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Japanese Medieval History and Literature

250筆綾丸:2007/09/14(金) 20:13:53
六朝の残映
釈由美子が好きさん
どこが軍事貴族なものか、ふん、破落戸野郎の源氏忘るべからず・・・リメンバー・パール
ハーバーという訳ですね(笑)。


杉本一樹氏「日本古代文書の研究」(吉川弘文館 2001年)の「第六章 献物帳の書」を
みますと(185頁〜)。
国家珍宝帳の書が歐陽詢の書に似ているとするのが通説であるが、王羲之七世孫の智永
の真草千字文に類似する、と著者は言う。
種々薬帳は国家珍宝帳に比べると、やや古風な南朝風と云われるが、なぜ北朝風ではな
いのか。薬物の知に多大の貢献をした鑑真の故地は揚州であるから、南朝貴族階級の
正統を受け継ぐ書が撰ばれ、南朝風になったのだろう、と著者は言う。
類似性は畢竟主観的で所詮実証になじまぬ、という著者の留保条件はつきますが、書風の
比較考察を興味深く思いました。
口絵として、国家珍宝帳、種々薬帳、法隆寺献物帳、屏風花氈等帳の巻末の写真が掲載され
ています。全部に、従五位上行紫微少忠葛木連戸主の署名があり、書体は初唐の楷書では
なく南朝風で、戸主さんの文化教養の基盤は六朝様式だな、と思いました。

追塩千尋氏「中世南都の僧侶と寺院」(吉川弘文館 2006年)の「第三章 平安・鎌倉期
広隆寺の諸相」をみますと(217頁〜)。
 太秦の薬師がもとへ行く麿を しきりとどむる木嶋の神  梁塵秘抄
この歌の薬師は広隆寺の薬師如来であろうが、裏の意味は、広隆寺周辺の遊女が目的だ
ろう、と著者は言う。
承久元年(1219)8月11日の仁和寺御日次記の、後鳥羽上皇女房伊賀局(亀菊)が権大納言
公経造進の広隆寺の新邸に移る、という記述をみて、亀菊はなんでまた転居したのかな、
と思いました。公経の経済力をもってすれば、妾宅のひとつやふたつ、赤子の手をひねる
ようなものだろうけれど。
院の寵愛が衰えて、さめざめと空閨に突っ伏していた、のではよもやあるまい。承久の変
とは何の関係もないはずですが、この記述が妙に気になりました。




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