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Japanese Medieval History and Literature
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「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」再開♪
生き仏研究者I氏が、ラーメン屋さんの「冷やし中華、はじめました」みたいな感じで、書いてくれておりますよーに、「クイズ・ココはどこ―king of 歴史マニアへの道―」第2戦を開始いたしますた。
ふるって御参加くださいませ♪
でも、マニアックでっせ。ひっひっひ。
すでに小太郎さんが書いてくだすってますが、あたくしもリンクしときますね。
http://blog.goo.ne.jp/historical-mania/
>筆綾丸さん
神林寺なんですが、『吾妻鏡』には、元久2年(1205)5月12日条にしか出て来なくて、私も知らなかったンですが、kariさんもお書きくだすってるよーに、ネット情報ですと、
「源頼朝が梶原景時を奉行として堂塔を建立した」
とあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-maniwa-kuse-zinrinzi.htm
この辺が関係するンでしょーか?
たいしたことがわかんなくて、すいません。
あと、元久2年(1205)5月12日条の原文は、
美作国神林寺内、奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆、
仍寺僧等申材木事等、仍今日可採用當国杣山之由、所被仰下也、
ですが、現代語訳すると、
「美作国の神林寺の中に、故幕下将軍家(源頼朝)の追福のために三重の塔婆を建てることを思い立たれた。そこで(神林寺の)寺僧たちが材木の事などを申し上げた。そこで今日当(美作)国の杣山(の材木)を用いるようにということを、御命令になったところである」
となるはずですので、「奉爲奉爲故幕下将軍家追福欲建三重塔婆」の主語は、当時の将軍である実朝で良いと思います。
>kariさん
どもです♪
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