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Japanese Medieval History and Literature

222kari:2007/08/30(木) 12:55:22
美作の寺院一題。
先に美作国神林寺が話題になっていましたが、実は似たような例が鎌倉後期にもあります。
美作国の万福寺(津山市東田辺)というところに、以下のような文書が残っています(詳細は、湊哲夫「正応四年寺領寄進状について」『津山郷土博物館 博物館だより』52、2006年)。

黒澤山万福寺
 寄進寺領事、
 四至<限東小□□(松原カ) 限南笛田 限西土□(無カ) 限北横手>
右、寄進志者、依虚空蔵菩薩厳重殊勝座、奉為関東御祈祷、四至之内、除諸御公事、任先例、奉為寄進之上者、於以後彼寺領等、致違乱煩之輩、堅可処罪科者也、仍寄進状之趣、如件、
 正応<二二>年<大歳辛卯>六月日   (花押)

 従来、『鎌倉遺文』には近世の『作陽誌』所載の文書写が掲載されていましたが、昨年に新出の原本として紹介されたものです。料紙や字句の不整合さから、鎌倉期のものとするには難しいようですが、異体字を正確に記していることなどから、およそ室町期のものとして良いように思われます。偽作したのか、写なのかは断定できませんが・・・。
 で、不思議なことに『美作古簡集註解』巻14にはこれが北条貞時寄進状とされているのですが、花押がかなり違うのですね。貞時のものと判断される根拠は、彼がこの時期の美作国守護だから、ということで、先の神林寺の場合と同様な推定がされているわけです。
 でも、ですね。単純に読むと、寺の檀越である在地領主(地頭御家人)による寄進状と考えた方が、はるかに一般的ではないかと思います。神林寺の場合も、地元の御家人が建立したものを、時の守護によるものと読み替えて伝承しているようですが・・・。
 つまり、在地の武士による建立 → 関東祈祷寺化の申請、という順序で、神林寺が『吾妻鏡』に記された、その手続き上に守護が介在する、ということなら理解可能です。

ちなみに、上記の史料は美作では最古の中世文書ということになります。




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