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Japanese Medieval History and Literature
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「相撲は葬送儀礼として始まった」(by 松浪健四郎文部科学副大臣)
朝日新聞によると朝青龍問題にからめて松浪文科副大臣が、
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「協会は、伝統、歴史、文化を言う資格はない。相撲は葬送儀礼として始まったのに、元横綱の琴桜(先代佐渡ケ嶽親方)が亡くなった時も、相撲も土俵入りもしなかった」と批判。
http://www.asahi.com/sports/update/0829/TKY200708290261.html
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したそうですが、何じゃこれ、と思って新田一郎氏(東大相撲部監督)の『相撲の歴史』(山川出版社)を引っ張り出し、最初からずっと読み直したところ、同書29頁以下に、
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(前略)『日本書紀』の皇極玉天皇元(六四二)年七月、百済より来朝した使者智積(ちせき)を迎えた際に、健児(宮廷の衛士)らに相撲をとらせた、という。この相撲については、従来ともすれば、百済の使者の饗応のための宮廷でのもよおしと理解されがちであったが、この記事には「百済使人大佐平智積等を朝(=宮廷)に饗す」とある一方、「健児に命じて、翹岐(ぎょうき)の前において相撲をとらしむ。智積等、宴おわりて退き、翹岐の門を拝す」とあることに注意すべきである。翹岐は、当時在日して河内にあった百済の王族であり、相撲は翹岐の前でおこなわれ、一方、宮廷でおこなわれた饗宴の後に智積が翹岐の門前におもむいて拝礼したというのであるから、この相撲は宮廷における饗宴とは別のものであり、使者の饗応のためでなく、翹岐のためにおこなわれたものと考えた方がよいだろう。じつは翹岐はこれよりさき、五月下旬に子を亡くしており、翹岐の門前における智積の拝礼が、このことに関わるものであるとすれば、この相撲もまた、翹岐の子の葬送に関わる百済の習俗に関連するものかもしれない。
この点について、考古学者の森浩一などは、高句麗の古墳壁画にみられる相撲図像や、日本における力士埴輪の広汎な分布ともあわせて、相撲と葬送儀礼とのあいだに密接な関係があり、それは東北アジアから朝鮮半島を経て、日本にいたる文化の流れに沿うものだったのではないか、と推測している。「相撲の祖」であるスクネ(野見宿禰)がまた埴輪製作にたずさわる土師臣の祖とされていることを、この点とむすびつける論者もある。もっとも、相撲節と葬送儀礼とのあいだには、直接の関連をみいだすことはできず、スクネと埴輪製作との関係も、『日本書紀』ではクェハヤとの「力くらべ」とは別の箇所で語られており、相撲との関連で考えるべきではない、とする指摘もあるのだが。
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とあって、松浪氏もそれなりに勉強しているのだなあと感心はしましたが、まあ、古代まで遡ればそれに類する学説もあることはある程度の話なのに、「相撲は葬送儀礼として始まった」と断定するのは若干変な感じがしますねー。
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