慶のようですが、戦闘機について、こういう表現
ははじめて知りました。
稲妻戦隊の撃墜のエースは、敵機撃墜後、近くに着陸し、草原に咲く白い花で敵兵の屍を覆
い尽くした、という描写がありました。
「うん。なんだか寒そうな飛行服に木靴を履いててね。墜落のはずみで青い両眼が飛び出
しちまってねーあんなところで醜い屍をさらして、敵味方の空中戦を毎日見あげているのは
さぞつらかろうと思って花をかぶせてやった・・・それだけだよ」
白い花は草原の地名からホロンバイル桜と呼ばれ・・・この詩人肌で音楽通の撃墜王が戦死
したのは、東郷駐ソ大使とモロトフとの間で停戦交渉が妥結した日だったそうです。
引用サイトの主人「ほあぐら」さんは、石造建造物に造詣の深い人なんですね。西欧の
ロマネスク様式と鎌倉期の宝篋印塔と・・・興味深い美意識です。
アップ情報♪
史料を増補して、ネタ2つアップしました。
ネタは、前に掲示板で作ったヤツですが、自信作ですんで、笑ってくだせ♪
後半は尾篭なお話。
所用で午前中に江ノ島へ向かいました。
江ノ電鎌倉駅に着きましたら、建長寺のお坊さん5人発見。
ちょっと太ったお坊さんが、前にいたすらっと背の高いお坊さんに、90度のおじぎをして何か言っていました。
何だろ、と思ったら、太ったお坊さんがトイレにダッシュ。
戻ってきたら、先ほどのお坊さんにまた90度お辞儀をして、「東司、ありがとうございましたっ!」
おお〜、禅宗のお坊さんって体育会系(笑)。
せっかく同じ江ノ電に載るので、尾行を気取ってみることにしました。
いったいどこに行くのだろう。
隣の車両に乗って、連結の窓越しにお坊さんを見張ります。
修行中だから座らないのかな、と思ったのですが、全員席に座っておいででした。がらがらでしたしね。
鎌倉を出発〜。
長谷。極楽寺。稲村ガ崎…と通り過ぎて、七里ヶ浜駅でお坊さん全員下車。
私はそのまま見送ったのですが、いったいどこへ行ったのか。
七里ガ浜なんて禅宗のお寺あったっけ?
檀家に行くにもまだ時間は早いし、それで5人もというのもよくわからない。
山を越えて北鎌倉まで歩いて帰る修行かな〜。あの山の向こうは北鎌倉なのか???
実は以前も建長寺のお坊さんが七里ガ浜で江ノ電を降りるのを見たことがあるのです。そのときはお一人だったんですけど。
なんぞ建長寺と七里ガ浜には関係がある?
謎です。
で、この先、東司にちなんでトイレのお話を書くので、お食事中の方はご遠慮くださいませ。
源義朝が討たれた野間大坊でトイレの神様『烏枢沙摩明王』の札をもらったことがあって、トイレに貼っておくと穢れを出してくれると言われました。
で、貼っておいたら、次の日から家族全員下痢になりまして、うちの家族はなんか相当穢れていたようです(笑)。
便秘の方、試してみてはいかがでせうか(笑)。
こんなHPも見つけました。
http://www.y-morimoto.com/haisetsu/tousu.html
東博グッズ
>はぎつきみたえ様
七里ヶ浜で降りた禅宗のお坊さん、どこに行かれたのか興味ありますね。
私は、土曜日に「京都五山禅の文化展」に行ってまいりました。空いているだろうと、高を括って行ったのですが、さすが最終日の前日だけあって、ほどほど人が入っておりました。もちろん、行列は作っておりませんでしたが。
ところで、ミュージアムショップで↓の扇子を見かけて購入いたしました。1575円でした。書かれているのは「般若心経」です。法眼殿お持ちの、梵字の書かれた扇子に匹敵するものを探していたのですが、適わないまでも、面白いから良いかと思い購入しました。ただ、紙なので、2日で痛み始めました。他に鳥獣戯画の扇子があったのですが、こちらはしっかりしていましたね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003651.jpg
金沢文庫企画展「陰陽道×密教」
重陽の日、金沢文庫で標記の企画展を見学してきました。
展示室に入るとすぐ式盤と呼ばれる密教の道具を模式的に再現したものがあってこれが紙製なんですが、ダキニ天を始めとして全面に描かれたイラストが楽しかったです。
毎回子供(あるいは大きなおともだち)向けに作られているリーフレットの裏にも展開図が描かれていますのでペーパークラフトを作って遊べるという芸の細かさ。
もしかすると今回最大の目玉はこれかもしれません。
潅頂や修法のやり方を書き残した文書など、読める人には垂涎ものなのでしょうが、
普通の古文書と比べて「いつ、誰が、どこで、なんのために書いた」ということがわからないのでちょっととっつきにくい部分があるかな…という気がしないことも。
そのかわり上記のように式盤モデルを作ってみたり、説明書き「同じ図案でも人によって巧拙がある」(下手な人もいるってことです)と突っ込んでみたりと遊び心に溢れた楽しい展示でした。
私がこの日に文庫に行った主な目的は講談社新書メチエの『陰陽道−呪術と鬼神の世界』を書かれた鈴木一馨氏の講座を聞くこと。
上掲書を読んだときにも感じたことですが、陰陽道というものに対して持っていた先入観が次々に覆されるエキサイティングなお話でした。そちらの感想はそのうち自分のブログにでも書こうと思います。
次回の特別展「鎌倉北条氏の興亡」がこの板的には目玉なのでそちらに目がゆきがちですが今回の展示も楽しかったです。お勧めです。
