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Japanese Medieval History and Literature
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<親鸞>宝塔の遺骨は本物か「納めた」との墨書発見
<親鸞>宝塔の遺骨は本物か「納めた」との墨書発見
京都 9月18日3時5分配信 毎日新聞
浄土真宗本願寺派寺院、常楽台(今小路覚真住職、京都市下京区)が所蔵する肖像画「親鸞聖人影像(花の御影=ごえい)」の修理で、「親鸞の遺骨を宝塔に納めた」と記した墨書が見つかった。調査した真宗史研究の第一人者、千葉乗隆・元龍谷大学学長(本願寺史料研究所所長)によると、寺に伝わる金銅製宝塔(高さ34.5センチ)の骨片が、今年没後745年になる真宗の開祖親鸞の遺骨であることを裏付けるという。伝統仏教界の最大勢力、本願寺の僧侶、門信徒の信仰のよりどころとなる信ぴょう性の高い遺骨であることが新たに明らかになった。
常楽台は本願寺第三世の覚如(かくにょ)の長男で、親鸞の玄孫(げんそん、曽孫の子)、存覚(ぞんかく)(1290〜1373)が開いた。「花の御影」は縦134.5センチ、横79センチ。存覚が南北朝時代の1354年、夢で感得した親鸞の姿を画工、浄耀(じょうよう)に描かせたと伝えられる。
修理のため掛け軸の表具を外したところ、軸(長さ104.3センチ、直径3.6センチ)から墨書が見つかり、軸の中央部が3.8センチ×2.3センチの長方形にくりぬかれ、ふたをするよう細工されていた。
墨書は江戸時代に書かれ、▽寛文7(1667)年6月下旬、高祖等身(親鸞)夢想の御真影を修復し、親鸞の遺骨を銀の筒に籠(こ)めた▽宝永3(1706)年6月17日、遺骨を取り出し、宝塔に納めた――などと記されていた。「寂恵(じゃくえ)謹書」とあり、常楽台の第十三世住職寂恵が舎利容器でもあった軸から遺骨を出し、宝塔に納めたことがわかった。
宝塔は内部が3層になっており、下の2層に「親鸞の遺骨」と伝える骨片があるが、外部には知られていなかった。
存覚は覚如に義絶(勘当)されたが、一時は後継者の座にあり、遺骨を入手しやすい立場にあったことや、軸を細工して目につかないように納め、ひそかに伝えていたことなどから、千葉元学長は信ぴょう性が高いと判断した。「御影には存覚が夢で見た浄土にいる親鸞を描き、軸に納めた遺骨は人間親鸞を表す。遺骨と御影を一体として拝んだと考えられる」と話す。
親鸞は1262年、数え90歳で京都で亡くなり、火葬された。門弟らによる分骨とされる遺骨が三重県、栃木県、新潟県などの真宗寺院に伝わり、真宗大谷派(東本願寺)にも墓所「大谷祖廟」(京都市東山区)がある
◇遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書の3点セット
筆跡研究などの進展で今では親鸞の実在を疑う研究者はいない。だが、親鸞に直結する史料は乏しく、明治期には歴史学界の権威が「親鸞は架空の存在」と唱えたほど。1921(大正10)年に西本願寺の宝庫から親鸞の妻恵信尼(えしんに)から末娘覚信尼にあてた消息(手紙)が発見され、存在・非存在論争に終止符が打たれたが、遺骨・舎利塔(宝塔)・墨書が3点セットとなって世に出た今回の発見は、それ以来の衝撃を与えそうだ。
重要なことは仏教者にとって遺骨は単なる史料ではなく信仰の対象という点だ。鎌倉時代の親鸞の遺骨が残ったのは、多くの門弟に慕われた高徳の宗教家であったことに加えて、没後も真宗教団の祖師として崇敬されているためだ。
親鸞は「それがし閉眼せば賀茂川に入れて魚にあたふべし」と語ったが、覚信尼らは京都・東山の鳥辺野で火葬し、大谷に納骨した。東国の門弟らにも分骨されたとされ、今日まで伝わる遺骨もある。
没後10年、覚信尼と東国の門弟は遺骨を東山吉水の北辺に改葬して廟堂(びょうどう)を営み、親鸞の影像を安置。覚信尼が留守職(るすしき)と呼ばれる廟堂の管理者となった。親鸞の曽孫覚如は親鸞から孫の如信、覚如へと続く血脈によって法脈が受け継がれたと主張し、廟堂を寺院化して本願寺とした。
覚如の長男存覚は父を補佐して門弟の教化にあたり、いったん留守職を受け継いだが、後に2度にわたって義絶(勘当)された。学徳を兼備し、東国の門弟の信頼があつかった存覚に対する覚如の警戒心が義絶につながったというのが通説。存覚はさほど留守職に執着しなかったといわれてきたが、実は父に反発し本願寺の正統な継承者であることの証しともなる遺骨を隠し持って再起を期したという見方も成り立つ。新史料発見を機に本願寺教団の形成の過程、ひいては本願寺教団とは何かをめぐって激しい論争が起こりそうだ。
【田原由紀雄】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070918-00000007-mai-soci
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小太郎さんが紹介されていたように、千々和到氏『板碑と石塔の祈り』の表紙には、真宗信者が建立した埼玉県蓮田市馬込の真仏報恩板碑の写真が掲載されていますが、これに関する論文、千々和氏「東国における仏教の中世的見解−板碑研究の序説として−」(『史学雑誌』82-2・3号)、峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒−真仏報恩板碑を中心に−」(同氏『中世東国の荘園公領と宗教』)、菅原多喜夫氏「『教行信証』開板前夜の親鸞教団」(『寺院史研究』11号)などによって、初期の真宗の資金が潤沢であったことが知られています。
今回のニュースの、存覚が留守職に執着していた、という話が事実であれば、或いは初期真宗の資金力や権力がどんなに魅力的であったか、ということの証なのかも知れませんね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6925.kabura/0003668M.jpg
http://www.osaka-ohtani.ac.jp/lecture/kouza_li.html
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