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenjiannai.htm
石造物関連2件
シンポジウム「『石造物が語る中世職能集団』を読む」のご案内
主催 石造物研究会・歴史考古学研究会・NPO法人摂河泉地域文化研究所
開催の趣旨
これまでの石工研究は、川勝政太郎氏などにリードされ伊派をはじめ大蔵派などの工人集団の石造物報告を中心に系譜について論じられてきました。
さて、昨年発表された山川均氏著『石造物が語る中世職能集団』(日本史リブレット29 山川出版社 800円)によって、これまでにない石工研究の新しい方向が示されました。伊派と大蔵派の関係をはじめ中世においては希有な職能集団として歴史の中に位置付けようと試みられました。
そこで、山川氏の論を基にこれまでの石工研究について考え、さらなる石工研究の展開について考えて行きたいと思います。参加にあたっては、標題の著書を熟読のうえ積極的に発言していただくことを望みます。
なお、本シンポジウムは石造物研究会・歴史考古学研究会・NPO法人摂河泉地域文化研究所の共催で、第8回石造物研究会を兼ねています。
日時・場所
日 時:2007年9月29目(土) 午前10時より 午後4時30分まで (9時30分より受け開始)
場 所:大阪大谷大学 17−101教室
(近鉄長野線 滝谷不動駅下車徒歩10分。駐車場はありませんのでご注意ください)
基調講演
「中世前期の石工と石造物」 山川 均氏 大和郡山市教育委員会
報 告
1.「中世石工と番匠」 西山昌孝氏 大阪大谷大学大学院生・NPO法人摂河泉地域文化研究所
2.「中世石工の研究批判」 田村信成氏 歴史考古学研究会
3.「大和の宝篋印塔と石工」 古川久雄氏 摂陽文化財調査研究所・石造物研究会
シンポジウム
パネラーとして、報告者のほかに関西の主要な研究者を予定。藤澤典彦氏(大阪大谷大学)、三木治子氏(歴史考古学研究会)、小林義孝氏(大阪府文化財センター)ほか。
その他
資料代の実費として500円程度徴収。
※シンポ終了後、滝谷不動駅周辺で懇親会を予定。
参加申込み
参加希望の方は、次まで電話かメールの連絡をお願いします。
西山昌孝あて (電話)06-6652-5781 (Eメール) m7307003@osaka-ohtani.ac.jp
〒545-0052 大阪市阿倍野区阿倍野筋4−18−12−1103
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日本史リブレット/ 31.『板碑と石塔の祈り』
著者 千々和 到
価格 \840(本体\800)
刊行 2007.8.31
仕様 A5変型・112
解説 中世の日本では、多くの石塔・板碑が作られた。これらは、なぜ、どのような祈りを込めて作られたのか、そして今まで、どのように残ってきたのだろうか。石に刻まれた銘文を読み解き、造形を詳細に調べながら、そこに込められた中世人の祈りの世界を探る。
もくじ
石の文化
1.石というもの
2.板碑と石塔を考える
3.板碑の履歴書
4.石塔のある風景
5.石造物の保存の利用へ
メッセージ・あとがき
著者紹介 石は、どこにでもあるものです。
だから、ときには「石っころ」とさげすまれることもあるけれど、古来、人びとは、石に心からの願いを刻みつけました。
その硬く、重たい性質が、願いを永久に残してくれると信じたからなのでしょう。
私は、そのような石に刻み込まれた人びとの願いに、耳を傾けてみたいと思います。
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山川氏の『石造物が語る中世職能集団』と千々和氏の『板碑と石塔の祈り』を「読み比べると、非常に面白いと思います。
お坊さんウォッチング
>NAO4@吟遊詩人さま
いつもしょうもない私のカキコにレスありがとうございます。
予定がなければ七里ヶ浜駅を降りてそのままついていくんですが、用事があるので鎌倉いったり江ノ電乗ったりするわけで、当分謎のままでしょう。
個人的な感想ですが、建長寺のお坊さんは若い方が多く、こうして鎌倉へ行きますと、比較的よく町中でお見かけします。円覚寺のお坊さんは逆にベテランさんが多いように見受けられ、外ではあまり見かけませんし、なんか年齢の重みがありまする。
それはさておき。
「クイズ ココはどこ」。NAO4@吟遊詩人さまがいらっしゃらないので現在たいへん苦戦しておりますわ!
>釈由美子が好きさま
新ネタ、拝見いたしました。これが入りましたか(笑)。これほど食欲がうせる料理も珍しいですよね。
でも、個人的には「黒雪賦―梶原景時のテーマ−」が大好きなんです!!
いつでも、何回読んでも、涙せずにはいられません!
石シンポ
基調講演では、新ネタを2本立てでやるらしい…噂ですが(笑)まあ、せっかくのシンポですから、単なる書評会にはならないだろうと思います。
>『板碑と石塔の祈り』
いや、待ちに待った(笑)甲斐がありました。この本こそ今後の石造物研究の指針です。
石の来歴
>日本史リブレット/ 31.『板碑と石塔の祈り』
紹介されているメッセージがいいですね。
遅ればせながら書店に走ります。
>石シンポ
仕事がなければ馳せ参じたいところです。
号外を手にした憂国少年?
仙台行の新幹線に Train Vert 9月号があって、工藤雅樹氏の監修で、「東北の名族、
安倍氏・清原氏を旅する」という特集が組まれていました。
まず、東北地方の南北を反転した3D地図があり、出土した太占用の肩胛骨みたいだな、
と読んでゆくと、奥羽本線に後三年という駅があって、恥ずかしながら、初めて知り
ました。このJRの駅を少し時間遡及すると、後三条の宣旨枡があり、東北では、閉伊
から衣曾別嶋にかけて、大きな戦争(延久合戦)があったのですね。
帰宅後、テレビをみると、号外を手にした8歳前後の小学生が、
「安倍さんが辞任して、政治がよくなるなら、安倍さんがやめるのはよいことだと思い
ます、うん」
などと、インタビューに冷静沈着に答えてました。コドモに聞いてどうすんだ、とは思
いましたが、十歳未満の人間の高度な言語能力にあらためて驚きました(至極当然の能力
ではあるのですが)。五十過ぎの爺さん婆さんに聞いても、三十代のバリバリのサラリ
ーマンに聞いても、答えはたぶん、あまり変わるまい。これをジャック・デリダ風に言
えば・・・いやいや、やめておこう(笑)。
薬学の専門家である鳥越泰義氏の『正倉院薬物の世界』(平凡社新書2005年10月)を
みますと、宮内庁正倉院事務所の杉本一樹氏の論文「献物帳の書に関する一考察」
(1999年『正倉院紀要』)が引用され、「国家珍宝帳」と「種々薬帳」の書風の相違
が論じられていますが、山之口洋氏は、これらの論文を読み込んだうえで、あの小説
を書かれたのだな、と思いました。
1行レス
>筆綾丸さん
盛岡市に「前九年町」というのもありますが、町村合併後のことはわかりませぬ。
と言って、去る。
六朝の残映
釈由美子が好きさん
どこが軍事貴族なものか、ふん、破落戸野郎の源氏忘るべからず・・・リメンバー・パール
ハーバーという訳ですね(笑)。
杉本一樹氏「日本古代文書の研究」(吉川弘文館 2001年)の「第六章 献物帳の書」を
みますと(185頁〜)。
国家珍宝帳の書が歐陽詢の書に似ているとするのが通説であるが、王羲之七世孫の智永
の真草千字文に類似する、と著者は言う。
種々薬帳は国家珍宝帳に比べると、やや古風な南朝風と云われるが、なぜ北朝風ではな
いのか。薬物の知に多大の貢献をした鑑真の故地は揚州であるから、南朝貴族階級の
正統を受け継ぐ書が撰ばれ、南朝風になったのだろう、と著者は言う。
類似性は畢竟主観的で所詮実証になじまぬ、という著者の留保条件はつきますが、書風の
比較考察を興味深く思いました。
口絵として、国家珍宝帳、種々薬帳、法隆寺献物帳、屏風花氈等帳の巻末の写真が掲載され
ています。全部に、従五位上行紫微少忠葛木連戸主の署名があり、書体は初唐の楷書では
なく南朝風で、戸主さんの文化教養の基盤は六朝様式だな、と思いました。
追塩千尋氏「中世南都の僧侶と寺院」(吉川弘文館 2006年)の「第三章 平安・鎌倉期
広隆寺の諸相」をみますと(217頁〜)。
太秦の薬師がもとへ行く麿を しきりとどむる木嶋の神 梁塵秘抄
この歌の薬師は広隆寺の薬師如来であろうが、裏の意味は、広隆寺周辺の遊女が目的だ
ろう、と著者は言う。
承久元年(1219)8月11日の仁和寺御日次記の、後鳥羽上皇女房伊賀局(亀菊)が権大納言
公経造進の広隆寺の新邸に移る、という記述をみて、亀菊はなんでまた転居したのかな、
と思いました。公経の経済力をもってすれば、妾宅のひとつやふたつ、赤子の手をひねる
ようなものだろうけれど。
院の寵愛が衰えて、さめざめと空閨に突っ伏していた、のではよもやあるまい。承久の変
とは何の関係もないはずですが、この記述が妙に気になりました。
『瑠璃の翼』
>筆綾丸さん
少しずつ読んでいて、先ほどやっと読了したのですが、驚きました。
大変な才能の作家ですね。
あとがきの冒頭に、
------------
いま、この文を書いている書斎の、机に向かった私の背中を見おろすところに、祖父野口雄二郎の遺骨が安置されている。ロシア連邦イワノヴォ州の墓地から日本政府の遺骨収集団が掘り起こし、昨年わが家に帰ってきたものである。没後四十七年、最後に満洲国を発ったときから数えると、じつに六十年ぶりに祖国の土を踏んだことになる。
------------
とありますが、孫としては確かに「いつかは書かねばならない作品」ですね。
今日はもう遅いので、8歳前後の小学生の感想文程度にて失礼します。
http://www.bunshun.co.jp/jicho/samurai/samurai.htm
蘭花
小太郎さん
工学部はふとしたはずみで入ったのではないか、というくらいの才能を、私も
感じました。
『天平冥所図会』とは文体がまるで違い、いろんな文体を書き分けられるよう
です。とにかく多才な方ですね。
満州国皇帝の象徴の花を借用した蘭花特別攻撃隊と満映理事長の甘粕との関係は
初めて知りましたが、甘粕という人はつくづく不気味な人ですね。
島田大尉のマンドリン
>筆綾丸さん
ちょっと調べたいことがあって、John Dowerの『Embracing Defeat』を先に読み始めていたのですが、しみったれた文章にいいかげんうんざりしていたところ、『瑠璃の翼』のきびきびした文体がちょうど良い口直しになりました。
リンク先の「自著を語る」で山之口洋氏が言われているように、戦争を知らない世代の人間が戦争を描けるはずがない、と決め付ける人たちの大半は、実際には単なる被害者として戦争の最終局面を経験しているだけであって、戦争の全体像を知りたいと思ったら、むしろその前の世代の話の方が参考になりそうですね。
ノモンハン事件についての私の乏しい知識は殆ど地上戦に限られており、当時、新聞を賑わせていたのはノモンハン空戦の「空の英雄」物語だったことも知りませんでした。朝日新聞従軍記者・入江徳郎氏の『ホロンバイルの荒鷲』も読んでみようかなと思います。
>ローラン・ギャロス
プロペラ機において機関銃をどのように発射するかという難問を最初に解決した人ですね。
もっとも、「木製のプロペラの背面に金属板を張り、プロペラブレードに当たった弾ははじき飛ばす」「当然、何度か出撃するとプロペラはぼろぼろに痛むが、そのたびに交換」するという、あまりに乱暴で面白すぎる方法ですが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%82%B9
>詩人肌で音楽通の撃墜王
マンドリン好きの島田大尉ですね。
作者はさまざまな人物像を実に鮮やかに描き出してますね。
>井上さん
>『板碑と石塔の祈り』
購入しました。
表紙の「真仏報恩板碑」を始めとして、掲載されている写真を見るだけでも楽しいです。
勝手に宣伝
皆さんこんにちは。本日は下記の講演会のご案内が参りましたのでお知らせいたします。
中世館林の謎に迫る!!
〜佐貫荘と戦国の館林〜
日時 10月13日(土)午後1時半から3時半まで
演題 「中世館林城 〜その四度にわたる落城の歴史〜」
講師 峰岸純夫氏
日時 10月20日(土)午後1時半から3時半まで
演題 「謙信・氏康の大利根戦国絵巻 〜戦国武将は利根川をどう越えたか〜」
講師 簗瀬大輔氏
会場 両方とも、館林市文化会館 2階小ホール(館林市城町3−1 電話0276‐71-4111
定員 各150名
連絡先 館林市教育委員会文化振興課に電話・FAXで申し込んで下さい。
電話 0276−74−4111
FAX 0276−74−4113
第40回日本古文書学会大会のお知らせ
開催日 10月13日・14日(土・日)
場所 日本女子大学目白キャンパス 新泉山館一階大会議室
10月13日 午後1時より
シンポジュウム「文化財と古文書学−筆跡論−」
基調報告 「筆跡論への視角」 湯山賢一氏
報告1 「大江広元とその筆跡」 林 譲 氏
報告2 「文化財調査における筆跡」 池田寿 氏
報告3 「太田牛一真筆論」 杉崎友美氏
報告4 「書札聖教の筆跡」 永村 真氏
パネルディスカッション
(司会湯山賢一氏 パネラー林譲・池田寿・杉崎友美・永村真の各氏)
総括
10月14日(日)研究発表
(午前の部)午前9時半より
1 永観文庫所蔵「東寺長者補任」についてー寺院文書の集積と供僧ー
宮崎 肇氏
2 牒と書札様文書ー古代文書と中世文書をつなぐものー
佐藤雄基氏
3 『平戸記』所載「高麗国金州防禦使牒」について
近藤 剛氏
4 『久我家文書』の伝来過程に関する一考察
野村朋弘氏
5 鎌倉・建武期の牒に見る「衙」−雑訴決断所牒を中心にー
喜多泰史氏
(午後の部)午後1時より
6 室町時代の藤氏長者宣
高山京子氏
7 初期室町幕府に「将軍」・「鎌倉殿」の成立過程
−将軍・鎌倉殿の分離と直義・義詮の執政−
桃崎有一郎氏
8 「大内氏御家人制」の再検討−袖判下文の考察を中心に−
萩原大輔氏
9 古河公方の評定・引付衆補任過程をめぐって
−足利晴氏の事例を中心にー
和氣俊行氏
10 戦国大名武田氏の「精」朱印について
西脇 康氏
11 戦国・織豊期における両属事例ー柳沢氏を中心にー
十河靖晃氏
12 町奉行与力伝来史料と南北会
滝口正哉氏
なお会員以外の方は参加費500円をいただくそうです。
皆さん奮ってご参加ください。以上お知らせいたします。
中前勉荒行班主催「『吾妻鏡』荒行本番2007」
本日午後4時から明日午前10時まで、都内某所にて、荒行大先達細川重男大行者の指導の下、中前勉荒行班による「『吾妻鏡』荒行本番2007」が敢行されます。
18時間連続で、入れ替わり立ち替わり『吾妻鏡』に関する報告と質疑を行うという、まさに前代未聞の大行事であります。
という訳で、本掲示板の投稿者のうち、かなりの人数が荒行に参加し、明日にはヘトヘト・ヘロヘロ状態となる予定ですので、レス等、遅れるものと思われますが、何とぞご容赦ください。
なお、不肖わたくしも参加いたしますが、発表者ではなく単なるオブザーバーなので、行者の方々の修行をよそに8時間熟睡しようと思っております。
>相国入道さん
いつもありがとうございます。
>その四度にわたる落城の歴史
はっきり言って、ちょっと情けない歴史ですね。
味噌に抱かれて
小太郎さん
荒行、ほんとにはじまったのですね。
embrace は悩ましい単語です。仏語ですと、bras(腕)を動詞化した embrasser、
伊語ですと、braccio(腕)を動詞化した abbracciare と一系の言葉ですね。
親しい人への手紙の末尾に、Ti abbraccio などと使うようですが、抱き締めて抱き
締めて絞め殺してやりたいくらいの愛情、といったニュアンスでしょうか(笑)。
北緯30度43分17秒、東経128度04分00秒、1945年4月7日14時23分、羅針儀に体を縛り
つけて「大和」と運命を共にした有賀艦長のことを、なんとなく思い浮かべました。
NAO4@吟遊詩人さま
火坂雅志氏『天地人』(NHK出版 2006年)の上巻を、昨日、読みました。
2009年の大河ドラマの原作に決定という帯に釣られたのですが、なかなか面白いです。
カバーは、以前話題になった『川中島合戦図屏風』(和歌山県立博物館所蔵)です。
『風林火山』で人気沸騰中のガクトが、ナルシスチックに embrace している謙信愛用の
琵琶の名は、朝嵐、というのですね。どこかの相撲部屋の関取の名のようですが。
Iさん
『天地人』に、越後上田庄(南魚沼市)の古刹雲洞庵に関連して、関興庵の味噌の
話が出てきます。謙信没後の内紛で焼失したとき、味噌のお蔭でお経だけは助かったそう
ですが、花の寺の爺さん婆さんと、思想的な関係があるような、ないような・・・。
地獄の猛火の責苦からのがれられる、というような。
http://www2.ocn.ne.jp/~kankouji/miso.htm
お呼びになりました?
>筆綾丸さま
ちょっとネタが無くて出て来れなかったのですが、呼んでくださりありがとうございます。
「天地人」ですか。とてもそこまで手が回っておりません。
ところで、↓の写真ですが、前回の史料講読講座の後の飲み会で皆様にご披露した本です。
ジュンク堂に1冊だけあるのをネットで見つけて購入いたしました。ちょっと日焼けしていて、ジュンク堂の方から、それでも良いか問い合わせがあったのですが、購入してしまったものです。(値引きなし。)結構面白かったですよ。小山三兄弟が身近になりました。
アマゾンとかで見て見ると、定価1500円に対して、2800円位の高値がついていますね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003667M.jpg
<親鸞>宝塔の遺骨は本物か「納めた」との墨書発見
<親鸞>宝塔の遺骨は本物か「納めた」との墨書発見
京都 9月18日3時5分配信 毎日新聞
浄土真宗本願寺派寺院、常楽台(今小路覚真住職、京都市下京区)が所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影=ごえい)」の修理で、「親鸞の遺骨を宝塔に納めた」と記した墨書が見つかった。調査した真宗史研究の第一人者、千葉乗隆・元龍谷大学学長(本願寺史料研究所所長)によると、寺に伝わる金銅製宝塔(高さ34.5センチ)の骨片が、今年没後745年になる真宗の開祖親鸞の遺骨であることを裏付けるという。伝統仏教界の最大勢力、本願寺の僧侶、門信徒の信仰のよりどころとなる信ぴょう性の高い遺骨であることが新たに明らかになった。
常楽台は本願寺第三世の覚如(かくにょ)の長男で、親鸞の玄孫(げんそん、曽孫の子)、存覚(ぞんかく)(1290〜1373)が開いた。「花の御影」は縦134.5センチ、横79センチ。存覚が南北朝時代の1354年、夢で感得した親鸞の姿を画工、浄耀(じょうよう)に描かせたと伝えられる。
修理のため掛け軸の表具を外したところ、軸(長さ104.3センチ、直径3.6センチ)から墨書が見つかり、軸の中央部が3.8センチ×2.3センチの長方形にくりぬかれ、ふたをするよう細工されていた。
墨書は江戸時代に書かれ、▽寛文7(1667)年6月下旬、高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、親鸞の遺骨を銀の筒に籠(こ)めた▽宝永3(1706)年6月17日、遺骨を取り出し、宝塔に納めた――などと記されていた。「寂恵(じゃくえ)謹書」とあり、常楽台の第十三世住職寂恵が舎利容器でもあった軸から遺骨を出し、宝塔に納めたことがわかった。
宝塔は内部が3層になっており、下の2層に「親鸞の遺骨」と伝える骨片があるが、外部には知られていなかった。
存覚は覚如に義絶(勘当)されたが、一時は後継者の座にあり、遺骨を入手しやすい立場にあったことや、軸を細工して目につかないように納め、ひそかに伝えていたことなどから、千葉元学長は信ぴょう性が高いと判断した。「御影には存覚が夢で見た浄土にいる親鸞を描き、軸に納めた遺骨は人間親鸞を表す。遺骨と御影を一体として拝んだと考えられる」と話す。
親鸞は1262年、数え90歳で京都で亡くなり、火葬された。門弟らによる分骨とされる遺骨が三重県、栃木県、新潟県などの真宗寺院に伝わり、真宗大谷派(東本願寺)にも墓所「大谷祖廟」(京都市東山区)がある
◇遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書の3点セット
筆跡研究などの進展で今では親鸞の実在を疑う研究者はいない。だが、親鸞に直結する史料は乏しく、明治期には歴史学界の権威が「親鸞は架空の存在」と唱えたほど。1921(大正10)年に西本願寺の宝庫から親鸞の妻恵信尼(えしんに)から末娘覚信尼にあてた消息(手紙)が発見され、存在・非存在論争に終止符が打たれたが、遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書が3点セットとなって世に出た今回の発見は、それ以来の衝撃を与えそうだ。
重要なことは仏教者にとって遺骨は単なる史料ではなく信仰の対象という点だ。鎌倉時代の親鸞の遺骨が残ったのは、多くの門弟に慕われた高徳の宗教家であったことに加えて、没後も真宗教団の祖師として崇敬されているためだ。
親鸞は「それがし閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたふべし」と語ったが、覚信尼らは京都・東山の鳥辺野で火葬し、大谷に納骨した。東国の門弟らにも分骨されたとされ、今日まで伝わる遺骨もある。
没後10年、覚信尼と東国の門弟は遺骨を東山吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)を営み、親鸞の影像を安置。覚信尼が留守職(るすしき)と呼ばれる廟堂の管理者となった。親鸞の曽孫覚如は親鸞から孫の如信、覚如へと続く血脈によって法脈が受け継がれたと主張し、廟堂を寺院化して本願寺とした。
覚如の長男存覚は父を補佐して門弟の教化にあたり、いったん留守職を受け継いだが、後に2度にわたって義絶(勘当)された。学徳を兼備し、東国の門弟の信頼があつかった存覚に対する覚如の警戒心が義絶につながったというのが通説。存覚はさほど留守職に執着しなかったといわれてきたが、実は父に反発し本願寺の正統な継承者であることの証しともなる遺骨を隠し持って再起を期したという見方も成り立つ。新史料発見を機に本願寺教団の形成の過程、ひいては本願寺教団とは何かをめぐって激しい論争が起こりそうだ。
【田原由紀雄】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070918-00000007-mai-soci
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小太郎さんが紹介されていたように、千々和到氏『板碑と石塔の祈り』の表紙には、真宗信者が建立した埼玉県蓮田市馬込の真仏報恩板碑の写真が掲載されていますが、これに関する論文、千々和氏「東国における仏教の中世的見解−板碑研究の序説として−」(『史学雑誌』82-2・3号)、峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒−真仏報恩板碑を中心に−」(同氏『中世東国の荘園公領と宗教』)、菅原多喜夫氏「『教行信証』開板前夜の親鸞教団」(『寺院史研究』11号)などによって、初期の真宗の資金が潤沢であったことが知られています。
今回のニュースの、存覚が留守職に執着していた、という話が事実であれば、或いは初期真宗の資金力や権力がどんなに魅力的であったか、ということの証なのかも知れませんね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003668M.jpg
http://www.osaka-ohtani.ac.jp/lecture/kouza_li.html
大阪大谷大学文化財学科公開講座「中世における日中交流と石造遺物」
大阪大谷大学文化財学科公開講座「中世における日中交流と石造遺物」
平成19年11月10日(土) 13:30〜16:30 (13:00受付開始)
大阪大谷大学博物館11-201教室
「中国石造宝篋印塔について」 (元興寺文化財研究所) 佐藤 亜聖氏
「日本における中国石造物の受容過程」 (大版府立弥生文化博物館) 岡本 智子氏
「日本に渡来した宋人石工」 (大和郡山市教育委員会) 山川 均氏
「総話」 (大阪大谷大学)藤澤 典彦
申込方法 往復はがきに「氏名・郵便番号・住所・電話番号」をご記入の上、10月31日(水)までにお
申込ください(必着)。
定員 150名
申込 〒584-8540 大阪府富田林市錦織北3-11-1 大阪大谷大学文化財学科公開講座係
問い合せ先 TFL・FAX 0721-24ー1183 (文化財学科直通) (月〜金 9:30〜16:0O)
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003669.jpg
http://www.osaka-ohtani.ac.jp/lecture/kouza_li.html
表具師
http://www.j-kyoto.ne.jp/j_kyoto/koe/17go/17-a/17a.html
「表具 宇佐美松鶴堂」さんの詳細な報告があれば、ありがたいですね。
NAO4@吟遊詩人さま
ずいぶん著作のある方なのですね。去年、宇都宮に行った時、書店の歴史コーナーで
この方の著作をみたことがあるような。
荒行の様子
釈さんが編集長ブログで書かれていますので、次回は参加してみようかなと思われる奇特な方は参考にしてください。
ちなみに参加7人中、完走したのは釈さんと女子大生1名の合計2人のみで、私は午前1時半に敗退し、缶ビールを飲んで布団で寝てしまいました。
午前5時に起きて会議室(和室)に偵察に行くと、2名が畳の上にうつぶせになって死んだように眠っており、釈さんたちは脱落者男子のいびきがうるさいという理由で別室に移動して修行を続行中でした。
午前11時半に終了したときには釈さんもお疲れ気味で、最後までとことん元気だったのは女子大生1名のみでしたね。
http://blog.goo.ne.jp/shaku-henshucho/
>筆綾丸さん
一部、削除されましたか。
難しかったので、じっくり調べてから、可能ならばレスしようと思っていたのですが。
今週はいきなり荒行で始まり、バタバタと雑用に追われているうちに週末になってしまいました。
『天平冥所図会』もやっと勢田大橋にたどりついたところで、周回遅れもいいところですね。
鎌倉遺文研究会第134回例会の御案内
例によって勝手に宣伝です。
------------------------
日時:9月27日(木)18:00〜
場所:早稲田大学文学学術院第2研究棟(39号館)6階第7会議室
報告者:林譲氏
題目:「検討の要ありとされる源頼朝文書について
−特に相田二郎氏分類の第一筆蹟を事例として−」
[報告者の一言]
「偽文書、検討の要あり、案などの按文のある『平安遺文』『鎌倉遺文』収載の源頼朝文書のなかには、正文と理解すべきものも少なくないように思われる。頼朝文書の筆跡分類に定評のある相田二郎氏「鎌倉時代における武家古文書の筆蹟」の問題点とともに、藤原俊兼の筆跡かとされる第一筆蹟を事例として、正文と理解すべき方法を考える機会としたい。」
http://www.f.waseda.jp/ebisawa/top.html
水と石
小太郎さん
宗教となると、つい、余計なことを書いてしまい、悪い癖だと反省しております。
勢多大橋で若水が出てきますが、あの水の表現方法は卓抜ですね。
千々和至氏の『板碑と石塔の祈り』を読みまして、緑泥片岩の形態もさることながら、
とりわけ円照寺の板碑を興味深く思いました。
有名な臨刃偈が彫られていますが、蓮華に座す胎蔵界大日の梵字と七絶の文言が、あまり
調和してないような感じがしました。密教的な悉曇文字と臨済禅的な対句表現の混在が、
なんか変だ、と。
こういう遺偈を彫った板碑というのは、どのくらいあるものなのでしょうね。
附記
http://7andy.yahoo.co.jp/books/detail?accd=30584922
この本と重松明久『覚如』(吉川弘文館人物叢書)を読み比べますと、覚如・存覚の
父子像がまるで正反対なので、驚きました。前者によると、覚如は大変な俗物です。
後者の口絵を見ますと、遺言で善如に譲渡した別当職は二千石なのですね。多いのか
少ないのか。遺言の書は親鸞の書によく似ている、と思いました。
覚如没後2年(1353年)、円寂に画かせた影像に存覚が加えたという賛文のうち、
紫雲聾遮眼。青漢晴断魂。冷灰見遺骨。分布如琢○。
という表現が気になりました(○=王+昆)。
日本中世史研究会例会のご案内
日本中世史研究会例会のご案内をいただいたので、
勝手に宣伝させていただきますです。
♪♪♪♪♪♪♪
日本中世史研究会例会のご案内
日時 2007年9月29日(土)
午後2時〜5時30分
於中央大学理工学部 6号館 6426教室
地下鉄丸の内線・南北線 後楽園駅
都営三田線・大江戸線 春日駅 ほか
※中央大学理工学部(後楽園キャンパス)へのアクセスマップ
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/access/access_korakuen_j.html
島田 次郎氏
「前近代民衆運動と竹橋事件」
【参考文献】
竹橋事件百周年記念出版編集委員会編『竹橋事件の兵士達』(徳間書店、1979年7月)
沢地久枝『火はわが胸中にあり』(文春文庫、1987年10月)
麻生三郎『飛び起つ竜』(「竹橋近衛暴動記竜の軌跡」第1部、丸善、1976年1月)
同 『倒された竜』(同、第2部、丸善、1976年5月)
同 『埋められた竜』(同、第3部、丸善、1976年8月)
我妻栄『日本政治裁判史録 明治前期』(第一法規、1968年11月)
陸軍裁判所『近衛砲隊暴動始末』(三条実美文書資料)
☆お問い合わせは、日本中世史研究会事務局まで。
関 周一
(e-mail)fwhw6117@mb.infoweb.ne.jp
2007年度・日本古文書学会大会(勝手に宣伝)
会期:2007年10月13日(土)・14日(日)
会場:日本女子大学目白キャンパス 新泉山館第一大会議室
〒112-8681 東京都文京区目白台2-8-1
開場時間:受付開始 13日(土)午前10時
14日(日)午前9時
○10月13日(土)
午前11時〜
・開会の辞 日本古文書学会会長 中尾堯氏
・総会
午後1時〜
・シンポジウム開会の挨拶 日本古文書学会会長 中尾堯氏
・開催校代表挨拶 日本女子大学長 後藤祥子氏
・シンポジウム「文化財と古文書学−筆跡論−」(日本女子大学文学部・同大学院文学研究科と共催)
・基調報告「筆跡論への視覚」湯山賢一氏(奈良国立博物館館長)
・報告1「大江広元とその筆跡」林譲氏(東京大学史料編纂所教授)
・報告2「文化財調査における筆跡」池田寿氏(文化庁文化財部美術学芸課主任文化財調査官)
・報告3「太田牛一の真筆論」杉崎友美氏(日本女子大学文学部助教)
・報告4「書札と聖教の筆跡」永村眞氏(日本女子大学文学部教授)
・パネルディスカッション
(司会:湯山賢一氏 パネラー:林譲・池田寿・杉崎友美・永村眞の各氏)
・総括
・閉会の辞
・懇親会 会場…日本女子大学新泉山館三階
時間…午後6時より
会費…6000円(当日受付)
○10月14日(日)午前9時30分より
・研究発表(午前の部・午前9時30分より)
(1)「永観文庫所蔵「東寺長者補任」について−寺院文書の集積と供僧−」宮崎肇氏
(2)「牒と書札様文書−古代文書と中世文書をつなぐもの−」佐藤雄基氏
(3)「『平戸記』所載「高麗国金州防禦使牒」について」近藤剛氏
(4)「『久我家文書』の伝来過程に関する一考察」野村朋弘氏
(5)「鎌倉・建武期の牒に見る「衙」−雑訴決断所牒を中心に−」喜多泰史氏
・研究発表(午後の部・午後1時より)
(6)「室町時代の藤氏長者宣」高山京子氏
(7)「初期室町幕府における「将軍」・「鎌倉殿」の成立過程−将軍・鎌倉殿の分離と直義・義詮の執政−」桃崎有一郎氏
(8)「「大内氏御家人制」の再検討−袖判下文の考察を中心に−」萩原大輔氏
(9)「古河公方の評定・引付衆補任過程をめぐって−足利晴氏の事例を中心に−」和氣俊行氏
(10)「戦国大名武田氏の「精」朱印について」西脇康氏
(11)「戦国・織豊期における両属事例−柳沢氏を中心に−」十河靖晃氏
(12)「町奉行与力伝来史料と南北会」滝口正哉氏
※会場(日本女子大)までの交通
JR山手線目白駅から 徒歩:約15分 バス:約5分
【バス停(2)】日本女子大学行きスクールバス(学05)→「日本女子大前」下車(ただし休日運休)
【バス停(1)(3)】新宿駅西口・椿山荘行き都バス(白61)→「日本女子大前」下車
東京メトロ有楽町線護国寺駅(4番出口)から 徒歩:約10分
今年は日本史研究会大会と日程が完全にバッティングしております。
頼朝再興の軌跡をたどろうツアー
『頼朝再興の軌跡をたどろうツアー』と称して、一人で房総半島に行ってきました。
船で海を渡って房総半島に上陸し、東京湾をぐるっと(電車で)まわって鎌倉に入ろうという計画です。
真鶴から船は出ていないので、東京湾フェリーで代行。
その後、上陸地説がある安房勝山の竜島と洲崎、両方いきました。
房総半島には、はじめて行ったんですけど、海からすぐ山なんですね。
しかもむくっと起き上がったような傾斜の急な山々ばかりで、がけも多くて。
竜島は駅から10分くらいですぐでした。
その後館山市に出て洲崎へ行ったんですが、これから行こうと思っている方、ご注意あれ。
平日は、洲崎方面には一日2本しかバスがありません!!土・日・祝には1時間に一本になります。平日は動きにくいですよ〜。
で、洲崎の上陸地の碑は、洲崎神社じゃなくて、2本手前のバス停「矢尻の井戸」にありました。
上陸した頼朝が、水を求めて矢を突き刺したら水が出たという井戸です。まだ底には水があります。
その横に碑があったのですが、道路のすぐそばのせいか、砂ぼこりで白くなっていて読みづらい!ひと文字ずつ確かめながら音読してましたら、どこからか現れた近所に住んでるっぽいおっちゃんにすごい不審な目で見張られてしまいました(笑)。
竜嶋も洲崎も、碑のまわりは夏草ぼうぼうで「ボランティアでいいから草刈りさせてくれないかな〜」と思いました。あと、洲崎の石碑はぜひ水拭きさせていただきたい…。
その後、電車でぐるっと東京湾沿いにまわったのですが、すっごい時間かかりますね!肩こっちゃいました。海路が断然いいってことがよくわかりましたです。
途中置石踏んだかなんかで電車が遅れて、鎌倉駅に着いたら20時。時間があれば鎌倉をふらふらするつもりだったのですが、あきらめて駅でゴールってことにして帰宅の途につきました。
房総半島を歩きつつ、頼朝は、ここに上陸して「とりあえずここまでくれば一安心」と思ったのか、「ここまで来たのはいいけどこれから大丈夫かよ、俺」だったのか。どっちだったのかなあと、そんなことばかりつらつら思っていました。
お天気も良く楽しかったです。
アップ情報♪
「水風呂蒸発」、訂正・増補いたしますた。
ひさびさに出て来ましたが、これにて失礼いたしやす。
竹橋の反古
竹橋と言えば、江戸期、勘定奉行所管の文庫があり、太田南畝が、
五月雨の日もたけ橋の反古しらべ 今日もふる帳あすもふる帳
などと狂歌を詠みながら、文書を整理したところですね。
「竹橋蠧簡」と「竹橋余筆」が記す対象文書群の大半は、幕府の瓦解時、文字通り反古
として処分されたそうですけれども。
http://www.corriere.it/gallerie/2007/09_Settembre/24/sigillo.shtml
乾隆帝の御璽(白翡翠製?)、サザビーズの競売へ、とミラノの新聞にありました。
150〜200万ユーロ相当とのことですが、大皇帝のものとしては、流出経路が気になる
ものの、意外に安いのですね。
昨日、テレビでハトシェプスト女王の番組がありました。
エジプト考古学庁は、CTスキャンとCGを駆使して、一本の臼歯から、女王のミイラを
同定したのですね。以前、新聞で読んだとき、どういう方法を使ったのか、よくわかりま
せんでしたが、納得しました。
おひさです
どーもいろいろありまして・・・公私共に。ぐったりな気分です。−−;
>はぎつきさん
>ツアー
面白そうですね。こういうの。
現代の交通機関を使っても、大変さが十分伝わる行程だったかも?^^;
私は出不精なので、せいぜいやったのは桶狭間合戦体験ツアーくらいなものかな?
>筆綾丸さん
>同定
ミイラの報道は知っていたのですが・・・見逃しました。
同定といえば、トリノの聖骸布、またぞろ真贋論争が蒸し返しになったらしいですね。
前回の炭素検査はどうも幼稚すぎる・・・とは感じていたのですが。
たしか新刊で原寸大の折込の入った本が出ていたと思いますが、そちらのほうはご関心おありでしょうか?
saint suaire
上卿、近衛府を召す。大将、政人を召す。将監、小庭に候す。雨日、宜陽壇上に候す。
上卿云、印て。将監、唯(おお)と称す。将監少納言主鈴、印を召す。将監、敷政門
より出ず。少納言等、日華門より入り、長楽門橋西に立つ。雨日、廊中に立つ。掃部寮、
案を立つ。軒廊の中間に立つ。少納言、案に就く。主鈴、印を案上に置く。将監、南に
在り。少納言、官符を覧る。省符あらば、案を覧ぜず。上卿、見了りて返し授く。少納言、
官符を持ちて案下に帰る。主鈴、官符を取りて之に捺し畢る。少納言已下、共に印を納む。
掃部、案を撒す。少納言、日華門より退出す。
以上は、内印を捺す時の『西宮記』の記述の由(中村直勝『日本古文書学下 356頁』)。
近衛府の出席は意外です。平安期の少納言の職掌は、現行の法体系では、宮内庁侍従職
のようですが、御璽はともかく、国璽の所管は内閣府(総理府)だと思ってました。
http://www.kunaicho.go.jp/15/d15-02.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%92%BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%92%BD
国璽は製作時の「大日本国」のままというから、自己矛盾というか、日本国の最高法規
である憲法に抵触するような気もしますが、まあ、いいか。
むらじさん
saint suaire ですね。
ルネサンス前の pigment(染料)で描かれている、というような説を読んだことが
ありますが、聖骸布には興味があります。トリノのカテドラルは、いつか行って
みたいですね。
テレビでは、ハトシェプストの汚名が雪がれて、才媛の菊川玲さんが涙ぐんでいましたが、
彼女、クレオパトラのような顔立ちの人ですね(って、クレオパトラの顔は知りません、
沙翁の戯曲からのイメージです)。
のぶながくん、はい!
>むらじさま
お久しぶりです。お疲れみたいですね。
季節の変わり目でもあります。お身体大切にしてください。
>桶狭間
私、名古屋市内のほうに行ったことがあります。豊明市にも桶狭間の史跡があるんですよね。
桶狭間の戦いも、昔の「豪雨の中の奇襲」から、ちゃんと準備して行ったんだよん、というものに変わりつつあるようですね。
と、思いつつネットサーフィンしていたら
http://www.city.toyoake.aichi.jp/pr/cara.html
↑豊明市では「のぶながくん」「よしもとくん」というキャラが作られてました。
私が先日行った千葉の鋸南町でも↓「よりともくん」がいました。町のホームページから
http://www.town.kyonan.chiba.jp/
鋸南町イメージキャラクターをクリックしてみてくださいませ。
3人を比べると、よりともくんが一番かわいいと思います。よしもとくんも捨てがたいですが(笑)。
地下活動終了。
復活したいのですが、すっかり浦島太郎状態でございます。
ボチボチ出没しますので、よろしゅうに。
んで、
>はぎつきさん
>「のぶながくん」・「よしもとくん」・「よりともくん」
この手のマンガチック・アニメチックなキャラクターて、最近、はやりなんすかね?
たしかに、「よりともくん」が一番かわいいですな。
隣は政子なんでしょかね?
そー言えば、閉鎖しちゃった「鎌倉北条氏後援会」(http://www1.plala.or.jp/kamonegi/HOUJYOU.HTML )の「たかときくん」は、あたしゃ、お気に入りだったんですよ。
ところで、「黒雪賦−梶原景時のテーマ−」(http://jparchives.sakura.ne.jp/column/db/kagetoki_no_theme.html )、お褒めにあずかり、恐悦至極にござりまする。
>筆綾丸さん
カメにほどがありますが、前にレス戴きました岩手県盛岡市の前九年町なんですが、調べたら、昭和40年(1965)からの町名なんだそーです。
なんか、行政区名としては、昭和20年(1940)頃から存在したそーですが、いずれにしろ、昭和になってからの地名ですた。
ネーミングとしては、なかなか良いセンスじゃと思います。
男道の戯れ
釈由美子が好きさん
当時の自治体の親分が、筋金入りの河内源氏嫌いだったのかもしれませんね。
氏家幹人『サムライとヤクザー「男」の来た道』(ちくま新書2007年9月)を読み、
サムライたちの情けない生態がよくわかって、面白かったです。
会津藩の正史『家正実紀』に、「男道の戯れ」という表現があるそうですが、江戸期の
武士を端的に物語っているような気がしました。
南條範夫『大名廃絶録』(文春文庫2007年7月)には、
「いかに幕府の武力が卓絶していたからとて、二百四十件に及ぶ除封削封において、ただ
の一家も、これに対して武力抗争を試みようとしたものがなかった事は、戦国の武士魂全
く消失し去ったものとみるほかない」(28頁)
などとありますが、武士道などにはあまり幻想を抱かないほうがいいようですね。
まぼろし。
>筆綾丸さん
ど〜も、おひさひぶりで。
>筋金入りの河内源氏嫌いだったのかもしれませんね。
はっはっは。
前九年の役の時の安部氏の拠点の1つ厨川柵は、厨川町として地名が残ってるみたいですね。
こっちは、マジに由緒正しい地名ですな。
ところで、昨日の飲み会で聞いたのですが、キリストの墓があるので有名な青森県の戸来村は、今は村でなくて、新郷村の中の大字になってるそーです。
>氏家幹人『サムライとヤクザー「男」の来た道』(ちくま新書2007年9月)
氏家氏は、またまたおもしろそうな本を書かれたのですねェ。読まにゃ。
>サムライたちの情けない生態
江戸時代の武士は、ただのお役人、古代・中世の武士は、極道であります。
ですんで、
>武士道などにはあまり幻想を抱かないほうがいいようですね。
おっしゃると〜りなのであります。
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